25-1 天皇賞・春にむけて
天皇賞当日。
パドックのアッシュブライドは適度に緊張感を持っているいい雰囲気だった。
「どうか無事に走りきってくれ……」
バックヤードで見守る私の横にはネオユニヴァースのトレーナーがいて、“GATE”の入り口であるこのレースを迎えた不安で普段の落ち着きを失っていた。
しかし目を瞑って長く深呼吸をした後に弱気は見えなくなった。
いつもは見れない表情を意外に思いつつ何か気の利いた一言を言えないかと思案していたのだが、必要なかったようだ。
「……そろそろ席に行きましょうか」
「はい」
パドックのウマ娘たちが本バ場入場を始めたのに合わせてネオユニヴァースのトレーナーとともに観客席に向かった。
この天皇賞で勝利するという逃げウマ娘対策はどこまで通じるだろうか。
拭い切れない類の小さな不安を努力してきた事実で覆い隠す。多分、ネオユニヴァースのトレーナーも同じ心情だろう。
今日の京都レース場は曇り空。控えめな日差しと心地よい風は走るのに絶好のコンディションだ。
ぼくは魔法使いのローブを揺らしながらゲートインの順番を待っていた。
「ネオユニヴァース……」
口を衝いて出た一言にはいくつもの感情が共存していた。
このレースでネオユニヴァースが怪我をしてしまうかもしれないという心配、共に培った実力を発揮し競い合いたいという高揚あるいは闘争心、“GATE”に堂々と立ち向かう姿への憧憬、そして空気を読むことなんて知らないとばかりに湧き出る慕情。
流石のぼくも他のウマ娘たちの『全くこの娘は……』と呆れる視線を感じて羞恥心を感じないほど肝が据わってないので、逃避も兼ねて『彼女』に視線をやった。
やっほーなんておどけながら手を振ってくる緊張感のかけらも見られない彼女こそが、別宇宙におけるこのレースの勝者。『芝もダートも走れるけどどっちも中途半端な器用貧乏』という世間の評価を利用し尽くし悲願の勝利を得た逃げウマ娘だ。
「いいレースにしようね」
「わあ、2番人気の娘にそう言ってもらえるなんて嬉しいな」
いかにも自信ありませんという振る舞いは完璧で、ぼくの瞳がこの宇宙しか映さないものだったならひとかけらの違和感も感じなかっただろうと思えた。
ゲートインは順調に進み、ぼくの番がやってきた。直前まで話してた彼女とネオユニヴァースに手を振ってゲートに入った。
25-2 天皇賞・春
集中したウマ娘たちに全ウマ娘揃って綺麗なスタートを切りましたという決まり文句は聞こえない。
前もって立てた作戦通り、ぼくは序盤の位置取り争いから離脱して最後方に控えた。
『この作戦は3段階です。フェーズ1はスタミナ維持。当日までスタミナを鍛えても大逃げを追うのは簡単じゃありませんから、少しでも長く最高速でいるために追い込みの位置で楽に走りましょう』
いつもは目の前にいるネオユニヴァースが今日は遠い。バ群の隙間から見える金糸の髪が普段以上に綺麗に見えた。
先頭を行く『彼女』は少しずつ自然に後続に差をつけていっているのだろう。
ぼくの身長では見えないけれど、大逃げで距離を稼ぐため、別宇宙と同じように目立たないようにゆっくりと差をつけていくはずだ。
コーナーに入って曲がっている間だけは前の様子を伺える。
彼女と2番手の距離はまだ目立つほどではないけど、彼女が少しずつ加速していっている事は見てとれた。
ならフェーズ2に入るのは予定通り2つ目のコーナーを回った頃だ。
それまではとにかく力を抜いて走り、スタミナを維持する。
『1周目の3コーナー、先頭は後続に3バ身つけて気持ちよく逃げています』
足音や息遣いの隙間から観客席で響く実況を拾ったぼくはこれが作戦がハマる感覚かと思わず口角を上げた。
レースはネオユニヴァースとネオユニヴァースのトレーナーのアドバイスも受けながら立てた作戦通り順調に進んでいる。
『フェーズ2。彼女に気づかれないように、外側を避けて先団まで進みます。ネオユニヴァースに教わった
終盤の乱れ始めたバ群と比べて圧倒的に固まった中盤のバ群から四苦八苦しながら隙間を見つけてネズミのように抜けていく。
ネズミといえば灰色。ぼくの勝負服も何の因果か灰被りだ。
途中でネオユニヴァースを追い抜く時に微笑みかけられた。
端的に言って力が出た。追い抜きが捗った。
3番目のコーナーでついに彼女は本気の加速を見せた。
観客がざわめくのが聞こえてくるほどに圧倒的な差をつけてなお加速していく。
2番手との差はついに20馬身にもなった。
その2番手とは意外なことに上がってきたぼくなのだが。
後続との差を確認するために振り向いた彼女は『え?』と顔を困惑一色に染めた。
『フェーズ3! 彼女が十分な差がついたと足を緩める1周目の1・2コーナーまでに2番手にいるようにしましょう。そして全力のスパート開始です! 差し追い込み脚質のアッシュがそんな中盤で2番手にいるとなると、足を緩めて最終直線のためにスタミナを残す選択は取れません!』
いい作戦が出来たとテンション高めに語ったトレーナーを思い出すと、
「……ふふっ」
レース中だというのに失笑してしまった。
「アッシュブライド……!」
「あ、ごめん……」
その不敵な笑いが侮っていると取られてしまったのだろう。先頭の彼女は怒りを露わにしてより力を込めて加速していく。
ぼくもスタミナを信じて全力のスパートで追いかける。
チーム・アークトゥルスを結成してから、ネオユニヴァースとネオユニヴァースのトレーナーには作戦の立て方と
トレーナーにはそれを活かして作戦を立ててもらった。
ぼくはそれに応える。
ぼくが、勝つ!
20バ身もの差を少しずつ詰めていく。
スタミナの限界を競いながら向こう正面、3コーナー、直線、4コーナーを越えてスタンド前の最終直線に至った時には、ぼくも彼女もスタミナが切れていた。
減速しながらもまだ追い続け、そして、ぼくが先頭になった。
「……勝った!」
「DENY。勝つのは、ネオユニヴァースだよ」
意識の外から脳にそのまま入ってくる透き通った声がした。
『ネオユニヴァース先頭に躍り出た! もう誰も追いつけない! ネオユニヴァース、ネオユニヴァースそのままゴールイン! 春シニア三冠の二冠目を獲りました!』
知性のウマ娘は伊達ではないということか。自分のスタミナだと追い切れないとわかっていたから、ぼくたちが潰しあって最後に垂れるこの瞬間を待っていたのだ。
あまりにも見事な勝ち筋。そして、ぼくの脳裏には悔しさよりも鮮烈にぼくを追い抜いたネオユニヴァースの華麗な後ろ姿が焼き付いていた。
やっぱり、格好いいなぁ。
25-3 天皇賞・春の後に・特大の花束
国内G1最長の激走の末、アッシュブライドは別宇宙で勝利した逃げウマ娘に勝利することはできたが1着には後一歩及ばなかった。
そしてレース後、ウイニングライブまでの自由時間。
「ありがとうございます乗せてもらっちゃって」
「全然大丈夫ですよ」
私が運転する車に4人で乗り込み、ネオユニヴァースを病院まで送り届けた。
“GATE”の正体は怪我。別宇宙のネオユニヴァースは天皇賞で負った怪我に気づくことなくトレーニングに励み、悪化させ引退してしまうのだ。
だからこうして急いで精密検査を受けに来たのだが──
「いいんですか? ついていかなくて」
「……うん」
病院前でネオユニヴァースとトレーナーを降ろして、私は駐車場に向かっている。なぜかアッシュブライドと一緒に。
「てっきりついていくとばかり。私は1人で停めに行っても気にしませんよ?」
「……いや、今はその、むり」
「無理?」
助手席のアッシュブライドを見ると、頬を紅潮させ悩ましげな顔をしていた。
もう読めた。アッシュブライドは──
「走ってるネオユニヴァースが魅力的すぎて好きだって再確認したから恥ずかしいと。せめて私という庇護者がいないとネオユニヴァースを直視できないと。乙女か。乙女でしたね」
「全部言ったね!? そうだよ最近察しがよくなってきたねどうもありがとう!」
駐車場に車を停めて、ロビーで2人の帰りを待っていると私のスマホが鳴った。
ネオユニヴァースのトレーナーからだ。
「はい。──はい。わかりました」
「ど、どうだった?」
「安心してください。異常無しだそうです」
それを伝えた瞬間、アッシュブライドは心の底から安心したと言わんばかりのほっとした表情になった。
「……“GATE”突入ですね」
「本当に克服したのかは、別宇宙のネオユニヴァースが辿り着けなかった夏にならないとわからないってことだよね」
「精密検査でもわからないほど小さな怪我はそうそうないので、一安心なのは間違いありませんけどね。だから少し今後のことも考えておきたいですね」
「今後?」
何のことか本当にわからないという顔をしているアッシュブライドに、アッシュブライド個人の最終目標を思い出させる。
アッシュブライドの最終目標。それは──
「凱旋門賞。特大の花束を手に入れるためのトレーニングに切り替えていきましょう」
ネオユニヴァースにふさわしい花嫁になることだ。
凱旋門賞シナリオ楽しみだね!