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5月のある日に、タキオンさんからLANEでメッセージが着た。ちょうど、私のお店が定休日になっている日でした。
私は悩みました。まず、行くべきか行くまいか。これはすぐに結論が出た。行かなかったらまず、トレーナーさんに行って、ポッケさんに振ってきて、それがだめならばスカーレットさんにメッセージがいくでしょう。なので、行った方が巻き込まれかねない方たちにとって適切だと思った次第です。
次に何で行こうという話です。私は読んでいた途中の本を机の上に置いて、窓の方を見ました。青葉が昼過ぎの陽の光に照らされて、激しく萌えていました。ささやかに風が吹いて、青葉を昼寝をしている赤ちゃんの上にあるモビールのように揺らしていました。その光景を見た時に、私は自転車で行こうと言う決断に至りました。私は、LANEで〈いまからそちらにむかいます〉とだけ返してから机に置いた本を本棚に戻しました。『オリエント急行殺人事件』。本当であれば今日読み終わるはずでしたが、仕方ありません。私は既読だけついたスマホをポケットにしまい、家を出ました。(既読というのは彼女にとっての了解の意志に近かった)
倉庫から自転車を取り出して、タイヤに空気を入れてから、私は静かな住宅街へと漕ぎ出していきました。私の家と職場であるカフェバーのある場所から、タキオンさんの家までは自転車で20分ほど。今日のような風の気持ちいい、晴れた日にはよく自転車をこぐことが、休日の日課になりつつありました。
五月の風が私の髪をさらって、広げていく。風が心地よく、私を通り過ぎていき、尻尾がたなびく。尻尾固定器具に収まっているけれど、黒い尻尾はそうなることを期待していたかのようにたなびく。もう、学園にいたころのように、私自身が風になることはないけれど、どこかでスピードに乗らないといけないという原始的な衝動が、ペダルに乗っている足を動かしている。青葉の影はそのギザギザとした葉とは逆に、やわらかな影を作っていました。
風に導かれるようにして、私はいつの間にか、件のマンションについていました。ブラウンの外装のマンション。前に来た記憶では13階まであったはずです。タキオンさんがこのマンションに住んでいるという発想はどうしても考えずらいものがありました。手を額にかざして、そのマンションの上の方を見て、太陽の眩しさと夏の気配を帯びていく空を観測してから、私はマンションの中に入りました。
「久しぶりだねぇ。さぁ、上がってもらって構わないよ」
玄関の扉を開けて、タキオンさんは青葉のように元気な声を発した。インターフォンを押したときは〈ああ、カフェ〉というそっけない返事だったのに、今、私の目の前にいる栗毛のウマ娘はやけに明るい。相変わらず、通販で考えもしないで買ったと思しき、シャツとパンツを着ている。(それがウマ娘用か、人用かなんて彼女には関係なかったし、ジャングルポケットやダイワスカーレットにウマ娘用の服の通販サイトを教えてもらっても、そもそもそのアプリは入れたままだった)そんなに会えたことがうれしかったのだろうかと思いつつも、部屋の背後とタキオンさんから臭う薬品の香りが私の意識の方向性を定めた。
「お風呂……入りました?」
「ああ、一応さっきシャワーを流したばかりだが……臭うかい?」
「いえ、少し」
「うーん、消臭材の研究をしても面白そうだ。今の研究が終わったら進めてみようか。その研究がいつ終わるかは未定だが……すまないねぇ、カフェ。待たせてしまって」
「いいえ、慣れているので」
「そうかい」
部屋に入ると、薬品の臭いが私たちをまといました。ここまではあの旧理科室の時も、初めてここに来た時も変わりませんでした。けど、その香りの中に、確かに嗅ぎ慣れた香ばしい匂いがあった。
「……コーヒーを淹れましたか?あなたはコーヒーをけなしていましたよね?」
「ああ、それかい。それは後でのお楽しみさ」
「……そうですか」
私たちは匂いの混淆とした仄暗い廊下(おそらく、カーテンを閉め切っているためだろう)を歩き、リビングにたどり着いた。
「さぁ、すわりなよ」
そう言われて、私はダイニングテーブルにある椅子に腰かけた。四つある椅子。家族団らんを想起させるダイニングテーブルはタキオンさんの(たとえそれが空想上であっても)生活とはかけ離れていた。中央に置かれた造花とガラスの瓶はほこりをかぶっており、それは私のタキオンさんへの空想を加速させた。
「少し待っていてくれ」
そう言って、タキオンさんはキッチンの方へと消えていった。そこから、ポットでインスタントコーヒーを作り始めた。ああ、あの匂いはそういうことだったの。
「カフェ、電気を消してくれないかね」
「……わかりました」
消灯をすると昼なのにも関わらず、部屋は随分と暗くなりました。そう、あの旧理科室を思い起こさせるような闇。
「さぁ、できたよ」
タキオンさんがそう言って私の前にコーヒーの入ったカップを置いた。カップの上には角砂糖の乗った深めのスプーンが横たわっている。
「……カフェ・ロワイヤルですか」
「おお、よくわかったねぇ」
「私のためにですか?」
「ブランデーを貰ってね。あまりアルコールを入れたくはないんだ。せっかくだから、ね」
その言葉は嘘だろうと思った。紅茶の香りが分からなくなるぐらい角砂糖を入れる人が、わざわざブランデーを使うためだけにカフェ・ロワイヤルを作るとは思えなかった。
タキオンさんはマッチをすって、炎をスプーンに近づけた。蒼い炎が角砂糖をゆっくりと包み、溶かしていった。蒼い炎は私の、旧理科室のスペースを思い起こした。暗い部屋に灯る光がどこか儀式的なものを思い起こさせた。
しぼんでいく炎を眺めてから、コーヒーにスプーンを落とした。かき混ぜてから、私はカップを口に運びました。コーヒーの苦味と香り、ブランデーと焦げた砂糖の甘さと生き生きとした香りが混ざり合う。いい香りのコーヒー。いいものを使ったのでしょうか。私のために?まさか?
「味はどうかい?」
「……美味しいです。コーヒー、なにを使ってますか?」
「うーん。スーパーでいちばん高いものを買ったから銘柄はわからないねぇ」
「そうですか……」
1口、1口とカフェ・ロワイヤルを口に運ぶ。私のお店のほうにはもっといい素材があるけれど、この不器用な味のカクテルはカップを口に運ぶ手を止めなかった。
「最近、「死人に口なし」と言う言葉は嘘のように思えてきてね」
「……どうしたんですか?唐突に」
「いやぁ、文学部の修士課程のある男とたまたま話す機会があったんだがねぇ。その男は石器の研究に凝ってるんだ。色々と石器を見せてもらったよ。その時に1つの石器を持たせてもらってねぇ」
「……その石器がどうしたんですか?」
「ああ。黒曜石の本当に小さいものだったんだ。けど、それは副葬品として見つかり、動物の皮を剥いだ使用痕があるそうだ」
血の匂いがした。別にそこに動物の遺体がある訳でも、血のついたナイフがある訳でもない。霊的ななにかが、嗅覚を通じて記憶に呼びかけるような感覚が近かった。
「不思議だと思ったよ。ただの石器なのに、科学的調査をすることで、3000年前から私たちに言葉を発していると錯覚するんだ。使用痕から形式に至るまでね。実に興味深いことだった」
「……科学が死人に口を持たせると言うことですか」
「まぁ、そうかもしれないねぇ。完全には不可能だが、ある程度は可能だ。そうそう、最近“おともだち”はどうかね?」
「……最近は忙しいみたいです。けど、来てくれるトレセン学園の生徒におともだちがいることが多くなってます」
「……ふぅん」
素っ気ない返事をして、タキオンさんは窓の方へ歩いた。想定の範囲内だったのでしょうか。
「そういえば、今日はここに何できたのかね?」
「……自転車です」
「じゃあ、今日は乗って帰れないねぇ」
「……歩いて帰れます」
「そう厳しいことを言わないでくれよ。せっかく来てくれたのだし」
「誘ってきたのはあなたですよね」
「いいじゃないか。もう1杯欲しいかい?」
「ええ」
タキオンさんはカーテンを開けました。外から白い光が差し込み、机の上を照らしました。そこで気づいたのです。そのカップが、タキオンさんがお気に入りにしているものの1つであることを。