ネオユニヴァースに恋した世界一の蹄跡   作:はやてだわきち

35 / 42
27(実馬編) 宝塚記念までに、

 どんなに元気いっぱいに見えても、どんなに才能があっても、人には限界というものがあります。

 それは体力的なものだったり、精神的なものだったり色々ですが、今回の場合は例に挙げた両方の限界が訪れてしまいました。

 

 事件が起きたのは、凱旋門賞に挑戦するぞと緋田厩舎が沸き立って少しした頃のことでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 早朝。けたたましく鳴る目覚まし時計を止めて、如月は布団から這い出るように起床しました。

 競馬関係者の朝は早いとはよく言われますが、如月の朝はそれよりも一時間ほど早いです。

 なぜなら、

 

「昨日の続き勉強しなきゃ……」

 

 新人ゆえに欠けている経験によるベテランとの差をを少しでも埋めるために、レース戦略や馬との関わり方を勉強する時間を確保したいからです。

 

 昨晩のままの机に向かって、開いてあるページの続きから読み進め、自分なりにノートにまとめます。

 

 以前島原に『生活リズム聞いてもいいですかー?』と取材された際には、受験が控えた高3生と形容されたこの生活とも早2年以上の付き合いです。

 少し辛くはありますが、まだ気を抜く訳にはいきません。

 

「凱旋門賞に向けていっぱい頑張らないといけないもんね……」

 

 如月が来た頃には暗い雰囲気だった緋田厩舎がアッシュブライド号の来訪によって少しずつ元の明るさを取り戻し、ここ最近は凱旋門賞を目指してさらに盛り上がっているのです。緋田厩舎の面々の期待に応えるには、勉強する手を緩めるわけにはいかないのです。

 

 

 

 ふと、集中が途切れて部屋の時計を見た時には既に4時を回っていました。

 

「えっ!? もうこんな時間!?」

 

 朝の調教前の掃除までもう幾許もありません。

 急いで身支度をしようと勢いよく立ち上がりました。

 

 

 

 その時です。如月の視界がうねるように歪み、立っていられなくなったのは。

 

「……うぁ、え?」

 

 慢性的な寝不足は確かに如月の体を蝕んでいました。

 そして先日からのしかかる凱旋門賞を目指す雰囲気(おおきなプレッシャー)がトドメになったのです。

 

 如月は受け身を取ることもできずに倒れ、そのまま意識を失ってしまったのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

27 宝塚記念までに、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 緋田厩舎においてムードメーカーとされる人物は2人います。

 

 女性メンバーの中では後山なつめという女性厩務員が、男性メンバーの中では馬主の島原伸二がそうです。

 馬主を厩舎のメンバーと数えるのは相当珍しいことですが、毎日厩舎に取材しに来るので随分と馴染んでしまいました。

 

 しかし厩舎の雰囲気がその2人だけによって支えられてるかというとそうではありません。

 自分以外の仕事も率先して手伝い、持ち前の人当たりの良さで皆に可愛がられる若手騎手の如月四葉の存在も外せません。皆が明るく仕事をするのに大きな役割を果たしています。

 

 

 

 だから、その皆の妹的存在がいつもの出勤時間を過ぎてもやってこないとなると全員が不安になってしまうのです。

 

「……四葉ちゃんが来ない」

「どうしたんだろうね。いつもは早く来て朝の掃除手伝ってくれるのに。真壁くん何か知ってる?」

「いや、特に聞いてないッス」

 

 厩務員たちが厩舎を掃除しながらそんな話をしています。

 

「栗畑さんだったら何か聞いてたりするんスかね。騎手同士ッスし」

「みんなソワソワしすぎじゃない? 如月くんも寝坊くらいするでしょ」

「そう言う緋田さんも……さっきから時計見過ぎです」

「そ、そうかな?」

 

 机に向かってキーボードを叩いている緋田も巻き込んで室内に変な空気が充満していきます。

 

 そこに現れたのは先に馬房に寄っていた栗畑騎手です。

 

「あれ……緋田ぁまだ四葉ちゃん来てない感じなん?」

「まだだよ」

「ええあの子いつもこの時間にはとっくに来てたよなぁ……?」

「よし! やっぱり私寮まで行って呼んできますね!」

 

 栗畑によってもう一度問われた『四葉ちゃんまだ来てないの?』という疑問についに限界を迎え、後山厩務員が厩舎を飛び出してしまいました。後山は特に如月を可愛がっているので人一倍心配なのです。

 

 寮はトレセン内にあります。

 如月が倒れているのを見つけて取り乱した後山が、厩舎に電話をかけてくるのにさほど時間はかかりませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 如月は救急車で運ばれました。

 救急車に同乗したのは緋田と栗畑です。他のメンバーは、いつものムードメーカーぶりからは想像もつかないほどひどく取り乱してしまった後山厩務員のためにも厩舎に残りました。

 

「骨折してますね。全治……2ヶ月ってところかな?」

「6月27日に大きなレースが控えているのですが、それには……」

「無理ですね。安静にしてください」

 

 医者には、宝塚記念での騎乗を諦めるように言われました。

 

 2人の男が背を丸めながら病室に向かうと如月は点滴を打っていました。

 救急車の中で意識を取り戻したのはいいものの、あまり体調は優れません。

 

「……緋田さん、お医者さんはなんて言ってました?」

 

 横になったまま尋ねたその問いに、緋田は何も言わず首を横に振りました。

 

「そっかぁ……」

「……ごめん、四葉くんに無理させすぎた」

 

 病室には重い雰囲気がありました。

 緋田と如月はそれ以上何かを言うことが出来る精神状態ではありません。

 

 だから栗畑が意を決して言いました。

 

「四葉ちゃんが乗れない以上、宝塚は俺が乗ることになると思う」

「栗畑、何もこのタイミングで仕事の話を……」

「宝塚記念でいい成績を残して海外遠征の切符をもらってくる。四葉ちゃんは海外でアッシュに乗れるようにしっかり怪我を治してくれるか?」

 

 四葉ちゃんがアッシュの鞍上にこだわりを持ってるのは知ってる、と栗畑は続けました。

 それでも、アッシュを海外で走らせるために一時俺にアッシュを預けてくれ、とも。

 

「私、宝塚記念が一番好きなんです。だからアッシュと一緒に走りたかった……。今年を逃したら乗れないだろうってわかってるから」

「……牝馬だからな」

「繁殖牝馬になるのを遅らせてでも長く走らせる馬ってそんなに多くないじゃないですか。賞金より子供を産ませた方がいいから。島原さんが繁殖入りを遅らせようとしても、きっと偉い人たちが圧力をかけると思うんですよ」

 

 菊花賞を勝った牝馬。今主流な血統から少し離れているのも、アッシュブライド号の繁殖牝馬としての価値を上げるでしょう。

 このままでは如月が来年の宝塚記念でアッシュブライドに騎乗できる可能性はそこまで高くありません。

 

「だから、いい成績ってだけじゃダメです。……勝ってください。菊花賞、宝塚記念、そして凱旋門賞で三冠。それくらいすれば、きっと来年も宝塚記念に出走できるから」

「……ああ。絶対に勝つよ」

 

 鞍上を譲りたくないという思いが、如月の言葉に棘を生やしました。

 しかし言ってしまった後に罪悪感に包まれました。そして栗畑が気負いすぎてるのを申し訳なく思いました。

 自分が常日頃からアッシュブライド号への独占欲を見せていたのがよくなかったのか。

 そもそも今日倒れてしまうような体調管理をしていたのが良くなかったのではないか、と考えがどんどん落ち込んでいきます。

 

 つまりはいい子が過ぎるのです。

 それがわかっているから、栗畑も歳下の物言いを何の文句もなしに受け止めたのでした。

 

 

 

 

 

「ごめんね四葉ちゃん! 騎手の仕事もあるのに厩務員(わたしたち)と変わらない仕事してて大変じゃない訳がなかったよね……」

 

 点滴を終えギプスと包帯でぐるぐる巻きになって寮に帰った如月を、ムードメーカーの厩務員、後山なつめが出迎えました。

 

「なつめ先輩、仕事は……?」

「緋田さんが今日は最低限にして終わろうって言ってくれて。そんなことより、ほんとにごめんね。みくちゃんともお話したんだ。四葉ちゃんとアッシュちゃんが活躍できるようにすることが私達厩務員の仕事なんだって。四葉ちゃんが頑張ってるのは知ってるし、すごく助かってる。でもそれで倒れちゃうなんてダメ。だから私達に出来ることがあったらなんでも言ってよ?」

「近い、近いですなつめ先輩」

 

 熱がこもる余り鼻と鼻が付きそうなくらい近づいていた後山から距離を取って、如月はその心遣いにお礼を言いました。

 

 その日から治るまで、如月は手の空いた厩務員に甲斐甲斐しく世話される生活を送りました。

 少し恥ずかしかったですが、好意からの行動なのでありがたく享受したのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヨツハチャンが怪我をしたと気づいた時にはとても怖くなった。

 でもヨツハチャン自身は元気だったし、ネオユニヴァースの怪我のようにもうレースができなくなるような怪我ではないとわかったので安心した。

 

 そして、宝塚記念ではいつもはベルに乗っている騎手の人間、多分名前はクリハタサン、が代わりに乗ることになったらしい。

 

 ちょっと、不安だ。

 ぼくは今までレースではヨツハチャンと走ってきたから、他の人間と走る感覚を知らない。

 レースの練習中、クリハタサンはぼくの走りやすい乗り方を試し試し探しているみたいだった。こんなペースで本当に宝塚記念に勝てるのかな。

 宝塚記念は、ネオユニヴァースの夢を、宝塚記念で走る夢を代わりに叶えるための大事なレースなのに……。

 

 

 

 

 

 そして、宝塚記念当日。

 馬運車から降りたぼくを厩舎の人間たちが出迎える。

 

 ……そこにヨツハチャンの姿はなかった。

 

「わ、どうしたのいきなり。移動中に何かあった?」

「めっちゃ興奮して……いや、これは不安な感じスね」

 

 人間たちが混乱している。

 ヨツハチャンはどこ行ったの!? もしかして以前のネオユニヴァースみたいに怪我が悪化しちゃったんじゃ……

 

「……もしかして、四葉ちゃんがいないからかな?」

 

 そう言ったのはクリハタサンだ。

 そう、それ! とぼくが反応したのに気づけたのか、クリハタサンはぼくの首を撫でて話し始めた。

 

「大丈夫、四葉ちゃんは怪我してるから今日は観客席にいるんだよ」

 

 クリハタサンが壁にかけてある、競馬場を上から見た不思議な絵*1を指さした。

 

「ここが今いる場所。こっちが本馬場、そしてここが四葉ちゃんがいる観客席。四葉ちゃんにかっこいいとこを見せてやろうな」

 

 クリハタサン……!

 なるほど、観客達と一緒にいるんだね。しかも前の方。

 

 うん! ヨツハチャンが早く怪我を治してぼくに乗りたくなるような走りを見せてあげよう!

 

「落ち着いた。やっぱり賢いッスね……」

 

 ぼくよりネオユニヴァースの方が賢いよ。えっと、マカベ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『先頭は変わらない! これは誰も差しきれないか──ゴールイン! 一着はアッシュブライドです!』

 

 勝てた。

 

 え、クリハタサンレース運びとても上手だね? 

 ヨツハチャンほどぼくに合わせて走りやすく体勢を変えてくれたりはしないけど、言うことを聞いて走っていたらいつもより楽に前に出れたよ?

 

 どっちの騎乗が好きかっていうとヨツハチャンだけど、クリハタサンはとにかく上手。

 なんでこの人、ぼくがやり直す前は無名だったの?

 

「栗畑、お前そんなにレース運び上手かったか?」

「元からだよ、って言いたいけどそんなことないなぁ。四葉ちゃん俺に騎乗教えてくれって言うけどあの子もかなりレベル上がってるじゃん。先輩ぶれるように俺もちょっと頑張ったんだよ」

「なんだよその理由」

「……なるほど、いつもは優しいけど親友相手にはきつい言葉も使う、と。これなんの取材?」

 

 競馬の取材ではないと思う。ぼくでもわかる。

 

 でもそっか。ヨツハチャンがぼくに会ってすごくやる気を出したから、触発されてクリハタサンも上手くなったってことなんだね。

 ちょっと嬉しいな。

*1
つまり地図

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。