「……」
「お兄ちゃんが死んでる……」
あれから考えてみても理性と感情が和解することはなかった。
思考は延々とループを繰り返し、いつしか俺は無気力状態に。
最早勉強にも手がつかないので、死んでいると言われたらそうなのかもしれない。
「重症だねぇ……もしかしてフラれちゃった?」
「ふぐっ」
フラれたという言葉が心に突き刺さった。
一花とは恋人関係ではないし、俺が交際を申し込んでいるわけでもない。
しかし家庭教師としては三行半をもらってしまった。
学校を辞める方向に舵を切ったのは理解できるし、それと同時に愛想を尽かされたという考えも湧いてきてしまう。
俺の煮え切らない態度が原因だったのかと思うと、やるせなくて仕方がない。
「え、まさか本当にフラれちゃったの!?」
「そ、そんなことないさ、ははは……」
無理矢理ひねり出した笑いは、自分でもわかるほど力がない。
らいはに心配させまいとしたが、これでは逆効果だ。
つくづく不甲斐ない兄だと、また心が沈んでいく。
「帰ったぞー」
「あ、おかえりお父さん」
「ガハハ、遅くなりすぎて朝帰りになっちまったなぁ!」
「待っててね、今ご飯用意するから」
「おう、悪いな。ゆっくりでいいぞ」
親父は朝っぱらから騒がしい。
俺の沈みっぷりと相殺されるので、これはこれでいいのかもしれない。
声を出すのにも気力が必要なので手だけ上げて挨拶しておく。
「なんだ、随分暗ぇな風太郎。もしかして嬢ちゃん達にフラれたか?」
「ふぐっ」
「お父さんそれ禁句!」
「お、おう……その、すまん」
親父が思わず謝る程度には俺の状態は深刻らしい。
もうどうしようもないので、いっそ放っておいて欲しかった。
「あ~……らいは、飯の準備にどれぐらいかかる?」
「えっと、十分ぐらい?」
「そんだけありゃ十分か。すぐ戻るが、ちょっと出てくるぞ」
なんの用事かは知らないが、親父はまた外に出るらしい。
まぁ、どの道俺には関係ない――
「風太郎、お前も来い」
「ぐえっ」
またいつかのように襟首を掴んで立たされる。
拒否したら引きずり出されかねないが、親父に話してどうにかなるとも思えない。
「親父、悪いが――」
「いいから出ろ。このままだと家の中が湿っぽくて仕方ねぇだろうが」
「……」
らいはの不安気な表情。
親父の言う事はもっともだった。
このまま心配させ続けるよりは、外に出て気分転換を図った方がいいのかもしれない。
「……なるほどな」
俺が話し終えると、親父は難しい顔で考え込んだ。
話せと迫られたので話したが、親父がどうこうできる問題じゃない。
しかし、ほんの僅かだが心が軽くなった気がした。
少しでも協力してくれようとしている姿勢が、そうさせているのかもしれない。
「悪い、聞き出しといてなんだが、俺にはどうすることもできん」
「まぁ、そうだよな」
「関わりの薄い俺が何を言ったところで、一花ちゃんは納得しないだろうな」
親父の言う通り、部外者が口を出したところで一蹴されるのがオチだ。
俺の親だからと無下に扱うことはしないだろうが、それでも考えを改めるには至らない。
そもそも、そうやって思いとどまらせるのが正しいかどうかもわからないのだ。
「どうにかできるとしたら、それは家族かお前だけだろうな」
「そんな権利が俺にあるのか……?」
「そんなもん誰だってない。あるとしたらそれは本人だけだ」
つまり結局は一花の選択なのだ。
中野父からの電話の内容が重くのしかかる。
あの時引き止めれば、一花は思いとどまったのだろうか。
「背中を押すか、引き止めるか。それも決められねーってなら、そうだな……とにかく話せ」
「話す?」
「そうだ。一人で悩んでも答えが出ないなら、もう誰かと話して考えるしかないだろうが」
自分で答えが出せないから他人を頼る。
もしかしたら、あの時の一花はそうしたかったのかもしれない。
それはあいつ自身が選ぶ道だし、最終的に自分で決めなければならない事には変わらない。
だとしても、俺にも出来る事はあったはずなのだ。
あらためて自分への怒りが湧いてくるが、これでいい。
これを原動力にして俺は動こう。
せめて自分の中の答えを見つけ出さねば、二度と一花と向き合うことが出来なくなる。
「わかったよ。ありがとう、親父」
「ガハハ、気にすんな! 湿気たツラされちゃ飯もまずくなるってだけだからよ」
昼食後の中野家のリビング。
夏休み中のこの時間ならば、大抵誰かしらバイトやら別の用事で留守にしているはずだが、今日は珍しいことに姉妹全員が揃っていた。
食器を洗いながら、二乃はソファーに座ってテレビを見る一花に目を向ける。
これから学校に用事があるとのことで、制服を着ていた。
その用事がなんであるのかは考えたくもない。
唇を噛み締めていないと涙が出てしまいそうだった。
他の姉妹も一花が心配なのか、自分の部屋に戻らずにリビングに居座っている。
誰も言葉を発さず、どこか緊張した空気が漂っていた。
「それじゃ、そろそろ行こうかな」
大きく体を伸ばしてから、一花が立ち上がる。
部屋を出ていこうとするその背中に、二乃は追いすがるように声をかけた。
「本当にそれでいいの?」
「……もう決めたことだから」
「フー君だって私が貰っちゃうわよ? それでもいいの!?」
「良くはないけど……もしそうなったら、しばらくは預けておくよ」
「絶対渡してなんかあげないから」
「どうかな? フータロー君、結構押しに弱いし」
挑発的に笑った一花だが、二乃はそれに応じない。
それどころか、目尻に涙を浮かべていた。
いつも通りを演出するのに失敗したことを悟ると、一花は目を伏せて二乃の肩に手を置いた。
「ごめんね」
「謝らないでよ……」
「二乃……ごめん」
「だから謝らないで!」
震える二乃の肩を優しく摩ると、一花は今度こそ部屋を出ていってしまった。
残された姉妹の間には重い沈黙が蟠る。
それでも五月は立ち尽くす二乃に寄り添った。
こんな時なら母はどうするだろう、と考えた上での行動だ。
「二乃、大丈夫ですか?」
「……逆に何であんたは平気なのよ」
「寂しいですけど、家では一緒に居られますから」
家では一緒に居られる。
五月の言葉で、四葉はかつて自分が落第を通告された時のことを思い出した。
その時は他の姉妹もついて来てくれたため、今の高校でも一人になることはなかった。
今の一花はどうなのだろうか。
テストの点数で落とされた四葉とは違い、自分の意思で学校を辞めようとしている。
大きな決断だったに違いない。
心残りだってあるはずだ。
昨日、母の墓前で風太郎を見送った時の、一花の寂しそうな顔が頭に浮かんだ。
本音を言えば、二乃と同じように引き止めたかった。
思いとどまったのは、本人の意思を尊重したからだ。
それでもどこか引っかかってしまうのは自分の感傷か、それとも――
(無理、してないといいんだけどな……)
穿った見方をするのなら、学校を辞めることで自分の退路を断ったようにも思える。
もしそうだとしたら、背中を押されたことで誰にも頼れなくなってしまうのだとしたら……
湧き出てくる嫌な考えを頭を振って払いのける。
「一緒に卒業できないのは残念ですけど、それ以上に大事なことを見つけたんだと思います」
「……呆れるぐらい優等生ね」
五月を一瞥すると、二乃は階段を上がって自分の部屋へ。
そして部屋に入る前に一言。
「でもそれって、本当にあんた自身の言葉なのかしら」
ドアが閉まる。
二乃を見送ったまま、今度は五月が立ち尽くしてしまう。
「五月、大丈夫?」
「ええ……すみません、私も部屋で休ませてもらいます」
終始見守っていた三玖が声をかけると、五月も自分の部屋へと引っ込んでしまった。
二乃の言葉に思うところがあったのは間違いないだろう。
残された二人は顔を見合わせた。
「……私がもっと早くみんなに伝えてたら、こんなことにはならなかったのかな」
「どうだろう。一花は迷ってたみたいだけど、そうするしかないならそうしてたと思う」
皮を剥けばダラけ放題な一花だが、一度決めたことに対する意思は固い。
それは仕事と学校を両立していたことからも伺える。
ただ、今回は無理に答えを出したように思えた。
それならばと、三玖は着替えるために自分の部屋へ向かう。
学校へ行くのなら制服を着用する必要がある。
手早く身支度を済ませると、三玖は再びリビングへ。
「それじゃ、私も行ってくるね」
「えっと、もしかして一花を止めに?」
「それもあるけど、ちょっと話したいことがあるから」
「私も――」
「ううん、四葉は残って。二人が心配だし」
「……そうだね。じゃあ、一花の事は三玖に任せるよ」
四葉も着替えるために自分の部屋へ向かおうとしたが、三玖の言葉で思いとどまった。
一番の心配は一花だが、他の二人の事だって心配だ。
この場にいて何ができるかはわからない。
それでも自分までいなくなっていたら、二人が不安になってしまうかもしれない。
逸る気持ちを抑えて、四葉は三玖を見送った。
織田芸能プロダクション――女優として一花が所属する事務所だ。
その応接スペースのソファーに座って、俺は麦茶などを頂いていた。
社長に会うために来たのだが、まさかアポなしですんなり通されるとは思わなかった。
事務員さんの話によると、もうすぐ戻ってくるそうなのだが……
「君は……」
「どうも、菊は元気?」
喉を潤しているうちに、見知った顔が現れる――織田社長ご本人だ。
ここに俺がいるのなんて予想外だろうから、面食らうのも仕方ないだろう。
「突然で申し訳ないが、少し話がしたい」
「そうか……いや、皆まで言わずともわかるよ」
織田社長は訳知り顔で頷いた。
それならば話は早い。
早速だが本題に移らせてもらおう。
「他でもない一花の事なんだが」
「ようやく我がプロダクションに入る決心をしてくれたんだね」
こっちとむこうで同時に発した言葉は、なんだか噛み合っていなかった。
え、じゃあさっきの訳知り顔はなんだったんだよ。
社長は今度は困惑顔で首をかしげていた。
困惑したいのはこっちだというのに。
「いや、今日はそういう話ではなく」
「なんだ、違うのか……」
あからさまに残念がられても、今も未来も俺に芸能活動をするつもりはない。
いや待て……稼げるのならそれはそれでいいのでは?
そして演技をする自分を想像してみたのだが、浮かんだのは金髪のカツラをかぶってキンタローと名乗った自分だった。
……やっぱり演技はこりごりだな。
「さっきも言ったけど、今日は一花の話をしに来た」
「一花ちゃんの……もしかして退学の件かい?」
「ああ、俺自身どうすればいいのか未だに決められない。だから話を聞きに来た」
「僕の立場から言わせてもらうと偏った意見になる。それでもいいのかい?」
「女優としての一花を語ってもらうなら、あんたを置いて他ないと思った。違うか?」
「――! 確かにその通りだ!」
それから社長はすごい勢いで喋り始めた。
立てた板に水が流れていくように、とにかく止めどない。
街で一花を見かけた時の直感、いつかのオーディションで得た確信。
そして今に至るまでの女優としての足跡。
時計の長針が何周かして、麦茶のおかわりを何度もらったか。
つーかこの人は自分の仕事はいいのだろうか。
いや、俺にお時間を割いてくれるのは素直にありがたいんだが。
「とまぁ、ここ最近の彼女の躍進は実に目覚しい」
「それは姉妹と揃って過ごせる最後かもしれない機会を犠牲にしても?」
「……彼女の家族への思い入れは理解しているつもりだ。しかし、きっかけは僕が与えたものだとしても、彼女の夢は本物だ」
学生と女優の二重生活は俺が思う以上に辛いものだったのだろう。
それでも投げ出さなかったのは、一花にとってどちらも大切なものだったからだ。
そしてあいつは夢の方を選んだ……俺が選ばせてしまったのかもしれない。
「退学の提案は僕がしたものだ。今回の撮影では今まで通り学校に通うのを諦めざるを得ない」
「ずるいな。一花に選択肢を与えたようで、選ぶ余地なんかほとんどない」
「その通りだ」
社長は俺の指摘をすんなりと認めた。
悪びれる様子が一切ないのは、これが女優として大成するためだと確信しているからだろう。
そしてそれはきっと間違いじゃない。
テレビもろくに見ない程度には芸能界に疎い俺の意見よりかは、ずっと正しいはずだ。
「この業界は新陳代謝が早い。売り時を逃したらあっという間に沈んでしまう」
「一花ちゃんのその時は今だ。ここでの頑張りが将来を決定づけると言っても過言じゃない」
「姉妹との学校生活ももちろん大事だろう。しかし、女優としても今しかないんだ」
「ならば僕はプロダクションの社長として、彼女の才能に惚れ込んだ者として、女優としての彼女を支え続ける……それだけだよ」
ここで退学してしまったら、姉妹全員で卒業する機会は永遠に失われる。
それと同じように、女優としての夢を叶えるためには今が重要。
夢は諦めなければなんて言うが、それは可能性の話であって現実的には厳しいはずだ。
機会を見送ってどうにかなるほど芸能界というのは甘くない……そういうことなのだろう。
「大体わかった、ありがとう。菊にもよろしく言っておいてくれ」
「折角だし、良かったらこれから見学でもどう?」
「いや、それは結構」
その場を辞して事務所を出る。
社長はまた残念そうな顔をしていたが、俺にはたった今やる事ができた。
一花の夢、そして全員に笑顔で卒業してもらうという俺の目標。
どちらも譲れないというのなら、結局はどちらも取るしかないのだ。
ペンタゴンの玄関を抜けてエレベーターへ。
待ち時間が焦れったいが、走って登るのは初回のあれだけで十分だ。
最上階に着くと足早に中野家の部屋を目指す。
とにかく今は一花と話したかった。
「上杉さん、急にどうしたんですか?」
「一花はいるか?」
「えっと……実はお昼過ぎに学校に」
「そうか……」
このタイミングで学校に行くとなれば、その目的は退学の手続きだろう。
一足遅かったという後悔が押し寄せるが、逆に焦る必要はなくなったとのだと思いなおすことにした。
退学届けを受理してから手続きが済むまでは多少の時間が空くはずだ。
とりあえず落ち着こうと深く息を吸い込む。
そうしてやっと四葉の姿をまともに見て、同時に思いっきり顔をそらした。
「おまっ、なんて格好してるんだ!」
「あー……丁度シャワーを浴びていたので」
なるほど、それならその体にバスタオルを巻いただけの格好やしっとりと濡れた髪にも納得だ。
納得したからといって平気なわけではないのだが。
特に首の周辺の日焼け跡が妙に艶かしく見えていけない。
しかし一階で対応してくれたのは四葉だったので、俺が来ることは分かっていたはずだ。
他の姉妹はどうしたのだろうか。
一花はいないとしても、玄関には三人分の靴があった。
だとしたら四葉以外にも二人が家の中にいるはずだ。
シャワーを浴びていた四葉が俺を出迎えたところを見ると、手が離せない状況なのか。
もしくは、一花の件で精神的に参っているのかだ。
もちろんただ単に寝ているという可能性もあるが、それを一番やりそうなのは一花だ。
なんにしても、このリビングにいないのなら自分の部屋にいるのだろう。
俺が階上に目を向けていると、四葉は一花が学校に行く前にあった事を話し始めた。
やっぱりと言うかなんと言うか、予想に違わず一悶着あったらしい。
その結果、二乃と五月は部屋に引っ込み、三玖は一花を追って学校に向かったそうだ。
「……一花の夢も学校も、諦めないでいられたら良かったんですけどね」
「何かを選ぶってことは、何かを選ばないってことだ。どっちもなんてのは都合が良すぎる」
どちらも得ようとして、結局どちらも取りこぼすという結果もあり得る。
二兎を追う者は一兎をも得ず、というやつだ。
「……だがそれは、あいつが一人で頑張るならという前提での話だ」
「え?」
「二人と話してくる。とりあえずお前はさっさと服を着ろ」
今更羞恥心を思い出したのか、四葉は慌てて自分の部屋へと引っ込んでいった。
俺も階段を上ると、一番近い二乃の部屋へ。
ノックしても返事はない。
仕方がないので一言だけ断りを入れてからドアを開けた。
普段されている事を考えれば、こっちだって少しくらい遠慮を忘れたっていいだろう。
「二乃」
「……勝手に入らないでよ」
「すまん、どうしても話しておきたくてな」
ベッドに仰向けに寝転んだ二乃は、目元を腕で隠していた。
声には明らかに元気がない。
もしかしたら泣いていたのかもしれない。
「お前が頼ってくれたのに俺は何もすることができなかった……まずはそれを謝らせてくれ」
「……」
「でも今は自分なりの答えを見つけた。それをこれから伝えに行くつもりだ」
「……どうにかできるの?」
「わからん、結局は一花次第だ。だが、何もしないで成り行きを見守るのは真っ平ごめんだ」
確実性などない。
ともすれば今まで以上の負担を強いるものだし、一花が乗ってこなければそれまでだ。
だがそれを理由に諦めてしまうほど、俺はお利口じゃない。
「これから学校に向かう。とにかくあいつを捕まえないとな」
「待って」
部屋を出ようとすると、二乃の声に引き止められる。
振り向こうとしたら背中に抱きつかれた。
柔らかい感触に意識が向くが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
「一花の事、お願い」
「お願いなんて言うな。お前らにもやってもらう事があるんだからな」
「それって?」
「……後で話す」
非常に格好が悪い頼み事のため、この場では言い出せない。
保険とも最終手段とも言えるものだが、俺にとってはまさにハードルが高い手段だ。
二乃の部屋を出て今度は五月の部屋へ。
ノックをすると入室を許可された。
部屋のドアを開けると、五月はメガネをかけて机に向かっていた。
「勉強か。感心したぞ」
「受験生ですから」
そうだ、これが受験生のあるべき姿のはずなのだ。
ただ、思いつめたような顔なのは、四葉が言っていた一悶着と関係しているのだろう。
一花の事は当然として、二乃の事も心配しているのだろうか。
「二乃とはさっき話してきた。一花の心配はわかるが、お前もあまり思いつめるな」
「……二乃の気持ちはわかります。私も少なからず同じ思いですから」
一花を引き止めようとした二乃。
残念ながら止める事は叶わなかったが、五月はそれを慰めようとしたのだとか。
母親役を買って出ているぐらいだ、それぐらいはするだろう。
「それでも一花の意思を尊重すべきだと思いました。学校よりも大切なものを見つけたのだと」
「あいつの夢、か」
「だけど……二乃に指摘されて、それが自分の考えなのかわからなくなってしまいました」
「母親ぶって言ってるだけなのかもしれないって事か」
五月は小さく頷いた。
理由は様々だが、自分の中の答えが見えないなんてのは誰にだってある事なのだろう。
現に俺もそれに漏れなかった。
「一花と一緒に卒業したいという気持ちはあるか?」
「……もちろんです」
「ならあいつの夢はそのために諦めるべきだと、そう思うか?」
「ありえません! だって一花はあんなにも頑張ってきたのに……」
「なら今はそれでいいだろ」
当たり前のことだが、五月は自分の母親ではない。
母親役というのも、自分の中の母親像から引っ張ってきているに違いない。
そしてそれは実際の母親とイコールではないはずだ。
自分の中の理想像にはどうしたって願望が混ざる。
理想の母親を真似て言葉を発したとして、結局は自分の中にあるものしか出てこないのだ。
つまりは一緒に卒業したいという気持ちも、応援したいという気持ちも、そもそも五月の中にあるものでしかないという事だ。
「俺がどうにかする、なんておこがましい事は言わない。だが俺は俺に出来る事をしよう」
「……信じてもいいんですか?」
「そんな他人任せでいられると思うな。お前らにもしっかりと苦しんでもらうんだからな」
くくく、と悪人っぽく振舞ってみたが、五月はクスッと笑っただけだった。
どうにも決まらないが、沈み込まれるよりは断然マシか。
五月の部屋を出てリビングへ。
そして玄関に向かおうとしたところで四葉に呼び止められた。
「上杉さん!」
「どうした」
「一花もきっと、学校を辞めたいわけじゃないんだと思います」
「ああ、わかってる」
「だから……一花をお願いします!」
まったく、どいつもこいつも俺の背中に荷物を乗っけようとしやがる。
裏を返せば、それだけ信頼されているという事なのかもしれない。
重く感じるのは確かだが、悪い気はしなかった。
夏休みの校舎はガランとしていた。
部活動のために登校している生徒もいるのだが、運動部は体育館や外で活動しているし、それ以外は基本的に部室から出てこない。
そのため、共用スペースには人気がなかった。
その中を一花は歩く。
職員室で退学の申し出を受理されてから、こうして一人で思い出を振り返っていた。
学食、教室、図書室、屋上……この学校に来てから一年と経っていないが、密度は濃かったと断言できる。
もうどれぐらいこうしているのか、正確な時間は分からない。
一花は顔が広いため、他の生徒に見つかったら声をかけられていたのもあるだろう。
すでに窓から差す日は傾き始めていた。
「……あのさ、いつまでそうしてる気?」
一花は振り返って、曲がり角に身を隠した三玖に声をかけた。
実は途中からこうやって後ろに張り付かれていたのだ。
用があるのなら話しかけてくるだろうから、あえて追求はしていなかったのだが。
「タイミングを伺ってた」
「普通に話しかければいいじゃん」
「声をかけようとしたら誰かに捕まってるし」
「あはは、人気者は辛いねぇ」
本当の事を言ってしまえば、単純に声をかけづらかったのだ。
一人で学校を回るという行為が、一花にとって大事な時間のように思えてならなかった。
三玖にはそれを邪魔することができなかった。
「……先生には話したの?」
「うん、応援してくれるって……何かもう、覚悟が決まったって感じかな」
「それで良いの?」
「良いも悪いもないよ。これが私の道ってだけ」
「……本当は、フータローに引き止めて欲しかったんじゃないの?」
その指摘に一花は力なく笑った。
三玖の言葉を否定も肯定もしなかった。
「私もさ、散々迷ってたからかな……どうにかしてくれるんじゃないかって思っちゃったんだ」
「フータロー君が言った通り、私が決めなきゃいけないことなのにね」
「三玖はあの時の顔見た? ……すごく辛そうにしてた」
母の墓前で見せた風太郎の表情が頭から離れなかった。
苦しそうに歪んだその顔は、決して一花の望んだものではなかった。
当たり前の話だが、風太郎は超人ではない。
勉強に関しては図抜けているが、身体能力は同世代の男子の平均を余裕で下回るだろう。
意地の張り具合やそのひねくれっぷりは大したものだが、物珍しいものがあればつい引き寄せられたり女子との接触を意識したりと、情緒の面でも普通の男子とそう変わらない。
それこそ、親しい人との関係の終わりに際して酷く動揺してしまう程度には。
学校をやめると言ったら、林間学校の時のように返してくれるものだと思っていた。
そして以前よりも心を開いてくれた今なら、どうにかしてくれるかもしれない。
一人で散々迷った挙句、一花はそんな甘えを抱いてしまったのだ。
「……フータロー君のあんな顔、初めて見たよ」
「一花……」
「だからさ、せめて私は自分の夢に向かってしっかり歩いてるとこを見せなくちゃ」
「自分でそうだって決めたなら、自分で納得して決めたなら……うん、私も応援する」
一花の夢に向かう姿勢には少なからず共感できる部分があった。
三玖にも見つけたばかりの目標があるからだ。
しかし……いや、だからこそ一花が逃げていることが分かってしまった。
「でも、それならもう一度きちんとフータローと話すべきだよ」
「無理に話しても、また辛い思いさせちゃうだけかもしれないし」
「そんなことない、きっとわかってくれるから」
電話越しで、それも他人の言葉で別れを告げられても納得し難いものがあるだろう。
もちろん、雇い主でもある姉妹の父親が連絡するのは手続きとしては真っ当だ。
しかし、風太郎と一花の関係はそれで済むほど事務的なものじゃなかったはずなのだ。
「面白そうな話、してるじゃねーか」
「――っ」
廊下の角の向こうから聞きなれた声が響く。
一花が目を見開いて息を飲むのがはっきりとわかった。
三玖が振り返ると、そこには壁に手をついて息を整えている風太郎がいた。
「詳しく聞かせろよ」
汗を拭って息を整える。
四葉の言った通り、一花と三玖は一緒にいた。
二人が学校に向かってからしばらく経っているので、移動される前に接触できたのは幸運だった。
「フータロー、どうしてここに」
「四葉に聞いた」
三玖が引き止めていてくれたのなら感謝しなければならないが、今は大女優様の方だ。
あいつめ、全然俺と目を合わせようとしやがらねぇ。
その理由について考えると胸の内がチクチクとしてくる。
話に混ぜろといった体で声をかけておいて実際にはほとんど何も聞いていないのだが、この様子だと話せといっても応じそうにない。
ここは俺から切り出させてもらうとしよう。
もとよりそのつもりでここに来たのだから。
「一花、あの時は――」
「ごめんっ」
俺が一歩踏み出すと、一花は同じだけ後ろに退がった。
嫌な予感が――具体的に言えば、修学旅行中の五月と同じ気配がした。
直感に衝き動かされて、言葉よりも先に手を伸ばす。
しかし、一花の反応は速かった。
「今は顔を合わせづらいというか、合わせる顔がないというか……とにかくごめんね」
そしてそのまま走り去る。
廊下は走るなという決まりは何の効力も発揮していない。
「一花……やっぱり逃げてるじゃん」
「追うぞ!」
三玖を伴って一花の跡を追う。
ここで逃がしたらあいつはしばらくの間、俺に近づこうとしなくなるだろう。
時間が解決してくれるという言葉はこの状況には当てはまらない。
少なくとも夏休みが終わるまでには話をつけなければならないのだ。
「くそっ、逃がした……!」
「一花も、結構走ってる、からね……」
しかし、俺と三玖は自他共に認める程度には運動が苦手だ。
四葉ほどではないとはいえ、体力に自信のある一花には適わなかった。
そもそも、こいつらと関わっていると定期的に追いかけっこが発生するのは何故なのか。
横でへばっている三玖にしたって、最初は俺から逃げ回っていたものだ。
走りながらの戦国武将しりとりを思い出す。
「……とりあえず、あいつと話すのは後回しだな」
「いいの? あんまりのんびりしてたら一花の退学が……」
「さっき職員室で話してきた。手続きの完了は夏休みが終わるまで待ってくれるそうだ」
実を言うと、学校に着いてから真っ先に向かったのは職員室だ。
そこで色々聞いて、ついでに少し前に一花が校内を歩いていたという情報も得た。
まぁ、結局は逃してしまったわけだが。
ここで無理に追い回して意固地になられるのも困る。
今は準備を進めることに徹しよう。
そしてしかる後に、あいつが逃げられない状況を作って叩きつけてやるのだ。
「ふ、ふふふ……待ってやがれよ一花……!」
「すごい悪そうな顔してる……」
となると、必要なのは資金だ。
位置づけ的には後詰の類だが、用意しておくに越したことはない。
そのためにもバイトがしたいのだが、折悪しくケーキ屋は休業中だ。
「……やっぱり新しいバイト探すしかないな」
「――! それならバイト募集中のお店、知ってるよ」
「マジか。週払い、いや日払いでも大丈夫か?」
「日払いはちょっとわからないけど、相談したら聞いてくれると思う」
三玖の提案はまさに渡りに船だ。
タイムリミットまで二週間そこそこだが、シフトを入れまくればそれなりに稼げるだろう。
それがどこまで足しになるかはわからないが、何もしないよりはマシだ。
「是非紹介してくれ」
「うん、任せて」
「それと後一つ……いや二つ頼み事があるんだが――」
長くなりそうなのでカットします。
次で終わるかな?