こんばんは。遅れてしまって申し訳ないです。
「よう、また会ったな」
気が付くと、オレは道路の真ん中に立っていた。
急げばまだ間に合う距離に、五条が封印されている獄門疆があって。
しかしオレと五条──地下五階へと向かう道の
「まさか、
伏黒甚爾がオレに話しかける。すると両腕を斬られた記憶がフラッシュバックし、その痛みで頭を押さえた。何故、
「今度こそ殺す」
伏黒甚爾は呪具を構え、オレの目を見ながらゆっくりとこちらに向かってきた。
∩
「ッハァ……!」
「いずる!」
「出、大丈夫か!」
意識が覚醒。
胸部への耐え難い痛みによって、浮舟の上体が飛び起きた。
「オレは……! いや、〝僕〟は……ッ」
顔中に脂汗をかき、自身の胸部をまさぐり、大口を開けて呼吸を行い、慌てて周囲を確認。
現在地、渋谷最後方。
とある商業ビルの屋上。
「しょ、硝子ちゃん……。それに、夜蛾先生」
「気分はどうだ。突然意識を失ってからピクリとも動かずに眠り続けたかと思えば、急に飛び起きて。一体何が──」
「ま、まずい!」
家入の心配を他所に、浮舟は慌てて柵へと駆けた。急な覚醒についていけていない肉体のノロさに転びながらも、視線は渋谷駅の方角へ。
「出、落ち着け。悪い夢でも見たのか」
「夏油が……! それに、五条が……!」
「な、なんでアイツ等の名前が」
嫌な予感。
錯乱する浮舟の口から出た
「ナナミーン!」
∩
両端の尖った三節棍が唸った。
空気そのものを引き裂くような轟音が、渋谷マークシティの連絡通路に響き渡る。
直撃はしていない。それでもコンクリートの壁面が爆ぜる。
砕けた壁面──その破片が散弾のように飛び散る。浮舟は咄嗟に身を丸めたものの、頬を掠めた破片が皮膚を裂き、熱い痛みが走った。
浮舟は身代わりを引き受けたことを早速後悔していた。
「マジで見えねェんだけど……!」
身を起こして振り返る。
伏黒甚爾は走りもせず、焦りもせず──ただ歩いていたら。
まるで獲物を追い詰める猛獣のように。
過去の記憶にこびり付くソレとは違う、黒いスキニーパンツに白セーターという似合わない装い。伏黒甚爾の
伏黒甚爾の右手では、手慰みに乱雑に振るわれた三節棍が蛇のように蠢いている。
そして何より厄介なのは。
「……速ェな、相変わらず」
浮舟は踵を返し、伏黒甚爾を皆から遠ざけるように連絡通路を駆け抜ける。
ガラス張りの壁の向こうには今やもう見慣れた無人の渋谷の街並みが広がっていた。
車列。信号。巨大な広告。
この辺りの人達はもう〝帳〟の近くまで──遠くまで逃げられただろうか。浮舟は息を切らしながら一般人の巻き添えを懸念してそんなことを思ったが、その心配が場違いであることはすぐに理解した。
背後から風切り音。
また反射的に身を沈める。
頭上を通過した三節棍がガラス壁へ直撃した。
轟音。
一面のガラスが爆発したように砕け散る。
吹き込む風。
破片の雨。
制服の襟元をくすぐり、浮舟は首を縮め──伏黒甚爾が三節棍を振り切った一瞬の隙を狙い、近くに備え付けられていた非常用消化器を蹴り飛ばした。
振り向きざまのトーキックで放たれた消化器は赤い残像を伸ばし、伏黒甚爾の顔へと真っ直ぐに飛んでいく。
普通の術師なら動きを止められる。それが叶わずとも、一瞬怯ませることが出来る。
しかし、伏黒甚爾は違った。
片腕で止めた。
いや。
受け止めるどころか、殴った。
硬い消化器がサンドバッグのように
消化器は形を歪ませたまま吹き飛び、窓の外へと飛んでいってしまった。
「フィジギフがよッ!」
浮舟が忌々しげに叫ぶ。
返事の代わりに、伏黒甚爾は地面を蹴った。
爆発──そう錯覚するほどの加速。
三節棍とそれを振り回す腕のリーチ分数メートルが一瞬で消える。
浮舟は通路脇の柱へ飛び込み、そのまま身体を回転させた。
三節棍が柱へ激突する。
コンクリートが砕け、支柱が揺れる。
だがその一瞬だけ伏黒甚爾の視界が遮られた。
浮舟は柱を踏み台にして天井へと跳躍。
空中から両足で敵の背中を蹴る。
──全体重を乗せた一撃。
──浮舟出の膂力であれば誰だって吹き飛ぶ。
しかし伏黒甚爾は半歩よろめいただけだった。
代わりに浮舟の方が着地で足首の関節を痛めそうになる。
硬過ぎる。
もっと削らないと、攻撃が通らない。
「に、逃げるワケじゃねェかんな! 作戦! これは作戦!」
情け無く言い訳を吐き捨てて走る。
マークシティ内部から外階段へ飛び出した。
視界が一気に開ける。
階段──踊り場──複雑に入り組んだ高低差。
浮舟は目の前の地形を一通り見渡してから手すりを飛び越えた。
階段を使わず、一気に地上へ落下する。
着地と同時に前転。その頭上を風切り音。
伏黒甚爾も飛び降りてきたのだ。その人間離れした身体能力で。
伏黒甚爾の着地の衝撃で床のタイルが陥没する。振り返ったわけではないが、足元の沈み具合からすぐ後ろ──三節棍の届く距離だということが理解できた。
逃走失敗。
しかし、その瞬間こそ狙い目だった。
浮舟はすぐ近くに転がっていた、誰かさんが殴り飛ばした
遠心力を乗せて敵の顔面へ投げつけ──左ストレート。硬い消化器のボディが遂に割れ、噴出する消火剤。
白煙が視界を埋め、伏黒甚爾の動きが一瞬止まった。
その隙に浮舟は横へ回り込む。
そして階段下の支柱へ全力で蹴りを叩き込んだ。
支柱そのものは壊れない。
しかし振動はマークシティ全体に響いた。
割れたガラス。歪んだ窓枠。
伏黒甚爾が先程砕いた壁、一角が完全に崩落する。
重力に従い
「やったか……!」
言った直後に後悔した。
煙の中から三節棍が単体で飛んでくる。
それは弾丸のように素早く、浮舟の腹部へと沈み込んだ。
「がッ……!?」
ガードが間に合わず、身体が吹き飛んだ。
手すりへ激突。
肺から空気が抜ける。
視界が消化剤とはまた違う理由によって白く染まる。
だが、瓦礫の山からゆったりと起き上がった伏黒甚爾も無傷ではなかった。
壁やガラスで切ったのか額や頬から僅かに血が流れている。
呼吸も少し荒い。
その程度。
息を吐きながら近くに落ちていた三節棍を拾い、今もその両足でしっかりと床を──地面を踏み締めている。
こちらを睨む殺意に満ちた黒い瞳も健在。
だが。
少しではあるが、着実に削れている。
浮舟は理解していた。
だから立ち上がる。
逃げ続ける。
勝機が生まれるまで。
浮舟は痛む身体を引きずりながら駆ける。
「ハァッ……! ハァッ……! ハァッ……!」
術師も非術師も、誰もいなかった。
スクランブル交差点にも。
道玄坂にも。
渋谷マークシティの周囲にも。
普段なら無数の人間が行き交っているはずの街が、今だけは不自然なほど静まり返っている。
律儀に移り変わる信号。
消えずに流れ続ける巨大ビジョン。
道路に停まったままの車。
今ここにいない一般人の行方を再び思い、浮舟の脳内には不意に真人の顔がチラつく。しかし息を切らしながらの思考であったためにすぐに掻き消えた。
振り返る。
伏黒甚爾は道の中央を走っていた。
三節棍を引きずっている。
二人分の足音と、ガチャ、ガチャ、と金属音だけが夜の渋谷に響いていた。
「キッツいンだから、全く」
浮舟は笑った。
そして、スクランブル交差点へと飛び出した。
信号は赤だが関係ない。
どうせ誰もいないのだから。
浮舟は交差点の中央まで走り、急停止した。
伏黒甚爾も止まる。
彼我の距離、数十メートル。
互いに向き合う。
「「…………」」
無音。
巨大ビジョンの強過ぎる光だけが二人を照らし、伏黒甚爾がその静寂を意に介することなく三節棍を構えた。
浮舟は自身の背後を盗み見る。
道玄坂。
その先には建物が連なっている。
そして、途中には建設途中のビルがある。
「──おい伏黒甚爾、バーカ! こっち来いタコ!」
浮舟が走った。
伏黒甚爾も舌打ちを鳴らしてから後を追う。
伏黒甚爾の爆発的な膂力により、空いていた距離が一気に縮まった。
浮舟は交差点から道玄坂へ入り、建物の角を曲がる。
三節棍が飛ぶ。
浮舟は跳ぶ。
標的を仕留め損ねた棍が浮舟のすぐ背後の看板を粉砕し、
二段。
三段。
建物の低い屋根へ飛び乗る。
伏黒甚爾は屋根を使わない。
真正面から壁へ突っ込んだ。
轟音。
壁面が大きく陥没する。
「ハァッ!?」
浮舟の目が驚愕に見開かれた。
伏黒甚爾は壁を突き破って追ってきていた。
建物そのものの耐久性よりも、伏黒甚爾の身体能力の方が優れているからである。
浮舟は慌てて屋根の端から飛び降りた。
道路を挟み、建設途中のビル内へ。渋谷の灯りが入りにくい暗がりに、浮舟は迷い無く飛び込んだ。
着地──転がる──立ち上がる。
その直後。
背後から伏黒甚爾が飛んできた。
「!」
浮舟が横へ跳ぶ。
伏黒甚爾の三節棍がコンクリート製の床面を叩く。
立ってられない程の衝撃と共に、浮舟が先程まで立っていたコンクリートが蜘蛛の巣状に割れていた。
浮舟はすぐにでも崩れ落ちそうな床に一瞥をくれながら、その隙に外階段へと駆け込んだ。
階段を下りる。
伏黒甚爾が追ってくる。
ガラガラッ。
床のコンクリートが崩れ落ちる音。
ドンッ。
何階か下の壁が揺れる。
ドンッ。
階段を降りている為、揺れが近付く。
そして三度目──浮舟が駆け下りている途中、すぐ真横の壁が吹き飛んだ。
伏黒甚爾がビルの壁を突き抜け、外階段へと現れた。
「だからさァッ! それ止めろってビックリすンだろッ!」
浮舟が階段の踊り場から身を投げる。
手すりを掴む。
身体を振る。
空を駆け、またすぐ隣のビルの外壁へと飛び移る。僅かな凹凸を足場に壁面を駆け上がり、また屋上。先程のビルとの数階分の高さの差異はあれど、屋上という事実以外には特に変わったことは無かった。
背後から伏黒甚爾の三節棍が伸び、浮舟の足首を狙う。
その鋭い切先が突き刺さるまであと数センチというところで──浮舟は床を転がった。
「危ねッ……!」
立ち上がる。
立ち上がり、駆ける。
背後で伏黒甚爾の足音が響く。
──ドン、ドン、ドン。
一歩ごとに屋上が震える。
この背を焼くプレッシャーに当てられながらも、浮舟は決して振り返らない。
振り返れば、足が止まる。
足が止まれば、捕まる。
だから前だけを見ていた。
屋上の端。その先には、道路を挟んで別のビル。
距離、十数メートル。
すぐ隣のビルに飛び移るのとはワケが違う。
しかし。
「……行くッきゃねェよな!」
浮舟は踏み切り、夜空へ飛び出す。
風を全身で受け、ほんの一瞬の浮遊感。
単なる落下ではなく浮舟の脚力によって賄われた幅跳びは、跳躍というよりも
高専指定の重たい制服をはためかせ、靴底が隣のビルの縁を捉える。着地。
衝撃を膝だけで吸収してしまわぬよう、そのまま転がって力の流れを受け流す。
直後、伏黒甚爾が当然のように跳んで追いかけてきた。
ドンッ、と屋上に巨大な亀裂が走る。
「無茶苦茶だなァ、お前……ッ!」
何がなんでも追いかけてくる伏黒甚爾にビビりながらも、浮舟は立ち上がった。
伏黒甚爾が三節棍を振り抜き、浮舟は身を屈める。
三節棍が頭上を通過。
最早慣れた遣り取り。
伏黒甚爾らしからぬ単調な攻撃に、浮舟は
標的を見失った三節棍が背後の給水塔へ直撃し、金属がひしゃげ──浮舟はその隙に非常階段へと走った。
浮舟としては、やむなしで戦うにしても開けた場所では絶対に戦いたくない──という思いがあっての行動だが、つい先程似たような行動を取って痛い目を見たことに気付いていなかった。
階段を駆け下りる。
三角飛びで踊り場を飛ばす。
手すりを滑り降りる。
伏黒甚爾が上から追ってくる。
浮舟は階段の途中で急停止した。
伏黒甚爾も止まる。
「……来いよ」
距離が離れてきたので、適度に煽ってヘイトを稼ぐのも忘れない。可愛い後輩達にこの化け物の相手をさせるワケにはいかないからだ。
浮舟の煽りに乗せられた伏黒甚爾。三節棍の鎖が鳴る。
浮舟は笑った。
「こっちこっちィ」
軽々と外へ飛び出し、道路上へ着地。痺れる足首の関節に鞭を打ち、再び渋谷の街へ。
道玄坂を駆け下り、来た道を戻る。
左右には誰もいない。
店の明かりだけが夜道を照らしている。
交差点の歩行者用信号機が青色に変わる。
誰も渡らないのに。浮舟は空虚な渋谷の街に鼻を鳴らし、一瞥に留めて通り抜ける。数秒後、伏黒甚爾も後を追う。
誰もいなくなった交差点。ただ機械だけが、いつまでも律儀に色を変え続けていた。
交差点を抜けた浮舟は、ふと前方を見て足を止める。
巨大な黄色い看板。
見慣れた文字。
MEGAドン・キホーテ。渋谷本店。
「……補給したいと思ってたんだよね」
浮舟はふと湧いて出た作戦を実行すべく、敷地内へと飛び込んだ。
入店。自動ドアが開く。
人のいない店内は明るく、商品棚が所狭しと迷路のように並んでいる。
ドン・キホーテ独特の発色に目を焼かれながら浮舟は奥へと走った。
浮舟を追ってきた伏黒甚爾も遅れて入店。
息を大きく吐き、三節棍を握ったまま、首を傾げながらゆっくりと店内を見回した。
──
「…………」
浮舟は棚の陰から伏黒甚爾の動向を確認しつつ、身を潜めていた。
息を殺す。
不意に、足音が真っ直ぐこちらへと近づいてきた。
一歩。
二歩。
三歩。
隠れたは良いものの、まだここでは戦えない。
まず追っ手を振り切り、目当ての物を手に入れてから不意打ちでもしようと企んでいた浮舟は、状況を打開すべく、目だけを必死に動かして情報を取り入れていた。
正面には大量の商品棚。ドン・キホーテ独特のポップと今の状況に不釣り合いなほど明るい店内bgmが人のいない店内で虚しく響く。
──右手には階段。
──左手には通路。
そして。
──眼前、エスカレーター。
──B1:生鮮食品、酒類売り場。
姿を見られるが、行くしかない。
浮舟はエスカレーターの手すりの上を滑り降り、着地。後方、斜め上──エスカレーターの向こうから商品棚を蹴散らして近付いてくる音がした。
酒類売り場に辿り着いた途端に感じた妙な居心地の良さに気を緩めそうになりながらも、浮舟は適当な棚と棚の隙間へ身体を押し込んだ。
背後から足音。
浮舟はしゃがみ込んだ。
目の前には酒類の棚がずらりと並んでいる。
普段なら少なからず客がいるはずの売り場。
しかし今夜は、浮舟と伏黒甚爾の二人しかいない。
完全な静寂。
浮舟が棚の向こうを覗く。
伏黒甚爾が立っている。
こちらの方角を見ている。
「……バレたか?」
浮舟の背中を冷たい汗が伝う。
伏黒甚爾が一歩踏み出した。
浮舟はさらに奥へ下がる。
棚が軋む。
伏黒甚爾の視線が動く。
浮舟は周囲を見渡した。
ふと、伏黒甚爾が視界から消えた。
どうやらバレてはいなかったらしい。
まだ大丈夫。このまま隠れながら移動しよう。
「…………」
しかし、浮舟はここにきてようやく理解した。
これ以上はもう駄目だ。逃げられない。
と。
やるしかない。
奴と戦い、戦いの最中に目当ての物を──。
「……は?」
眩。
顔を見上げれば、両手で左右の棚を押し飛ばした伏黒甚爾が、真っ黒な目で浮舟を見下ろしていた。
「テメェ……。いつまで逃げるつもりだよ」
棚と棚がぶつかる音。
商品が落ちる音。
酒瓶が割れる音。
その全てが、どこか遠くの場所から微かに聞こえてくるように錯覚してしまう。それほどの圧力。
「よ、よう伏黒甚爾。久し振り」
「さっき会ったばっかだろうが」
「は?」
「渋谷には何度も来たことがあるが、ドンキの場所はここじゃねぇ。それになんなんだ、MEGAってのは」
周囲を見渡しながら、どこか混乱したような面持ちでボヤく伏黒甚爾。思っていたよりも話の通じそうな雰囲気に、浮舟の緊張も解け始める。
「伏黒甚爾。ま、まさかお前、死んでたから……」
いわば10年余りのタイムスリップ。
それと似たようなことをその身を以て体験していた浮舟は、同情にも似た眼差しと共に呟く。
「いや、そんなことより──お前なんで生きてるんだよ」
「知るかよ。気付いたら降ろされてた」
「降ろされ……?」
「チッ。んなことはどうでも良いんだよ。テメェこそ
「え、あぁ。反転術式効くようになったの」
「そういう意味じゃねぇんだが……まぁどうでも良い」
面倒なのか、全てを説明しない伏黒甚爾。それに振り回されて思う存分混乱させられている浮舟は、思考がどこへも着地しないまま話を先に進められてしまった。
「俺の知らねぇ渋谷だろうが、MEGAだろうが関係ねぇ」
衝撃。
気付けば、浮舟の頬に伏黒甚爾の足の甲がめりこんでいた。
横移動。
棚をいくつも薙ぎ倒し、生肉が置かれている冷蔵棚に受け止められた。
「──今度こそ殺すって言ったよな」
頭に落ちてきたパック肉の雪崩を手で退ける浮舟を睨みながら、伏黒甚爾は口角を吊り上げて不気味に笑んだ。
∩
私達は、もう五歳の少女ではなかった。
鏡の中に映る私達は、
声も変わった。
髪も伸びた。
自分の足でどこへでも歩いていけるようになった。
もう、誰かに助けてもらわなければ何もできない子供ではない。
それでも。
ふとした瞬間、二人の心はあの日へ戻ってしまう。
薄暗い木の檻。
冷たい床。
空腹で力の入らなかった身体。
そして、檻の向こうから差し込んだ光。
そこに立っていたのが、あの人だった。
彼は自分たちよりずっと大きくて、何でもできるように見えた。
『違う! 先程見かけた痕跡は、この子達のものじゃない!』
大声で叫ぶ見知らぬ男の人。
第一印象は確かに怖かったはずなのに、不思議と村の人達とは違うのだと理解出来た。
『その話が本当ならどうしてこの二人は大人しく檻に入っているんだ! しかも、こんなにボロボロになって!』
まだ子供だから何を言っているのかは分からなかったけれど、なんとなく私達の為に怒っているのだと理解出来た。
やがて男の人は私達と同じように木の檻の中に入れられてしまって。
『……こんにちは』
『『……………………』』
突然話しかけられたのが怖くて、その時は檻の端まで逃げちゃったけど。
絶望的な状況なのに、男の人は明るく笑っていた。
『お腹空いてる……?』
そう言ってくれた。
心配してくれた。
笑いかけてくれた。
幼かった私達にとっては世界のすべてだった。
だからなのだろう。
五歳の私達には、その感情を「恋」以外の言葉で呼ぶことができなかった。
助けてくれた人。
自分たちを見つけてくれた人。
暗闇から連れ出してくれた人。
そんな人を好きにならない理由など、幼い私達にはなかった。
けれど、彼は──お兄ちゃんはもういない。
当時は
お兄ちゃんの死後、後を継ぐように私達を引き取ってくれた夏油様に教えてもらえばもらうほど。
その事実だけが、はっきりと理解できるようになった。
最初は、いつか帰ってくると思っていた。
次は、どこかで生きている気がしていた。
さらに年月が過ぎると、「もし生きていたら」と考えることさえ少なくなった。
忘れたわけではない。
忘れられないまま、私達を取り巻く最低な現実の方を覚えていったのだ。
非術師達がお兄ちゃんに何をしたのかを。
夏油様がお兄ちゃんの為にどれだけ戦ったのかを。
そして今。
私達は、お兄ちゃんと同じ高校生になった。
鏡の前に立つと、不意に思う。
──お兄ちゃんも、このくらいの年齢だったのだろうか。
記憶の中のお兄ちゃんは、いつまでも自分たちより大きい。
けれど今の私達は、
そのことが、私達二人には少しだけ不思議だった。
「……私たち、同じ歳になったね」
「うん」
それ以上、言葉が続かない。
同じ歳になったからといって、何かが変わるわけではない。
むしろ逆だった。
お兄ちゃんがどれほど若かったのかを、初めて実感してしまった。
幼い私達にとって、お兄ちゃんは大人のような存在だった。
何でも知っていて、何でも出来て、私達二人を救えるほど強い人。
けれど今なら分かる。
お兄ちゃんもまた、ただの少年だった。
怖かったのかもしれない。
迷ったのかもしれない。
私達を助けることが正しかったのか、悩んだかもしれない。
それでもお兄ちゃんは、あの檻を壊してくれた。外の世界へと連れ出してくれた。
だから私達は、今でもお兄ちゃんのことを想っている。
もう
もう
それでも、好きだったという気持ちだけは、過去形にできなかった。
それは未来を望む恋ではない。
──隣に立ってほしい。
──手を繋いでほしい。
今となってはもう絶対に叶わない。
でも、自分たちの人生の中に確かに存在した、たった一人のお兄ちゃんとして。
忘れたくない。
お兄ちゃんに救われた私達が、お兄ちゃんのことまで忘れてしまったら。
「……もし、お兄ちゃんが生きてたら」
私が呟く。
答えは返ってこず、呟いた私も沈黙を当然のものと思っていた。
だってその続きを言う必要も、聞く必要がないからだ。
もし生きていたら。
今の私達を見て、お兄ちゃんは何と言うだろう。
大きくなったな、と笑うだろうか。
あの頃は何も出来なかった二人が、ちゃんと自分の足で歩いていることを喜んでくれるだろうか。
それとも、もう私達のことなど覚えていないだろうか。
そんな想像をしてしまうたび、胸の奥が少しだけ痛む。
けれど、その痛みさえ私達二人には大切だった。
お兄ちゃんがもういないという証拠であり。
お兄ちゃんが確かにいたという証拠でもあるから。
二人で顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく小さく笑う。
同じ人を好きになった。
同じ人に救われた。
同じ人を喪った。
だからきっと、これから先も私達二人だけは知っている。
恋が実らなかったことを、私達はもう呪ってはいない。
もしかしたら実る必要などなかったのかもしれない。
それだけで、その人を好きになったことには意味があった。
そして私達二人はこれからも生きていく。
お兄ちゃんが生きられなかった時間の先へ。
お兄ちゃんが見ることのできなかった景色の中へ。
胸の奥に、五歳の頃から消えない小さな灯りを抱えたまま。
その灯りの名前を、私達二人は今でも
「……このボタン、お兄ちゃんと同じ制服だ」
「急ごう、菜々子。指で呪霊が寄るかも」
「……分かってる。……お願い、出て来て。
現在。
渋谷駅構内、某所。
脹相との戦いで気を失っていた虎杖の元に忍び寄る影が二つ。
──上下紺色のセーラー服に白いリボン。
長い茶髪。左手には縄で首を括った赤いぬいぐるみ。
──上部が白色、スカート部分が紺色のセーラー服。青いリボン。
その上からクリーム色のカーディガンを羽織り、後れ毛にヘアアイロンを当てた金髪のお団子ヘア。右手には、ウサギ耳の付いた緑色のカバーを着用したスマホ。
──
──
互いに周囲を警戒し合いながら、虎杖の口内に何かを押し込んでいた。
不意に呪力反応。
二人して感知した方角を見れば、そこには火山頭の呪霊──漏瑚が駆け付けたところだった。何をしているんだと、信じられないモノを見るような目で美々子と菜々子の二人を睨んでいる。
「貴様らッ、指を何本喰わせた!!」
見るからに強者。
震えを隠す為か、美々子はぬいぐるみを抱き抱えながら叫ぶように返した。
「い……、言わない!」
「美々子!」
しかしその返答は菜々子からすれば悪手だったようで、美々子の行動を非難するように後れ毛のカールを揺らした。
「そうか、死ね」
漏瑚が左手を
菜々子が美々子を抱き寄せてスマホを構える。
瞬く間に美々子と菜々子の二人は炎に包まれ、膝から地面へと崩れ落ちた。
今尚燃え盛る二人の身体はその高過ぎる温度から直視することさえ叶わず、見えるのは網膜を焼くオレンジと大まかなシルエットのみ。
漏瑚は二人分の炎を一瞥し、虎杖の方へと向き直った。
美々子と菜々子の手により浮かび上がった虎杖の身体の紋様は、時間の経過と共に段々と薄れていっている。
『虎杖悠仁は指を20本全て取り込んでも、肉体の主導権を宿儺に譲らないだろう』
かつての、呪詛師夏油の言葉が脳裏に
『だがそれは例えば、1日1本、20日間かけて取り込んだ場合だ』
あの薄ら笑いの奥にある冷めた瞳を思い出す。
『一度に10本も指を取り込めば適応は追い付かず、一時的だが肉体の主導権は宿儺に移る』
おあつらえ向きな状況。
この時の為だったのかと、漏瑚は懐から
「起きろ、宿儺!」
動かない虎杖の口に、指を順番に飲み込ませていく。殺さなければ良いのだろうと、その程度に認識である虎杖に対する扱いは粗雑で、強引に押し込んで次から次へと指を飲ませる。
やがて、10本全てが虎杖の中へと消えた。
「ゲホッ」
音。
漏瑚が振り向くと、そこには疲弊した様子の美々子と菜々子が、互いに支え合いながら立っていた。
「……生きておったか」
舐めていたとは言え、確実に殺した筈だった。
どちらかの術式だろう──漏瑚は冷静に思考を繋げ。
「手間をかけさせるな」
再び二人の身体を炎で呑み込まんと構えた左腕──肘から先が消えていた。
「
漏瑚の目が。美々子と菜々子の目が。
ある一人の人物へと集中する。
突然沸いた
「
虎杖の口を開かせる為に押さえていた、漏瑚の右手。その先には心底不愉快そうにこちらを睨む宿儺の顔があった。
漏瑚が飛び退く。
美々子と菜々子の側まで下がり、言葉を選ぼうとする。しかし存外に混乱してしまっている頭により、口を開くことすら出来なくなってしまっていた。
邪悪。
互いの一挙手一投足が全て死因に成りうる恐怖。
美々子と菜々子は互いに抱き合いながら身体の奥底から沸き出る震えをなんとか止めようと試みる。
しかし宿儺の視線がこちらの方角を向いているという事実だけで呼吸が荒くなり、そもそも許可無く取り行っているこの呼吸一つで殺されるのではないかと怯えてしまう。
「頭が高いな」
そんな美々子と菜々子の畏れを他所に、宿儺は己の前に広がる不快にただ一言呟く。
それだけで美々子と菜々子だけでなく、漏瑚さえも平伏した。
いや、正確には。
「片膝で足りると思ったか?」
額を地面に擦り付けていた美々子と菜々子は難を逃れたが、ただ片膝を付いただけの漏瑚の額から上を、不可視の斬撃が斬り抜いた。
「実るほどなんとやらだ。余程頭が軽いとみえる」
漏瑚の頭部から血が溢れ出た。顔を伝って流れるその血が大きな瞳に触れてしまっても、拭うことすら許されない。未だ殺されていないことを幸運に思う他無い。
「ガキ共。まずはオマエらだ。俺に何か話があるのだろう」
宿儺の興味が平伏したままの美々子と菜々子に移る。視線を向けられた二人は、自身のうなじに感じるプレッシャーに息を呑みながら、視線を床に下ろしたまま目を見開いた。
「指一本分くらいは聞いてやる。言ってみろ」
上手く酸素が取り込めない。しかし不自然に沈黙が続けば不敬と取られかねない。菜々子は美々子の代わりに恐る恐る口を開いて発言した。
「……
それは、親代わりに自分達を育ててくれた大切な人への鎮魂に他ならない。
「そいつを殺してください。夏油様を解放してください」
そしてこれは、
「だから……どうか……!」
平伏したまま、地を睨む力だけが強くなっていく。
「私達はもう一本の指の在処を知っています。ソイツを殺してくれればそれをお教えします」
二人には最早何も無い。
あるのは怒りだけだ。
「
宿儺が命ずる。
美々子と菜々子は、意を決してゆっくりと顔を上げた。
宿儺の口角が僅かに上がる。
その表情の移り代わりがやけにスローで目に映り、美々子は顔の表面に何か
それが宿儺からの攻撃であることを自覚するより前に。
死を知覚するよりも先に。
目を焼く閃光。
赤い光が刹那、両者の間に
そして。
「……いない!?」
漏瑚の目が驚愕に開かれる。
忽然と姿を消した美々子と菜々子。
二人がいた辺りには、数多の斬撃の跡が残されていた。
宿儺は両手を制服のポケットに入れ、赤い閃光が伸びていった向こうを見つめながら満足気に笑うのだった。
「全く、誰の仕業かと思えば──ケヒッ。次はオマエだ、呪霊。何の用だ」
∩
『すごいすごい! もう一回っ! もう一回やりたいっ!』
『もう一回やったら更にもう一回やることになっちゃうから、また今度ね。今度は屋根まで跳んであげるよ』
『うんっ! 約束ね!』
『約束』
『何でもやろう。美味しいお菓子を食べて、色んなところに出かけよう。高専には、二人をいじめる悪い大人はいないからね』
最初に感じたのは、耳をくすぐる風の音だった。
死を覚悟して目を瞑っていたからか、何が起こったのかが全く分からない。気が付けば、風が勢い良く耳の横を通り過ぎていた。どうやら私達は後ろ向きで猛スピードで進んでいるらしい。
次に感じたのは、誰かに抱き締められているということだった。
すぐ隣には
そして今感じているのは、理由の分からない懐かしさに襲われているということ。
抱き締める腕の力強さにそう思ったのか、それとも顔を埋めた胸。衣類から香る匂いでそう思ったのか。
思い至る前に、私達を抱き抱えた誰かはどこかへと着地した。それから遅れて、移動速度の速さからくの字に曲がっていた身体が元に戻り、私達の両足も地面へと着いた。
崩れた髪を鏡も確認せずに勘で直し、未だフラつく脚に力を入れ、現状を把握する為に私達をここまで運んできた人物の顔を見上げる。
目が合った。
鼻腔をくすぐるアルコール臭を他所に、私達は言葉を失っていた。
その人も私達と同じように、とても驚いたような表情で私達二人のことを見ていて。
大きく開いた口をパクパクと動かしたあと「変なこと聞いても良い?」と問うてきた。
「……アル中の身内とかいたりする?」
「「──お兄ちゃん!!」」
伏黒甚爾との戦いを書きたいな。ミミナナとの再会を書きたいなと思うままに書いていたらどっちも同じ進捗で全然完成しないという状態で日々が過ぎていってました。大変お待たせしました。
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ではまた。