「トレーナー、この日の休みを別の日に移せないかな」
「まあ大丈夫ですけど、どうかしましたか?」
ある日、アッシュブライドから休みの日の相談を受けた。
「好きな作家さんのサイン会があって」
「ああ、『さざ波に誘われて』20年記念のあれですね。ネットで見かけました。わかりました。むしろ私もついていっていいですか?」
「うん」
『さざ波に誘われて』。アッシュブライドの好きな児童文学作家の代表作でアニメ化もされている。
初版発行から20年を記念して、郊外のショッピングモールでサイン会が行われるらしい。
私も学生時代に読んだことがある作品なので、丁度いいとついて行ってもいいか聞くとアッシュブライドは快諾してくれた。
そして当日には私の運転する車でショッピングモールに向かった。
その道中。
助手席のアッシュブライドは件の『さざ波に誘われて』を読んでいる。
「確か、人間を海底に連れていき溺れさせる妖精の話でしたよね」
「うん。
「落ち着いてください」
記憶の底からあらすじを引っ張り出して話を振ってみると、アッシュブライドは興奮した様子で長々と語り出してしまった。
でもそのお陰で話の内容をかなり思い出せた。
「懐かしいですね。それに私が読んでた作品がアッシュの世代でも読まれてるの、不思議な感じです」
「来年ドラマ化するらしいよ」
「思ったより世代を越えて愛されてる!?」
そんな話をしているうちにショッピングモールに到着して、会場である屋内広場に向かった。
有名な作家なだけあって、会場には人ごみが出来ていて列整理のパネルを持っているスタッフの姿もある。
「こちら最後尾ッス」
「お疲れ様です」
一応、有名人なのでアッシュブライドは耳を隠す大きな帽子を被り、伊達メガネをした上でいつもは着ないような少年のような格好に着替えて尻尾も隠している。かっこいいのに可愛い。不思議。
「ねえあの子もしかして灰嫁ちゃんじゃない?」
「ほんとだ。よく見たら似てるかも……え本人じゃない?」
しばらく列に並んでいると、制服を着た女子高生2人がそんな話をしているのが聞こえてきた。
灰嫁。一部のファンの間で広まってきているらしいアッシュブライドのあだ名だ。始まりはジャパンカップでのどこかのテレビ局の実況らしいが詳しいことまでは知らない。
「……どうする?」
「手でも振ってあげたらどうですか? ファンサも大事ですし」
「わかった」
私の言葉通りアッシュブライドが手を振ると、その女子高生2人組は手を合わせて喜び歓声をあげて去っていった。
やっぱりアッシュブライドがファンに好かれているのを目の前にするのは気分がいいな。
と嬉しくなったのはいいものの、さらに時間が経つと不穏な雰囲気が漂ってきた。
先の女子高生がSNSで拡散したのだろうか。明らかに、サイン会の客ではなくアッシュブライドの見物客が増えてきたのだ。
「アッシュブライドちゃんですよね!」
なんて1人がアッシュブライドに声を掛けたのをきっかけに、彼らはサイン会の列を無視して雪崩れ込んできてしまった。
「ごめんなさい! サイン会の方のご迷惑になるようなことはお控えください!」
「みんな後でお話ししてあげるから今は待って!? 少し散って! ……ごめんトレーナー。これダメそうだし列から離れよう」
「ごめんなさい。私が下手なこと言わなきゃ……」
アッシュブライドはファンたちを率いて列から離れた。
このサイン会を楽しみにしていたというのに。
何とかファンを捌き切って、ウマッターなどの各種SNSでも店や企画に迷惑がかかっているので遠慮してほしい旨を発信した。
「早めにショッピングモールと出版社と作家先生に謝らないと……」
「ぼくもその時はついていくよ……」
人目を避けて、車の中で2人項垂れる。
現役の競走ウマ娘とはこんなにも有名人だったのかと、骨の髄まで実感した出来事だった。
「サイン……」
「それはほんとごめんなさい」
アッシュブライドも結局サインをもらうことは出来なかった。
今から戻っても、サイン会はとっくに終わっているだろう時間だ。
「いや、一縷の望みに賭けて戻りましょう」
「でもまた迷惑かけちゃうかも……」
その時、店内放送が聞こえてきた。
『お客様のお呼び出しを申し上げます。府中市よりお越しの──』
「トレーナー呼ばれちゃった」
「行ってきますね」
「……ぼくもついてくよ」
お叱りを受けるものと思ってサービスセンターに向かうと──
「あ、おーい! こんにちはー!」
意外なことに、そこにはサイン会の主役だった児童文学作家が待っていた。
「しっ、島ば……!?」
「アッシュブライドさんとトレーナーさんですよね! 今日はわざわざ俺のサイン会に来てくれてありがとうございますー!」
作家は隣のスタッフからトートバックを受け取ると、中から自分の作品である『さざ波に誘われて』の文庫本を取り出して表紙にサラサラとサインを書いてアッシュブライドに渡してくれた。
予想してなかった展開に私もアッシュブライドも呆然としてしまっている。
それを気にすることなく、作家は一方的に捲し立てる。
「いやね、いつもウマッター見させてもらってます。俺のお話読んでくれてるってネットで見てアッシュブライドさんのこと知って、菊花賞からレースも現地で見させてもらってます。俺の方もアッシュブライドさんのファンなんですよ。
「えっ、あっ、光栄です」
これからも応援してます! 今日は時間もないしこの辺で!
と言うと作家とスタッフはそのまま急いで帰っていってしまった。
「……何が起きたの?」
「ぼくもわかんない」
「めっちゃ時間無いみたいだったのに、わざわざ残ってくれてたってことですよね」
「すごいファンサ……」
嵐のような人物だった。
感動すると共にどっと疲れたような気がする。
帰り道、やっと実感が湧いてきたアッシュブライドはもらったサインを見ながら──
「サインもらえちゃった。すごい人だったね」
感動を吐露していた。
「アッシュのファンだって言ってましたね」
「嬉しい。宝塚記念絶対勝つから」
「先生あの子のファンだったんスね」
作家はタクシーに揺られながら担当編集に言いました。
「え、うん。言ってなかったけ。君も過去のレース見てみなよ絶対好きになる……っていうか多分、君も運命的な何かを感じると思うよ」
「運命ッスか。まあ、初めて会った感じはしなかったッスね」
「でしょ? 実は俺君が編集さんになった時も感じたんだよ?」
「『君編集じゃなくない? なんか違和感ある』って言ってくれやがったあれッスか」
『運命的な何か』。それはこの世界の彼らには知るよしもない縁です。
作家はアッシュブライドとの交流を経て、奮い立って次回作の執筆に取り掛かったのでした。
タクシーの中でノートパソコンを開いたのですぐに乗り物酔いをしたとか何とか。