むしろこれからの方が忙しくなりそう……という予防線。
そろそろ締めに入ろうかと思います。
「いやぁ、すっかり真っ白だね」
制服の上にコートを着込んだ一花が、空を見上げて白い息を吐いた。
通学路には数センチほど雪が積もっている。
多少チラつくことはあっても、このあたりでの積雪は珍しい。
しかし今は一月の半ばを過ぎた頃――所謂センター試験が終わって間もない。
受験生に追い討ちをかけるかのように、丁度この時期は全国的に天気が悪い。
今となっては最早落ち着いたものだが、その影響が積雪という形で残っていた。
「むむむむ……」
マフラーに口元を埋めながら唸っているのは五月だ。
いつものように不安や不満を示すものではなく、そこには逡巡があった。
手に持ったプリントを穴が空くほどに見つめていた。
「五月ちゃん、やっぱ結果悪かったの?」
「う~ん……どうなんだろ? 二乃はなんか聞いてる?」
「悪いというか、微妙だったみたいよ」
センター試験後の登校日は、みんな揃って自己採点である。
その結果を見て、最終的にどの学校に出願するのかを決めるのだが……五月はC判定。
頑張れば志望校への合格に手が届くかもしれない、という微妙な判定だ。
これより良い結果だったら迷わず出願するし、逆に悪かったらランクを落とす踏ん切りもつく。
判定は近年の試験結果を反映した予測に過ぎないが、それでもある程度の信頼性はある。
どっちつかずというのは、本当に判断に困るのだ。
「結局、まともに受験するのは五月だけになっちゃったね」
「私たちは一足先に合格しちゃったしねー」
五月を気遣う三玖に対して、二乃は肩をすくめた。
この二人は冬休み前に、既に専門学校の受験を終わらせている。
進路があやふやだった二乃だったが、とりあえずという形で三玖に付き添うことを決めた。
一人にしたらどうなるかわかったものじゃないという主張だったが、そこはいつものアレだ。
他の姉妹からの生温かい視線に鼻を鳴らした二乃だったが、その次の言葉が空気を一変させた。
『ま、将来の夢はフー君のとこに永久就職一択だけど』
その後に起こったことは語るまでもないだろう。
些細な姉妹喧嘩はいつものことなのだ。
「あはは……受かったのは嬉しいけど、やっぱりちょっと五月に申し訳ないね」
プリントとにらめっこしながら唸る五月を横目に、四葉が苦笑しながら呟いた。
受験は推薦により、姉二人と同様に二学期中に終わっている。
その際の基礎学力を測る試験がまた四葉にとっては厳しかったのだが、そこは無事に風太郎とのマンツーマン授業によって切り抜けることができた。
その授業がこれまた地獄だったのだが、風太郎も別の意味で地獄を見ているのでお相子だろう。
別の見方をすれば天国と言えるのかもしれないが、毎回命の危機に瀕しているということを考えれば、どちらも大差ないとも言える。
新選組局長の討ち死にという事態は、尋常ではないのだ。
「これで後は学年末試験だけだね」
「「うっ……」」
三玖の言葉に、二乃と四葉が顔をしかめた。
受験が終わってもまだ試験が残っているというのは、やはり気が重いものなのだ。
なにしろそこで躓けば台無しなのだから、まだまだ気は抜けない。
卒業するために切り抜けなければいけないのは五月も同じだが、今は受験で手一杯だ。
しかしこの話題において、中野姉妹の中で一番気を揉んでいるのはまた別にいる。
「正直学年末試験とかさ、やる意味あるのかな?」
そう言った一花の表情はにこやかだったが、決して目は笑っていなかった。
休学で二学期の授業と試験を丸々スキップしているので、どこかでその補完をする必要がある。
そこで学校側が特例措置として用意したのが、卒業式後に執り行われる試験だ。
一花にとっては、正真正銘の卒業試験である。
「なんかさ、やるんだったら片方だけでいいよね? わざわざ両方やる必要、ないよね?」
勿論定期試験には、授業内容が身に付いているかを確かめるという目的がある。
それが学年末のものとなれば、一年の総括として範囲も広くなる。
その反面浚う内容も浅くなるため、一花が受ける卒業試験は二学期の授業内容が主となる。
もっと復学が遅ければ試験も卒業式後の一回で済んだかもしれないが、幸か不幸か長期ロケの撮影は年末に終了している。
足りない出席日数の補填という意味合いもあるため、避けることはできないのだ。
「あわわ……どうしよ、一花がなんか闇っぽいオーラ出してる……!」
「自業自得よ。手は出さないで見守っときなさい」
「放っておけとは言わないんだ」
「どうせ言ったって無駄でしょ」
二乃の言う通り、そっとしておく事はあっても、放っておく事はありえないだろう。
こうして三人は、唸る五月と闇を背負った一花を見守りながら登校するのだった。
「ふ、ふふふ……ついにこの時が来たね」
登校直後の朝の時間帯。
中野姉妹に軽く挨拶を済ませて席に着くと、武田が前歯を光らせながら俺の目の前に立った。
またかと思いつつ、目で続きを促す。
「上杉君! センター試験の点数で勝負と行こうじゃないか!」
つまりはいつもの事だった。
春の全国模試以来、武田はなにか試験がある度にこうして勝負をふっかけてくる。
毎度毎度撃退してやっているというのに、本当に懲りないやつだ。
これでは呆れてつい口元が歪んでしまうのも仕方がない。
「君もこの瞬間を心待ちにしてくれていたようで、何よりだよ」
「勝手に決めんな。めんどくせーってだけだ」
「ふっ……照れなくてもいいじゃないか」
「うるせー、おらよ」
パーフェクトスコアを叩きつけると、武田はその場にくずおれた。
せっかくクラスメイトの関心が復学してきた一花に向いているというのに、こいつがこんなことをしていると余計に注目を集めるので勘弁してもらいたい。
まぁ、残念ながら青春クソ野郎という呼び名は全然廃れていないので、俺自身が悪目立ちしているという可能性も無きにしも非ずだが。
他の生徒はともかく、同じクラス内の視線が生温かくなっているのは救いか。
いや、よく考えたらジワジワとダメージ来るやつだな、これ。
「恐れ入ったよ……いや、これは当然の結果なのかもしれないね」
しみじみとした表情で、武田が手に持ったプリントを机の上に置いた。
そこにはセンター試験の自己採点の結果と、志望校の判定が記されている。
満点が数科目、そして合計点は九割といったところか。
判定も文句なしのAだった。
恐らくだが、俺がいなければ堂々のトップだっただろう。
負けるつもりは更々なかったが、油断をしていたら追い抜かれていた可能性もある。
俺が勉強をするのは言うまでもなく自分の将来のためだが、こういうやつの存在もまた原動力になっているのかもしれない。
『君がまだ僕の上にいてくれる――こんなに嬉しいことはないよ』
『それでも、あなたは私の目標なんです』
立場が人を作るとは、どこの誰の言葉だったろうか。
誰かの期待に応えたいとかそういうわけではないが、俺にも意地がある。
少なくとも、自分を見上げてくるやつらの前で、無様を晒すわけにはいかないのだ。
「うげっ、オメーらそこまで行くと逆に気持ち悪ぃわ」
横から俺と武田の自己採点結果を覗いてきた前田が、舌を出して顔をしかめた。
たしかに、凡人には少々刺激が強かったかもしれない。
俺が多額のお金を持つと手汗がすごく出るように、どうしようもない条件反射なのだろう。
「つーか上杉、志望校が空欄だがどーだったんだよコラ」
「……満点ならどこも同じだろ」
「それもそうだ。君だったらSはおろかSS……SSS判定も夢じゃないさ!」
「んだそのスタイリッシュな判定は」
前田の言うスタイリッシュはともかくとして、大学入試の判定はAで打ち止めだ。
そして俺の欄が空なのには理由がある。
そう、単純に受験先を決めあぐねているのだ。
担任からもいい加減に決めろとどやされている。
出願の期限は実際に迫っているので、たしかに余裕はない。
どこにでも行けると太鼓判を押されているが、それがかえって二の足を踏ませている。
これが贅沢な悩みなのはわかっているのだが……
「余計な世話かもしれねーが、話ぐらいなら聞いてやってもいいぜ」
「なに、僕達の仲だ。気兼ねすることはないよ」
前田の言うように余計な世話なのかもしれないが、突っぱねる気は起きなかった。
その程度には、こいつらに俺は気を許しているらしい。
「まぁ、でも君なら最後にはどうにかすると信じているよ」
「だな」
「お前ら……」
二人の眼差しがいやに心に沁みる。
全く、勘弁して欲しい。
最近はこういうのにめっきり弱くなってしまった。
「今でも目を閉じれば思い浮かぶよ……彼女達への愛を叫ぶ君の姿が!」
「この青春クソ野郎がよ!」
こいつら……マジでどうしてくれようか。
後夜祭のことを掘り返してくるのは万死に値するが、そればかりを気にしてもいられない。
クラスメイトの生温かい視線に混じって、一際温度の高いものが多分五つ。
答えなんて確認するまでもない。
あまり揺り動かすと、後でどんな反応が来るかわかったもんじゃない。
それがもし五人同時に重なった日には、それが俺の命日になりかねない。
後夜祭の後の大乱闘は、十分以上に教訓になっていた。
俺自身の想いがどれだけ強くとも、体がついていけるとは限らないのだ。
なので、今朝は机に突っ伏してやり過ごすことにした。
その後程なくしてホームルームが始まったのは、幸いといえば幸いか。
「是非っ、私にもマンツーマン授業をお願いします!」
昼休みの学食、いつもの席で五月がそう切り出した。
トレイの上にはカツカレーが、しかもロースの方なので値段もそれなりだ。
まだまだ節約する必要があるので、俺はいつものアレだ。
同じテーブルの上だというのに、相変わらず食事の格差が酷かった。
今日はこいつの番ということで、他の姉妹の姿はない。
ちなみに、一花が復学したので俺の自由日は消滅している。
月火水木金と、中野姉妹それぞれとマンツーマンの昼食である。
事情を知らない奴からしたら、毎日女を取っ替え引っ替えしているように見えるだろうか。
事実としてその通りなので、残念ながら否定できる要素は見当たらなかった。
どうやら青春クソ野郎という呼び名は伊達ではないようだ……やっぱ辛ぇわ。
「つっても、センター前だってほぼそんな感じだったと思うが」
冬休みからセンター試験に至るまで、家庭教師としての時間はほぼ五月に費やしていた。
他の姉妹も学校の試験が後に控えているのだが、こいつの方がより喫緊だったからだ。
進学しない一花や既に受験を終えた三人と違い、五月はこれからが正念場だ。
必然的に、勉強を見るという意味では優先順位が高くなる。
「今までよりも密にお願いします!」
とはいえ、五月は予備校にも通っている。
となると俺の仕事はその穴埋めのような形になるし、実際そうだった。
それを改めて密にと言うのなら、さらにどこかで時間を取る必要がある。
幸い二月からは自由登校になるので、多少の融通は効くだろうか。
しなければいけない事といえば……他の姉妹の学力を落とさないために適当な課題を与える。
特に二度試験が控えている一花には念入りにだ。
勿論自分自身の勉強もしなければならない。
中野姉妹の面倒を見るのに腐心して転んでしまっては元も子もない。
そして相変わらずな経済状況なので、バイトにも精を出す必要がある。
……よくよく考えたらかなり忙しそうだが、まぁなんとかなるだろう。
好きな女達のために負う苦労ならば、やってやれない事はない。
いや、結局は自分のためか。
だってこれは自己満足なのだから。
「お前がそうしたいなら、俺に断る理由はねーよ」
「ありがとうございます!」
「つーか、あれだ。そこまでやらせといて落ちたら承知しないからな」
「望むところですっ」
念の為に少々圧をかけてみたが、こいつなら心配ないだろう。
自分の夢のために直向きに頑張る純粋さは、この俺も認めるところだからだ。
「と、ところで……マンツーマン授業の後はご褒美がもらえると聞いたのですが……」
もじもじしながら上目遣いでこちらを伺う五月の頬は、何らかの期待からか薄赤い。
マンツーマン授業で思い浮かぶのは、一花と四葉だ。
それぞれ背景に違いはあれど、二人きりで勉強を見てやったのは確かだ。
そしてこいつの様子から、その後の行為についても把握していると見るべきだろう。
それが目的ではなかったのだが、結果的にそうなってしまったという事実も確かにある。
つまり、動機は思いっきり不純だった。
「いたっ……ううぅ~~!」
とりあえずチョップを落としておく。
その後涙目で唸りながら睨みつけてきたため、食後のキスで黙らせておいた。
カレー味でムードもクソもない。
こんな場所でとか、口ではあれこれ言いつつも五月の機嫌は回復した。
多少の人目は引いたが、青春クソ野郎に怖いものなどないのだ。
別の言い方をすれば、ヤケっぱちというやつだ。
「う~む……」
「お兄ちゃーん?」
「う~~む……」
「ごーはーんー!」
カンカンとフライパンを叩く音で、意識が目の前のプリントから引き戻される。
気づけば部屋の中には美味しそうな匂いが漂っていた。
台所には、ソース色の麺が山盛りの大皿。
そういえばと、らいはが焼きそば用の麺が安く手に入ったと喜んでいたのを思い出す。
我が妹はこの年にして、主婦として必要な能力をすっかり獲得していた。
その事が涙ぐましくもあり、同時に誇らしくもある。
いつ嫁に出しても恥ずかしくない、自慢の妹だ。
もっとも、俺の目が黒いうちはそんな事態を許すつもりはない。
しかし、らいはが相手のことを心の底から好きだというのならば……
「――やっぱり駄目だ! 俺は認めないからな!」
「いいからお皿運んで」
「あっ、はい」
泣く子と地頭には勝てないと言うが、俺の場合は妹にも勝てない。
兄の威厳が危ぶまれる事態である。
「今日はちょっと遅いみたいだから、お父さんの分ちゃんと残しといてね」
「五月じゃあるまいし、そこまで食い意地張ってねーよ」
「んふふー」
「なんだよ」
「お兄ちゃんたちはいつ結婚するのかなーって」
今日も今日とて我が妹はマセていた。
中野姉妹の悪影響がしっかりと出ていた。
それはそれとして、期待に目をキラキラさせるらいはは可愛かった。
「結婚って、いくらなんでも気が早すぎるだろ」
「えー? でももう籍は入れられるんだよね?」
それはその通り。
親の同意が必要だが、現状でも法律上の夫婦になることは可能だ。
親父は恐らく反対しないだろうし、五月一人を選ぶというなら中野父も頷くかもしれない。
何より、俺自身もあいつとそういう関係になることはやぶさかではない。
しかしながら、今言ったように気が早い。
もう籍を入れられるとは言うが、俺達はまだ働きに出てすらいない。
俺の意地でしかないが、自立してもいないのにそれをする程、面の皮は厚くないつもりだ。
そして困ったことに、俺がそうなりたいと思う相手はあと四人もいるのだ。
少なくともこの国において、全てを叶えるのは不可能だ。
今更ながら、中野父の諫言が重くのしかかる。
好きな相手と結婚して家庭を作り子供を授かる。
今の時代だと偏見と言われるかもしれないし、そもそも人が思い描く幸せの形はそれぞれだ。
そこを敢えて、それらが人並みの幸せだと仮定しよう。、
俺はそんな絵に描いたような幸せというやつを、叶えてやることができないのかもしれない。
自分の選択に後悔はないし、あの五人を手放す気なんて微塵もない。
それでも、あいつらを俺のわがままで振り回しているという自覚はあった。
「どしたの?」
「いや、幸せって何なんだろうなって」
「お腹一杯食べられること!」
「ごもっとも!」
「あと、お兄ちゃんが立派になってお嫁さんをもらうこと」
「その話はもうやめようぜ……」
「おーう、帰ったぞー」
「あ、おかえりー」
勇也が帰ると、らいはが出迎えた。
ドアを開けると、漂ってくるソースの匂いが食欲を刺激してくる。
食卓の上には、ラップをかけられた大皿が鎮座していた。
どうやら今日の夕食は焼きそばらしい。
「今温めるから、ちょっと待ってて」
「おう、悪いな」
甲斐甲斐しい娘の姿に目を細めながら、勇也は無言で座り込んだ息子に目を向けた。
別段、風太郎が父の帰宅に無反応なのは珍しいことではない。
勉強に身が入りすぎて周りが見えなくなるのは、ままあることだった。
しかし今は問題集や参考書を開いているわけでも、ノートを広げているわけでも、ましてやペンを握っているわけでもない。
ただ手に持ったプリントを見つめ、難しい顔をしていた。
「全く、飯が不味くなりそうなツラしやがって」
「ん、ああ……帰ってたのか親父」
「勉強に夢中って様子じゃねぇな。また人間関係か?」
「いや……」
ここで言う人間関係とはつまり、女性関係のことである。
からかうように笑った勇也だが、風太郎の反応は鈍い。
口には出していないが、それ以外の悩み事があると明言しているようなものである。
ここ一年で思春期らしくなった息子に対して、それなりに関わってきたという自覚がある。
これはまた自分の出番かと意気込むも、その前に湯気を立てる大皿がコトリと置かれた。
「いいからご飯食べちゃって。このままじゃ片付けられないでしょ」
らいはの笑顔の威圧に、勇也はおとなしく従った。
そして最近ますます母親に似てきたと、しみじみと頷くのだった。
「で、今日はどんな悩みだ?」
遅めの夕食を終えた後、勇也は風太郎を外に連れ出した。
幸いにして外の天気は良好、風もなくこの時期にしては過ごしやすい。
残る問題は気温ぐらいなものだが、上杉家の男は風の子なのでへっちゃらなのだ。
「いや、普通に寒いんだが……」
父はともかく、息子は鍛え方が足りないようだった。
というわけで手近な喫茶店に入った二人は、共にコーヒーを注文した。
最初は水だけで乗り切ろうとしたのだが、流石に店員の視線が冷たかったのでそれはやめた。
閉店時間が近いのもあってか人が少なく、落ち着いて話すには丁度いい。
風太郎はポケットから折りたたまれたプリントを取り出すと、テーブルの上に広げた。
「凄ぇじゃねえか。満点か、それ?」
「あくまでも自己採点だけどな」
センター試験はマーク式であり、マークがミスと見なされれば、たとえ正答であっても誤答、もしくは無回答扱いである。
なのであくまで自己採点は、マークミスがなければという但し書きが付く。
その辺の事情は勇也にはよくわからないが、それでも満点が尋常ではないことはわかった。
「大したもんだが、なにか問題でもあるのか?」
「……実は、進路を決めあぐねてる」
「前に東京の大学に行くとは聞いた気がするが……」
良い大学に入って、金を稼げる職に就く。
勉強に没頭し始めた当初、風太郎はしきりにそんな事を口にしていた。
当時は心配と期待をないまぜにして見守っていたが、果たして息子は今や高校生としてはトップの学力にまで登りつめた。
学力という基準だけで見るなら、それこそどこへだって進学出来るだろう。
しかし、それが学費の問題になると話は別だ。
いくらかの備えはあるものの、好きな所に行けと言ってやれるだけの余裕はなかった。
「学費の問題か?」
もっともそれは現状の話であって、もし風太郎が必要だと言うのなら、多少時間はかかってでも用立てるだけの覚悟はあった。
しかし勇也の言葉は、首を横に振って否定された。
身構えていただけに、肩透かしを食らった気分だった。
「別に学費が馬鹿高い所に行きたいわけじゃない。俺の志望は変わらず国公立だ」
「わからねーな。なら何が問題なんだ?」
「いや、単純にどこの学部にしようか迷ってる」
同じ大学とは言っても、学部や学科の違いが将来の道筋に及ぼす影響も無視できない。
当たり前の話だが、学部、学科、専攻していた内容と関連している職業にはより就職しやすい。
大体の人間には得手不得手がある、それによって自分の進路を決めるものも少なくない。
簡単に言えば、文系が得意なら文系の学部に、理系が得意なら理系の学部に、ということだ。
しかしながら風太郎の成績には穴がない。
どこにでも行けるという選択肢の多さが、かえって二の足を踏ませているようだ。
勇也は贅沢な悩みだと思いつつも、それを口に出すことはしなかった。
進路のことは、風太郎自身に任せきりだったという自覚があった。
最終的に決めるのは本人だとしても、親として何か手助けできたのではないだろうか。
大学進学の経験がない勇也ではあるが、それでも将来についての相談には乗れたはず。
つくづく、息子の自主性に甘えていたのだと痛感していた。
「そういうのは自分の得意なものや、やりたい事から考えていくのが相場だが……」
「それがわからないから困ってるんだよ……」
或いは、これも今時の若者として見るなら珍しくはないのかもしれない。
明確な夢や目標を持たなくとも、なんとなくで乗り切っていく者もいるだろう。
思えば、風太郎は金を稼ぐという目的が先行して、その具体的な内容はあやふやだった。
翻せば、目的が達せられるならなんでもいいという事だったのかもしれない。
それが今ではこうして進路に悩んでいる。
それもセンター試験を終えて願書を出す直前の、このタイミングでだ。
間違いなく余裕のない状況。
しかし、勇也は自分の不甲斐なさを感じる一方で、息子の変化に喜んでもいた。
これは間違いなく、中野姉妹と触れ合ったおかげだろう、と。
女は男で変わるとよく言われるが、その逆もまた然り。
「何笑ってんだよ」
「いや、やっぱり男ってもんは単純極まりねぇなって」
「今そんな話してたか?」
「さて、どうだろうな」
とはいえ、進学に関して勇也は門外漢だ。
風太郎の悩みを受け止めるにあたり、不足する部分もあるだろう。
なので差し当たって必要なのは、その道に長けた助っ人。
勇也はコーヒーを飲み干すと、メッセージを送るために携帯を取り出すのだった。
「いやー、まさか上杉の息子の進路相談にも乗る日が来るなんてな!」
「おう、いっちょ揉んでやってくれや」
所は打って変わってどこぞの居酒屋の個室。
俺は親父を隣に、呼ばれてきた助っ人二人と対面して卓に着いていた。
助っ人その1は、スーツ姿でメガネをかけたショートヘアの女性だ。
その顔には見覚えがあった。
確か学園祭で、無堂と対峙した場にいた人だ。
言葉を交わしたことがないため、ただ単に親父の知り合い程度の認識しかない。
「私は下田ってもんだ。塾講師をやってる。嬢ちゃんから聞いてねーか?」
「お世話になってる塾講師の先生がいるとは」
「そう、それ私」
五月から多くは聞いていないが、それにしたって想像から外れていた。
なんというか、口の悪さが隠せてないという印象を覚えた。
それに加えて目つきが悪……眼光も少々鋭い。
あまり人の事を言えないというのは、ひとまず置いておこう。
「上杉とは高校時代につるんでたんだ。ちょいと口が悪いのは目をつぶってくれな」
「もしかして、五月の母親とも?」
「ご明察。しかし零奈先生の娘に上杉の息子……人生わかんねぇもんだな」
しみじみと細められたその目は、やはり眼光の鋭さが目に付く。
しかし親父の高校時代の知り合いと言われれば、それも納得だ。
当時の親父はバリバリの不良。
つるんでいたとなれば、この人も同じだったと考えるべきだろう。
それが今や塾講師なのだから、本人の言う通り人生とはわからないものだ。
ひょっとしたら、この人にも何か切っ掛けがあったのかもしれない。
その先の生き方を変える出会いというのは、俺にも覚えがある。
ぶっちゃけると共感を覚えるところもあり、ちょっとした柄の悪さも親しみを覚える一因だ。
あの場にいたということは、俺と中野姉妹の関係も知っているはずなのだが、それで変な目を向けてこないのも正直ありがたかった。
その隣に静かながらも威圧感を放つ存在がいるので、それも一入だ。
「んでマルオよ、お前はいつまで黙ってるんだよ」
「……さて、そもそも僕は何故呼ばれたのだろうね」
親父に水を差し向けられてようやく口を開いた中野父が、助っ人その2である。
心強いかどうかはともかくとして、人選的には謎である。
そもそも親父が素直に呼んだところで、来そうにはない人なのだが……
「もちろんこいつの進路相談のためだが」
「娘達に関する重大事だと聞いたのだが」
なんて事を言ってくれたんだ、この親父は……!
協力を求めてくれたのはありがたいが、呼び出し方があんまりだった。
抗議の視線を送るが、任せろと言わんばかりに親指を立てられた。
中野姉妹を餌にした親父と、ロクに確認も取らずに飛んできたであろう中野父。
下田さんの呆れるような視線は、果たしてどちらに向けられたものか。
「風太郎の事ともなれば、嬢ちゃん達にとっても他人事じゃねーだろうよ」
「馬鹿馬鹿しい、帰らせてもらおう」
「あーあー、もしこいつが受験に失敗したら、嬢ちゃん達はどう思うかねー?」
「上杉、貴様……!」
喜々として煽る親父と、明らかに冷静さを失いつつある中野父。
それぞれにいい加減にしろだとか、落ち着いてくださいだとか言いたいことはあった。
しかし、今の俺は指をくわえて震えて見ているだけ。
率直に言うと中野父が恐かった。
「そこまでにしとけ、二人とも。ガキの前でガキになってどーすんだよ」
「っと、それもそうか。悪い、ちょっと悪乗りが過ぎたな」
「呼びつけたんだから奢れよな、上杉」
「ガハハ、当然そのつもりだ!」
「だそうだ、院長先生。せっかくここまで来たんだ、話を聞くぐらいはいいんじゃねーか?」
「……そういえば、夕食がまだだったね」
中野父は嘆息すると、メニュー表を手に取って開いた。
ひとまずこの場に留まるつもりらしい。
俺の心情的にはあまり楽ではないのだが、心強くはあるかもしれない。
「では、この特上海鮮丼と白子の天ぷらを」
「あ、これ見よがしに高いのを選びやがったなテメー」
「ふむふむ、なるほど……」
「ほう、これは……」
下田さんと中野父が、俺の自己採点結果を覗き込む。
柄にもなく緊張してしまうのは、曲がりなりにも自分のために動いてくれているからだろうか。
「なんつーか、この結果でそんな事言ってるのを聞いたら、うちの生徒が憤死しそうだな」
憤死とは、憤慨のあまり死ぬことである。
世界史を履修していると、時折出てくる言葉である。
そのケースについてはいくつかパターンがあるが、その場でパッタリと倒れて死んでしまう……というのが一番わかりやすい例だろうか。
それはきっと、怒りによる血圧の高まりがアレコレと悪さをした結果なのだろう。
憤死という言葉に関する考察はともかくとして、概して受験生はセンシティブなのだという。
自分で言うのもなんだが俺は例外として、五月でそこらへんの事情は十分に味わったつもりだ。
だからまぁ、憤死は言い過ぎにしても、ブチギレるというのは恐らくその通りなのだろう。
「まぁ、実績が欲しい連中はここぞと難易度高いとこを勧めるだろーな」
「下田さんも同じ考えですか?」
「とりあえずな。学部学科に関しては、入ってから転籍するなりで修正の効く部分もあるからな」
その転籍という制度については、寡聞にしてあまり知らない。
恐らくだが、同じ大学内においてなら制限はつくものの、所属を変えられるのだろう。
流石に塾講師ともなれば、進路についての話題に強いということか。
「しかしわからないね。本来なら、僕達よりも先に頼るべき相手がいるはずだと思うが」
中野父の話は至極正論だった。
本来ならば真っ先に担任に相談するところである。
今までもそうする機会はあったはずなのだ。
これはやはり、俺が成績を盾に干渉を避けてきたところが大きい。
「んな堅ぇこと言うな。風太郎は俺を頼って、そして俺がお前らを頼った。それだけだろ」
「ま、親を頼るのは自然なことだわな」
「それは大いに結構。しかし、この段階に至っては出来ることが限られているのも確かだ」
その言葉を噛み砕くなら、相談するならもっと早くしなさい、といったところだろう。
これに関しては、担任に相談してもほぼ同じことを言われてしまうだろう。
中野父の視線は冷たさこそないものの、呆れの成分は多分に感じられた。
「そりゃあ院長先生の言う通りだ。これで成績が悪いなら口の出しようもあるが、満点ときた」
「そこは塾講師の手腕でどうにかならねぇのか?」
「つっても、うちらのメインの仕事は勉強を教えることだしな」
「やりたい事がわからない……そういう生徒は、僕が高校生の時分にも少なからずいたね」
「そうしみじみと語られると、俺らも年食ったなって感じがしねぇか?」
「それを独身の私の前で言うお前は、ノンデリの化身かよ」
どうやらミスターノーデリカシーの不名誉は、父親側の遺伝によるものだったらしい。
今までの中野姉妹の冷たい視線の半分は、親父のせいだったということにしておこう。
にわかに浮つき始めた空気に、中野父が眉間のしわを揉みほぐしていた。
高校生だった時も、こうやって二人に振り回されていたのかもしれない。
俺としては共感を覚えるところである。
しかしこの人にも、ファンクラブの会長を勤めていたという過去がある。
そんな剛の者が、ただただやられていたわけではないというのは、容易に想像できた。
「時に上杉君、君は読書を嗜むのかい?」
「参考書や問題集なら熟読してます」
「それを読書と呼ぶのには、いささか抵抗があるね」
とは言っても、そもそもうちには読書を嗜むための経済的余裕がない。
図書館に行っても基本勉強なので、腰を据えて読書した経験は恐らくそれ程ない。
一番記憶に新しいのは、三玖に対抗して戦国時代に関連した書籍を読みあさった時か。
「5W1Hというのはミステリーなどで頻出するものだが、君も聞いたことはあるだろう」
「英語の授業でなら」
誰が、いつ、どこで、何を、何故、どのように……これらを指す英単語の頭文字の集まり。
英文を構成したり読み解く上で引き合いに出される考え方だ。
「思うに、今の君に重要なのは『どこで』でも『何を』でもなく、もっと根本の部分だろうね」
どこの大学で何を勉強するのかではなく、何故大学に行くのか。
中野父が言っているのは、そういうことだろう。
言うまでもなく、将来稼げるようになるためだ。
しかし、さらにその理由まで問うのなら……
「俺は――」
家族に楽をさせてやりたいという思いは変わらない。
誰かに必要とされる人間でありたいし、親父に対する憧れも相変わらずある。
しかし、その上で更に上乗せするものがあるとしたら――
「俺は、あいつらを養えるだけの収入が欲しい……!」
世の中は大体金だ。
将来一緒にいたいというのなら、そう出来るだけの収入がないと話にならない。
それを自分一人の力で稼ぐというのは、前時代的な考えと言われてしまうかもしれない。
しかし、それが俺が自分に課す最低限のラインだ。
「一つ言っておくが」
「はい」
「僕はまだ、君達の仲を認めたわけではない」
「は、はい……」
途端に増した威圧感に、冷や汗が流れる。
つい勢いで言ってしまったが、この場においてはそれこそセンシティブな話題だ。
席を立つと、中野父は個室の出口へ。
機嫌を損ねてしまったのだろうか。
「わかっているとは思うが、時間はあまり残されていない。せいぜい自己分析に励むといい」
言葉には少しトゲがあった。
何というか、端々から好意的ではないオーラがにじみ出ている気がした。
それが残念である一方、納得は確かにあった。
何故なら、らいはがもし彼氏を連れてきたら、俺もそいつに喧嘩を売る自信があるからだ。
「その上で医学の道を志すなら、微力ながら力になろう」
「決して楽な道ではない。しかし、君ほどの意地の持ち主なら、きっとやり遂げるだろう」
振り返らずにそう言い残して、中野父は去っていった。
言葉の温度差で、まだ何を言われたのか把握しきれていない。
なにか、今までからは考えられないような事を言われたような気もする。
「こりゃ驚いた。随分認められてんな、お前の息子」
「へっ、マルオの野郎め、普段からそうやって素直に喋ればいいのによ」
この二人の言うことはともかくとして、ここは好意的に声援を送られたと解釈しよう。
「そんじゃま、私もここいらで退散するとしますかね」
「悪ぃな、急に呼び出しちまって」
「たまには悪くねぇさ。それこそプチ同窓会ってやつだな」
「今日はありがとうございました」
「つっても、大したことは言っちゃいねぇが。ま、賑やかしみたいなもんだったな」
カラカラと笑うと、下田さんも立ち上がって出口の方へ。
そして去る前にこちらを振り返った。
「もし興味があんなら、教職もおススメだ。話を聞く限り、そっちも相当なもんらしいからな」
「もしかして五月に?」
「はは……スッゲー惚気けられてる」
「……なんか、すいません」
「まぁ、せいぜい悩んで頑張んなよ、色男!」
こうして助っ人達は去っていった。
色々と話を聞いてもらったが、実のところ状況は変わっていない。
相変わらず道は定まらないままだ。
しかし、俺の心境はどうだろうか。
刻限が迫りつつあるというのに、焦りが少し薄らいだような気がした。
「風太郎、俺達もそろそろ出るか。らいはに留守番させちまってるからな」
「ああ。せっかくだし、なんかお土産買ってこーぜ」
「寒っ」
屋内の暖かさに慣れると、外に出た時の寒さが辛い。
風はないが、少し雪がチラついていた。
この分だと積もりはしないが、視覚的には寒々しい。
「ガハハ! お前もまだまだだな、風太郎!」
「うるせー、てか俺より薄着なのになんで平気なんだよ」
「そこは鍛え方だな。四葉ちゃんもそういうとこあるだろ」
「あいつは何というか……もう別の生き物だよ」
それほどまでに、あいつは体力のパラメーターが振り切っている。
それは学園祭の最終日から今日に至るまで、身をもってたっぷりとわからせられてきた事だ。
小手先の技術ではどうしようもない事があるのだと、まざまざと思い知らされた。
「お前、仮にも付き合ってるのにその言い草はどうなんだ?」
「それこそ余計なお世話だぜ」
「……しかし、東京か。つーことは、お前も家を出てくわけだ」
「なんだよ、改まって」
「男はいつか親元を離れるもんだと思ってたが……中々に寂しいもんだ」
「……気持ち悪ぃんだが」
「まぁ、そう言うな」
本当に、こういうのはやめてほしい。
いつもカラッとしている親父がこれでは、俺も湿っぽくならざるを得ない。
「離れて暮らすようになったら、こういうのを伝える機会も減っちまうからな」
「だとしても気が早すぎだろ。まだ試験を受けてすらいないってのに」
「だがお前が受けるとなれば、もう受かったも同然だろ」
「だから気が早いっての。まぁ、落ちるつもりはないが」
親父は不敵に笑ってみせた俺の頭に手を伸ばそうとして、胸元を拳で軽く叩いてきた。
どうやら、いつもの子供扱いとは少し違うようだ。
「お前も伝えたいことがあったら、しっかり伝えとけよ」
「……わかってるよ」
「ならいい」
あいつらに伝えたいことを伝えるために、俺は一つの決意を固めた。
「ただいまぁ……」
疲労を滲ませながら、一花が帰宅した。
長期ロケは終わっても、次から次へと仕事が舞い込んでくる。
なんとか卒業試験は切り抜けたものの、普通に忙しかった。
今日は朝が早かったため夕方前の帰宅となったが、いつもならもう少し遅い。
「「「「…………」」」」
しかしながら、リビングの空気は沈み込んでいた。
心配しつつも、一花はどうしたのと問うことはしなかった。
何故なら、妹達の心境は痛いほどよく分かるからだ。
「えっと、その……フータロー君は?」
「……もうちょっとで着くって」
一花の声になんとか応えたのは三玖だった。
いつも前髪で目元が隠れがちだが、最近はそれに輪をかけて影が覆っているように見えた。
他の姉妹に目を向けるも、状態に大差はない。
五月は一人前の食事しか摂らなくなり、元気印の四葉はリボンを萎れさせていた。
二乃なんて薄らと涙目ですらあった。
それもこれも全ては二月の始まり、風太郎の言葉に端を発している。
『これからしばらく、そういうのはなしだ』
そういうのが何かと言うと、性的な接触である。
当然姉妹から不満は噴出したが、結局は納得した。
風太郎に大一番が控えているのは、全員が知るところだったからだ。
受験を終えた二乃、三玖、四葉も学年末試験が控えているし、一花はさらに卒業試験もある。
五月は完全に風太郎と同じ立場なので、余裕は一層なかった。
人間、余裕がないときは余計な考えも起こらない。
翻せば、暇ができればその余地が生じるということだ。
順に試験から解放されるにつれ、中野姉妹にフラストレーションが溜まっていった。
それを真っ先にぶつけに行ったのは、やはりというか二乃である。
風太郎の試験も終わり、後は合格発表を待つのみとなったタイミングでだ。
『わ、悪い……せめて合否がはっきりするまで待ってくれ』
その時の焦った様子から、なにか隠し事があるのだと二乃は確信した。
そしてそれをすぐさま、それを姉妹で共有した。
そういう接触がないとは言っても、風太郎は普通に家庭教師としての仕事はこなしていた。
しかし、二月に入ってからはほとんどが自由登校のため、自ずとそれ以外の接触の機会は減る。
そこに隠し事の情報が加われば、余計な考えを助長させるのには十分だった。
つまり、自分達といない間に風太郎は何をしているのだろう、と。
それまでなら勉強だと信じることができたのだが、前期日程はもう終わっていた。
万が一の後期日程に備えている可能性もあるが、風太郎が落ちる心配は微塵もしていなかった。
四葉がらいはと接触して確認してみるも、あまり家にいないからわからない、とのことだ。
そして卒業式を終えて一花も晴れて卒業を迎え、五月もつい昨日見事に桜を咲かせた。
風太郎の合格発表も同日であり、見事合格したとの知らせと共に、このメッセージである。
『話したいことがあるから、明日の夕方そっちに行く』
姉妹の脳裏に不安が過ぎったのは誤魔化しようがない。
恋人らしい行為も減り、顔を合わせる機会も減った。
そして相手には何やら隠し事がある。
そんなことはありえないと思いつつも、姉妹の頭の片隅には別れ話の三文字が居座った。
おかげで四人はこの様子であり、一花もなんとか見栄を張っている状態だった。
「「「「「――っ」」」」」
そして来訪者を知らせるチャイムが鳴り、五人は一斉に息を飲んだ。
互いに顔を見合わせる中、どうにか一花が動いて応答した。
「――うん、いいよ。鍵開けとくから入っておいでよ」
玄関の鍵を開けてリビングに戻ると、一花はソファーに座り込んだ。
張り詰めた沈黙がしばらく続き、玄関のドアを開ける音。
そして、風太郎がリビングに姿を現した。
「よう、お前ら。いきなりで悪い――って、どうしたんだよ」
リビングに入ると、何やら重い沈黙が蟠っていた。
どいつもこいつも暗い顔をしているが、また喧嘩でもしたのだろうか。
まず近くにいる三玖に訪ねようとしたのだが、顔をそらされてしまった。
その後も順々に確認を取ろうとしたが、誰一人として目を合わせようとしない。
順番的に最後になった一花だけは顔をそらさなかったが、俯いたまま黙りこくっていた。
その肩が震えているように見えるのは、俺の気のせいだろうか。
触れようと手を伸ばそうとして、不意に一花が顔を上げた。
「あのさ、フータロー君……話してもいいよ。覚悟は出来てるからさ」
「えっ、ちょっと待て……まさか気づいてたのかよ」
「薄々とだけどね……」
誰にも言ってなかったはずなのに、どこから情報が漏れたというのか。
姉妹間で目配せをしているところを見ると、全員が知っているようだ。
もしかすると二乃に詰め寄られた時に、何かを察せられてしまったのかもしれない。
あの時はまだモノの準備が出来ていなかったため、誤魔化すしかなかったのだ。
こうなると下手な演出は逆効果か。
どう渡したものかと、最近はそれに頭をひねらせていたが、いい加減面倒になっていた所だ。
リュックの中から取り出したそれらを、一人一人に押し付けていく。
中野姉妹は揃ってキョトンとしていた。
くそっ、しらばっくれやがって……バレバレの中で敢行するサプライズは惨めなんだぞ!
「なにこれ……箱?」
「そういうのはいいからさっさと開けてくれ」
とは言っても小っ恥ずかしいので、腕を組んで目は閉じておく。
これならどんな反応が飛んできたとしても、初撃はしのげる。
状況的に五連撃だろうから、無事に済むかどうかは怪しいが。
もしかすると悶死してしまうかもしれない。
「…………」
しかし、どれだけ待てども中野姉妹からのリアクションはなかった。
どうしたのかと薄目を開けてみると、眼前に同じ顔が五つ。
中野姉妹が、俺の顔を下から覗き込むようにして迫ってきていた。
「おわっ」
驚いて尻餅をついてしまった。
こちらを見下ろす五つ子は無表情。
正直言ってかなり怖かった。
「ねぇフータロー君……これ、なに?」
「み、見たらわかるだろ」
「指輪、だよね」
「そ、そんなにおかしかったか?」
恐怖か焦りか羞恥か、理由は判然としないが汗が頬を伝う。
俺はまた、何かをやらかしてしまったのだろうか。
疑問に答えるように、二乃が堰を切ったように叫んだ。
「だっておかしいじゃない! もう、別れるのにぃ……指輪、なんてぇ……」
そしてその場に泣き崩れてしまった。
咄嗟に抱きしめたが、何が起こっているのかまるでわからない。
思いがけない言葉に、頭がすっかり混乱していた。
別れる……誰と誰が?
「俺達、別れるのか?」
「フータロー君は、その話をしに来たんじゃないの?」
「え?」
「……あれ?」
無表情だった四人の顔が、困惑に染まっていく。
二乃の泣き声をBGMに、俺達はしばし見つめ合うのだった。
「ふむふむ……じゃあ、私たちに内緒でアルバイトに精を出していたと」
「ああ……少し自分で使える金が欲しくてな」
「私は受験勉強で手一杯だったというのに、随分と余裕だったんですね」
「勉強だってしてたに決まってんだろ。おかげで毎日寝不足だったぜ」
「む~~、どうして言ってくれなかったの?」
「いや、バイト増やすなんて言ったら、絶対金の使い道聞かれるだろ」
「そんなにこの指輪のこと、隠しておきたかったわけ?」
「……悪いかよ」
「やっぱりあんた、勉強は出来るけどバカよね。ま、私は信じてたけど」
他の四人の視線が二乃に突き刺さる。
どの口が言ってるのかと、目で語っていた。
俺もそう言ってやりたかったが、何よりも泣き止んでくれたことにホッとしていた。
バカという言葉も甘んじて受け入れるしかない。
報告、連絡、相談が大事だというのは言うまでもない。
中野父にも、やんわりと釘を刺された部分である。
それでこいつらを不安にさせてしまっていたのだから、反省するべきだろう。
サプライズを図るにしても、もう少し周りに目を向けるべきだった。
五月に言った通り、他のタスクも同時進行していたため、少々どころではなく余裕がなかった。
「良かった~……じゃあ私たち、愛想を尽かされちゃったとかじゃないんだぁ」
リボンがすっかり元通りになった四葉が胸を撫で下ろした。
それこそありえないが、そんな不安を抱かせてしまったのは俺自身の行動が原因だ。
仮にもっとセンターの結果がもっと悪ければ、勉強以外をしている余裕もなかっただろう。
そうしたら今日みたいに、二乃を泣かせてしまうこともなかったのかもしれない。
いやでも、それだとこうして指輪を買うだけの代金は捻出できなかったわけで……
なんにせよ、結局は俺の自己満足に帰結しそうだ。
本当に、これでは本末転倒もいいところだ。
「ね、フータロー。これ、はめてみてもいい?」
「ああ、そのために用意したんだからな。右手の薬指ならぴったりなはずだ」
三玖は右手の薬指に指輪を収めた。
それにならって、他の四人も同じ場所に指輪をはめていく。
問題なく収まったようで、俺はひとまず胸を撫で下ろした。
「本当にぴったりだけど……これ、いつサイズ測ったのよ」
「あれだけ触ってりゃ大体わかるだろ」
どんな機会かは伏せておくが、中野姉妹と指を絡ませ合うのは珍しい事じゃない。
なんとなくではあるが、各々の指のサイズは大体把握していた。
「そ、それはまた……フータロー君らしい、のかな?」
「後夜祭の時といい、あんたちょっと目の付け所おかしくない?」
「正直ちょっと引きました」
「うるせー、いらねーなら回収するぞ」
すると、全員が右手を隠すように背中に回した。
どうやら返すつもりはないらしい。
こちらとしても、そんなことをされたら心が砕け散る自信しかないのだが。
せめて素直に喜んでくれたらとは思うが、そんな状況を用意してやれなかった俺の責任もある。
「あれ、指輪の裏に……FとY? 何かの暗号かな?」
「それは多分、風太郎と私たちのイニシャル。私のはFとMだし」
「イニシャルって……あんた、まさかこれペアリングなの!?」
「まぁ、店員に相談したらあれこれと勧められてな」
ちなみに一花と五月はイニシャルが被るので、後ろに続く小文字を一文字プラスしている。
それにしても、注文した時は店員の目が痛かった。
それぞれ違う相手とのペアリングを五組も頼んだのだから、ドン引きされるのも仕方ない。
ペアの都合上、俺の分の指輪は五つ。
全てはめるのは無理そうだったので、今はチェーンに通して首から下げている。
「それが俺の気持ちだ。独りよがりだが、向こうに行く前に伝えておきたかった」
会えない時間が増えれば、寂しい思いをさせることになる。
だからこんなプレゼントを用意した……というのは建前だ。
本当は自分のために用意したものだ。
離れても安心できるように、今の関係を示す何かを形に残して渡しておきたかった。
言ってしまえば、俺の独占欲の塊と言ってもいいかもしれない。
そして、この指輪にはもう一つ意味がある。
「俺は多分、お前達に人並みの幸せってやつを叶えてやることはできない」
中野父が言った通り、今のこの国に俺達の関係を許容する決まりはない。
全員と籍を入れるのは不可能だし、関係を維持する都合上、それなりの制限がつきまとう。
少なからず、窮屈な思いをさせることになる。
「だけど……今は無理でも、将来は必ず人並み以上に幸せにすると誓おう」
たとえ世間一般の範から外れたとして、それは幸せを諦める理由にはならない。
人並みの幸せが望めないなのなら、それ以上の幸せで埋め尽くそう。
「だからその指輪は、この約束の証として受け取って欲しい」
伝えたいことを言い終えて、そっと目を閉じる。
中野姉妹の了解を得てない以上、これはまだ独りよがりでしかない。
正直に言えば、首を横に振ることはないとわかってはいる。
それでも不安をぬぐい去ることはできない。
現実を突きつけられて目が覚めることだってありえるからだ。
この目を開いたとき、五人ともそこにいてくれるだろうか。
誰かが去っていくとして俺は引き止めるのか、黙って見送るのか、それとも――
「あなたは本当に仕方のない人ですね」
不意に手が握られる。
目を開けると、五月が俺の手をとってこちらを見上げていた。
「私はもう言いましたよ。この手を絶対に離さないと」
「全く……相変わらず重いな、お前は」
「今日の上杉君には言われたくありませんね」
「ならお互い様だ。俺も絶対に離してなんかやらねーぞ」
「ええ、そうしてください」
五月は微笑むと姉妹を見回して頷き、他の姉妹も同じように微笑んだ。
その中には呆れだとかも見受けられるが、何よりも笑ってくれたのが嬉しかった。
「まぁ、その……なんだ? ここ最近、俺も寂しかったっつーか」
「それはフータローの自業自得。私はもっと寂しかったもん」
「うっ……す、すまん」
「もう、本当だよ。ほら、風太郎君はちゃんと謝って」
「ごめんなさい」
「よしよし。それでフータロー君、何か提案しようとしたんじゃないの?」
「ああ、そうだな。せっかくだし、全員で卒業旅行に行かないか?」
「いいんじゃない? それでどこ行くのよ」
「予約も行き先もこれからだ。まぁ、俺の予算的に国内になるとは思うが」
費用の相場は知らないが、国内と国外ではやはり値段に開きが出てくるだろう。
指輪の代金の残りに、これからかき集める分をプラスしても、国外はちょっと厳しい。
「って、おっそーい! 普通そういうのはもっと前に予約しとくものなのよ!」
「いや、受験が終わってもいないのにそれはどうなんだよ」
「そういうものなの!」
「は、はい」
二乃の剣幕に押し切られて頷いてしまった。
もっと前からと言うが、もし受験に失敗した時は残念なことにならないか?
すごい勢いでスマホを弄り始めた二乃に恐縮していると、袖が控えめに引っ張られる。
三玖だった。
「行き先で何か希望でもあるのか?」
「それはどうせ一致しないから、ひとまず置いとく」
たしかに、行きたいところを聞いたとして意見が割れる未来しか見えない。
とは言っても、叩き台を出さないことには話も進まないのだが……
「私、寂しかったんだよ?」
「ああ、俺もな」
「じゃあ、いいよね――んっ」
言質を取ったと言わんばかりに、唇を塞がれる。
しっかりと舌も侵入してきて、やる気満々の様子だった。
当然、他の姉妹もそれを黙って見守っているほどおとなしくはない。
……もしかして、ピンチなのでは?
「ちょっと、人が一生懸命旅行先をピックアップしてる時に何してるのよ!」
「お構いなく。二乃はそのまま続けてて」
「お構うわよ!」
二乃は俺を三玖から引き剥がすと、これまた強引にキスしてきた。
グイグイと押し付けられる体の柔らかさに、段々と理性が溶け出していく。
ここひと月以上ご無沙汰だったのは俺も同じなので、我慢がきかなさそうだ。
とは言っても、この状況はあまりにもよろしくない。
下手をしたら俺は死ぬ。
「に、二乃……一旦落ち着こうぜ」
「ここをこんなにして何言ってるのよ」
「ははは、何のことやら……」
密着しているので、当然俺の息子の状態も把握されていた。
どうにか離れようと腰を引くが、さらに背中から抱きついてくる奴がいた。
振り返ると存在を主張するリボン……四葉だ。
「よ、四葉……そんなに体を擦り付けられると、何というか……」
「ウサギってね、寂しいと死んじゃうんだよ?」
「そ、それは都市伝説――」
「だから、風太郎君には寂しくさせた責任を取らなくちゃ……ね?」
耳裏をかすめる吐息が、抵抗しようとする意思を奪っていく。
まずい、このままでは……
「お、親父さんが帰ってくるんじゃないのか?」
「フータロー君は心配性だなぁ。お父さんは忙しいから今日はいないよ」
「明日は私の合格祝いをしてくれるそうです」
絶望的なインフォメーションに、いよいよ抵抗の力が抜けた。
押し倒される、あるいは引き倒されるように床に倒れ込んでいく。
早速と言わんばかりに、中野姉妹は自分の衣服に手をかけ始めた。
現実逃避気味に高い天井を見上げる俺の顔を、一花が覗き込んできた。
「フータロー君も寂しかったんでしょ? なら私たちにいっぱい甘えてよ」
その甘い声に、理性がグズグズに溶かされる。
そのまま落とされる唇を、ただただ受け入れた。
東京に行けばしばらく出来なくなる事を考えれば、思う存分やっておくべきなのかもしれない。
……いや、やっぱ死ぬなこれ。
「では、いただきます」
上に跨ってきた食いしん坊の言葉を皮切りに、俺は考えるのをやめた。
というわけで終了。
旅行先の予約はマルオの伝手でなんとかしてもらいました。
これはもう頭が上がりませんね。
ちなみにフー君はT大の法学部に進学しました。
多分、次回で最後になると思います。