皐月賞ではネオユニヴァースと一緒に走ることができた。
が! ぼくは怒っている。とても怒っている。
あの皐月賞には当然ながらぼくとネオユニヴァース以外の競走馬も出走していた。その数なんと18頭。
そのうちの1頭、サクラ
あの馬は、最終直線であろうことかネオユニヴァースの真横に並んでそれは楽しそうに一緒に走っていたのだ! ネオユニヴァースはぼくのネオユニヴァースなのに! ずるい!
当然ぼくもネオユニヴァースの隣で走りたかったので、今までにないぐらいの全力で走ってサクラ某とは反対側の隣に並んだけど、結局最後までネオユニヴァースの隣にはぼくだけじゃなくてサクラ某もいた。悔しい。
皐月賞はネオユニヴァースとの楽しいレースになるはずだったのに!
と怒っていても仕方がないので切り替えて、次の『日本ダービー』について考えることにしよう。
日本ダービーも『以前』のネオユニヴァースが勝ったレースの1つ。皐月賞よりもちょっと距離が伸びて、競馬場も中山から東京に変わる。
けど1番大変なのは、やっぱり回る方向が右回りから左回りに変わること──ってネオユニヴァースが牧場で言ってた。
右回りから左回りに変わる……ってどういうことだろう? ぼくの今まで走ってきたレースは全部右回りっていう方だと思うんだけど、そんなに違うのかな?
「あ、おはようッス緋田さん」
「おう、おはよう」
あ、調教師の人間が来た。
その人間は優しい手つきでぼくの首を撫でると、厩務員の人間と何か話し出した。
「真壁くん、今日から左回りの調教が本格的になるから」
「ウッス。道具取り替えとくッス」
「よろしくね」
ん? 左回り?
そっか。多分だけど日本ダービーが左回りだからそれに備えて今日から左回り用の練習になるってことだ。
ネオユニヴァースが右回りから左回りに変わると大変って言ってたし、ちょっと頑張ってみようかな。
「やっぱり癖ついちゃうんですか? 右回り左回りのどっちがか得意ーって」
「そうッスね。あの有名な七冠馬シンボリルドルフもどっちかっていうと右回りの方が得意だったって話があるんスけど、その裏付けみたいに負けたレースは全部左回りなんスよ。シンボリ牧場に右回りコースがあったことも考えると調教内容で右左の癖は出来ちゃうと思うッスね。っていうかここからアッシュブライド号をみてみたら分かりやすいッスね」
「あー、もしかしてコーナーでいつもより外側を走ってるのって」
「逆方向に曲がろうとして四葉ちゃんが抑えてるからッスね」
調教を見ながら島原が真壁に質問をする、いつもの風景がありました。
真壁が話した通り、アッシュブライド号は左回りのコースに苦戦しています。脚の回し方も変わるので当然と言えば当然ですが。
「そういえば、皐月賞の後に言ってた『アッシュブライド号がネオユニヴァース号に恋してる』って、どうしてそう思うんスか?」
「お! それ聞いちゃいますか何でもかんでもロマンティックな見方を探しちゃう作家という生き物に。……きさらぎ賞では最後ネオユニヴァース号に並んだら脚が緩んでたように見えたし、何よりあの皐月賞! あんな末脚見たことないですよ調教で。先頭でネオユニヴァースに並んで走ってた馬に嫉妬したんですよ絶対!」
島原は熱く『アッシュブライド号がネオユニヴァース号に恋している』と判断した理由を語りました。
それを聞いた真壁はお気に入りの時計のリングを弄びながら、ちょっと考え込んで──
「あーまあありえない話でもないッスしね」
と肯定しました。
「え? 馬って恋するんですか?」
「なんスかその質問!? 島原先生が最初に恋してるって言ったんスよ!?」
「いや最初に言った通り俺たちモノを『ロマンティックな見方』で見る生き物なんで、俺が勝手に妄想してる部分もあると思ってたんだけどー、え? 馬って恋するの?」
「するッスよ。多分。有名な話がダイタクヘリオスッスね。ダイイチルビーに首ったけだったらしいッス」
「へぇー、メモしよ」
もはや笑顔でメモを取る島原も緋田厩舎のいつもの風景になりつつありました。
真壁はメモをとっている時の異様に上がった口角に最初は驚いたなぁなんて考えて、そしてそれに慣れ始めた自分が面白くて微笑みました。
10(実馬編) 日本ダービー・誠意の無い走り
日本ダービー当日。
ぼくはネオユニヴァースと走ることができると胸を高鳴らせて揺れる嫌な車から降りた。
「はいガレてないッス」
「これが恋の力……?」
「ネオユニヴァース号がいるとアッシュちゃんいつも元気ですよね」
人間たちが何か呆れたのか喜んでいるのかよくわからない様子で出迎えてくるけどあまり気にならない。今のぼくの脳内にあるのはネオユニヴァースとの楽しいレースだけなのだ。
あー! 楽しみすぎるなー!
あ、ネオユニヴァースだおーい!
「待ってほんとにアッシュちゃんダメだって」
「いやいや、怪我さえなければ気にしませんよ。アッシュブライド号も同郷と会えて嬉しいんでしょう」
「すいません椎戸調教師……」
ネオユニヴァースは今日もおっきくてかっこいいね! 安心感というか、オーラが違うよ!
『アリス、いや、アッシュブライドか。元気だった?』
『うん! ネオユニヴァースは?』
『調子は上々。今日のレースも僕が勝つから』
『うん! 今日も楽しもうね!』
『………………』
あれ、何か嫌なこと言っちゃったかな……。
ネオユニヴァースは難しい顔をして黙りこくってしまった。
ネオユニヴァースに嫌われちゃったんじゃないかと不安になって色々話しかけるけど、相槌以上の返事が返ってこない。
ぼくが泣きそうになっていると、
『アッシュブライド、全力で相手してね』
やっと喋ってくれた! 安心した!
だから元気よく、全力で楽しもうねと返したのだけれど、ネオユニヴァースはまた黙ってしまった。
あれー?
『今掲示板が点灯しました。1着はネオユニヴァース、2着はゼンノロブロイアタマ差。3着はハナ差でアッシュブライドであります』
楽しいレースだった。
ネオユニヴァースとの間にゼンノロなんとかって馬がいるのはちょっと嫌だったけど、それ以上に直線が長くてより加速してネオユニヴァースと楽しく走れたのでよかった!
とぼくが余韻に浸っていると──
『アッシュブライドっ!!』
ネオユニヴァースがとても怒った様子でぼくの名前を呼んだ。
今まで見たことがないくらい、ネオユニヴァースは怒っている。
『きさらぎ賞、皐月賞、そして日本ダービー。3回君と走って分かった。君の走りには誠意がない!』
『どうしたのネオユニヴァース……こ、怖いよ?』
『今日一緒に走った仲間たちの名前をひとつでも言える?』
『えっ、えっと……?』
『言えないでしょ。君は仲間たちを見ていないから』
ネオユニヴァースが怖い。
何か怒らせてしまったのは確かなのに、なんで怒っているのかわからない。
ぼくは初めて、ネオユニヴァースから自分の意志で一歩離れた。
けどその隙間はすぐに詰められる。
『厩舎の人間の名前を言える?』
『…………わかんない』
『だよね。君は人が君に託した思いを聞いていないんだ』
『で、でも、君の鞍上のマルコ・ディモーロはわかるよ!』
『君は
『ごめん、ごめんね……なんで怒っているの……? 教えて……』
『君が誠意の無い走りをするからだよ。……人間のことわざに『恋は盲目』とはあるけどここまで周りを見てないなんて思わなかった。菊花賞でも変わってなかったら、僕は君の想いに応えることは出来ない』
そう言うとネオユニヴァースはぼくから離れていく。
観客席に近づくと、背に乗ったディモーロが慌てたように腕を突き上げた。
鳴り響く歓声と拍手の音。
それとは対照的に、ぼくはみすぼらしく泣いていた。