人生というものは思い通りにはならないもので、想像を越える事態がいつだって待っている。
サークルの顔見せが終わって帰り際、ふと声が聞きたくなって大喜くんに電話をかけた。まさか向こうが一大事になっているなんて、思いもせず。
母さんが倒れて今医者にいます、と聞かされて目の前が遠くなりながらも、私は走り出していた。
心臓病の家系だとは聞いていたし、人は永遠には生きられない。でも、だからって。こんなに早く、その時が来る訳がない。
だけども予想はいつだって、斜め上を行く。
散々に振り回されて深夜の猪股家、勝手知ったる大喜くんの部屋で。
現在私と大喜くんは揃って黙ったまま、虚無顔で向かい合っている。
どういう顔をして何を言うのが正解なのか、さっぱり分からないから――。
「おめでとう、ござい……ます?」
「あー……ご丁寧にありがとうございます……」
とりあえず型通りに祝意を示したけれど、大喜くんは機械的な応答を返すだけ。
さて、どうしようかな。
「全く、うちは皆して大袈裟なのよね」
病院から凱旋帰宅した由紀子さんはいつものようにカラカラ笑っていて、大喜くんだけが微妙な顔。
うんまあ、そうだろうな。私だって自分の親が
だって由紀子さん、先刻なんの遠慮もなく言ったんだもの。
大喜に弟か妹が出来たのよ、なんて。そして今四ヶ月だと。……私がいなくなった直後に仕込んだんですかお盛んですね全くもう。
「私って昔から不順でね、何ヵ月も来ないとか普通だったのよ。まあ今回は歳も歳だし、ちょっと早めにバッテリー上がっちゃったのかなーって思ってたの。まさか二人目が当たったとか、ちょっとビックリよねー」
にこやかな笑顔が眩しい由紀子さん、でも気づいてほしい。お隣にいる息子さん、虚無を形にしたような顔になってますよ。……まあリビングでテレビ観ててタンポンやおりものシートのCMが流れると、毎回こんな顔するんだけどね大喜くん。どうも男性にとっては非常に難しい場面らしくて、心を封印して映像が終わるのを待っているのだ。ちなみに私としては、食事時には流さないで欲しいかな。
そう言えば由紀子さんや私のお母さんよりもう一段上の世代だと、女子だけの特別授業のあとナプキンの販売斡旋があったって本当なんだろうか。お祖母ちゃんに聞くのはなんか躊躇うんだよね、年寄り扱いしてるみたいで。
いや、それはそれで置いとこう。
大喜くんがこんな顔になる気持ちは分からなくもない、私だって突然弟妹が出来たらたぶんこうなる。親のそういうのは、正直言わせてもらえればキツい。いや目出度いとは思うけどさ、身内の生々しいのは勘弁してくれ。
しかし問題なのは、猪股家のフォローだな。私はまだ妊娠なんかしたことないけど、普段通りのパフォーマンスが出来なくなるのは分かる。二年もお世話になった身としては、恩返しをかねて主婦代行を努めるのも吝かではない。サークル活動を減らして、バイトのシフトも融通して貰えば問題ないさ多分。
或いは負担軽減の為に大喜くんをうちに住まわせて――なんて考えていた時、由紀子さんはふと気付いたように私の手を取った。
「まあ、こんな時だからさ。千夏ちゃんは子供作るの、何年か待ってね。そりゃ孫の顔は早く見たいけどさ、自分の子育てしながらそっちまで面倒見られないと思うし」
その瞬間大喜くんの虚無は一層深まり、そして。そして私の顔もきっと、大喜くんに匹敵する虚無に固定された事だろう。
いや、いやいや。いやいやいやいや、待て待て待て待て。なんだその豪速球火の玉ストレートは、バッター殺しのミーティアライトボンバーローリングカノンは。
と言うかなんで知ってるの、まさかうちのお父さんが余計なこと言ったんじゃないだろうな。次あったら一発シバこう、絶対。
て言うか、まだそんな関係ではないんです私たち。ハグもキスもするけどその先には行ってない、押し倒したのだって大喜くんが夏風邪で弱ったときの一回だけだし。絶対歯止め効かなくなるし鋼の理性で耐えてますよ私、もっと誉めてもらいたい。
あーいや、そうじゃないそうじゃない。
「えーとそのですね、由紀子さんその」
「あぁ良いって良いって、こんなのでよかったら熨斗着けてあげちゃうからね。まあ暫く我慢してねってだけよ」
……どうしよう、この人基本こっちの話通じないんだよね。言いたいことしか言わないというか、そりゃうちのお母さんと噛み合うよなって。似た者同士なんだ、私らの母親は。
そこからはちょっと、よく覚えていない。
とにかく虚無に満ちた顔の私たちはおいてけぼりを食ったまま、由紀子さんの話に付き合わされたのでした。
色々と段階をすっ飛ばして家族計画に組み込まれた私も私だけど、いきなり振り回される大喜くんも大変だ。
ここは私が支えてあげる時だな、いつぞや救ってもらった恩返しだ。
頼ってほしい、頼られたい。こんな時だからこそ、力になりたい。
そう思ってなんとか胸のモヤモヤを振り払おうとした、その時に。大喜くんは察したように、口を開いた。
「大丈夫、です。俺は大丈夫ですから、先輩は自分の方に集中してください。俺は俺で、頑張りますから」
私を気遣う声は、優しさを纏っていて。そして、
「やっぱり俺、まだまだ努力が足りないですね。これくらいで調子狂わせたりしてられないし、もっと頑張っていかないと」
その言葉は、いつもの大喜くんらしさに溢れている。いつだって上を目指して、傷付いても倒れても立ち上がる。
でも。
だけど。
私には見える――瞳の奥に混ざった、焦燥と苦悶が。大喜くんに必要なのは、必要なのは
私には分かっている、こういう時にどうするべきか、何を言うべきか。
「違うよ。大喜くんは十分頑張って、結果も出してる。これ以上自分を追い込まないで、私の前でまで強くあろうとしないで」
言わないことは伝わらない、言葉だけでも伝わらない。
だから大喜くん――大喜を抱き締めて、私は言葉を紡いでいく。
「約束したでしょう? 辛い時はそばにいるって。私は大喜が、好きです。例え誰が大喜を否定しようと、誰が大喜を傷付けようと、絶対にそれは揺るがない」
私は知っている、自分の停滞を自覚する苦しみを。泥濘の中をもがきながら進む辛さを、深い深い絶望に心が軋む音を。分かち合う事も消し去る事も出来ない、しかし手を引き肩を貸して歩く事はできる筈だ。
距離は少し離れた、この先何があるかも分からない。それでも確かなのは、この気持ち。
大喜は私の背骨で、心臓。私たちはずっと一緒、離れるときは死ぬときだ。
「弱音くらい好きなだけ吐きなさい、その程度で嫌いになったりしないから。私を誰だと思ってるの、私なんだよ?」
自慢になるけど大喜の彼女の鹿野千夏さんは、この世で私一人。誰よりも大喜を好きな私が、そう簡単に幻滅なんかするものか。
抱き締める腕の中に、大好きな人の体温と嗚咽を感じながら。私は目を閉じ、顔を寄せていく。
大好きを込めて、永遠の愛を誓って。
さて。このまま丁度良いところで話を終えても良いのだけれど、一先ず「その後」について一くさり。
由紀子さんは順調そのもの、むしろお腹が大きくなってからアクティブになったくらいだ。久しぶりだから色々忘れてるわとマタニティ講習会に行ってきたり、マタニティフォト撮ったり。うんまあ、それは良いんですが人前で旦那さんとイチャイチャするのは控えてください、目に毒です。
まあそりゃあ、あんなのを見せられてると子供を持つのも悪くないかもなぁとか思ったりもするけど。
大喜は一頻り泣いてすがってスッキリしたのか、あの後メキメキと頭角を現しインターハイにも出場。さすがに全国制覇は果たせなかったけど、無事笑顔で高校バドを引退した。私は最後の年が不本意な結果だったけど、そこは似なくて良かった良かった。
そして私はというと、……ちょっとだけ悩んでいたりする。もうじき誕生日を迎え19歳になる身としては、もそっと大喜との関係を進めたい気持ちがあるのだ。でもなぁ、うーん。由紀子さんに釘を刺された件はともかくとして、でも勢いでしちゃって良いんだろうかな。夢佳は彼氏さんがいつまでもウジウジしてるから押し倒して跨がったそうだけど、さすがにそれは抵抗ある。しかしそんな事言ってたら、何年たっても話が進まない。
さて、どうしようかな。なんて思いながら、笑って転んで悩んで、嬉しい楽しい毎日は続いていく。これからもずっと、きっと。
本当の始まりは、ここから。私たちの幸せは、まだ始まったばかり。
さぁ吹き荒れろ、アオい風。