というわけで今回はフー君が敗北宣言をする話です。
「夏、最高……!」
開け放たれた窓から差し込む日光と、吹き込む風。
扇風機という文明の利器の恩恵を受けつつ、俺は夏を満喫していた。
受験生にとっての夏……即ち勉強!
「もー、お勉強しながらそんなこと言ってるのお兄ちゃんぐらいだよ?」
「らいはもその内わかるさ」
「えー? そんなことより夏休みだよ? なにか予定ないの?」
「強いて言うなら勉強だな」
「五月さんたちと遊びに行ったりとか」
「……それこそねーよ」
実のところ、勉強に専念したいという理由で夏休みの間の家庭教師は休ませてもらっている。
その分たっぷりと宿題を出したので、あいつらの学力の低下はない……と信じたい。
例によってプリントを渡したときは絶望の表情を浮かべていたが、期間はそれなりに長いので大丈夫だろう。
勉強をしたいという意思をこれでもかと強調したため、夏休み前のようにデートに誘ってくるなんてことはないはずだ。
携帯が震え、メールの到来を告げる。
四葉からだった。
ないはず……だよな?
「メール? 珍しいね」
「四葉からだ」
「あ、ひょっとしてデートのお誘いかな?」
「馬鹿言うな。別にどうってことない内容だ」
実際にメールの大半は俺の安否確認だった。
しかし最後の方には――
『そういえば来週の日曜日にクラスのみんなで海に行くみたいですよ! 上杉さんもどうですか?』
そんな情報がわざとらしく付け加えられていた。
確かにそんな話を夏休み前に耳にしたことがある。
武田や前田が話していたのだが、はっきり言って興味なかったので半ば聞き流していた。
当然行く気はない。
四葉の意図はなんとなくだがわかる。
つまりは俺がクラスに馴染めるようにというお節介だ。
正直に言えば、その気遣いに悪い気はしない。
しかしながら来週の日曜という日程がまた良くない。
その日にはケーキ屋のバイトがあるのだ。
あいつの気遣いを無下にするようで悪いとは思うが、こればかりはどうしようもない。
心ばかりの謝罪の気持ちを示すため、今取り掛かっている問題を送ってやった。
なぜか宇宙を背景にしている真顔の猫の画像が返ってきた。
「なんか楽しそうだね」
「気のせいだ。さ、勉強勉強」
携帯を放り投げる。
今みたいにいちいちメールの相手をしていたら気が散って仕方ない。
そもそも送ってくる奴がほとんどいないというのは伏せておこう。
「夏といえば海よ」
「山がいいと思う」
「そんなのいつだっていいじゃない」
「夏にしかできないこともある。それに海は騒がしいし」
二乃と三玖が食事の用意をしながらどこに遊びに行くかで揉めている最中、四葉と五月はとある書類を覗き込んでいた。
このアパートの住人に宛てられた解約申入書だ。
老朽化が進んで管理が難しくなったことから、取り壊す予定であるらしい。
期限は半年……それまでに次の住居を見つけなければならない。
「どうします、これ?」
「う~ん……まぁ、引越さなきゃいけないのはたしかだよね」
四葉の言うとおり、いずれにしても出ていかなければならない。
新しい住居を探すことを考えたら、動き出すのは早い方がいいだろう。
ここに引っ越してきて半年余り。
卒業でそれぞれの道へ進んでいくとしても、それまではここで暮らせるものと考えていた。
引越してきてからの期間は短いものの、思い出や愛着がある。
姉妹の胸には少なからず寂寥感が募っていた。
「焦らずやってこうよ。まだ半年もあるしさ」
「半年というと、ちょうど受験シーズンですね」
五月の言葉に場の空気が微妙なものになる。
高校三年生ともなれば、大体の生徒が受験を意識するだろう。
そしてほとんどの場合において、それは気が重くなる話題なのである。
とりあえず大学に進学することにした二乃は、あからさまに嫌そうな顔をした。
「考えたくもないわ……」
「そっか。なら早めにしちゃったほうがいいのかな?」
引越しの準備にかかる手間を考えると、まとまった時間が欲しい。
高校に通いながらコツコツと進める手もなくはないが、夏休みが終わればいよいよ受験に向けて忙しくなる。
そんな中で引越しをするのはどう考えても余裕がなさすぎる。
かといって次の長期休暇――冬休みまで待っていては受験シーズンに突入である。
となればこの夏休み中に済ませてしまうのが得策か。
ここにはいない一花以外の姉妹の意見が一致した。
「けど、やっぱり寂しいね……」
「……うん、色々思い出もあるしね」
「そうですよね……」
「あーもう、湿っぽいのなし! ほら、ご飯できたから運びなさいよ」
三玖の言葉を皮切りに、四葉と五月もしんみりとしだす。
二乃は思い出に浸りそうになっている三人の尻を叩いた。
その気持ちはわかるが、せっかく出来た料理を台無しにされるのは困るのだ。
「そういえば、フータローにも伝えておいたほうがいいよね」
「そうですね。じゃあ私が――三玖、手を離してください」
風太郎に連絡を取るため自分の携帯に手を伸ばした五月だが、三玖の手がそれを阻んだ。
夏休み中は勉強に専念したい、と休みに入る直前にこれでもかというぐらい言われている。
四葉を除く姉妹は自分の下心を自覚しているので、かえって連絡が取りづらい状況にあった。
そんなわけで、こういった大義名分が必要になるのだ。
牽制し合う三玖と五月をよそに、バイトで顔を合わせる機会のある二乃は涼しい顔である。
それに加えて夏休み前のとある出来事のおかげか、妹たちの小競り合いを見守る姿には余裕すら漂っている。
「そ、それじゃ私は一花を呼んでくるね」
姉妹が発する熱気から逃げるように靴を引っ掛けると、四葉は玄関から外へ。
一花は部屋の件について電話をしてくれているはずだ。
階下にその姿を認め、声をかけようとして――
「ええ、社長の言ってることはよくわかります」
「いち――」
「けど、学校を辞めるのはさすがに……」
思いがけない言葉に、四葉は固まらざるを得なかった。
「え、バイク事故?」
『すまないが、少しの間店は休みにしたい』
今日も今日とて、らいはに予定はないのかとせっつかれながら勉強していた時のことだ。
バイト先のケーキ屋の店長からの電話――バイク事故で足を怪我して入院したのだという。
当然店に出ることも出来ないので、少なくとも病院を出るまでは休業するとの連絡だ。
怪我の心配はもちろんだが、収入が減るのは正直痛い。
特にこの夏休みは家庭教師も休んでいるから、収入の大部分が消えてしまう。
勉強に専念できると考えたら短期的には悪くないのかもしれないが、いつまでもこのままの状態というのは良くない。
休みが明けたら新しいバイトを探すことも検討すべきだろうか。
「まいったな……」
「難しそうな顔してる。もう気分転換に外出たほうがいいよ。来週の日曜日とかどうかな?」
「来週の日曜、ね」
何故らいはがその日を推してくるのかはわからないが、丁度たった今予定が消し飛んだところだ。
四葉からのメールにあった日付もその日だ。
タイミングが出来すぎている気がしてならないが、なんにしても遊びに出るつもりはない。
「もー、お兄ちゃん強情過ぎ!」
「そうは言ってもな、家庭教師を休んでるのだって自分の勉強のためなんだぞ」
「むー、じゃあ五月さんたちのことはいいの?」
「宿題はたっぷり出しといたからな」
「そういうことじゃなくて!」
業を煮やしたらいはは一冊の本を取り出した。
その本は俺にとってよく覚えがあるもので――
「お兄ちゃんがこっそりこんな本読んでるの、知ってるんだからね」
「そ、それは……!」
『高校生のための恋愛ガイド』
苦手分野を克服するために購入した書籍だった。
昨夜も就寝前に読んでいた。
当然家族の目に触れないように気をつけてはいたが、エロ本ほどの警戒はしていなかった。
せいぜいが教科書や問題集の中に紛れさせるくらいのことしかしていなかったのだ。
どうせずっと家にいるのだからどうとでもなるという油断もあった。
その結果として、兄の威厳のピンチが訪れていた。
「それはあれだ……そう! 友達が無理矢理押し付けてきたんだ!」
「お兄ちゃんに友達なんていないでしょ」
バッサリ切り捨てられてしまった。
しかし、連絡先には家族や中野姉妹以外の名前も確かにあるのだ。
一応武田と前田は友人と呼べなくもない……のかもしれない。
それを主張したところでらいはが信じるかどうかは別問題なのだが。
「ねーねー、そんなに気にしてるなら皆を誘って遊びに行こうよ」
「そうは言ってもだな……」
あれだけ勉強したいと強調しておいて、こちらから遊びに誘うのはどうなのかという話だ。
それにあっちには同じく受験勉強をしているであろう五月がいる。
仮にも教師が生徒の勉強の機会を奪うなんてことは――
『恥ずかしいですけど、あなたの好みが知りたいんです』
そして、当の本人がそんなことを言っていたのを思い出した。
夏休みに入る直前は勉強へ意識が行ってて、すっかり忘れてしまっていた。
水着を何のために買うのかといえば、それは着用するためだろう。
延いてはその状態で何かをすることを示しており、そこには当然のように俺も含まれているらしい。
受験生が夏休みに勉強に打ち込むのは自明の理だ。
遊びにうつつを抜かすなど言語道断と言う他ない。
しかし、ずっと張り詰めっぱなしではかえって効率が悪くなるのも事実。
それにまぁ……そんなに俺と遊ぶ事を楽しみにしていたのだとすると、ああもバッサリとシャットアウトしてしまった事に罪悪感を覚えないでもない。
……少しぐらい譲歩してもいいのかもしれない。
「長らく行ってないし、海に行くなんてのもいいかもな」
「わぁ、いいね! 行こうよお兄ちゃん!」
「まぁ、ちょうど予定が吹き飛んだからな」
「五月さんたちも誘って行こうよ」
「いや、それはさすがに」
「ふっふっふ……そう言ってられるのも今のうちだけなんだからね!」
らいはは何やら不敵に笑っていた。
なんにせよ、全員とまではいかずとも何人かは顔を見せるに違いない。
少なくともしきりに海に行きたいと口にしていた二乃は来るだろう。
あいつとも色々あったが、さすがにその他大勢がいる状況では手を出しては来ないだろうし。
……一応、当日の朝は日課を念入りに行うとしよう。
そうと決まればひたすら勉強だ。
要は多少遊んでも問題ないくらい勉強しておけばいいのだ。
「海だーっ!」
照りつける太陽の下、波打ち際でらいはは手を振り上げて跳ねた。
絶好の海日和だった。
来て早々、風太郎はパラソルの下に避難しようとしていたので引きずり出しておいた。
あれこれと言葉を尽くして兄を海に連れ出すことに成功したらいはだが、そこにはある思惑があった。
本人は否定するだろうが、中野姉妹と出会ってからの風太郎の変化は顕著だ。
恋愛に関する本を買って読みふけっているなどはその最たる例だ。
中学生になったらいははちょっぴりだけマセており、そんな兄の背中を押してあげようというお節介が今回の発端だった。
気分的には恋のキューピッドである。
五人が今日ここに来ることは事前に五月とやりとりして確認済みだ。
しかし渋る兄を連れて海に来る前にアパートまで迎えに行ったのだが、先に出てしまったのか留守だった。
一緒に行くと約束していたわけではないので、そこは仕方がない。
偶然出会うのもシチュエーションとしてはおいしいので、むしろ好機と考えることにした。
「なんだ、お前らも来てたのか」
死角になって見えないが、風太郎が知り合いの姿を見つけたらしい。
こんなに親しげに声をかける相手は限られている。
らいはは期待に目を輝かせた。
「おお、来たのかよコラ」
「やぁ、久しぶり」
果たして現れたのは見知らぬ男二人だった。
期待していただけにガッカリ感は隠せなかった。
前田と武田と呼ばれた二人は風太郎がちゃんと名前を覚えているあたり、それなりに関わりがあることはうかがい知れた。
なんせ没交渉過ぎて、クラスメイトであるだけならば名前すら覚えていないのがほとんどなのだ。
「まさか上杉が来るとはな」
「ふふふ、僕のメールはきっちり読んでくれたようだね」
「いや、携帯は放り投げてたからしばらく見てないな。他の奴らも来てるのか?」
落ち込む武田をよそに、前田が少し離れたところにいる男女の集団を指した。
どうやらあれが風太郎のクラスメイトらしい。
その中に中野姉妹の姿を探すが、見つけることはできなかった。
(あれー……おかしいなぁ)
腕を組んで首をかしげてみるが、五つ子は現れない。
風太郎もどこか落ち着かない様子で辺りを見回していた。
そんな二人の後方――堤防の上の道路を、見覚えのある黒塗りの高級車が走っていることには気づかなかった。
「着いた~!」
黒塗りの高級車から降りると、四葉は我が家を仰ぎ見た。
高級タワーマンションのペンタゴン。
アパートを退去せざるを得なくなった中野姉妹は、元の住処に戻ることに決めた。
そもそも家を出た理由は、マンションへの風太郎の出入りを禁止されたからだ。
したがって、雇い主である姉妹の父親が認めた今であれば戻っても問題はないのだ。
「言っとくけど、次の家を見つけるまでのつなぎだから!」
「上杉君の出入りが許されているので、出て行く理由もないと思うんですけど」
「二乃は強情だね」
息巻く二乃に続いて五月と三玖が中に入っていく。
四葉も三人の後を追おうとしたのだが、立ち尽くしたままの一花に気づいて立ち止まった。
「一花、どうしたの?」
「ん……ちょっとね、部屋どうなってるのかなって」
一花の危惧はもっともだ。
マンションを出る前、料理以外の家事は分担していた。
そこにはもちろん日常的な掃除も含まれている。
父は滅多に家に帰らないので、そこらへんのことは期待できないだろう。
だがしかし、それを一花が心配するのには正直首を傾げざるを得ない。
外面とは裏腹に、姉妹の中では一番だらしないのがこの長女なのである。
あの汚部屋の主がその程度の事を気にするとは、とてもじゃないが思えなかった。
もっとも、四葉がこのように考えるのも別の心当たりがあってのことだ。
学校を辞める――電話で話していた一花の口から出た言葉は、中々頭から離れてくれなかった。
「わっ、綺麗なままだ」
「江端さんが掃除しててくれたのかな? まぁ、お父さんはやっぱりいないみたいだけど」
果たして、部屋の中は綺麗なまま保たれていた。
しかし日曜だというのに父の姿はない。
単純に忙しいのか、それとも敢えて寄り付かないのか。
どちらかはわからないが、二乃は面白くなさそうな顔をしていた。
「そうだ。久しぶりだしフータローも呼ぼうよ」
「あら、いいわね」
「でも、連絡しても大丈夫でしょうか」
「うーん、そうだなぁ……引越ししたって連絡もかねてなら大丈夫じゃないかな?」
「あいつメール返してこないし、電話でいいわよね」
そうなれば早速、とスマホを取り出す二乃。
ケーキ屋のバイトで顔を合わせるからと余裕を持っていたが、今やその機会は失われている。
以前よりもさらに風太郎にのめり込んでいる二乃としては、このチャンスを逃すつもりはなかった。
しかし、この場には同じことを考える者が複数人。
そのまま黙って見過ごす道理はない。
「ちょっと、離しなさいよ」
「嫌、私がかけたい」
「まぁまぁ、ここは代表として長女の私が適任だよ」
「いいえ、間を取って私がかけましょう」
どこをどう間を取れば末っ子になるのかは謎だったが、とにかく誰一人として退く気がないのは明らかだった。
火花が散り始めたこの場において、四葉は果敢にも右手を掲げて注意を引いた。
「はいはーい! こうなったらもう運任せ……ジャンケンだね!」
このままでは埒があかないのは確かだったので、全員がその意見に賛同した。
ここで普通に自分もジャンケンに参加してしまったのは四葉の失敗だった。
特に何も考えずに場の流れに身を任せてしまったのが原因だ。
「「「「……」」」」
「あ、あはは……」
四つのチョキに一つのグー。
一人だけ拳を握り締めた四葉は乾いた笑い声を上げた。
かくして勝者は決まった。
四人の視線を一身に受けながら、スマホを手にする四葉。
圧がすごかった。
「えっと、別に私はかけなくても……」
「「「「いいから早く」」」」
そして距離もやたらと近い。
四人とも四葉のスマホに対して耳をそばだてていた。
電話が繋がったらスピーカーモードにすることを決意して、四葉は風太郎の連絡先を呼び出した。
コール音が続き――
「あれ、繋がらないや」
しかし風太郎が応答することはなかった。
何回かかけ直してみるが結果は変わらず。
こうも繋がらないのならば、携帯が使えない状態と見るのが自然だろう。
「フータロー君、忙しいのかな?」
「あいつのことだし、勉強の邪魔だからって電源切ってそうね」
「それ、ありそう」
「もしくはあまりに放置しすぎてバッテリーが切れてるか、ですね」
どちらにしても普通にありえそうなのが上杉風太郎という男なのだ。
そう考えるとこの前、四葉が送ったメールに返信があったのは奇跡だったのかもしれない。
「あはは、もしかしてクラスのみんなと海で遊んでたりして」
「うーん、想像できないかな」
「ないでしょ」
「ないない」
「ありませんね」
相次ぐ否定。
言ってみた四葉としてもそんな光景はいまいち思い浮かばなかった。
今日は三年一組の有志で海に遊びに行く日だ。
中野姉妹も参加する予定だったのだが、引越しの日と重なってしまいそっちが優先された。
残念だが、これに関しては後日あらためて姉妹だけで海に遊びにいくという形で埋め合わせを予定している。
「フータロー、会いたいな……」
三玖の呟きは他の姉妹の代弁でもあった。
そしてそれは四葉も例外ではない。
(上杉さん、寂しくしてないかな……)
「左、左! 学級長そこ左ー!」
「右、右! ど頭かち割ったれー!」
「どっちだよ!」
視界を塞がれ、自分がどっちを向いているのかもわからない中で右往左往する。
木の棒を構えてスイカ割りに臨む兄の勇姿に、らいはも声を張り上げた。
「お兄ちゃーん! 早くスイカ食べたーい!」
「くそっ、右と左どっちだ……!」
スタート地点からここまでは指示に統一性があったものの、ゴール手前になった瞬間、右と左で周囲の声が分かれてしまった。
風太郎にはもちろん見えていないが、スイカの横には前田が頭だけ出して埋められている。
何か言いたそうな仏頂面だが、喋ってはいけないルールなのでだんまりである。
つまりここでの左右の選択は、どちらを叩くかということだ。
スイカを叩き割るか、前田の頭をかち割るか。
怪我をしたらいけないので緩衝材として数枚のタオルを頭の上に置かれていたが、それでも叩かれれば痛い。
スイカと自分の頭に交互に照準を合わせる風太郎を、前田は固唾を飲んで見守った。
その際の、ほんの僅かな喉の動きと振動。
波音や喧騒に紛れて消えてしまうごくごく小さな音。
だというのに、それを察知したかのように棒の先が前田の頭を捉えた。
そして木の棒がゆっくりと振り上げられ――
「待てうえすぎ――」
「そこかっ……!」
思わず口をついた前田の制止の声も虚しく、木の棒は振り下ろされた。
「あちゃー、次に持ち越しだね」
「残念でしたねー」
「学級長の妹さんだっけ? かわいー」
「スイカはもうちょっとかかりそうだし、焼きそば食う?」
「食うー!」
「つ、疲れた……」
重たい体を引きずるようにビーチパラソルの下へ避難する。
スイカ割りで前田の頭をかち割った後も、今度は俺が砂に埋められたり海の中でビーチボールで遊んだりと連れ回されてしまった。
おかげで疲労困憊だ。
らいはも遊び疲れたのか、今はすやすやと寝息を立てている。
天使の寝顔とはまさにこのことだろう。
夏真っ盛りとはいえ、ここは日陰で少し風も出てきた。
体を冷やさないようにタオルをかけておく。
「はー、楽しかったー」
「あ、学級長も休憩?」
頭の片側からぴょこんと飛び出たサイドテールの女子と、切り揃えられた前髪の女子。
椿と葵という名前が浮かんだが、どっちがどっちかまではわからなかった。
「お前ら、濡れたままで大丈夫か?」
「へーきへーき。そのうち乾くし」
「もしかして心配してくれてる? 学級長やさしー」
「うるせーよ。ほら、これ使え。風も出てきたし冷えるぞ」
元々余分に持ってきてたタオルを渡してやる。
すると二人は受け取りはしたものの、ポカンとした顔をしていた。
「さっきらいはと遊んでくれてたろ。その礼と思ってくれ」
「はー、なんていうかお兄ちゃんって感じ」
「だねー」
「事実として兄だが。まぁ、帰る時にでも渡してくれたらそれでいいから」
「はーい」
「ありがとねー」
なんともゆるゆるな二人だが、らいはが世話になった分は返しておくべきだろう。
受けた恩を返すというのは、きっと人間関係における基本なのだ。
……俺はそんなことを気にするようになったのか。
どこのどいつらの影響なのかは、考えるまでもなかった。
あいつらは今頃、一体何をしているのやら。
「でも、中野さんたちは残念だったよねー」
「学級長は四葉ちゃんから何も聞いてないの?」
「いいや、ちょっと前に海に遊びにいくことは聞いてたが……」
「そっかー、やっぱり急用だったのかな?」
「仲良しの学級長も知らないんじゃ仕方ないよね」
仲良しという部分には誤解がありそうなものの、クラスの他の奴と比べれば関わりが深いのは確かだ。
俺としても全員とは言わないまでも、何人かは顔を見せると思っていただけに少しだけだが気になるところではある。
「あれ? そういえば学級長って三玖ちゃんからお弁当もらってたような……」
「あーそれな! 料理の練習だかで作ったのが余るらしくてな! 昼飯代が浮くからありがたい限りだぜ!」
「二乃ちゃんとは同じバイトで仲良さそうにしてるって……」
「仮にも先輩だからな! 色々面倒を見てるのがそう見えたのかもな!」
「五月ちゃんにはよく勉強を教えてるみたいだし……」
「あいつも意欲はあるが実力が追いつかないみたいでな! これでも学級長だから少しだけ助力してるんだよ!」
「一花ちゃんとはよく一緒に登校してるみたいだし……」
「なんでだかよく出くわすんだよな! 本人も偶然って言ってるんだからその通りなんだろうな!」
「そもそも四葉ちゃんと付き合ってるんじゃ……」
「全く誰がそんな噂を流してるんだろうな! 同じ学級長だからって安易にすぎるよな!」
「うわー……」
「学級長ってもしかして結構……」
二人の視線が若干冷たくなる。
俺としては誤解をされないように言葉を尽くしたつもりだが、少しばかりテンパっていたことは否めない。
ていうか、なんで学外の二乃のことまで把握されているのかが意味不明だ。
いや、あの店にクラスメイトが来ていないとも限らないんだが。
「とにかく! あいつらとは普通に標準的なクラスメイトの間柄だ」
「はいはい、学級長は中野さんたちと仲良しってことね」
「俺の話を聞いてたか?」
「刺されないように気をつけてねー」
「シャレにならないんだが!?」
「上杉……まだ痛ぇぞ」
「だから何度も謝っただろ……」
外はすっかり暗くなり、空には星、そして俺の膝にらいはの寝顔。
横からはもう何度目かもわからない前田の恨み言だ。
その額にはガーゼが貼り付けられている。
間違いなく俺の一撃によるものだ。
「まだ言ってるの? 男らしくない」
「残念だよ。あそこにいたのが僕なら、もっとしっかり受け止めたのに」
「えっ……」
やってきたのは武田と……たしか松井だったか。
林間学校の肝試しの時に前田と組んでいた女子だ。
武田の発言に若干引いていた。
気持ちはよくわかる。
「ま、なんだかんだで笑えたし? 楽しかったから結果オーライだよ」
「ったく、今度なんか奢れよコラ」
「ああ、三百円までな」
「遠足のおやつかよ!」
そんなことを言われても無い袖は振れない。
むしろ俺の昼飯代の1.5倍なのだから十分贅沢だ。
そんな俺と前田のやり取りを見ると、松井は腹を押さえて笑い出した。
「アハハハ! 上杉君も楽しんでくれたみたいで良かったー」
言われて初めて気づく。
どうやら俺は、今日の集まりを楽しんでいたらしい。
そもそも海でこんなふうに遊んだのは、いつぶりなのかという話だ。
そして気づいてしまった故に、この場にあいつらもいたら、などと考えてしまう。
そうなるともう駄目だった。
クラスの皆で盛り上がったはずのあれこれも、どこか物足りなく感じてしまった。
ああ、あいつらがいたらもっと楽しかったろうな……と。
「この後花火をするそうだが、上杉君もどうだい?」
「いや、らいはも疲れちまってるし俺は帰る。クラスの皆によろしくな」
「意外だね、君がそんな事を口にするとは」
「元からこんな感じだったと思うが」
「いや、それはねーだろ」
「ないね。君はもっと孤高だったよ……まったく、一体誰の影響なんだろうね」
前田と武田に口を揃えて否定された。
納得いかないが、岡目八目という言葉もある。
四葉の推薦学級長である俺の人望のなさを考えると、こいつらの言うことが正しいのかもしれない。
「じゃあ、また学校でな」
らいはを背負って立ち上がる。
見事に負かされた気分だった。
そもそもの話ではあるが、俺はどうにも恋愛感情というものがよくわかっていなかった。
初恋らしき何かの思い出はあるものの、一般的な男子がそういった感情を育む期間を勉強に費やしてきたのが原因だろう。
だからこそあんな本を買って自分の中の気持ちに整理をつけようとしていたのだが、わかったのは俺が置かれている状況が特殊にすぎる、ということだ。
中野姉妹は間違いなく俺の中で特別だ。
でもそれがどういった感情に根ざしたものなのかがハッキリとしていなかったのだ。
あるいは、ハッキリとさせるのを避けていたのかもしれない。
もしそれであいつらを性欲の対象としてしか見ていないのだと分かってしまえば、間違いなく道を踏み外してしまう予感があった。
……今も踏み外しかけているのはさておき。
どうやら認めなければいけないらしい。
俺は中野姉妹が好きなのだ、と。
「あー、くそっ……あいつらに会いてーな……」
それは夏休みを勉強して過ごすと決めた俺の、これ以上ない敗北宣言だった。
「ふぃ~……やっぱ快適だねー」
ソファーに寝っ転がったまま四葉は気の抜けた声を出した。
リビングはエアコンが効いていてそれはもう快適なものである。
退去済みのアパートにはそんな贅沢品はなかったので尚更だ。
引越した直後ではあるが事前に荷物などは運び込んであったため、作業自体は引越し当日の昨日のうちに終わっている。
他の姉妹も夕食後の時間をこの場でそれぞれ思い思いに過ごしていた。
「なんか飲むー?」
「じゃあコーヒーで」
「私は緑茶」
「オレンジジュース!」
「それよりも小腹が空いてしまったのですが」
「あんたら少しは統一しなさいよ! あと五月、さっきご飯食べたばっかでしょうが!」
いかんともしがたいバラバラっぷりだった。
軽く声をかけたことを二乃は後悔した。
文句を言いながらもお湯を沸かし始めると、ドリッパーと急須、ティーポットを用意する。
オレンジジュースを冷蔵庫から出して四葉に渡すと、五月には缶入りのクッキーを与えた。
「すっかり元通りだねー」
「ええ、食べたい時におやつがあるというのはやっぱり嬉しいものですね」
「五月、太るよ」
「むぐっ」
三玖の指摘に五月は喉を詰まらせた。
大急ぎで台所に駆け込んでいくのを四葉は苦笑しながら見送った。
水を飲んで詰まりを解消すると、末っ子は姉の心無い言葉に自己弁護の言い訳を並べ立て始めた。
「勉強で疲れた脳が糖分を欲しているだけでこれは正当な栄養補給であり余分なものは一切摂ってないので太るとかそういう話じゃありません!」
早口でまくし立てた五月だが、対する三玖はあくまでも冷静だった。
「糖分補給って言ってご飯前にもプリン食べてなかった?」
「い、一花~~」
「よーしよし、今度一緒にジョギング行こうねー」
五月に泣きつかれ、一花はそれをなだめた。
日常茶飯事とまではいかないが、珍しくはない光景だ。
いつも通りのやり取りだが、一花の挙動を四葉はどうしても気にしてしまう。
「どうかした?」
「う、ううん、なんでもないよ」
結局、一花の真意は聞けずじまいだった。
なにか問題があってそうせざるを得ないのなら協力は惜しまないし、自分の意志でそう決めたのならそれを尊重したい。
もしかしたら聞き間違いだという可能性もある。
四葉としてはそっちを推したいが、それにしたって確認してみないことにはわからない。
二の足を踏んでしまうのは、ここが契機だという直感が働いたからだ。
自分たち五つ子の道が分たれる……その時が近づいてきたのだと。
どうしたものかと考えるが、普段あまり使われない脳細胞はそう都合よく答えを捻り出してはくれなかった。
(上杉さんならどうするのかな……)
学校を辞めると聞いてくだらないと一蹴するか、言語道断と一喝するか、給料が減ると狼狽するか。
以前だったら考えられないことだが、ひょっとすると一花の背中を押してあげるのかもしれない。
答えを教えて欲しかった。
風太郎が示した答えならば、四葉は迷わずに進んでいける。
「四葉、四葉、電話来てるよ」
「え? あ……本当だ」
三玖に促されてスマホを手に取る。
相手は風太郎だった。
一瞬躊躇して、四葉はそのまま電話に出た。
「もしもし」
『よう、全員揃ってるのか?』
「今はご飯の後のまったりタイムです」
『そうか……ところで、お前ら昨日は来なかったんだな』
「え……も、もしかして上杉さん、海に行ったんですか!?」
驚きのあまり、少々声が大きくなってしまった。
当然それは他の姉妹にも届き、全員が一斉に四葉に目を向けた。
この先の展開を危惧した四葉は、咄嗟にスピーカーモードに切り替えた。
『たまたま昨日はバイトがなくなったからな。べ、別にお前らが来ると思ったからじゃ――』
ツンデレの見本のようなセリフを言いかけて、風太郎は言葉を切った。
そんな事を言った時点で少なからずこちらを気にしていることはバレバレなのだが、本人は気づいているのだろうか。
姉妹全員が続きを期待して耳を傾ける。
『――いや、違うな。クラスの奴らと盛り上がって馬鹿やって、確かに楽しかった』
『だが、なんでここにお前らがいないのかって思っちまった。……お前らがいたらもっと楽しかったろうなって』
『……今度、良かったら遊びに行かないか? 海でもプールでもどこでもいい。お前らの顔が見たい』
予想以上の言葉に全員が固まった。
あの風太郎が自分たちに会えなくて寂しがっている。
それを認識した瞬間、中野姉妹の顔は真っ赤に染まった。
その場で悶えて返事をするどころではなくなってしまった。
『お、おいっ……ど、どうなんだよ!』
なんとか立ち直った姉妹は顔を見合わせると小さく笑みを漏らした。
答えなんて決まりきっていた。
後の展開を考えれば考えるほど四葉エンドが浮かんでしまう……
原作ヒロインつえーと思った次第です。
次回はプールの話になると思われます。