変化球勝負からの不意打ちストレート
二宮尊徳という偉人を知っているだろうか。
江戸時代後期の人物で、一般的には二宮金次郎と呼んだ方が通りがいいだろう。
薪を背負いながら本を読む姿が特徴的な銅像のモデルだ。
何が言いたいのかというと、今の俺の姿はそれに通ずるところがある、ということだ。
歩きながらの勉強は行儀が悪いなんて意見もあるだろうが、そんなものは知らん。
今はとにかく一分一秒でも惜しい状況なのだ。
勉強にやりすぎるなんてことはないのだから。
『全国で十位以内! これでどうですか!』
あいつらの父親の前で啖呵を切った以上、やり遂げる以外に道はない。
しかし残された時間は多くない。
だからやれるだけのことはやっておきたいのだ。
俺が自分自身の意地を通すためにも。
「そうだ、これはあいつらのためなんかじゃ――」
頭に浮かんだ五つ子の顔を振り払って意識を問題集に移す。
雑念は集中力をかき乱す。
せめて自分の勉強の時間だけはあいつらのことを考えないようにしておきたい。
ただでさえそこに起因する悩みのタネが多いのだから。
「フータロー君、おっはー」
「おわっ」
「前見てないと危ないよ」
「……いきなり話しかけてくるなよ」
早速悩みのタネその一がやってきた。
呑気にストローでカフェラテだかカフェオレだかを啜ってやがる。
ちなみに悩みのタネはその五まである。
不思議なことに中野姉妹の数とぴったりである。
「もー、あれでいきなりだったらどう声かければいいのさ」
「そっとしておこうぜ」
「他人行儀だなぁ、このこの」
「うっ」
脇腹を肘でつつかれる。
なんてことのないじゃれつきだ。
しかし問題はそこじゃなく――
(ち、近い)
そう、物理的に距離が近いのだ。
シャンプーのものと思しき匂いが鼻をくすぐり、シャツの胸元から僅かにのぞく谷間――から全力で目をそらす。
「い、一花、また一人なのかよ。見慣れない眼鏡なんてつけやがって」
「これ? どう、少しは知的に見えるかな」
「馬子にも衣装という言葉があるな」
「わー、褒められてる気がしない」
白状してしまえば、最近俺は性欲を持て余していた。
以前ならこんなことはなかったはずだ。
皆無とまではいかないが、無視できる程度のものだったのだ。
それが今では、迂闊にあいつらに近づけない程にその手の衝動が増している。
もちろん我を失うなんて事態にはならないだろうが、万が一にも体のある一部分の変化を悟られる、なんて無様は晒せない。
そのためには変に意識しないこと、そして適切な距離を保つことが必要不可欠だ。
原因についてはわからないが、こうなった時期は大体わかる。
『あんたを好きって言ったのよ』
そう、二乃のあの告白の後からだ。
そして温泉でのあれこれの後、なにかと理由をつけて料理をふるまってくれている。
それについては大分助かってるし、感謝もしている。
だがしかし、二乃にはとある前科がある。
(まさかとは思うが、なにか盛ってたりしてないだろうな)
睡眠薬といえば二乃、薬物混入といえば二乃だ。
疑いたくはないが警戒はしておくべきだろうか。
「ねぇ、聞いてる?」
「ん、なんだ?」
「寝ぼけ気味だね。じゃあこれ、差し入れに眠気覚まし」
「ああ、悪い」
なぜか一花は自分が飲んでいる方とは別に、もう一つ飲み物を持っていた。
少々頭が疲れていたためか、大して考えることもなく受け取った紙製のコップを口に運ぶ。
「ぶほっ! 熱っ、苦っ!」
「あー、ホットなのに一気に飲むから。大丈夫?」
「これ、コーヒーだったのか」
「ごめん、苦手だった?」
「たしかに苦いのは得意じゃないが、いい感じに目が覚めた。サンキューな」
「どういたしまして。次はもうちょっと甘いのにするね」
次はということは、またなにか差し入れを持ってくるということだろうか。
ここ最近登校中に出くわす機会の多い一花だが、差し入れをもらったのは今日が初めてだ。
もしかしたら昨日の一件について他の姉妹から聞いたのかもしれない。
「模試の件、聞いたのか?」
「え、あ、そ、そうだよ! フータロー君頑張ってるんじゃないかなーって」
「ったく、まずは自分の心配だろうに……言っておくがお前らも試験までは勉強漬けだぞ」
「わ、私たちもかぁ……」
「とはいえ、お前は学年末試験で仕事と勉強を両立して見せた。正直心配はいらないと思っている」
「……」
俺はこいつの努力を知っている。
撮影の合間、眠気と戦いながら勉強していた姿を見ている。
そうして勝ち得た成果は評価されるべきだ。
勉強も、女優業のことも。
「朝のニュース、見たぜ。あの時の映画のやつ」
「お、覚えてたんだ」
「もうすっかり立派な嘘つきだ。……オーディション、受けて良かったな」
花火の日のことを思い出す。
あの時逃げ出そうとしていた女優の卵は殻を破り、いつの間にか立派に育っていた。
「~~っ、フータロー君っ!」
「おわっ!」
体の正面に衝撃が走ったかと思うと、同時に柔らかい感触。
一花が腹のあたりにタックルをかますかのように抱きついていた。
率直に言ってヤバい。
「むふふ、ニュース見てくれたんだ? フータロー君の家、テレビないのに」
「た、たまたま途中で見かけただけだ!」
「そうだねー、切り抜き動画もアップロードされてそうだしねー」
「あーもう、くそっ」
ニヤニヤしながら胸をつついてくる一花を引きはがす。
これ以上は下半身に血が集中する恐れがあった。
とにかく、ここは一旦距離を置きたい。
「おい大女優様! その眼鏡、自意識過剰だからな!」
十分距離を取って、振り向きざまに言い放つ。
熱くなった顔もこれならよく見えないだろう。
そして一花に背を向けて早歩き。
すぐに追いかけてくるだろうが、少しでも体にこもった熱を逃がす時間が欲しい。
まったく、すっかり勉強どころではなくなってしまった。
「……どうしよう、学校着くまでにおさまるかな、このドキドキ」
その後、結局一花は遅刻ギリギリに登校してきて、朝のニュースを見たクラスメイトにもみくちゃにされていた。
放課後、勉強会のために一足先に図書室へ向かう。
自分の勉強は大事だが、あいつらの成績維持も重要だ。
両立すると大口を叩いた以上、ここで手を抜くわけにはいかない。
「上杉君、今日もよろしくお願いします」
「五月か。早いな」
「ええ、あなたがあそこまで言った以上、私も手を抜くわけにはいきませんから」
五月はやる気の表れか、拳を握って両手でガッツポーズしてみせた。
それは大いに結構なのだが問題が一つ。
両手を寄せているせいで、胸が……むぎゅっと強調されてしまっているのだ。
意識しないよう、全力で明後日の方向に目を向ける。
他の姉妹よりも潔癖のきらいがあるこいつには、なおさら悟られるわけにはいかない。
「どうしたのですか?」
「いや、すっかり桜は散ったな。もう葉桜か」
「何か悪いものでも食べたのですか? 落ちてるものを食べるのは衛生的によくありませんよ」
「……似合わないことを言ってる自覚はあるが、さすがに拾い食いはしない」
こいつは人をなんだと思ってやがるんだ。
むしろ拾い食いが心配なのはそっちの方だというのに。
「あまり無理はしないでください。あなたは私たちのパートナーなんですから」
「お、おう……」
そっと手を握られる。
一花とはまた違うシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
わかっている、これに労わり以上の意味合いはない。
だが内なる思春期が絶賛活性化中の俺には少々刺激が強い。
時々距離感がおかしくなるのはこいつの困ったところの一つだ。
手を引き抜いて距離を取る。
まだ顔の熱は表に出ていないはずだ。
「ほ、他のやつらは?」
「二乃はもうすぐ来ますね。一花はあの調子ですし、三玖と四葉は一花待ちです」
「しょうがないな、ちょっと様子見に行ってくるから準備しててくれ」
「あの、上杉君っ」
「なんだ?」
「えっと、なにか悩み事はありませんか?」
「お前らの成績が一番の悩みのタネだ」
「うぅ~~」
何か言いたそうに唸る五月を背に来た道を引き返す。
嘘は言っていないが、洗いざらい話したわけでもない。
こればっかりは胸の内に秘めておくしかないだろう。
あいつらのパートナーであり続けるためにも。
「……やっぱり、最近の上杉君は様子がおかしいです」
「ねーねー、どこかいこうよー」
「じゃあこの前言ってたカフェ行こうか」
「やった!」
やけに距離の近い男女とすれ違う。
恋人、カップル、デートの約束、そんなところだろう。
以前だったら目に留めなかった存在だ。
「……学生の本分は勉強だ」
「その通りさ」
独り言に応えるやつがいた。
この無駄に爽やかな声は覚えがある。
「何の用だ、武田」
「敵情視察、というやつかな」
「はっ、随分と余裕があるもんだ」
「当然さ。いまだ重荷を下ろさない君と僕では勝負は明白だから、ね」
「お前と同じレベルで俺を語るな」
結局のところ、テストというのは自分との戦いだ。
妥協せずにどこまで突き詰められるか。
それがそのまま点数に反映される。
つまり、他人を気にしている暇があったら勉強をしろ、ということだ。
……まさに今の俺の状況に刺さる。
「武田、お前はなんでそこまで俺に執着する」
「君が僕の上にいたから、かな」
「ならもういいだろ。学年末試験で晴れてお前が一位を取った、違うか?」
「中野先生との話もある。僕の父、理事長からも期待されてるしね」
「しがらみってのは面倒だな」
「僕から見たら、しがらみにとらわれているのは君の方だよ」
まったくもってその通りで返す言葉もない。
だが、そのしがらみがあったからこそ俺はここにいるのだろう。
今の俺の始まり、京都で出会ったあの子との約束。
「しがらみ? 重荷? むしろ俺らとお前の6対1だ」
「やり遂げられる、君はそう言うんだね」
「もちろんだ」
俺には愛想がないし運動も苦手だ。
人の心の機微にも疎いし、ノーデリカシーなんて何回言われたかもわからない。
だけど、勉強には自信がある。
テストで満点なんて日常茶飯事だし学年トップもザラだし、壊滅的な成績の同級生五人を教えられる程度には頭がいい。
「俺に勝ちたかったら満点を取る以外ないぞ」
「酷い傲慢だ。けどそれでこそ君らしいのかも、ね」
「知った風な口ききやがって」
「知ってるさ。なんせ二年もずっと見上げてきたんだからね」
そう言って武田はウィンクして見せた。
本当にキザな野郎だ。
そこらの女子から黄色い声が上がる。
いつの間にやら注目されていたようだ。
「上杉君、せいぜい僕を失望させないでくれたまえよ!」
随分と上からな言葉を残して武田は去って行った。
俺もギャラリーをかき分けて教室へ向かう。
気分は悪くなかった。
武田に捕まったせいで時間を取られたが、ようやく教室だ。
ドアの横の壁にもたれかかっているのは三玖――じゃないな。
髪は背中にかかるほどのロングで、五月のように癖もついていない。
おまけに首にはヘッドホンをかけている。
しかしあれは三玖じゃない。
なぜなら、黒いストッキングを履いていないからだ。
ここ最近、五つ子たちの顔を間近で直視できなくなった俺ではあるが、それによって新たな気づきを得ていた。
物理的な距離を取るようになって全体像を把握し、顔から視線をそらすために下か上へ目を向ける。
そして、あいつらの足の違いが目に付いた。
正確に言うと身につけているものの違いだが、三玖が黒いストッキングを好んで使用していることは把握している。
そしてこいつのは……足首が出るほど短いソックスだ。
二乃はもっと長いのを履いていた気がするし、図書室で待っている五月はそもそも選択肢から除外。
となると一花か四葉だが……
「よう、三玖の格好してなにやってんだ」
「あ……わ、わかるんだ」
「なめんな。フフフ……実はこの前、温泉で三玖の変装を見破ったばかりだからな!」
消去法の末の二択だったが見破ったことには変わりない。
最後は直感頼みだったため、なにが決め手となったのかはサッパリだが。
爺さんや四葉、五月によれば愛が重要とのことだ。
まったく、愛とかいう重たそうな言葉をポンポンと。
「……ねぇ、じゃあ私がだれか当ててみてよ」
「はぁ?」
「それともフータローには無理なのかな?」
「あ?」
カチンときた。
抑揚が少なくドライな、それでいてこちらを小馬鹿にしたような声音。
……いいだろう、やってやろうじゃねーか。
向き合い、顔を正面から見据える。
「……」
「……」
が、即効で目をそらす。
今の俺にこいつらとのにらめっこは厳しい。
相対すれば青い衝動が首をもたげてくるし、なによりも唇に目が行く。
いやでもあの日の――鐘の下でのキスを思い出してしまう。
結局あれがだれなのかはわからずじまいだが、顔が同じなためだれを見ても意識してしまうのだ。
「――っ、いい加減にして行くぞ」
「……やっぱりわからないよね」
落胆が混じった声。
まったく、俺に何を期待しているんだかな。
「そういえば、三玖と四葉は先に行ったのか、一花」
「うん、待たせちゃっても悪いしね」
「じゃあ俺と入れ違いか」
「あはは、あんまり引き留められるもんだから三玖にへんそ――って、ええぇ!?」
「いきなり大声あげんなよ」
「な、なんで私ってわかったの?」
「知るか。いいから行くぞ」
「あっ」
ウィッグをはぎ取って答え合わせ終了。
そのまま頭にまたかぶせて、今度こそ図書室へ向かう。
知るかとは言ったが、決め手はシャンプーの匂いだ。
こいつには朝に単独で会っているからなおさら印象に残っていた。
……匂いで判別とか、なんだか変態じみたことをしているような気がしてきた。
「……ねぇ、フータロー君」
「ん、なん――のわっ」
振り向こうとして背中に衝撃。
一花が覆いかぶさるように飛びついてきた。
耳元が吐息でくすぐられ、背中の柔らかい感触に嫌でも神経が集中する。
ま、まずい、早く振りほどかなければ。
「私、君のこと好きだよ」
「……へ?」
「もちろん、恋愛的な意味で」
囁くような告白に、俺の頭は完全にフリーズした。
もちろん、その日の勉強会に全く身が入らなかったのは言うまでもない。
「上杉さん、今日はどうしちゃったんだろうね」
「うん、フータローまったく集中できてなかった」
「一花たちを呼びに行く前は普通……まぁ、少なくともあんな状態ではなかったのですが」
「そういえば一緒に来たわよね。一花、あんた何か知ってるんじゃない?」
「さ、さぁ? 武田君と話してたっていうのは耳にしたけど」
古いアパートの一室、中野五姉妹の住居にて勉強中の五人。
ふとした合間に話題に上がるのは彼女らの家庭教師のことだった。
「武田って、パパが連れてきたあの?」
「もしかしてまた上杉さんになにか言ったのかな?」
「……許せない」
「どうでしょうか。今更あの上杉君が外野の言葉で揺らぐとも思えませんし」
「う~ん」
他の姉妹が風太郎の心配をする中、ほぼ内情を把握している、というより明確に自分のせいだと理解している一花は唸りながらも思案する。
(やっぱりタイミングまずかったかなぁ?)
勉強会に向かう際、一花は風太郎に想いを告げた。
前々から恋愛感情はあった。
しかし直球勝負においてはもの凄い剛速球を放つ二乃がいる。
同じフィールドでの勝負は不利と考え、一花は毎朝一緒に登校したり飲み物を奢ってみたりと変化球勝負に出たのだ。
一気に仕留めに行くのではなく、じわじわとポイントを稼ぐ――もちろん、勝機が見えたらそれを逃すつもりはないが。
とにかく、ボクシングで言うのなら判定勝ちを狙う戦い方だ。
だから一花にとってもあの告白はまったくのイレギュラー。
募り高まる想いを抑えきれず、それが溢れ出てしまったのだ。
以前二乃のことを暴走機関車と例えたが、これでは自分も大差ない。
反省するとともに、風太郎のことを考える。
全国模試で十位以内。
学力的に明確に低い位置にいる一花には及びもつかない世界だ。
自分たちの家庭教師を続けた上で、それをやってのけると宣言したのだという。
風太郎の学力に関しては最早疑問をはさむ余地はない。
しかしそれでも今まで以上の負担になることは明白だった。
(……私たちも頑張らなくちゃね)
じわじわとにじり寄る睡魔をはねのけ、シャーペンを握ってノートと向き合う。
幸い今夜は撮影もなく、勉強に割ける時間は十分にある。
風太郎の負担を減らすのならば、これが一番手っ取り早い。
「あ、そういえばみんな、フータロー君へのプレゼントどうしてる?」
「絶賛制作中!」
「私はもう用意してありますが」
「私も」
「今日買ってきたばっかよ。あんたは?」
「私も用意してるけど……ちょっとタイミングまずいかなぁって」
テスト――決戦を控えた風太郎に余計な気を揉ませるべきではない。
突発的な告白で気を揉ませたばかりの一花だが、だからこそという思いがあった。
この提案に他の姉妹は概ね賛成だったが二乃だけは渋った。
「でも、やっぱりなにもなしじゃ寂しいじゃない」
「ダメだよ。ただでさえ私たちはフータロー君の重荷になってるんだから」
「重荷……上杉君は否定するのでしょうけど、やはり」
「今更だけど、迷惑はかけたくない」
「むむむむむ……あ、じゃあこういうのはどうかな?」
頭を抱えて唸っていた四葉の提案。
それを聞いた四人は顔を見合わせると頷き、よりいっそう勉強に励むのだった。
「流石に疲れたわ……」
「あれ、二乃」
「一花、あんたも外の空気を吸いに?」
「今日はいっぱい勉強したし、寝る前にちょっとね」
アパート廊下の手すりにもたれかかってた一花にならい、二乃ももたれかかって空を見上げた。
そして満点の星空とは言わないが、風太郎と一緒に見れたら、などと思いを募らせる。
二乃は姉妹の中でも一番こういったシチュエーションへの憧れが強い。
それを把握している一花は、風太郎の誕生日に二乃がどういう行動に出るのかも見えていた。
「二乃はさ、自分のプレゼント渡す気満々だよね」
「そうね、他の姉妹の中私だけなんて効果絶大じゃない」
「一応四葉の提案もあるんだけどね」
「それでもよ」
ブレーキを踏む気がない二乃の様子に一花は苦笑した。
行動が読めるというのは、自分の中にも同じ考えがあってこそのものだ。
もし一花がもっとなりふり構っていなければ、同じ行動に出ていたかもしれない。
「で、あんたはどうするのよ」
「うーん、二乃が渡すなら渡そうかな」
「なによそれ」
「インパクト、薄れちゃうね」
「……邪魔しようってわけ」
「どうかな」
薄く笑う一花に二乃は詰め寄った。
かねてからの疑惑を確信へと変える必要があった。
「あの時パパの足止めをしてくれなかったってことは、そういうことでいいのかしら?」
「風太郎くんに告白したんだよね?」
「ええ、そうね。それよりこっちの質問に――」
「実は今日私もしちゃったんだ」
「今日って……ま、まさかあいつがボーっとしてたのって!」
「てへっ」
舌を出して笑って見せた一花に、二乃は大いに脱力した。
女優業の賜物か、しっかりかわいく見えてしまうところがまた憎たらしい。
「なるほどね。原因が自分ってわかってたからあの提案を出したってわけ」
「恥ずかしながらね……でも、今日のことでちょっと二乃の気持ちが分かったかも」
自分のことを見てくれているとわかった時、そして自分を見分けてくれた時。
心の高揚はまだ一花の中に残っていた。
今も風太郎への想いが尽きることなく湧き出ている。
「好きって言葉って、思いがけずに出ちゃうんだね」
「……そうね」
ずっと目を背けて否定しようとしていた想い。
バイクの二人乗り、その最中に漏らした風太郎の一言。
『寂しくなるな』
自分たちとの時間を憎からず思ってくれていたことを知り、二乃の想いは弾けた。
とめどなく溢れる不満と文句、そして――好きの一言。
「はぁーあ、料理の好みなんてバラバラでいつも苦労してるっていうのに」
「なんでこんな時だけ一緒なのかなぁ」
「言っておくけど、譲る気なんてサラサラないわよ」
「私も」
「やれやれね……当面はあいつの勉強の妨げになるようなことはしない、これでいいかしら?」
「うん、プレゼントも遠慮してね」
「いいわよ、結果が出てから渡すから」
「お、いいねぇ。じゃあみんなで渡そっか」
「あーもう、それでいいわよそれで!」
「集中、集中しろ……」
自宅の食卓にて問題集と向き合う。
雑念は捨てて、一心不乱にペンを動かす。
俺はなんだ? 上杉風太郎だ。
やれる、やれるんだ!
『あんたを好きって言ったのよ』
『私、君のこと好きだよ』
やれる、やれるはず……
ペンが止まる。
間の悪いことに、今解いている古文の問題には恋だの愛だのそういう単語が乱舞していた。
……別の教科にしよう。
「まったく、恋だの愛だの……数式に当てはめて解けりゃ苦労はしないんだけどな」
それでも古文や現代文にははっきりとした答えがあるからまだいい。
しかし俺が直面している問題には模範解答なんてものはないし、選んだものが正解かどうか確かめる術もない。
「お兄ちゃん!」
「んあ、な……なんだよ」
「今、恋愛がどうこうって!」
「い、今解いてるのがそういう問題なんだよ」
「えー、本当に?」
ニマニマしているらいはに背を向けて問題集のページをめくる。
中学に上がったからか、最近ますますませてきたような気がする。
もしかしたらあの五つ子たちからなにか悪い影響でも受けているのかもしれない。
くそっ、あいつらめ!
らいはが悪い子に育ったらどうしてくれるんだ……!
「……いかんいかん、集中だ」
早々に思考を打ち切り、問題児たちの顔を頭の中から締め出す。
だが代わりに浮かんできたのは、はっきりと起伏を主張する胸元やスカートから伸びるふともも――
「集中っ、集中っ……!」
食卓に頭を打ち付けて、痛みで頭の中身を吹き飛ばす。
こんなところで性欲に負けるわけにはいかない。
らいはにもそんな情けない姿を見せられない。
俺は兄なのだから。
「むぅ、お父さんどう思う?」
「あ~、そうだな……らいは、留守番頼むぞ」
「どこか行くの? お仕事?」
「ま、親としてのな。おい行くぞ風太郎」
「ぐえっ」
親父に呼ばれたかと思えば後襟をつかまれて立たされる。
非難の意を込めて睨みつけると、親父は右手の親指で玄関のドアを指した。
外に出ろ、ということだろう。
経験上、拒否したら強引に連れ出される可能性が高い。
「……わかったよ」
「二人とも気を付けてね」
「おう、すぐ帰るから心配はいらねーぜ」
家を出て先を歩く親父に追随する。
お互い無言で、少し気まずい空気だ。
こんなことなら帰って勉強をしていたい。
「心配してはいたんだよな」
「いきなりなんだよ」
「今まで満足に食わせてやってるとも言えなかったしよ」
「話が見えないんだが」
家の最寄りのコンビニの前に着くと、親父は神妙な面持ちで振り返った。
そこにいつもの大雑把で陽気な雰囲気はなかった。
「最近、中野の嬢ちゃんたちと顔を合わせづらいんじゃねーか?」
「……親父には関係ないだろ」
「それもそうだが、その原因の一端は俺にもあるからな」
「はっ、まさか女子との付き合い方をレクチャーしてくれるってか? 悪い冗談だぜ」
「お前、最近エロい事ばっか考えてるだろ」
ピシリという音が聞こえた気がした。
それは空気が固まる音か、そうでなければ俺の精神にひびが入る音だ。
……え、いやちょっと待て、なんで親父がそんなことを!
「な、なんのことだかサッパリなんだが!?」
「時期的にはそうだな、先月の温泉旅行の後あたりか?」
「いやだから違うって言ってんだろうがっ」
「近頃むこうでご馳走してもらうことも多くなったろ」
「たしかにそうだが、それとこれと何の関係があるんだよ!」
「風太郎、食事ってのはお前が思っている以上に体に影響を与えるんだよ」
「じゃあなにか? 食べるものが変わったせいで俺の体がおかしくなったって言いたいのかよ」
「違う。お前は正常に戻ったんだ」
「……え?」
今の俺の状態が正常?
女子の告白に悶々として顔も直視することができず、胸や脚といった部分に目を引き付けられ勉強に集中することもままならない。
こんな異常が正常だってのか?
「ずっと心配してはいたんだがな。お前は思春期になってもナニする気配もそぶりも見せなかったからな」
「そ、それのどこが悪いんだよ」
「悪いとは言ってねーよ。ただ、普通とはちょっと違うってのはある」
親父は自分の頭をくしゃくしゃとかき回すと、俺に向き直った。
そして深々と頭を下げて……
「すまん、風太郎」
「や、やめろよ親父。頭上げてくれよ」
「思春期だってのにお前に満足に食わせてやることができなかった……俺の責任だ」
「なに言ってんだよ。俺もらいはもここまでなんの問題もなかった、違うのか?」
「個人差もあるだろうが、性欲が薄いってのは栄養不足の症状でもある。それが今回はっきりとした」
「え、じゃあ俺が最近おかしいと思ってたのは……」
「全部それで普通なんだよ。思春期の男子なんてそんなもんだ」
「……マジかよ」
つまり、元から俺は栄養不足のせいで性欲が薄く、最近食事が改善されたことによってそれが正常に戻った。
そういうこと、なのか?
「は、はは……スゲーな。他のやつらはこんな状態で日々を過ごしてたのか」
「お前の場合はまだ変化に慣れずに戸惑っている状態だろう。そのうちどうにかなるはずだ」
「そのうち、か……」
大事な決戦を控えている中でそれは大きなハンデだ。
この衝動をコントロールする術を持たない以上、全て抱えたまま進むしかない。
俺に、本当にそれができるのか?
「ま、心配しなくても俺が何とかしてやる!」
「お、親父……」
「なんせそのためにここに来たんだからな」
親父はニッと笑うと、俺の背中を軽く叩いて24時間営業の小規模店舗を指し示した。
「エロ本、買いに行くぞ」
「あ、おかえりなさい。お父さん、お兄ちゃん」
「おう、ただいま!」
「た、ただいま」
ブツを買って帰るとらいはが出迎えた。
思わず手に持ったビニール袋を後ろに隠してしまう。
「お買いものしてたの?」
「ちょっと風太郎に人生の参考書をな」
「そ、そうそう……参考書な」
「ふーん、そうなんだ。お勉強頑張ってね!」
「お、おう」
らいはの無邪気な視線が眩しい。
これは、例のブツの中身は絶対知られるわけにはいかない……!
「らいは、パフェ食いに行くぞパフェ!」
「ちょっ、お父さん!?」
「久しぶりに特大のいってみっか! がはは!」
「もう、強引だなぁ」
親父がらいはを玄関に引きずっていく。
そして俺に目配せをすると、親指を立ててニヤッと笑った。
……気遣いはありがたいが、なぜだか素直に感謝することができない。
「お兄ちゃん、行かないの?」
「ああ、俺は勉強してる」
「留守番頼んだぞ。一時間ぐらいしたら戻るからよ」
「いってきまーす!」
「気を付けてな」
親父たちの足音が遠ざかったのを確認して、ドアを施錠する。
窓のロックを確認し、その上でカーテンを閉じて外の景色を遮断。
これはシークレットミッション……万全の準備をもって臨むべきだ。
部屋の中央に正座して、ビニール袋からブツを取り出す。
『五つ子ハーレム ~あなたの愛を五等分♡~』
タイトルやシチュエーションに深い意味はない。
本当にたまたま、偶然これが目に付いただけだ。
重ねて言うが、深い意味はないのだ。
「……よし、ヤルぜ」
「……くっそ眠ぃ」
そして次の日の朝。
青い衝動を発散したことにより集中力を取り戻した俺は、一晩中勉強に明け暮れ睡眠不足に陥っていた。
まともに勉強に打ち込める喜びを抑えきれなかったのだ。
いかん、これでは本末転倒だ。
「おっはー」
「……一花か」
そして目下最大の悩みのタネが姿を現した。
こいつめ、人の気も知らないでのこのこと。
「はいこれ、今日のは甘いから」
「お前、まさか毎朝飲み物渡してくる気か?」
「迷惑?」
「そうじゃないが、俺はなにも返してやれない」
「堅いなぁ、もう。じゃあ勉強教えてくれるお礼ってことで。出世払いの前にちょこちょこ返しておかないとね」
「まぁ、そういうことなら」
透明な容器に刺さったストローで中の液体を啜る。
正直に言って味の良し悪しはわからないが、甘くてキャラメルの味がするということは分かった。
疲れ気味の脳に糖分が染み渡っていく――ような気がした。
「……昨日のことなんだが」
「うん」
「あれは冗談、じゃないんだよな」
「うん」
「一花、俺は――」
「ストップ」
俺の言葉を遮ると一花は前に出てこちらに向き直った。
昨日と同じシャンプーの香りが漂う。
「その先の言葉は、まだいらないかな。二乃にも似たようなこと言われたんじゃない?」
「……そうかよ」
「今はとにかく勉強に集中してもらわないとね」
「まったく、よく言うぜ……このっ」
「わっ」
頭をつかんで髪をわしゃわしゃとかき回してやる。
ふはは、今の俺にはこの程度の距離はどうってことないのだ!
これに懲りたら少しは普段の言動を反省しやがれ!
「もー、放してってば――あっ」
「あっ、おい!」
こちらを突き放してバランスを崩した一花を、すんでのところで支える。
彼我の距離は急速に縮まり、顔のパーツの一つが嫌でも目に入る。
即ち、唇だ。
「あ、ありがとう」
「悪い、ちょっとふざけすぎたな」
「……キス、してみる?」
「――っ、バカか!」
「あいたっ」
支えた手を離してやると一花は地面に尻餅をついて座り込んだ。
非難の眼差しを向けてくるが、あんなことを言ったこいつが悪い。
「ほらよ、立てるか?」
「立てないって言ったら背負ってくれる?」
「そんなことをしたらその場から一歩も動けなくなる自信がある」
「わぁ、堂々と情けないこと言ってる」
こちらの手をつかんで一花は立ち上がった。
軽く埃は払うものの、怪我をした様子は見られない。
さすがに仕事に支障が出るようなことになればあの社長にも申し訳がないが、その心配はなさそうだ。
「お前、そういえば今日も眼鏡かけてきたのか」
「え、遅っ」
「自意識過剰は継続中か」
「フータロー君の鈍感も相変わらずみたいだね。……昨日のはなんだったんだか」
ぶつくさ文句を言ってるようだが、今は無視だ。
昨日のことを考えれば、こいつに合わせてたら遅刻なんてこともありうるからだ。
すたすたと、やや速めの歩調で登校を再開する。
「あ、フータロー君待ってよー」
「ついてくるのはいいが、二メートルは距離を取ってもらおうか」
「えー? なんでさ」
心臓が今もバクバクとうるさいからだ、なんて言えるわけがない。
まったく……あの鐘の下でのキスの後遺症は、本当に厄介極まりない。
「待ってってば」
「断る」
「このっ」
「させるかっ」
一花が横に並ぼうとすれば俺もスピードを上げる。
そのくり返しで優雅なはずの朝の登校は、いつの間にやら全力ダッシュの追いかけっこへと様相を変えた。
途中で他の四人も巻き込んだこのレースは四葉の勝利という形で終結する。
「ゴール! 私の勝ちですね!」
「なんか、途中から、目的、変わって、なかった?」
「し、知るか……」
「な、なんだって、朝から、全力疾走、なのよ……!」
「お、お腹が、空きましたぁ……」
「し、死ぬ……」
激しい運動のおかげで心臓の鼓動はまったく気にする必要はなくなった。
良かったのやら良くなかったのやら。
一花の闇落ちを阻止したい所存。