28 長年の夢
宝塚記念前に疲労が祟って骨折してしまった如月四葉。宝塚記念は凱旋門賞のトライアルレース、決して逃すわけにはいかず当日は代わりに先輩の栗畑五郎が騎乗しました。
結果は快勝。無事に凱旋門賞の優先出走権を得ることができました。
「ちょっと複雑な気持ちかも。みったくない*1ですね私……」
緋田調教師の仕事部屋で、松葉杖をそばに立てかけて椅子に座っている如月が言いました。
「おうそうだな」
「もうちょっと言い方ありませんか」
「怪我人は休め言ったのにわざわざ来るのが悪いんだよ? できることないからってずっと俺と話すのおかしいでしょ」
「ちゃんと勉強してますよ! こないだネオユニヴァース号の騎手のマルコさんにアドバイスしてもらった時のノート見返したり」
確かに、如月の膝の上にはB5版の大学ノートが開いてありました。
イタリア語の文章が書いてある下の行に赤色で訳があります。
「クラークさんの生徒みたいなことやってるね」
「あー、英語での授業のペースが早すぎてついていけないから授業中はひたすら英語のまま内容をノートにメモして帰ってから訳して学習するってやつですか?」
「そうそう。クラークさんがお茶目なギャグを言っても誰もわからず、帰って訳してから笑うって話」
つまりはイタリア出身のマルコ騎手に欧州競馬についての話を聞いて、凱旋門賞で勝つための勉強をしているのです。
自分がいかにアッシュブライドの鞍上にこだわりを持っているかを熱く語る如月に緋田が辟易している、そんな珍しい光景が見れる今日の緋田厩舎。
しかしなんだか1人足りないようです。
「緋田さん、島原さん見なかったッスか? 朝見たっきり居なくて」
「呼びました?」
噂をすれば影とはまさにこの事。真壁が探して緋田の仕事部屋までやってきた尋ね人、島原伸二がひょっこり顔を出しました。
「えっ、何ずっと俺の後ろにいたんスか? こわ」
「いやいや違いますって! 向かい側からですよ、丁度真壁さんが入るとこ見えてー」
流石にストーキングなんてしていなかったようです。
そんな寸劇は置いておいて、島原が何故いなくなっていたのかというと、
「これ、見てくださいよー」
鞄から取り出してみせたA4封筒、その中の資料を手に入れるためです。
「なんですかこれ。なまら*2パンパンになってますけど」
「これを貰いに古田社長に会いに行ってたんですよー」
「へえ古田社長と……古田社長!? 社大のッスか!?」
兼子という名前を聞いて、その場の人間に衝撃が走りました。真壁の声に驚いて外にいた他の厩務員たちも集まってきます。
なにせそれは、ネオユニヴァース号の馬主でもある一大企業の社長の名前なのですから。
「えっ何を貰ってきたんですか、そもそもいつの間に会う約束を……」
そう聞くのは緋田です。まるで漫画のように自慢の赤眼鏡を傾かせ困惑しています。
それを気にすること無く島原は封筒の中身を緋田のデスクの上に並べていきました。
「ずっと世界を意識してきた社大レースホースの長年の経験、凱旋門賞の考察資料でーす!」
「そんな大層なものをどうやって貰ってきたんですか!?」
その質問を待っていたとばかりに島原は語りだしました。
それは宝塚記念をアッシュブライド号が勝った日のこと。馬たちの近くや観客席で競馬の空気を学びたいと言って普段は空席になっている自分の馬主席に島原伸二は座っていました。
普段はいない人物がいるので距離感を掴みあぐね、鞍上が違うにも関わらず悠々と一着で走り抜けたアッシュブライド号を讃える声は控えめです。そもそも島原がいることに気づいていない関係者もいました。
そんな中でも臆せず島原の前までやってきてお祝いの言葉を掛けた人物がいました。
今回の宝塚記念に2頭もの馬を出走させた社大レースホースの社長、古田徹です。
「お会いするのはアッシュブライド号の新馬戦の時以来ですね。宝塚記念のご勝利おめでとうございます、島原先生」
島原も同じように挨拶とお礼を返しました。
「いつもはここにいらっしゃいませんよね。今日は馬主席の取材ですか?」
「それもありますけどー、一番は別の理由です」
「理由って?」
そう尋ねられた島原はニヤリ、と悪戯小僧のように笑って言いました。児童文学作家という職業ゆえに鍛えられた気取った表現で、
「一番の理由、それは貴方です」
と薔薇の香りがしそうなセリフを。
流石の古田社長も困惑顔。『ど、どういうことですか?』と返す疑問の言葉も詰まってしまいました。
「アッシュなんですけど、実は凱旋門賞目指そうと思うんです。でも俺みたいな新人馬主はもちろん緋田さん達も海外に関するノウハウなんて無いので……手伝ってくれないかなー、なんて思ったんです」
「……凱旋門賞ですか。確かに
「それ、教えてくれませんか?」
もちろん、古田社長の答えはNOです。日本調教馬が凱旋門賞を獲ることは社大という会社の最大の目標の一つです。自社の競走馬で獲るための知識を簡単に教えてくれるはずもありません。
「まあそうなりますよね。でも今日の俺は交渉材料を用意して来たんです。……アッシュブライドの引退後の話です」
そう切り出された『交渉材料』。それは競馬初心者の島原にしては中々考えられたものでした。
「引退後は繁殖牝馬、アッシュくらい強いなら普通の流れですよね?」
「ええ」
「アッシュはかなり強い競走馬で子供にも期待できると思います。でも俺は子供たちまで面倒見れるほど小説売れてないので他の馬主さんたちに売ることになります。そこで……凱旋門賞対策に協力してくれたら社大さんにアッシュの子供たちをあげようと思います! アッシュは強いですよ。なのできっと子供たちも活躍してくれますよ?」
長々と仰々しく、自信満々に島原は言い切りました。
その提案を受けて古田社長は暫く黙っていましたが、堪えきれないとお腹を抱えて笑い出しました。
「ふ、ふふふ……」
「え、なんか変なこと言っちゃいました? 結構引退後のこと勉強して来たんだけど……」
「いや、ごめんなさい笑っちゃって。バカにしたわけではないんです。ちょっと勉強が足りなかったみたいですね、って言うと物語の悪役みたいですね」
古田社長の言う通り、島原のプレゼンの内容は勉強不足で、社大レースホースというベテラン馬主企業を動かすようなものではなかったのです。
勉強不足の点は主に2つ。
競走馬の強さではない血統的な魅力についてと、種付け料の仕組みについてです。
「競走馬の強さって、父親と母方の祖父のものを遺伝しやすい傾向があるんです」
「じゃあアッシュの強さは……そこまで遺伝するものではない?」
「牝系として確立してる血統もありますけど、アッシュブライド号の場合はそうではないですね」
そしてもう一つの見落とし。
「種付け料って馬主負担です」
「えっ……」
「結構な金額しますけど、出せますか?」
「アッシュの賞金と、次回作が『さざ波に誘われて』位売れてくれたらなんとか……」
という風に、島原の交渉は根本から破綻していたのでした。
渾身の交渉が失敗に終わり項垂れる島原。
遠巻きに見つめる人々もどうしたらいいのか分からなくなっている中、古田社長が言いました。
「いいですよ、資料を差し上げます」
「いいんですか!?」
「ええ。競合他社って訳でもありませんし、アッシュブライド号のためにここまでするくらい競馬を気に入ってくれたことがよくわかりましたから。アッシュブライド号とそれに続く強い子供達が日本の競馬をより盛り上げてくれることを願ってのちょっとしたプレゼントですよ」
「あっ、資料貰えるのはとてもとても嬉しいんですけど種付け料払えるほど俺……」
「次回作が『さざ波誘われて』位売れたら何とかなる、でしたよね? 頑張ってください」
この時の古田社長の笑顔は、〆切を大幅に破ってしまった時の担当編集より怖かったと後の島原は語る。
さらに古田社長が語ることには、
「アッシュブライド号には半妹がいましたよね。確か、グロリアスベル号。その子も重賞勝ちまですればアッシュブライド号の強さが1代限りのものではないと証明されますから、グロリアスベル号も頑張ってくださいね」
「俺の馬じゃないですけど、緋田さんたちに古田社長が応援してたって伝えますね」
と、アッシュブライド号の血統的な評価を上げる方法を教えてくれました。そもそも重賞を勝つことが難しいという問題はありましたが。
「こんなことがありまして、今日受け取りに行ったんです」
「ありがとうございますと言えばいいのか相談してほしかったと言えばいいのか……」
中々に濃い回想を終えた島原は自慢気に胸を張っていますが、よく見ると目の下に隈がありました。取材の後にいつもより遅くまで起きて執筆を進める時間を作っていたことが伺えます。
「いやでも、これ結構すごい資料じゃないッスか?」
「うん。この資料だけで調教がかなり変わってくるね」
島原の行動によって得られた資料に厩舎は興奮に包まれました。如月がその恵まれた体格を存分に活用して小さな方の女性厩務員を抱き上げてくるくる回るほどの歓喜の雰囲気です。
「そこ危ないよー」
「降ろ……して……」
「あっ、ごめんなさいみくちゃん先輩」
そんな一幕もあり、アッシュブライド号の調教はよりハードで効果的なものになっていったのでした。
そしてもう一頭。
『姉さん、私デビューの日が決まったんだって』
『え! やったね!』
『姉さんが海外から帰ってきてすぐだって。姉さんが世界で一番になって帰ってきたら、今度は私の番だね』
姉が凱旋門賞で勝つことを疑ってない妹は、帰ってきた姉にいい報告をしようと沸き立つのでした。