フー君が思春期の青い衝動に振り回される話   作:kish

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五女は主人公の相手という意味のヒロインではなく、女主人公という意味でのヒロインだったのではないかと思う今日この頃。


シスターズウォー・三日目その2

 

 

 

「上杉さん、頑張って……!」

 

 建物の陰から、四葉は五月を追う風太郎を見守っていた。

 ほっかむりをしているが、それは三玖のアドバイスによるものである。

 風太郎いわく悪目立ちするリボンを隠すためのものだ。

 そもそも外してしまえという話だが、単独行動ゆえそれを指摘する者はいなかった。

 

「ああっ、どんどん引き離されちゃってる」

 

 走る二人に合わせてちょこちょこと移動を繰り返しているが、その程度ならまったく苦ではない。

 問題は五月を取り逃がしそうな風太郎だった。

 常々思っているが、体力がないにも程がある。

 どうしようかとオロオロと辺りを見回す。

 四葉の目に留まったのは和の装いの喫茶店。

 あまり使われていない脳細胞をフル回転させ、逆転の策を導き出す。

 それは――

 

「限定スイーツやってまーす! いかがですかー!」

 

 五月といえば食べ物の方程式である。

 人間は限定という言葉に弱く、女子ならばスイーツの誘惑には抗いがたい。

 ものの見事に引っかかった五月は、走るスピードを大幅に減じさせた。

 そしてその隙を逃す風太郎ではない。

 ししし、とガッツポーズを取る四葉。

 しかし油断は禁物だ。

 

「えええっ、また逃げられてる!」

 

 追いつくのがやっとで、捕まえておくことはできなかったようだ。

 いっそ自分が抱えて走ったほうがいいのでは?

 風太郎の窮状にそんな考えがよぎる。

 あっさりとやってのけそうなのが四葉の恐ろしいところである。

 一瞬本気で悩んだが、色々と台無しになりそうなので自重しておいた。

 

「――バカ野郎! ちゃんと前見ろ!」

 

 焦り気味の声が響いたのはその時である。

 ハッと四葉が目を向けると、五月が派手に池にダイブしていた。

 

「あわわわ……どうしよ、どうしよ」

 

 慌てふためくが、ここで出て行くわけにはいかない。

 五月の心配をしつつも、四葉はとりあえず三玖に連絡することにした。

 

 

 

 

 

「え? 五月が池に落ちた?」

『うん……着替え持っていってあげたいけど、さすがにジャージは持ってきてないよ』

「うーん……二人はどうしてる?」

『出口の方に歩いて……あっ、もしかしたらコスプレ屋さんにむかったのかも!』

「コスプレ屋さんって」

 

 四葉が言っているのは、先ほど自分たちも利用した扮装の館のことだろう。

 時代劇の俳優になりきろう、という名目で色んな衣装に袖を通すことができる。

 三玖にとっては夢のような場所だったが、今回は自重した。

 今日一日は五月のために使うと決めていたからだ。

 

「とりあえず、四葉は五月の着替えを探してみて。ショップのグッズでなにかいいものあるかも」

『りょーかい!』

 

 通話を終えてスマホをしまう。

 四葉に任せておくだけじゃなく、自分でも動かなくてはならない。

 ベンチから立ち上がろうとしてよろけた三玖は、二乃に支えられてどうにか踏みとどまった。

 

「まったく、世話が焼けるわ」

「ごめん、色々と」

「本当にね。まさかあんたがあんな大胆な行動に出るとは思わなかったわ」

 

 二乃が言っているのは修学旅行初日の事だ。

 五月の協力を取り付けた三玖は、一花と二乃を出し抜いて風太郎に急接近した。

 抜け駆けされたことへの怒りはあるが、振り返ってみればお互い様と言えなくもない。

 

「一花はなにをやっているのやらね」

「ここには撮影に使われてる場所もあるし、やっぱり興味あるんじゃないかな」

「そうだといいわね」

 

 一花の姿が見えないことは不安でならないが、邪魔はしないとも言っていた。

 なんだかんだで助言もしてくれていたので、とりあえずは信じておくことにした。

 

「それで、どこ行きたいの?」

「扮装の館。五月がすぐ着替えられるようにしときたい」

「変装道具は?」

「一花から預かってる」

「なんで修学旅行にそんなもの持ち込んでるのよ……」

 

 用途が気になったが、本人がいないので追求は後だ。

 二人は連れ立って、四葉が言うところのコスプレ屋さんへ向かう。

 幸いすぐ近くにいるので、三玖にも移動はそれほど苦ではない。

 しかし、問題となりそうな人物が二人、店の前に立っていた。

 

「上杉のやつ、どこ行きやがったんだよコラ」

「電話も通じない、ね。やれやれ、迷子かな?」

 

 風太郎と班を組んでる武田と前田だ。

 店を利用したのか、武士と忍者のコスプレ姿である。

 いなくなった班員を待っているのだろう。

 

「あの二人は邪魔ね。私がなんとかしてくるから、後は任せたわ」

「うん、ありがとう」

 

 気にするなとでも言うように手を振ると、二乃は二人のもとへ。

 見知った顔の接近に気づいた武田は、爽かな声で出迎えた。

 

「やあ、中野さん。奇遇だね」

「ちょうどいい。上杉がどこ行ったか知ってるか?」

「えっと、フー君だったら向こうに――」

 

 二乃は見当違いの方向に二人を誘導していく。

 三人が建物から出たことを確認すると、三玖は五月に変装して扮装の館に入った。

 

「すみません、着付けをお願いしたいのですが」

「ええ! どちらの衣装にいたしましょう?」

「えっと……」

 

 店内をぐるっと見回す。

 時代劇に出てきそうな衣装に目を惹かれるが、三玖の目にとまったのは華美な着物だった。

 黄色、紫、青、緑、赤の五枚――それぞれ花をあしらった華やかなデザインである。

 これに髪飾りをセットにしたら、和製お姫様の出来上がりだ。

 咄嗟に青色に手を伸ばしそうになったが、今の自分は五月だ。

 赤色の着物を選んで店員に知らせる。

 

「ただいまご用意いたしますので少々お待ちください!」

「あっ、それと男性用の衣装も見繕ってほしいのですが」

「まあ! もしかして恋人さまの分でしょうか?」

「え、あ……はい、そんな感じです」

「かしこまりました! それでは衣装とサイズの確認を――」

 

 

 

 

 

「……解せん」

 

 再度の扮装の館の前で俺は頭を抱えた。

 ガラスに映るのは浅葱色のだんだら模様の羽織、それに誠の一文字を背負ったミブロスタイルの男の姿があった。

 ……なにを隠そう、俺の事だ。

 びしょ濡れの五月をここまで連れてきたのはいいが、なぜか既に着付けの準備が出来ていて、ついでと言わんばかりに俺も巻き込まれてしまった。

 店員の生温かい視線に耐えかねて外に出たのだが、これは想像以上に恥ずかしい。

 つーか武田と前田はどこにいったんだか。

 勝手に五月を追いかけていった俺が文句言える立場ではないのは分かっているが。

 

「お、お待たせしました……」

 

 おずおず、というかどうにか振り絞ったかのような声。

 店の入口から五月が顔をのぞかせていた。

 コスプレ体験が恥ずかしいのか、体は隠したまま顔を赤くしてこちらを睨みつけてくる。

 頑張ってとか、勇気出してとか、店の中からそんな声が聞こえてきた。

 なんか妙な勘違いをされてないか?

 

「むむむむっ……」

「いつまでにらめっこする気だ。邪魔になるから出るぞ」

「あ、ちょっ、まだ心の準備が――」

 

 五月の手を掴んで引きずり出す。

 これだけ恥ずかしがっているのだから、それはそれで興味があった。

 あれだけ走らされた恨みも多少混じっているかもしれない。

 なんならからかってやるつもりでいたが、俺の行動は迂闊だったと言わざるを得ない。

 赤色の、花をあしらった模様の華美な着物。

 いつものダサいヘアピンの代わりにきれいな髪飾りを着けていた。

 呼吸が止まる――明確に失敗を悟った。

 心の準備が必要なのは、俺の方だった。

 

「……」

「な、なんで黙っちゃうんですか」

「あ、ああ……に、似合ってるんじゃねぇの?」

「~~っ」

 

 五月が声にならない声を上げた。

 おまけに顔を赤くしてプルプル震えてやがる。

 思わず素直に褒めてしまったが、馬子にも衣装とでも誤魔化しておけばよかったか。

 いや、それはそれでまたデリカシーがないだのと騒ぎ出しそうだな。

 それにしても顔が熱い……。

 とにかくまた逃げ出されるとたまったものではないので、今度は両手でその手を取る。

 体をビクッと震わせると、五月は大きく深呼吸をした。

 

「……その、もう逃げたりしませんから」

「今度逃げたら、二乃にチクってお前のおかずを減らしてもらうとしよう」

「なぁっ!? どこまで卑怯なのですか!」

「うるせぇ、そもそもが食いすぎなんだよ」

「あなたという人はとことんデリカシーがありませんね!」

「人の家で容赦なくカレーをおかわりしていく女には言われたくないね」

「このミスターノーデリカシー!」

「なんだと、この妖怪カレー食い女が!」

 

 五月に釣られるようにして、俺もいつの間にかヒートアップ。

 これまでにも飽きるほど繰り返してきたやりとりだ。

 睨み合っているのも束の間、俺達はどちらともなく吹き出してしまっていた。

 

「くくっ、ははは! まったく何度目だよこれ」

「ふふ、お互いに進歩がないということかもしれませんね」

 

 まったくもってその通り。

 懲りずに同じことを何回も何回も。

 だが、出会った当初のようなギスギスとした雰囲気ではない。

 それは決して長くはない付き合いの中で、俺がこいつの事を多少なりとも知ったからだろう。

 

「あいつらとははぐれたのか?」

「気づけばいなくなってて……連絡も返ってきませんし」

「なら丁度いい。俺も班員と合流したいし、二人で探したほうが見落としが少ないだろ」

「それは構いませんが、連絡は取ったのですか?」

「おっと、そうだったな」

 

 携帯を取り出して操作しようとするが、画面が真っ暗のまま動かない。

 あれこれしてようやく画面が点いたかと思うと、空っぽの電池マークの表示が出てまた真っ暗に。

 おそらく、一花からのメールの後あたりで力尽きたのだろう。

 

「バッテリー死んでたわ」

「まったく……どうせあまり使わないから充電を忘れていた、といったところですか」

 

 図星だった。

 こいつも俺の事を少しは理解しているようだ。

 なんともむず痒いが、悪い気はしなかった。

 

「早いとこ見つけようぜ。せっかくの修学旅行が人探しで終わるのはもったいない」

「そうですね――」

 

 きゅるる、とどこかで誰かの腹の虫が鳴いた。

 今、店の前にいるのは俺たち二人のみ。

 つまり、俺じゃないのならば目の前のこいつ以外ありえない。

 五月はまた顔を真っ赤にして提案してきた。

 

「とりあえず、どこか入りませんか? 甘いものが食べたいです」

 

 それからは食べ歩きの道行となった。

 ここのメインはそれではないと思うが、楽しみ方は人それぞれだろう。

 

「つーかまだ食うのかよ」

「当然です! 昨日と一昨日の分をここで取り戻さないと!」

 

 この旅行中、あまり食事を楽しめなかったのがここに来て爆発したらしい。

 まぁ、こいつらしいといえばこいつらしいか。

 正直見ているだけで胸焼けしそうだが、何かを食べている時の五月の顔は嫌いじゃない。

 あどけない無防備な笑顔がらいはと重なるからだ。

 可愛げという点では天と地ほどの差があるが。

 一応人探しという目的があるが、ここで水を差すほど野暮じゃない。

 

「あの、そんなに見られてると食べにくいというか……」

「ああ、悪いな。マナー違反ってやつか」

「気になるのなら、その……ひ、一口どうぞ!」

 

 差し出されるスプーン。

 つい昨日、一花が口走った間接キスという言葉が頭をよぎった。

 そもそもこれは世の恋人達がやっているとされる行為なのでは?

 こいつは自分が何をしているのかわかってるのだろうか。

 温泉の時といい距離感がおかしくなる事があるが、今の五月はどうだろうか。

 

「ううぅ……」

 

 顔を赤くして、スプーンを持つ手は震えていた。

 確実にわかってやっている。

 もしくは、途中で気づいたが引っ込められなくなったかだ。

 こいつの性格的には後者の方がありえそうだ。

 ここで受けても引いても面倒な事になるのは目に見えている。

 どっちがマシかといえば……

 

「んっ……うまいな、これ」

「で、ですよねっ」

 

 俺の感想の何が嬉しかったのやら、表情が目に見えて明るくなった。

 他の姉妹、特に上三人の耳に入ったら面倒だが、変に断って機嫌を損ねられるよりはマシだ。

 ただでさえ昨日は丸一日ふいにしているこいつが楽しめるのなら、それでいいはずだ。

 顔が熱いのは必要経費と割り切っておこう。

 旅の恥はかきすてというやつだ。

 

「……」

「なに固まってるんだよ」

 

 しかしそれ以降、五月の手が進まない。

 なにやらそわそわしているし、スプーンを見つめてゴクリと生唾を飲む音さえ聞こえる。

 そんなに気にするのならやらなければいいものを……

 埒があかないので、新しいのを用意してもらおう。

 店員を呼ぼうとしたのだが、その前に五月が動き出した。

 

「ごちそうさまでした」

 

 俺が口を挟む間もなく、あっという間に平らげてしまった。

 目を疑いたくなる光景だった。

 食べ方自体は上品なものだ。

 食器を持ち上げて掻き込むわけじゃなく、スプーンですくって口に運ぶ……その繰り返しだ。

 一口が大きいわけでも、特別手や口の動きが速いわけでもない。

 なのに何故か……いつの間にか食べ終わっている。

 スプーンの先が異次元空間に繋がっていて、触れた一部分をそこへ送っているのではないか?

 そんなありえない馬鹿げた発想が頭をよぎった。

 

「どうかしましたか?」

「いや、食べ終わったなら出るか」

 

 深く考えると頭を痛めそうなのでここら辺にしておこう。

 支払いを済ませて店を出る。

 往来は相変わらずの人の多さだ。

 最初こそ抵抗があったが、今はこの格好で歩くのに大分慣れてきた。

 これは周囲に同じように扮装をしている人達がいるというのが大きい。

 しかし慣れない事態が一つ、起こっている。

 

「またそれか」

「はぐれたら困りますから」

 

 こちらの羽織の袖を控えめにつまむのは五月の指。

 扮装の館を出てから歩くときはこの状態だ。

 移動に際して、はぐれないようにという名目だ。

 とはいったものの、人は多いがいつかの花火の時のようにごった返してはいない。

 そもそもこいつはさっきまで逃げ回っていたというのに。

 そのへんを追求したら顔を赤くしてプルプル震えだしたので、深くは突っ込んでいない。

 もう走り回るのは懲り懲りだ。

 しかし、どうにも調子が狂う。

 時折距離感がおかしくなる事はあるが、今日はずっと狂いっぱなしだ。

 それとも、これも友達なら当たり前で済ませてしまうのだろうか。

 チラリと後ろに目を向けると、五月と視線が絡んだ。

 俺が振り向くと思っていなかったのか、焦った様子だった。

 例によって顔を赤くしていたが、風邪でもひいてるんじゃないだろうな。

 先程は盛大に水場に突っ込んだので、それで体を冷やした可能性はある。

 濡れた制服が体に張り付いて……いかんいかん。

 あの時は必死に意識から除外していたが、今の俺にとっては刺激が強すぎた。

 一花との一件はそれだけ衝撃が大きかったのだ。

 俺の中の衝動をこいつに向けるわけにはいかない。

 そうしたら、俺は自分自身を許せなくなりそうだ。

 

「ひっ」

 

 しばらく歩くと、いきなり五月が短い悲鳴を上げた。

 進行方向に見える『史上最恐のお化け屋敷』の看板。

 そういえば、こいつはこの類のものが苦手なんだったか。

 林間学校の肝だめしで、悲鳴を上げて逃げていたのを思い出す。

 あれはさすがに驚きすぎだったが、仕掛ける側として手応えを感じたのも事実。

 やりすぎはよくないが、適度に脅かせばさぞ気持ちのいい反応が見られるだろう。

 こうなると悪戯心が湧き上がってきてしまう。

 

「おいおい史上最恐だってよ。面白そうだな」

「えっ、入りたいのですか?」

「武田達も入ってるかもしれないしな」

 

 あくまで可能性の話だが、そういった場合もある。

 無論、それだったら外で待ってたほうが確実に合流できるというのは内緒だ。

 まぁ、十中八九断られるだろう。

 元々そういう想定で話を振ったというのもあるが。

 

「わ、わかりました」

「ま、そうなるよな……え?」

「絶対に絶対、離れないでくださいね!」

 

 結論から言うと、俺は大馬鹿野郎だった。

 

 

 

 

 

「ううぅ……上杉君、そこにいますかぁ……?」

「はいはい、ここにいるぞ」

 

 おどろおどろしい雰囲気の施設内を二人は進んでいく。

 五月が全力で風太郎の腕にしがみついているため、歩くスピードは緩やかだ。

 恐怖のあまり視覚情報は完全にシャットアウトしているため、音が鳴るたびにビクビク震えている。

 その度に柔らかい感触が腕に押し付けられ、風太郎は恐怖とは別の意味合いで気が気ではなかった。

 

「う、上杉君、そこにいますよね?」

「いや、何度目だよこれ」

 

 不安で仕方ない五月は確認を怠らない。

 ピッタリくっついているため、これで気づかぬうちにいなくなっていたらそれこそホラーである。

 繰り返される問いかけに風太郎は少しうんざりしていたが、そもそもここに入るよう促したのは自分自身。

 つまり自業自得だ。

 しかしこの状況はいただけなかった。

 ひたすら動きにくいし、腕に伝わる感触が欲望を刺激してくる。

 悪いと思いつつ、少し強引に腕を引き抜く。

 確認の最中はしがみつく力が強くなるが、それに答えた直後は安心するのかわずかに力が緩まるのだ。

 

「あっ、上杉君!? いやっ、離れちゃ嫌です!」

「落ち着け!」

 

 風太郎は混乱する五月の手を強く握る。

 声と共に、ここに居ると示すためだ。

 

「不安になったら握る手に力を入れろ。そうしたら俺も握り返すから」

 

 そうして手をつないだまま進む。

 風太郎は振り返らず五月は目を閉じたまま、無言で時折立ち止まっては傍にいると確認し合う。

 

(不思議です……今はあまり怖くありません)

 

 交わす言葉もなく先ほどより距離が離れたのに、五月の恐怖は確かに薄らいでいた。

 つないだ手の温もりと、握り返してくる力の強さ。

 ひたすらに風太郎の存在を確認することに集中する。

 それだけで聞こえてくる恨めしい声は気にならなくなった。

 

(上杉君、上杉君……)

 

 その分聞こえるようになったのは自分の声。

 心の中を満たす、風太郎への想いだった。

 今までは見ないようにしながら抑えつけ、ずっと向き合えずに逃げてきた。

 

(私は、あなたのことが好きなんです)

 

 突発的に溢れてきたのではなく、ごく自然にそう思える。

 五月はここにきて、やっと自分の想いを受け入れることができた。

 

「もう目を開けても大丈夫だぞ」

 

 つながっていた手が離れる。

 ずっと閉ざしていた目に光が差す。

 まぶしさに目を細めて、五月は太陽に手をかざした。

 そして残った温もりを逃さないように握り締めた。

 

「上杉君」

「なんだ?」

「話があります。二人きりになれるところに行きましょうか」

 

 

 

 

 

 赤い布が敷かれた縁台に、二人並んで腰掛ける。

 大きな和傘――野点傘というらしい――が日除けとなって風が気持ちよかった。

 しばらく歩いてやっと見つけたこの場所は、喧騒もどこか遠い。

 休憩するには絶好のスポットだった。

 

「……」

 

 話があると言っていた五月だが、ここに座ってからは黙ったままだ。

 俺も歩き疲れていたので、途中で買ったお茶をちびちびと飲みつつ体を休めていた。

 とはいっても手持ち無沙汰には変わりないので、横目で様子を伺ってみる。

 先程までのどこか浮ついた、落ち着きのない雰囲気はなりを潜めていた。

 お化け屋敷の暗闇が、こいつの心境にどんな変化をもたらしたのかはわからない。

 ただ、その静かな眼差しには決意の光が宿っているように思えた。

 

「まずは謝らせてください」

「どれについてだ」

「……先日の、デパートでの件です」

 

 五月の手に力がこもる。

 俺としては蒸し返すつもりはなかったが、こいつにとってはそうはいかなかったらしい。

 相変わらず真面目というか、律儀というか。

 

「……一応聞いておくが、去年の零奈もお前で間違いないんだな?」

「はい」

「なぜあんなことをした」

「……最初は『彼女』に頼まれたからです」

 

 誰とは明言しなかった。

 恐らくはその『彼女』が――

 一花は昨日、俺が自分で気づいてほしいと言った。

 それはこいつも同じなのだろうか。

 

「この前は、私に話してくれないことも『彼女』になら話してくれると思って……」

「そこまでして、お前は何を聞きたかったんだ?」

「あなたが私たちのことをどう思ってるか、それを知りたくて」

 

 以前も同じことを聞かれたのを思い出す。

 つまりあの答えだけでは不満だったということだ。

 思えば、あの時はこいつらをひとくくりにして語っていた。

 五月はもっと踏み込んだ……例えば、個々に対する俺の感情を知りたいのだろうか。

 話せないというわけではないが、話したくはなかった。

 上三人とのあれこれは間違いなくこいつの逆鱗だろう。

 四葉のことも含めて、言葉にし難い部分もある。

 すべてを洗いざらいぶちまけたとして、どうなる?

 やはりこいつは拒否反応を示して離れていくのだろうか。

 ……俺のしたことを考えれば、それが妥当なのかもしれない。

 

「――でも、それはもういいんです」

「……」

「他の姉妹がどうとかではなく、私は自分のしたいことを見つけましたから」

 

 助かったと思う反面、五月の顔を直視できなくなった。

 何とも言えない蟠りが胸の中で渦巻いている。

 吐き出すわけにはいかない。

 そうしたら最悪、俺とこいつの関係はそこで終わる。

 

「ところで上杉君、あなたは将来のことをどこまで考えていますか?」

「いい大学に入っていいところに就職。あとは働いて金を稼ぐ、以上だ」

「具体的になりたいものとかはないんですか?」

 

 それを言われると弱かった。

 俺には将来に対する明確なビジョンがない。

 それは勉強という手段にばかり拘泥してきたがゆえの弊害か。

 だから一花や武田、そしてこいつのように夢を語れるやつが眩しく見えてしまう。

 それでも、あえて言葉にするのなら――

 

「誰かの役に立つ、必要とされる……そんな人間だな」

「ええ、あなたはそうですよね」

 

 俺の答えはどこも具体的ではなかったが、五月は納得したかのように頷いた。

 以前に俺の過去話を聞いたってのもあるのだろう。

 いや、そもそもこいつは全部知っているのか?

 思い出の少女の正体についての確信はないが、五月は俺の前にそれを自称して現れた。

 本人でないとしても、多少なりとも事情を理解しているのだろう。

 つーかなんだこれ、進路相談かよ。

 いずれはしてやるつもりでいたが、まさかそっちから持ちかけられるとは。

 

「私は、やっぱりあなたには教える立場が合っていると思いますけど」

「馬鹿言うな、手を焼かされるのはお前らだけで間に合ってる」

 

 こいつらと出会って一年と経っていないが、それでも十分に地獄を見せられた。

 それが生涯の仕事になるなんて考えただけで目眩がしてくる。

 手応えややり甲斐を感じなかったといえば嘘になるが、確実に割に合わないとは思う。

 俺のこういった発言にいつもならむくれるか申し訳なさそうにする五月だが、今は穏やかに笑っていた。

 これはこれで様子がおかしい。

 拍子抜けというか調子が狂うというか、困惑してしまう。

 

「それでも、あなたは私の目標なんです」

「俺が、か?」

「だって初めてなんです。こんな私たちに真剣に向き合ってくれた人は」

 

 中野姉妹の頭の残念さは今までの家庭教師はおろか、学校の教師にさえ諦められるレベルだったらしい。

 その点に関しては同意しかない。

 俺だって金銭が絡んでいなければ早々に投げ出していただろう。

 だから、俺はこいつが思うような人間では決してない。

 生徒との一線を引き損ねるような教師が目標であっていいはずないのだ。

 

「――よせ」

 

 自分でも思っていなかったほど硬い声が出た。

 地面に目を落とす。

 五月の信頼は、今の俺には受け入れるのが少々辛い。

 思えばこいつは一番勉強を教わる立場、教師と生徒という関係に拘っていたように思える。

 生徒に手を出すような不良教師では、その信頼にそぐわない。

 抑え込んでいたはずの蟠りが喉元をせり上がってきていた。

 

「俺は、お前の姉妹に手を出すような男なんだぞ」

「……」

「雇い主に啖呵を切った手前もあるから、進路に関してもサポートする。だがそこでお前らとはお別れだ」

 

 俺達のパートナーという関係は、卒業を迎えることで終了する。

 すべてをまっさらにするには一番いいタイミングだろう。

 俺の進路は恐らく、県外の遠い大学になる。

 中野姉妹に進学先を伝えるつもりはない。

 物理的な距離ができれば、自然に消滅してそれまでだ。

 この裏切りはこいつらに傷を残すかもしれないが、五人ならきっとそれも乗り越えて行ける。

 その未来に俺の姿がないのは少し寂しいが、ただの自業自得で片付く話だ。

 立て続けに想いを告げられ、頭の片隅にちらついていた考え。

 つまり、誰も選ばないという選択だ。

 

「全員を笑顔で卒業させる……あの言葉は嘘だったんですか?」

「嘘じゃない。今でもそのつもりでいる。だから、黙っててくれると助かる」

 

 とんでもない欺瞞だが、俺にはそれしか答えが見つからなかった。

 ギリギリまで隠し通す……つまり、あいつらを騙しながら過ごすことになる。

 ただ、ここでこうしている時点で五月だけは例外になってしまう。

 話さなければよかったが、話さずにはいられなかった。

 こんな間違いだらけの人間を目標にさせるわけにはいかないのだから。

 

「上杉君、顔を上げてください」

「なんだ――」

 

 バチン、という破裂音。

 地面から目を離した瞬間、衝撃と共に顔が横向きになる。

 左頬がジンジンと痛みを訴えていた。

 呆然と正面を向くと、いつの間にか目の前に立っていた五月が、右手を振り抜いたままこちらを睨んでいた。

 叩かれたのだと、ようやく頭が状況を理解し始めた。

 驚いたし泣き出しそうなほど痛かったが、涙は出ない。

 逆に、叩いた方が涙を浮かべていた。

 泣かせてしまった……叩かれた事より、正直ずっと堪える。

 

「絶対に許しません……!」

「ああ、お前はそれでいい」

「なにが? こんなのちっとも良くありませんっ!!」

 

 掴みかかってくる五月に対して、抵抗せずに受け入れる。

 それでこいつの気が済むのならなんだっていい。

 

「あなたはっ、嫌味で、高圧的で……!」

「……そうだな」

「高慢で、成績が良いことを鼻にかけていて……!」

「返す言葉もねぇよ」

「口が悪くて、デリカシーなんて欠片もなくて……!」

「耳に痛いぜ」

「おまけに貧弱で目つきが悪くて髪型も変!」

「そ、そこまで言うか……」

 

 つーか髪型の事は言うな。

 らいはのカットはこれ以外のバリエーションがないんだ。

 その後も続く悪口に次ぐ悪口。

 事細かに掘り返されて、普段どれだけ不満に思っていたのかがよくわかった。

 こちらは最早満腹だが五月の気は済まないらしく、襟元を掴む手は離れる気配を見せない。

 

「あなたはっ、あなたは……」

 

 言葉が途切れる。

 俯いた五月のアホ毛が鼻先をかすめる。

 溢れるような悪口は、すすり泣く声に取って代わっていた。

 こぼれ落ちる生温かい雫が貸衣装の袴を濡らしていく。

 涙を止めてやりたかったが、どうすればいいのかわからない。

 今の俺には正しい答えが見えなかった。

 それから、しばらくそのまま。

 動けない俺と、泣き止まない五月。

 時間の感覚は曖昧で、もう何時間もこうしているような気がするが、日の向きに変化はない。

 時間が止まっているのかと錯覚してしまう。

 愚にもつかない馬鹿げた発想だが、それも悪くないと思ってしまう。

 ずっとこのままなら、答えを出さずに済むからだ。

 一花、二乃、三玖の俺に対する想い。

 そして、四葉に対する俺の――

 

「あっ……」

 

 こぼれた声はどちらのものか。

 前髪を触ろうと、ほぼ無意識で動かした手が五月の手に触れた。

 それが止まっていた時間が動き出す合図だった。

 五月がゆっくりと顔を上げる。

 泣いていたせいかくしゃくしゃで、とても人前に出られるような状態じゃなかった。

 それでも目はそらさず、しっかりとこちらを見据えている。

 悪口の続きだろうか。

 なんにしても、俺には逃げる術……というよりも意思はない。

 

「それでも、あなたは私たちと向き合ってくれた……」

 

 五月は出会った頃のことを語った。

 最悪の出会いと印象。

 俺が働く理由。

 そして奔走した花火大会の日。

 

「あなたは、嘘をついてまで私に寄り添ってくれた」

 

 旭高校に編入してから初めての試験。

 仲違いをした俺と五月。

 一人で行き詰まり、泣いていた事。

 素直になれない俺達の、見え透いた嘘を隔てた歩み寄り。

 

「あなたは、嘘が引っ込められなくなった私を見つけてくれた」

 

 初日からトラブル続きだった林間学校。

 家族を捨てて逃げた姉妹の実父。

 身近な男である俺に対する疑念。

 見極めるため、一花に変装した事。

 正直、最後の方の記憶は朧気だ。

 覚えているのは、リフトの上で縮こまった不器用な真面目馬鹿の姿。

 それと、寝ている俺の手に触れた誰かの指の感触。

 

「あなたは、夢を見つけた私の背中を押してくれた」

 

 全国模試に向けた勉強の日々。

 亡き母への憧憬。

 俺の中に見出した理想。

 そして、背中を押す言葉をもらった事。

 俺が一人で歩んでいるわけじゃないと強く認識したあの日。

 テストの答案で作られた、五つの折り鶴。

 

「もう、あなたがいない日々なんて考えられないんです」

 

 五月の手が俺の手の上に重ねられる。

 こちらを見つめる瞳が、別の色を帯びたように感じられた。

 

『フータロー君』

『フー君』

『フータロー』

 

 俺の名前を呼ぶ三人の顔が頭に浮かぶ。

 熱に浮かされたような、切実に何かを求めているような表情。

 それが今の五月に重なった。

 

「だから、今更いなくなるなんて絶対に許しません。きちんと責任を取ってください」

 

 家庭教師としての、という意味ではないだろう。

 五月が俺に求めているのは、もっと別の何かだ。

 責任という言葉で思い浮かぶのは、多額の借金と子供二人を背負ってきた親父の背中だ。

 

「私たちを……私をこんなにも変えてしまったのは、あなたなんですから」

「……」

「あなたがなんと言おうと、なにを思おうとそれは事実なんです」

「……五月、俺は――」

 

 中野姉妹との縁を絶つ。

 この考えに至った経緯に、中野父の影響がないといえば嘘になる。

 姉妹との距離をさらに強く意識するようになったのは、その釘差しがきっかけだからだ。

 だが、本質的な理由はそれじゃない。

 

「――お前らが離れていくのが怖い、のかもしれない」

 

 今まで周囲に壁を作って過ごしてきた。

 不必要だと切り捨てていた。

 だが、こいつらと関わるようになってからはそんな事を言ってられなくなった。

 勉強を教える……ただその一言で片付く行為が、どれだけ困難だったことか。

 そんな時間を共有してきた中野姉妹は、間違いなく俺にとっての特別だ。

 だからこそ切り捨てられるのが、自分は不必要な人間なのだと突きつけられるのが恐ろしい。

 一花を欲望のまま貪ったのが俺の本質ならば、そんな醜い部分を知られたくなかった。

 それならば自分から遠ざかって時が流れるままに関係を霧散させる。

 理由は、そんな身勝手なものだ。

 

「それなら私は絶対にこの手を離しません。だから、いつものあなたのように傲慢に言い放ってください……私たちにふさわしいのは自分なのだと」

「相応しい、か。また随分と思い上がりやがって」

「安心してください。道を踏み外しそうになったら、今日みたいに思いっきりいきますから」

 

 泣きはらした目のまま、五月はいたずらっぽく笑った。

 まだジンジンと痛む頬をさする。

 まったく、どの口が言っているのやら。

 俺がこんな地獄の日々を送るようになった諸悪の根源は、間違いなくこいつだ。

 

『あなたはその答えを既に持ってるじゃないですか』

『あなたは……私たちに必要です』

『それはもはや……友達でしょう?』

 

 ……だが、俺にいつも道を示してくれるのもこいつなのだ。

 霧が晴れたような気がした。

 あるいは開き直りなのかもしれない。

 なんにしても、俺を一人にしないと言う馬鹿がここにいる。

 

「俺をここまで焚きつけた事、後悔するなよ?」

「望むところです!」

 

 不敵に笑ってみせた俺に、五月は晴れやかな笑顔を返してきた。

 たとえ迷って立ち止まっても、互いに進むべき道を教えあう。

 それが一方通行では終わらない、俺とこいつの関係なのだろう。

 教師と生徒という枠には収まらず、友人というにも近すぎる。

 それならばいっそ親友か……そういえば、姉妹の父親役なんかを買って出たこともあったな。

 その当時、今ほど中野父を知らなかったからこそ出た提案だ。

 もしかすると五月はその言葉をずっと覚えていて、それが責任という言葉につながったのかもしれない。

 

「父親代わりか……確かにそんな事も言ったな」

「え?」

「覚えてないか?」

「あ、えっと、それはもちろん覚えていますが、ここで出てくるとは思わなかったので」

 

 どうやら五月にその気はなかったようだ。

 つーかこの勘違いは普通に恥ずかしい。

 こうなったら、もう空を見上げて誤魔化すしかなくなってしまう。

 やれやれ、いい天気だぜ。

 

「……でも、それも悪くありませんね」

「いいのかよ」

「だって、私が母親であなたが父親なら、それはもはや……夫婦ということになりますよね?」

「……は?」

 

 予想外の言葉に脳がエラーを吐きだした。

 空から目を引き戻すと、目を伏せて頬を僅かに赤く染めた五月の顔。

 思考は停止したまま、なにかとんでもないものの予兆だけは感じ取っていた。

 

「さっきの話の続きですが、実は学校の先生以外にも将来の目標ができたんです」

「そ、そうか」

「上杉君、私と家族を作りませんか?」

「家族……ああ、うん家族ね」

 

 俺の手に重ねられた五月の手に、にわかに力が入りはじめた。

 伏せられていた目が真っ直ぐ俺を捉える。

 並々ならぬ意気込みが否応なしに伝わってきた。

 頭はもうストライキを起こしたがっていたが、どうにか答えをひねり出す。

 家族――つまり兄妹!

 

「俺の妹になりたいとは、お前も物好きだな。うちの可愛いらいはが羨ましくなったか?」

「らいはちゃんはかわいいですけど違います」

「いやいや、お前が姉ってのはさすがに無理が――」

「あなたが夫で私は妻で、ゆくゆくは子供も、その……」

 

 五月は顔を赤くしてもじもじしていたが、今の俺にそれを気にする余裕はなかった。

 完全に読み違えていた。

 こいつが一番そういう事に警戒していたからというのもある。

 手を重ねられた時、姉妹の上三人に共通する気配をこいつから感じた。

 つまり、それは勘違いじゃなかったということだ。

 どうしてこうなったのかさっぱりわからない。

 告白してきた三人は振り返ってみれば、そうだったのかと思えるような態度や出来事もあった。

 しかし五月に関してはそういうのはなかったはずだ。

 そもそも最近は微妙に距離を取られたり、そもそも対面を拒絶されたりで……

 ふと、その行動の一部が誰かと重なる――そう、中野姉妹を意識しまくっていたこの春の俺だ。

 当てはめると、五月は俺を過剰に意識して距離をとっていた、ということになる。

 それに先程の告白じみた発言を加味したら……

 

「……マジかよ」

 

 問題はあっさり解けてしまった。

 この手の分野は俺の苦手とするところだったが、きちんと情報や状況を整理したら答えを導き出せるらしい。

 つくづく自分の頭の良さが恐ろしい。

 それにしても、恋人を通り越して夫婦、しかも子供まで……

 

「五月」

「は、はいっ」

「重い」

「なっ!? ど、どういう意味ですかっ!」

 

 五月が食ってかかるように詰め寄ってくる。

 まるで突進のような勢いだった。

 体重のことを言われたとでも思ったのだろうか。

 それはさて置き、この縁台にはベンチと違って背もたれというものがない。

 そして建物の傍に備え付けられているが、壁までは若干距離がある。

 つまり、押されたら後ろに倒れ込んでしまう、ということだ。

 

「あっ……」

「くっ――」

 

 勢い余って二人して倒れそうになるところを、全身の力を総動員して持ちこたえる。

 受け止めた五月の体は気が狂いそうなほど柔らかく、俺の理性に亀裂を走らせる。

 そしてなにより問題なのは、至近距離に迫ったその顔だった。

 春休みの温泉旅行、あの鐘の下での出来事がフラッシュバックする。

 

「……いい、ですよね?」

 

 何も良くはなかったが、身体的にも精神的にもそれを指摘する余裕はない。

 ただでさえ近い距離はさらに縮まり、ゼロになった。

 散々食べていたからか、スイーツの味が残っていた。

 正確な時間は分からないが、恐らく数秒。

 名残惜しそうに唇を離すと、五月ははにかみながら口を開いた。

 

「上杉風太郎君、あなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしてください」

 

 こんな状況でそんな事を言われても、俺に出来ることは限られている。

 そもそもいい加減限界が来ていた。

 明らかに高校生男子の平均を下回る俺の身体能力では、二人分の体重を長時間支える事は不可能だ。

 あとは重力に引かれるまま、地面に倒れこんでいくだけ。

 余計なものを抱えていたせいで、背中にいい衝撃が走った。

 

「……やっぱ重てぇわ」

 

 もちろん、二重の意味でだ。

 それを聞いた五月がまたぷりぷりと怒り出したのは言うまでもない。

 

 

 




次の話で修学旅行は終了です。
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