それはさて置き今回は末っ子の話になります。
「で、デートに行きませんか?」
「は? 駄目だが」
家庭教師業務終了後の事だ。
中野姉妹のアパートから少し離れたところで、五月が前触れなく切り出した。
いや、見送ると言ってここまで着いてきたこと自体が前触れだったのかもしれないが。
なんにしても俺の答えは一つだけだ。
「ひ、ひどいですっ! 勇気を出して言ったのに……」
「五月、俺達はなんだ?」
「え、その……夫婦、とか?」
五月は頬を染めてとんでもないことを言い出した。
こいつの頭の中でどうなっているのかは別として、現実には俺達は恋人同士ですらない。
今後のためには否定しておかなければならないだろう。
「目を覚ませ、今のところそんな事実はない」
「そうでした。まだですよね」
「……ともかく、俺達は受験生だろうが」
「それは、そうなんですけど……」
中野姉妹の中で受験を一番意識しているのはこいつだ。
したがって勉強へのモチベーションも高い。
だというのに何故デートという言葉が飛び出してくるのか。
こうも立て続けだと、示し合わせてやっているのかと疑いたくもなってくる。
「……昨日は三玖と一緒に図書館に行ったみたいですし」
「あくまで勉強のためだ。三玖は着いてきただけでなんもしてねーよ」
「すごい上機嫌で帰ってきたんですけど、本当に何もなかったのですか?」
「ないったらない」
「怪しいですね……ところでその首の絆創膏は?」
首元に手を当てる。
表面がザラっとした感触は絆創膏のものだ。
昨日の別れ際に三玖が残した痕。
今朝親父に散々からかわれたため、それを隠すために貼ってある。
ワイシャツのボタンを一番上までとめれば隠れないことはないが、蒸し暑くなってきたのでそれは避けたかった。
「爪で引っ掻いちまっただけだ。大したことない」
「それならいいのですが……一花と二乃も心配してましたよ? 三玖だけは何故か恥ずかしそうにしてましたけど」
それは付けた張本人だからだ。
確かに今日は控えめだったが、やっぱりそういう理由か。
恥ずかしいならやらなければいいとは思うが、残念ながら中野姉妹はそれほどお利口ではないのだ。
だというのに弁当は渡してくるし、もうわけがわからない。
昼飯代が浮くのはありがたいので、感謝して受け取ったが。
それよりも問題は上二人の反応だった。
五月は単純に心配してくれているようだが、あの二人はそういう方面の嗅覚が鋭い。
心配と見せかけて、その実は怪しんでいたのではなかろうか。
そんな素振りは見られなかった、というかこちらを心配していた様子も見落としている。
現状ではどうなのか判断は付けられなかった。
まぁ、何を聞かれても怪我で通せばそれまでか。
三玖もきっと自分からペラペラ喋ったりはしないだろう。
「じゃ、そういうことだから」
「ええ、また明日……って、なんで普通に帰ろうとしてるんですか!」
「ちっ」
さっさと歩き去るつもりだったが、手を掴まれてしまったため仕方なく立ち止まる。
うやむやにしようとしたが、流石にそんなに甘くはなかったようだ。
「なに、まだなんかあるのかよ」
「昨日の件はともかくとして、その前の日は二乃を家に招いたとか」
「家族に挨拶したいって言うから連れてっただけだからな」
「か、家族に挨拶……まさかそんな、大胆すぎます!」
家族への挨拶をどう解釈したかは知らないが、五月は大いに慌てていた。
ちなみに俺の家に来た回数で言えばこいつがトップランカーである。
なんだったら泊まっていったことさえある。
その度にお邪魔しますだとか、お世話になってますだとか言っているわけだが。
ついでと言わんばかりに晩御飯をいただいて、あまつさえおかわりまで要求してくる姿はある意味豪胆と見れなくもない。
そんな五月が二乃の行動を指して大胆と言っているのだから、どの口がほざいているんだと突っ込みたくなるのは仕方がないだろう。
まぁ、実際には挨拶するべき家族はおらず、大胆とかいう表現では済まされない事態になったのだが、それを話したとしても俺の頬に赤い手形がつくだけだ。
それはそれである意味すっきりするのかもしれないが、その後の五月の行動が読めない。
二乃としたのだからと迫ってくる可能性は捨てきれなかった。
まさかこいつまで避妊具を持ち歩いているとは思わないが、子供が欲しいとまで言っていた奴だ。
新選組局長不在作戦が通じない可能性も考慮しなくてはならない。
……一体俺は何と戦っているんだろうな。
「私も負けるわけにはいきません。さぁ、行きましょうか」
「待て、お前はどこに行く気だ」
「え、もちろんあなたの家ですが」
「いや、駄目でしょ」
「ど、どうしてですかっ?」
どうしてもなにも、こいつは何しに俺の家に来るというのか。
晩御飯をたかりに来ると言うなら問答無用で却下。
二乃のように改めて挨拶をという段階はもうとっくに過ぎているし、単純に遊びに来るにしても時間が遅すぎる。
そして有り体に言えば、確実に勉強の邪魔になりそうなので招きたくない。
「何度も言うが、俺達は受験生だ」
「うっ……」
「俺もお前もすることは同じのはずだ。違うか?」
「それはそう、なのですが……」
馬鹿ではあるが真面目な五月は、こちらの意見が正しいとわかれば引き下がる。
ちなみに興奮している時や頭に血が上っている時はその限りではない。
その気まずそうな顔は、自分がわがままを言っているのだと理解しているからだろう。
「でも、この前は四葉を誘ってましたし」
「あれは主に親父の用事がメインだったんだが」
「二乃や三玖と放課後デートしてたみたいですし」
「デートじゃないってとこに目をつぶればそうと言えなくもない」
「一花と遊んでたって噂もありますし」
「待て、それはどこの情報だ」
「クラスメイトが話してましたよ。バドミントンしてたんですか?」
「……まぁ、そんなこともあったような?」
一花の件は知られていないと思っていたが、少々甘かったようだ。
あいつは売り出し中の女優様だし、高校生がああいった場所に遊びに行くのは珍しいことではないのだろう。
同じ旭高校の生徒に見られている可能性は十分にあったのだ。
仮にラブホの入口でのやり取りを見られていたら、一体どうなっていたのだろうか。
考えると頭が痛くなりそうなのでやめておこう。
「他のみんなとは一緒に出かけているのに、私だけ……」
「うん、まぁ……」
「ううううう……」
「その、なんだ?」
「ううううううう……」
唸るだけの生物と化した五月。
目尻に涙を貯めているのがまたタチが悪い。
俺が望んで他の姉妹を連れ回していたわけじゃない。
それなりの事情や理由が存在していたことは確かだ。
だが、五月から見たら不公平に映ることもまた確かなのだろう。
思えば、こいつがこんな風に俺にわがままを言ってくるのはかなりのレアケースだ。
よっぽど耐え兼ねたのか、それとも自分の姉妹と同じように俺を甘えられる相手として見ているのか。
なんにしても、こいつは姉妹の中で一番真面目に勉強に取り組んでいる。
家庭教師としてはご褒美ぐらいやっても問題ないはず……だよな?
「一時間だけな。あんまり遅くなると心配されそうだし」
「――ありがとうございます、上杉君!」
五月の機嫌は一気に回復した。
現金なやつだとは思うが、ここまで素直に喜ばれるとこちらも毒気を抜かれてしまう。
今までが今までだっただけに尚更だ。
あの最悪の出会いからよくもまぁ、ここまで好意的になったもんだ。
感慨に浸ることで押し付けられる柔らかい感触から必死に意識をそらす。
喜ぶのはともかく、抱きついてくるのは俺の精神力をすり減らすのでやめてほしいぜ。
「とりあえず、五月」
「はい」
「離れろ」
「あ……す、すみません」
ようやく自分が何をしているのか気がついたらしい。
五月は恥ずかしそうに少し距離をとった。
相変わらず距離感がバグっているようだ。
しかし、離れたはいいが今度はなにか物欲しそうな目をこちらに向けてくる。
そんなに見ても俺のリュックから食べ物は出てこないぞ。
「そういえば昨日、三玖とは手をつないで帰ったって……」
「あれはあいつがぼーっとしてて危なそうだったからだ」
「私もしたいです」
「嫌だぞ。暑いし」
「ううううう……」
「……」
「ううううううう……」
泣く子と地頭には勝てないという言葉の意味が今ならよくわかる。
こうなってはもうどうしようもない。
仕方なく、再び唸るだけの生物と化した五月の手を引いて歩き出すのだった。
手をつないだ瞬間、またすぐに上機嫌になったことは言うまでもない。
「それで、どこ行くんだよ」
「そうですね……とりあえずファミレス――」
「飲食店は禁止な」
「え……」
なんでかというと晩飯前だからだ。
五月だけ食べさせておけばいいのかもしれないが、それだとこいつ自身が気にし出す。
それでまた修学旅行の時みたいに、スプーンを差し出してくるなんて事態は避けたかった。
ここは地元なので恥をかき捨てられないのだ。
手をつないで歩いている時点で手遅れな気はするが、きっと気のせいだ。
なんにしてもこちらは付き合わされる立場なので、多少の意見は許されるだろう。
だからそんなこの世の終わりみたいな顔をするんじゃない。
「晩飯前だからなのはわかるが、そんな我慢できないほど腹減ってたのかよ」
「違いますっ、勉強で頭を使ったので糖分を……」
きゅるると腹の虫が鳴く。
もちろん俺のじゃない。
腹の虫の主は顔を赤くして、自分の腹に手を当ててプルプル震えだした。
まったく……時間制限あるの覚えてるのか、こいつ?
「コンビニ寄るか。ちょっと喉渇いたわ」
もう面倒なので、五月の手を引いて最寄りのコンビニへ。
流石に店内に入るときに手は離した。
店員や他の客の視線にさらされて耐えきれる自信はない。
俺は麦茶を、五月は肉まんを買ってコンビニを出る。
そのまま行こうとしたらまた唸りだしたので、再度手をつなぐ羽目に。
つーか片手で食いづらくないのかよ。
俺は片手が塞がってすごく飲みづらい。
文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、幸せそうに肉まんを頬張る姿には何も言えない。
まぁ、こんな時間の潰し方も悪くない。
「さて、次はどこに行きます? まだ時間ありますよね?」
「お前が決めろよ。俺は付き合ってる立場だぞ」
「それはそうなのですが、正直こうしていられるだけでも十分と言いますか……」
頬を染めながらも五月は穏やかに笑った。
正直に言うと、こういうのが一番困る。
ただただ性欲を煽られるだけなら対処のしようもあるのだが、こういう心にじんわりと染み渡るような感情はどう扱っていいのかわからないのだ。
こうなるともう、握った手の方に意識が行くし、気恥かしさに顔も熱くなる。
そしてなによりも、それを悪くないと思えてしまうのが一番問題だ。
このままこの感情に身を任せてもいいんじゃないかと、そんなことを考えてしまう。
「……行くぞ。とにかくどこか入ろうぜ」
「どこかと言われましても……あっ、そういえばちょっと見ておきたいものがあるんですけど」
「どれもこれも高すぎんだろ……やっぱりケタ間違えてるんじゃないのか?」
パジャマと思しき衣類を手に取り、値札を見て元に戻す。
デパートの安売りとお友達な上杉家とは縁のない代物だった。
場違いなことこの上ないが、五月がここに入ると決めたため勝手に出るわけにはいかない。
紆余曲折の末に俺達が訪れたのは、なにやら見覚えがある店だった。
勤労感謝の日に四葉が、二乃のルームウェアを買うために、と連れてきた場所だ。
一花や三玖も利用していたところを見ると、姉妹全員の行きつけの店だという可能性が高い。
残りの姉妹はアパートにいるため出くわすことはないだろうが、前回の事を考えるとどうにもそわそわしてしまう。
「恥ずかしいのであまりキョロキョロしないでください」
五月の指摘通り、少々挙動不審だっただろうか。
いつの間にやらその手にはハンガーにかかった衣類が数着。
上下セットと思しきそれは、普段着としてはカバーできる面積があまりにも少なかった。
まさかの下着かと身構えたが、よくよく見ると上下一体になっているものもある。
そして更に注視すると、それらは水着であることがわかった。
「ど、どれが似合うと思いますか?」
手に持った水着を自分の体に合わせるように前に持ってくると、五月はものすごく返答に困ることを聞いてきた。
四葉に言われたとおり、俺はオシャレに関しては下級者もいいところ。
水着の良し悪しなどわかるはずもない。
そもそも布面積からして下着と変わらないそれは、今の俺には少々刺激が強い代物だ。
着ているところを想像しろなんて、下手したら臨戦態勢になりかねない。
「まぁ、どれもいいんじゃねーの?」
「顔を背けながら言っても説得力ありませんよ。もっとちゃんと見てください!」
「~~っ、大体な! 着てるとこも見ないで似合ってるかどうかなんてわかるかよ!」
「そ、それは……」
どう転ぶかは賭けだったが、五月はたじろいだ。
これが一花や二乃だったら怯むことなく着てみせただろう。
どうやら羞恥心を煽るという作戦はこいつには有効のようだ。
「……わかりました。試着してくるので少し待っててください」
「……は? いや、ちょっと待て。む、無理しなくていいんだぞ?」
「恥ずかしいですけど、あなたの好みが知りたいんです」
そこまで言われてしまったら、もう黙るしかなかった。
そして水着を持ったまま試着室に入った五月を悶々と待つ羽目に。
衣擦れの音が妙に気になったが、自分の脇腹を抓ることで対応した。
時間の流れがやけに遅く感じられる。
どうやら相対性理論が当てはまるのは物理的な範囲に留まらないらしい。
「お、お待たせしました……って、どうして上を見ているのですか」
「照明のセンス半端ねえなって思ってな」
自分でも何言ってんだこいつと思わなくもないが、そういうことなのだ。
決していきなり水着姿を目の当たりにするショックを和らげようとしたわけではない。
しかしいつまでもこうしてはいられないので、恐る恐る視線を下げていく。
心を鋼にして身構えるが、そこに予想していた光景はなかった。
五月は何故か体の大部分をカーテンで隠し、顔だけを覗かせていた。
「なにやってんの、お前?」
「ううぅ~~……着てみたはいいのですが、見せるとなるとやっぱり恥ずかしくて」
「だから無理すんなって言ったろうが」
「と、とにかくこちらへ来てください」
手招きに応じて試着室へ近寄る。
すると、五月はおずおずとカーテンを開けて隙間から水着姿を覗かせた。
見える範囲が限られているため、真っ先に胸元が目に入った。
普段のこいつならば決して見せないであろう胸の谷間。
ごく最近の出来事がフラッシュバックする。
それは俺の剣を挟んで舐める二乃の――
「――っ、もう十分だよな!」
「あっ、待ってください!」
離れようとしたら手を掴まれて引き止められる。
振りほどこうとしても振りほどけなかった。
単純に俺のパワー不足だ。
「とりあえず手を離せ」
「いやです。全然見てませんよね?」
「だからもう十分だって。お前も恥ずかしがってただろ」
「それはそうなのですが、あなたに見てもらわないと意味がありません」
「見た見た、十分見たから!」
「では、この水着の柄について聞いても答えられますよね?」
「……ちょ、蝶柄とか?」
もちろん柄なんて気にする余裕はなかった。
咄嗟に思い浮かんだ柄が蝶なのは、恐らく直前に二乃のことを思い浮かべたからだ。
当然、そんな当てずっぽうが当たるはずはない。
「やっぱり見てないじゃないですか!」
「ば、馬鹿っ! そんな引っ張るな……!」
それからは逃げようとする俺と逃さんとする五月の引き合いだ。
男女の差を考慮すると情けない限りなのだが、力は拮抗していた。
しかし目の端に店員の姿を捉えたのがいけなかった。
「うわっ――」
「え――きゃあっ」
気を逸らした俺の力は緩み、結果として五月に引き込まれるような形で試着室の中へ。
バランスを崩した体を支えるために壁に伸ばした俺の手は、何故だか柔らかい膨らみに着陸した。
顔を上げる――真っ赤に染まった五月の顔が目前にあった。
俺はあろうことか、壁に五月を押し付けた上でその胸に手を当てていた。
客観的に見て有罪確定な状況だった。
「お客様、いかがなさいましたか?」
「「――っ!」」
物音を聞きつけたのか、店員が呼びかけてくる。
二人揃って息を飲む。
こんなところを見られるわけにはいかない。
どうするかと頭を回転させるが見事に空回り。
五月との接触はきっちり俺から冷静さを奪っていた。
近づいてくる足音に万事休すかと思われたが、その前にカーテンが閉まった。
五月の手が店員に見られるよりも早く動いていた。
「だだだ、大丈夫です! ちょっと転んでしまっただけですので!」
こう言われてしまったら店員側もそれ以上の追求はしない。
一言だけこちらの心配をすると足音は離れていった。
ほっと息を付きたいところだが、それを許してくれる状況じゃない。
こんな狭い場所で二人きり、それも密着しているとなれば俺の精神力もゴリゴリと削られていく。
水着姿で肌を晒しているのもたいへんよろしくない。
決壊する前に離れなければならない。
揉みしだきたくなる衝動を抑え込んで、五月の胸から手を離す。
そしてあらためて壁に手をついて体を離そうとしたが、五月がそれを阻んだ。
俺の顔をその両手で挟み込むように掴むと、自分の顔と向き合わせたのだ。
相変わらず顔を真っ赤にしていたが、今度は目の色も変わっていた。
「……いい、ですよね?」
何も良くはなかったが、いい加減俺の精神力も限界に来ていた。
顔を近づけてくる五月を逆に壁に押し付けて唇を奪う。
驚きからか一瞬だけ目を見開いたが、すぐに蕩けるように緩んだ。
後は難しいことは何もない。
頭が熱に浮かされた者どうし、行き着くところは決まっている。
俺は再び五月の胸に手を伸ばして――
「あ……」
「時間、みたいだな」
律儀にも携帯で設定していた一時間のタイマーが作動した。
体を離して音を止める。
鳴らしっぱなしにしておくと、また店員が寄ってくる恐れがあった。
今のでようやく頭に冷静さが戻ってきた。
物足りなさそうにしている五月をなだめて試着室の外へ。
そして五月が着替え終わるまでの間、全力で体の中の熱を冷ましにかかるのだった。
「お前はまた食うのかよ」
「い、いいじゃないですか! あんなに恥ずかしい思いをしたのでこれはやけ食いです!」
帰り道、再びコンビニに寄った五月はあんまんを頬張っていた。
あんなことがあった後では流石に手をつなぐ気にはなれなかったのか、とりあえず両手ともフリーだ。
あれだけ手をつながされて慣れてしまったのか、こうなると逆に物足りなく感じてしまう。
「結局買わなかったけどよかったのか? 会計の時間ぐらいだったら待っててもよかったんだぞ」
「あなたの意見が聞けないんじゃ何の意味もありませんから」
「……そうかよ」
五月は俺の好みが知りたいといった。
その意味するところは、いくらなんでもわかる。
嬉しいような気恥かしいような、なんともむず痒い感覚だ。
なんにしても確かなのは、こいつがこの夏に水着を着る気が満々だということだ。
それがプールなのか海なのかは知らないが、受験生の自覚があるのだろうか。
そして俺もそれに巻き込まれるのは容易に予想できた。
……まぁ、一度くらいは付き合ってやってもいいのかもしれない。
ひたすら勉強を重ねることは大事だが、張り詰めすぎては糸が切れるだけだ。
適度に緩めるためにも、そういう機会があってもいいのだろう。
もちろんその際には朝の日課をいつもより念入りに行う必要があるだろうが。
「今日はありがとうございました。私のわがままを聞いてくれて嬉しかったです」
「全くだ。お前らはもう少し俺の都合を気にしろ」
「うっ……あ、あんまん一口いります?」
差し出されたあんまんはまだ半分ほど残っていた。
お言葉に甘えてでっかく一口頬張る。
餡の部分を大分抉りとってやったので、残りは寂しいことになっているだろう。
五月は呆然とした顔をしていたが、知ったことじゃない。
これはせめてもの仕返しであり、やけ食いなのだ。
恨むのなら自分の不用心さを恨めという話だ。
「……」
しかし、その後の反応はいささか予想とは外れていた。
俺の噛み跡がついたあんまんを見つめる目は、どう見てもショックに打ちひしがれるものではなかった。
落ち着きがない様子で手に持ったあんまんを凝視している。
その姿に修学旅行の最終日、俺が口をつけたスプーンをもって固まっていた光景が重なる。
ここで俺は自分の失敗を悟った。
旅行先でもないのに、かき捨てられない恥を作ってどうしようというのか。
失敗を取り返すため五月の持つあんまんに手を伸ばす。
「やっぱ全部よこせ」
「い、いやです!」
「一口だけじゃ全然お詫びとして成立しねーんだよ!」
「――はむっ」
しかし五月は素早く残りを頬張って口の中に収めてしまった。
こうなってはもうどうしようもなかった。
せいぜい膨らんだ頬をつまんで引っ張ってやることぐらいしかできない。
五月は涙目で抗議の視線を送ってきたが、無視してやった。
「そういえばお前、早くジャージ返せよ」
「んぐっ……そ、そういえばそうでしたね」
「まさか変な事に使ってないだろうな」
「それは……」
軽い冗談のつもりで言ってみたのだが、五月の反応は怪しかった。
正直に言えば、この時期はハーフパンツで事足りるので長袖の上下がなくとも授業に問題はない。
しかし、自分の衣類が何に使われているともしれない状況にあるというのは見過ごせない。
丁度いい、こいつを送り届けるついでに回収してしまおう。
「失くしたわけじゃないだろ?」
「それはもちろん」
「じゃあ今日持ってくからな」
「そ、それはダメです!」
「は? なんでだよ」
いよいよもって疑惑が深まった。
これ以上の問答は無用と判断して足を早める。
五月があれこれと言い訳してきたが、どれもこれも聞き流す。
ローテーションがどうとか順番がどうとかさっぱりわけわからん。
その後姉妹のアパートに突撃するのだが、全員の猛抗議を受けてあえなく撤退。
ジャージは数週間後にきっちりクリーニングされて帰ってきた。
それと引き換えに、使い古しの衣類を要求されたのは流石に理不尽だったと思う。
四葉の回は(今は)ありません。
次回からは話が進むと思われます。