レイミアの乱入により、遅れた執務を全て終わらせた頃には、外はすっかり陽が落ちていた。
詰めていた文官や従者達も既に帰り、執務室にはルゴス以外誰も居ない。
「透明感溢れる凜とした声の美女か……」
夕刻やって来た妻の言葉を呟き、ルゴスは可笑しげに口の端を微かに上げた。
美女と聞いた時はピンと来なかったが、声の形容で誰の事か判った。あの女は何時も黒いマントのフードを目深に被っている所為で、紅い口許しか見えないのだ。
最初に会ったのは三年前の「継承の選儀」のあった日の深夜だった。
サウアーが選ばれ損ねて荒れるレイミアの相手をするのが億劫で、今日のように一人執務室にいた時、不意に目の前に現れたのだ。漆黒のマントを羽織り、目深にフードを被ったあの女が。
『ほう、突然目の前に人が現れたのに、驚きもせぬとは。見事な胆力よの』
『十分驚いているが。誰だ、其方は?』
感心したように言う女に、ルゴスは傍に立てかけていた剣を手にして問うた。
それに答えず、黒マントの女はいきなり提案してきた。
『
『どういう意味だ?』
ルゴスは眉を
ソレイアに選ばれなかった事も、今の地位にも自分は納得している。ソーレスの担い手となった弟を王族として補佐する事は当然だ。
なのに、この女は自分を不遇の身だと
ルゴスは女の真意を測りかねた。
『言葉通りよ。本来なら王の第一子である其方が王位を継ぐべきもの。どの国もそのようにしておる。この国だけじゃ、力の
厭わしいモノを吐き捨てるように、黒マントの女が言う。
『その所為で其方の血脈は王になれぬ。そうであろう?』
『………』
ルゴスは苦々しげに顔を歪めた。
昼間の「継承の選儀」の事を言っているのだろう。輝くのが当然と、サウアーはソーレスを手にした。だが、いくら自らの想いをソレイアに込めたところで、宝剣は決して輝く事は無かった。その後の息子の醜態は見るに堪えないものだった。アレが我が子かと思うと心底情けなくなる。
そのルゴスの表情を、女は図星を指された故のものと捉えた。
『
『この国の為か……。見たところ其方はこの国の者には見えぬが、なにゆえ我が国のあり方に口を出す』
『ありもしないモノに未来を定められる其方等が哀れじゃからよ』
『成程……』
どうやらこの女は善意の申し出をしているらしい。真意は奈辺にあるか分らぬが、どうせロクな事ではあるまい。祖王の遺志に背くよう
『だが、力を貸すと言ってもどうするつもりだ?』
『まずは現王を亡き者にしようぞえ。世継ぎの皇子が定まった今なら、ソーレスの加護も消えておるだろうからの』
自分の話に乗ってきたルゴスに、女はフードの下に見える紅唇の端をつり上げた。
『そして、次は皇子の方じゃ。ソーレスの加護がある故、すぐには無理じゃが、全く手立てがないわけでもない。少し時間は掛かるが、皇子の身より加護の力を失わせてからゆるりと始末しようぞえ』
悦に入るように黒マントの女は自分の目論みを喋った。
それにルゴスは異を唱える。
『いや、現王が急死したとなれば不審がる者が必ず出る。徹底的に原因を究明する事になろう』
自分ならそうする。宰相という立場上、そうせざるを得ないだろう。そして、自分の性格をよく知る者に不審がられない為には、一切の手を抜く訳にはいかない。現王を殺されて一番困るのはルゴスだった。
『ならばどうするのじゃ』
自分の企てにケチをつけられ、ムッとしたように女の声が尖る。
『
それなら原因追及は宮廷薬師の役目となる。
『そうじゃな……』
殺すのは何時でもできる。ならば現王に苦しみを与え続けるのも一興かも知れぬ。
黒マントの女は、身内なのに自分より残忍な提案をするルゴスに満足した。
『全ての準備を整えるには、まだ時間が掛かろうからな』
『では、その準備の進展を時折知らせて貰おう。それに合わせて儂の方も色々とやらねばならぬ事があるのでな』
『いいぞえ』
口許に
まるで夢でも見ていたかのような出来事だったが、その直後カムラスが原因不明の高熱を出して病床から離れられぬ体となった事で、ルゴスはあの邂逅が夢でなかった事を思い知ったのだった。
——あれで、カムラスは命だけは失わずに済むと思ったのだが……
この間久しぶりに姿を現した黒マントの女は、カムラスの命を欲した自分を邪魔した者について問い質してきた。
それを聞いた時、一瞬ルゴスは肝が冷えた。まさか今頃になってあの女が再び王の命を狙ってくるとは思いもしなかった。
だから問われるまま知り得る情報を全て渡してあの女の興味を王から逸らし、念の為釘も刺しておいた。現王の命は自分が王として立つ時の
不意に、静まり返った執務室の奥、続き部屋に通じる扉を誰かが叩いた。
ルゴスは思考を切り換え、扉の方に視線を向ける。
「入れ」
「失礼致します」
入ってきたのは、先日王宮に戻ってきた息子の侍従長のマクアークだった。
「フォルドがネールの出城から失踪したのは本当なのだな?」
「はい、確かでございます。愚息が予定通りフェデルの出城に向かう皇子一行の中に、フォルド様の姿がなかったのを確認しております」
念を押すルゴスに、マクアークは今朝届いた上の息子からの手紙の内容を披露する。
マクアークは皇子の出城巡りの日程が決まった時点で、懇意にしている商人の中でアルティアの国境近くに店を持つ者に、ネールの出城の情報を送らせていたのだ。
ただ、遠いのでどうしても時差ができてしまう。最初にもたらされた情報はネールの出城の騎士が、十代の少年少女を捜しているというものだった。フォルドが侍女と駆け落ちしたという噂はそれが基になっている。
そして今朝クノックから新たにその詳細について報せが着いたのだった。
マクアークは更に言いにくそうに言葉を継ぐ。
「それで、サウアー様はフォルド様を追ってネールから東に向かったようです」
「………」
外に出て環境を変えれば少しは己を
何処までもフォルドを追う息子の事は、もはやルゴスは気にしない事にした。
——それにしても、このようなタイミングでフォルドが自ら行方を
目覚めてからのフォルドの言動に違和感を持っていたルゴスは、今回の失踪も腑に落ちなかった。
——あの女が何かしたのか?
ソーレスの加護のあるフォルドに仕掛けるには準備が必要だと言っていたが、あれから三年もの間何か仕掛けてくる素振りはなかった。
だからその間にマクアークを焚き付け、平和ボケした甥の危機感を
ただ薬師のくせに勘の良すぎるエイルに気付かれて警戒され、思うように仕掛けられなかったのが少々不満ではあったが。
この春、〈太陽の塔〉から漆黒の怪鳥がフォルドを突き落とした時、いよいよその時が来たのかと思ったのだ。
だが、その後フォルドが目覚めてもあの女が動く気配はなかった。
そして此度のフォルドの失踪。何かが自分の知らない処で動いている気がしてならない。
所詮あの女とは欺瞞に満ちた協力関係。本心を隠しているのはお互い様だった。
——情報が足りんな……
新たな情報源が欲しかった。それもフォルドの内情に詳しい者の。
ルゴスは顎髭を撫でながら、ふと丁度良さそうな人物に思い至りニヤリと笑った。
「マクアーク、エイルがアルビナだという者がおるぞ」
「アルビナ…ですか?」
唐突な話題の転換にマクアークは目を瞬き、そして、聞き慣れぬ言葉に顔を曇らせる。
確か何処かで聞いた事があるのだが、どうしても思い出せない。
「いるかどうかも判らぬ、人ならざる力を持つ人の姿をした化け物の事だ」
「あぁ…、昔話に出て来るあの——」
ルゴスの説明に、やっと思い出せたマクアークだったが、それがあの生意気な薬師だという事にギョッとした。
「ま、まさか……」
「
「——確かに、そうでございますね」
ルゴスの思惑に気付き、マクアークも人の悪い笑みを浮かべる。
アルビナかどうかはこの際どうでもいい。適当に理由をでっち上げてあの薬師を捕らえて来いと言うのだ。
とはいえ、言い逃れできぬ証拠を突き付けねば、あの口八丁な薬師の事、のらりくらりとはぐらかされてしまうだろう。
また王のお気に入りとも言われている以上、事は慎重に運ばなくてはならない。
「少し時間が掛かりますが、必ずや捕らえて参りましょう」
「うむ、頼んだぞ」
満足して退出を促すルゴスに、マクアークは深く
扉の閉まる音を背に聞きながら、ルゴスはカーテンの隙間から窓の外を見た。
雲の切れた夜空には欠けた月が皓々と、昼間の雨でしっとりと濡れた地面を照らしていた。