逃げ出した、逃げ延びようとした。それでも尚、逃げ切れなかった。そう思ってしまうからこそ、逃げ続けた。
足は泥に埋まり息も絶え絶えで、ボロボロになりながら。
――自分が何を恐れているのか分からなくなっても、ひたすら逃げる。そうしていれば考えなくても良いから。自分の弱さに酔っていれば良いから。
ああ、そんな事だから。そんな有り様だから、私は私が大嫌いだ。
あんなに強かった「好き」を失って、溢れていた筈のパワーも無くして。今の私はもう、自分を嫌うことしか出来ない。
こんな女をよくもまあ、構おうと思うものだ。
後藤さん、と呼ばれるのにはまだ慣れていない。
話しかけられて返事もしなかったりするのはそのせいだけれど、でも一々家の醜聞を話して聞かせるのは億劫だ。性格が悪いという事にしてくれればそれで良い。
どうせ親交を持つ義理もない、単に地元の公立校だってだけで入った身だ。小学校時代の知り合いはちらほらいるようだけど、三年の間に構築されたコミュニティには入り込めない。そもそも、興味もないし。
やりたい事なんか無い、するべき事も無い。高卒資格位はないと生きていけないだろうし、母親も嘆くから惰性で在籍してるだけ。
とりあえず卒業まで大過なく過ごせば良い、別に人と仲良くなる必要なんか有りはしない。裏で何を言われようが、どうでも良い。ただ少し、醜く見えるだけ。
そう思ってるのに、だ。
「夢佳さん、これプリント」
……わざわざ大した用でもないのに話しかけてくるコイツは何なんだろうな、まったく。プリントなんか黙って机に置いておけば良いだろうが、鬱陶しい。
たまたま同じクラスになったメガネの男子、私が彼について知っているのはそれだけ。あとはまあ、お節介でどこかズレてるって事か。
返事をしないのを「名前で呼ばれる方が好きな人」なんだと勘違いしたらしく、最近はずっと名前のさん付けで呼んでくる。話しかけるのを止める、という方向には行きそうもないし珍妙な渾名でも付けられたら嫌だから、こっちとしては反応せざるを得ないわけだ。
「あー……うん」
一応頷きながら生返事はする、それだけ。それだけなのに、向こうはそれで満足したらしく手をヒラヒラ振って行ってしまった。安上がりな男だな、あれは。
こういうのを、なつかれると言うんだろうか。男子の扱い方なんか学んだことも無いから、どうも分からない。
パワーに満ちて自信に溢れていた頃の私は、孤立している自覚が無かった。天井を知り誰かを頼りたくなって初めて、ひとりぼっちだと気が付いたのだ。正確にはナツがいてくれたけど、あれは眩しすぎた。一緒にいると、失ってしまった輝きを思い知らされて辛くなる。
それにいくら鈍いナツでも、隣に居続ければいつかきっと私の弱さに気付いてしまう。嫌われるのはまだ良い、失望されるのが何より怖い。あんな程度の奴だったのか、と冷笑されるくらいなら二度と会えない方がずっとマシだ。
そう、人と深く関わると言うのは――そういう事なんだ。だから私はもう、誰かと仲良くする事はない。面倒を増やすのも傷口を拡げるのも、願い下げだよ。
だってのに、どうしてこうなったのだろう。
「後藤さん、現国の課題見せてくれない? 私昨夜部活で出来なくてさー」
「ねえ夢ちゃん夢ちゃん、クラスLINEって入ってないよね? ID教えてよ、入れとくから」
「今度の休み皆でカラオケ行くけど、夢佳も来るよね?」
…………気が付けば私は、普通にクラスの女子たちの中にいた。まるで中学からずっと一緒だったみたいに、気安く。あと私は現国得意でも何でもないんだけど、何故こっちに持ってくる。
あれもこれも、あのメガネのせいだ。
何度素っ気なく流しても来やがるから仕方なく愛想笑いの一つも見せてやったら、周囲が「目付き悪いし無愛想だけど、悪い子ではない」みたいに誤解するようになって。
そんなこんなあって一学期半ばで早くも、「誰とも仲良くならない」という決意が揺らぎつつある。
「……余計な事しやがって」
懲りもせず寄ってくるメガネを一瞥しながら、私は溜め息を一つ。
コイツはどうも、世話焼きで良くない。クラスの中で誰が孤立しようがどうでも良いだろうに、なんでわざわざ潤滑剤になろうとするのか。
人を救わなければ気がすまないっていう、
しかしこれからは、ますます油断できないな。踏み込んできて私の内面なんか見られたら、――嫌だ。こんな仏面のメガネでも、そうなれば離れてしまうだろうから。別に近くにいてほしいとは言わないけど、今さらいなくなられても困る。
……困る、か。なにもかも全部自分の都合だな、私は。
きっと私の内側は、墨を流したように真っ黒なんだ。誰にも見せられない、見せてはいけない。それが正しいはずなのに、私は思ってしまう。この甘い親切心に、溺れてしまいたいと。なにもかもさらけ出しても彼は私を裏切らない、そんな期待をしてしまう。
名前さえ知らないくせに、都合の良い事ばかり考えている。全く以て、酷い話だ。
どうせ世の中は思うようにはならないんだから、ヘラヘラ流せば良いんだろう。そこまで器用であれば、そもそも悩まないんだけど。
夏休みも終わり、秋風が吹く季節になって私はそんな事を思うようになっていた。
相変わらずメガネは無意味に世話を焼いてくるし、そのせいで他の連中からも気安く接される。
それを段々受け入れ始めた、その頃。私は見なくて良いものを見る羽目になった。
「私は宗介くんが、好きです」
放課後の
物陰から見える姿は知らない女子生徒と、そしてあのメガネ。確かにあれは性格こそズレているけれどガワは悪くないし、優しいと言えば優しい。モテた所でおかしくはない。それに他人の色恋沙汰なんて私には、私には――。
血が滲むほど拳を握り、必死の思いで感情を塗り潰す。
喜べ私、それが私だろう。
そう言い聞かせまだ身体に残っていた才能の欠片をフル動員し、可能な限り音を立て無いように二人から遠ざかる。
私には関係ない、口の中でただそれだけを繰り返しながら。
教室に隠れて息を整えどうにか自分を立て直し、昇降口へと向かう頃にはもう陽はすっかり落ちきっていた。どうせ母親は仕事で今日も遅い、門限なんて洒落たものは無い家だ。遅くなろうと誰が咎める訳でもない、ついでにどこかで晩御飯食べて帰るか。
そう、いつも通りだ。なにも起きていない、私の人生には何の起伏もない。ただなだらかに滑り落ちていくだけ。
――と。
「夢佳さん、今帰り?」
下駄箱の前で手を振っているのは、誰あろうあのメガネ。宗介、だったっけか。
まったくお気楽極楽な顔をして、気に入らないな。お前は私なんかに構ってる場合じゃないだろう、せっかく告白されておいて。
「……ん。あんたもとっとと帰んなよ、邪魔だ」
ああ――苛々する。どうして今ここにいるんだ、まるで
お節介も大概にしろ、私はお前の友達でもなんでもない。誰彼構わず無差別に優しくするようなヤツはどうにも、……どうにも気に入らない。
「私を構うより、あの告白してきた子の所にでも行ってて」
こんな所で腹をたてるよりは、盗み聞きしていたと思われる方が精神衛生上好ましい。向こうだってそうだろ、あの女子とどっかにシケ込んでれば良いんだ。こんな厄介者なんか見捨てろ、
これ以上私を苦しめるな、もう嫌だ。どうせいつか切れる縁なら、結ばない方が良い。
ナツを嫌いになんかなりたくなかった、でもならざるを得なかった。そうでないと私は壊れてしまう。
「あ、――見てたんだ。まあでも行かないよ、さっき御免なさいしてきた所だから」
まるで何でもない事のようにさらりと放たれた言葉が、私には理解できなかった。フッた、という事か。なんで、どうして。
思わず問い掛けようとしたその瞬間、メガネ越しの熱い視線が私の胸を貫きそして。
「俺は、夢佳さんが好きだから。あの子とは、付き合えない」
脳を直に殴り飛ばすような、暴力的な感情となって叩き付けられた。
理解できない、今度こそ何一つ理解できない。
どんな理由で、どんな経緯で、こんな――どうしようもない女にそんな事を言えるんだ。
頭に昇りきった血が沸騰し、目の前が真っ赤に染まる。込み上げるのはただただ、激しい――怒りだ。
ふざけるな。
舐めるな。
私を何だと思っている。
私は私の無力さを、愚かさを嫌と言うほど知っている。
お前だって傍から見てて分かるだろう、いつも近くにいやがるんだから。
何処まで人を苦しめるんだ、私が何をした。
「ふっ、ざけんなぁ!」
制御を失い噴出した激情のまま、私は全力で宗介の顔へと拳を叩き込む。
僅かにズレたメガネに苛立ち、続けざまに二発三発四発と殴り付け、よろけた所を蹴り飛ばす。
怒りのままに動く手足はもう、止まらない。
どれくらいそうしていただろう、拳は真っ赤になり足はガクガクと震え、息は上がりきってようやく私の身体が止まった時。
宗介はまるで堪えていないかのように立ち上がり、そして――私を抱き締める。
「ふざけてない。会ったその日からずっと、夢佳さんが好きだった。話したくて、近付きたくて、俺は毎日必死だった」
ああ、……そうだった、のか。そんな気持ちを抱いていてくれたのか、こんな私に。
好きを全て失った私はもう、誰にも好きになって貰えないと思っていた。それが当たり前なんだと無理矢理納得して、壁の中に閉じ籠った。
だけど、でも。宗介はそれを乗り越えてまで、私の心に触れようとしてるんだ。
私にはもう、何の価値も無い。それを知っても尚、離れようとしない。
「バッカじゃないの、……腹立つ、なぁ……っ」
「うん、バカだよ。夢佳さんを好きでいられるなら、俺はそれで良いんだ」
バカなメガネに抱かれた愚かな私は、もう声を出す気力さえ残っていない。その胸に顔を埋めたまま、泣き続ける事しか出来なかった――。
考えてみれば、何もかもメチャクチャだ。
まあ世の中基本メチャクチャで、ルールなんて狂ったヤツが作ってるもんだけど。それを考えれば、こんな関係があったって良いだろう。
相変わらず私は何も出来ない、目付きの悪い陰気な女。それでも構わないという宗介と、少しずつ
そしてバスケ部がウインターカップに向けて賑やかになりだした頃、私たちは遅蒔きながらも――キスをする事となった。周りには付き合い出したら即、みたいなのも多いんだけど。どうにも私はそういうのが不得手で、そして余りにも照れ臭い。
恋人同士でする事なんて、遠い世界の事だと思ってたし。
お互い親に嘘を吐いて予定を合わせて、とか安いティーンズラブみたいだな。もしくは懐かしの少女漫画か。
これから、……するんだな。デートをしながら思うのは、そんなこと。
そうなればもう、他人ではなくなる。特別な関係になる。
身体云々より怖いのは、その先だ。宗介と離れる日は必ず来る、深く愛し合えば愛し合う程それは辛くなるんだろう。
そうなりたくはない、だけど私は彼を愛したい。いずれ気持ちは冷め、苦い目覚めの時が来るとしても。
だから私は、最初のキスに選んだ場所で思わず言ってしまう。
「私は、……重いよ。この先に踏み込んだら、別れるに別れられなくなる。切るなら今のうちだと思うけど」
ああ、そうじゃない。私は単に嫌ってほしい訳じゃない、それはそれで嫌だ。自分勝手ではあるけど、そう思ってしまう。
四方を囲い堆く聳えた壁は打ち砕かれ、私はもう完全な丸腰だ。苦労して築いたイメージまで砕きやがって、腹が立つったらありゃしない。
でも本当は、嬉しかった。
そのズレた無駄な親切心のお陰で、私は少しずつ立ち直りつつあるから。この先は分からないけど、少なくとも今だけは愛してほしい。
「重いのは知ってる、て言うか見てて分かる。夢佳って肉付き良いし」
「まっ、……そうじゃねえっての!」
拳骨を握り硬めてズパァンと腹筋目掛けて叩き込んだ一撃、それを受けて尚宗介は笑っている。メガネの分際でどうしてこうも頑丈なんだよお前は、小さい頃近所のサッカークラブにいたとか言ってたけどそんな程度じゃないだろ。こちとら元が付くとは言えバスケ部のエースだったんだぞ、一体どこのチームにいたんだ。そのサッカークラブ、もしかしてショッカーって名前じゃないのか。多分改造されてるぞメガネ野郎。
「ったく……」
どうも空気を読まないヤツだよ、まあお陰で緊張も解れたけれど。
経験の無い人間同士、それでもどうにかこうにか弄りあいながら思うこと。これはなかなか、大変な事なのではないか。どこをどう触ったものか分からないから、読んで字の如く手探りだし。まあそれは向こう様も同じなんだろう、おっかなびっくりの手付きが逆に緊張してしまう。
しかしまあ、男子の顔ってのは見た目以上にゴツゴツしてるんだな。それに指に感じるチクチクする感じは、髭ってヤツか。男子は毎日剃るらしいから、今時間はもう伸びてきてるのかな。
宗介には私の顔、どう見えているんだろう。目付きの悪い女だからな私、肌も綺麗じゃないし。その辺ちょっと怖いかもしれない。聞きはしないけどさ、そんな不粋なこと出来るかい。
それでもどうにかこうにか軸を合わせて、決意と共に向かい合う。
目を閉じ唇を突きだし、そのまま――。
「でっ」
「あだっ」
……そのまま顔を合わせようとした私たちは、思いっきり鼻を打ち付けてしまった。
そうか、真っ直ぐキスしようとするとこうなるのか。痛いわこれ。
とりあえずもう一回、と息を殺して。
慎重に顔の向きを整えて。
最後の調整をするため目は開けたまま、抱き合って。
そこから永遠に近い一瞬を経て、私たちは
嵐のような夜が過ぎて、それでも私たちは私たちのまま。当たり前か、人間そんな簡単に変わるものか。
相変わらず目付きも性格も悪い私と、頑丈なだけが取り柄のボンクラメガネ。こんな二人がどうにかやっていけそうなんだから、世の中ってのは思ったよりかは甘いのかもしれないな。まあ宗介以外の前で気を抜くのは、まだまだ怖いけど。
そんな思いを抱えながら、大分風も冷たくなった街を制服姿で二人歩く夕暮れ。
もうすぐクリスマスがやって来る、どうしたものかな。サプライズなんて柄じゃない、そういうのはしないしさせない。油断するとワケわかんないことするからなこのメガネ、後で釘刺しておこう。
一緒にプレゼントを買って、まだ行けていなかった珈琲が美味しいって噂の喫茶店にも行って。そしてその後は――。
「……ったく、いけないな」
どうしてそうも即物的なんだ、私は。宗介は都合の良いぬいぐるみじゃないぞ、本当にさ。そりゃあ
呟きが聞こえてしまったらしく足を止めた宗介を、何でもないからと笑って片手で引っ張る。
まったく、らしくないな。私はこんなじゃ無い筈なのに。
まあ――良いか。
私はやっぱりひねくれていて、どうしようもない。だからどんなに関係が進もうとも依存しないし頼らない、……最後までは信じきらない。いつでも離せるように、繋ぐのは片手だけ。それでも良いと言うなら付き合ってもらうさ、物好きなバカを精々振り回してやる。
宗介の「好き」は、どのくらいまで持ってくれるかな。いつかそれは輝きを失って、最強ではなくなる。私がバスケを好きでなくなったように、お父さんとお母さんの関係が冷めてしまったように。
その日がどうか、遠い先でありますように。願わくば、訪れませんように。
助けてくれた事なんか一度もない薄情な神様に祈りながら、私は歩みを速めていった。