遠征編1 日本にて
「緋田さん娘さんがいたんですかー」
「競馬なんて恥ずかしいって反抗期に入っちゃったみたいなんですけどね」
「かっこいいのに、馬」
緋田調教師は島原と雑談しながらいくつかの書類を難しそうに眺めていました。手をつけなければいけないのは確かなのに、今までやったこともない種の仕事なので中々踏み込みにくく感じているのです。
どんな書類かと言いますと、アッシュブライド号の海外遠征のために取り寄せた書類です。
海外というのは人間も競走馬も思い立ったが吉日というわけにはいかないものです。
特に競走馬はいわゆる家畜伝染病予防法のために、輸出入検疫として検疫厩舎という場所で5日間の滞在を義務付けられています。緋田の机にはその申し込みの書類もありました。
「……やっぱり大変なんですねー、海外遠征って」
「まあ色々やることがありますから。でも島原先生が社大さんからもらってきてくれたノウハウのお陰で多少はやりやすくなりましたよ」
うし、と気合を入れて緋田はペンを持ちました。するとみるみるうちに書類に必要事項が書き込まれていきます。まさに仕事人といった仕事ぶり、島原はそんな緋田を興味深いと眺めていました。
「あ、そうそう。アッシュには帯同馬、っていうの付かないんです?」
帯同馬。
海外遠征先での並走トレーニング相手やストレス軽減のために一緒に連れて行く競走馬のことです。多くの場合同じ調教師の調教馬から選定されます。
しかし緋田厩舎の調教馬はアッシュブライド号とグロリアスベル号だけ。デビュー戦が決まって順調に調教に臨んでいるグロリアスベル号を海外に連れて行くわけにはいきません。4歳馬と2歳馬では仕上がりもまるで全く比べられないというのもあります。
ならばどうするのかというと、
「帯同馬はなしです」
帯同馬は連れていきません。
「えっなんで!? こないだ教えてくれたじゃないですか、『競走馬に長距離移動はストレスになりやすいからお友達を連れてってあげるのが帯同馬です』って。アッシュ、ネオユニヴァース号が関わらなきゃありえんくらい移動に弱いのに帯同馬なしで大丈夫なんですか? タップダンスシチー陣営に頭下げて一緒に行った方が……」
「帯同馬を連れて行かない方がマシなんですよ。うちの厩舎から選出できないこの場合」
緋田は語りました。
知り合いとも呼べないほぼ初対面の人と旅行するよりは一人旅の方がいいじゃん、と。
「少しレースで競り合った程度の知り合いのタップダンスシチーと一緒に海外行くとむしろストレスになる……ってことですかー」
「はい。幸い厩務員の後山くんのお陰で移動の疲労が取れやすい好物とかわかってきてるので帯同馬はなしで行きます」
「帯同ウマ娘はなしです」
「ぼく友達がいないわけじゃないんだけどなぁ」
「デビュー前でも引退もしてなくて、なおかつ海外遠征に興味のある子で探しましたけど、タップダンスシチーくらいしかいませんでした。彼女に頼みます?」
「流石に宝塚記念でバチバチにライバル宣言した相手は……」
「でしょう?」
トレーナー室、アッシュブライドはソファに腰掛けてゆったりとした姿勢で私の話を聞いていた。
今日のミーティングでアッシュブライドに話すのは今話した帯同ウマ娘の話だけではないので、テンポよく進めていこう。
ホワイトボードにキュッキュと音を立てながら私はある言葉を書き込んだ。
「……ラルク?」
「
「未完成なんだ」
「完成も近いそうですけど、今年挑戦するアッシュのために途中でも教えてもらいました」
ホワイトボードに書き込んだ『克服すべき課題』は八つだ。
上段に三つ。慣れない芝、未知のコース、言葉の壁。
下段に五つ。時差ボケ、海外の食事、長距離移動、アウェー感、極度の緊張。
「上段の三つに関しては日本でも克服できます。トレセン学園には高性能なVR機器がありますから洋芝で走る練習もフォルスストレートで有名なロンシャンレース場も擬似体験できます。これからのトレーニングにはVRが増えますし、トレーニング前後にはフランス語の勉強の時間をとります」
「中々大変になるね。特にフランス語は“異界”のぼくにはなかった問題だし」
「“異界”はバベルの塔か何かなんですか? ウマ娘がいないとは聞いてるので余程違う世界なんでしょうけど」
下段の四つに関してもパリに向かってからの生活次第だと解説した。
特にアッシュブライドは移動に弱いウマ娘ではあるが、
「大丈夫、私が全力で尽くします。お茶汲みからお着替えまで全部面倒を見ます。海外遠征のはじめはアッシュは体力を取り戻すことに専念してください」
「着替えまで見てもらう必要はないと思う……」
遠征編1 日本にて
「私がアッシュちゃんの面倒を見ます!」
いつもアッシュブライド号の面倒を見ている厩務員たちも、今回の海外遠征に全員がついてくるわけにはいきません。
遠征についてくるメンバーと日本でグロリアスベル号の面倒を見るメンバーを緋田が発表してすぐに、如月四葉は一人の女性厩務員に宣言しました。
その女性厩務員の名前は後山みく。緋田厩舎の自他ともに認めるムードメーカー的存在です。自分の仕事以外にも馬をよく観察していて、厩務員の中で最もアッシュブライドの好物や性格に詳しい人物でもあります。
そんな後山ですが、今回の遠征についてくるメンバーからは外されてしまいました。まだ小学校低学年の息子がいるので、何月も家を空けるわけには行かないのです。
「うん、四葉ちゃんになら任せられる。アッシュちゃんマル秘ノートを貸してあげるね!」
「みく先輩……」
「まだ話終わってないぞそこー」
手を取り合って感極まった様子の二人に緋田が茶々を入れます。実際厩舎のミーティングはまだ途中なのでした。
「えーっと、今発表したように遠征に行くのは俺と如月くん、厩務員からは真壁くんとあと数人。後は日本に残ってグロリアスベル号のデビューに備えてもらう」
「俺もついていきますよー」
「島原先生は俺たちとは違う飛行機だけど向こうで合流する。出版社の方の用事で一日遅れるそうだ」
「本当は初日からご一緒したいんですけどねー」
ミーティングは何かあるごとにざわついてがやがとびながら進んでいきました。
3年ほど前、アッシュブライド号がやってくる前の暗い雰囲気の緋田厩舎では決して見ることができなかった光景です。