雲一つない蒼い
地上に広がる色とりどり草花はそれを浴び、一層色鮮やかに咲き誇っていた。
その花園を二階の窓より眺めやり、ロドルバンは小さく嘆息した。
この部屋の主が居なくなって既に一月以上経つ。
勿論何時戻って来てもいいように、部屋もこの目の前に広がる花の庭園の手入れも常に万全にしている。
ただあの一件以来、フォルドは身の回りに人を置かなくなり、本来なら侍従や女官、下働きの者達がする筈の仕事を全てロドルバンが一人でやっていた。
『爺、すまない。でも僕はもう、僕の為に誰も犠牲になって欲しくないんだ』
そう言って、フォルドは自分の身の回りの事は自分でするようになり、その他にも暇が出来ればロドルバンの負担を減らすように仕事を手伝ったりもしていた。
今は主の居ないこの部屋を整えるのにそれ程の手間は掛からず、一人でも平気だった。
庭園に関しては流石に専門知識がないので、皇子となったフォルドの命を狙った者が誰か判明するまで、信の置けるこの庭園の専属の庭師二人には不自由を掛けるが、この庭園奥にある庭仕事の道具などを置いていた小屋に住み込んでやって貰っている。
お陰で亡き王妃が愛していたこの花園は、今も昔と変わらず美しく花達が咲いていた。
「フォルド様は、無事記憶を取り戻されたのだろうか……」
あの事があってから、フォルドは自分の事に極力人を巻き込まない様にしていた。
だからあの時も自分に何の相談もせずに行ってしまったのだと分かっていても、やはり後悔せずにいられなかった。アルフィーネの様に無理やりにでも付いて行けばよかったと。
ロドルバンの口から再び深い溜息が漏れる。
「溜息などついて、どうかなさいましたか?」
不意に背後から声を掛けられ、ロドルバンは驚いて振り返った。
そこに部屋の右手にある扉を閉めて中に入って来た
「おお、エイル殿か。お主がここに来るとは珍しいのぉ」
最近は特に忙しそうで、主が不在のこの部屋に彼が顔を出す事も無くなっていた。
「ええまあ、少し気分転換にと……」
「確か、王に頼まれて調べ物をしておるんじゃったか」
前に神殿の方に泊まり込んで調べていたと聞いた。
窓際のテーブルの上に広げてあった物を仕舞い、席に着くよう若い薬師に進めながら、ロドルバンはよく冷えた香草茶を出した。
「中々大変なようじゃのう」
「ええ、一応必要な
自分のカップを手に席に座るロドルバンに礼を言い、出された香草茶を一口飲んで物憂げにエイルが応える。
それで煮詰まってちょっと気分転換に外へと思っても今は色々と物騒だった。王宮内でゆっくりと落ち着ける所といえば、ここだけしか思い浮かずに来てしまったのだ。
だが、皇子に関係しているとはいえ、その内容を詳しくロドルバンに言うつもりはなかった。
「それより、先程溜息をついていたようですが」
と、暇を持て余している皇子の侍従長が、それなら手伝おうかとその内容を問い質してくる前にエイルは話題を変えた。
その途端ロドルバンは
「——あれから随分と経つが、フォルド様はどうしておられるかと思ってのう……」
過酷な環境だと聞いたエルティアの国で、どのような苦労をされているのか。何もしてやれずただ待つしかできない事がこれ程辛いとは思わなかった。
「そうですね……」
相槌を打ちながら、エイルはそっと目を逸らした。
実は彼は皇子がもうエルティアを出て、今はアルティアを旅していると知っていた。
この間ダーナの
危険が多過ぎてエルティア中央の荒れ地には行けなかったが、皇子達が戻れば必ず寄る筈のダーナの邑付近にいた彼等に渡りをつけておいたのだ。
また来た時に黄金の髪をした人間が何処に向かったか教えて欲しいと。
けれど、それ以上の情報は無理だった。あのセクルスの巨大樹の天辺に近い梢辺りならまだしも、地上近くに棲んでいる鳥は夜行性のものしかいない。森の中はそれ以外の鳥の目では暗すぎてよく視えず、飛ぶには危険が多過ぎたからだ。流石にそんな所にルークを向かわせることはできなかった。
この事を知っているのは今の処自分と王、そしてルークを使って王に伝言を頼んだ神官長、後は宮廷薬師の長だけである。
皇子の身に起こった事は誰にも知られる訳にいかない以上、王宮の者達にはまだ皇子はヴァンデミーネの巫女の許に身を寄せていると思わせておかなければならない。たとえそれが皇子の侍従長であるロドルバンであろうとも。
いや、彼の場合何処で何を口走るか分からないので余計教えられなかった。
知っていても言えない申し訳なさと気まずさで話題を変えたのに、更にそれが酷くなってしまった。
居たたまれずにエイルはまたも別の話題を振った。
「そういえば、さっきテーブルの上に広げていたあれは——?」
と、ロドルバンがまとめて壁際の棚に乗せたものに視線を向ける。
そこには分厚い資料の束と、幾枚かの羊皮紙が重ねてあった。
「ああ、少し早いが
秋の第二月の初めの八日間に行われるこの祭りは、その月に生まれた祖王と今年収穫した秋の実りを祝うものである。
これが終わると民達は冬支度に精を出す事になる。一年を通して温暖な気候であっても、やはり冬はそれなりに寒く、準備を怠る事は出来ないからだ。
エイルは皇子が不在で暇な侍従長が何をやらかすか分からないので、適当に仕事を斡旋して欲しいと師のリヤルド老を通して王に願い出ていたのだが、どうやらそれがこれらしい。
「今年も例年通りということでしょうか」
「うむ、フォルド様が何時戻られるか判らんのではそうなるじゃろうな」
眉尻を下げ、ロドルバンが力なく呟く。
本来なら「継承の選儀」で新たなソーレスの担い手が決まると、国内外にそれを知らしめて祝う為に、選儀後最初のフェルラーナに各国の要人を招き大体的に祝うのであるが、フォルドの場合まだそれを正式に行っていなかった。
三年前ソーレスに選ばれた後、皇子の命を狙った襲撃事件が起こった所為である。
その犯人が分からないままフォルドを次代のソルティアの王として、他国に公表するのは時期尚早だと宰相であるルゴスが反対したからだ。
ソーレスの担い手となったからには、自分の命を狙った者を自分の手で捕らえるくらいして見せろ。それくらい出来なくては次代の王として認められない——と。
相変わらずのルゴスの厳しい意見をフォルドは受け入れ、王もそれを了承して三年前のフェルラーナでの祝いは国内だけの
その後も様々な方法でフォルドは命を狙われたが、捕まえた者はどれもトカゲの尻尾でしかなく、首謀者に辿り着くことが出来ないまま今に至っていた。
もっともまだ正式に公表されていないとはいえ、秘密にしている訳でもない。他国の者でも既に分かっている事だ。フォルドがソーレスに選ばれ、次代の王として「皇子」と呼ばれている事くらい。何よりもフォルドと共に常にあるソーレスの存在が、それを雄弁に物語っていた。
今更正式なお披露目など必要ないだろうが、それでもきちんとした形で各国の要人にフォルドの晴れ姿を見せたいとロドルバンは思っているのだ。
「………」
どんよりとするフォルドの侍従長に何と言えばいいのやら、エイルは増々気まずくなって言葉を失った。
どんな話題を振っても皇子に行きついてしまう。これではとても気分転換どころではない。来るのではなかったとエイルが激しく後悔していると、不意に横手から扉の開く音がした。
王宮の南棟は王族の居住区になっている。当然警備が厳重で関係者以外の者が入って来る事は無い。
特にこの部屋のある二階はフォルドが意識不明になった後はそれが一層厳しくなり、関係者でも許可なく入る事は出来なくなっていた。
そしてそれは部屋の主が不在のいまでも継続している。留守の間に部屋に何か仕掛けられないとも限らないからだ。
それなのに自分達以外の者がこの部屋にやって来るとは。
身構え、二人は緊張した面持ちで侍従の控える部屋に続く開いた扉を見た。
警戒する彼等の前に現れたのは明るい金髪の壮年の男だった。
「邪魔するぞ、ロドルバン」
そう声を掛けながら入って来たセイレムは、部屋にもう一人若い薬師が居る事に一瞬目を見開いたものの、すぐに笑みを浮かべた。
「エイルまで居るとは、呼び出す手間が省けたな、グレント」
と、自分に付いて部屋に入って来たくすんだ金髪を短く刈り上げた男に声を掛ける。
「これは、セイレム様、グレント様。何用でございますかな?」
すかさず椅子からエイル共々立ち上がり、ロドルバンは
「俺は単なる通行手形だ。お前達に用があるのはこいつだ」
と、セイレムは自分の連れを顎で示す。
それを受けてグレントはロドルバン達の前に進み出た。
「そう畏まらなくてもいい。お前達には少し聞きたい事があるだけだ」
「聞きたい事?」
頭を上げたロドルバンとエイルは、チラリとお互い視線を交わし合う。
ネールの出城の騎士団長がわざわざ自分達に聞き来るとなると、話は限られてくる。
取り敢えず騎士二人に席を勧めて飲み物を出し、テーブルの向かいにロドルバンとエイルは並んで座った。
「それで話とは?」
「エスカーの襲撃で亡くなった騎士だが、どうやら襲撃者に買収されていたようだ」
「なんですと!?」
思わずロドルバンが目を剥く。
あの出城巡りに随行していた騎士達は、皆忠義に厚い信用に足る者達ばかりだった筈だ。それなのに何時の間にそのような者が紛れ込んでいたのか。
驚く皇子の侍従長に、グレントはここ数日自ら王宮で調査した内容を披露した。
「その者は急病で随行出来なくなった騎士の代わりに急遽加わる事になったらしい」
「確かに一人、一行が出発する少し前に急患として医薬所に連れて来られた騎士がいました」
この件はエイルも気になっていたのでよく憶えている。
その騎士は嘔吐と腹痛が酷く、薬を飲んで症状が落ち着くまで数日掛かり、体力もかなり落ちてとても長旅に堪えられる状態ではなかった。
この時期は汲んだまま放置していた水や食べ物がすぐに痛むので、その騎士もおそらくそれに気付かず腐ったものを口にしてしまったのだろうと診断されていた。
「ああ、その辺りは本人に確認している。心当たりはないと言っていたがな」
出城巡りの随行に選ばれ、その騎士も健康には気を付けていた筈だ。実際本人も腐ったものを口にした覚えがないと言っていた。だが、症状が出て苦しんだ末随行出来なかったのも紛れも無い事実だ。
「そこでエイル殿に聞きたいのだが、腐ったものを気付かずに食べてしまう事など有るのだろうか?」
「腐りかけの場合まったく無いとはいえませんが、あそこまでの症状が出るとなると嗅覚と味覚、つまり鼻と舌が完全に利かなくなっていなければ無理です」
そしてあの騎士はどちらも正常だった。
「ただ、似たような症状を薬で引き起こす事は可能です」
「それは本当か!?」
エイルの思いもよらない言葉に、グレントだけでなく他の二人も唖然となった。
「ええ、ある治療に使われる薬で、その薬の配合を変えて体に強く作用させるようにすれば可能です」
そう受け合いながらも、エイルはそれを否定した。
「ですが、それは我が国の薬師にとって禁忌とされています」
国内の薬の品質を一定に保つ為に造られた「薬師の棟」に属する以上、その理念に反する事は絶対にしてはならない。人の命に関わる為、それに反した者は特に重い罰を受ける事になる。
「成程……」
可能だが、薬師の棟の者達は決して作らない。では、そこに属していない者ならば……
ふとグレントの脳裡に例のアルティアの男の顔が浮かんだが、商隊の護衛として来たあの男に薬学の知識があるとも思えなかった。
——となると、やはりあの時期に随行の騎士が体調を崩したのは偶然という事か……
「それではロドルバン殿、道中代理の騎士の行動で、何か気になった事はなかったか?」
質問を切り替え、グレントは若い薬師から皇子の侍従長に視線を向けた。
「たとえば、姿が見えない時があったとか」
「姿が見えないどころか」と、途端にロドルバンが苦り切った
「
そんな奴が襲撃者と手を組んでいたとは、油断も隙もあったものではない。
もっともそれであの騎士は別の意味で自分達に警戒されていた。忘れ
「では、野営地に火の手が上がった時、何時頃からその騎士の姿が見えなくなったか憶えているか?」
更に質問を重ねるグレントに、ロドルバンは
「あの時儂は火を避けて何とかフォルド様の許へ行こうと躍起になっておったので、周りの事など見ておる暇はありませんでしたじゃ」
余りにも火の回りが速く森に近づけない上に、火勢が強くて鎮火させるのも一苦労だったのだ。自分だけでなくあの場にいた者は誰もが消火に手一杯で、誰が何処にいたかなど把握している者は一人もいないだろう。
「その後の事はグレント様もご存じの通りですじゃ」
駆け付けたネールの出城の騎士達の手を借りて何とか鎮火した後、あの火に巻き込まれた者が居ないかどうかの安否確認の為に点呼を取って、初めてあの騎士が居ないと気付いたのである。
そして焼けた野営地内を隈なく探してもその騎士の姿は無く、何故か森の外れで背後から剣で斬られた遺体が発見されたのだ。
「あの時、あの者は逃げる襲撃者を深追いして、あそこで斬り殺されたと思っておったのじゃが……」
協力者だったとなれば話は違って来る。
「つまり、殺されたのは口封じの為ということでしょうか」
「おそらくな」
エイルの言葉に応えたグレントの表情は冴えなかった。
今までの話は聞き取りした随行の者達の話を基に導き出した答えだ。間違いないと確信しているが、確たる証拠がない。
王宮に来てから改めてその者の身辺調査もしてみたが、そちらも見事な程に何も出て来なかった。
ただ一つ気になったのは、遺品の中に手紙が全くなかった事だ。
だが、その家族とやり取りをしていた手紙が一通も見当たらなかったのだ。
グレントはエスカーの件を王宮に報告するついでに、後で調べるつもりでその騎士の部屋を片づけないように頼んでいた。もっとも彼が頼まなくてもその事件が起こる直前、地方の家族は火の不始末により家ごと焼けて亡くなっていた。遺品の引き取り手がなく、特に急いで始末する必要もなかったそれらはそのままにされていた筈なのに。
それを不審に思いながらも、グレントは最後の頼みとして皇子の傍にいた侍従長の話を聞きに来たのだが、どうやらこの件で襲撃者を特定するのは難しいようだ。返す返すも件の騎士が殺されてしまった事が悔やまれる。
「色々と参考になった。礼を言う」
「いえ、大して役に立てず、申し訳ないですじゃ」
「いや、十分だ。邪魔をしたな」
「待て、グレント」
恐縮するロドルバンに礼を言い席から立ちあがった連れを、セイレムは制してテーブルの向こうに座る若い宮廷薬師に目を向けた。
「俺はエイルに少し話がある」
「私にですか?」
「ああ、こっちへ来てくれ」
頷き、セイレムは下の花園に降りる階段のあるバルコニーに出た。
どうやら内密な話らしい。エイルが続いて出ると、セイレムが部屋の中に声が漏れないように窓だけでなくしっかりと扉を閉める。
そして、すぐに本題に入った。
「あれからこちらに来ないままだが、まだお前の許に〈
「はい……」
自分としては早く来て欲しいのだが、転移するには膨大な力がいる筈だ。おそらくその力を溜めるにはかなり時間が掛かるのだろう。
「では、今更だがお前に護衛の騎士を付けよう」
「それは既にお断りした筈ですが」
「だが、相手は得体の知れない力を使う人ならざる者なのだろう? お前だけで本当に大丈夫なのか?」
「え、ええ……」
自分もその力が使えるから大丈夫とは、とても言えない。
「一度退けた事がありますので、大丈夫かと」
「だが、また同じ手が通用するとは限らないだろう」
「ええ、ですから騎士の皆様に渡したものも、その時の物とは別物です」
おそらくあの女は剣を振るうしか能のない騎士など、幾ら居ても物の数ではないと侮っているだろう。
だからあれを当てるのは簡単だ。直接顔に当てられれば一番だが、体に当てるだけでもいい。殻が割れて流れ出た液はすぐに揮発する。それをアルビナの女に吸わせるだけでいいのだ。
「他にも色々と手は打ってありますので、私の事より王の身辺の護衛をしっかりとしてください。気を変えて、私より王を先にするかもしれませんので」
その可能性は低いと思いながら、自分からセイレムの気を逸らす為にエイルは万が一を口にする。
「勿論抜かりはない。私がこのように傍を離れていようとも、王には虫一匹近づけんようにしてある」
自信満々にそう断言したセイレムは、ふと眼下に広がる花園を見渡してポツリと呟く。
「死んだ妹の為にも、まだ王を死なせるわけにはいかんからな」
「王妃様の為……ですか?」
「王妃と言うより自分の為だな。あいつは王に『フォルドとのたくさんの想い出を持って来てくださるのを楽しみに待っています』と言って逝ったからな。今死なせたら土産が少ないと王だけでなく私も恨まれる」
お兄様がしっかり王を護らないから、楽しみにしていた想い出の土産がこんなに少ないのだと。だから王には天寿を全うするまで長く生きてもらわねば困る。そしてそれは甥のフォルドにも言える事だ。
「でだ、皇子は今、確かにヴァンデミーネの巫女の許に居るのだな?」
「はい」
事実を告げられない以上、エイルはそう言うしかなかった。
「今はエルティアの邑は北方に移動していますので、戻るとしてもそれらがまた南に移動してからになると思います」
「そうか、それならいい」
目を伏せながらも淀みなく答えたエイルに、一応納得したセイレムは最後にもう一度確認する。
「護衛の件、本当に良いのだな?」
「はい」
言葉少なくきっぱりと答えるエイルに、セイレムは仕方なさそうに小さく溜息をつく。本人が要らないと固辞している以上無理強いは出来ない。
セイレムはそこで話を打ち切って中に戻り、グレントと共に部屋を後にした。
「では私もそろそろ……」
「まだ良いではないか」
「いえ、余り王を待たせる訳にはいきませんから」
引き留めるロドルバンにすまなそうに断りを入れ、エイルは気まずい話題が再燃する前に皇子の部屋を出た。
お久しぶりです。
天候がすぐれないと、気分もすぐれません。
でも、晴れると暑いし、悩ましいところです。