その代わりと言ってはなんですが、いつもより長めです。
夏休み中の話で、時系列的には一花の説得後になります。
三女が喪失する話です。
「や、やっと終わった……」
三玖がパンを乗せるトレイを持ったまま、その場にへたり込んだ。
夏休み中のパン屋はなんだか異常に忙しかった。
特に今日は顕著なもので、売り切れのために早めに閉店したという次第だ。
ケーキ屋の休店で客足が伸びているのはわかっていたつもりだったが、まさかこれほどとは。
体力がない三玖にしたらハードな一日だっただろう。
かく言う俺も、店の中央のテーブルに手をついて肩で息をしていた。
カレンダーを見れば八月の下旬の半ば。
いわゆる五十日――毎月二十五日が給料日という人は多いだろう。
俺も今まで色んなバイトをしてきたが、大体がそうだった。
一ヶ月働いて、ようやく給料を手にした時の気持ちは俺にも多少はわかる。
思わず本屋へ問題集や参考書を買いに走りそうになった事だってある。
給料日の開放感が人を散財に駆り立てるのだろう。
それと、少し前にサングラスとマスクを着用した五月が訪れた事も関係しているのかもしれない。
前にも似たような格好でケーキ屋に現れた事があったか。
案の定、三玖には即座に見破られていたが、あの変装で誤魔化せると思っていたのだろうか。
「二人共、お疲れさま~……」
店長はもう疲れきってレジのところで燃え尽きていた。
バイトに過ぎない俺達に比べれば、仕事量が段違いなので無理もない。
過労で倒れて向こうの店長のように入院されても困るので、片付けはこちらが受け持とう。
「三玖、まだいけるか?」
「うん、なんとか」
「じゃあもうひと踏ん張りだ。頑張ろうぜ」
三玖の手を取って引き立たせる。
とりあえず外には閉店の表示をしてあるが、作業自体は全く進んでいない。
まだ働き始めて日は浅いが流れ自体は頭に入っている。
最終的なチェックは店長に任せるとしても、二人で協力すれば問題なく終わるだろう。
「三玖ちゃん、上杉君……二人がいればこの店は安泰ね!」
店長は俺がケーキ屋でも働いていると知ってか知らずか、感涙に咽いでいた。
それはともかくとして、まずは人手を増やすべきだと思うんだが。
バイトも俺や三玖だけという事はないが、それにしたって明らかに足りていない。
いや、でも増えたら増えたで俺のシフトも減らされるかもしれない。
ケーキ屋が再開するまでは不用意な事を言うのはやめておこう。
「つ、疲れた……」
「今日はえぐいくらい混んだな」
店を出る頃には空はすっかり暗くなっていた。
往来に立ち並ぶ店も、電気こそはついてるものの閉店の表示がチラホラと見える。
向かいのケーキ屋には当然ながら明かりはついていない。
「今日もお疲れ様、フータロー」
「そっちこそな」
「ふふ、二乃には悪いけどやっぱりいいな、こういうの」
少し前までは、こうしてバイト上がりに隣を歩くのは二乃だった。
あいつのグイグイっぷりに比べれば、三玖はだいぶ大人しい。
二乃だったら容赦なく俺の腕を取ってくっついてくるところを、手を握るくらいしかしてこない。
……いや、恋人同士でもない男女が手を繋いで歩くというのはどうなんだ?
対外的にはそう見えるのかもしれないが、俺と三玖はそんな関係ではないのだ。
かと言って手を離す気は起きなかった……というよりも、そうしたくなかった
自覚した想いというのは中々に厄介なもので、今の俺はこういう事をするのにあまり抵抗がない。
「あいつはどうしてる? ケーキ屋が閉まっているから暇してるんじゃないか?」
「結構出かけてるよ。友達から短期のバイト紹介してもらってるみたい」
「そうか」
それを聞いて少し安心した。
店長が動けるようになるまでは当然バイトも休みだ。
二乃にはそんな状況で金を出してもらったため、気になってはいたのだ。
「そういえば、明日のこと聞いた?」
「明日? バイトなら、お前は休みじゃなかったか?」
「そっちじゃなくて、花火のこと。みんなで一緒に行こうかなって」
まったく覚えがなかった。
と思っていたら携帯が震えだす。
四葉からのメール――内容はタイムリーなもので、一緒に花火を見に行かないかという誘いだ。
「今来たぞ」
「うっ……ごめん、もう少し早く話せばよかったよね」
「まったくだ。俺は明日もシフト入ってるんだが」
しかしながら、予定では夕方でお役御免になる。
花火が上がるのは暗くなってからだろうから、それまでには間に合うだろう。
俺の頭の中ではすっかり一緒に出かける方向に考えが傾いていた。
それでいいのか受験生。
……まぁ、その分は他の機会に補填するとしよう。
「集合時間は?」
「お祭りの屋台も気になるし、私たちは日が落ちる前に出るけど……」
「なら現地で合流するとしよう」
「来てくれるの?」
「行くさ。お前達が行くんだからな」
主体性のない事この上ないが、そういうわけなのだ。
握った三玖の手がピクっと震えた。
俯いた横顔は髪に隠れて見えないが、耳は赤くなっていた。
素直に物を言うのも考えものかもしれない。
こいつらが照れているのがわかってしまうと、それが俺の方にも伝播してきてしまう。
こうして出来上がったのは、手をつないだまま赤面する男女二人。
他でもない俺達二人の事だ。
「……あー、三玖?」
「な、なにっ?」
「俺ん家、こっちなんだが」
「そ、そうだよねっ……ごめん」
繋いでいた手が離れる。
三玖の熱が残った手を、名残惜しむように握り締める。
……いや、違うな。
名残惜しいのなら離さなければいいんだ。
遠ざかる三玖の手首を掴んで引き止める。
「フータロー?」
「あ、いや……特に用事があるわけじゃないんだが」
「……日焼け、やっと取れたね」
プールに行ってからしばらく夏モードだった俺の肌色はすっかり戻っていた。
同じように日焼けしていた四葉も今頃は元通りだろう。
三玖の指が俺の首筋をなぞるように這い回る。
そして相変わらず貼られている絆創膏の端をつまむと、そのまま取り去った。
「また消えてるね」
「そりゃ、あれだけ時間が経てばな」
「むー、また付けていい?」
「……好きにしろよ」
というよりも、断ったところで問答無用でされるので好きにさせるしかない。
三玖は俺の首元に顔を埋めると、口で吸い付いてしっかりと痕を残していった。
いつまでこれを続けるつもりなのだろうか。
本人が言うには予約なので、それが果たされるまでだろう。
それはつまり、俺が三玖を……いかん、これ以上考えるのはマズい。
今更何を言ってるんだという話だが、やはり複数人と関係を持っているのはアウトだろう。
上二人に関しては半ば諦めているが、そこに新たに加えるとなれば話は別だ。
お互いのためにも、軽はずみな行動は慎むべきなのだ。
問題はこいつにその気がありまくる事と、俺の我慢が効かなくなってきている事だ。
自分の中にある感情に気づかされたせいか、中野姉妹に対するガードがザルになりつつあるのだ。
こんな現状でそんな雰囲気になったとして、拒む……というより自分を抑える自信がない。
「それじゃあ、また明日ね」
自分の印をつけた事に満足したのか、三玖は軽やかな足取りで帰っていった。
俺はというと、首に残る唇の感触を頭から締め出すのに精一杯だった。
ひとしきり悶々とした後、家に帰る前にコンビニを目指す。
もう絆創膏が切れているため、買わなければならないのだ。
このまま帰ったら、また親父にからかわれるかもしれないからな。
「ただいま」
「あ、お兄ちゃんお帰りー」
「おう、ご苦労さん」
家に帰ると、らいはと親父が出迎えた。
部屋にはカレーのいい匂いが充満して、バイトで疲れた俺の空きっ腹を刺激してきた。
流しにも水切り台にも食器がないという事は、まだ食べていないのだろう。
もしかしたら俺を待っていたのかもしれない。
「お兄ちゃんも帰ってきたし、ご飯にしちゃうね」
「ああ、待たせちまって悪いな」
「罰としてお手伝いを要求します!」
「お安い御用だ」
とは言っても、メニューがメニューなだけに用意する物は少ない。
荷物を置いて手を洗うと、そのまま食器を棚から取り出す。
程なくして三人分のカレーが食卓に並んだ。
「「「いただきます」」」
そして揃って手を合わせると食べ始める。
相変わらず我が家のカレーは美味しかった。
というか、らいはの作るものはなんでも美味しい。
五月が思わずおかわりしてしまう気持ちもわかるというものだ。
いや、あいつにとってはそれが平常運転か。
カレーは飲み物だと豪語する姿が容易に思い浮かんだ。
「「「ごちそうさまでした」」」
作る際の手間に比べると、食べるのはあっという間だ。
親父がまとめて持ってきた食器を手早く洗ってしまう。
待たせてしまった分、これぐらいはしてもいいだろう。
「そういえば明日は花火を見に行くんだってな」
「そうだが……どこで聞いたんだよそれ」
片付けが終わって勉強を始めようとしたところで、親父が唐突に切り出した。
花火に行くのが決定したのはついさっきの事だというのに、なんで知ってるんだよ。
「えへへー、実はお昼に五月さんから誘われちゃって」
種明かしは早かった。
らいはが同行するのは初耳だが、五月が連絡した流れで親父にも話が伝わったのだろう。
なぜ俺に対する連絡が遅れたのかは謎だが。
「明日は俺も遅くなりそうだからな。せっかくだし晩飯も外で済ませてこい」
そう言って親父は一万円札を食卓に置いた。
いや、こんな大金使わなくても家で食えば安上がりなんだが。
「屋台を楽しむのだって金がいるからな。ま、たまにはダメな親父に見栄張らせてくれや」
ダメな親父という部分には全く共感できないが、その気持ちは多少わかる。
普段窮屈な思いをさせてる分、楽しんで来いと言いたいのだろう。
俺もらいはが相手だったら同じように言うのかもしれない。
「……ありがとな、親父」
何も言わずに笑うと、親父は俺の頭をクシャクシャと撫で回した。
もうこういうのはやめて欲しいんだが。
乱れた髪を適当に直すと、帰ってから部屋の隅に放っていたリュックから勉強道具を取り出す。
学校もないのになぜそんなものを持ち歩いているのかというと、当然勉強するためだ。
諸事情によりバイトに精を出さないといけないので、その分勉強時間は削れてしまう。
となれば休憩時間など、空いている時間はなるべく勉強に充てたいというのが俺の考えだ。
というわけで、出かける際には常に勉強道具を持ち歩くようにしているのだ。
「おっと」
ノートや問題集を取り出す過程で、とあるものがリュックからこぼれ落ちる。
0.01という表示が目を引く小振りな箱――これまで何度か世話になった事がある近藤さん。
帰りにコンビニに寄った際に、絆創膏と一緒に買ったものだ。
決して使う予定があるわけではなく、もしもの時のためだ。
祭りや花火というイベントにかこつけて、中野姉妹が迫ってくる可能性は否定できない。
そして残念な事に、今の俺にはあいつらを拒み切る自信がない。
いざという時にこれがあるのとないのでは安心感が違う。
間違っても使用せずに致すなんて事態は避けなければならないのだ。
もちろん、使わないにこした事はないのだが。
とにかく、こんなものをいつまでも出しておくわけには行かない。
らいはに見られでもしたら俺の兄としての地位は崩壊してしまう。
箱をリュックの中へと戻す。
ちょうど死角になっていたため、らいはには見えていないはずだ。
とりあえず、これで俺の兄としての沽券は守られたわけだ。
額の汗を拭って顔を上げる。
「……」
「……」
親父と目があった。
何も言わずに、わかってるぜオーラを出して頷いていた。
そしていい笑顔でサムズアップ。
「らいは、今度赤飯炊くぞ、赤飯!」
「わー、なにかお祝いごと? 楽しみー!」
なんというか、もう色々と勘弁して欲しい。
こうなったらもう、ひたすら勉強に没頭するしかなかった。
「ただいま」
「おかえりなさい。ご飯出来てるわよ」
三玖が帰ると、二乃と料理の匂いが出迎えた。
同年代と比較して小食な三玖だが、激務の影響か流石に空腹の虫が騒いだ。
「四葉と五月は?」
「一花も遅いし、先に食べて今は部屋よ」
「二乃は待っててくれたんだ」
「別に? どうせ暇だしいいわよ」
「ふふ、ありがとね」
二乃は顔をしかめるとちゃっちゃと配膳していく。
並べられていく料理に、三玖もまた難しい顔をした。
不満があるのかといえばそうではなく、単純にその出来栄えに唸っていたのだ。
料理という道を見出した三玖にとって、二乃は身近な目標だ。
とは言っても、腕に差がありすぎるせいで参考にするのはまだ難しい。
手の込んだ料理に対して説明を求めても、聞いてる内に宇宙猫状態になってしまうのが現状だ。
そんな様子だから、まずは基本的なところから手をつけろと二乃自身にも言われている。
幸いにして練習には付き合ってくれるので、今は地道に経験を積み重ねているところだ。
夏休み前に風太郎に渡していた弁当もその一環で、朝早くから一緒に台所に並んで作ったものだ。
二乃からしたら敵に塩を送るような所業なのだが、そこは家庭教師が言うところの姉妹馬鹿だ。
食べた相手がお腹を壊したら困るからとの事で、仕方なくと念を押して協力してくれた。
姉妹の前でそんな事を言ったところで生暖かい視線を向けられるだけなのだが、少なくとも三玖は今も感謝している。
「フータロー、花火来るって」
「ホント? やったじゃない!」
「誘いが直前すぎて文句言ってたけど」
「うっ……それはあれよ、いろいろ話し合った結果というか」
要するに、また例によって誰が連絡するかで揉めていたらしい。
ほぼ毎日顔を合わせている三玖が言えば早かったのだが、姉妹の様子を見てそれは遠慮した。
一花と四葉はともかく、二乃と五月がストレスを溜めているのは一目瞭然だった。
風太郎がパン屋で働き始めてから、この部屋に訪れる機会が激減しているのが原因だろう。
バイト上がりは遅い時間になる事が多いので、こちらに寄らずに帰る事が多くなっていた。
パン屋でのバイト中、物陰からこちらを伺う二人の姿に冷や汗が伝ったのは記憶に新しい。
五月はよだれも垂らしていた気がするが、修学旅行前のパンの提供が効いていたのだろう。
諸事情により節約中なので、おやつも控えているのかもしれない。
「今年こそ全員揃って花火を見るわよ」
夏の花火といえば、中野姉妹にとっては亡き母との大事な思い出だ。
そのためこの時期になると毎年姉妹全員で花火を見に行くのだが、去年は一花の事情で諦めざるを得なかった。
もっともそれは別の形で果たされたのだが、そんな変則パターンを毎回なぞる必要はない。
高校を卒業してしまえば、今までのように気軽に集まるのは難しくなる。
だからこそ、今年こそはという思いがあった。
「あ、おかえりなさい」
階上からの声。
三玖の姿を認めると、五月はリビングまで降りてきて自分もテーブルについた。
風太郎の事を二乃に話したのと同じように伝えると、相好を崩して喜んでいた。
二乃ほどではないが、以前と比べるとやはり風太郎に対する態度が違う。
自分も人の事は言えないが、恋の作用は大きいようだ。
「そういえば、結局誰がフータローに連絡したの?」
「四葉ですよ」
「あの子、最近こういう時の引きがいいのよね」
例えばそれはこの部屋に居を戻した際の連絡だったり、ウォータースライダーへの同乗だったり。
不正を働く余地はないので、純然たる運である。
あえて理由を付けるとするなら、ゲームにおける物欲センサーのようなものだろうか。
ちなみにその前にらいはに連絡する権利を下二人で争っていたのだが、そちらは五月の勝利で終わっている。
風太郎に対してはやや遠慮がちな四葉でも、らいはを引き合いに出されるとやる気になるのだ。
「ううぅ……」
「……食べる?」
「いえっ、それは三玖の分ですから」
初めは普通に話していたのだが、時間を経るにつれて五月の視線が料理の方へ引き寄せられる。
口では断っているが、目はギラギラとしていた。
その姿は空腹で唸りを上げる猛獣を彷彿とさせた。
スプーンで一口分すくって差し出す。
パァっと顔を輝かせて五月は即座に食いついた。
「あんたねぇ、お腹空いてるなら素直に言いなさいよ」
「んぐっ……こ、これは勉強で頭を使ってカロリーを消費したからであって――」
「はいはい。レトルトで良ければ今すぐ出せるけど、どうする?」
「……お願いします」
そして結局、空腹に屈したのだった。
最近は買い食いも控えているようなので、その影響もあるのだろう。
顔を赤くして椅子の上で縮こまっていた五月だが、目の前に皿が置かれると一転して笑顔に。
美味しそうにカレーを口に運び始めた。
「そういえば、三玖はどこの大学を受けるのですか?」
「え、私大学行かないよ?」
「え?」
「は?」
「「えええええええっ!?」」
二乃と五月の驚きの声がリビングいっぱいに響き渡った。
もし一瞬でもヘッドホンを装着するのが遅れていたら、耳がやられていたかもしれない。
もう話した気でいたが、確かにはっきりと言うのは初めてだった。
「何事!?」
二人の大声に釣られて四葉も部屋から飛び出してきた。
そして口を開けたまま固まる二人と、黙々と食事を続ける三玖を見比べて首を傾げる。
しまいには誰も言葉を発さない事で余計な想像を膨らませたのか、ワナワナと震え始めた。
「ま、まさか今度は三玖が退学するんじゃ……」
「違うから」
「そっか、良かったぁ~~……」
三玖が即座に否定すると、四葉はへなへなとソファーに座り込んだ。
直近の心配事から引っ張ってきたのはわかるが、流石にそれ程の大事ではない。
三人が落ち着いたのを見計らって、三玖は口を開いた。
「前々から考えてたんだけど、お料理の学校に行きたいんだ」
「料理……あんたが?」
「うん、おかしいかな?」
多少否定的な反応が出る事は予想していた。
向いていない事は百も承知だ。
『だが身の程知らずにもまだ目指すってならまぁ、一緒に頭をひねるさ』
だけどそれでも約一名、背中を押してくれる人がいるとわかっている。
それを足がかりに、三玖は自分を奮い立たせた。
「一花も頑張ってるし、私も頑張ろうって決めたんだ」
「絶対向いてないわよ」
「かもね」
「開き直ってるんじゃないわよ……あ~、もうっ」
二乃は頭を抱えたかと思うと、三玖に歩み寄って指を突きつけた。
「なら明日から朝御飯は任せるわ。味見ぐらいはしてあげるからしっかりやりなさいよね」
「ありがとね、先生」
「ふんっ、容赦しないから覚悟することね」
言い方は素直ではないが、二乃は三玖の背中を押す事を決めた。
もちろん三玖にとっては本心が透けて見えてるので、それは励ましの言葉でしかない。
「もちろん、私も応援するよ!」
「ええ、三玖ならきっとできますよ」
妹二人も、三玖の考えに賛同した。
特に五月はパン作りの練習に付き合っていたのもある。
努力で苦手を克服してみせた姉を強く信じていた。
ここにはいない一花も三玖の選択を否定はしないだろう。
なんせ自分自身が茨の道を歩もうとしているのだから。
しかしながら、伝えるべき大事な相手がまだ残っている
(フータロー、どう思うかな)
しかし風太郎自身の言葉があるとはいえ、不安はあった。
特に三玖は姉妹の中で一番の成績のため、落胆させてしまうかもしれない。
それでも伝えないという選択肢はなかった。
風太郎が自分と向き合ってくれたように、自分も向き合わねばならないのだと。
三玖は静かに決意を固めた。
「えーっと、多分ここら辺のはずなんだが……」
屋台の群れを抜けて川沿いの道に出る。
花火には人ごみが付きものなのか、例によって人が多い。
男女ともに浴衣を着ている人が多く、制服姿の俺は少し浮いているかもしれない。
いくら目立つとは言っても、この中から中野姉妹を見つけるのは骨が折れそうだ。
つーか、似たような事は去年に経験済みである。
らいはも一緒にいるはずなので、手早く合流したいところだ
「フー君、こっちよ」
横合いから声がかかる。
俺をそう呼ぶのは当然二乃だ。
去年と同じように浴衣を身につけていた。
髪が短くなっているためか、また印象が違って見える。
もっとも、当時の俺はそんな事を気にする程の関心も余裕もなかったのだが。
今更ではあるが、それをもったいなく感じてしまう。
「二乃、迎えに来てくれたのか」
「当然よ。だって一番に会いたかったもの」
そう言って二乃は正面から抱きついてきた。
人目をはばかるという考えが、こいつの頭にはないようだ。
浴衣姿で普段よりは布が多いとはいえ、胸部の柔らかい感触に変わりはない。
ボルテージが上がるの阻止するためにも、とりあえず体は離しておくべきだろう。
しかし俺がそうしようと動くより早く、二乃は自分から離れていった。
流石に周囲の状況を弁えたのだろう。
……なんて胸を撫で下ろしていたのが駄目だった。
「んむっ――」
次の瞬間、二乃は俺の襟を掴んで引っ張ると、迷わず唇を重ねてきた。
触れるだけのキスだが、二乃の目は熱情を湛えていた。
仮にこの場に他の人間がいなかったら、迷わず俺を押し倒してきたに違いない。
「――お前、こんなところで……」
「あら、じゃあ誰もいないとこだったら構わないのね」
「……そんなの時と場合によるだろ」
ここできっぱり駄目だと言えないあたり、俺はすっかり絆されている。
そもそもの話、好きな相手にキスをされて嫌なわけがないのだ。
「さ、行きましょ」
満足したのか、二乃は俺の手を引いて歩き出す。
人ごみをかき分けながら川原の土手へ。
花火を見るのに定番のスポットなのか、あちこちにレジャーシートが敷かれていた。
こいつらもその一角に場所取りをしているらしい。
程なくして、大きめのレジャーシートの上に座る一花と三玖の姿が見えた。
当然のように浴衣姿だ。
「あ、フータロー」
「二乃と一緒だったんだね」
「ああ、どの辺にいるかわからなかったから助かったぜ」
「ここ空いてるから座りなよ」
荷物を置いて促されるまま座ると、一花と三玖が俺を挟むように隣に陣取った。
わざわざ固まる必要もないと思うのだが、恐らく言っても無駄だろう。
そしてこの状況で二乃が黙っているはずもなく……
「ちょっと、私が連れてきたんですけど!」
「二乃のことだし、どうせ抜け駆けしてたんでしょ」
「実際どうなのさ、フータロー君?」
抜け駆け云々の時点でまずいと思ったが、既に両腕をホールドされていた。
離脱に失敗した俺は、一花の尋問じみた問いに顔を背けるしかない。
馬鹿正直にキスしてましたなんて言って、穏便に済む未来が見えなかった。
そしてどうやらこの場においては、沈黙は雄弁とみなされたらしい。
俺が答えない事で二人は確信を深めたようだった。
三玖はむくれて、一花は薄く笑っていた。
さて、この状況における正解の行動とは一体なんだろうか?
全国一位の頭をもってしても、答えは見つからなかった。
「――っ、そっちがその気なら、こっちだって勝手にしてやるわよ!」
俺を離さない二人に業を煮やした二乃は、胡座をかいた俺の上に座って背中を預けてきた。
グイグイと身を寄せてくるものだから、体は否応なく密着してしまう。
特にやばいのは尻だろう。
普段あまり目が行くことはないが、胸同様にこっちも結構なサイズなのだ。
そんなものを足の付け根に押し付けられて、平気でいろという方が無理な話だ。
そしてチラチラと髪の間から見えるうなじも中々にやばい。
こっちは見なければいいだけなので、視線を上にそらして対応した。
後は舌を噛んで必死に堪える。
このままでは俺の剣が存在を主張しかねない。
言うまでもないが、そんな事になったらしばらく中野姉妹の顔を見るのが難しくなるだろう。
「えっと、四人でなにしてるのかな?」
困惑気味な第三者の声。
目を向けると、四葉が困ったように笑っていた。
その気持ちはわかる。
俺だって困惑しているくらいだからな。
「な、なななっ……!」
そして四葉に続いて五月の登場だ。
両手にビニール袋を提げたまま、信じられないものを見たかのように震えていた。
その気持ちはわかる。
俺だってどうしてこんな事になっているのかを説明して欲しいくらいだからな。
「みんなずるいですっ!」
しかし五月に関しては読みを外していたようだ。
ビニール袋を置くと、あろう事か後ろから抱きついてきやがった。
つーか羨ましがってただけかよこいつ!
とにかく、これでめでたく前後左右コンプリートである。
いや、全然めでたくないが。
容赦なく押し付けられる柔らかさで気がおかしくなりそうだった。
もう誰でもいいからどうにかしてくれねーかな……
「あ、お兄ちゃーん!」
「ら、らいは!?」
そして失念していたのだが、らいはは先に中野姉妹と合流していたのだ。
こっちにいなかったとなると、それは四葉か五月と一緒にいたということで……
当然、二人が現れればらいはもここに居るということだ。
「わー、モテモテだね」
「……ごふっ」
こんな情けない場面を見られて耐えられるはずがない。
兄としての威厳が崩れ落ちていく音が聞こえるようだった。
あまりの精神的ダメージに俺は心の中で吐血した。
その後、俺が立ち直るまでに少々時間がかかったものの、何事もなく花火を見る事ができた。
夏休みの宿題が終わってないからとケツを叩く必要もなく。
集合場所を伝え忘れてバラバラになるなんて事もなく。
そして誰か一人が急用でいなくなるなんて事もなかった。
実に平和だったと言えるだろう。
らいはがいるためか、中野姉妹も実に理性的にしていてくれた。
五月達が屋台で買ってきたものを食べつつ、全員で夜空に打ち上がる花火を見上げた。
これも立派な夏の思い出になるだろう。
青春をエンジョイ、というやつだ。
「いやぁ、楽しかったね」
「同じぐらい騒がしかったけどな」
「ふふ、楽しかったことは否定しないんだね」
「それは事実だからな」
そしてその後は全員で屋台を回り、帰路につく。
四葉と五月はらいはにべったりで、二乃と三玖は何やら話し込んでいた。
俺はあぶれた者同士、一花と並んで歩いている。
「……こんな時間を、私は手放そうとしてたんだね」
「それが良いのか悪いのかはわからねーが、まぁ……俺は全員で花火を見られた事に満足してる」
「なんかさ、フータロー君もだいぶ素直になったよね」
「だとしたらそれはお前らのせいだな」
あるいは中野姉妹のおかげとも言う。
以前と比べれば、自分の感情を言葉に出すのに抵抗はなくなっている。
それでも全く平気というわけではないのだが。
「うん、これなら夏休み明けからも頑張れそうだよ」
「容赦せずにいくから覚悟しとけよ」
「お、お手柔らかにお願いしまーす」
一花の笑顔は引きつっているが、こちらは決して少なくはない金を出しているのだ。
支払った分はきっちりと仕事、もとい勉強をしてもらわなければならない。
「っと、そろそろお開きだな」
ここいらで上杉家と中野家で別れなければいけない。
これ以上一緒に歩けば、それはどちらかの遠回りになってしまう。
俺一人ならばいいのだが、らいはが一緒にいるため今日のところはそれを避けたかった。
「フータロー君、今日は来てくれてありがとね」
「またね、フー君。今度は二人きりで会いましょ――ちょっと、何するのよ」
「二乃こそ何しようとしてたのさ」
俺に手を伸ばそうとする二乃を、一花が阻止していた。
ナイスと言わざるを得ない。
また合流した時のようにキスをしてくる可能性は十分にあった。
それをらいはの前で見られるのは、精神的にかなりくるのだ。
「やっぱりらいはちゃんと離れたくないよー!」
「私ももっと一緒にいたいです!」
「えへへ、私もモテモテだー」
そして俺の妹は中野姉妹の下二人にモテモテだった。
しかし、悪いがお前らに可愛いらいはを渡すわけにはいかないのだ。
ここはおとなしく諦めてもらうとしよう。
「ねぇねぇ、お兄ちゃん」
「ん、なんだ?」
「五月さんの家に遊びに行っちゃダメかなぁ?」
「うっ……も、もう結構な時間だしな」
我が妹の上目遣いは凄まじい破壊力だが、もはや出歩く時間ではない。
心苦しいが、諦めてもらうしかないのだ。
「あ、それだったらうちに泊まればいいんじゃないかな?」
「一花、それ名案だよ!」
「上杉君、いいですよね?」
五月が期待に満ちた目で尋ねてきた。
これで断ったら、またいつかのように唸るだけの生物となりかねない。
しかし、どうしたものか。
確かにそのまま中野家に泊まるのならば夜道を歩く心配はいらない。
こいつらの事も信頼していないわけじゃない。
俺のいないところで色々と吹き込まれる可能性があるのが問題なのだ。
もし帰ってきたらいはが姉妹の誰かをお姉ちゃんと呼び始めたら、俺は頭を抱えるしかなくなる。
「そんなに心配なら、あんたもうちに来ればいいじゃない」
「いや、それは……」
二乃の提案はつまり、俺も泊まって行けという事だ。
以前にも中野家に泊まるケースはあった。
しかしそれは勉強のためであって、プライベートで宿泊するのはワケが違うだろう。
そして泊まったとして、こいつらが一体どんな行動を起こすのか。
らいはに夢中な下二人はその心配はないとしても、残り三人……特に二乃が問題だ。
間違いなくこの提案はそれを見越していると見ていいだろう。
となれば――
「……わかった、そうしよう」
「決まりね。じゃあ、フー君は私の部屋で――」
「ただし! 俺はリビングで寝る。これが条件だ」
そう、以前は三玖の部屋を借りたからややこしい事になったのだ。
それならば最初から誰の部屋でもない場所に寝ればいい。
二乃が悔しそうな顔で睨んでくるが、これを譲歩するつもりはない。
いくらなんでも一直線すぎんだろ、お前。
「うん、じゃあそれでいこうか」
「やったー!」
「らいはちゃん、今日は一緒に寝ましょうね」
「待って、いくら五月でもそれはゆずれないよ!」
なにやららいはをめぐって争いが起きようとしているが、話はまとまった。
以前はいきなりでそんな暇はなかったのだが、泊まるなら着替えやら色々と用意するものがある。
一旦はそれを取りに帰る必要があるだろう。
親父はまだ帰ってないと思うから、後で連絡しておこう。
「じゃあお前らは先に行っててくれ。俺は着替えとか用意してから向かう」
「お兄ちゃん、私も行くよ」
「いや、いい。いっぱい遊んでもらえよ」
「うん、ありがとね」
らいはの感謝と笑顔で胸は一杯である。
暖かい気持ちを抱えたまま、俺はひとまずの家路についた。
「……」
「……」
家までの道中を、何故かついてきた三玖と歩く。
一応本人は荷物持ちという理由を述べていたが、正直俺一人でも問題はない。
せいぜいが一泊分の着替えなので、大した量ではないのだ。
必要はないと伝えようとしたのだが、勢いに負けて同道を許してしまった。
そして今現在、無言で歩く二人組の出来上がりというわけだ。
俺もこいつもあまり積極的に話す方ではないが、これほどまでに会話がないのは珍しい。
しかし、時折こちらを見ては前に視線を戻すという行動を繰り返しているので、何か俺に用があるのは間違いなさそうだった。
「荷物持ちの事、他のやつにちゃんと言ってから来たんだろうな?」
「ううん、言ってないよ」
「それ絶対問題になってるやつ」
「フータローと一緒なう……うん、これで大丈夫」
三玖がスマホを取り出してなにやら指を滑らせる。
すると、しばらく間を置いてから何故か俺の携帯が数度震えた。
確認するのが億劫、もとい恐ろしかった。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな」
「心配しないで。ちゃんと言えばみんなわかってくれるから」
三玖はまたもスマホを取り出すと、追加の連絡を行ったようだ。
その後は俺の携帯が震える事はなかった。
あいつらが納得したのだと信じたいが、どうにも不安は残る。
距離を隔てた確認よりも、と直接こちらに乗り込んでくる可能性だってあるのだ。
しかし、もしそうなったとしても止めようがない事はわかっている。
何故かって? それは俺の経験則だ。
「ところで、何か話があるんじゃないのか」
「え……そ、そんなにあからさまだったかな?」
「うんまぁ、俺でも気づく程度にはな」
三玖は恥ずかしがっているが、それは転じて自分の事が見えないくらい余裕がなかった証拠だ。
それなのに姉妹に無断で俺についてくるのだから、おかしなところで大胆とも言える。
「実は、フータローに言わなきゃいけないことがあるんだけど……」
「ああ、歩きながらで良ければ聞くぞ」
「……ふ、フータローって進路はどうするの?」
言わなきゃいけない事があると言っておいて、出てきたのはこちらに対する問いだった。
もしかしたらこの質問自体が前フリなのかもしれない。
そうなると、三玖の話は進路に関わる事なのだろうか。
順調に成績を伸ばしてるし、もう少しランクの高いところを狙ってみたくなったのかもしれない。
「とりあえずは県外の大学だな。どこに出しても大丈夫って太鼓判ももらってる」
「そっか、やっぱりすごいね」
「で、お前の話も進路絡みなのか?」
「……うん、夢というか目標というか、そういうのができたんだ」
夏休み前だったか、やってみたい事があると言っていたのを思い出す。
あの時は焦らなくてもいいと伝えたが、ようやく三玖の中で答えが定まったのだろう。
それは家庭教師として喜ばしくもあり、同じ受験生としては羨ましくもあった。
「お前も自分の夢ってやつを見つけたんだな。素直にすげーって思う」
「そ、そうかな?」
「行きたい大学が少し難しくても、伸びしろを考えりゃ十分いけるだろ」
「うっ……」
「具体的な対策は判定を見てからだが、お前ならきっと大丈夫だな」
この一年弱の出来事を振り返る。
思えば長い道のりだった。
何もかもが初めてだらけで、正直よくここまでやってこれたと思っている。
スタート地点は五人合計100点の連中が、今や大学入試を目標としている。
自分の指導力不足に悩んだ事もあったが、合格というゴールにたどり着ければそれも報われる。
それこそ、今までこいつらに教えてきた甲斐があるというものだ。
「……そう、だね」
しかし、三玖の歯切れは悪かった。
俺の言葉を肯定しつつも、自分の言いたい事を吐き出せずにいるように見えた。
その姿に、何故か以前の武田が重なった。
自分の夢を持ちながら、親の期待に応えてそれを押し殺す姿。
直感でしかないが、それが今の三玖に当てはまるとしたら、背負っているのは誰の期待だろうか。
父親は違う。
あの人は基本的に自分の娘の意思を尊重している。
自分勝手な望みを押し付けるとは考えられない。
姉妹も違う。
お互いの事を思いやっている中野姉妹が、そんな事をするとは思えない。
なら学校の教師か――それも違うと断言できる。
なぜなら、教師としてなら俺の方が信頼されている自信があるからだ。
そう自負するに足るだけの時間を、こいつらとは過ごしてきたと思っている。
となると、俺の貧弱な人間関係から連想できる相手は他にいなかった。
それほどまでにこいつに影響を与えられる人物とは、一体誰なのか。
そこまで考えて、ふと一緒に図書館に行った時の事を思い出した。
やってみたい事があると言ったのは、その帰りの事だ。
あの時、三玖が食い入るように読んでいた本はなんだ?
あいつの興味の対象は戦国武将だが、あの本は恐らく違う。
チラリと見えたのは、料理の写真で――
「……この、馬鹿野郎が」
「えっ」
自分への罵倒と共に、頭の中の思い違いを叩きだすために頬を張る。
いきなりこんな事をしたら面食らうとは思うが、これは今の自分に必要な事だった。
修学旅行の初日、パンをご馳走してくれた三玖の姿を思い出す。
夏休み前、毎日のように渡された弁当を思い出す。
こいつに期待を押し付けているのは、他ならぬ俺自身だ。
「三玖、正直に話せ。お前が本気で選ぶ道なら、俺は否定したりしない」
「……私ね、料理の勉強がしたいんだ。だから、ごめん……大学には行けない」
三玖はゆっくりと吐き出すように答えた。
料理の勉強……つまりは専門学校だろう。
俺の頭からはすっかりなくなっていたが、そういう道だってあるのだ。
正直に言うと複雑な気持ちだが、それは俺の身勝手な感情でしかない。
だからそんな申し訳なさそうな顔をしないで欲しい。
「三玖、すまん。俺はお前に勝手な期待を押し付けてた……まずは謝らせてくれ」
「……」
「それがお前の選んだ道なら、俺も応援しよう」
「私の方こそ、ごめん。フータローならそう言ってくれるってわかってたのに……」
怖くて中々言い出せなかったのだと、三玖は小さく呟いた。
それはそもそも俺の無意識な期待が原因だ。
だからこいつが謝る必要なんてないのだ。
「着いたぞ、ここだ」
話しているうちに自宅に到着。
当然ながら明かりはついていない。
三玖は俺の家――というよりも、壁面から突き出た看板に目を向けていた。
「あの看板って……」
「前に話したお袋の店……の名残だな」
この建物は一階部分が個人喫茶で、二階部分が自宅になっていた。
現在は店はシャッターで閉ざされているが、親父とお袋が借金をしてこさえたものなのだという。
それを店を経営しながら返済していくはずが、お袋は店を開いた矢先に事故で死んだ。
そして残ったのは俺と親父と幼いらいはと、莫大な借金だ。
「ちょっと待っててくれ」
自宅に上がり、鍵と懐中電灯を持ち出す。
鍵はもう長い間使われていないものだが、錆の類はほとんどない。
それだけ親父が大事にしているという事だろう。
「待たせたな」
「あれ、荷物は?」
「それは後だ。それよりもせっかくだし、お前に見てもらいたいものがある」
シャッターを上げて、もう随分と開かれていない扉を開ける。
中は当然真っ暗だ。
電気は止めているので、懐中電灯を点けて店内を照らす。
「入ってくれ」
「う、うん……」
促すと、三玖はおずおずと店内に足を踏み入れた。
人が踏み入ってないので仕方がないことではあるが、少々埃っぽい。
テーブルと椅子は端に寄せられ、棚はもぬけの殻。
かすかに残る思い出との差異に心が締め付けられそうになる。
「寂しいもんだろ。借金もあるから手放すに手放せなくてな」
「ここで、フータローのお母さんが?」
「ああ、お前に俺の事……というよりお袋の事を知ってもらいたくてな」
修学旅行の初日に、三玖自身が言っていた事だ。
今更俺自身について語る余地はないが、家族の事となればまた別だ。
それに、あのパンを焼いてくれた三玖には知っておいて欲しかった。
「ここはお袋の夢ってやつだったんだろうな」
「夢……」
「俺にはそういうのがないから、それを持ってる奴が少し羨ましいよ」
金を稼ぐという目標はある。
そのための足がかりとして、大学に入るだけの学力も身につけた。
しかし、未だに具体的なビジョンは見えてこなかった。
俺自身の将来の姿というものが想像できないのだ。
それがいまいち志望を決めきれない理由だ。
「悪い、少し湿っぽかったな」
「ううん、またフータローのことが知れて嬉しかった」
「そうか」
外に出て、再びシャッターを下ろす。
三玖は閉ざされていく店に、あるいはお袋に対してか、静かに頭を下げていた。
感傷に浸るのはここまでにしておこう。
今度こそ三玖を伴って部屋に上がる。
あまり抵抗を感じなかったので、他人を家に上げるのに慣れてきたのかもしれない。
いや、今更他人と呼ぶような間柄でもないんだが。
「着替えを出すから、そっちのバッグに詰めてくれ」
「任せて」
ほいほいとタンスから必要な衣類を出していく。
たかだか一泊分なので、時間はかからなかった。
三玖も淀みなく詰めていくのだが、途中でその手が止まった。
「おい、人の下着を持ったまま固まるな」
「ごめん、つい気になって……」
やはり異性の下着は気になるものなのだろうか。
いや、別に俺が女性の下着に興味津々というわけじゃないが。
とりあえず、せっかく畳んでいたものを広げてまじまじと見るのはやめて欲しいぜ。
これなら全部一人で済ませたほうが良かったかもしれない。
「よし、こんなとこか」
「すぐ済んじゃったね。ちょっと残念」
「いや、勉強道具入れ替えるからもうちょっとだけ待ってくれ」
背負っていたリュックを置いて中身を出す。
全教科分を持ち歩くには容量不足、もしくは重量オーバーなので定期的に入れ替えているのだ。
中野家に泊まるからといって、自分の勉強を疎かにするわけにはいかない。
そうして出し入れしている最中、とあるものがこぼれ落ちた。
入れっぱなしにしてた箱入りの近藤さんだ。
なんか昨日も似たような事があったな……
なんにしても見られる前に――
「これって……」
――回収しようとしたのだが、ブツは既に三玖の手によって拾い上げられてしまっていた。
一瞬、頭の中が真っ白になる。
しかしずっと固まっているわけにはいかない。
なんとか言い訳を……いや、そもそも何に対して言い訳をするんだよ。
三玖がそのアイテムについて何も知らない可能性だってある。
落ち着け、まだ慌てる時間じゃない……!
「ふ、フータロー、なんでこんなもの持ってるの……?」
顔を真っ赤にしながら尋ねてくる三玖が、それが何かを理解しているのは疑いようがなかった。
緊張からか汗が頬を伝う。
どうする、どうしたらいい?
とりあえず、三玖の手から取り上げなければ……!
「か、返せっ」
「あっ――」
「うわっ――」
俺の勢いが良すぎたのが原因か、それとも三玖がブツを持つ手を引っ込めたのが原因か。
動きに制限のある浴衣を着ていたのも関係しているだろう。
もつれるように、俺と三玖は床に倒れこんだ。
三玖を下敷きにするわけにはいかないので、咄嗟に床に手をついて体を支える。
結果、俺が三玖を押し倒しているという頭の痛い構図が完成してしまった。
今にも鼻先が触れそうなほど近い。
何を思ったのか、三玖は無言のまま目を閉じた。
そして俺も何を思ったのか、そのまま顔を寄せて唇を重ねてしまった。
数秒の触れるだけのキス。
唇を離すと、三玖は蕩けた目で俺を見上げてきた。
「ねえ……これ、使ってみたくない?」
そして俺の首元の絆創膏を剥がすと、変色した部分に舌を這わせてきた。
その感触に体が震え、理性がグズグズに溶かされていく。
そもそも自分からキスをしてしまった時点で、もう既にスイッチが入ってしまっている。
「んっ……いいよ。私にもフータローの痕、付けて……?」
そこが限界だった。
言う通りにして、三玖の首筋に吸い付く。
その際に漏らした堪えるような喘ぎ声が、興奮をさらに加速させた。
邪魔が入らないのなら、後はもうそのまま転げ落ちていくだけ。
求めるまま、あるいは求められるまま、俺は三玖との『約束』を果たした。
「歩けそうか?」
「う、うん……」
先程までしていた行為の影響か、三玖は歩くのが少々辛いようだった。
それは俺の責任でしかないので、支えながら夜道を進む。
時間を取られてしまったため、俺と三玖の携帯には心配するメールやらが届いていた。
まさか正直に話すわけにはいかないので誤魔化したが。
後処理や浴衣の着付けでもたついてしまったが、親父が帰る前に済んで良かった。
「それにしても、よくあいつらが今まで黙ってたな」
「私がお願いしたんだ。フータローに進路のこと話すって」
姉妹にもちゃんと話したのは昨日なのだという。
二乃は特に気にしていたようで、花火からの帰り道でもその事を話していたらしい。
あいつらの事だから、三玖が勇気を出したのに野暮な邪魔をしようという考えはなかっただろう。
それだけに、三玖と致した事を考えたら背中に冷や汗が伝ってしまう。
実際に顔を合わせる時までに、心を落ち着けておかなければならない。
そうしないと、あっという間にボロを出してしまいそうだ。
「あ、いた! 何やってたのよ、もう!」
「二人ともー、遅すぎだよ」
そして心の準備を終える前に一花と二乃が現れた。
到着が遅れている俺達を心配して様子を見に来たのは疑いようもない。
それにも関わらず、俺の顔は強張ってしまった。
これでは後ろめたい事があると白状しているようなものだ。
そして、それを見逃すような一花ではなかった。
「まさかだけどさ、二人してなにかイケナイ事をしてたわけじゃないよね?」
三玖の顔が真っ赤に染まり、二乃の視線が鋭くなる。
……落ち着け、まだ確たる証拠を押さえられたわけじゃない。
なんて自分に言い聞かせてみたが、足は竦んで動けそうにない。
蛇に睨まれた蛙という言葉が浮かんできた。
「三玖、首のそれってまさか……」
二乃の視線が三玖の首元の痕を捉え、同じように俺の首元の痕も捉えた。
慌てて出てきたせいで、絆創膏で隠すのをすっかり忘れてしまっていた。
手で隠してみるが、それはもう後の祭りである。
さらに俺と三玖がシンクロしたかのように首に手を当てた事が、二人の神経を逆なでしたらしい。
一花と二乃の頬が引きつった。
「ちょっとあんたら、そこに正座しなさい」
「「……はい」」
「さぁて、二人とも……なにか申し開きはあるのかな?」
ここに簡易五つ子弾劾裁判が始まった。
終わる頃には気力が尽き果て、勉強するどころじゃなかったのは言うまでもない。
ちなみに勇也さんは部屋の中で行われている事を察して、どこかで時間を潰していたようです。