でも一応姿だけは出ています。
「頼む、倉橋、後これだけ、これだけでいいんだ」
活気に満ちた高校のグラウンド脇で、一人の男子生徒が同級生と思わしき少年に拝み倒されていた。
「これだけって——、佐伯、お前この間もそう言ってたよな」
倉橋
だが、相手も必死だ。
「そこを何とかっ。大会に出るヤツの親戚が急に亡くなったとかでさ、当日葬式で出られなくなったんだ。他の部員じゃ勝てる見込みないし、お前だけが頼りなんだ」
「前にも言っただろ。俺は剣道辞めてもう四年になるんだぞ。前回だってたまたま相手の調子が悪かったから運良く勝てただけだし」
「運も実力のうちだ。それに、ブランクが四年あってもあれだけ動けるんだ。中学の全国ベスト八の実力はまだ健在だろ」
そう、晶は四年前まで剣道をやっていた。祖母に強制されて、嫌々ながらに。
晶の家は父母と祖母の四人家族だった。彼の母親はいわゆるキャリアウーマンという奴で、晶の出産の際会社を辞めた後、育児の合間に試作してみたアイデア商品がたちまちヒットし、特許料と共に年商一億八千六百万円の高所得者となった彼女は、直ちに結婚以来住み慣れたアパートを引き払い、その近所に年間所得の三分の一を注ぎ込んで家を建てると、田舎から呼び寄せた母親に一人息子を押し付け、有志を募って残りの所得の半分でアイデア商品関係の会社を設立した女傑だった。
一方父親は自分より高所得者となった妻に、夫としての権威を失墜させられたと卑屈になることもなく、妻に仕事を家庭に持ち込まず、緊急時には家庭優先を約束させた後は一切口出ししないで、マイペースに自分の人生を歩む、人よりやや出世が出遅れている平凡なサラリーマンであった。
こうして、一歳と八ヶ月で母親に見捨てられた晶は祖母に育てられる羽目となった。初孫とあって何かと晶に甘い祖母ではあったが、礼儀と躾の二点だけは妥協を許さず、幼稚園の頃、正しく箸が持てたのは晶だけだった。
そして晶が小学校三年の時、近くに剣道道場が出来ると、お前には剣豪と言われていた祖父の血が流れているのだから絶対筋はいいはずだと、そんな時代錯誤な剣道なんてヤダと嫌がる晶を祖母は無理矢理入門させてしまったのだ。
すぐに辞めたいと父母に訴えても、老い先短い祖母のたった一つの願いだからとか、心身の鍛練に丁度いいとか、さももっともらしい事を言って祖母に頭の上がらない父母は全然取り合ってくれなかった。
お陰でそれから高校受験を口実に辞めるまでの六年間は晶にとってまさに地獄だった。
近所の道場では祖母の目が光っているのでサボる訳にもいかず、夏休みも冬休みも春休みさえもなく、早朝稽古から寒稽古まで普段友達が参加しないようなものまでみっちりとやらされたのだ。
祖母が渋々辞めるのを認めてくれた時、晶は歓喜で踊り出したくなるのを堪えるのにどれだけ苦労したことか。
人より余計稽古した所為か、それとも祖母が睨んだとおり筋が良かったのか、全国ベスト八までいった晶ではあったが、それ以来高校に入学しても祖母の再三の要望にも耳を貸さず、二度と道場に足を踏み入れる事は無かった。
それが半年前、自校であった剣道部の他校との練習試合に一人急病で出られなくなった部員の代わりにと、自分の経歴を知っていた剣道部主将の佐伯に泣きつかれ、高校近くの人気ラーメン店のラーメン一杯の
どうせ数合わせと気楽に構え、勝つ気など毛頭無かったのだか何故か勝ってしまい、以来しつこくつきまとわれ、三年になってやっとそれが無くなったと思ったら今回のこれである。しかも前回と違い、公式の地区大会だ。こんなのに出たら絶対祖母にバレる。
そうなったら今でも晶に剣道をやらせたがっている祖母がどういう行動に出るか。
考えるまでも無く、地獄の再現である。どんなに泣き付かれようとも首を縦に振るなど出来るわけがない。
「冗談じゃない、あの後俺は——」
「倉橋ーっ」
言いかけた晶の言葉を遮るように、不意に横手から声が聞こえた。
はっとしてその声の方に振り向くと、校舎の方から高一以来同級生をやっている井原が同級生二人に駆け寄ってきた。
「あれ、なんか取り込み中?」
「いや、もう済んだ。帰ろうぜ、井原」
と、その場の雰囲気をぶった切ってくれた悪友に声を掛け、晶は
「おいっ、待てよ倉橋っ。まだ話は——」
「いくら頼んでも無駄だぞ。当たるなら他を当たれよ」
追いすがる佐伯の声を、晶は振り向きもせずバッサリと切り捨てた。
「いいのか」
「ああ、もう筋肉痛になるのはゴメンだ」
気遣わしげに後ろを気にする井原に、晶は肩を
地獄の六年間の反動で、晶は高校では極力運動部関係を避けていた。その所為で自分が思っていたより体が鈍っていたのに気付かず、前回の試合後は情けないことに体の節々が痛み、暫く酷い筋肉痛に悩まされたのだ。
やはりラーメン一杯に釣られてやるんじゃなかったと、あの時は深く反省して二度と甘言に釣られてやるものかと誓ったのである。
「じゃ、今日はもう帰るのか?」
「いや、その前に駅前の書店に寄ってく」
「へぇ、受験用の参考書でも買うのかよ?」
「まっさかぁ」
晶は笑い飛ばした。
「買うのは『月刊 俳句の友』」
「…——随分渋い趣味してんな、お前……」
井原は付き合い始めて三年目の悪友の意外な趣味を知り、目を丸めた。
「俺ンじゃないよ、ばーちゃんのだ」
井原の誤解を、慌てて晶は訂正した。
「そっかぁ、お前、おばあちゃん子だったもんな。よし、俺も付き合ってやるよ」
恩着せがましい悪友に、晶はジト目を向けた。
「とか言って、今日発売のマンガの立ち読みする気だろ」
「うっ…、——何故判った?」
図星を指され、井原はぎくりとした。
晶はにっと笑い、得意そうに応えた。
「俺もそのつもりだからさ」
二人は顔を見合わせ、どっと笑った。
まったく、受験生の自覚がないこと甚だしい二人である。
そうして二人が
晶は焦ったような叫び声を聞いた様な気がして、ふと振り返った。
視界が白い球体に覆われる。
そして次の瞬間、激痛と共に目の前に火花が飛び散り、辺りが真っ暗になった。
「おいっ、倉橋、倉橋っ!——」
耳元で井原の取り乱した声が聞こえる。
が、それも次第に遠ざかり、晶の意識は暗闇の中に沈み込んでいった。
次で序章は終わりです。