まぁ、趣味で書いたものだから、自分が楽しめてこそなのかもしれませんが。
ちょっと間が空いたけどお久しぶりです。
途中なんとなーく暗めの雰囲気になるかもですがご容赦ください。
この前のが最長と言いましたが、記録更新します。
四女が喪失する話です。
「四葉ちゃんと上杉君が付き合ってるってホント?」
そんな噂が流れ始めたのは、三年一組の学級長が決まった直後だった。
というよりも、その学級長が決まった一連の流れこそが原因だろう。
学級長は各クラスに男女一人ずつ。
四葉が立候補してさらに風太郎を推薦し、対立候補がいなかったためそのまま決定である。
わざわざ学級長なんて柄じゃない風太郎を推したのが、余計な勘ぐりを招いたらしい。
その当時にありえないと四葉は否定したが、学級著の噂は半年経っても消えていない。
「ねぇ見た? 三玖ちゃん上杉君にお弁当渡してたよ」
「そういえば、一花ちゃんって上杉君と一緒に登校してくること多くない?」
「この前ケーキ屋さんで二乃ちゃんと上杉君、仲良さそうにバイトしてたんだってー」
「五月ちゃん、休み時間になると上杉君にベッタリだよねー。勉強教えてもらってるんだっけ?」
修学旅行が終わって夏休み前になると、学級長の噂は更なる発展を遂げていた。
三玖が朝早く起きて作ったお弁当を、風太郎に渡していたのは知っている。
一花が自分達と家を出るタイミングをずらした時は大体、風太郎と一緒に教室に入ってくる。
二乃が風太郎と同じ店で働いているのも事実だ。
五月が授業終わりに、風太郎のもとへわからない箇所を聞きに行くのは日常茶飯事である。
火のない所には煙は立たないという言葉の通り、火元は確かにあるのだ。
五つ子裁判を経て姉妹の想いを知った四葉は、そんな四人を応援しながら見守っていた。
……少なくとも、自分にそう言い聞かせて日々を過ごしてきた。
だがしかし、どれだけ目をそらそうとも自分自身の想いがそこにはある。
捨てようと思った、消してしまおうと思った。
ずっと水中にいる気分だった。
水面に顔を出して新鮮な空気を吸いたかった。
だがしかし、重いものを抱えたままではそれが叶うはずがない。
果たせなかった約束が、鐘の下での口づけが、式場で撮った写真が、その足を捉えて離さない。
葛藤の末に、四葉は諦めることを諦めた。
水底に自ら沈んで、風太郎への想いを受け入れた。
自分が不足していることは知っている。
今のままでは姉妹にも、風太郎にも認めてもらえるはずがない。
だからこそ四葉は走る。
歩いていても追いつけないのなら、その何倍ものスピードで。
果たせなかった約束の代わりに、大事な人に認められるような人間になるために。
「この前さ、休学中の一花ちゃんが上杉君と一緒にタクシー乗ってるとこ見ちゃった!」
――だから、
「二乃ちゃんはあれでしょ? 堂々と恋人宣言したようなものだもんねー」
――こんな、
「三玖ちゃん健気だよねー。上杉君と手をつないでるとこ見たらホッコリしちゃった」
――雑音なんて、
「五月ちゃんは家に入り浸ってるらしいよ? 家族公認なんだって」
――耳に入らない……そうに決まっているのだ。
「ついに始まりましたね」
「ああ、なんとかここまで漕ぎ着けたわけだ」
「三日間、精一杯頑張りましょう!」
そして最後の祭りの幕が上がる。
悔いのない最高の学園祭にするために、四葉はこの一ヶ月間奔走してきた。
その先にこそ、自分の目標とする場所があると信じて。
「それだけじゃねーだろ」
「はい?」
「精一杯、楽しもうぜ」
風太郎が不敵に笑いながら拳を突き出す。
自然と頬がほころんだ。
心の蓋を開けたまま、四葉も同じように拳を突き出した。
「安全点検に参りましたー。たこ焼きチームの皆さん、調子はどうですかー?」
「絶好調!」
「中野さんも食べていってください!」
一日の始まりは安全点検から。
学級長、もとい実行委員である四葉の手始めの仕事は、各屋台を回ることだった。
もちろん遊びではなく、火元のチェックなど重要な項目もある。
しかし飲食禁止という規則もないので、四葉は出来立てアツアツのたこ焼きを遠慮なく頂いた。
「うまっ!!」
アツアツでカリカリでフワフワの絶品たこ焼きだった。
自分の反応に手応えを覚えた様子の男子の傍ら、四葉は点検項目をチェックしていく。
今食べた感じだと、食材の鮮度は問題ない。
コンロの脇に紙くずが転がっているのは危ないだろうか。
「この辺の紙片は危ないので、片付けておいてくださいね」
「はーい」
四葉への返事もそこそこに、男子は女子への対抗心を燃やしていた。
これはこれで充実しているのかもしれない。
みんなで仲良く出来るのならそれが一番だが、現状では難しそうだ。
しかし、まだまだ学園祭は始まったばかり。
何かきっかけがあればきっと、男女が互いの努力を認め合えるはずだ。
「よし! これでチェックは大丈夫かな?」
三年一組のたこ焼き屋で、四葉の受け持ち分の安全点検は完了だ。
後はこれを本部まで届けて、また次の仕事である。
その他にも色んな出し物の手伝いがあるため、ペースを上げないと約束の時間に間に合わない。
足を止めていられる時間はないのだ。
拳をグッと握って気合を入れると、四葉は足早に本部へと向かった。
「お父さん、早く早くっ。もう始まってるよ」
「おう、悪い悪い」
薄暗い体育館の中、上杉親子は最後列のパイプ椅子に腰掛けた。
空席は残り僅かで、もう少し遅れたら座れなくなっていただろう。
目当ては、ステージ上で上演されている演劇部による舞台である。
そこに四葉が出演するとなれば、仲良しのらいはとしては見に行かざるを得ないのだ。
今日、この学園祭に訪れたのは父の気まぐれだが、それならそれで精一杯楽しむのである。
「しかし、風太郎が言うにはえらい大根らしいじゃねーか、四葉ちゃん」
「ちょっと心配だね……」
あくまで代役なので、出番は多くないそうだ。
しかし短い登場とは言えど、大根っぷり如何では多大なインパクトを残しうる。
それが正と負のどっち方面に作用するかはわからないのだが。
とにかく、演技に興味がない風太郎をして大根と言わしめるのならば、相当のものだろう。
そんな四葉の登場シーンを待ちつつ、らいははひっそりと覚悟を固めた。
もしダメな方だったら後で慰めてあげよう、と
「ここまでよ、勇者一行!」
「くっ、女王エメラルド!」
スポットライトに照らされて、女王エメラルド……もとい四葉が姿を現した。
魔王的なポジションなのか頭に角をつけて、華美なチャイナ服を身にまとっている。
その堂々とした立ち振る舞いも相まって、中々に映えていた。
ステージ上の四葉を指で四角く切り取って、勇也は感嘆の声を漏らした。
仕事柄こうも絵になりそうな場面に遭遇すると、写真に収めたいという意識が出てきてしまう。
カメラが手元にないのが悔やまれた。
その隣でらいはは目をキラキラと輝かせていた。
確かにインパクト……というよりも存在感がある。
しかし大根かといえば、むしろその逆だ。
これがそう見えていたのならば、その人の目は節穴である。
やはり勉強のしすぎでおかしくなっているのかもしれない。
「わぁ……四葉さん、かっこいい」
ステージ上の勇姿に、らいははそうポツリと漏らした。
「助かりました! 中野先輩に代役をお願いして良かったです!」
「いえいえ、お役に立てたなら嬉しいです」
マスクを押さえてゴホゴホと咳き込みながら頭を下げてくる後輩に、四葉は微笑んだ。
彼女が風邪をこじらせたのが、代役としてステージに立った理由である。
代役を頼まれたのは数日前……今週に入ってからだ。
急な出演要請を快く引き受けた四葉だが、実はそのことで二乃に叱られていた。
『ちょっと四葉……ダンスに演劇って、いくらなんでもかけもち過ぎでしょうが!』
『うん、頑張るよ!』
『あーもうっ、この体力おバカ!』
本当なら開会式でのダンスも担当していたのだが、そっちは二乃の受け持ちになった。
より正確に言うと、二乃が半ば強引に引き受けた形になる。
本番の数日前で時間がない中、きっちりと仕上げてきたのがまた二乃らしい。
やると言えばやるのである。
(演劇部が終わったらからあげ屋さん、お化け屋敷と後は――)
この後の予定は、片手では収まりきらないほどに入っている。
それらをこなして学園祭を最高の思い出にするのが、四葉が定めた目標だ。
先ほどの上演は、終わってみればほぼ満席の大好評。
これ以上ない滑り出しと言えるだろう。
「……代役の子、ちょっといいかしら」
予定を指折り数える四葉に、演劇部の部長が話を持ちかけた。
代役で演じたエメラルド女王について、相談があるらしい。
急な役者の変更でやむなく出番を削ったのだが、それを元に戻したいのだという。
「もちろん、あなたさえ良ければだけど……」
「えっ……わ、私なんかで大丈夫なんでしょうか」
「ええ、本番であれだけの演技ができるなら、心配はいらないわ」
四葉は狼狽しながら他の部員を見た。
誰も異議を唱える者はいなかった。
それどころか、一緒に頑張ろうとまで言ってくれた。
「ぐすっ……本当に、先輩にお願いして良かったです……」
後輩の涙に、四葉も腹を決めた。
自分に寄せられる期待に応えて見せるのだと。
その先にこそきっと、目指す目標があるのだから。
そして四葉は校内を走り回る。
実行委員の仕事は一段落ついているため、これは自由時間をそのまま手伝いに当てている形だ。
どこぞの学級長は運悪く、というか折悪しく色んな雑用を投げられているのだが。
その点で見れば、四葉は運がいいのだと言えるだろう。
日頃の行いの差かもしれない。
「中野さん、脅かし役慣れてるね。もしかして経験者?」
校内に入ってはお化け屋敷の手伝いをし、
「呼び込みお疲れ。うちのサービス券持ってってよ」
外に出ては屋台の呼び込みをする。
とにかく色んな場所に顔を出し、色んな人に手を貸す。
一つ手伝いが終われば、急いで次の手伝いへ。
そうすることで、一歩一歩確実に先へ進めている気がした。
多忙だが、充実していた。
ずっと前だけ見て走っていられた。
「つーか、あと何往復すりゃいいんだよ……」
ボヤきというか嘆きというか、とにかく疲労に満ちた声。
走る四葉の前方に、両手に椅子を抱えてフラフラと歩く後ろ姿。
見間違えるわけがない、風太郎だ。
倒れそうになったところを、前に回り込んで支える。
「悪い、ダサいとこ見せたな」
「上杉さんはもやしっ子なんだから、適度に休憩を取らないとダメですよ?」
「正論だな……しかし、モタモタしてたら約束の時間に間に合わねー」
やはり約束のために無理をしているようだった。
気持ちは分かるのだが、倒れそうになっているとなれば放置はできない。
四葉はなおも仕事を続けようとする風太郎の前に立ち塞がった。
何事にも適材適所というのはあるもので、こういう力仕事ならば四葉の得意とするところだ。
男女の身体能力差を覆す、悲しき逆転現象がそこにはあった。
勉強と運動、両サイドに極端に振り切った二人なので、ある意味当然の帰結なのかもしれない。
お昼がまだなのかお腹を鳴らす風太郎に、手伝いでもらった色んな店の無料券をまるごと渡す。
あくまで副次的に得たものなので、四葉に執着はない。
あまりの多さに風太郎が目を剥いているが、これこそが努力の成果と言えるだろうか。
準備期間中にもあちこち手伝って回っていたので、その分も含まれている。
全部合わせたら、この学園祭の屋台の半分は網羅できるかもしれない。
「それより、流石にこれは多すぎだ」
しかし、渡した無料券の半分程を突き返されてしまった。
そして適度に休憩を取れ、という注意。
先ほど風太郎に向けた言葉が返ってきていた。
とは言うものの、四葉はまだ体力には余裕がある。
これからも約束の時間まで手伝いに終始するので、屋台を回る暇はないのである。
お腹の虫が鳴いたのはその時だった。
今度は風太郎のではなく、四葉のものである。
実のところ、お昼を抜いているのはお互い様だった。
いくら体力に余裕があろうとも、空腹は隠せなかったようだ。
「あ、あはは……では、この椅子を噴水の周りに設置すればいいんですね?」
「ああ、なるべく隙間が空かないようにな」
「お任せ下さい!」
椅子を軽々と持ち上げて噴水の方へ。
杜撰な誤魔化し方だったが、風太郎は見逃してくれたようだ。
代わりに、背中に声がかかる。
「お前がいてくれて良かったよ。ありがとな、四葉」
それだけで十分だった。
たったそれだけで、自分が正しい道を進んでいるのだと確信できた。
椅子を置いて振り返ると、風太郎は既にこちらに背を向けて歩き出していた。
「――ちゃんと見ててね……風太郎君」
気づいて欲しい、まだ気づかないで欲しい。
相反する想いを込めて、四葉はそっと呟いた。
『フータロー君? ちょっと歯を食いしばろうか』
『バカバカバカっ! フー君のバカぁっ!!』
『上杉君、覚悟はいいですね』
そんな言葉と共にビンタの三連撃を食らった俺は、隣の教室に隔離されていた。
決して少なくはない痛みと、赤く晴れ上がった頬。
それでも、先ほどの告白に対する応報としてはマシな方だろうか。
一花は真顔で、二乃は激情を露わに、五月は毅然とした態度で手を振り抜いた。
どいつもこいつも、顔が吹っ飛ぶんじゃないかというほどの衝撃だった。
視界が明滅して、涙が出そうになるぐらい痛かった。
しかし何よりもキツかったのは、あいつらにそんな事をさせてしまったことだ。
叩いた後に辛そうに顔を歪めていたのは、俺の気のせいではなかっただろう。
……本当に何をやっているんだ、俺は。
「大丈夫?」
「ああ……少し喋りにくいが、それだけだ」
叩いた三人に対して、三玖と四葉はふらつく俺を支えてここまで連れてきてくれた。
一人でも大丈夫だと言ったのだが、聞き入れてはもらえなかった。
四葉は氷嚢を取りに行ってくれているので、今は三玖と二人きりだ。
正直に言うと、あの三人が俺を叩くほどに怒った理由も想像がつく。
歯に衣着せずに言えば、俺とあの三人の間には肉体関係がある。
そこまで手を出しておいてあの答えでは、怒って当然だ。
それだけに今の三玖の態度が不可解だった。
本来ならば、あいつらと一緒に怒ってもおかしくない立場だというのに。
「……なあ」
「なに?」
「いや、やっぱいい」
が、それを直で尋ねるのもどうかという話だ。
自惚れかもしれないが、そもそもとして思うところがないはずがない。
今の三玖はきっと、持ち前の優しさで俺の傍にいてくれるのだろう。
「お待たせしました!」
四葉が氷嚢を手に戻ってきた。
受け取って左頬に当てる。
これで少しはマシになるはずだ。
……こいつは俺の告白に一体何を思ったのだろうか。
ずっと触れないようにしてきたはずだった。
汚さないように、綺麗なままでいられるように。
だというのに、あの告白の対象に四葉も含めてしまっていた。
それはきっと、俺が――
「……とりあえず俺の事はもういいから、お前らは向こうに戻れ」
「でも、フータローを一人には――」
「三玖、戻ろ。上杉さんも一人で考えたいんじゃないかな?」
「え、四葉……?」
四葉がそんなことを言い出すのは意外だが、今はありがたい。
俺も少し頭を冷やす時間が欲しかった。
困惑する三玖に目を向けると、渋々と立ち上がった。
そして二人は連れ立って教室を出ていった。
「あーもう、あーもう、あーもう……!」
風太郎達が隣の教室に移動した後、二乃はやけ食いを敢行していた。
行き場のない感情から来る行為だが、それを穏やかに見守っていられないのが五月だ。
二乃に負けじと、用意された食料に手をつけ始める。
そんな二人に苦笑して、一花はとりあえず他の人の分を確保しておいた。
「しかし、意外でしたね。まさか一花が彼を叩くなんて」
「あはは……そりゃ叩くでしょ、あれは」
叩いた理由に細かな違いはあれど、そこに同じ想いが含まれていたのは間違いない。
その気持ちを共有しているはずの三玖は、自分達が先に動いたからこそ動かなかったのだろう。
そうなると、四葉はどうなのだろうかと考えてしまう。
風太郎の好きだという言葉への反応から、そういう感情があるのは見て取れる。
現在、一花が把握している限りでは、風太郎と関係を持っているのは四葉を除く全員。
関係者を集めた裁判が都度開かれているため、状況の把握には困らないのだ。
逆に言えば、そこから外れた四葉だけが不透明になる。
色々と手や口を出した一花だが、それがどれだけ実を結んでいるのかはわからなかった。
「そういえばさ、フータロー君の初めてって誰なんだろ?」
一花がそんな爆弾を投げ込んだのは、ちょっとしたガールズトークのためだ。
気を紛らわすためのものであり、姉妹への牽制だとかマウントだとかそんな意図は一切ない。
少なくともそういうことにしておいた。
これが俗に言う初体験という意味であれば、配られている情報から答えは自ずと出ている。
「当然、私よ」
しかし、初めてという言葉の解釈は様々である。
一花が何を意図しているかを察した上で、二乃は敢えて断言した。
風太郎に初めて告白したのも、初めて性的な関係を持ったのも自分だと確信していた。
なんならファーストキスも自分だったと自信を持って言える。
「ほうほう、それでシチュエーションとプレイ内容は?」
「春先の模試の昼休みに、フー君のを口で……って何言わせようとしてんのよ!」
「大事なテストの最中に何をやっていたんですか……」
誘導にもなってない尋問に、二乃はすんでの所で踏みとどまった。
しかし、これではほぼ吐き出したも同然である。
春先の模試といえば、風太郎の進退を賭けた大事な局面だったはずだ。
そんなタイミングでやらかしていたとなれば、五月の呆れ声も仕方がない。
修学旅行前にそんな接触があったと把握している一花も、詳しい情報は初である。
あらためて、二乃の暴走っぷりに警戒心を深めるのだった。
「大体ね! とぼけてたけど、あんたやっぱり修学旅行の時に最後までしてたじゃない!」
「いやまぁ、そうだけどさ」
二乃が怪しんでいた修学旅行二日目の空白の一時間は、概ね予想通りの内容だった。
もちろん概要は裁判の過程で知っていたが、こちらを深堀りしようとするなら容赦はしない。
反撃と言わんばかりに、二乃は一花に詰め寄った。
「さぁ、具体的なとこを吐いてもらうわよ。キリキリ答えなさい」
「そんな詳しく語る程のものでもないけど……ただまぁ、激しかったかな?」
「……激しかった、ですか?」
「そうそう、なんか我を忘れてるって感じでさ。初めてだったから興奮してたのかな?」
初体験時の興奮というものは確かにあっただろうが、異常に元気だったのには他に理由がある。
一花は意図的にその情報を伏せて、初めてという言葉を強調した。
これには二乃も悔しさを堪えて歯噛みするしかない。
前段階では、あれこれと頑張って主導権を確保しようとする二乃だが、いざ本番に至るとあっさり逆転されるのがいつものパターンだ。
これは初体験の時から変わらぬ流れでもある。
当時はやけに手慣れていると思ったが、それは一花との経験が生きていたということになる。
我を忘れるほどの激しさで責め立てられた経験は、二乃にはなかった。
一方五月は、初めての時は終始翻弄されっぱなしだったことを思い出して顔を赤くした。
初体験ゆえの緊張と単純な知識不足によるものだが、なによりも場数が違う。
レベル1の新人とレベル10のベテランでは、相手になるはずがないのだ。
しかし、二回戦目に突入したときはまだマシだったように思えた。
なにか特殊な事情がないのなら、ただ単純に風太郎が疲れたということだろう。
やはり重要なのは体力だ。
五月はダイエットも兼ねて、一花のランニングに付き合うことを決意した。
事ある毎に重いと言われるのはやっぱり気になるのだ。
「あーもう! 結局は節操なく手を出してるフー君が悪いんじゃない!」
「気づけば四葉以外全員だもんね。お父さんにバレたらフータロー君、殺されちゃうかも」
「どうだか。あの人がそんなことで怒るとは思えないわ」
「それよりも、あんなことを言われたというのに、一花も二乃も彼を見限らないのですね」
自分と関係している女性を集めてあの発言である。
本来なら、袋叩きにあった上で見捨てられてもおかしくはない。
だがしかし、実際はビンタ三発で済んでしまった。
今日の出来事がこの先に及ぼす影響についてはわからないが、少なくとも一花も二乃も風太郎から離れる気がないというのは明らかだ。
そしてそれは、五月も同じだった。
「まぁ、今更って感じもあるしね。何より、私はフータロー君が――」
「なによ、そんなこと? それは私がフー君を、どうしようもないぐらい――」
「そうですね。我ながら度し難いと思うほど、上杉君のことが――」
そして、好きの一言が三つ重なった。
『そういえばさ、フータロー君の初めてって誰なんだろ?』
そんな言葉が耳をかすめたのは、四葉が保健室から氷嚢を持ってきた帰りのことだった。
この周辺はあまり人はいないが、校舎の内外から喧騒は伝わってくる。
しかし、声を抑え目にしているはずの一花の声は、いやにはっきり耳に届いた。
カクテルパーティー効果というものがあるが、四葉はそれを知らない。
思わず教室のドアに張り付いて、会話に聞き入ってしまった。
今までの経験から、リボンはしっかり押さえてある。
初めてという言葉が何を指すのかはわからないが、興味は尽きなかった。
それがもしファーストキスなら、自分だったらいいなと思ったりもした。
しかし話が進んでいくにつれ、こうして聞き耳を立てたことを後悔することになる。
『ほうほう、それでシチュエーションとプレイ内容は?』
『春先の模試の昼休みに、フー君のを口で……って何言わせようとしてんのよ!』
それは、明らかにキス以上のことがあったと示唆する内容だった。
二乃は最後まで語らなかったが、確かに模試の後から風太郎へ向ける視線が変わった気がする。
胸を押さえて、四葉は横に首を振った。
こんなことで、自分の想いは揺らぎはしないと。
『大体ね! とぼけてたけど、あんたやっぱり修学旅行の時に最後までしてたじゃない!』
『いやまぁ、そうだけどさ』
最後まで、という言葉の意味が飲み込めない……いや、受け入れ難かった。
四葉はその手のことに疎いが、知識がないわけではない。
キスを通り越して最後までとなれば、どんなことがあったのかは想像できてしまう。
修学旅行の二日目、ずぶ濡れの一花が真っ先にシャワーを浴びていたのを思い出す。
運動が得意な四葉は、体の動かし方に自然と意識が向く。
それは自分以外の人間に対しても同じであり、少しの違和感から不調を見抜いたりもする。
なら、あの時に歩きづらそうにしていたのは……
そこまで考えが行き着けば、後は早かった。
夏休み前、バイトがあるにしても帰りが遅かった二乃。
花火を見に行った日、風太郎の家に一緒に荷物を取りに行った三玖。
そして先日、休みの日に何故かシーツを洗濯していた五月。
その全員の姿が重なった
『あーもう! 結局は節操なく手を出してるフー君が悪いんじゃない!』
『気づけば四葉以外全員だもんね。お父さんにバレたらフータロー君、殺されちゃうかも』
(ああ、そっか……私だけ、なんだ)
他の姉妹より出遅れていることは理解していた。
それでも、ここまでの差だとは思っていなかった。
風太郎が自分に対して全くそんな素振りを見せなかったものだから、すっかり勘違いしていた。
目元を拭って前を向く。
自分のやることは変わらない。
頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って――あの背中に追いつくのだ。
だがしかし、その目指す背中は見えないほどに遠い。
竦みそうになる足を動かして、四葉は風太郎が待つ教室へと向かう。
三つ重なった好きの一言が、追い立てるように聞こえてきた。
あんな関係になっても、三人の風太郎への想いは変わらないのだろう。
その強さに四葉は羨望を覚えた。
「お待たせしました!」
必要以上に元気を出して、風太郎に氷嚢を渡す。
自分のことをどう思っているのだろうか。
先ほどの好きという言葉に、自分は本当に含まれているのだろうか。
聞きたいけど聞けなかった。
そもそも、まだ自分にはその資格がない。
風太郎に寄り添っている三玖は、目に入らないようにした。
「……とりあえず俺の事はもういいから、お前らは向こうに戻れ」
「でも、フータローを一人には――」
「三玖、戻ろ。上杉さんも一人で考えたいんじゃないかな?」
「え、四葉……?」
これ以上風太郎の顔を見ていたら、抑えていたものが溢れてしまいそうだった。
まだ想いを伝えるわけにはいかないし、それ以外の決して綺麗じゃない部分は見せたくもない。
三玖を連れて、四葉は隣の教室へ戻った。
「あ、おかえりー。フータロー君は?」
「とりあえず平気だって。四葉が氷嚢持ってきてくれたし」
「そっか。じゃあ二人の分取っておいたから食べなよ」
用意された食料は明らかに目減りしていた。
五月に目を向けると、首を振って二乃を指差した。
二乃に目を向けると、同じように五月を指差した。
どうやら同罪のようだ。
「あのさ、みんなは……」
どうして、そんなに真っ直ぐ想いを伝えられたのか。
四葉はそう口に出そうとして、途中でやめた。
もし自分も風太郎に想いを告げていたのなら、キスをして、抱いてもらえたのだろうか。
かつては自分だけ特別になろうと突っ走ったが、今は自分だけが特別じゃない。
風太郎だけじゃなく、姉妹の背中も見えないぐらい遠く感じてしまった。
「四葉? どうしたのですか?」
「あはは……私、置いてかれちゃったのかな」
学園祭初日が終わり、四葉は再び演劇部の集まりに顔を出していた。
演劇の台本を元に戻すに当たり、その分の練習のためだ。
教室での風太郎の告白は四葉の心に多大な影響を及ぼしたが、それでもやることは変わらない。
いや、今まで以上に頑張らなければならない。
そうしなければ、風太郎はおろか姉妹の影を踏むことさえできないのだから。
演劇を、学園祭を成功させて、風太郎にも楽しんでもらって、そして――
「火事だ! たこ焼き屋が燃えてるぞ!」
崩落の音は、着実に足元まで近づきつつあった。
学園祭二日目の朝、四葉はまだ薄暗い時間に目を覚ました。
正確に言うと、眠ろうと目を閉じて、しばらくして目を開くの繰り返し。
実際はほとんど眠れていなかった。
時計を見ると、まだ五時半を過ぎたところだった。
学園祭期間中は、いつもよりも遅めの登校でも問題ない。
そもそもの開場が午前十時であるため、必然的にそれに合わせたスケジュールになるのだ。
起きる時間にはまだ早すぎるが、寝付けそうになかった。
机の引き出しを開けて、写真立てを取り出す。
純白の衣装に身を包んだ風太郎と自分の姿。
不意打ち気味に連れて行かれた、式場での撮影のアルバイト。
その時の写真は、今では四葉の叶えたい未来になっていた。
花嫁姿の自分に、他の姉妹の姿が重なる。
それ以上見ていられず、写真立てを机の上に倒して伏せた。
「――そうだ、もっと……もっともっと頑張らないと」
ふらふらと身支度を済ませ、姉妹を起こさないように家を出る。
想定外のアクシデントはあったが、まだ学園祭は終わっていない。
それならまだ取り返せる。
一ミリも悔いの残らない学園祭にするためには、もっともっと頑張って頑張って――
風太郎に、そして姉妹に追いつくためにも、もっともっともっと頑張って頑張って頑張って――
「おはようございまーす」
「おっ、早いな……二日目開場までまだ三時間あるぞ」
「えへへ、眠れなくて」
だから立ち止まっている暇なんかない。
我武者羅でも、走り続けなければ叶わない。
「お仕事ください! なんでもします!」
「おはようございます」
「おはよう」
リビングに下りた五月を、三玖が出迎えた。
キッチンからは何かが焼ける音と同時に、いい匂いが漂ってきている。
見ると、二乃がエプロン姿でキッチンに立っていた。
「三玖、もう大丈夫なのですか?」
「うん、なんとか」
昨日、倒れそうになった三玖だが、今朝の顔色は悪くない。
朝食当番は、大事をとって二乃が担当しているようだった。
これはこれで長年慣れ親しんだ光景である。
しかし、四葉の姿がない。
大抵は既に起きているはずなのだが、寝坊しているのだろうか。
「ちょっと五月、四葉呼んできて。もうすぐ出来るから」
「わかりました」
キッチンから飛んでくる二乃の声に、五月は再び階上へ。
四葉の部屋のドアをノックするが、返事はない。
そっとドアを開けて中を覗くと、ベッドに部屋の主の姿はなかった。
開きっぱなしタンスに、脱ぎ捨てられた衣類。
片付けはキッチリとする四葉にしては珍しかった。
部屋の中に入り、姿を探すも見つからない。
そもそもほとんど隠れられる場所もないのだが。
ともかく、この部屋の中に四葉はいないようだった。
首をひねる五月の目に留まったのは、机の上に伏せられた写真立てだった。
「これは……」
見慣れないものだったので、つい手に取ってしまった。
そこに収められていた写真もまた、五月が見たことのないものだった。
タキシード姿の風太郎と、ウェディングドレスを身にまとった四葉。
いつ撮ったものかはわからないが、それはさながら結婚式の記念写真のようだった。
口には出さずともこんなものを飾っているのだから、その想いは瞭然で疑いようがない。
複雑な思い抱きながらも、写真立てを再び伏せて五月は部屋を出た。
そして靴がないことから、四葉がそもそも家にいないことが判明。
こちらからの連絡に、先に学校に行っていると返ってきたのは少し後のことだった。
他の人の仕事を奪う勢いで働く四葉は、現在はダンボール箱を運搬中だった。
中身はパンフレットがギッシリであり、重量も相当なものだ。
そんなものを三つも抱えている四葉だが、前が見えづらいぐらいで特に苦にしていない。
むしろ、あともう一箱ぐらい抱える余裕すらあった。
「あ、四葉。フータローは?」
向きによっては、ダンボールが動いている様にしか見えない四葉に声をかけたのは三玖だった。
風太郎を探しているようだが、四葉も今日はまだ見ていない。
昨日、あんなことがあったばかりだというのに、一緒に学園祭を回りたいのだという。
「……三玖はすごいね。私は――」
「四葉?」
「ううん、なんでもない! あ、上杉さんの声だ。近くにいるかも!」
三玖の直向きさに、なによりもそう出来ることに羨望を覚えてしまう。
心に差し込んできた影を振り払うように声を張り上げると、四葉は体育館へ向かった。
こちらに風太郎がいると思ったのだが、あてが外れたようでその姿はどこにも見当たらない。
とりあえずダンボール箱を所定の位置に置いておく。
もしパンフレットが必要だったら、ここから運んでいく手はずになっているのだ。
「三玖、無理しないでね。昨日のこともあるし」
「もう平気。昨日は色々疲れてただけだから」
「そういえば、色々頑張ってたって聞いたよ」
「でも、結局……」
三玖がクラスの男子と女子の間を取り持とうとしたことは、四葉も聞き及んでいる。
それだけに、昨日の火事は残念だっただろう。
そしてそれは四葉も同じだ。
「くそっ、なんでだよ!」
外から、そんな悪態が聞こえた。
クラスメイトの前田だった。
体育館の外壁に拳を打ち付けているところを、同じくクラスメイトの武田に宥められていた。
この二人は、時折風太郎と一緒にいるのを四葉は覚えていた。
「出店停止って……俺らはこの日のためにやってきたんだぞ……!」
「あんな事故を起こした以上、受け入れるしかないよ。危ないって注意されていたんだろう?」
昨日のたこ焼き屋の出火原因は、コンロ脇の紙くずだったそうだ。
『この辺の紙片は危ないので、片付けておいてくださいね』
そう指摘したのは、他でもない四葉だ。
そして男子達は、確かに返事をした。
注意されて守らなかった責任と言えばそれまでだが、そうは受け取れなかった。
あの時、もっとちゃんと注意していれば、ちゃんと片付けるところを確認していれば……
決しておざなりにしていたわけではないが、仕事を急いでいた自覚はあった。
「くっそぉ!」
前田の嘆きが、四葉の心に重くのしかかった。
(大丈夫、まだ……頑張って頑張って取り返せばいい)
潰れそうになる心をどうにか押しとどめた四葉の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
風太郎が、見知らぬ女子と歩いていた。
急いで三玖を呼んで後を追いかける。
追跡対象の二人は、いくつか屋台を回ってからパンケーキ屋に行き着いた。
そこは自分達三年一組の屋台であり、またタイミングが悪いことに二乃と五月がいた。
「初めまして、竹林と申します。風太郎とは小学校からの同級生です」
「あらそう。私たちも同級生だけど、もっと深い関係と言っても過言じゃないわ」
竹林と名乗った彼女はともかく、四葉の関心は二乃に向いた。
ああもはっきりと言い切れるのが羨ましかった。
三玖が飛び出していくのを抑えつつ、四葉は自身の内に沈み込んだ。
自分が同じような状況にあったとして、きっと同じようには言い切れない。
それが想いの強さなのだとしたら、自分は……
四葉が我に返ったのは、二乃が泣き出した直後。
いつの間にか三玖は飛び出していた。
「フータローは渡さないから」
三玖の言葉は静かながらも強く、想いがこもっていた。
「まだ出会ってほんの一年と少しですが、その深さはあなたにも負けるつもりはありません!」
そして五月の力強い宣言。
三人の想いの強さに打ちのめされるように、四葉はその場から離れていった。
あそこで飛び出していけなかった自分に、風太郎を想う資格があるのだろうかと。
そんなことを考えてしまった。
「お仕事ください」
自分の中の焦りに突き動かされるように、走る。
「何かお困りですか?」
何かから目を逸らすように、我武者羅に動き続ける。
たとえ足元がふらついていようと、立ち止まるわけには行かない。
立ち止まってしまったら、気づいてしまう。
立ち止まってしまったら、直視してしまう。
動き続けないと死んでしまう回遊魚のように、そうしないと想いが折れてしまいそうだった。
「あ、いた」
「あなたは……」
「中野四葉さんですよね」
風太郎の同級生だったという、竹林と名乗った少女。
四葉とは面識がないはずだが、なぜか名前を知られていた。
風太郎や他の姉妹とは一緒じゃないらしい。
少しだけ安堵してしまった。
今は、いつも通り元気な四葉でいるのが難しい。
「あの、私に何か用でしょうか?」
「あ、すみません。ついまじまじと見てしまって」
ジッと四葉の顔見ていた竹林だが、先程まで他の姉妹と話していたのだという。
余程五つ子が珍しかったようで、改めてそっくりなことに驚いているらしい。
こんな反応も四葉にとっては日常茶飯事だ。
眩みそうになる視界を、頭に手を当ててこらえる。
「四つ子は見たことあるんですけどね」
「え……それはどこで……」
「京都で、六年前」
京都と六年前。
そのキーワードが示すのは、四葉と風太郎が出会った修学旅行だ。
小学校の同級生ならば、竹林も当時同じく京都に来ていたに違いない。
それなら、彼女が言う四つ子というのは……
「風太郎と会ったのはあなたですか?」
突然の指摘に、四葉は言葉を詰まらせる。
その後で出たのは疑問の声だった。
なぜ竹林がそれを知っているのか、と。
「風太郎から、嫌というほど写真を見せられましたからね」
それと、繰り返し何度も話を聞かされたのだという。
竹林は、当時を懐かしむように語った。
「それに先ほど、ご姉妹に話を伺いました」
そして六年前のあの日に、一人はぐれた姉妹がいる。
これらの情報から、先ほどの答えを導き出したのだろう。
そうやって事実を詰めて答えを導き出す様は、どこか風太郎を思わせた。
「あなたにお会いできて良かった。このこと、風太郎には……」
「い、言わないでください!」
「どうしてですか?」
風太郎に気づいて欲しいと望んでいるのは確かだ。
四葉がリボンを付けるようになったそもそもの理由は、ちゃんと見分けてもらうためなのだ。
それでも今はまだ早い……あるいは遅かったのかもしれない。
この学校で再会した時に気づいてくれたのなら。
他の姉妹が風太郎に想いを寄せる前に打ち明けられたのなら。
違う未来があったのかもしれない。
意味のない仮定だとしても、そう思わずにはいられなかった。
「……私はまだまだなんです。無意味で無駄な、そんな六年間を過ごしてきました」
「……」
「少しでも上杉さんと釣り合うような人間になるために、もっと頑張らないといけないんです」
「だから、まだ打ち明けられないと」
四葉は無言で頷いた。
そうしてはみたものの、その背中に追いつく光景が見えなかった。
視界が揺れる。
頭を振って、余計な考えを振り払う。
今は、ひたすらに走り続けなければならないのだ。
「以前、同じようなことを言っていた人を知っています」
自分は無意味で必要のない人間。
だからこそ、一つだけでも誇れる何かが欲しいのだと。
風太郎は、そう言ったのだという。
そして今は、ちゃんと前を向いて歩いている。
「どうかあなたも、過去から踏み出せますように」
それだけ言って、竹林は去っていった。
残された四葉は立ち尽くす。
過去から踏み出す……つまり、思い出に頼らずに進んでいく。
「……無理だよ」
今まで進んできた道は間違いだった。
望む未来は途方もないほど遠い。
縋るものは、今や遠い日の思い出だけ。
「だって……今の私には、それしかないんだから」
そして次の手伝いに向かうために歩き出そうとして、四葉の意識はそこで途切れた。
次に目を覚ました時、四葉はベッドに横たわっていた。
見上げた天井に見覚えはなく、学校や家ではないということぐらいしかわからない。
「ここは病院よ」
ベッドの上で身を起こした四葉に、耳慣れた声がかかる。
二乃がベッドの脇に椅子を置いて座っていた。
その言葉を信じるのならここは病室だが、何故かエプロンを着用している。
「まさか、こんなことになっているなんて驚いたわ。フー君も言ってくれたら良かったのに」
二乃は不満を口にしたが、実際にはそれが風太郎の気遣いであったことはわかっている。
少なくとも今日のうちは、水を差さないように配慮したのだろう。
「あれほど言ったのに……あんた全然余裕持ってやれてないじゃない」
「……戻らなきゃ」
「えっ、ちょっ」
引きとめようとしてくる二乃を余所に、四葉はベッドから出て病室からも出ようとする。
まだ演劇部の手伝いが残っているのだ。
せっかく期待して出番を増やしてくれたのに、裏切るわけにはいかない。
しかし、そのあとの二乃の言葉に、立ち止まらざるを得なかった。
「もう夜よ。二日目はすでに終わってるわ」
一瞬、その意味を飲み込むことができなかった。
震える手で携帯を確認すると、すでに学園祭の終了時間を大幅に過ぎていた。
もはや取り返しのつかない失敗に、焦燥が心を覆いつくした。
「酷なようだけど、自己管理がなってなかったのよ。今はとりあえず休んで――」
「――っ!」
「四葉!」
いても立ってもいられず、病室を飛び出した。
もう二日目は終わっている。
何ができるかなんてわからない。
それでも動いていないと、走っていないと、心が死んでしまう。
本当に、無意味で無価値な人間に成り下がってしまうわけにはいかない。
そうしたらきっと、あの日の思い出さえも触れられなくなる。
今の自分には、それしかないのだから。
「起きたか」
「上杉さん……」
ロビーにたどり着くと、風太郎が自販機で飲み物を買っていた。
通り過ぎようとすると、四葉の前に立ちふさがった。
「通してください、行かないと」
「行ってどうする。もう皆とっくに家に帰ってるぞ」
「それなら頭を下げて回ります!」
演劇部だけではない。
四葉が手伝いを引き受けていた人たちにも当然、迷惑がかかっただろう。
焦燥と並ぶように、自責の念が心にのしかかっていた。
「とにかく通せない。明日まで絶対安静と言われているからな」
「でも!」
「ひとまず聞け――結論から言うと、演劇もその他もどうにかなった」
「――え?」
ガツンと、頭を殴られたかのような衝撃だった。
そして衝撃の後に四葉の内に生じたのは、安堵ではなく諦念だった。
自分がいなくてもどうにかなった。
それはつまり、自分じゃなくても良かった――本当に必要とされてはいなかった。
弱った心は、そんな結論に行き着いてしまった。
何より四葉を打ちのめしたのは、自分の身勝手さだった。
誰かに必要とされる人間と言っておきながら、結局は自分のためにしか動いていなかった。
安堵よりも先にショックを覚えたことで、それに気づいてしまったのだ。
(ああ、そもそもが間違いだったんだ……)
風太郎との未来を夢見た時点で、自分のために走り出した時点で、すでに間違えていたのだ。
フラフラと、来た道を引き返す。
「おい、四葉」
「あはは……確かにちょっと疲れてるみたいです。思う存分休ませてもらいますね」
諦念を受け入れてしまえば、後は楽だった。
そうすれば、焦燥も強迫観念も無縁のものだ。
心に空虚が蟠っているが、それだけだ。
絶対安静と言われたとおり、四葉は病室に戻っておとなしく休んだ。
後は自分の想いに別れを告げる……そうすればもっと楽になれる。
抵抗するように涙が流れたが、それだけだった。
「……君たちは、上杉君に対して異性としての好意がある……そうなのかい?」
父の問いに、四葉は静かに頷いた。
未だに心の中には、風太郎への想いが脈打っている。
それは六年前からずっと変わらない、胸を暖めもかき乱しもする初恋の記憶だ。
「では上杉君は君たちと、恋愛関係を築いていると解釈しても相違ないのかな?」
風太郎と過ごした時間を振り返る。
その笑顔に、触れた肌の感触に、抱きとめられた時の安堵に、自然と顔が熱くなった。
そうなりたかった、そうであったらよかった。
しかし、そうはなれなかった。
風太郎も姉妹も、もはや手が届かないほど遠い。
そこから目をそらして我武者羅に追いかけた。
そうすれば追いつけると思い込んでいた。
その結果、派手に転んで自分の無価値さを突きつけられた。
胸の内に生じた諦念は、あるいは心をつなぎとめる最後のセーフティだったのかもしれない。
なんにしても、これから四葉は自分の想いに別れを告げなければいけないのだ。
「お待たせしました」
ベンチに座っている四葉たちのもとへ、五月が小走りで駆けてくる。
今日はもう学園祭の最終日。
つい先程、風太郎を巻き込んだ中野家の家庭問題に決着がついたばかりだ。
五月はそのお礼を告げに行っていたのだが、今こうして帰ってきた。
なにか良いことがあったのか、満足気な顔をしている。
「みんなにも改めてお礼を」
「まぁ、私たち家族の問題でもあったしね」
「そういうこと。あまり水臭いこと言うんじゃないわよ」
「それよりも、あんなずさんな変装に私は納得してない」
わいわいと盛り上がる姉妹を一瞥して、四葉はベンチから立ち上がった。
そして空を見上げる。
涙が出そうなぐらい良い秋晴れだった。
別れを告げるには、これぐらいカラッとしていた方がいいだろう。
「みんな……私、応援してるから」
「え、いきなりどうしたのさ?」
「なによ改まって。五月みたいに拾い食いでもしたわけ?」
「どういう意味ですか!」
「四葉、ひょっとしてまだ調子悪いの?」
三玖の心配に首を横に振ると、四葉は笑顔を浮かべた。
ハリボテでも、いつもどおりの笑顔のはずだ。
「上杉さんとのこと、頑張ってね!」
「ちょっと待って! 四葉……さっきお父さんの前で一緒に答えたよね?」
自分から身を引くと言っていることを理解した一花が、珍しく声を張り上げた。
無堂とのやり取りの後、姉妹は父から風太郎との関係について尋ねられた。
好きなのかと問われた時、確かに四葉も頷いたはずなのだ。
「そうだけど……私はもういいんだ。みんなとは違う道を行くよ」
「……本当にいいの?」
「うん、心配してくれてありがとう、三玖」
「ま、ライバルが減ってせいせいするわ」
気遣わしげな三玖とは対照的に、二乃に四葉を引き止める様子はない。
ただ、表情は面白くなさそうなものだった。
「最後の最後で一番邪魔になりそうなのはあんただと思ってたから、正直拍子抜けだけどね」
「あはは、私じゃ二乃にはかなわないよ」
「……四葉、私は納得できません」
一花と同じように異論の声を上げたのは五月だった。
二人は四葉の想いを知っている。
どれだけ長く想っていたか、どれだけ強く願っていたかを。
そして五月は昨日の朝、四葉と風太郎が並んで純白の衣装に身を包んだ写真を見ている。
簡単に諦められるようなら、机の上にあんなものを飾ったりはしないはずだ。
「五月が納得しなくても、決めるのは私だよ」
「なら、せめて最後に上杉君と話してみてください」
「……どうして?」
「それが彼の告白に対する答えなら、早く告げたほうがいいはずです」
愛想を尽かしたわけでも、嫌いになったわけでもない。
ただ四葉は諦めたのだ。
もともと以前はそうしようと思っていたのだから、収まるところへ収まっただけ。
これが一方通行なら何も言う必要はない。
しかし、変則的な形とはいえ、風太郎からの好意は示されている。
それならば、こちらからの答えを示すというのも道理だろうか。
「……うん、そうかもだね。じゃあ行ってくるよ」
「四葉、これを」
歩きだそうとした四葉に、五月は半分に折られた紙片を渡した。
外側には何も記されてはいない。
「なにこれ?」
「上杉君の生徒手帳に入っていたものです。……彼に返却をお願いします」
「ん、わかったよ」
受け取った紙片をポケットに入れると、今度こそ四葉は歩き出した。
自分の想いの、息の根を止めるために。
しかし、風太郎は寝ていた。
よほど疲れたのか、階段に座って手すりにもたれかかり、寝息を立てている。
正面に回って顔を覗き込んでも、頬をつついてみても起きる気配がなかった。
悲壮な決意を固めてきた四葉からすれば、拍子抜けもいいところである。
だがこれで良かったのかもしれない。
このまま一方的に別れを告げてしまおう。
五月には後で何か言われてしまうかもしれないが、やはり風太郎と対峙するのは怖かった。
初めて会った時と同じように、階段の上、風太郎の背後に立つ。
自分の想いと決別するのなら、ありのままの自分でいなければならない。
「風太郎君」
応えなんて期待していない、これは自分の思い出への呼びかけだ。
だというのに、あれだけしても反応がなかった風太郎が身動ぎした。
「なんだ零奈、またお前か」
振り返らずに、風太郎は姉妹の母の名を口にした。
どういうことかと四葉は混乱した。
しかし、以前に風太郎が思い出の少女を零奈と呼んでいたのを思い出した。
「今日も色々あって疲れてるから、後にしてくれ」
事実、風太郎はくたびれていた。
姉妹のために奔走していたのは四葉も聞き及んでいる。
それが嬉しくもあり、悲しくもあった。
誰になんと言われようと、風太郎は他の姉妹を大切に思っている。
自分のためにも走り回って欲しかったなんていうのは、ただのわがままなのだから。
風太郎の特別にはなれなかったけど、それで十分なのだ。
今は、思い出の少女として別れを告げよう。
「ずっと約束を覚えていてくれてありがとう。私は守れなかったよ……ごめんね」
「……そんなこと気にすんな」
「風太郎君は気にしてないの?」
「まぁ……昔のことより大切なのは今だろ」
その言葉が、胸に虚ろに響いた。
四葉は自分の想いを、風太郎との思い出を振り切ろうとしている。
しかし過去を振り切ったとしても、今には何もない。
先に空虚な未来が広がるのみだ。
ひどく、寒々しい。
「……うん、そうだね」
それでも告げなければならない。
溢れそうになる涙をこらえる。
諦念に身を任せてもなお、これだけの熱が残っていた。
それを冷ますように、ゆっくりと息を吸って吐く。
「だがこれだけは言わせてくれ」
「あの日お前と出会って、俺は自分の道を見つけた」
「何もない俺だったが、お前との約束のおかげで何かを得られた」
「だから、ありがとう――四葉」
「風太郎君」
芒洋とした意識の中で、呼びかける声がある。
慣れ親しんだようで、そうでないような。
それでも間違いなく懐かしい、そんな声だ。
また五月かと思ったが、今更あいつがこんなことをする理由はない。
かといって、他の誰にもそんな理由はないだろう。
『……最初は『彼女』に頼まれたからです』
それこそ、五月が語っていた『彼女』にもだ。
なら、ここはこれでいいだろう。
「なんだ零奈、またお前か」
意識は相変わらずふわふわとしていて、いまいち現実感がない。
そこに今更現れるはずもない零奈が現れたとすれば、自ずと答えは限られてくる。
こいつは、俺が思い描く思い出のあの子だ。
疲れた頭が夢見心地に作り出した虚像に過ぎない。
「ずっと約束を覚えていてくれてありがとう。私は守れなかったよ……ごめんね」
「……そんなこと気にすんな」
「風太郎君は気にしてないの?」
「まぁ……昔のことより大切なのは今だろ」
我ながら白々しい限りだった。
今が大切なのは確かだが、あの時の思い出を俺は未だに抱えている。
そんな女々しい様を、中野姉妹の前で見せたくはない。
……いや、今ならいいのか。
こんな夢の中なら、普段言えないこともきっと口に出せるはずだ。
「だがこれだけは言わせてくれ」
「あの日お前と出会って、俺は自分の道を見つけた」
「何もない俺だったが、お前との約束のおかげで何かを得られた」
ずっと気づかないようにしていた『彼女』のことも。
ずっと触れないようにしていたあいつのことも。
今なら、こうして声に出して名前を呼べる。
「だから、ありがとう――四葉」
「――え?」
一瞬、その口から出た名前が、自分のものだと認識することができなかった。
思い出の少女と話していたはずの風太郎が、四葉の名を呼んだ。
それが示す事実は一つ……気づかれてしまったのだ。
今この瞬間、もしかしたらもっと前からかもしれない。
「――どうして、今なの?」
ずっと気づいて欲しいと望んでいた。
だけど気づかないで欲しいと願っていた。
もう終わりにしたはずだった。
思い出も捨てて未来も諦めて、静かに消え去るはずだったのに――
「なんであの時、私じゃないって気づいてくれなかったの?」
六年前、四葉と遊ぶはずだった風太郎は、四葉と思い込んで一花と遊んでいた。
当時の中野姉妹は、それこそ見分けがつかないほど瓜二つだった。
知り合ったばかりの風太郎に見分けろというのが無理な相談だ。
それでも、吐き出さずにはいられなかった。
「なんであの時、私だって気づいてくれなかったの?」
旭高校で再会した時、風太郎は四葉のことを思い出してくれなかった。
名前も教えてなかったし、成長期を挟んでいるため背格好も変わっている。
なにより風太郎は四葉のことには気づかずとも、約束のとおり努力を続けていた。
それでも、吐き出さずにはいられなかった。
「どうして他のみんなに優しくするの?」
「どうして私だけキスしてくれなかったの?」
「どうして私だけ抱いてくれなかったの?」
「どうして……私だけ見てくれないの?」
もう心の蓋は壊れてしまって、溢れ出す感情を止めることができない。
それが身勝手な想いだとしても、曝け出すしかない。
涙で滲んだ視界の中で、風太郎が呆然とこちらを見上げていた。
「四葉、お前――」
「いやっ!」
伸ばされた手を払いのける。
ずっとその手を取りたかった。
ずっと大好きだと伝えたかった。
しかし拒絶の意思は、それとは正反対の言葉を吐き出した。
「風太郎君なんか――だいっきらい!!」
走り去っていく四葉を、呆然と見送る。
思考が起こった事実に追いつかない。
未だに夢の中なのかと思いたくなる。
ただ、払いのけられた手の痛みだけが、これが現実であるということを伝えてきた。
「上杉君!」
入れ替わるように、五月が現れた。
声は切羽詰っているし、表情にも余裕がない。
立ち尽くした俺に、掴みかかるような勢いで詰め寄ってきた。
「何があったのですか!」
「……俺は、また零奈が現れたと思って」
「え……?」
「でもそんなことはありえないから、夢だと思って」
「……それで?」
「あいつの……四葉の名を呼んじまった」
「そんな……気づいて、いたんですか」
五月は愕然と呟いた。
それから、四葉が何をしようとしていたのかを語った。
そうするように仕向けたのは、自分なのだということも。
「……四葉は、学校から飛び出していってしまいました」
「あいつを見かけたのか?」
「ええ……今は一花が追っています。自分は暇だから任せて、と言っていました」
確かに休学中の一花は、この学園祭において役割はない。
二乃や三玖は屋台の方があるため、容易には動けないだろう。
そして五月は、事実確認のために俺のもとへ来たのだろう。
「すまん、俺はあいつの気持ちも知らずに……」
「私も、四葉の答えに納得ができなくて……」
「……今は落ち込んでる場合じゃないな」
後悔に俯いている場合でも、どうするかなんて立ち止まっている場合でもない。
今は何よりも、動かなければならない。
そうしなければ、二度とあいつの笑顔が見られなくなる。
そんな予感だけはあった。
「五月、悪いが俺の仕事、肩代わりしてくれ」
「……四葉を追うのですね」
「ああ、行ってくる」
「本気で逃げる四葉に、あなたが追いつけるとは思えません」
「かもな。だが、他の奴には任せられねーよ」
資格があるかどうかなんて知ったことじゃない。
俺が行けば、もっと傷つけてしまうかもしれない。
それでも、俺はあいつにまだ伝えていないことがある。
だからこの期に及んで、俺は俺の身勝手な望みを貫くのだと決めた。
足元がふらつく? 頭がぐらつく?
なんてことはない、これがベストコンディションだ。
「上杉君、せめてこれを」
五月が近くの自販機で買ったペットボトルを差し出してきた。
スポーツドリンク……一息に飲み干す。
「サンキューな、五月」
「ええ、行ってらっしゃい」
「くそっ、今更、ながらっ、体力、ねーな……!」
しかしながら、精神が肉体を凌駕するなんて都合のいいことは早々ない。
学校を飛び出してほんの数十メートルで、俺はもはや息を上げていた。
それでも足は止めないし、同時に頭も回す。
酸素も何もかも足りないが、無闇矢鱈に知識を詰め込んだこの頭にはいいハンデだ。
このまま闇雲に走っていても徒労に終わることはわかりきっている。
ならば向かう先を絞るべきだ。
懐が寂しすぎるせいで、自分の足以外の移動手段が使えないのが悲しいところだが。
四葉の行きそうな場所を考えて、真っ先に思い当たったのは自宅だ。
無堂の言葉に沈み込んだ五月も、あのマンションの自室に篭もりきりだった。
しかしそれ以外となると、中々思いつかない。
思えば四葉は一緒に出かけても、自分の望みを口にしたことはなかった。
そんなあいつが、自発的に向かった場所といえば――
ポケットの中の携帯が震える。
この振動の長さは、電話だ。
速度を緩めて携帯を取り出すと、一花からだった。
「もしもし……」
『フータロー君、四葉見つかった?』
「いいや、まだだ……そっちも、見つから、ないか」
『残念ながら見失っちゃってね……家に戻ってみたけど、帰ってきてはいないみたいだよ』
「そうか……」
これで一つ有力な候補が潰れた。
他に思い浮かばないなら、後はひたすら地道な作業となる。
こんな時、誰か一人でも中野姉妹が傍にいれば、聞き込みが捗るんだが。
今のあいつは怒っているのだろうか、それとも落ち込んでいるのだろうか。
『ここは私がよく来る公園なんです。ちょっと落ち込んだ時はそのブランコに乗ってみたり……』
……そういえば、そうだったな。
頭を回した気でいたが、てんで回っていなかったみたいだ。
『フータロー君? もしかして走りすぎてバテてない?』
「……大丈夫だ」
『そう? じゃあ、私はもう一度――』
「いや、心当たりがある。お前は先に学校に戻っていてくれ」
『そっか……なら、任せちゃおうかな』
「ああ、もし夕方までに戻らなかったら、改めて連絡してくれ」
通話を切る。
そして、昨日撮った写真を画面に表示させる。
最新機種で撮ったものと比べればしょぼいかもしれないが、これで十分だ。
あいつにこれを見せれば、きっと伝わる。
だから、今はただ走る。
いるかもしれないからといって、いつまでもあそこにいる保証はないからだ。
「はぁ、はぁ……くそっ」
流れる汗は止めどなく、悪態が口をついて出る。
それはなにより俺自身へ向けられたものだった。
この体力のなさが、人の感情の機微への疎さが、歯痒くて堪らない。
かつて俺が不要と切り捨ててきたものが、今になって惜しくて堪らない。
だが、これでいい。
欠けているからこそ、全力を振り絞れるのだ。
それぐらいでないと、きっとあいつが流した涙に見合わない。
「つーか、いねぇし……」
しかし公園に着いたものの、四葉の姿はなかった。
ふらふらと、敷地内に入ってブランコに座り込む。
一気に力が抜けてしまった。
これで五月の差し入れがなかったら干からびていたかもしれない。
「……どうする?」
息を整えながら考える。
当てが外れてしまって、頭の中は見事に空っぽだった。
体力の方も限界が近い。
……いっそ他の姉妹に助けを求めるか。
今更格好がつかないが、俺の事情を抜きにすればその方がいい。
だけどその前に、四葉に電話をかけてみることにした。
きっと出てはくれないだろう。
だがしかし、万が一にでも応えてくれるのなら、その声をまた聞かせてくれるのなら。
縋るような思いで、番号を呼び出す。
「――っ」
息を呑むような声とバイブ音。
茂みが揺れる音に、振り返る。
ベンチのすぐ後ろの植え込みから、見慣れたリボンが生えていた。
「――四葉!」
すかさず駆け寄ろうとしたが、向こうの動きの方が早い。
四葉はあっという間に公園から走り去ってしまった。
「くそっ、結局は追いかけっこかよ……!」
毎度毎度、大事な場面でこうなるのは、最早恒例と言ってもいいかもしれない。
走らされる側からしたらたまったものではないが、全部つぎ込むのならここしかない。
残る体力を振り絞り、悲鳴を上げる脚に力を入れ尽くす。
もう自分がちゃんと呼吸しているのかも怪しいが、幸いな事に視界にまだ四葉を捉えている。
しかし、やはり地力に差がありすぎる。
四葉は既に、橋を渡って川を挟んだ反対側を走っていた。
このままでは遠からず見失ってしまう。
その前に、なんとしても伝えなければいけないことがある。
手に持ったままの携帯が軋むほどの力で握り締めた。
橋の欄干に身を乗り出す。
ここからなら声がよく通るだろう。
そして息を大きく吸い込もうとして、嫌な浮遊感。
ここに来て俺は、自分の体の疲労っぷりを見誤っていた。
体を支えていたはずの手が滑り、俺の体が落ちていく。
手に握っていた携帯が、橋の上に落ちて硬い音を立てた。
視界の上下は反転し、程なくして衝撃が二回。
着水時のものと、水底に打ち付けられた時のもの。
落ちた場所が悪かったのか、川幅の割に浅かった。
おかげで痛みのあまり体が動かせそうにない。
だがなんにしても、これで終わりだ。
勝ちを確信して口元が歪む。
「――風太郎君っ!」
更なる着水音に伴って、水面が揺れる。
……ほら、あのお人好しが助けに来ないわけがないんだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ……け、携帯……橋の、上……俺の」
「動いちゃダメです! 今持ってきますから」
あっという間に水の中から引き上げられた俺は、地面の上にぐったりと座り込んだ。
この千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかない。
携帯を取りに行こうとしたら、代わりに四葉が行ってしまった。
また逃げてしまうことを懸念したが、そんなことはなかった。
「どうぞ」
「ああ、悪いな……」
「……私はこれで――」
四葉が動くのに先んじて、その手を掴む。
疲れ果ててろくに体が動かせずとも、決して離すわけにはいかない。
「……離してください」
「離さねーよ。もう一歩も動けん……お前に見捨てられたら俺はここで死ぬ」
「携帯は無事じゃないですか」
「もしお前が行ってしまうなら、即座に川に投げ捨てる。それでもいいのか?」
「――っ、卑怯です!」
「何とでも言え。……お前に見せたいものがある」
濡れた指先で携帯を操作して、昨日撮った写真を表示する。
バンドを組んでいる三人組、被服部の二人、メガネをかけたおさげの女子。
全員、クラスメイトだ。
「こいつらを見て、なにか気づかないか?」
「この人たちは、まさか……」
「そうだ、全員お前が面倒見たやつらだよ」
そしてどいつもこいつも昨日、俺を伝言板に仕立てあげようとしてきやがった。
もののついでだ、その役割もついでに果たしてやろう。
「お前にお礼を言いたがっててな。せっかくだから手伝ってもらった」
「……え?」
「そして肝心の演劇の方だが……ほら」
「この人……もしかして陸上部の部長さん!?」
見せた写真には、エメラルド女王を見事に演じる陸上部の元部長の姿。
インタビューで放送事故を起こしていた彼女だが、初日から舞台を観覧していたらしい。
四葉のためならと、代役を買って出てくれた。
「でも、衣装は私に合わせて採寸していたはずじゃ……」
「だから手伝ってもらったって言ったろ。被服部の二人だよ」
「そうですか、みんな私のせいで……」
「お前のせいでじゃない。お前のためだから全員協力してくれたんだ」
そう、これも初日にこいつが言っていた、情けは人のためならず、というやつだ。
あるいは因果応報とも言うべきか。
善因には、善果が巡ってくるということだ。
「そんな……だって、私は自分のためにしか動いてなかったのに……」
「それの何が悪い。理由がなんであれ、助けられたという事実には変わりない」
それが偽善だろうと下心だろうと、そこには行動したという結果がある。
その結果が今回、四葉を助けたのだ。
「……かつてのお前との約束が、今の俺を作っているのは確かだ」
「……うん」
「だが、俺がここまで来られたのは今のお前のおかげだ」
「……」
「お前がいなかったら、とっくに躓いて駄目になってた」
「……」
「お前がいると、お前が笑っていてくれると、どうしようもなく安心できるんだよ」
「……風太郎、くん」
その場に座り込んだ四葉の目に涙がたまる。
それを拭おうとした瞬間、急にくしゃみが出そうになって鼻を押さえた。
体が冷え始めたのか、ガタガタと震えて歯の根も合わなくなってきた。
「……このままだと風邪ひいちゃいそうですね」
「あ、ああ……」
「うちに行きましょう。ここからなら近いですし」
「お待たせしました」
「あ、ああ……悪いがシャワー借りるぞ」
ガタガタと震えながら、風太郎は浴室へと消えていった。
この部屋に着いた時、まずどっちが先にシャワーを浴びるかで議論になった。
四葉は風太郎を先に、風太郎は四葉を先にと主張した。
風太郎が疲弊しきっているのは明らかだが、四葉は過労で倒れたばかりである。
どちらにしても、濡れたまま放置していい状態ではない。
結局はどちらも折れなかったため、ジャンケンで決める羽目になった。
その結果、先にシャワーを使うことになった四葉だが、あまり待たせるわけにもいかなかった。
出来うる限り素早く済ませ、風太郎にバトンタッチして今に至る。
リビングに一人佇む四葉は、先ほどの風太郎の言葉を反芻した。
『お前がいると、お前が笑っていてくれると、どうしようもなく安心できるんだよ』
我ながら現金だと思いつつも、心の中の蟠りが解けていくのを感じた。
自分は間違いなく、風太郎にとっての特別だった。
他の姉妹とはベクトルが違うのかもしれないが、それがわかっただけでも十分だ。
四葉は風太郎の言葉を、友愛から来るものだと解釈した。
それは望んでいたものとは少し違うけれど、得難いものには変わりない。
目元を拭って、頬を張る。
今なら普段通りに笑えそうだった。
「あ、そういえば」
自分と風太郎の制服を干すためにハンガーにかけようとして、五月からの頼まれ事を思い出す。
スカートのポケットから預かった紙片を取り出すと、濡れたせいでふやけていた。
もうこうなってしまってはどうしようもないので、素直に謝るしかない。
それとも、最初から挟んでいたことにしておけば問題ないだろうか。
テーブルの上には、同じくふやけた風太郎の生徒手帳が置いてある。
なんとはなしに最後のページを開いて、四葉は固まった。
「これって……」
そこに収められていたのは、風太郎自身の写真だ。
カメラから目をそらしたその被写体に、四葉は見覚えがあった。
そもそも写真はサイズとして中途半端で、まるで半分に折ったかのような――
恐る恐る取り出してみる。
ちょうど、五月から預かった紙片と同じサイズだった。
写真を裏返してみると、そこには自分自身の姿があった。
これはこの前の修学旅行の際、清水寺で二人で撮った写真だ。
風太郎には画像データだけ渡していたのだが、プリントアウトしていたらしい。
どうしてと、頭が疑問で染まる。
なんで他の姉妹ではなく、よりにもよって自分の写真なのかと。
これではまるで……
「そんな、まさかだよね」
口ではそう言いつつも、手の震えは止まらなかった。
『えへへ、写真の子にも会えるといいね』
『ズバリ! お兄ちゃんの初恋なんだよね?』
それは修学旅行前の買い物の際の、らいはの言葉だ。
五月から預かった紙片。
風太郎が生徒手帳に収めていたもの。
半分に折られたそれを開く。
「――あ」
金髪の少年と、髪の長い少女。
かつての風太郎とかつての自分が、その写真の中にあった。
二つの写真を見比べる。
お互いに体は成長したというのに、仕草はちっとも変わっていなかった。
笑みが漏れる、涙が溢れる。
四葉の中の諦念は、消え去っていた。
「ぐはっ」
床に背中を打ち付けられ、肺から空気が強制排出される。
リビングに入った瞬間、四葉のタックルを真正面から受けてこの状態である。
いきなりなんなんだ、一体。
「おい、いきなり何するんだ」
「上杉さん……これ、どういうことなんでしょうか?」
四葉が手に持っているのは二枚の写真。
年は違えど、どちらも俺と四葉のツーショット写真である。
こいつ、手帳を勝手に見やがったのか。
しかしなんで昔の写真まで……
どうしてこうなったかは置いておいて、とにかく普通に恥ずかしい。
羞恥のあまり、俺は顔を手で覆った。
「つーか勝手に見てんじゃねーよ……」
「ご、ごめんなさい……でも、気になっちゃって」
そうか、ならしかたな……くねーわ。
俺のプライバシーだとか、そういうものはどこに行ってしまったのだろうか。
しかしまぁ、ここで吐き出すのにはいい機会なのかもしれない。
俺が口をつぐんでいた事で、こいつが傷ついたのなら尚更だ。
「その、なんだ……気になる子の写真を忍ばせとくって、そんなおかしいか?」
「気になるとは?」
「言ったろ、好きだって」
「他のみんなにも言ってました」
「それはそうだが……お前は特別なんだ」
そもそも俺が恋愛感情を自覚したのはちょっと前だ。
そしてそれに伴って思い出の少女――四葉への気持ちも定まった。
俺はきっと、ずっと好きだったのだ。
「風太郎君……私はずっとずっと好きだったんだよ……?」
四葉の顔が近づき、距離がゼロになる。
その薄赤く頬を染めた切なげな表情は、脳裏に焼き付いた光景を呼び覚ます。
鐘の下でのキス、五月の格好をした――
「……もしかして、二回目か?」
「気づいてたんだ」
「どうにかな」
「風太郎、くん……風太郎君風太郎君風太郎君……!」
再び唇に吸い付かれる。
まるで俺の全てを吸い尽くすかのような、そんな情念がこもったキスだった。
糸を引きつつも、唇が離れる。
俺の上に馬乗りになった四葉の目の色は、すっかり変わっていた。
ああ、やっぱり五つ子だな。
こんなにも疲れ果てているというのに、頭の中でスイッチが入ってしまった。
「――私、もう我慢しないよ」
というわけで終了。
フー君は普段財布に数枚、リュックに箱ごとゴムを忍ばせて使うたびに補充しています。
五月との戦いの後も財布の方に補充したのですが、今回の四葉との戦いで全滅しました。
フー君は体力的に死亡しました。
次は学園祭のシメになると思います。