何処までも蒼く澄んだ空が、緑深い森林の上を覆っていた。
遠く鳥や小動物の鳴き声が、森の
時折爽やかに風が吹き渡り、澄んだ清冽な湖面を緩やかに揺らしていった。
そんな湖の真ん中に、名も無き島がぽつんと一つ浮かんでいた。
全体を緑なす絨毯に覆われたその小島の中央にある緩やかな丘の上には、
はらりと木の葉が一枚枝より離れ、落ちた
フォルドは頭上の枝葉の隙間から微かに漏れる陽の光を頬に感じながら、
——彼は今、何処まで来ているのだろう……
流れる悠久の時の中で、ここだけ時を刻むのを忘れたかのように変化に乏しかった。
フォルドはあの銀髪の女に、自分の半身が姿を
一度だけ半身と意識が繋がったあの時、受けた〈
もっともそれは、この体を縛める鎖に繋がる〈
それに、あの時どの位気を失っていたのか。彼女がその事を知らなかったのは幸いだった。何時現れるか分からないあの女に、気絶などしてこれ以上隙を見せるわけにはいかない。
ただ、日課のようにしていた呼びかけを止めた所為で、益々時の感覚が曖昧になってしまっていた。
この〈
最初フォルドはここが〈
同時に、この場所は神話に出てくる場所だ。誰もが知るような分かりやすい場所に、あの狡猾な女が自分を捕えたまま放置しておくのはおかしい。おそらくここは今神話で語られている場所にはないのだろう。
そう思い、フォルドは何度か彼女にそれとなくこの場所の位置を聞き出そうとしたが、巧みに話をはぐらかされてしまっていた。
自分が知れば、ソレイアを介して半身にその情報が伝わると思っているのだ。
今の自分にこの場所の位置を知る手立てがない以上、後はその半身の彼に任せるしかなかった。とはいえ、彼の許にはエイルがいる。薬師とは思えないほど膨大な知識を持つあの知恵者が。
彼が姿を
だとすれば、彼はいずれここに辿り着ける筈だ。とはいえ〈
何もできず、ただ待つことしかできない我が身が呪わしい。
これもあの女の狙いの一つだと判っていても、フォルドは心穏やかにはいられなかった。
唐突に周囲の気配が変わった。心地よかった清風が一瞬にして総毛立つ程の冷気を纏って吹き抜ける。
ハッとして、フォルドは表情を消した。
相変わらず何の反応も見せずに無表情を貫く黒髪の少年を、アルビナの女は可笑しそうに
「何時まで
嘲るような笑みを浮かべたまま巨木の下に戒められた少年に近づく。
「其方の半身——今は祖王の名を名乗っておるようだが、中々の無軌道者じゃな」
「………」
——祖王の名…彼はショウと名乗っているのか……
確かに「フォルド」と名乗っていては色々と面倒だろう。それにしても祖王の名を名乗るとは中々豪胆な性格をしている。
でも無軌道者とは一体、彼は何をやったのだろうか。
フォルドが内心で訝しがっていると、銀髪の女は少々呆れを滲ませた声で言葉を継いだ。
「全く何を考えておるのやら、お陰で捜すのに苦労したぞえ」
皇子の半身がこの場所を目指すなら、まずは国境のダルの森を抜けるだろうと、何時来てもいいようにそれとは別に、わざわざ特別に産み出した黒き獣を森に放っておいたのに、まさか近寄りもしない臆病者だったとは。
折角
それがまさかダルの森に放った黒き獣によって、東に追いやられた
もっともそれで力の
退屈凌ぎの変わった玩具を見つけた子供のように、銀髪紅眼の女は邪気のない笑みを浮かべながら、ローブの懐からオーブを取り出す。
「あの者が今何処におるか、其方も気になるじゃろう?」
片方の掌に乗せた透明なオーブの上にもう片方の手を
女の
それは夜のようだった。今というより、昨夜以前の映像らしい。
その中央に焚き火を背に険しい顔をして剣を構える、見覚えのある黄金の髪の少年の姿があった。
夜の闇に覆われてそこが何処なのかは判らない。焚き火に照らされた範囲から赤茶けた岩の多い場所らしいという事くらいだ。
オーブの中に映し出された少年はその場に留まり、次々と襲い掛かって来る四つ足の獣を撃退していた。
——何故そんな戦い方をしているんだ?
確かに闇の中より明るい場所の方が戦い易いが、多勢を相手にするなら、そこより離れ過ぎずに常に自分に有利な位置取りをしなければ、すぐに追い込まれてしまう。
動きから戦い慣れているようだから、そんな事くらい分かっているだろうに、何故そうしないのか。
——誰かを護ってるのか?
旅の途中で知り合った者だろうか。同行者の存在にフォルドは興味を覚えた。
また一人、オーブの中に燃えるような
半身の少年の窮地に駆け付けてきたのだ。髪の色からしてエルティアの少女のようだった。
——この場所はエルティアなのか……?
遊牧の民が住む草原の国と聞いていたのだが、赤茶けた岩しか見えないのでそんな風には見えない。
少女が獣に矢を射掛けながら、何やら背後の者に指示を出している。
それを受けて一旦奥に向かったその者は、壺のような物を持って戻って来た。
そして、岩場にその中身を撒き始めた。
その姿を見た途端、フォルドは驚愕に大きく目を見開いた。
——アルフィーネっ!?
あの二年半前の一件以来、誰が自分を狙っているかはっきりするまではと、今までずっと遠ざけていたのに。
なのに、どうして彼女が自分の半身と一緒にいるのか。フォルドは
「ほう……」
——しまった……
咄嗟にフォルドは表情を取り繕ったが、もう遅かった。
にんまりと、アルビナの女は口元に嗜虐的な笑みを浮かべてフォルドを見ていた。
オーブの映像は、黒い巨大なジャルガに黄金の髪の少年が手に持つ剣の刀身が、嚙み砕かれたところで終わっていた。
結果を見せない事で、よりフォルドの不安を煽るつもりなのだ。
「中々良い見世物であったよの」
紅い唇の端を吊り上げ、満足そうに黒いローブを纏った女が呟く。
何時もの戯れて寄っただけが、思わぬ収穫が得られた。
このソルティアの皇子は、ソルブレイの力の
また一つ愉しみが増え、銀髪紅眼の女は上機嫌でこの場を後にしようとした。
それをフォルドは呼び止めた。
「待って欲しい。貴女に聞きたい事がある」
「なんぞえ?」
珍しい事があると、アルビナの女は振り返った。
フォルドは女の深紅の瞳を見据えて静かに尋ねた。
「貴女のそのサークレットの宝石、以前は違う色をしていたのではないか?」
「ほう、其方判るのかえ」
感心したように応える女に、フォルドはやはりと微かに顔を曇らせた。
あれから自分なりに考えて導き出した答えだったが、何かの間違いであって欲しかった。
そして、それなら尚更彼女の真意が知りたいと思った。でもアルフィーネに目を付けられた以上もう黙ってはいられない。
「何時まで、貴女はこのような愚かしい真似をし続けるつもりなのだ?」
心を落ち着かせてフォルドは問い掛け、慎重に最後の一言を口にした。
「——力の
途端に銀髪紅眼の女の纏う空気が激変した。
一気に膨れ上がった怒りで大気が荒れ狂い、エリオスの枝葉が悲鳴を上げて
「好きで選ばれたわけではないわっ」
ぎっと黒髪の少年を睨め付けて吐き捨てる。まるで忌まわしき物を吐き出すように。
額のサークレットの中央に嵌め込まれた
「じゃが、
「っ………」
そんな彼をアルビナの女の冷酷な視線が鋭く刺し貫ぬく。
「そこで己が非力を呪いながら待っておるがよいわ。其方の祖国の滅びの時を」
傲然と言い放ち、銀髪紅眼の女は
その場を支配していた粟立つ気配が緩み、元の穏やかなものへと戻っていく。
独り残されたフォルドは茫然と彼女の消えた空間を見ていたが、暫くして詰めていた息を吐き出した。
自分というより力の
——一体彼女と力の
思い止まって欲しかったが、あれではどんな言葉も彼女の心に届きはしないだろう。
ならば、彼女をこれ以上好きにさせるわけにはいかない。力の
その為にもソーレスが必要だった。
ぐっと拳を握りしめ、フォルドは頭上を振り仰いだ。
先ほど見せられたオーブの映像。彼を不安にさせる為に途中で切れていたが、フォルドは全員無事でいる事を疑っていなかった。
そうでなかったら、彼女は必ず無残に傷ついた彼等の姿を自分に見せつけるだろう。自分が後悔に
湖まで張り出た枝葉の隙間から、相も変わらず柔らかな木漏れ陽が降り注ぐ。
それを暫し眺めていたフォルドの顔が、不意に愁いを帯びて歪む。
——ショウ、君がアルフィーネを巻き込んだのか。それとも……
オーブに映し出された自分の半身と一緒に旅する亜麻色の髪の少女に遣る瀬無い想いを抱き、フォルドは今までにない激しい焦燥に駆られていた。