今までで一番長いと思います。
あと、とあるキャラのブチギレ描写があるので一応注意。
「おはようございます、下田さん」
「うおっ、お嬢ちゃんも来てたのか」
「はい、今日はこちらで受験対策の講義が開かれると聞いたので」
「お嬢ちゃんには伝えてなかった気がするが……」
学園祭前のとある日、五月は自身が世話になっている塾講師の下田を訪ねていた。
目的は本日行われる、特別講師を招いた受験対策の教室だ。
自習だけでは不安に思っていたところ、他の塾講師が今日の講義を紹介してくれたのだ。
実力不足は身に沁みているので、出来る事はしておきたかった。
「あ~……どうすっかね」
しかし、下田の様子はいまいち歯切れが悪い。
いつもは直截的な物言いをするのだが、今日に限ってなんだか隔意を感じる。
母の教え子である下田は、五月に対して協力的だ。
受験に関しても、親身になって面倒を見てくれている。
なので、今日の講義のことを教えてくれなかったのが腑に落ちない。
まるで自分を何かから遠ざけようとしているような……そんな印象を覚えた。
「失礼、通してもらってもいいかな?」
「あ、すみません」
見慣れない男性だった。
スキンヘッドなのに対して、口の周りをすっかり覆うほどヒゲの量が多い。
その白さも相まって、サンタクロースの衣装が似合いそうだ。
場違いなことを理解しながらも、五月はそんなことを考えてしまった。
隣の下田が、一瞬だけだが眉を顰めたのには気づかなかった。
「――君は……」
「えっと、私でしょうか?」
建物内に入ろうとした男性だが、立ち止まると五月の顔を凝視してきた。
ここに用があるということは塾の関係者なのだろう。
道を空けた五月だが、その視線にどうにも得体の知れないものを感じてしまった。
すると、下田が割り込むように口を挟む。
「こちらが今回の特別講師、無堂先生だ」
「あなたが……よ、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ。……ところで君、名前は何というのかな?」
「無堂先生、教室の準備がありますのでそろそろ」
「おお、もうそんな時間か」
無堂は下田に促されて建物内へ。
その背中を見送る五月だが、途中で振り返った無堂と目が合う。
またあの得体の知れない視線だ。
こちらを見ているようで、そうではないような……焦点が合っていないと言えばいいだろうか。
それが何を意味するのかは、今の五月には全くわからなかった。
世の中には生徒に不純な考えを抱く教師もいるのだが、そんな発想も湧いてこない。
五月にとって、教師とは尊敬すべき立派な人間である。
その印象は個人と接するうちに下方修正されることはあるが、少なくとも初対面ではそういうバイアスがかかるのは確かなのだ。
ちなみに自分の今の家庭教師に関しては、初対面が最悪だったのでそういうのは一切なかった。
とにかく、あの妙な視線は気になるが深く考えるのはやめた。
自分の顔に何か付いていたのだろうと、そう結論づけた。
それとなく、窓ガラスを鏡がわりに身だしなみを整える。
そこに傍らの下田の横顔も映りこんだ。
能面のような無表情だった。
普段の下田は、少しばかり口は悪いが気さくな人物である。
思えば、風太郎の父親と少し似通った部分があるかもしれない。
そんな彼女がこうやって黙り込んでいる姿は、どこか感情を抑え込んでいるように見えた。
体育館でステージ上の二乃に目をキラキラさせた後、五月は学食へ移動した。
学園祭期間中は食堂は休みではあるが、開放自体はされている。
スタート直後だからか人はおらず、五月にとっては好都合だった。
風太郎のお気に入りの場所に陣取り、問題集を広げる。
あの勉強魔人が利用するだけあり人目につきにくい、またはあまり人目が気にならない場所だ。
思えば、自分達の出会いはこの席を取り合ったのが始まりだった。
当時のことに思いを馳せ、五月はペンを握った。
積み重ねた時間と同じく、そこには積み重ねてきた信頼がある。
それに応じたいし、報いたいと思った。
そのためのわかりやすい手段は……ひたすらに勉強し、学力アップを図る。
もちろん風太郎のためだけじゃない。
なにより自分の目標のために、五月はこの学園祭の思い出を犠牲にする決意を固めた。
そうと決めたら、ペンも良い感じに滑る。
正答誤答はともかくとして、問題の解き方が身に染み付いてきているということだろうか。
そうして一段落付いたところで、食堂を通り抜けようとする姉の姿。
声をかけると過剰に驚かれたが、ステージの後から追い回されていたらしい。
腰を落ち着けたかったのか、二乃は五月の対面に座った。
「はぁ……フー君はどこにいるのかしら」
そして切なげにため息をついた。
風太郎と一緒に学園祭を回りたいと思っているのだろう。
その気持ちは五月にも痛いほどわかる。
せっかく屋台の当番がないこの一日、好きな人と過ごしたいと思うのはごく自然である。
わかるのだが、つい先ほど決意を固めてしまったばかりなのだ。
早々に翻すわけにはいかないので、ぐっと喉の奥に引っ込めた。
しかし目は口ほどに物を言うもので、二乃は五月の視線からただならぬ気配を感じとった。
「……食べる?」
「い、いえ! むしろこれくらい空腹の方が集中できます!」
「そう?」
差し出されたアメリカンドッグを断腸の思いで断る。
午前十時を過ぎて昼が近づきつつあるこの時間帯。
朝食を食べてから三時間ほど経過し、五月のお腹の虫は空腹を訴えていた。
しかし、お腹が満たされれば集中力が減じることは否めない。
風太郎との学園祭デートと同様に、邪念は断たねばならないのだ。
「まぁ、あんたがめげてないようで安心したわ」
「ええ……こんな私でも、信じてると言ってくれる人がいますから」
「なら、無理しない程度に頑張りなさいよね。これでもあんたの夢、応援してるんだから」
「私の……」
五月の夢は、より正確に言うのならば『母のような教師になる』だ。
自分は母になりたいのか、教師になりたいのか。
主体がどちらにあるのか……それが五月にはわからなくなっていた。
あまり深く考えないようにしているのだが、ふとした拍子にその疑問が湧いてくる。
黙りこくった五月を心配してか、二乃が顔を覗き込んできた。
「五月、大丈夫?」
「……私の夢って、なんなのでしょうか?」
「学校の先生になることじゃないの?」
「そう、ですよね。ごめんなさい、自分で言ったことなのに」
「別にいいけど……まったく、こんな時にパパは何をしているのかしら」
「え? どうしてお父さんが出てくるのですか」
「普通、親ってこういう時に相談に乗ってくれるものでしょ」
それに加えて、学園祭の招待状を送ってあるのだという。
二乃は来ることに期待していないような口ぶりだったが、それが強がりなことはすぐわかった。
親の役割と聞いて思い出すのは、風太郎の言葉だ。
『俺は父親の代わりになろう』
去年の秋、姉妹の母親の代わりになると語った五月に、風太郎はそう返した。
顔が見たかった、声が聞きたかった。
馬鹿なことを考えていないで勉強しろと、そんな風に一蹴して欲しかった。
断ったはずの邪念が、首をもたげてきていた。
「じゃあ、あまり根詰めすぎないようにね」
アメリカンドッグを食べ終えると、二乃は席を立って去っていった。
勉強の邪魔にならないように配慮してくれたのだろう。
五月は再び問題集を開くが、先ほどとは打って変わってペンの進みが遅い。
すっかり集中力が切れていた。
このままでは、約束の時間までに問題集が片付くか怪しいところだ。
こんな時、風太郎ならばどうするのだろうか。
「上杉君……」
日本には、言葉には不思議な力が宿るという考えがある。
言霊という概念だ。
延いては、噂をすれば影が差すという言葉にもつながるだろうか。
「お前、まさか学祭中も自習か?」
名前を呟いたと思ったら当人が現れたというのは、少し出来過ぎじゃないだろうか。
そんなことを考えながらも、五月は自分の気分が上向くのを確かに感じた。
友達がいないのかと心配されたが、風太郎流の冗談というやつだろう。
もし本気で言っているのなら、どの口案件である。
知らず知らずのうちに口元がほころんでいた。
「じゃあ、あなたが一緒に回ってください」
「普通に忙しいから無理だ」
「わかってます。冗談ですから……三割くらい」
上向いた気分を示すように、冗談が口をついて出る。
少し本音が漏れてしまったが、三割は冗談なので問題ない。
むしろ冗談成分の方が少ないのだが、それは気にしないことにした。
「埋め合わせと言ってはなんだが、後で何か持ってきてやるよ」
「え、いいのですか?」
「生徒が頑張ってんだ。教師としてそれぐらいはする」
「本当ですね? 約束ですよ!?」
邪念は断つべきなのだが、風太郎の提案でそんな考えは吹っ飛んでしまった。
しかし、自分でもわかりやすいと思いながらも、モチベーションが上がったのは確かだった。
なによりも、こうして気にかけてもらえたことが嬉しくてたまらなかった。
風太郎を見送って、問題集に意識を戻す。
ペンの滑りは、すっかり元通りだった。
しかし、いくらやる気に満ちていようと生理的な問題が生じる。
即ち、空腹だ。
風太郎の差し入れを頼りに食べ物への誘惑を断ってきた五月だが、時刻はもう昼過ぎ。
朝食から優に六時間は経っているので、お腹の虫がうるさくて仕方がなかった。
「焼きそば~、からあげ~……じゃーん、たこ焼き!」
「結構本格的やーん」
だから、食堂でこれ見よがしに食べ物を広げる生徒がいたとして、捕食者のようなオーラを発してしまったとしても仕方がないことなのだ。
オーラどころか唸り声も漏れているのだが、五月は自分では気づかない。
完全な無意識である。
「そ、外で食おうぜ」
「ああ、いい天気だしな……」
ただならぬ威圧感と獣のような唸り声に、男子生徒は食べ物を手に退散していった。
遅ればせながら自分が追い出してしまったことを理解して、五月は内心で反省した。
しかしはしたないと思いつつも唸り声は止まらず、お腹の虫が集中を掻き乱す。
新たに食べ物の匂いを嗅ぎ付けて、反射的に振り返ってしまっても無理からぬことなのだ。
「どうどう、落ち着け。差し入れだ」
「――待っていました!」
それが待ち望んだ差し入れだったのならば、もう我慢の必要もない。
五月は溢れるよだれを抑えるのも忘れて、風太郎に期待の眼差しを向けた。
目の前に置かれたのはたこ焼きとフランクフルト。
早速と手を伸ばそうと思ったが、ふとこの機会を無駄にしていいのかという考えが湧いた。
問題集はあと一押しで終わるという段階に差し掛かっており、約束の時間まで一時間以上ある。
そして食堂に他の人間はおらず、図らずも二人きりという状況である。
中野姉妹の末っ子といえば、告白の際に結婚やその先にまで言及するやや重い部分が目立つ。
しかしその一方で、普通の恋人関係に対する憧れも当然のように持ち合わせているのだ。
自分達の関係が普通とはかけ離れたものであると理解してはいるが、それはそれである。
「私は手が離せないので、上杉君が食べさせてください」
五月は、この勉強中だという状況を逆手に取ることにした。
風太郎は正気を疑ってきたが、さもありなん。
ちなみに、さっきからペンが止まっているが幸いにもそれを指摘されることはなかった。
邪念あるいは煩悩でしかないのだが、これはご褒美の先取りなのだ。
そう自分に言い聞かせ、五月は放り込まれるたこ焼きを堪能した。
続いてフランクフルトを頬張り、食べ終える頃には何故か風太郎が疲弊していた。
よっぽど学園祭の仕事がキツかったのだろうか。
「口の横、ソース付いてるぞ」
「拭いてください。私、手が離せません」
「……」
流石に風太郎も何か言いたげな様子だったが、黙って応じてくれた。
しかしこれは五月の立派な策略である。
他のクラスには出回っていないが、三年一組内において学級長の噂はかなり広まっている。
新学期に入る前だったらあくまでも噂に過ぎなかったのだが、最近になって火付けが行われた。
他ならぬ二乃の、恋人を公言するかのような行為である。
五月にはそうやって自分達の関係を見せびらかす趣味も性癖もない。
かといって、校内でイチャつくのに羨望を覚えないわけではない。
なので、この機会に自分の欲望を満たさせてもらうことにした。
口元を拭くために近寄った風太郎をさらに引き寄せ、唇を奪う。
誰にも見られていないこの場なら、こんなことをしても問題はないのだ。
「んっ……ご、ごちそうさまでした」
「……お前、何してくれちゃってんだよ」
「だ、だって二乃ばっかりずるいです! 私も上杉君と学校でキスしてみたかったんです!」
「調子乗んな、このっ」
「う~~、いひゃいれふ!」
仕返しとばかりに両頬を引っ張られて、五月は思わず涙目になった。
痛みで思わず睨みつけてしまうが、直後の風太郎からのキスによってあっさり上書きされた。
驚きに見開かれた目は次第に緩み、何とは言わないがすっかり受け入れる態勢に。
しかしその続きはなく、風太郎はデコピン一発残して行ってしまった。
額を押さえながらも、五月はその耳が真っ赤になっているのを見逃さなかった。
思わず笑みが漏れる。
ご褒美は存分にもらったので、後はラストスパートをかけるのみだ。
問題集の最後の大問に取り掛かろうとして、五月は甘い匂いが漂ってくるのに気づいた。
この匂いはわたあめだろうか。
「いいねぇ、学園祭。十年以上前の記憶が蘇ってくるよ」
しみじみと語りながら現れたのは、先日の講義で世話になった無堂だった。
外の屋台で買ったのだろう、カラフルなわたあめを手に持っていた。
「無堂先生! その節はお世話になりました」
「おっと奇遇だね。君は、えーっと……中野五月ちゃんだったかな?」
特に名乗った覚えはないのだが、五月の名前を把握しているようだった。
有名な講師ともなれば生徒のことをよく見ているのだと、五月はますます尊敬の念を深めた。
無堂も、この祭りの最中に問題集を開いている五月に甚く感動したようだ。
またしみじみと、自分がかつて学校の教師をしていた時のことを語った。
教師としての喜びを、苦悩を、そして一人の生徒を間違った道へと歩ませてしまった後悔を。
五月にとっても他人事ではないので、つい聞き入ってしまう。
無堂に憧れて同じ道を歩んだその生徒は、教師になったことを後悔したのだという。
一瞬、自分のことを言われたのかと思ってしまった。
五月は母に、そして風太郎に憧れて教職に就くことを目指している。
憧れだけでは立ちいかない現実を突きつけられた気がした。
「そういえば、五月ちゃんも先生を目指してるって聞いたよ」
「元々は母の影響で……あ、母も学校の先生だったのですが――」
「ああ、よく知ってる。僕は彼女の担任教師だったからね」
「え?」
無堂は言葉の意味を飲み込めていない五月に、なおも言葉を重ねる。
五月は母の若い頃に、歪なほどそっくりなのだと。
それで、ようやく五月は自分に向けられる妙な視線の意味に気がついた。
あれは自分を見ていたわけじゃなく、自分の中の母の面影を見ていたのだと。
「君が憧れや愛執でお母さんの後を追っているだけなら、お勧めはしない」
「違います! 私は自分の意思で――」
そこまで言いかけて、またあの疑問が降りかかる。
自分は母になりたいのか、教師になりたいのか。
この疑問のそもそもの発端は、下田に投げかけられた言葉だ。
『お嬢ちゃんは、お母ちゃんになりたいだけなんじゃないのか?』
取るに足らない言葉ならば、こうも五月の心を揺らしはしない。
核心を突かれたと思ったからこそ、頭の片隅でいつも問いかけてくるのだ。
「心当たりがあるようだね。きついことを言うようだが、これも君のためなんだ」
「……どうして、そこまで私に」
「さっき五月ちゃんに話した生徒の話は、君のお母さんなんだ」
「え……?」
「彼女は僕に憧れて似合わぬ教職の道へと進み、そして最後までその事を後悔していたよ」
『私の人生……間違いばかりでした』
五月の脳裏に、母の言葉が蘇る。
人生の後悔を語る彼女は、その直後に何を言っただろうか。
「す、すみません、この後約束があるので……」
「悩んでいるのならいつでも相談に乗るよ。きっと教師以外でも君に合った道はあるはずだ」
明日も来ると言い残して無堂は去っていった。
しばらく放心していた五月は、携帯のアラームが鳴って我に返った。
約束の時間の十分前。
それまでに終わらせようと思っていた問題集は、まだ大問が一つ残っている。
ラストスパートをかける五月だが、そこからペンが進むことはなかった。
無堂との一件はとりあえず深く考えないことにした五月だが、悩みの種はそれだけに限らない。
悩みが大抵食べ物に起因するとは周囲の人間の評価だが、きっちりと年頃らしい悩みもある。
それは例えば、姉妹と比べて肉付きのいい体の悩みだとか。
もっともこれは遡れば食べ物に行き着いてしまうため、結局は一緒のカテゴライズか。
その他で目下最大の悩みといえば、自らの家庭教師のことだろう。
『さっぱりわからん! お前ら、どうにかしてくれ』
そんな情けない告白があったのは、昨日のことである。
また道を踏み外しそうになっていることを感じた五月は、容赦なくその手を振り抜いた。
ここまで姉妹に手を出した以上、そんな逃げが許されるはずがないのだ。
そしてそんなことがあったにも関わらず、誰ともしれない女子と手をつないでいるとあれば、五月も笑顔でキレざるを得ないだろう。
昨日に引き続きこの右手の出番かと思われたのだが、幸いにも誤解であることが判明した。
「ごめんなさいっ」
竹林と名乗った風太郎の幼馴染は、五月達に向けて頭を下げた。
少しからかいすぎたと反省しているようだった。
それを言うのなら、五月にも熱くなりすぎたという自覚がある。
意中の相手を名前で呼び捨てにする竹林に対抗して、自分もつい名前で呼んでしまった。
あの呼び方は、いつか結婚した時にそう呼びたいなーと、心に秘めていたものだ。
三玖のような妄想は抜きにして、ナチュラルに思考が結婚に行き着いているのが、五月が体重以外で重いと言われる要因である。
「身も心も深い関係なんだって?」
「……黙秘権を行使する」
「それ白状してるのと同じでしょ……はぁ、まさかこんな事になってるなんて」
重ねてこちらに謝罪していた竹林だが、風太郎を諌める方向にシフトしたようだ。
こうやって関係が知られてしまったのは、二乃の態度は元より五月の発言が原因か。
二乃と三玖に同調するように深い関係であることを強調して、啖呵まで切ってしまった。
実際にはもっと多くのギャラリーに目撃されていたのだが、そこまでは考えが至っていない。
これもまた、五月がヒートアップしていたという証拠だろう。
成り行きを見守っていた姉妹だが、その中で出た風太郎の先生という言葉が大いに気になった。
「あの、それって一体どういうことなんでしょうか?」
「あ、聞きたいですか?」
「ぜひっ」
代表するように五月が尋ねると、竹林は応じてくれた。
風太郎は自分の過去をあまり語りたがらないので、こうして聞ける機会というのは貴重なのだ。
以前病室で尋ねた時は、宇宙人の襲来などというデタラメで誤魔化されてしまった。
今回も嫌がるようなら控える気でいたのだが、止められるようなことはなかった。
本人は席を外してしまったが、自分の過去を目の前で語られるのは恥ずかしいのだろう。
「みなさんから見て、風太郎はどんな人間ですか?」
「勉強魔人ね」
「体力がない」
「デリカシーもありません」
「うわぁ……一言たりとも褒め言葉がない」
一応、勉強魔人は褒め言葉と取れなくもない。
しかし二乃はそういうニュアンスで使っていないので、やっぱり褒め言葉はないのである。
もちろん良い部分についても語れるのだが、それは自分が好きになった理由に直結しかねない。
それをあけすけと語れるほど、中野姉妹は羞恥心を捨てていない。
もう少しテンションが上がれば話は別だが、竹林とはほぼ初対面である。
そういう雰囲気になるには交流が少なすぎた。
「今でこそあんな感じですけど、小学生の時は本当に問題児だったんですから!」
髪を染めてピアスまでつけて、勉強なんてそっちのけのイタズラの常習犯。
当時はガキ大将のような立場だったのだとか。
傾向は違えど、今も大概問題児だと思ったのは五月だけではないだろう。
ともかく、大体は以前病室で風太郎に聞いた内容と相違なかった。
二乃なんかは不良時代の話に目を輝かせていた。
ちょっとワルっぽいのが好みなのは、姉妹の全員が知るところである。
度し難いと呆れる五月だが、たまに昔の風太郎の写真を眺めてニヤニヤしているのは内緒だ。
「だから、そんな風太郎が勉強を教えてくれって頭下げてきた時は驚いたなぁ」
そんな問題児に変化の兆しが表れたのは、六年前の修学旅行の後。
ある女の子と約束を交わした風太郎は、無心で勉強に打ち込み始めたのだという。
無価値な自分を変えたいと、一つでも誇れる何かが欲しいのだと。
そしてその努力の先にいるのが、今の風太郎なのだろう。
一方で、約束を果たせなかった少女は……
『あはは……私、置いてかれちゃったのかな』
昨日、四葉が漏らした言葉が蘇る。
置いていかれたとは、何に対して言ったのだろうか。
「なんのご用でしょうか」
「昨日はすまなかったね。いきなりあんな事を言って、困惑させてしまっただろう」
竹林の話が終わり屋台の仕事へ戻った五月の下へ、再び無堂が訪ねてきた。
そして無堂は困惑する五月を連れ出し、校舎裏で昨日のことについて謝罪し始めた。
そう、困惑だ。
五月が無堂に抱く感情は、それに他ならない。
かつての教え子の娘だからといって、五月個人とはほぼ赤の他人でしかない。
そんな自分に、他にも多数の教え子がいるであろう無堂が関わろうとする理由がわからない。
母の一件がよっぽど心残りなのか、それとも別に理由があるのか。
その答えは、決して少なくない衝撃と共にもたらされた。
「君のお母さんは、かつての教え子であり同僚……そして妻だった」
「妻……じゃあ、あなたは……」
「そう、君のお父さんだ」
にわかには受け入れ難かった。
自分達をお腹に抱えた母を捨てて消えたはずの実父。
それが今、目の前にいる。
無堂はずっと我が子に会いたかったと、いつも想っていたと語った。
こうして接触してきたのは、一花をテレビで見かけたのがきっかけだったのだという。
「み、みんなを呼びます」
「今は五月ちゃんと話しているんだ」
一人では受け止められない事実に他の姉妹を呼ぼうとしたが、無堂がそれを許さない。
こうして出会ったのは偶然ではないと、五月の悩みを解決するために引き合わされたのだと。
「今こそ父親としての義務を――」
「いい加減にしてください! 今更なんだというのですか!」
五月の困惑が怒りに転化したのはその時だった。
堰を切ったように、無堂を責め立てる言葉が口を衝いて出る。
自分達姉妹と母を捨てた人間が、父親の義務などと口走るのだから無理もない。
一人残された母の気持ちを考えると、到底許せるものではなかった。
「ごめんなさい!」
自分を責め立てる五月に、無堂は地面に頭を打ち付けて謝罪した。
自分の情けない行いを後悔している、全ては不甲斐ない自分の責任だと。
気勢を削がれた五月は、言葉を続けることができなかった。
「私の罪は消えることはないが……もし許されるのならば、罪滅ぼしをさせてほしい」
父親として娘にできることをしたい。
そう付け加えた無堂に、五月の怒りは困惑へと逆戻りした。
この土下座という姿勢がそうさせているのかもしれない。
地面に打ち付けた部分から血が滲みだしていた。
額から血を流す人間を責め立てられるほど、五月は非情ではなかった。
「……もう関わらないでください。お父さんならもういます」
「中野君か」
拒絶の言葉は弱々しく、そして震えていた。
対して無堂の言葉は低く、力がこもっていた。
そしてその声のまま、五月の今の父を不合格と切り捨てた。
親子には血の繋がりが必要不可欠だと。
無堂の言葉を否定したかったが、今の五月にその圧を押し返すことはできなかった。
「お母さんが死んだ時、彼が君に何をしてくれた?」
無論、何もしてくれなかったなんてことはない。
バラバラになったっておかしくない五つ子を、まとめて引き取ったのだ。
それだけでも十分感謝に値する。
しかし、十全に寄り添ってくれたかというと、頷くこともできなかった。
「娘が亡き母の影を追い、同じく間違った道へと進もうとしている……」
「……」
「わかっているだろう? 学校の先生は君には不相応だと」
間違いだらけだったと後悔する母の姿。
それと自分の未来が重なってしまった。
だからか、無堂に教師が相応しくないと断言されても、何も言い返すことができなかった。
あの入試判定の結果こそが全てだったのではないのかと、そう思い込んでしまった。
「そんな君を父として見過ごすことはできない。この胸の愛が僕を衝き動かした!」
無堂の語る白々しい愛など、五月の心には届かない。
しかしその言葉は、五月の心に楔を打ち込んだ。
『私の人生……間違いばかりでした』
何故なら、五月の進む道を否定するその言葉は――
『五月、あなたは私のようには絶対にならないでください』
――他でもない、母が言っていたことなのだから。
五月の沈黙に、したりと無堂は頷いた。
「……上杉風太郎君だったかな? 聞いたよ、同級生が君たちの家庭教師をしているそうだね」
そして、今度は風太郎のことにまで言及し始めた。
無堂はその優秀さを褒め称えた。
全国一位を取るほどの逸材、申し分のない成績だと。
「それだけに嘆かわしい……彼は若さ故の過ちに身を浸している」
それが自分達の関係を指しているのだと、五月にはすぐにわかった。
どこで聞きつけたかはわからないが、無堂は学級長の噂を把握している。
「どれだけ優秀でも、そんな人間のクズに君たちを預けることはできない」
「あ、あなたが一体彼の何を知っているというのですか」
「じゃあ、五月ちゃんは自分たちの関係が正しいと言い切れるのかい?」
否定できなかった。
歪な関係であることは五月自身が良くわかっているからだ。
そしてそこが限界だった。
縫い付けられたかと思っていた足が、ようやく動いてくれた。
後ずさって、背を向けて走り出す。
自分の夢や恋心を守るために、五月は無堂から逃げ出した。
「おう、帰ったか」
「親父、まだ起きてたのかよ」
一花をマンションまで送り届けた後、帰宅してみれば親父が家の外で待ち伏せしていた。
もう日が変わるような時間だというのに、何をしているのだろうか。
「四葉ちゃんは?」
「とりあえずは大丈夫だ。休んどけば問題ないそうだ」
「そうか、そりゃ良かった」
まずは倒れた四葉の心配をした親父だったが、その本当に気にしている所は別にあるのだろう。
中野姉妹の実の父親だという、無堂という男。
親父はその動向を気にしているようだった。
俺も日中に三人の様子を伺ったが、少なくともその時点ではおかしな様子は見られなかった。
まぁ、それとは別の要因で大変な目にあったりもしたが……
「五月ちゃんは大丈夫だったか?」
「少なくとも俺が顔を合わせた時点ではな」
「奴が接触してくるとしたら、一番可能性が高いのは五月ちゃんだ。お前も気にかけてやれ」
「なんでそんなことがわかるんだよ」
「そりゃあお前、学園祭以前に接触してるからだよ」
聞けば、塾の講義の際に既に顔を合わせているのだとか。
その時は大した会話もなかったそうなのだが、なんで親父がそんなことを知っているのか謎だ。
とはいえ、それが本当ならば明日は一層五月の様子に気を配るべきだろう。
しかし、最初から無堂の存在を知っていれば、もう少しマシな対処ができただろうか。
一日目の途中、無堂は俺の案内で校舎に……正確に言うのなら食堂に入っていった。
その後の集まりでも、五月におかしな様子がなかったから気にしていなかったが、その時に接触した可能性は十二分にあるのだ。
とりあえずは明日、本人に改めて聞いてみるとしよう。
「五月が来てない?」
「そうよ、今日はもう最終日だっていうのに……」
「昨日も声かけたんだけど、外に出たくないって」
学園祭の最終日。
女子と男子の協力でパンケーキの屋台が盛り上がる中、二乃と三玖を連れ出して事情を聞く。
二人の口から語られた五月の様子は、明らかに何かがあったことを示していた。
昨日竹林と話していた時はまだ普通だった。
何かがあったとすればその後、俺と別れてからだ。
なんでもっと気にかけてやれなかったのかと、悪態が口をついて出そうになる。
これが傲慢であることはわかっている。
二日目もずっと暇だったとは言えないし、常に五月についているなんて実質不可能だ。
だとしても、好きな女が塞ぎ込んでいるという事実に怒りが湧いてくる。
何もできなかった自分と、その原因に対してもだ。
「そうか、どうりで探してもいないはずだ」
背後から、聞き慣れない声が耳を打った。
振り返ると、警戒対象である無堂仁之助が暢気にソフトクリームを舐めていた。
額に絆創膏を貼り付けて、堂々と五月に会いに来たなどと口にしやがった。
「フータローの知り合い?」
「五月に言伝があるならお聞きしますが」
当然、何も知らない二人に特別警戒などできるはずもない。
俺は無堂が二人に話しかける前に、間に割り込んだ。
もしこいつらを傷つけるような発言をされたら、俺自身が我慢できないかもしれない。
「もしかして、五月に何か言いました?」
「怖いなぁ、これあげるから許して」
警戒心を隠さない俺に対して、無堂は食べかけのソフトクリームを渡してきた。
……完全に舐めてやがるな。
五月に現実を教えただけとか、それが自分の勤めだとか抜かしているが、今まで全てを放り出していた男が今更何を言っているのだろうか。
言いたいことはあったが、俺は家族の問題に関しては部外者だ。
苛立ちと共に言葉を飲み込んだ。
「ところで、君が上杉風太郎君かな?」
「そうですが、俺が何か?」
「いいや、君は噂通りの人物のようだね」
無堂は俺と、そして後ろの二人に目を向けて言った。
その言葉には好意的な響きは含まれていなかったように思える。
しかしその噂が例の学級長の噂だとするのならば、残念ながら返す言葉がない。
今の所二乃と三玖には用はないのか、無堂は出直すと言って去っていった。
奴の思惑がどうであれ、これで俺のやるべきことは定まった。
「三玖、悪いがこれを本部まで届けてくれ」
「え、うん」
安全点検のチェック表を三玖に渡す。
他にも仕事があるが、そちらは後回しにさせてもらおう。
「待ちなさい。これ、持って行きなさいよ」
この場から去ろうとすると、二乃からマンションのカードキーを渡された。
五月の所に行こうとしていることは、すっかり見抜かれているようだ。
「私以外の子にってのがちょっと気に食わないけど、そんなとこも好きよ」
「フータロー、こっちのことは私たちに任せて」
「ああ、行ってくる」
勝手知ったる人の家というわけではないが、このマンションへの出入りも慣れたものだった。
エレベーターを抜け、中野家のドアを開ける。
靴は一足……五月はやはり家にいるようだ。
リビングに入ると、こちらに背を向けて座る姿。
絶え間ない筆記音が、何をしているのかを如実に伝えてくる。
五月は、テーブルに向かって一心不乱に勉強をしていた。
「五月、お前……」
「上杉君……こんなこと意味がないというのに、私は何をしているのでしょうか……」
「あのおっさんの言うことなら真に受けるな。どうせ適当なことを言ってるだけだ」
そう、あんな赤の他人同然の人間の言うことなど、気にかける必要はないのだ。
こいつはその性格から、聞き流すことができなかったのだろう。
しかし、五月は首を横に振って否定した。
「お母さんもあの人のように、私のようにはなるなと言っていたんです」
無堂は母の後を追うことを否定し、そして母も自分の二の轍を踏むなと言った。
それで納得した。
あの男の言うことに、こいつの母親の言葉が重なったからこそ、こんなにも動揺しているのだ。
五月は涙を流しながら、それでもと続けた。
「お母さんを目指すことを諦められない……こんな私は、間違っているのでしょうか?」
それが間違いであるかどうかなんて、俺には判じようがない。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば……
「お前の母親が言ったことも理解できる。教師なんてなるもんじゃないからな」
「え?」
「優秀な生徒だけじゃなく、中には想像を絶する馬鹿だっているだろう」
中野姉妹の当時の成績は、五人合わせて百点という悪夢のような状態だった。
あまりの惨状に、思わず絶句したのが懐かしい。
「他人と関わる以上、時には自分のポリシーも曲げなきゃならん。言っておくが、絶対疲れるぞ」
気に入らない相手と、無理にでも笑顔を作って接しなければいけないこともある。
らいはとこいつと三人でプリクラを撮ったりなんかは、その最たる例だろう。
「中には反抗的な生徒もいるだろうが、そんな時も逃げ出さずに向き合わなければならない」
そして試験前の大事な時期だというのに反抗してくる生徒。
向き合うために、嘘を弄したりもした。
「はっきり言って俺はもうこりごりだ。教師なんて絶対なるもんじゃない」
苦労に対して得られる成果が全く釣り合っていない。
こんな仕事は、はっきり言ってやるべきじゃない。
この一年間の経験だけでも、俺はそう断言できる。
それが実際に教職に就いた無堂やこいつの母親の言葉なら、より真実味があるのかもしれない。
その上で、俺は五月にこの言葉を贈ろう。
「だが、どれもこれも他人の戯言だ。聞き入れる価値なんかない」
そうだ……俺の言葉も無堂の言葉も、そして母親の言葉ですら関係ない。
何故なら、自分で決めるとはそういうことなのだから。
誰になんと言われようとひたすら突き進む……それで全国一位を取った奴だっているのだ。
真面目で頑固で、きかん坊な上に負けず嫌い。
自分の意地を張り通すのに、こいつほどうってつけな人間もいない。
「どれだけ逆風だろうと、進むも諦めるもお前が決めろ。それがお前の夢ならな」
「……私はお母さんになりたいだけ……そう言われたことがあります」
それで自分の夢が母親と教師、どちらに向いているのかがわからなくなったのだという。
母親のような人間を目指すだけなら、教師以外にも道はあるのではないのかと。
なるほど、確かにその通りだ。
五月が迷ってしまうのも無理はない。
しかしながら、俺はこいつが教師を目指すちっぽけな理由を知っている。
それを吐き出させるために、俺も自分の内をさらけ出そう。
何故なら曲がりなりにも俺は教師で、お手本を見せる必要があるからだ。
「……俺の親父はすげー奴でな。どんな時でも笑ってるんだ」
お袋に先立たれても、借金と俺とらいはを背負って踏ん張ってきた。
金がなくとも、親父はそれすら豪快に笑い飛ばしてきた。
かつての俺は、そんな男に憧れていた。
「だからガキの頃の俺は髪を染めて、見た目だけ真似をして強い男になった気でいたんだ」
でも俺はあの子と出会って、自分の進む道を見つけた。
髪を染めるのもやめて、ピアスも外した。
上っ面だけを真似る無意味さに気づいたからだ。
そしてそんな憧れも忘れる程に勉強に打ち込んだ。
だけど、それはなくなってはいなかった
思い出せたのは、こいつらと過ごした時間があったからだろう。
『あなたは将来のことをどこまで考えていますか?』
『具体的になりたいものとかはないんですか?』
修学旅行で、五月に投げかけられた問いだ。
具体的な答えは今もない。
誰かの役に立つ、必要とされる人間になりたいのは変わらない。
しかし、あの時の返答に付け加えるのなら――
「俺は親父のように、自分の大事なもの全てを背負っていけるような強い男になりたい」
「……」
「お前の母親は、どんな人間だった?」
「お母さんは強くて、凛々しくて、優しくて……私の理想の姿です」
「ならそれが真実だ。突然現れたおっさんなんかより、ずっと傍にいた自分の中の母親を信じろ」
無堂の言うことが真実だとしても、それはあの男から見たものに過ぎない。
そしてそんな古いものに、死に際まで寄り添った中野姉妹の真実が負ける道理はないのだ。
「なら私は母と教師と……どちらを目指せばいいのでしょうか」
「それこそ愚問だな」
母親の墓前で、五月は先生になりたいという夢を語った。
姉妹に勉強を教えることで、その喜びを知ったのだと。
その時の気持ちを大切にしたいと言っていたはずだ。
そしてらいはに勉強を教える姿に、俺はこいつが目標にまっすぐ進んでいると感じた。
「ちっぽけだとしても、お前には母親以外にも教師を目指す理由があるんじゃないのか?」
「……そうでした。たとえちっぽけでも、私はあの時の気持ちを大切にしたい」
「ならどうする? 重ねて言うが、結局最後に決めるのはお前自身だ」
「私は……お母さんのような先生になりたい! 母も教師も、自分自身の意思で目指します!」
最早その目に涙はなかった。
生徒の進むべき道が決まったのなら、教師である俺にできることは一つだけだ。
「ふふ……いいこと思いつきました。上杉君――」
五月が手を打つ。
それは、学食での最悪の出会いのやり直しか。
「――勉強、教えてください」
「ああ、もちろんだ」
ここに来るまでに、どれだけぶつかり合っただろうか。
百歩譲って赤の他人、利害一致のパートナーを経て、友人と認められるまでになり……
『上杉風太郎君、あなたが好きです。結婚を前提にお付き合いしてください』
今の関係は、一体何と言えばいいのだろうか。
少なくとも、世間一般で言う恋人関係とは言い難いのは確かだ。
「でもその前に、あの人と決着をつけなければいけませんね」
「もう大丈夫なのか?」
「わかりません……だから」
五月の手が、俺のシャツの裾をそっと掴んだ。
俯いた横顔は赤く、それで大体何を求めているかを察してしまった。
「つ、つきましては……勇気をもらえたり、しないかと」
「……背中でもさすろうか?」
が、応じてやるには少々辛い事情が俺にはある。
昨日の夕方は二乃、夜は一花、そして今朝は三玖とである。
はっきり言って体力がヤバい。
このままホイホイと応じていたら、俺がぶっ倒れかねない。
穏便に済むのなら、それにこしたことはないのだ。
「そ、そういうのではなく」
「なら頭でも撫でようか」
「それも魅力的ですがっ」
「仕方ない、少し恥ずかしいが手をつないでいくか」
「わざと言ってますよね!?」
「……なんのことやら」
睨みつけてくる五月に対して、俺は目を背ける。
シャツを掴む力は明らかに強くなっていて、どう考えてもこのままでは離してくれそうにない。
そして痺れを切らした五月は、ついに決定的な言葉を口にした。
「セックス! したいです!」
「……お前、恥ずかしくねーの?」
「恥ずかしいに決まってます!」
それを示すように、五月の目はなにやらぐるぐるしていた。
どうやら恥ずかしさが限界突破しているらしい。
「恥ずかしいですけど……あなたと肌を合わせていると安心できるんです」
「あー……」
「ううううう……」
「……」
「ううううううう……」
それならハグで十分なのでは?
そう思わなくもなかったが、どうも俺はこいつの唸り声に弱いらしい。
唇を塞いで唸り声を止めると、手を引いて階段を上がっていく。
柔らかい寝床なら、少しは体力の消耗も抑えられるだろう。
「それでは、行ってきます」
「ああ、また後でな」
風太郎と別れて、五月は校内を進んでいく。
向かうのは姉妹との集合場所だ。
無堂と対峙するにあたって、事前に話しておきたいことがあったのだ。
広場を抜けると、四人の姿が見えてくる。
「五月! もう大丈夫なの?」
「四葉こそ。体調が戻ったようで安心しました」
「うっ、心配かけてごめん……」
「全くよ。あんたも五月も、どれだけ心配かけたと思っているのかしら」
「「ごめんなさい」」
目が笑っていない笑顔を浮かべる二乃に、二人は即座に頭を下げた。
二乃は二人の頭を小突くと、小さくため息をついた。
「でもまぁ、とりあえずは平気そうね」
「意訳すると、二人が無事で嬉しいってところかな?」
「一花っ」
「さっきまですごいソワソワしてた」
「三玖っ」
五月と四葉は、顔を見合わせて笑った。
二乃はいつもどおり、素直じゃないようだ。
そっぽを向く二乃に一頻り笑い合うと、五月は本題を切り出した。
「みんなにも見届けて欲しいんです」
「こんにちは、無堂先生。五月です」
「やぁ、まさか五月ちゃんの方から来てくれるとはね」
長い髪に星の髪飾り。
五月の姿を認めると、無堂はベンチから立ち上がった。
どうしたらいいのかと縋り付いてくる我が子に、道を示すのが父親の役目なのだと。
「お母さんの幻影を追うのはやめて、君は君の道を進むべきなんだ」
「……なぜ、今になって私の前へ?」
「ずっと罪の意識を抱きながら、君たちのことを想っていたさ」
ようやく父親らしいことをしてやれる日が来た。
血の繋がりが引き合わせたのだと、無堂は陶然と語った。
遮るように、豪快な笑い声が響いた。
「ガハハ、父親だって? 笑わせんな!」
現れた男女二人に、無堂は見覚えがあった。
上杉と下田……共に、かつての教え子である。
下田とは塾の講義の際に顔を合わせているが、上杉とは卒業以来だ。
不良だった当時のまま大人になったような印象を覚えた。
「うーっす先生、ご無沙汰」
「つっても、用があるのはうちらじゃないんだけど」
二人の背後から現れたのは、同じくかつての教え子である中野マルオだった。
母を亡くした五つ子を引き取った、育ての親でもある。
「無堂先生、お元気そうで」
不動の学年一位にして生徒会長を務め上げた優等生。
その表情の読めない、人を食ったような態度は学生の頃と変わっていない。
無堂は昔からそれが気に食わなかった。
それを表に出すことはせず、あくまで余裕を崩さずに笑う。
「中野君、君にも改めて謝る機会ができて良かった。今まで苦労をかけたね」
「いえ、あなたには感謝しています」
その無責任な行いこそが、自分と娘達を引き合わせたと。
マルオは冷ややかな声で、皮肉を叩きつけた。
「どうだろう? お世辞にも君が父親としての役目を果たせているようには思えないが」
無堂の余裕に嫉妬と苛立ちが混じり始める。
あくまでもお前は偽物の父だと突きつけるように、五月が自分を頼ってきた事実を強調した。
しかしマルオに堪えた様子はなく、むしろ疑問符を浮かべていた。
その様子に無堂は哀れみを抱いた。
マルオが現実を受け入れられずに逃避しているのだと、そう解釈した。
しかし、真実が見えていないのは無堂の方だった。
「よく見てください。ここに五月君はいない」
目を見開いて、五月と名乗った少女を見つめる。
かつての妻の面影がある顔立ちに、長く伸びた髪、そして一対の星型の髪飾り。
どれもが無堂の知る五月の特徴のはずだった。
ここまでそっくりな人間が早々いるはずがない。
そこまで考えて、ようやく一つの可能性に思い至る。
姉妹によるなりすまし――それを裏付けるように、物陰から髪飾りを外した五月が顔を出した。
「騙してしまいすみません。ですが、こうなることはわかっていました」
ただ間違えただけに過ぎない。
無堂が他人でいるのならばそれで済まされただろう。
だが五つ子への愛を語るのなら、ただの間違いでは済まされない。
たとえ三玖が五月のふりをしていたのだとしても、すぐに見抜くのが家族なのだ。
姉妹を引き連れた五月は、無堂に母の言葉を突きつけた。
愛があるからこそ、自分達を見分けられるのだと。
そしてそれは、無堂にとっては正しく呪いの言葉だった。
「また彼女の話か! いい加減にしろ!」
何かに責め立てられるように余裕を失った無堂は、声を荒げさせた。
そんなものは妄言に過ぎないのだと。
五月に対して、母の後悔を思い出すようまくし立てた。
「お母さんが後悔を口にしていたことは覚えています」
「そうだ、君のお母さんは間違った! 君はそうなるな!」
「私は、そうは思いません」
「他でもない零奈自身の言葉だぞ! 君がどう思おうと――」
「ええ、関係ありません」
そう、無堂の言葉も母の後悔も関係ない。
たとえ誰が否定しようとも、五月の中の真実は変わらない。
「お母さんは私たちに、惜しみのない愛を注いでくれました」
「そんな母の人生が間違っていたはずがありません」
「もし母自身が否定するのなら、それを否定します……他の誰でもない、私自身が……!」
五月は毅然と言い切った。
他の姉妹は、その姿に母の面影を見た。
いつも自分たちの前に立っていた、強く優しい母の姿を。
「子供が知ったような口を……」
「あなたこそ、知ったような口ぶりで話すのですね」
「……どういう意味だ、中野君」
「彼女が……零奈さんがあなたの裏切りに傷つき、後悔したのは事実」
しかし、逃げ出した無堂が知っているのはそこまでだ。
自分の娘たちとの日々が、零奈にどれほどの希望をもたらしたのかは知る由もないのだ。
故にと、マルオは無堂を切り捨てる。
「あなたに彼女を語る資格はない……!」
静かな声、しかし表情には確かな怒りが滲み出ていた。
その鉄面皮が剥がれるほどの激情に、二乃は母への愛を確かに感じとった。
「ふざけるな! 私が何も見えていないだと? それは君も同じじゃないか!」
「これ以上、見苦しい真似はよしていただきたい」
「ならば君は知っているのか? 娘たちを誑かす男がいることを!」
「……」
「とんだお笑い種だ! 他でもない君があてがった家庭教師がそうなのだから!」
中野姉妹の表情が強ばる。
よりにもよってのタイミングである。
無堂という男の悪辣さが滲み出ているようだった。
その中にあって、五月は一人静かに無堂を見据えていた。
「これは、私たち家族の問題だったはずです。彼は関係ないのでは?」
「父として、娘に寄り付く悪い虫は見過ごせないからね」
「あなたはこの期に及んで……」
あれだけ言われようとも父を名乗る無堂に、五月は呆れ果てた。
それならばと、足早にどこかへ向かっていく。
そして遠くの物陰に隠れた人物を引きずり出すと、手を引っ張って連れて戻ってきた。
「おい、五月! なんで俺が――」
「この場にいる皆さんに紹介します。彼は上杉風太郎君、私が将来結婚を考えている男性です!」
『これはあくまで私たち家族の問題です。だから、今回は遠くから見守っていてください』
五月にそう言われ、俺はその通りに会話が聞こえない程度の遠くから成り行きを見守っていた。
見守っていた……はずなのだが。
「この場にいる皆さんに紹介します。彼は上杉風太郎君、私が将来結婚を考えている男性です!」
その場にいる全員の視線が、俺に集中する。
親父とその隣の女性の唖然とした目。
おっさん、もとい無堂の好意的とは程遠い目。
五月の期待がこもった目に、他の姉妹のどういうことだコラという目。
そしてなにより恐ろしいのが、中野父の一見感情が見えない目だ。
断言しよう、あれは確実にキレている。
五月の紹介だけならまだしも、昨日病院で二乃にも紹介されたばかりなのだ。
なんで俺はいきなりこんな死地へ放り込まれたんだ……
「君の噂は聞いているぞ。公衆の面前で娘を泣かせていたようだね」
他にも深い関係がどうとか言っていたとか、明らかにあの屋台の前での出来事が発端だ。
こんなおっさんの耳にまで入っているということは、最早校内で相当に広がっているのだろう。
この学園祭というフィールドの特殊性を加味しても、頭の痛い事実だった。
「君の責任だぞ、中野君! 君の無関心が、このような事態を招いた!」
確かに中野父が意図的に、娘達との関わりを断っていた部分もあるのだと思う。
俺自身に責任があるのは明らかだが、なにより自分自身の責任を感じているのだろう。
中野父は黙って無堂の言葉を聞いていた。
「ああ、娘たちもかわいそうに! 僕がいれば、決してこんな目には合わせなかったというのに」
こいつらの気持ちを勝手に決めつけられるのは業腹だが、決して否定できない部分もある。
俺の優柔不断が中野姉妹を苦しめていない、なんて思えるほど俺は楽観的じゃない。
「なにより僕は君が哀れだよ……好き好んでこんな人間のクズになったわけではないだろうに」
俺が悪いことは俺自身がよく理解しているため、こんなことを言われようとも平気だ。
それよりも、親父や中野姉妹の反応が問題だ。
明らかにキレかかっている。
一応手で制したが、いつまで我慢が続くか。
そしてなにより、中野姉妹が俺に向けてくる不満の視線が辛い。
いつまで言わせておくんだと、そう言いたいのだろう。
しかしながら、事実を並べ立てれば俺は複数人の女性に手を出している男だ。
そこに言及されている以上、俺の発言に正当性はない。
そもそもいきなりこんなところに連れてきて、俺に何をしろというのか。
「上杉風太郎……なるほど上杉君、君の息子か! 確かに面影がある!」
俺自身はどう言われようと構わない。
中野姉妹に関しても舌を噛んででも耐えよう。
中野父に関しては、口を出すのがおこがましい。
「クズからはクズが生まれる……道理だ! 人間のクズの息子は人間のクズだというわけだ!」
だけど、それだけは聞き流せなかった。
「あ? テメー今なんつった?」
胸ぐらを掴んで、近くの柱に叩きつける。
こんな暴力的な衝動に駆られたのは、何年ぶりだろうか。
握り締めた拳が軋むほど、力が入る。
「な、なにを――」
「全部投げ出して逃げた出したテメーが、今更ノコノコ現れて父親面するテメーがっ! 全部背負って踏ん張ってきた親父を馬鹿にするってのか、ああっ!?」
「ひっ――」
無堂の怯えた顔。
しかし、激情と共に振りかぶった拳が無堂を打ち付けることはなかった。
興奮する俺の腕を掴んで止めたのは、中野父だった。
「やめたまえ、これ以上は君の経歴に傷がつく」
「……すみません」
無堂を放して距離を取る。
近くにいたら、また激情に駆られかねない。
学園祭の喧騒は遠く、先ほどとは色合いが変わった視線が突き刺さる。
中野姉妹の不安げな表情。
思えば、こんな暴力的な面を見せたことはなかった。
怯えさせてしまっただろうか……幻滅させてしまっただろうか。
これで、こいつらが離れていくこともあるのだろうか。
想像したら、胸の内に耐え難いほどの痛みが走った。
結局、俺は悪ガキをやっていた頃から変われていないのかもしれない。
そっと、握ったままの拳に誰かの手が触れる――五月だった。
何も言わずに、微笑んでくれた。
……そうだな、言われっぱなしじゃ格好がつかないよな。
握り拳を解く。
せめて、ここに引っ張り出してきたこいつの信頼には応えるとしよう。
「あんたの言うとおりだ。いくら勉強ができようと、俺はロクでなしのクズだ」
「だが、どんなに重かろうと俺は投げ出さないし逃げ出さない」
「そんな男になるのが、昔からの俺の目標だからだ」
言いたいことは言った。
後の決着は中野家に任せよう。
五月の肩に手を置いて、その場を後にする。
その最中に、背中に声がかかる。
「君には言いたいことが山積みだが……上杉君、改めて感謝しよう。正直、胸のすく思いだった」
どうやらこの場は見逃してもらえるようだ。
中野父の気が変わらない内に去るとしよう。
「……さて、まだ話し合いますか?」
「と、当然だ! あのクズに関しては何も解決していないのだからね」
「確かにそのとおり」
マルオは無堂の主張に静かに頷いた。
そして姉妹を呼び寄せると、自分の前に並ばせた。
「これから君たちに質問させてもらうが、答えてくれるかい?」
中野姉妹は気まずげに頷いた。
ここまで来た以上、最早隠し通すのは不可能である。
マルオは姉妹の了解を得たことに頷くと、無堂に向き直った。
「では、そういうことですのでお引取りを」
「何を言う! 僕には父としての役目が――」
「家族の話し合いです。部外者には引っ込んでいてもらおう」
あくまで部外者でしかないと、マルオは突きつけた。
無堂は一歩後ずさる。
もはや付き崩しようがないほどの圧を感じていた。
縋るように、五月へ目を向ける。
「……無堂先生、私はあなたに期待していたことが一つだけありました」
「やはり、君は血の絆を信じてくれるんだね……!」
「でもここまで来て、あなたは一言も母への謝罪を口にしてくれませんでしたね」
「――っ!」
「私はあなたを許しません。罪滅ぼしの道具にもなりません」
無堂が許されることは永遠にない。
これからも母への罪悪感で苦しんで生きるのだと、五月は言い放った。
そして逃げるように離れていく背中を、舌を出して見送った。
「いやぁ、ハラハラしたよ……」
「やるじゃない、五月」
「かっこよかった」
「ししし、大金星だね!」
「みんなのおかげですよ」
姉妹は寄ってたかって五月を労った。
しかし、家族会議の最中であることは忘れていた。
マルオの咳払いで、再び一列に並ぶ。
「……君たちは、上杉君に対して異性としての好意がある……そうなのかい?」
勢いに差はあれど中野姉妹は全員首を縦に降った。
マルオは目を手で覆って空を仰いだ。
心の中で最愛の人の名を呼んでみたりもした。
「では上杉君は君たちと、恋愛関係を築いていると解釈しても相違ないのかな?」
改めて父の前で話すことに羞恥を覚えたのか、姉妹全員が頬を染めた。
マルオは頭を抱えた。
何故こんなことになったのだと、心の中で嘆いた。
これが姉妹の一人となら認めて祝福しただろう。
実際昨日は二乃の報告に、二人の仲を認めている。
しかし蓋を開けてみれば五人全員である。
風太郎の能力に関しては疑う余地がないし、人柄についてもある程度認めている。
しかし、これはあまりにも道から外れすぎている。
無理やり引き離すのは簡単だが、そうしたところで何も解決しないのは目に見えていた。
「……わかった。後は後日、彼の口から直接聞くとしよう」
マルオが解散を宣言すると、姉妹は恐る恐る屋台が並ぶ通りへと消えていった。
手を振ってくる五月に手を振り返して、下田がポツリと漏らした。
「いやー、うちら本当にいるだけだったな」
「……だな」
「で、いつまで上向いてるんだよ、上杉」
「いーや、ガキの成長ってのは目にしみるもんだと思ってな」
「ふふ……結構良い息子なんじゃねーの?」
「全く賛成できないね」
下田の言葉にマルオが反論した。
そして次には勇也に噛み付いた。
まるで学生時代に戻ったようだった。
ため息混じりの苦笑とともに、下田はそれを見守った。
(零奈先生、見ててくれたかい? あんたの娘さんたちは立派にやってるよ)
「そもそも君の育て方がだな――」
「いや全く、どうしてあんなことになったんだろうな?」
「上杉!」
「ま、なんか男女関係は妙な事になっちまってるみたいだけどな!」
重たい体を引きずって、運営の本部へ向かう。
これからのことを考えると少しどころでなく頭が痛いが、今は学園祭の最中だ。
穴を空けていた分、仕事が溜まってるはずなのだ。
いやでもしかし……本当に辛い。
さっきはアドレナリンが出ていてあまり気にならなかったが、疲労が限界突破している。
階段に座り込んで手すりにもたれかかる。
もう座れるならどこだって良かった。
少し、休もう。
「あ、ここにいましたか」
「……五月か」
姿を見せたのは五月だった。
晴れやかな顔をしている。
これは、無事解決したと見てもいいのだろうか。
「終わりました……あなたのおかげです」
「俺は勝手にキレ散らかしただけだ……すまん、恐がらせちまったよな」
「たしかに驚きはしましたが、あなたが家族を大切にしていることがよーくわかりました」
「……うるせー忘れろ」
「ふふ……ああやってあなたが怒ったことに、他のみんなも安心していましたよ」
「よせ、あんなのみっともないだけだ」
さっきのあれは黒歴史中の黒歴史だ。
できれば自分の記憶からも消してしまいたい。
つーか、こいつは一体何をしに来たんだ。
「改めてお礼を言わせてください」
「だから俺はほとんどなにもしてねーって」
「いいえ、あなたには大切なことを教えてもらいましたから」
母が亡くなって、その代わりを努めようとしたこと。
そうすることで自分と母を混同し、夢を見失っていたこと。
母は母で自分は自分。
それをはっきりと認識できたからこそ、母親の後を追っていけるのだという。
俺のおかげだと言うが、ほんの口添えをしたに過ぎない。
いつだって、答えを見つけるのは自分なのだから。
「ありがとうございます……んっ」
「……今のは?」
「お、お礼とご褒美のキスということで!」
「さっき散々したと思うんだが」
「あ、あれはまた趣が違うと言いますか……」
まぁ、確かにこれぐらいの方が体力を奪われる心配もないから安心できる。
だからもういい加減少し休ませてくれ……
「それで、あの……上杉君?」
「……まだ何かあるのかよ」
「えーっと、あの、その……私もそろそろ……」
話が全く見えてこない。
というか、もう脳みそがストライキを起こしたがってる。
強制的に機能停止される前に、一刻も早く休みたい。
半開きの視界の端で、五月が一度大きく深呼吸をした。
「全部全部、君のおかげ。大好きだよ、風太郎!」
脳が眠りにつこうとする中、ごりっと新情報が突っ込まれる。
こいつ今、なんて言った?
「……今喋ったのお前?」
「そ、そうです――だけど……変です、かな?」
「まず最初に戸惑うわ」
なんかもういつもの口調と混じって、変どころじゃなくなっている。
なんでいきなり新しいキャラを開拓しようとしてるんだ、こいつは。
「これは母脱却というか、将来的にも結婚したらを想定してというか……」
はっきり言って居心地が悪いから、普段通りにしていて欲しい。
しかしまぁ、また将来だの結婚だのと……
「五月」
「な、なにっ?」
「重い」
「もう! そんなこと言わないでくだ……言わないで!」
だけどそんな重さが心地よく感じて来たのは、ここだけの内緒だ。
とりあえず審判の日は先延ばしになった模様。
さぁ、どうやってマルオさんを説得しようか……
次は四女の話になると思います。
溜まった鬱憤が爆発するかもしれません。