江戸で二天一流を極めていたらすっかり遅れてしまいました。
というわけで今回は長女の話です。
『学園祭初日15時に教室に来てくれ』
なんの飾りもないシンプルなメール。
一花がそれを目にしたのは、その日の撮影の合間のことだった。
プロダクションの看板女優を労う織田社長が、メールの着信を知らせてくれたのだ。
「えっ、フータロー君!?」
先程までは撮影に臨む女優の顔を見せていた一花だったが、メールを見た瞬間に一変した。
恋する乙女を地で行く表情……その豹変っぷりに、隣の社長も困惑した顔を見せた。
直前の撮影は、共演している俳優を一花が詰るシーンだった。
その際に見せていた、心底軽蔑したかのような表情とは完全に別物である。
「学園祭の最中に……やだ、なんの用だろ」
なんの用などと口にしてみた一花だが、実のところ期待はあった。
進学しない自分にはあまり関係はないが、学園祭が終われば本格的に受験ムードになる。
それを踏まえると、最後の学校行事は色々とスッキリさせるのにはいいタイミングだ。
だからこそ、風太郎もこんなメールを寄越したのだろうと。
そしてそれをわざわざ自分だけに送ってきたという事は……
「やだもー、困っちゃうなぁ」
顔がにやけるのが止められなかった。
困るなんてのは口だけだった。
隣の社長は気を使って周囲との壁になってくれていた。
ひとしきりニヤニヤした後、一花は余所行きの表情に切り替えた。
そして監督の下へ駆け寄ると、予定の擦り合せを始めるのだった。
「来ちゃった……」
タクシーから降りた一花の目の前には、久しぶりに見る旭高校の校門。
学園祭仕様に装飾されて、すっかり見慣れない風景に変じていた。
このお祭りムードには、どこかワクワクするものがあった。
約束の時間は午後の三時だが、今は昼前だ。
それまでに何をして過ごすべきか。
クラスのみんなの様子を見に行く、あるいは学園祭をゆっくり回るのも悪くない。
今日は仕事が休みになったため、時間には余裕があった。
「中野一花いるじゃん」
突然名前を呼ばれて、一花の心臓が跳ね上がった。
帽子をかぶって誤魔化しているのに、こんなにも早くバレてしまったのだろうか?
果たしてその心配は杞憂だった。
後ろの男性二人組は、女優の一花がこの学校に通っている事を話題にしているだけだった。
それでも一抹の不安を覚えたので、途中でトイレによって変装を済ませる。
こんな時のために、変装グッズは欠かせないのだ。
ウィッグを被って左右を蝶柄のリボンで飾れば、二乃に早変わりだ。
姉妹で一番髪の短い一花だが、変装の際には楽だという利点があった。
誰に扮するにしても、髪をまとめたりという手間が省けるのだ。
「えーと、一組は……うわ、本当に二つ屋台やってる」
そうしてシレっとパンフレットを受け取って、一花は入場を果たした。
とりあえず自分のクラスの店舗を探したのだが、三年一組は二箇所に店を出していた。
たこ焼き屋にパンケーキ屋。
事前にホテルのベッドの上で風太郎に聞いた通りだった。
「あ! レッドだ!」
パンフレットに目を落としていた一花だが、突然の声に顔を上げた。
どうも周囲の人の注目を集めてしまっているようだ。
(ウソ、まさか変装しても滲み出る芸能人オーラで……)
なんてことはなく、どうも二乃に変装しているのが原因のようだった。
かわいいと褒められたり、気安く話しかけられたり。
果てには握手や写真を求められたりと、一花からしたらワケがわからない事態だ。
あまりの迫られっぷりに思わず逃げ出してしまった。
自分のいない間に、妹は何をやらかしたのだろうか。
「こっちだ」
「あっ」
「これ被ってろ」
横から手を引かれ、頭になにか布を被せられる。
嗅ぎなれた汗の匂い――風太郎だった。
着ていたブレザーを被せてきたようだ。
日の出祭、とデカデカとプリントされたTシャツを身につけていた。
学園祭の運営側だという立場を示しているのだろう。
風太郎は一花を追っていた人達を、見当違いの方へ誘導してくれていた。
助かったと思う反面、少しの不安。
今の一花は二乃に扮している。
それに風太郎は気づいているのだろうかと。
「そんな格好で何してんだ、一花」
しかしそれはいらない心配だった。
実に自然に、ごく当たり前かのように風太郎は正体を言い当てた。
とは言っても、全くのノーヒントというわけでもない。
今日はウィッグを被っただけなので、服装はそのままなのだ。
一花と二乃では服の趣味が違うため、そこから見分ける事も十分可能だ。
風太郎が中野姉妹のファッションに対してどれだけ関心があるかはわからないが、少なくとも足回りの違いから見分ける程度はこなしてくる。
しかし本気の変装ならば服装も合わせるため、こうも容易く見破られはしないだろう。
家族ならば顔を見ただけで気づくので、この程度で満足されては困るのだ。
(あぁ、もう、やだなぁ……私、浮かれちゃってるよ)
だが、考える事に反して一花の心は浮き足立っていた。
惚れた弱みというやつなのかもしれない。
二乃のように、今すぐにでも抱きついてキスをしてしまいたかった。
しかし一花は中野家の長女である。
女優という立場もあるので、外での行動は慎重にしなければならない。
自分の衝動的な告白や、初体験が野外だった事は脇に置いておいた。
ヤっちゃったものはもうどうしようもないのである。
重要なのはこれからの事。
具体的に言えば、風太郎をどうやってベッドに引きずり込むかだ。
一花とてそういう事ばかり考えているわけではないのだが、こうも気分を高められては、相手と愛し合いたいという欲求が出てきてしまう。
幸いにして学園祭で二人きりという導線は確保できているので、この後の誘導しだいだろう。
普通に誘っても乗ってこない風太郎だが、言い訳や逃げ道があると意外とあっさり応じてくる。
学園祭という場の雰囲気を利用したら、案外簡単にいけるかもしれない。
勉強にしか興味がないという態度を前面に出してはいるものの、あれで結構俗っぽいのだ。
「つーか、なんだかんだで来たんだな」
「まぁ、君がせっかく誘ってくれたし」
「せっかくの機会だ。また六人で集まりたいと思ってな」
「ん? ちょっと待って。もしかしてみんなにもメール送ったの?」
「ああ、一斉送信でポチッとな」
「……ふーん」
舞い上がっていた気分が一気に急降下した。
自分の勝手な勘違いだったとは理解しているものの、面白くない気持ちが出てきてしまう。
一花は女優であるため、表情を作るのが得意だ。
なのであくまで笑顔のまま、本心の方は行動で表現させてもらうことにした。
風太郎の頬を少し力を込めて抓る。
痛みに顔をしかめたものの、抵抗してくることはなかった。
それでもまだ気分は収まらない。
身勝手な期待だったのだが、決して小さいものではなかったのだ。
そもそも全員で集まるのなら、メールに書いておけという話である。
そういう部分に対人経験の少なさが出ているように思える。
風太郎らしいと言えばそれまでだが、これでは将来が少し心配だ。
抗議の意味も込めて、少し困らせてみることにした。
普段から風太郎に対して挑発的な言動が多い一花だが、それには好きな相手の動揺を誘って楽しみたいという困った目的がある。
もちろん、本気で困らせたいわけではないのだが、これが中々やめられない。
「はいどーぞ。キスも慣れたものだもんね」
こうからかいつつキスを誘ってみるのも、自分の言動であたふたする風太郎を見たいからだ。
基本的に理性で動く風太郎は、こんな人前ではまず乗ってこない。
誘った一花も当然それは見越している。
そしてキスしてこなかった事をネタに、さらにからかうのが思い描く流れだ。
「まぁ、こんなとこじゃさすがに――んむっ」
「――あんまり舐めんなよ」
「……まさか本当にしてくるとはね」
しかし予想に反して風太郎は行動に出た。
こうして時折、理性を振り切って誘いに乗ってくるというパターンも存在する。
それも一花が挑発をやめられない理由の一つだ。
それでも予想外であることに変わりはないので、頬は熱くなる。
(でもまぁ、これで元は取れたかな?)
ガスボンベを抱えて移動を開始した風太郎に追従しつつ、一花は自分の胸に手を当てた。
この騒がしい鼓動は、先の落胆への埋め合わせには十分だった。
少し甘い気もするが、こうも心が満たされてしまっては文句も言えない。
そうしてこの場を離れようとしたところで、一人の男の子が目に付いた。
周囲には誰もおらず、不安そうな顔をしてうつむいている。
「ねぇ、フータロー君」
「ん、なんだ?」
「あの子、どうしたんだろ」
「迷子の子のお母さん探してまーす」
「ショー君のお母さーん、いませんかー?」
迷子の男の子の手を握り、俺と一花は周囲に呼びかける。
ガス欠の屋台へボンベを届けた後、俺達は迷子の面倒を見る事にした。
ちなみにこういった場合の対応も、実行委員のマニュアルには記載されている。
迷子センター的な場所を設けているため、早い話がそこへ案内しろというものだ。
俺も決まりに則るならそうすべきなのだが、ああも不安そうな顔をされては仕方がない。
何よりも一花が気にしていたので、こうして二人で保護者探しをしている。
「見つかんねーな……」
しかし、そう簡単に話が運ぶわけではない。
子供を残して帰ったというのはないだろうが、この学校も決して狭くはない。
こんな時の合流をスムーズに促すのが迷子センターの役割なのだが……
「うっ、うぐっ……」
俺のつぶやきを聞きとがめたのか、男の子が泣きそうになっていた。
まずいと思った時には、一花が既に動いていた。
目線を合わせるようにしゃがみこんで、安心させるように笑いかけた。
「ねぇ、ショー君。一緒にいたのはお母さんだけ?」
そこからの手並みは鮮やかなもので、最終的に一花が頭をなでると、男の子は笑顔になった。
もうすぐ妹が生まれるとの事で、お兄ちゃんになるのだという。
奮起した男の子を見て、少し懐かしい気分になった。
兄になるのならば、泣いている場合じゃないよな。
らいはが生まれて、お袋が死んで、俺は強い男を目指した。
そのモデルが親父だったため、小学生ながら髪を染めてみたりもした。
今にして思えば、あれは精一杯の虚勢だったのだろう。
六年前の出会いがなければ、俺はどんな人間になっていただろうか。
お袋に恥じないような兄になれていただろうか。
そんなことを考えても仕方がないのはわかっている。
そもそも今だって、立派な兄をやれているかどうかは怪しいのだから。
「さすが長女。やるじゃねーか」
「ありがと。じゃあ次はフータロー君の番だね」
一花が指さす方を見ると、言い合いをする女生徒と思しき二人。
模擬店で喫茶店でもやっているのか、エプロンドレスを身にまとっていた。
「長男らしいとこ、見せて欲しいな」
もとより、トラブルの仲裁も仕事のうちだ。
そして好きな女に期待されたとあっては、引き下がれるはずがない。
俺は不敵に笑ってみせた。
「待ってろ、軽く済ませてきてやるよ」
「そ、想像以上に手強かったな……」
「あはは、かっこよかったよ」
「お兄ちゃんも強くなろう!」
「おう……」
やっとのことで喧嘩の仲裁を終えて帰ってきた俺は、二人に励まされていた。
おかしい、予定ではもっとスマートに終わらせるはずだったのに……
対人スキルの弱さが浮き彫りになった結果か。
結局、子供の前でみっともない事をするなという方向で説得せざるを得なかった。
これでは俺というよりも、この迷子の男の子が仲裁したようなものだ。
その立役者は、何やら一花が気になるようだった。
顔をジッと見上げている。
「お姉ちゃん見たことある」
「お、こんなチビにも知られてるとはな。流石は大女優さま――」
「この前キスしてた人だ」
茶化そうとした俺だが、その単語に固まらざるを得なかった。
キス? 一花が? 誰と?
一花と男の子が何か話しているが、頭の中に入ってこなかった。
「やだなぁ、そんなにショック受けないでよ」
「べ、別にショックなんか……」
否定してみたが、声には明らかに動揺が表れていた。
そして、心の奥底からジワジワと滲み出てくるとある感情。
それだけは表に出さないように歯を食いしばる。
「女優だもん、そういうこともあるよ」
「だから気にしてねーって」
「だよね。そんなの気にならないくらいいっぱいしてるもんね、私たち」
一花は俺の耳に顔を寄せて、囁くように言った。
大っぴらに話す事ではないのはわかるが、これでは密着しているように見えてしまう。
むしろ逆効果ではないだろうか。
「お兄ちゃんたちって、つきあってるの?」
「んー、どうだろ? お兄ちゃんは仲良しな女の人がいっぱいいるからね」
案の定、勘違いされてしまった。
いや、恋人同士でないというだけで概ね間違ってはいないのだが。
それにしても、こんな小さな子供が男女の付き合いという概念を理解しているとは。
一花の言い方は人聞きが悪いが、否定できないのがまたタチが悪い。
「そういうの良くないってドラマで言ってたよ」
「お、いいねー。もっとお兄ちゃんに言ってやってよ」
男の子の肩に手を置いて、一花は俺に抗議するような布陣を取った。
今度はこういう方向で攻めてくることにしたらしい。
たしかに迷子相手では俺も強くは出れない。
つーかこの子はドラマの見すぎだ。
テレビを置いている家庭では普通なのだろうか。
「ぼくが見たのは姉妹で同じ人を好きになるってやつ。喧嘩して修羅場になっちゃうんだ」
「この話、もうやめよっか!」
妙に身に覚えのある内容だった。
そのドラマでは、男を取り合って姉妹仲が険悪になってしまうらしい。
どうでもいいが、子供の口から修羅場なんて言葉を聞く日が来るとは……
決して他人事ではない話の内容に、流石の一花も止めに入った。
そもそも扇動したのはお前なんだが。
「それで、最後はどうなるんだ?」
「ちょっ、フータロー君もういいじゃん」
「えーっと……」
しかし、俺はその続きが気になった。
姉妹で同じ男を好きになった末に、どんな結末があるのか。
ドラマはフィクションでしかないのはわかっている。
それでも、みんなが幸せになれるようなエンディングがあるのではないかと期待してしまった。
「片方と結ばれて、片方とはそれっきり」
妙に現実的で後味が悪かった。
そんな都合のいい話はどこにもないということだろうか。
「ショー!」
「あ、ママ!」
ゆったりとした服を着た女性がこちらへ駆けてくる。
ずっといなくなった子供を探していたのだろう。
男の子の手を取ると、安堵の息を吐き出していた。
こちらにも大げさなぐらい頭を下げてきた。
合流できたのならばなによりだ。
子供の嬉しそうな顔を見ると、付き合った甲斐があったと思える。
「え、うそっ、一花ちゃん!?」
安心したのも束の間、子供の母親が大女優様の存在に気づいてしまった。
にわかに周囲がざわめき始める。
「おい、一花」
「ごめん、後はお願い」
「……約束の時間、忘れんなよ」
「うん、楽しみにしてる」
笑顔で言い残すと、一花は足早に去っていった。
多少の後ろめたさを感じつつも、俺は一花に寄ってくる輩を押しとどめるのだった。
「おい、タクシー来たぞ」
「……ふーんだ」
校門の前にタクシーが止まる。
見送りに出てきた風太郎が呼びかけたが、一花はそっぽを向いた。
明日は撮影があるので、ホテルへ戻らなければならない。
それでもあわよくばと、風太郎との甘い時間を期待していたのだが……
「俺が悪かったのは認めるが、せめて返事ぐらいしてくれよ……」
風太郎の左頬は赤く腫れ上がっていた。
都合三発のビンタのダメージが出ていた。
その一発目の犯人である一花は、盛大にむくれていた。
突然学園祭に呼び出され、期待して来てみれば誰も選べないという情けない告白である。
これには流石の一花もキレた。
思わず真顔で頬を張ってしまった事は記憶に新しい。
「……本当に何が悪かったかわかってる?」
「答えが出せなかった事だろ」
「それだけじゃ合格点はあげられないよ」
風太郎の言った通りずっとこのままの関係ではいられないし、いずれ答えを出す必要がある。
それは一花もよくわかっている。
そして、選ぶのなら自分であってほしいと願ってもいる。
しかし、風太郎の出した答えは、答えではなかった。
「私としてはね? 君が答えを出せないならそれでも良かったんだ。今の関係も楽しいしね」
「……」
「だけどフータロー君、無理に答えを出そうとしたでしょ」
「……そう、かもな」
「もしそれで誰かを選んでたら、多分後で辛くなってたと思うよ」
もちろんそれで一花を選ぶようなら、容赦なく遠慮なく躊躇なく頂いてしまうだけなのだが。
それでも、出来ることなら確信を持って選んで欲しかった。
そして自分が選ばれないにしても、風太郎と選ばれた姉妹には笑っていて欲しかった。
「とりあえず、もうちょっとよく考えてみてよ」
「もう散々考えたんだが……」
「じゃあ、もうちょっと自分の気持ちに正直になるっていうのは?」
「それがはっきりしてれば、こんな事になってないんだが」
「難しく考えすぎだよ。誰のことが好きか……って、みんな好きなんだもんね」
「……悪いかよ」
「私はいいと思うよ? 堂々と五股宣言しちゃうなんて男らしいし」
「そこまでは言ってないんだが!?」
大っぴらに言ってはいなくとも、事実としてはそんな状況であるのは間違いない。
よって風太郎の否定は一花にはどこ吹く風である。
「にしても、お前も大概だな。我ながら、相当どうしようもない事を言ったと思うんだがな」
「んー、あれぐらいでどうにかなるほど、私たちの気持ちは軽くはないってことかな?」
「思いっきり叩かれたんだが」
「頭にきたのも本当だからね。それぐらい我慢してよ」
一花の他に怒りながら叩いた二乃も、呆れながら叩いた五月も大体は同じ気持ちだろう。
叩かれた風太郎の心配をしていた三玖と四葉は言わずもがなだ。
「……まぁ、これぐらいだったら安いもんか」
「安心した?」
「むしろ呆れてるわ。これでも愛想を尽かさないなんてな」
「それは私たちを甘く見すぎだよ。だから逃げられるなんて思わないでね」
「いや、怖いんだが……」
怯えた様子の風太郎に笑いかけると、腫れていない方の頬に口付ける。
そして小さく手を振って一花はタクシーに乗り込んだ。
「それじゃ、フータロー君の答え、楽しみにしてるよ」
「期待に添えるかはわからないけどな」
「その時はまぁ、また一発ぐらいいっとく?」
「勘弁してくれ……」
「サイテー! いつまでも甘いこと言ってんじゃねーよ!」
バチンという破裂音と共に一花の怒声が響き渡る。
先日の撮影のリテイクである。
元は相手を詰るシーンのはずだが、よりインパクトを求めてのビンタと罵倒である。
叩かれて地面に倒れこんだ俳優は、一花の迫真の演技に素で驚いていた。
それも含めて監督の満足のいくシーンに仕上がったようで、文句なしのオーケーだ。
「だ、大丈夫ですか……?」
「一花ちゃん、なんかやり慣れてない……?」
一花が心配してオロオロと声をかけるも、叩かれた俳優は涙目である。
慣れているというわけではないが、昨日の経験が生きてしまっていた。
風太郎へのビンタはまさにクリティカルヒットで、その感覚がまだ手に残っていたのだ。
ともかく今日の撮影は終わり、後はホテルへ戻って寝るだけだ。
学園祭中は撮影という名目の勉強の時間もない。
体を伸ばしつつ、一花は風太郎の事を考える。
誰も選べないという答え。
裏を返せば、まだまだチャンスはあるということである。
これが『選べない』ではなく『選ばない』ならば話は変わってくるのだが、その選択肢は修学旅行の際に五月が既に潰している。
そのチャンスがいつまで続くかはわからないが、それまで一花は出来ることをするだけだ。
女優業に精を出し、風太郎との撮影で卒業への備えをし、そして時に風太郎へ体で愛を伝える。
忙しくも充実した日々だった。
それがずっと続けばいいと思ってしまう程度には。
選べないと言った風太郎の気持ちがわかるような気がした。
きっと姉妹それぞれと過ごす時間が、手放し難いほど大切なのだろうと。
(意気地がないというか、欲張りだなぁ)
いつまでもこのままではいられない、答えを出さなければいけない。
風太郎の言ったことはその実、それ自体が望みに反しているのだ。
これで仮に誰とも深い関係になっていなかったとしたら、あるいは特定の一人とだけ深い関係を築いていたのなら選べたかもしれない。
しかし仮定は仮定に過ぎず、複数人を一つになるほどに寄せすぎたせいで選べなくなっている。
他人には基本的に関心を抱かないが、身内と認めれば切り捨てられない。
それが体を重ねるほどの関係に至ればなおさらなのか、誰かを選ばないというのが、身を切るに等しい行為になってしまっているのだろう。
その事を風太郎が理解しているかはさておき、誰かを選ぶ事へのハードルは上がり続けている。
今回はそのハードルを避けたが、次はどうなるのだろうか。
「一花ちゃん、大変だ!」
血相を変えて駆け寄ってきたのは織田社長だった。
手に持っているのは一花の携帯だ。
なにか緊急の連絡でも入ったのだろうか。
嫌な予感がした。
「学園祭で妹さんが倒れたそうだ」
「元気そうで安心したよ」
「うん、来てくれてありがとう、一花」
「それじゃ、しっかり休みなよ?」
見舞いを終えて一花は病室を後にした。
倒れたと聞いた時は焦ったが、大事はなかったようで少し休めば回復するそうだ。
撮影終わりに駆けつけたので時間も遅い。
消灯時間を過ぎた院内は、照明を抑えたナイトモードだ。
薄暗い廊下の向こうから、二乃と風太郎が姿を現した。
「一花も来てたのね」
「電話したんだけど、やっぱり顔見ておきたかったから。他のみんなは?」
「私たちは大丈夫よ。とりあえず心配しないで」
そう言う二乃の機嫌は悪くなさそうに見えた。
昨日別れた時は怒りが抑えきれない様子だったが、それもどうにかなったようだ。
こうして風太郎と一緒にいるのがその証拠だった。
なぜかエプロンを身につけているのは気になったが、着の身着のままで駆けつけたのだろう。
「後片付けあるし、私は学校戻るわ。フー君は一花をお願いね」
「お、おう……」
二乃は足早に行ってしまった。
取り残された風太郎は、顔に少し疲労の色が出ていた。
今日も忙しかったのだろうか。
「じゃあ、今日は家に帰ろうかな」
「明日は大丈夫なのか?」
「うん、明日はオフだから」
「そうか、なら送っていこう」
「フータロー君は仕事終わったの?」
「なんとかな」
「そっか、ならエスコートお願いしようかな」
人気のない道路を一花と風太郎は並んで歩く。
時刻は夜の十時を過ぎており、車の姿もほとんどない。
時折聞こえてくる歓声は、どこか遠雷のようだった。
「わっ、ここ意外と広いんだね」
「屋台がないからな」
「フータロー君、覚えてたんだ」
「あんなに歩き回らせられればな。まぁ、こうもすっきりすると寂しいもんだ」
ここはおよそ一年前に、中野姉妹と上杉兄妹で訪れた祭りの会場である。
一花にとっては思い出深い一日の記憶だ。
作り笑いを見抜かれ、ついでにこっそり女優をやっていたのがバレた日でもある。
風太郎が中野姉妹との関係に、パートナーと名付けたのも同じ日だった。
とにかく色々とあった日であり、一花が女優としてやっていけているのも、あの時に一歩踏み出してオーディションへ向かったからだ。
ぶっきらぼうな優しさが、怯える背中を押してくれた。
恋には至らずとも、それが一花が風太郎に関心を抱いたきっかけだった。
「あ、見てあの人たち。なんか懐かしくない?」
「おい、あんまジロジロと見んな」
この場は無人かと思われたが、建物の隙間でイチャつくカップルがいた。
一花と風太郎がカップルのふりをして抱き合っていた場所と、ちょうど同じ位置である。
負けじと一花は風太郎の腕を取った。
「……歩きにくいんだが」
「いいじゃん、別に急いでないし」
そもそも家に帰るだけならばここに来る必要はない。
寄り道を見逃している状況なので、風太郎は強く出られなかった。
「どう? あれから考えてみた?」
「……どうだかな」
「あらら」
どうやら進展はなさそうだった。
特段急かす理由もないのだが、一花は少しつっついてみることにした。
「初めての相手って言うと特別感出るけど、フータロー君的にはどう?」
「初めてって、お前な……」
俗に言う初体験という意味合いであれば、この二人はお互いが初めての相手である。
つまりこれは一花の自己アピールだ。
なんだかんだで体を重ねた回数もそれなりにある。
他の姉妹と比べて、一花はそれが可能な状況が整っていた。
「まぁ、別に初恋とかファーストキスでもいいんだけど」
「初恋なんて知るか。忘れたわ」
「へぇ、忘れたってことは、初恋自体はあったんだ」
「ぐっ……」
言葉尻を捉えて、一花はニヤニヤしだした。
風太郎が言葉を詰まらせたのも悪手だった。
平然と否定すればいいものを、これでは肯定しているようなものである。
あるいは、お前が初恋だと返せば一花も黙るのだが、そんな発想も器用さも風太郎にはない。
「相手は? 私? 四葉? それとも他の姉妹?」
「なんでお前ら限定なんだよ」
「だって君、私たち以外にまともに女の子と関わってないじゃん」
一花の断定は大体正しい。
勉強漬けだった風太郎に、女子はおろか他人と関わる余地は存在しなかった。
中野姉妹の家庭教師を引き受けて、半ば強制的に関わらざるを得なくなったのだ。
しかしながらそれは中学生以降の話であって、その前は普通に悪ガキだったという過去がある。
「……小学校の時の同級生だよ」
「え、まさか本当に私たち以外の子なの!?」
「何でもいいだろ。この話はこれで終わりだ」
「うわぁ、気になるなぁ……じゃ、じゃあファーストキスは? もしかしてその初恋の子?」
「それこそわかんねーよ。……お前ら全員、五月の格好してたしな」
祖父の元を訪ねるにあたって、中野姉妹は全員で寸分違わぬ格好をすることを心がけていた。
それは祖父に余計な心労を与えないためであり、今年の春は五月の格好に統一して訪ねたものだ。
つまり、風太郎のファーストキスのタイミングは、その家族旅行の最中だ。
「そもそもあれは事故だ。足を滑らせてぶつかったってだけで、深い意味はないはずだ」
「ふーん……で、君は誰だと思うの?」
「だからわかんねーって。本当に一瞬だけだったしな」
「じゃあ、誰だったら嬉しい?」
「……余計に答えづらいんだが」
風太郎は、答えられないではなく答えづらいと言った。
ひょっとすると、なにか心当たりがあるのかもしれない。
それを引き出すために、一花は財布から二百円を出して風太郎に渡した。
「そこの自販機でなにか買ってきてよ」
「いきなりだな。リクエストは?」
「二乃なら紅茶、三玖ならお茶、四葉はジュースで五月ちゃんはコーヒー、私なら……お水でいいかな?」
「……お前が飲みたいものってことでいいんだよな?」
「ふふふ……さぁ、どうでしょう?」
自販機へ向かおうとする風太郎の横を通り抜けて、一花は公園の中へ。
ここもまた思い出深い場所である。
一年前のオーディションの後に、姉妹で花火をした公園だ。
中野姉妹は五つ子ではあるが、好みはほとんど被らない。
そんな一花と三玖が最後に線香花火を選んだのは、その先の事を暗示していたのかもしれない。
公園のベンチに座って、自販機の前で佇む風太郎の背中を見守る。
相当に悩んでいるようだった。
一花にとってはほんの思いつきの戯れでしかないのだが、大概真面目なことだ。
そしてその日の撮影の疲れが出たのだろう。
時計の秒針が何周かする頃には、一花はベンチに横たわって寝てしまった。
「げ、待たせすぎた……」
自販機で買ったものを抱えて公園内のベンチに向かうと、一花は見事に寝ていた。
近くの時計を見ると、お金を渡されてから実に十分は経過していた。
我ながらどれだけ悩んでいたのだという話だが、あんな事を言って送り出したこいつも悪い。
おかげで時間を食ってしまった。
「やれやれ……学園祭が始まってから、ダセェとこばっか見せちまってるな」
ベンチの前にしゃがみこんで、一花の寝顔を眺める。
他の姉妹に比べたら、こいつには頼りがちだったように思える。
お互いに長男と長女で共感するところもあり、無意識のうちに頼っていたのかもしれない。
姉妹の前に立ち、自分の夢を見据えてまっすぐに進んでいく姿、
俺はきっと、一花のそんなところに惹かれている。
だからこそこいつの見せる覚悟に応えたいと思ったし、共に歩んでいきたいとも思った。
だけどあの体たらくだ。
よくこんな俺に失望して離れていかなかったものだと、いまだに驚いている。
本当にもの好きで、男の趣味が悪いとしか言い様がない。
こいつも、他の姉妹もだ。
『じゃあ、誰だったら嬉しい?』
目が唇に吸い寄せられる。
肌を重ねた回数はまだ数えられるほどだが、唇は何回重ねただろうか。
それだけに、一花が演技といえどもキスをしていたという事実が心を揺さぶった。
『やだなぁ、そんなにショック受けないでよ』
「……ショックじゃないわけねーだろうが」
これが正当性のない、醜い独占欲であることは理解している。
そもそもとして俺は人の事を言える立場にないし、女優としてやっていくなら、そういう演技を求められることも分かっているつもりだった。
でも覚悟はてんで出来ていなかった。
そうしてモヤモヤとした感情が心の中に蟠っている。
ずっと吐き出せずにいて、寝ている一花を前にしてようやく欠片だけが出てきた。
全てをさらけ出すわけにはいかない。
そうしたら、きっと俺自身が自分の醜さに耐え切れなくなる。
せり上がってくるものを抑えるように空を見上げる。
「……ごめんね、フータロー君」
頬に、ひんやりとした手の感触。
いつの間にか目を覚ましていた一花が、こちらへ手を伸ばしていた。
そしてそのまま引き寄せて、唇を重ねてきた。
「君がそんなに気にしてるとは思わなかったんだ」
「……だから別に――」
「ダメ、ちゃんと聞かせてよ」
有無を言わせない口調とは裏腹に、優しい抱擁だった。
張っていた意地が剥がれそうになるのを、すんでの所で押しとどめる。
好きな女の前で格好の悪いところを見せたくない。
ともすればガキ臭い、そんなちっぽけなプライドだ。
「もう、強情だなぁ」
口を閉ざす俺に、一花は頬を膨らませた。
破裂音と共に、色とりどりの火が打ち上がる。
いつの間にか公園に来ていた女子高校生達が、花火を始めていた。
「こっち来て」
一花は俺の手を掴んで、ベンチの後ろの茂みの中へ引っ張っていく。
そしていつかと同じように木に押し付けると、体を密着させてきた。
「フータロー君さ、嫉妬するのがカッコ悪いなんて思ってない?」
「……知るかよ」
「もうあんなに情けないとこ見せたのに、男の子って変なとこで意地っ張りだよね」
一花の言う事はもっともだが、中々に開き直れないのも事実なのだ。
それが青臭さだというのならば、俺はまだまだガキのまま大人になりきれていない。
「じゃあさ、せめて行動で示してよ」
再び唇を塞がれる。
今度のキスは舌も伴って、情欲を煽り立ててきた。
胸の奥でチリチリと燻る火が、大きくなっていく。
「君の気持ち、全部私にぶつけてよ」
「人がいるんだぞ」
「静かにしてたらバレないよ」
ここは木の陰で、公園内からは死角になっている。
確かに余計な物音さえ立てなければ、花火に夢中な女子高校生達に気づかれる事はないだろう。
「フータロー君は悪くない。誘ったのは私だから……ね?」
修学旅行の二日目、雨の中での情事。
その時の一花の言葉が、今の言葉に重なった。
『フータロー君は悪くない。悪いのは全部私。だから……ね?』
あの時は自分だけで抱え込もうとした一花が、今は俺を受け止めようとしてくれている。
その事実に、燻る火が炎へと変じていく。
体の位置を入れ替えて、一花の体を木に押し付ける。
そして荒ぶる感情のまま、貪るように口付けた。
「――うん、いいよ……君のカッコ悪いとこも弱いとこも、私に全部見せて……?」
「実はさ、相手は同じ女優の子だったんだ」
「……は?」
「だからドラマでキスしたって話。最近はそういう需要もあるみたいでね」
事を済ませて再びベンチに座ると、一花はとんでもない事を言い出した。
いや、ちょっと待て。
じゃあさっきのやりとりは……
「あんなに激しくされたの、初めての時以来かな?」
「……おい、一花」
「ごめんごめん、面白そうだから黙ってたんだけど、ネタばらしのタイミングが見つからなくて」
顔を手で覆って項垂れる。
つまり、すっかりこいつにしてやられたという事か。
本当にどうしてくれようか、この女。
「いくら演技だからって、まだ君以外の男の人とはしたくないしね」
「……そうかよ」
「あ、顔赤ーい。もしかして照れてる?」
「うるせー」
いいように感情を揺さぶられていた。
せめてもの仕返しに、ニヤニヤしている一花にデコピンを叩き込む。
額を押さえて抗議してきたが、自業自得だ。
「ひどいなぁ、もう……あ、そういえば飲み物は?」
「そこに置いてるだろ」
買ってきた飲み物はベンチの脇に置いてある。
ぬるくなってはいるだろうが、飲めないことはないはずだ。
「ありがと、じゃあ……って、フータロー君、なにこれ?」
「文句あるのかよ」
「文句っていうか、そう来たかーって感じ?」
一花はミネラルウォーターを選んだようだ。
預かっていた二百円を返すと、呆れたようにため息を吐かれた。
「フータロー君は欲張りだね」
「あんな事言ってきたお前が悪い」
「まぁ、ちょっと困らせちゃったかなとは思ったけど」
ちょっとどころではないのだが、それは言わないでおいた。
そもそもの原因は俺にあるため、下手に突っ込むと逆に突っ込まれる可能性がある。
「そろそろ帰るか」
「そうだね、あんまりモタモタしてると日が変わっちゃいそう」
公園の時計は既に十一時を回っている。
花火をしていた女子高校生達の姿も既にない。
残った飲み物を抱えて公園を後にする。
「そういえばさ、フータロー君のファーストキスなんだけど」
「まだ言うか」
そしてマンションへ向かう道すがら、一花はまたその話題を引っ張ってきた。
いくらなんでも気にしすぎだ。
「相手が私だったら? どう、嬉しい?」
「……馬鹿言ってないでさっさと行くぞ」
「あ、待ってよー」
この期に及んでまだこちらをからかうつもりでいるのか、一花は挑発的に笑っていた。
こういう場合の対処法は、いい加減学習してきたつもりだ。
全く相手にしないか、あるいは――
「そんなの、嬉しいに決まってるだろ」
――こちらの素直な気持ちをぶつける……これに限る。
ただ、この方法はこちらにもダメージが来るから注意が必要だ。
しかしその分効果は大きい。
一花はすっかり押し黙って、ただ俺の後をついてくるのみとなった。
チラリと見えたその顔が赤かったのは、気のせいではないだろう。
俺の頬も熱いので、あまり人の事は言えないのだが。
ここで重要なのは、下手な追撃を加えないことだ。
調子に乗っていると、もれなくカウンターが飛んでくるのだ。
「ねぇ」
不意に袖を引っ張られる。
仕方なく振り返ると、頬を上気させた一花がスマホを片手に、何やらアプリを立ち上げていた。
あれは確か、タクシーを呼ぶアプリだったか。
「今からホテル行かない? あ、休憩するだけだから大丈夫だよ、うん」
そのホテルとは、もしかしなくても頭にラブが付くやつだろうか。
今までの経験上、その休憩が休憩で済まないのはわかりきっていた。
とりあえずスイッチの入った一花を正気に戻すために、頭突きを敢行するのだった。
長女の問題は大体解消されてるので、どっちかって言うとフー君の内面の方が目立ってたような気がします。
時系列はバラバラですが、最後の祭りはヤリまくりになると思われます。
果たしてフー君の体は最後までもってくれるのか……