『天皇賞・春』。ネオユニヴァースの最後のレース。
どうしたらネオユニヴァースともっと走れるのかとずっと考えていた。ネオユニヴァースにぼくが未来から来たことを明かして、このレースだけは怪我をしないように軽く流してもらおうとお願いしようと考えもした。
でも、そうしないことにした。
全力で走り、競うことこそが仲間たちと応援してくれる人間への礼儀というものだとネオユニヴァースに教わったから。
ぼくが阻止しようとしないなら、ネオユニヴァースは以前のネオユニヴァースのようにこのレースで怪我をするだろう。
そして『宝塚記念』に向けての練習で悪化して、引退する。
……それは嫌だな、と思いつつも有効な手立てはなにひとつ浮かばなかった。
24 春の天皇賞・人間の言葉を話せないだけ
「アッシュちゃんまた元気ない感じですね」
「ネオユニヴァース号とは菊花賞くらいに仲直りしたっぽくて、併走も楽しそうにやってるんだけど、どうも1頭だけだと考え込んでるのか暗い感じなんだよねー」
厩舎の面々もアッシュブライド号を心配していました。
流石に、『ネオユニヴァース号が春の天皇賞で怪我して引退してしまうのをなんとかしたい』と思い悩んでいることまでは分かりませんが、それでもなんとかしようと様々な対策をしています。飼い葉や水がストレスの原因かもしれないと品質に今まで以上に気を使ったり、馬房に貼ってあるネオユニヴァース号のポスターを増やしてみたりしました。
それでもアッシュブライド号から苦悩の雰囲気が無くなることはありませんでしたが、調教には真剣に取り組むしタイムも良くなっているからと特別大きな対応をする訳にもいかず現状維持を選んでいるのです。
「もどかしいッスね」
「どうして現実で動物は喋らないんでしょうねー。王道展開なのに」
「現実だからじゃないスかね。でも、なにがストレスなのか言葉で教えてくれたらなぁとは思うッス」
そう話す真壁と島原の視線の先では、アッシュブライド号と新入りのグロリアスベル号が馬房から首を出してなにかしらのコミュニケーションをとっていました。
当然その内容が、
『姉さん元気ないのどうしたの? ネオユニヴァースさんにフラれた?』
『フラれてない。ちょっと考え事してるだけだよ』
『ネオユニヴァースさん絡みのことでしょ! 私の恋愛センサーがビビっと反応してるし』
『むぅ……。まあそうなんだけど』
というものだということがわかる訳もありません。
馬には馬の言葉があるのだろう。それを理解できたらどれだけ楽だろうかとこの場の人間全員が思いました。
そして、『天皇賞・春』当日になりました。
「ガレてはないッスけど元気もあんまりッスね」
「また微妙な感じだね」
今日のアッシュブライド号は移動でのストレスは酷くないようでしたが、例の元気のなさは健在でした。
厩舎の面々からすれば不調ですが、事情を知らない観客からすればいつもより落ち着いているように見えて注目を浴び3番人気にまで上がりました。
心配と期待という2種の異なる視線を受けながらパドックや返し馬をこなしゲートイン。
鞍上の如月も不安を振り払えないまま、平地最長のG1レースがスタートしました。
まずは内枠から逃げ馬が飛び出しました。
彼は昨年もこのレースに挑み、破れた馬です。
世間の評価は、芝とダートをフラフラしては負け続けている、脅威ではない馬というものでした。
「……大丈夫、差し切れる」
ネオユニヴァース号やゼンノロブロイ号の鞍上も自分の騎乗する馬の末脚を信じて無理について行こうとはしません。
如月とアッシュブライド号もそうです。長い距離だというのもあっていつもより少し後方に控えました。
誰も逃げ馬の失速を疑っていませんでした。
逃げ馬はどんどん加速していきます。
2番手から8馬身、9馬身、10馬身。大差とされるリードを稼いでもまだその脚色は鈍りません
まだまだ加速します。
20馬身という規格外のリードに観客たちも騒然とし始めました。
そうです、“大逃げ”です。
「これは……。アッシュちゃん、ゆるくない*1かもだけど行くよ!」
焦って追い始めたのは如月とアッシュブライド号だけではありません。
ネオユニヴァース号も、ゼンノロブロイ号も、『最高』と呼ばれる馬も、出走する全ての馬が加速し逃げ馬を追います。
結果的に馬群が乱れ、アッシュブライド号は悠々と追い抜いていきました。
その道中、ネオユニヴァース号に並んだ時、アッシュブライド号は横を向いて気にかけている様子でした。
「ジャパンカップの時と同じ……まさか」
ジャパンカップの時も、アッシュブライド号はネオユニヴァース号の方を向いていました。
その後ネオユニヴァース号は失速し敗北したことも考えると、『体力が切れそうなネオユニヴァース号を心配していたんじゃないか』と思えたあの時と同じです。
その予感は、的中していました。
ネオユニヴァース号にこの距離は長すぎるのです。
アッシュブライド号は先に進むのに、ネオユニヴァース号の加速が鈍いようでした。鞍上のマルコも焦って加速の指示を出しているのに応え切れていません。
「アッシュちゃん、もしネオユニヴァース号が来れなくても私たちは行くんだよ」
ネオユニヴァース号を置いてさらに前に進みます。
牝馬にあるまじきスタミナ自慢のアッシュブライド号は無理なスパートも維持し続け、先行策を取っていたゼンノロブロイ号に並びました。
でも、そこまでです。
逃げ馬が稼いだリードは尋常ではありませんでした。
先頭でゴールした逃げ馬との差はおよそ7馬身。ゼンノロブロイ号とアッシュブライド号がクビ差で2着と3着です。
ぼくは3着まで上がることができたけど、肝心のネオユニヴァースは10着。以前と同じ結果だった。
走り切った後脚を緩めたぼくが最初に向かったのは、やっぱりネオユニヴァースの元だ。
『ネオユニヴァース、大丈夫?』
『……心配しないで。でも、やっぱり僕に長距離は長すぎるみたいだ』
『脚は平気?』
『重いね。こういうのを『乳酸がたまる』って言ったはず』
ニュウサンはわからないけど、異常がある感じではなさそうだ。
……もしかして、怪我してない!?
『よかった……』
ぼくがいることでレース展開に少しの変化があって、ネオユニヴァースの怪我を防いだってことみたいだ。
本当によかった……。
なんて都合のいいことが起こるわけがなかった。
ぼくとネオユニヴァースが次の宝塚記念に向けて一緒に併走トレーニングというらしい練習をしている時、ぼくは横から小さく苦悶の声を聞いた。
『……もしかして、脚が痛いの……?』
『ちょっと、ちょっとだけだよ。心配しないで』
『っ! 待って、無理しないで人間に伝えなきゃ! ネオユニヴァースが引退しちゃう!』
ぼくは立ち止まって、必死に上のヨツハチャンに訴える。
でもヨツハチャンにはぼくが何かに焦っているところまでしか伝わらない。
『ならマルコ! あれだけネオユニヴァースの相棒ぶってるんだ、気づくよね!?』
ネオユニヴァースに乗ったマルコにも言うけど、やっぱり気付いてはもらえない。
マルコ……、ヨツハチャンと違って正式に厩舎に所属してるわけじゃなくて毎回調教に参加してないからと言い訳はさせないよ!? ぼくの恋敵をするならネオユニヴァースの怪我にくらい気付いてよ!
『……アッシュブライド。君には何が見えているの?』
『ど、どういうこと?』
『僕は確かに負傷したみたいだけど、引退するほどじゃないよ。でも君は確信を持ってこの怪我で僕が引退すると言う。それに、春の天皇賞の直後も僕の脚を心配していた。うん、率直に言うなら、君には未来が見えているんじゃないかって思うんだ』
ぼくはこれまでにないほど驚いた。
ネオユニヴァースがぼくなんかよりとても頭がいいことはわかっていた。
でも、ぼくの特殊性に気付けてしまえるほどだとは思ってなかったんだ。
『……やっぱりすごいなぁ。うん、そうだよ。ぼくは2週目なんだ』
『なるほど。合点がいったよ』
ここまで話して、マカベクンやクリハタがぼくを引いてネオユニヴァースから離してしまった。
ぼくが突然興奮したように見えたのだろう。無理やり引き剥がしたくなるのもわかるので手綱を引かれるまま従った。
今日の練習はここまでということになり、ぼくは馬房に連れていかれた。
その去り際、ネオユニヴァースが小さく言った言葉は、
『そうか……。僕はここまでなんだ……』
とても悔しそうな一言だった。
そして別の日。調教ではなく軽い運動程度の放牧でネオユニヴァースと話すことができた。
『あれから考えたんだ。本当に引退してしまうとして、心残りはないか』
『人間たちに、ネオユニヴァースが怪我してるって伝えられたらなんとかなるかも……』
『僕たちは、人間の言葉を話せないから』
『そ……っか。心残り、って何?』
ネオユニヴァースはとても悲しそうだった。
心残りとはなんなのかと聞くと、ネオユニヴァースはしばらく立ち止まって黙った後どこか遠くを見て言った。
『マルコの故郷で、ヨーロッパで走って見たかったかな……』
『ヨーロッパ?』
『ここ日本以外でも競馬は行われてるんだ。マルコの故郷、イタリアでも。そしてイタリアが属するヨーロッパで行われてるレースに、特に世界一のレースと名高い『凱旋門賞』で走ってみたい』
凱旋門賞。
世界一のレース。
ぼくの胸にそのレースに出走してみたいというネオユニヴァースの言葉がスッと入ってきた。
『じゃあ……ぼくが走るよ!』
そして自然と、ぼくの口がそう言った。
ぼくは、自分がやり直した理由を悟った思いだった。
それくらい、ネオユニヴァースの代わりに『凱旋門賞』で走りたいと思ったから。
ネオユニヴァースはぼくの言葉を受けて、どこか意外そうな顔をして、そして微笑んだ。
『ありがとう』
放牧を終えた後、緋田がいくつかの書類を片付けた時にはもう日が沈んでいました。
「もうこんな時間か。施錠の確認したら帰ろう」
その言葉の通り、緋田は厩舎の窓や扉の鍵を閉めてから建物を出ました。
次に馬房の様子を見にいきました。馬たちに異常がなければ馬房の戸締りをしてそのまま帰るので荷物を一式持って向かいました。
馬房に入ると、静かに眠っているアッシュブライド号とグロリアスベル号が見えました。
大丈夫そうだと確認出来たので鍵だけ閉めようとすると、緋田の肘が壁にぶつかってそこそこ大きな音がなってしまいました。
その音に反応して、2頭が目覚めてしまいました。
「ごめんな。起こしちゃったね……」
申し訳なく思いながら小さい方のグロリアスベル号の首を撫でます。
姉とは違って甘え上手で、緋田の肩に顎をのせてリラックスした様子です。
続いてアッシュブライド号を同じように撫でると、こちらは嫌でも好きでもないけど撫でられるのには慣れていますと言わんばかりに平然としていました。
「じゃあ、おやすみ」
そうして馬房を出ようとしたときのことです。
緋田は誰かが呼ぶ声を聞きました。
厩舎のメンバーではありません。メンバーの誰よりも幼い少女の声でした。
『アケダサン』
声のする方を意識すると、より明瞭に聞こえました。
「アッシュブライド、か?」
『アケダサン、ぼくを凱旋門賞に出して』
驚くべきことに、アッシュブライドが緋田に話しかけているのです。
「……はは。初めて会ったとき以来だね、オカルトは」
緋田の脳内ではアッシュブライドに初めて会ったときの幻覚が思い出されていました。
2回目だからか、緋田は不思議と受け入れる気になりました。
「わかったよ。次走はこのまま宝塚記念で、そこで勝てたなら凱旋門も視野に入るから……。島原さんにどう言ったものか、馬が自分で希望したとはいえないしなぁ」
緋田がそう言うと、アッシュブライド号から聞こえる声は収まり、再び人間の言葉が聞こえることはありませんでした。
馬主の島原にどう説明すればいいのか悩みどころですが、実際はそのまま話さないとしても、島原の性格的に正直に話しても信じそうだと想い至るとなんだか笑えてきたのでした。
ネオユニヴァース号のいる椎戸厩舎はその日の調教で『ネオユニヴァース号が怪我をした』と発覚して大騒ぎでした。
前日にアッシュブライド号との併走を行い、突然アッシュブライド号が興奮して中止になった直後なので厩舎の全員が慎重になりながらの調教となりました。
そしてその最中、ネオユニヴァース号が
つまりは、人間の言葉が話せなくても怪我に気づいてもらうことは出来るということです。
『君が凱旋門賞に挑むなら、僕の完治の時期を考えて……再戦は有馬記念かな?』
日本に帰って来た時自分が引退してなかったらアッシュブライド号はどんな顔をするだろうかと、ネオユニヴァース号が少しのいたずらごころで笑いました。