フー君が思春期の青い衝動に振り回される話   作:kish

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フー君が父親から渡されたアイテムを使う日は来るのか……!


シスターズウォー・一日目その1

 

 

 

「いよいよか……」

「いよいよだね!」

 

 なんやかんやあったが、今日は修学旅行当日。

 中野姉妹との顔合わせを考えるといまいち気乗りしないが、らいはの気合は十分だった。

 準備に関しても色々と手伝ってくれたし、なんなら俺よりも楽しみにしていた節がある。

 我が妹ながら、とてもよく出来たいい子だと言わざるを得ない。

 

「そういえば五月さん大丈夫かな? あの後急に帰っちゃったけど」

「……心配すんな」

 

 とは言ってみたが、正直な所俺にもどうなっているのかはわからない。

 五月が何故あんなことをしたのかもだ。

 俺の中でも整理はついていないが、今は目の前の行事が優先だ。

 あいつに偉そうなことを言った手前、俺が過去にこだわっていては格好がつかない。

 

「帰ってきたらいっぱいお話聞かせてね!」

「ああ、土産は奮発できない分、そっちは期待しててくれ」

 

 ともあれ滅多にない機会なので、できる限り楽しむとしよう。

 そうしたらあのお人好しのお節介も安心して修学旅行を満喫できるだろう。

 

「おう、風太郎! 日課はきっちり済ませたか?」

「お兄ちゃん、日課って?」

「は、ハハハハ……ちょっとした精神統一だ精神統一!」

 

 この親父はらいはの前で何を言っちゃってくれてんだ……!

 親父の言う日課が示すものはおそらく、俺の内なる青い衝動の発散にほかならない。

 バレないように朝早くに行っているというのになんで把握されてんだ!

 非難の目を向けると、ちょいちょいと手招きされる。

 しかたなく近寄ると、親父は俺の肩に手を回してらいはに背を向けさせた。

 内緒話の体勢だ。

 

「修学旅行に行くにあたって、お前に渡しておきたいアイテムがある」

「……なんだよ」

「これだ」

 

 親父が差し出したのは手のひらサイズの四角く平べったい包装。

 浮き出た形から、中に輪っか状のものが入っているのがわかる。

 見ようによっては駄菓子に見えなくもないが、0.01と表記されているのがまたよくわからない。

 

「親父、これは?」

「まったく、こっちの方は勉強不足もいいとこだな」

 

 呆れるように嘆息すると、親父は耳打ちしてきた。

 正直煩わしかったが、予想外のワードに俺も動揺せざるを得なかった。

 

「こっ、こここ、コンドー……!?」

「使えというわけじゃないが、もしもの時のためだ。旅行中のテンションでって話も少なくないからな」

 

 こんな話題なのに妙に真面目くさった顔をするものだから、反論すらできなかった。

 手に握らされた近藤さんを呆然と見つめる。

 

「よし、じゃあ行ってこい!」

「いってらっしゃーい!」

 

 背中を叩かれて送り出される。

 突き返す暇もなかった。

 ずっと手に持っているわけにもいかないので、とりあえずポケットに入れておく。

 大丈夫だ、気をしっかり持て。

 親父がこれを渡してきたのは、あくまで俺を心配してのことだ。

 要は俺が気をしっかり持てばいいだけなのだ。

 

 

 

 

 

 修学旅行当日の朝、駅の構内は旭高校の生徒で賑わっていた。

 中野姉妹はその中で風太郎の姿を探す。

 班は別だが一緒に行動したいというのは姉妹の大体の総意だった。

 

「ううぅ……」

「五月ちゃん? 歩きにくいんだけど」

「お、お気になさらず」

「いや、お気になさるでしょ」

 

 五月は一花の背中に張り付くように身を隠しながら辺りを見回す。

 風太郎を意識しているのは他の姉妹と同じだが、その様子は捜索というより警戒だ。

 尋常ではない妹の様子に一花は困惑するが、とりあえずしたいようにさせることにした。

 

「ひとまずはフー君についていかなきゃね」

「二乃、そのフー君やめて」

「いやよ」

「あっ、上杉さーん!」

 

 目標を見つけた四葉が大きく手を振って存在をアピール。

 一花は足早に風太郎のもとへ行ってしまった。

 盾を失った五月は今度は二乃の後ろに隠れた。

 

「フータロー君、今回はちゃんと集合時間に間に合ったね。えらいえらい」

「撫でんな」

「フー君フー君、これこの前のリベンジで作ってきたの。スポドリ風味だから後で飲んでみて」

「あ、ああ……あの栄養ドリンクな」

「上杉さん! 修学旅行を楽しむ覚悟はできましたか?」

「つーか班行動だからな。お前もしっかりやれよ学級長」

 

 しかし二乃も四葉もすぐに後を追っていったため、眠そうにしている三玖の後ろに退避。

 とにかく今は顔を合わせるわけにはいかなかった。

 

「五月、なにかあったの?」

「な、なにもありませんったらありません! 私はいたっていつも通りですが!?」

「説得力なさすぎる……」

 

 自分を盾にする妹に呆れながらも、三玖は手に持った紙袋を握る手に力を込めた。

 今日はまさに決戦の日なのだ。

 最近のバイト三昧もこの日のためだった。

 決意とともに己を奮い立たせ、三玖は風太郎へと歩み寄る。

 姉の後ろに隠れることができなくなった五月は、自分のトランクの陰に縮こまった。

 

「フータロー」

「三玖か。なんだ――」

「上杉ー、そろそろ行くぞコラ」

「っと、時間か。お前らも遅れるなよ」

「あっ」

 

 班員の呼びかけに応じて風太郎は改札の向こうへ。

 新幹線の出発時刻が迫っていた。

 そろそろホームへ向かったほうがいいだろう。

 

「みんなー、私たちも行くよー!」

「さすがに新幹線の中じゃアクション起こしづらいわね」

「そういうこと。みんなでおとなしくトランプでもしてようよ、ね?」

「三玖、私たちも行きましょう」

「うん」

 

 四葉の先導で中野姉妹も連れ立って改札を通り抜ける。

 五月はなにやら急に普段の調子を取り戻していた。

 

(大丈夫、まだ機会はある)

 

 口元を引き締めて、三玖は自分の中の不安を押し殺す。

 色んな人のサポートを受けた上で修学旅行に臨んでいる。

 もはや退くことは許されなかった。

 

(今日こそフータローに告白するんだ……!)

 

 

 

 

 

「やれやれ、とりあえず一段落か」

「まだ始まったばかりじゃないか。しっかり頼むよ、学級長」

「お前こそな、班長」

 

 京都に向けて出発した新幹線の中、三人がけのシートの窓際で一息つく。

 うちの班長は武田なのだが、俺自体は学級長なため色々と雑務を頼まれる立場にあるのだ。

 新幹線に乗り込む前も点呼を取ったりで地味に忙しかった。

 

「つーかよ、京都までどんだけかかるんだよ」

「二時間とちょっと、といったところだね」

「オウじゃあなんかして時間潰すぞコラ」

「そうだね……じゃあ水平思考ゲームなんてのはどうだい?」

「すいへい、しこうゲーム?」

 

 武田の提案に前田の顔がハテナで埋め尽くされる。

 俺も概要は知っているが、実際にやったことはない。

 なんせ相手がいなかったからな……!

 

「出題者に対してイエスかノーで答えられる質問をしていって、それで答えを推測していくゲームだろ」

「ご名答。というより前田君が知らなさすぎるだけかな?」

「んだコラ」

「武田、煽るな。トランプとウノ持ってきたからやろーぜ。水平思考ゲームは前田には無理だ」

「はは、それもそうだね」

「オメーら後で覚えてろよ」

 

 そして厳正なる審議の末、ジャンケンによりウノで遊ぶことに決定した。

 厳正なる審議とは……

 

「しかし用意がいいね。案外楽しみにしてたのかい?」

「まぁ、こうやって遠出できる機会は少ないからな」

「林間学校の時も妙に張り切ってたよな。主に肝試し」

「あれは腹いせだ。ホームルーム中、俺が自習してる間に勝手に決められたもんでな」

「その勉強への意欲、流石だよ上杉君!」

「いや、普通に自業自得じゃねーか」

 

 前田の言うことはもっともだ。

 武田は俺を持ち上げているが、そもそも論点がずれている。

 やはりこいつは俺に執着しすぎなのでは?

 

「……前々から聞きたかったんだけどよ。一花さんとはどうなってんだよコラ」

「あー……それな」

 

 そういえば、こいつには狂言で一花と恋人同士だと思われてるんだった。

 全て話しておくべきだろうか。

 そもそもややこしい状況だったので、説明もそれなりにデリケートなものになってしまうだろう。

 具体的に言えば三玖に飛び火する可能性がある。

 

「中野一花さんがどうかしたのかい?」

「去年の林間学校前に告ったんだけどよ、上杉と付き合ってるっつーから断られたんだよ」

「なっ……それは本当かい!?」

 

 そして何故か武田が食いついてくる。

 驚愕の表情を貼り付けて、立ち上がって体をワナワナと震わせていた。

 二年の時は一花や前田と同じクラスだったと聞いたが、そんなに興味を惹く話題だったのか?

 いや、もしかしたら大女優様の隠れファンという可能性も――

 

「あの女狐め……! 上杉君を誑かして成績を落とさせようという腹積もりか!」

 

 あ、そっち?

 どうやら俺は武田を甘く見ていたようだ。

 とりあえず注目を集めてるから座って欲しいぜ。

 

「武田、落ち着け」

「これが落ち着いていられるか! 正気を取り戻せ上杉君、学生の本分は勉強だ!」

「お前が正気を取り戻せ!」

 

 どこぞの学年一位と同じようなことを叫ぶ武田をなだめる。

 その過程で前田への事情説明がなされたのは良かったのか悪かったのか。

 

「そうか、そんな事情だったんだな」

「今更かもしれないが、すまん」

「謝ることはないさ。僕は君を信じていたからね」

 

 お前には謝ってねぇぞ武田。

 少なくともさっきまで騒いでた奴が言っていいセリフじゃない。

 この変わり身の早さは、こいつが案外良い性格をしているという証左なのかもしれない。

 

「……まぁ、俺も相手の迷惑を考えずに騙し討ちする格好だったしよ。そこはお互い様と思ってる」

「そう言ってくれると正直助かる」

「しかし、なんだコラ……同級生相手に家庭教師ってのはなんつーか、すげぇな」

「給料が相場の五倍のアットホームな職場だぞ」

「ブラックな臭いしかしねぇんだが」

「それどころか地獄の日々だったぜ……」

 

 赤点回避という低いハードルのために俺がどれだけ苦労してきたことか……

 それなりに楽しい地獄だったことは否定しないが。

 一花、二乃、三玖、四葉、五月。

 全員一筋縄じゃいかない曲者揃いだ。

 

「地獄とは随分な言い方だ。少なくとも今の君の表情とは一致しないね」

「ニヤけてんぞコラ」

「誰がニヤけてるって?」

 

 揃いも揃ってめんどくせー奴らなのは確かだが、俺が受け取ったものも少なくないのも事実だ。

 例えばそう――あいつらと出会ってなければ、俺は新幹線の中でも一人で勉強しているだけだっただろう。

 俺に返せるものは家庭教師の仕事を通じて返しているつもりだ。

 だが今はなにか形に残るものが必要だ。

 ここ最近は、そのことをずっと頭の片隅に置いて過ごしていた。

 あとは……やってみるか。

 

「武田、前田……お前らに頼みたいことがある」

「どうしたんだい?」

「あん? 急にあらたまってどーしたよ」

「実は――」

 

 

 

 

 

「三玖、三玖、終わりましたよ」

「ん……」

 

 五月に揺さぶられ、三玖は微睡みから現実に引き戻された。

 多少の揺れと喧騒――今は京都に向かう新幹線の中だと思い出す。

 そして手元にはトランプが五枚。

 ポーカーの真っ最中で寝てしまったようだ。

 

「あ、ツーペア」

「遅いし弱い! もう一回やるわよ!」

 

 対面の二乃のつっこみ。

 負けが続いてムキになっているようだ。

 勝負は一花のフルハウスで決着していた。

 

「大丈夫ですか? 今朝は早かったみたいですし」

「店長に無理言って厨房貸してもらってた」

「えっ、じゃあついに三玖の最高傑作が……」

「うん」

 

 誇らしげに頷く三玖に、五月は特訓の日々を思い出す。

 失敗に次ぐ失敗、そして報酬に振舞われる焼きたてのパン。

 感慨とともに湧き出そうになるヨダレを、頭を振って堪える。

 

「冷めても美味しいといいんだけど」

「……三玖の頑張りはきっと伝わりますよ」

 

 五月はあえてその頑張りが伝わった後のことを考えなかった。

 そうしてしまえば、自分が動けなくなることがわかっていたからだ。

 

「ね、次のゲームは勝者にちょっとした特典をつけない?」

「特典? また変なこと企んでないでしょうね」

「一花は勝ち越してるから強気だね」

 

 四葉のこともなるべく考えないようにした。

 勝手なことをしてしまったという罪悪感があるし、なにより風太郎へと意識が向いてしまう。

 今の五月には少々どころではなくハードルが高い。

 

「そうだなぁ……勝ったらなんでも命令ができる、なんてのはどうかな?」

「いいじゃない、乗るわ」

「負けない」

「わっ、みんな燃えてる」

 

 そしてゲームが始まった。

 各々カードを受け取り、自分の手札とにらみ合う。

 

「げっ」

「うわっ」

 

 余程悪かったのか、二乃と四葉が思わず声を上げた。

 三玖は僅かに眉を寄せ、一花は薄く笑ったままで表情を動かさない。

 五月は受け取ったカードを開きすらしていなかった。

 ドローは一回のみ。

 運に見放されればそれまでだ。

 

「残念、役なしだよ」

「私もよ」

「揃わなかった……」

「まぁこういうこともあるよね」

 

 四人は揃って役なし――ハイカードだった。

 さすがに全員というのは珍しいが、確率的にはありえることだ。

 こういう場合は単純にカードの強さを競うのだが、まだ一人手札を開示してない者がいる。

 

「五月ちゃん? おーい」

「あっ……すみません、ボーッとしてました」

「あんたも寝不足なわけ?」

「あはは、五月の場合は食べ過ぎが原因かな?」

「手札、どうだった?」

「えっと、フォーカード……?」

 

 文句なしに強力な役だった。

 こうして勝者の権利は五月に渡されることになった。

 

 

 

 

 

 修学旅行一日目は夕方の集合時間まで自由行動である。

 京都駅構内で教師陣の説明が終わり、生徒たちは三々五々に方々へ散っていった。

 

「気のせいかしら……」

「さっきのシャッター音? 観光客も多いし、気にすることないよ」

「さすがね。女優様はやっぱりカメラに慣れてるのかしら」

「フータローの班はどこ行くんだろう?」

 

 中野姉妹の上三人は風太郎が目当てである。

 それぞれに思惑があるが、抜けがけをしないのは姉妹による邪魔を懸念してのことだ。

 一方何かを警戒して小動物のように縮こまっているのが末っ子だ。

 張り付かれた四葉は困惑するばかり。

 

「五月どうしたのさ。これじゃ動きにくいよ」

「うぅ……今は何も聞かないでください」

「しょうがないなぁ」

 

 姉妹の母親役を買って出ている五月だが、なんだかんだで甘やかされているのだった。

 妹にくっつかれたまま、四葉はまとまらない行動方針をまとめるために声を張り上げた。

 

「はいはーい! みんなはどこか行きたいところある?」

「ショッピングね。古~いお寺をめぐるよりお洒落なお店よ」

「お寺や神社を回りたい。京都はゆかりの地も多いから」

 

 まず最初と次の案で真っ向から対立した。

 性格も対照的な二乃と三玖らしいといえばらしいが。

 にらみ合う二人に冷や汗を垂らしながら、四葉は残りの二人に意見を求めた。

 

「わ、私は京都ならではのものを食べ歩くのが良いと思います」

「う~ん……やっぱり思い出に浸りたいかな。駅の中や街中を散策したりしてさ」

 

 五月の意見はいつも通りだった。

 どこか様子がおかしくとも、食欲だけは忘れないのはさすがと言えるだろう。

 しかし一花の様子が四葉としては引っかかった。

 そもそも風太郎と三人で班を組むなどと言い出したことも不可解だ。

 

『だって、せっかくだし楽しんでもらいたいじゃん』

 

 その言葉に嘘はないとは思っている。

 引っかかるのは組み合わせである。

 風太郎に四葉に一花……この三人をつなぐ線。

 一花が言った京都における思い出とは――

 

「あっ、フータロー君たち出発するみたいだよ」

「とりあえず追うわよ」

 

 

 

 

 

「うおっ、鳥居デッケー」

「ちなみに日本最大の鳥居はね――」

 

 小学生じみた感想を漏らす前田と薀蓄を語りだす武田。

 まったく、修学旅行に浮かれているのが見え見えだ。

 もっと俺みたいに冷静に振舞ってもらいたいぜ。

 

「おい上杉、なんか落ちたぞ」

「伏見稲荷大社のガイドマップかい? 君も楽しみにしていたようでなによりだ!」

「べ、別に普通だが?」

 

 そう、至って普通だ。

 むしろ下調べは予習のようなものだ。

 そんなに大事なものを疎かにするわけには行かない。

 それが俺なりの、最大限楽しむための努力というやつだ。

 

「お前ら、例の件も頼むぞ」

「もちろんさ」

「ま、お前の頼みならな」

 

 二人は俺が渡したインスタントカメラをちらつかせた。

 少し離れたところには中野姉妹の姿がある。

 単に目的地が一緒だというのが妥当だが、実際はどうなのだろうか。

 ……少し自意識過剰かもしれないな。

 

「あれが東丸神社だね。早速お参りといこう」

 

 学問の神を祀る、受験生の俺たちにとってはピッタリの場所だ。

 三人並んで手を合わせる。

 ついでにあいつらの成績が下がらないようお願いしておこう。

 あまり長く放置していると頭の中身がリセットされてしまうという恐ろしい仕様なのだ。

 

「で、ここはなんなんだよ」

「ありがたい学問の神様の社さ。君は特に深ーく祈りたまえ」

「どーいう意味だコラ」

「次行くぞ、次」

 

 ここから先はハイキングだ。

 気合を入れて臨むべきだろう。

 振り向くと五人組はまた後ろにいた。

 目があった一花と二乃は手を振ってきやがった。

 五月は物陰に隠れていたが、アホ毛が飛び出ていた。

 あいつ、もしかしてまだこの前のことを気にしているのか。

 面倒そうなことになっているが、そうだとしたら俺にも責任はある。

 さて、どうしたものかな。

 

 

 

 

 

「映えるわ~」

「やはり実物は写真とは違いますね。壮観です」

 

 無数の鳥居に囲われた参道を歩く。

 伏見稲荷大社の千本鳥居である。

 風太郎を追う中野姉妹だが、景観に目を奪われて速度も緩まっていた。

 特に二乃は、SNSにアップロードする写真の撮影に余念がない。

 五月も風太郎の姿が見えなくなったからか、リラックスして景色を楽しんでいた。

 

「ほら、あんたたちもピース」

 

 二乃の催促に、四人は携帯のカメラに向かってピース。

 姉妹だけでの写真は久しぶりだった。

 祖父の温泉では父とそれに上杉一家もいたので、それこそ小学生時の修学旅行以来である。

 

「ほら、寄って寄って」

 

 そして次は自撮り棒を使って五人で写真に収まる。

 撮れた写真とかつての自分たちを比べて、二乃は軽く感慨に浸った。

 しかしゆっくりしていられる時間はない。

 姉妹は再び参道を歩き出した。

 

「フータロー、もう上かな?」

「男の子は登るの速いね」

「よーし、私たちも頑張ろー!」

 

 四葉の先導で一行はスピードアップ。

 だがそのハイスピードが長く続く訳もなく……

 

「はぁ、はぁ……け、結構長いわね……」

「足が痛くなってきました……」

「もー、みんな遅ーい!」

 

 四葉と一花を除く三人がヘタっていた。

 特に三玖は言葉もなくしゃがみこんでいる。

 土台、運動能力がずば抜けている四葉に合わせるというのが無理な話なのだ。

 一花はジョギングを日課にしているため、体力的にはまだ余裕があった。

 

「あのお気楽さは羨ましいわ」

「あれが四葉の良いとこだからね」

「腹黒なあんたとは正反対ね。悪巧みは順調なのかしら」

「人聞き悪いなぁ、もう」

「あら、否定はしないの?」

「色々企んでるのは確かだからねぇ」

「うげっ、まさかの開き直り」

 

 ニッコリと笑う一花に、二乃は舌を出して顔をしかめた。

 やはり一番警戒するべきなのはこの長女なのだと。

 しかし自分には他の姉妹にはない明確なアドバンテージがある。

 模試の日の一件を思い出して二乃は自分を奮い立たせた。

 

「なんかニヤけてる? 顔も赤いし」

「な、なんでもないわ! さ、行きましょ」

 

 足早に歩き始めた二乃に一花は怪訝な目を向ける。

 もしかしたら風太郎となにかあったのかもしれない。

 その可能性を頭に留めて、一花も移動を再開した。

 

「三玖、落ち着きましたか?」

「うん、私たちも行こう」

 

 一方、しゃがみこんでいた三玖も五月とともに歩を進める。

 目的がある以上、モタモタしているわけには行かない。

 

「やっぱり班行動がネック」

「たしかに、二乃がすんなり見逃してくれるとは思えませんね……」

 

 先日の一件で二乃の風太郎への想いは姉妹に露見している。

 それに一花も明言はしていないものの、同じ想いを抱いていることは察せられた。

 このまま合流できたとして、三玖の望むような展開になるとは思えなかった。

 三玖が踏み出せば、他の姉妹もその後に続く結果になるだろう。

 

「自由昼食は今日だけなのに……」

「安心してください。私に一つ考えがあります」

 

 

 

 

 

「う~ん、道が二つに分かれてるね」

「フータロー君はどっちに行ったのかな」

 

 稲荷山の中腹にある四ツ辻にたどり着いた中野姉妹。

 風太郎の姿はここにもない。

 地図を見ると山頂に通じる道は二つ。

 そのどっちを進むのかが問題だった。

 

「ふぅ、少し楽になった」

「一息つけるところがあって助かりました」

 

 三玖と五月はベンチに座って足を休める。

 ハイペースでの山登りは中々に辛いものがあった。

 全く汗をかいておらず、ケロッとしている四葉はいよいよ化け物じみている。

 このまま休憩を続けたいところだが、三玖にとってはここからが正念場だ。

 五月は三玖と頷き合うと、ベンチから立ち上がって姉妹全員に呼びかけた。

 

「もうお腹がペコペコです! このお店で食事にしましょう!」

「えっ、ご飯? いきなりね……もうお昼だし構わないけど」

「五月そんなにお腹減ってたんだ……」

「と、とにかくです! ポーカーでの勝者の権利を行使しますっ」

「こ、こんなことで使わなくても……」

 

 一花、二乃、四葉は揃って困惑気味である。

 よほど我慢していたのかと心配すらしていた。

 欺くような形になってしまったが、お腹が空いているのは事実である。

 姉三人を店に押し込みながら三玖に目配せをする。

 

(あとは三玖しだいです。頑張って……!)

 

 自分の胸に走る痛みに気づかないふりをして、五月は三玖を送り出した。

 

 

 

 

 

『この先の四ツ辻にあるお店でみんなをお昼に誘います。三玖は抜け出して上杉君を追ってください』

『うん。でも、二乃あたりは風太郎を優先するかも』

『ポーカーの件を持ち出すから心配ありませんよ。私に任せて!』

 

 参道を息を切らしながら駆け抜ける。

 五月のサポートにより三玖は単独行動を果たしていた。

 四ツ辻から山頂へ続く道は二つ。

 三玖が進んでいる道が人の多さから見ても正規ルートだろう。

 風太郎もこの先にいる可能性が高い。

 

(フータローにパンを食べてもらって伝えるんだ、好きって……!)

 

 湧き出る想いを燃料にひたすら足を動かす。

 色んな人に支えられてこの場にいる以上、止まってなんていられなかった。

 いられない、はずなのだが……

 

「はぁ、はぁ……も、もう足が……」

 

 いくら心が燃え立っていても、体の限界というものがある。

 鳥居に手をついて参道の脇にしゃがみこむ。

 こうしている時間が惜しいが、足は動きそうにない。

 夜には確実に筋肉痛コースである。

 

(やっぱりダメなのかな……私なんか)

 

 汗とともに溢れる弱音。

 気を抜いたらそれこそ泣き出してしまいそうだ。

 涙を堪えるために三玖はギュッと目を固く瞑った。

 

「ま、まだ山頂に着かないのか……」

 

 聞こえるはずのない声が聞こえた。

 振り向くと、膝に手をつき肩で息をする風太郎がいた。

 

 

 

 

 

「え……フータロー?」

「み、三玖か……」

 

 鳥居に囲まれた参道をハイキング中、道端にしゃがみこんでいる三玖と遭遇した。

 他の姉妹の姿はない。

 置いていかれたのかと一瞬だけ疑ったが、あいつらがそんなことをするわけないだろう。

 たとえ三玖が動けなくなっても、四葉ならきっと背負ってでも連れて行く。

 それだけにこんな所に一人でいるのが不可解でならなかった。

 そして、こいつが泣きそうにしているのはもっと我慢がならなかった。

 

「立てるか? 怪我してるとかじゃないよな?」

「う、うん……あっ」

 

 立ち上がろうとしてよろける三玖を支える。

 この道中で相当足にきたのだろう。

 俺もあまり人のことは言えないが、まだバテてはいない。

 

「よし、じゃあゆっくり行くぞ。山頂も多分もうすぐだ」

「……いいの?」

「ちょうど一人で退屈してたんだ。悪いけど付き合ってもらうぞ」

 

 三玖の体を支えながら、再び山頂を目指す。

 柔らかい感触や、女子の匂いのことは頭から締め出す。

 頬の内側を噛んでいればなんとか耐えられた。

 

「他のやつらはどうした」

「下でお昼食べてる」

「じゃあお前一人だけで登ってきたのか」

 

 そこにどんな事情があるかはわからないが、先程の泣きそうな顔がちらついた。

 まさか喧嘩してきたんじゃないだろうな……

 だとしても誰も追いかけてこないのはおかしいか。

 いや待てよ、もしも誰も追いかけてこないほどの決定的な仲違いだとしたら?

 そう考えてしまうと、焦りとともに変な汗が出てきてしまう。

 今更空中分解はごめんだぞ!

 

「五月に協力してもらって抜け出してきた」

「なんだ、そうだったのか」

「もしかして変な勘違いしてた?」

「……これまで散々振り回されてきたんだ。多少心配したってしょうがないだろ」

「ふふ、フータローは優しいね」

「うるせー」

 

 くそっ、心配して損したぜ。

 しかし経緯がわかっても、これでは理由が不明なままだ。

 それともそこまで触れるのは野暮だろうか。

 雇い主の忠告もあるし線引きはしっかりとしたいが、勉強に差し障るようなら解消しておきたい。

 

「フータローに渡したいものがあったから」

「そうか」

 

 軽く流してしまったが、つまるところ俺が目的だったって事かよ。

 自分から聞かないでおいてよかった。

 カウンターでダメージが倍増するところだったぜ。

 しかしそうだとしたら、この状況はますますコンプライアンス的にマズいのでは?

 就業規則を定められた覚えはないが、あえて言うのなら娘に手を出すな(意訳)というのが該当するだろう。

 ……もはや違反済みでは?

 

「そっちは迷子?」

「ちがうわ。前田の奴が食い過ぎで動けなくなってな。武田は付き添いで、俺だけとりあえず登ってきたんだよ」

「え、食べすぎって……」

「俺に構わず先に行け、なんて言っててよ。どこの時代の人間だって話だよな」

「う、うん……軍の殿も大事な役目だから」

 

 こころなしか三玖の声のトーンが下がったような気がする。

 いつも抑揚が少なめだからわかりにくいが、俺の気のせいだろうか。

 三玖が持つ紙袋が目に入った。

 出発する前からそうだったが、ずっと大事そうに抱えている。

 

「フータローもお昼食べたの?」

「ああ。四ツ辻のとこは混んでたから別のとこでだけどな」

「そう、なんだ」

 

 今度は目に見えて俯いてしまった。

 疲れたわけではないとしたら……なんだ?

 頭を回せ。

 もういい加減、ノーデリカシーだの言われるのは飽き飽きしてきたところだ。

 まず、今もこうやってくっついてるから柔らかさと体温が伝わって――

 

「フータロー? いきなり自分の胸叩いてどうしたの?」

「ドラミングだ。ゴリラが好きなんだ、ハハハ」

 

 どうにか痛みで不埒な考えを吹っ飛ばす。

 三玖は訝しげな目で見てくるが致し方ない。

 いきなりドラミングを始める奴がいたらヤバい奴だろう。

 ……はい、俺ですね。

 俺がヤバい奴かどうかはともかく、今は三玖のことだ。

 落ち込み始めたのは、俺の班の話題からか?

 でも、武田や前田の話題でこいつが落ち込む理由がわからない。

 昼を食べ過ぎた前田を心配してってわけじゃないだろうし。

 それよりも明確なサインは……まさか、俺が昼を済ませたという話に対して、なのか?

 自惚れでないとしたら、三玖は一緒に昼飯が食べたかった、と推測できなくもない。

 いや、でもしかし……

 くそっ、はっきりと答えがわからない問題ってのはこうももどかしいのか。

 少し様子を見てみるか。

 

「しかし動いたら腹減るよな。下でもうちょっと食べておけばよかったぜ」

「……お腹空いたの?」

「染み付いた貧乏が災いしたな。どうもみみっちいのを頼んじまった」

「そ、そうなんだ……」

 

 こころなしか声の調子も視線も上向きになった気がする。

 当たりを引けたのかどうかはわからないが、機嫌は回復したようだ。

 無限に思われた石段の終わりが見えてきた。

 そろそろ山頂だ。

 俺もこいつも、せっかくだから良い気分で登りきりたいところだ。

 

「そういえばその袋、自分で昼飯用意したのか?」

「ううん、これは……えっと」

「っと、やっと到着か。長かったな」

 

 そして山頂に到着。

 もう支えも必要ないだろうと、三玖の体から離れる。

 触れ合ってた部分が風にさらされて、少しだけ冷たく感じてしまう。

 ああ、三玖の匂いや体の感触が名残惜し――

 

「今度はお腹……大丈夫?」

「せ、切腹のイメトレだ。ハラキリ、サムライ、バンザーイ!」

「ふふ、変なの」

 

 突然腹を強打してカタコト外人の真似をし出すヤバい奴。

 ……はい、俺ですね。

 ドン引いている観光客がいるが無理もないだろう。

 そんな奴がいたら俺だって距離を取る。

 なぜか三玖には受けているようだが、切腹という言葉が琴線に触れたのだろうか。

 武将、ひいては戦国時代が大好きなこいつならありえなくもない。

 

「俺はここで武田たちを待つが、三玖はどうする?」

「私は、その……」

 

 班から抜け出してきた三玖も、いつまでもそのままというわけにはいかないだろう。

 俺への用事……渡したいものがある、だったか。

 やはりその手に持っている紙袋がそうなのだろうか。

 

「本当はお昼の時に渡したかったんだけど」

「これは?」

「パン。今朝焼いてきた」

 

 差し出された紙袋を受け取る。

 開けるとクロワッサンが数個入っていた。

 手作りのパンは俺にとって少し特別な意味合いがある。

 今はもう食べられない思い出の――おふくろの味といえばいいか。

 

「食べていいか?」

「うん」

 

 一つ取り出して口に運ぶ。

 家庭教師を始めて間もない頃、三玖が二乃と料理対決をしたことを思い出した。

 最初の試験の後、三玖の料理を死ぬほど食べさせられたこともあった。

 それとこの前のバレンタイン。

 不格好なオムライス、黒焦げのコロッケ、チョコレート。

 このパンに至るまでの軌跡――三玖の積み重ねが垣間見えたような気がした。

 

「うまいとは思うが俺は自分の舌に正直自信がない。ろくな感想も言えそうにないが、一言だけいいか?」

「聞きたい。ううん、聞かせて」

「この味はきっとお前の努力そのものだ。頑張ったな、三玖」

 

 三玖の頭に手を乗せる。

 褒める時のやり方なんて、一花に教えられたこれ以外ろくに浮かんでこない。

 今にして思えば馴れ馴れしい限りだが、今のこいつらにやる分にはいいだろう。

 俺の手の上に、さらに三玖の手が重ねられる。

 そして涙ぐんだかと思うと、正面から抱きしめられた。

 

「そうだよ……私、頑張ったんだよ……?」

 

 引き離すわけにもいかず、頭に乗せていた手を背中に回す。

 抱きしめる力が一層強くなった。

 ……俺は理性を試されているのだろうか。

 結局、三玖の気が済むまでこの状態が続いた。

 

 

 

 

 

「遅いわね……」

「お腹の調子、悪いのかなぁ?」

「トイレが混んでるのかも。結構お客さんいるし」

「あ、あはは……きっとその内戻ってきますよ」

 

 ランチのために入った店内で三玖を待つ四人。

 客の入りは上々で、席の空きはない。

 四人もついさっき、ようやく席に着いたばかりである。

 同時に末っ子が大量の注文を済ませたため、今は料理を待つ身でもある。

 

「それにしても、修学旅行だからって浮かれすぎよ」

「まったくです。うちの生徒が他の観光客の迷惑になってないといいんですけど」

「私が言ってるのはあんたのことよ、五月」

「わ、私のどこが浮かれていると?」

「まぁ、いきなりあんな大量注文してたらね」

「そんなに食べたら動けなくなっちゃうよ?」

「私の胃袋を甘く見ないでください」

 

 年頃の女子がそれでいいのか。

 一花と二乃は心の中でつっこんだが、四葉は五月の鋼の胃袋に素直に感心した。

 もちろん、五月もただ食欲を満たすために注文したわけではない。

 三玖が目的を果たすための時間稼ぎも視野に入れてのことだ。

 

(無事に追いつけたでしょうか……)

 

 四ツ辻にいないとなると、風太郎はそのまま先に進んだ可能性が高い。

 ただ心配なのは三玖の体力だった。

 その点に関しては風太郎も似たりよったりなので、追いつけるはずと踏んで送り出したのだが。

 首尾よく合流することができたなら今頃二人で――

 

「――っ」

「きゅ、急に立ち上がって驚かせないでよ」

 

 五月は自分が一つ失念していたことに気づいた。

 二人が合流することばかりに気を配って、その先を考えていなかったのだ。

 つまり、いかにして二人きりの状況を作るかだ。

 そのためには風太郎を班から引き離さなければならない。

 三玖が自分でそれを言い出せればいいが、おそらく無理だろう。

 かといって風太郎にそういった繊細な対応を求めるのも無謀だ。

 

「ちょっと三玖の様子を見てきますっ」

「私も行くよ!」

「一人で大丈夫ですので三人はごゆっくりどうぞ!」

 

 有無を言わせる間もなく、五月は店の外へ飛び出していってしまった。

 残された三人は顔を見合わせる。

 

「五月もトイレ行きたくなったのかな?」

「さあね。三玖も本当はどこにいるのやら」

「五月ちゃんの態度も引っかかるし、これはしてやられたかな?」

「どうするのよ。多分抜け駆けされてるわよ」

「どうするもなにも、私たちも追いかけなきゃだよ」

「あ、お料理来たよ」

 

 テーブルにずらっと料理が並べられていく。

 三人の注文もあるが、半分は五月が頼んだものである。

 

「……とりあえず、処理しなきゃダメよね」

「うーん、これを見越してたなら大した策士だね」

「勝手に食べちゃっていいのかなぁ」

「二人を待ってたら冷めちゃうわよ」

 

 厳しい戦いだが、逃げるわけにはいかない。

 三人は末っ子の置き土産と格闘を開始。

 事態を飲み込めていない四葉は、首を傾げながらうどんをすすった。

 

 

 

 

 

(三玖に追いついて、いえそれより先に上杉君を――)

 

 石段を駆け上がりながら、五月は自分のやるべきことを確認する。

 まだ二人がまだ合流していないようならそれを助け、合流しているようなら他の班員を隔離する。

 三玖が別行動をとってからそれなりに時間が経っている。

 もう今頃は山頂に着いているかもしれない。

 四ツ辻から山頂まで通じる道は二つある。

 人の流れを見て三玖には観光客が多い道を勧めたが、五月は反対の道の方を進んでいる。

 距離的にはこちらの方が短いので時間も短縮できるし、もし途中で風太郎たちと出くわすなら足止めもしておける。

 やるべきことだけ考え、感情は置き去りにして駆け抜ける。

 置き去りにしなければ、自分が動けなくなってしまうからだ。

 そもそも、やるべきことは正しいのか。

 四葉のことは?

 三玖と同じ想いを抱いているであろう一花と二乃のことは?

 母の代わりとして姉妹を導くと誓ったことは?

 姉妹を守るため風太郎を見極めると決めたことは?

 ――自覚してしまった、自分自身の想いのことは?

 

(今は三玖を助ける。それだけ考えていればいいんです……!)

 

 そして三玖が風太郎にパンを渡して、その先は……その先はその先はその先は――

 

「やめてっ!」

 

 どれだけ無視しようとしても滲んでくる感情を、否定するように叫ぶ。

 胸が張り裂けそうな痛みだって、絶対に走っているせいなのだ。

 石段の終わりが見えてくる――山頂が近い。

 登りきって五月は足を止めた。

 

「そうだよ……私、頑張ったんだよ……?」

 

 足を止めざるを得なかった。

 三玖と風太郎が抱き合っていた。

 姉の想いが通じたのだと、五月はそう理解した。

 喜ばしいことだと祝福するべきか。

 それとも節度を守るようにと注意するべきか。

 

「み、く……うえすぎ、くん……」

 

 どちらもできなかった。

 立ち止まった五月は、置き去りにしたはずの感情に捕らわれてしまった。

 目の先が熱くなり視界が歪む。

 漏れそうになる嗚咽は、唇を噛むことで堪えた。

 ゆっくりと、次第にスピードを上げながら来た道を引き返す。

 動けなくなると思っていたが、一つだけできることがあった。

 それは瓦解していく自分の心を繋ぎ留める為に、その場から逃げ出すことだ。

 

 

 




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