27-1 宝塚記念
海外に向かうための前哨戦に定めた宝塚記念において、アッシュブライドは過去最高のスタートダッシュを見せた。
出遅れはほぼ皆無。初めは差しの位置というより前め先行の位置についた。
「……むしろいいスタートすぎるかも」
私は誰かに聞かせるでもなく、素の口調で嫌な予感を口にした。
今更言うまでもないが、アッシュブライドは差し追込の後方脚質だ。比較的向いていない先行策のトレーニングはさほど重ねていない。
前に出過ぎてしまえば慣れない追走でスタミナを消費しすぎてしまうのは必然。適切な位置取り調整を行う必要があるのだ。
このことには走っているアッシュブライドも気づいていたようだ。序盤の内に得意な距離に調整すべくはやる足を緩めたのがわかった。ゼンノロブロイをはじめ前方脚質のウマ娘たちがアッシュブライドを追い抜いていった。
そして、タップダンスシチー。彼女は大外枠だったのもあって、先頭でペースをコントロールする普段の走りが出来ないでいた。
しかし逃げウマ娘の先頭争いは日常茶飯事。先頭を取れないと見るや3番手に下がって先頭集団を形成する。
レースが大きく動いたのは3コーナーのタイミング。
客席から最も遠いそのコーナーに入り、私は双眼鏡でウマ娘たちの動向を観察していた。
そして、双眼鏡の狭い視界が悪さをした。
目を離した一瞬の内にタップダンスシチーが先頭に成り代わり、直前までの先頭に差をつけ始めていたのだ。
「見逃した……! アッシュは──」
双眼鏡を目に当てたまま首を
アッシュブライドは下がった先の後方から、その矮躯からは想像できない力強い加速でもって中団を抜け出そうとしていた。
ごぼう抜き、という言葉がこれほど似合う光景を、私は見たことがない。
「調子が良すぎるって思ったけど杞憂かな。これなら勝てる!」
レース場に響く歓喜の声は私のものだけではない。
アッシュブライドを応援するたくさんのファンが小さな背中に期待を託しているのだ。
アッシュブライドは更に加速していく。
4コーナーを越えてついに最終直線。先頭を維持するタップダンスシチーまでおよそ2馬身まで距離を詰めている。
「いける、追い越せるぞ!」
「頑張ってー!」
2馬身だった差は少しずつ確実に縮んでいく。
この速度ならタップダンスシチーを捉えられる、私はそう確信して肩の力を抜いた。
──しかし安心するには早かった。
タップダンスシチーが少しだけ、そうほんの少しだけさらに加速した。
しかしその効果は絶大。ゴールまで全力疾走するために逆算したアッシュブライドの走りを狂わせる、予想外の末脚だ。
アッシュブライドの口が動いたのが見えた。口の動きを読む練習はしていないが、『なんで』と言ったことがなんとなくわかった。
私も同じ思いだったから。
「なんで、トレーニングの様子から考えても最高速度はあれが限界で、さらに加速する余地なんてなかったはずなのに……」
ライバルが偵察に来ることを見越してあえてトレーニングでは全力を出していなかったのか、という疑問が過ったがそれは考えづらい。“ロマン”を追い求めるタップダンスシチーがそのような手を使うだろうか。世の中には真の力を隠すことにロマンを感じる人々も一定数いるが、彼女は正面から強敵を撃ち倒すタイプのロマンチストだろう。
逃げるタップダンスシチーと追うアッシュブライド。両者の差は確かに縮んでいく。速度ではアッシュブライドが勝っているのだから。
しかし届かない。
ほんの少しだけ届かない。
『──逃げきった! 逃げ切りましたタップダンスシチー! 接戦を制したのはタップダンスシチーです!』
熱のこもった実況が勝者の名前を高らかにうたった。
宝塚記念の1着、すなわち凱旋門賞への優先出走権を手にしたのはアッシュブライドではなく、タップダンスシチーだ。
27-2 宝塚記念の後に・花道を踏み外して
「……アッシュ」
「ごめん待って」
控え室でアッシュブライドは項垂れていた。
レース前と見た目はよく似ている。しかしレース前元気がなかったのは体調がすぐれなかったからで、今は──
待って、と言われたからには私はアッシュブライドが今後の話ができる程度に落ち着くまで待たなければいけない。
何も言わずにペットボトルをテーブルの上に置き、向かい側に座ってアッシュブライドの言葉を待った。
5分が経過してもなおアッシュブライドは口を開かない。テーブルの上の水分も摂っていない。
ショックのあまりこのまま永遠に動かないのではないか、そう思ってしまうほどの沈黙がさらに10分ほど続いてやっとアッシュブライドはため息以外の音声を発した。
「どうしよっか?」
「──っ!」
普段通りの調子だが、その言葉はどう考えても無理をしていた。
合理的すぎる。それともたった15分で切り替えたというのか──
──そんなはずはない。
“異界のぼく”よりも多くの
「やっぱりフォワ賞を経由して凱旋門賞に応募する? 今の勝利数ならステップレース使わなくても枠もらえるかな?」
「……私はフォワ賞を使うのがいいと思います」
「だよね。その方向でお願いしてもいい?」
「……はい」
アッシュブライドの口調は明るい。敗北を気にしてないかのように軽い。
でも気にしてないはずがない。
だって──
「悔しいなら、泣いてもいいんですよ」
涙で目が潤んでいる。今にも決壊して流れ出そうなほどに。
「っ何言ってるのさ。まだ最大の花束を獲るチャンスがなくなったわけじゃないんだよ」
「そんな顔で強がらないでください」
アッシュブライドはそれはひどい顔をしている。
だから私は両手を左右に開くポーズをしてその状態で止まった。つまりは、ハグ待ちのポーズだ。
「色々考えるのは後にしていいから、今は我慢しないでください。鬱々とした気持ちを少しでも晴らして次に進みましょう。貸しますよ胸、大きさには自信があります」
「あんまり大きくないじゃん……」
「体格の話です」
胸囲じゃなくて胸板の話である。無駄に大きくなった体はこのためにあったとばかりに私はアッシュブライドを抱きしめた。
「どんな気持ちですか?」
「……"異界"のぼくがハンデがあっても勝ったんだからぼくも勝つものだと調子乗ってた。ぼくの失敗こんなんばっかり。力を過信しすぎて当たり前の可能性を見落とす。ネオユニヴァースの瞳のモヤの時も手に入れたばかりの別宇宙を見る力に頼ったばかりにネオユニヴァースの精神面を見なかったし、今日は──!」
そこから先は嗚咽が混じってきてとても言葉になっていなかった。
私のシャツのお腹辺りが濡れる感触でアッシュブライドがどれだけ驚いて悔しく思っているのかがわかる。
今日の今日まで"異界"で勝ったレースは全て獲ってきたのだから、自分の勝利は約束されていると少しでも思ってしまう気持ちはわかる。逆に、皐月賞など"異界"で負けたレースで負けてもさほど詳しくはなかった。
つまり、ある意味ではアッシュブライドは今日始めて負ける悔しさを知ったのだ。
「好きなだけ泣いてください。大丈夫、私がアッシュを凱旋門賞で勝たせますから、今は気持ちを整えてください」
控室にアッシュブライドの泣き声だけが響く。いつもの様子からは想像できないくらい大きな泣き声が。
トレセン学園までアッシュブライドを送った私はそのまま別の場所に向かった。
URA。日本の競争ウマ娘に関わる様々な仕事をしている組織の本部、その建物の日に当たらない隅にある一室だ。
「失礼します」
目的の人物はパソコンに向かったまま私を出迎えた。
一見子供にしか見えない彼女の名前は──
「電話で話してた時間通りだな。初めまして、私が佐岳メイだ、アッシュブライドのトレーナー」
佐岳メイ。日本のウマ娘が"凱旋門賞"を獲るための研究を長く続けているURA職員だ。
「今日は貴重なご時間を割いていただき──」
「そういうのはいらないよ。早速本題に入ろうか。アッシュブライドが凱旋門賞に挑戦するというなら私の研究成果を貸そう。このパソコンからデータを送るからスマホを出してくれ」
佐岳さんは私のスマホをパソコンと有線接続すると、エクスプローラーを操作してデータを送信する操作をした。
パソコンの画面を見ると、そのデータ量は見たこともない大きさだった。
「こんなに!?」
「まだ途中なんだけどね。この研究が十分なところまで進んだらVRウマレーターも使った一大プロジェクトをやよいと一緒に立ち上げるつもりなんだ」
「……ありがとうございます。必ずアッシュと凱旋門賞を獲ってみせます」
「お礼なんていらないさ。アッシュブライドのデータも組み込んで、L'Arcを成功させてみせる。私にとっては資料が増えるようなものなんだ」
データの送信は相当な時間がかかる。
しかし、佐岳さんに凱旋門賞を獲るために日本のウマ娘が克服するべき課題の話を聞かせてもらっているとその時間はあっという間に過ぎていた。