伊地知虹夏の人生は、前向きに進み始めていたはずだった。
彼女の所属しているバンド『結束バンド』は少しずつだが人々に知られていき、ファンもついていっていた。
人間関係も彼女の人当たりの良さから良好で、多くの親しい友人を作っていた。
バンド内では一緒にバンドを始めたベースの山田リョウ、運命的な出会いをしたギターの後藤ひとり、最初はひと悶着あったが今では頼れるボーカルの喜多郁代と確かな絆を育み、自バンドの外でもひとりの師匠的な存在である廣井きくりや、ライバルでもありいい共でもある大槻ヨヨコなどといった人達と触れ、彼女を成長させていた。
音楽レーベル『ストレイビート』にも通うようになり、配信ではあるが彼女達の楽曲を世に広く出すこともできた。
間違いなく、彼女の人生はいい方向に進んでいた……はずだった。
しかし――
「――あ、うあああっ……」
彼女は今、車の運転席で頭から血を流しうめき声を上げていた。
ガンガンと痛む頭に、焦点の合わない視界。そして煙を上げながら大きく開いているボンネット。
明らかに大丈夫な状態ではなかった。
「お……姉ちゃん……」
だが、そんな彼女が気にしたのは自分でも、もちろん車の事でもない。
助手席に座っていた姉の事だった。
虹夏は左隣を見る。
「……あ、ああああああっ……!」
そこには、ひしゃげた車体に押しつぶされ、頭から大量の血を流して、だらりと手を垂らしながら意識を失っている姉、伊地知星歌の姿があったのだ。
「ああああああああああああああっ……!?」
虹夏の叫びが鳴り響くサイレンをかき消すように響く。
その日、虹夏の幸せな人生に、大きな亀裂が入ることとなった。
◇◆◇◆◇
「……お姉ちゃん」
虹夏は小さな病室でベッドの上に眠る姉を座って見つめていた。
「…………」
星歌は虹夏の言葉に答えることなく、頭に包帯を巻き、静かに人工呼吸器が当てられた状態で呼吸し続けるだけだった。
「…………」
虹夏はそっと星歌の頬に触れる。ほとんど動きはない。
病室も静かで、ピッ、ピッ、という心電図の無機質な電子音だけが流れている。
「……っ!」
虹夏はそんな姉の姿を見ていると、途端に目に涙が溜まって来る。我慢することはできなさそうだった。
故に、せめて姉の体を濡らしてはいけないと、とっさに立ち上がり後ろを向いて泣こうとする。
「…………!」
と、そこで振り返った瞬間に、虹夏はそこで始めて背後に人がいたのに気づいた。
「……虹夏」
それは、リョウだった。彼女の親友であり、バンドメンバーであるリョウが暗い面持ちで彼女の目の前にいた。
「リョウ……リョウ! リョウっ!」
虹夏はそんなリョウを見ると、彼女の胸にしがみ付く。
「うっ、うああああああああああああああああああああっ……!」
そして泣く。彼女の胸の中で声を出して泣く。
リョウはそんな虹夏の体を、そっと抱くのだった。
「ごめんねリョウ……突然泣いちゃったりして」
それから少しして。
二人は病室の外にあるベンチに座りながら話していた。
彼女らの周りには人の姿はあまりなく、いても病院の看護師かリハビリ目的で体を動かしている患者がたまに通るぐらいだった。
「ううん、いいの。それよりも、大丈夫?」
リョウはまだ鼻を赤くしている虹夏にそう声をかける。彼女なりにとても心配しているような表情で。
「……ちょっと、まだ大丈夫じゃないかも。だってお姉ちゃん、全然起きないから。今日で十日だよ? 十日も寝たきりなんだよ? 私がリョウのご両親から借りた車で初ドライブしようって言って、事故を起こしたから……私のせいで……」
「それは違う! 虹夏のせいじゃない!」
虹夏の言葉に、リョウはとっさに言った。
「事故は前方のトラックが居眠り運転で突然車線を越えてきたせいだって、警察も判断した! 何も虹夏は悪くないって!」
「ううん、私が悪いの!」
しかし、そんなリョウの叫びを更に虹夏は叫んで否定する。
「私があのときちゃんとブレーキを踏んでいればこんなことにはならなかったんだよ! でも私、パニックになっちゃって逆にアクセル踏んじゃって……そのせいでお姉ちゃんは……!」
虹夏はそう言いながら手を自分の膝上で握りしめる。そしてまた、ぽつりぽつりと泣き始め、その拳の上に涙をこぼす。
「虹夏……大丈夫、きっと店長は目を覚ます。ここの病院の医者は、みんな腕がいいから。父が言ってた」
「うん……うん……」
虹夏はそっとリョウの肩に身を寄せる。
リョウもまた、優しくそんな虹夏の肩を抱く。
「私が側にいるから……だから、一緒に頑張ろう?」
「うん……ありがとう、リョウ……」
それから、しばらく虹夏はしばらく涙を流していた。リョウは、そんな虹夏が泣き止むのを静かに待ち、一日彼女と共に居続けるのだった。
◇◆◇◆◇
――三日後。
「ありがとうございます」
ライブハウス『スターリー』に、虹夏の声が響いていた。
星歌が店長を務め、虹夏の家でもあったスターリーはその日、久々の開店をしていた。
だが、星歌の意識が戻ったわけではない。
現在店を回しているのは、スターリーに元からいるスタッフ、そして虹夏達結束バンドを始めとするバイトの面々であった。
「あっ、だ、大丈夫ですか虹夏ちゃん……」
客にドリンクを渡した虹夏の後ろから心配げな声がかけられた。
虹夏が振り返ると、そこにいたのはひとりだった。
ひとりは声に負けないくらいに心配そうな表情で虹夏を見ていた。
「あっ、ぼっちちゃん。うん、大丈夫だよ。心配しないで」
虹夏はひとりに言う。
だが、その目元にはクマができており、あまり大丈夫そうには見えなかった。
「……で、でも虹夏ちゃん、朝からずっと休憩なしで働いてて大変そうです……それに、あんな事があったのにバイトなんて……」
「ううん、こんなときだからこそ、私は働きたいの」
虹夏は少しうつむきながらも、なんとか笑顔を作って言った。
「忙しくしていたほうが気が紛れるし、それにお姉ちゃんと私の大事な場所であるスターリーを維持したいんだ。なんていうかさ、ここで頑張ってるバンドさんは私達以外にもいっぱいいるしね」
「……それが、スターリーをまた開いた理由ですか?」
「うん。ぼっちちゃん達を巻き込んじゃって悪いと思ってる。この埋め合わせは必ずするから、さ」
虹夏はそう言ってひとりに笑いかける。
だが、その笑顔にぼっちは痛々しさを感じてしまっていた。陰キャを自称する彼女にも、それははっきりと伝わるほどに。
「……あっ、あのっ!」
だからこそ、ひとりは言わなければならないと思った。
「あっ、その、私……何もできませんけど、でも、きっと大丈夫だと思います! あの店長が、虹夏ちゃんを置いていなくなるなんて、そんな事、あるわけありませんから……!」
「ぼっちちゃん……」
ひとりが必死に言ったその言葉。それで、虹夏は目頭が熱くなるのを感じた。
だが、ここで泣いては余計にひとりを混乱させてしまうだろう、そう思い、彼女はニカっと笑ってみせた。
「……ありがとう! その言葉だけで、私は凄い勇気を貰えたよ! やっぱりぼっちちゃんは、私のギターヒーローだね!」
「あっ、いや、そんな……」
虹夏の言葉に少し恥ずかしそうにしどろもどろになるひとり。
そんなひとりの肩をぽんと叩いて、虹夏は言う。
「もうー! こういうときは笑ってかっこよく答えるところでしょ? まだまだ鍛えないとなぁ」
「……はい」
虹夏の言葉に、少し笑って笑みを作るひとり。虹夏は思う。仲間のために、もっと頑張らないと、と。
そうしてその日の業務を終えた閉店後。
虹夏達結束バンドは帰らずにリハーサル室に集まっていた。
久々にセッションしよう。
そう虹夏が言ったのだ。
「みんなー、音合わせなかったからって練習サボったりしてなかったー?」
虹夏はドラムの前で笑いながら言う。
「し、してましたよ! ギターも発声練習もちゃんとしてました!」
それに答えたのは郁代だった。
彼女のその回答に虹夏は笑う。
「そっか、良かった。楽器って言うのはねー、ちょっとでも怠けるとすぐ腕が落ちるからねー。気を抜いちゃダメだよー」
笑顔で言い続ける虹夏。
そんな虹夏に少し不安そうな顔をしながら郁代はひとりの方を見る。しかし、ひとりはちょっと困ったように笑う。
郁代はそれを、虹夏の頑張りに答えようというひとりなりの言葉だと捉えた。
だから郁代は言う。
「安心してください! むしろこの十日ちょっとの間に成長しましたから見てくださいよ!」
「お、それは楽しみだねー」
「虹夏こそ、腕訛ってるんじゃないの? 急に初心者レベルになってたりして」
「あ、リョウそういうこと言うー? まったく、デリカシーも何もないんだからー」
「ハハハ……」
笑うひとり達。
以前のような和やかな空気がそこには流れていた。
「それじゃあまずは久々に一曲通してやってみようか。『あのバンド』でいいかな?」
「はい、大丈夫ですよ」
「大丈夫」
「だ、大丈夫です……!」
虹夏の言葉に全員が頷く。それに虹夏は笑顔で頷き答え返す。
「よし、じゃあいくよー! ワン、ツー……」
と、そこで虹夏はスティックを叩いて合図を取ろうとし、一瞬フロアタムを叩くペダルを見る。
その瞬間だった。
「……っ!?」
虹夏の視界が、ぐにゃりと歪んだ。
そして、見ているものが車のペダルに変わり、思い出す。あの日の事故の事を。血と鉄の臭いが混ざった臭気。朧気な視界、そしてぐったりと力なく潰されている姉の姿。
また、同時に思い出す。それは、母の遺影だった。交通事故で亡くした、大好きだった母の遺影。
「……おっ、おえええええええええええっ!?」
それらの記憶が一気にフラッシュバックした瞬間、虹夏は吐いた。
母の死、姉の喪失。
その二つの記憶が同時に襲ってきた結果であった。
「虹夏!?」
「伊地知先輩!?」
「虹夏ちゃん!?」
その姿に、他の三人は当然驚愕する。だが、一番驚いていたのは、虹夏自身であった。
「……あ、ああ……ごめん……やっぱり、私……!」
そして立ち上がりその場から逃げ出す虹夏。
「虹夏っ!」
その後を一番に追ったのはリョウだった。リョウは、大事にしているベースを投げ出し走っていた。
他二人は、リハーサル室にただ立ち尽くす事しかできなかった。
「う、うああああああああっ……!」
「虹夏っ!」
廊下で一人泣きながら走る虹夏の手を、リョウが掴む。
そこで二人は足を止める。
「離して! 離してよリョウ!」
「離さない!」
リョウは叫ぶ。一方で、虹夏はぐちゃぐちゃに涙で顔をしかめていた。
「やっぱり、私には無理だよ……! お姉ちゃんをあんなにしちゃったのに……! 一人バンドをやるなんて、私には無理なんだよ!」
「……虹夏」
「もうやだよ……お姉ちゃんと、離れ離れになりたくないよ……」
「大丈夫だ、きっと大丈夫だから……!」
「どうしてそんなこと言えるの!? もうずっと目を覚ましてないんだよ!? 無責任なこと言わないでよ!」
虹夏は叫ぶ。その言葉に、リョウはびくりと体を震わせ、虹夏の腕を離す。
「……ご、ごめん」
「……ううん、私の方こそ悪かった。ごめん」
お互い俯きながら言う二人。
そして、少しの沈黙が流れる。
「……私、実は直前、車の中でお姉ちゃんと喧嘩してたんだ」
「え……?」
と、そこで虹夏は話し始める。
「本当に些細な事だったんだけどね。たまにするような内容で、というか、私がただ一方的に拗ねてただけなんだけど……」
「…………」
リョウは黙って虹夏の言葉を聞く。虹夏はただぽつりぽつりと離し続ける。
「私が曲の配信の調子が良いって言って、お姉ちゃんがあんまり調子乗るなよって言って、それで私が反発して……でも、その直後だったの。私が事故を起こしちゃったのは」
虹夏はそこで顔を両手で覆う。
「私、お姉ちゃんとの最後のやり取りを喧嘩で終えたくないよ……また、お姉ちゃんと笑い合いたいよ……」
「……虹夏」
そう言いながらさめざめと泣く虹夏に、リョウは何も言えなかった。
いや、言う勇気がなかった。また何か無責任に励ますような言葉をかけても、彼女を傷つけるだけだと、そんな恐怖があったのだ。
「…………」
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……!」
だから、リョウは泣く虹夏に優しい言葉をかけることも、優しく抱いてやることもできなかった。
ただ、廊下には虹夏の静かな泣き声が響くだけだった。
そんなときだった。
「あっ、二人共、やっと見つけました……!」
二人に駆け寄ってくる姿があったのだ。それはスターリーの音響を担当しているPAさんだった。
「PAさん……どうしたんですか?」
リョウが聞く。すると、彼女の言葉で二人は驚く事になる。
「今、病院から電話があって……店長が目を覚ましたようなんです!」
「お姉ちゃんっ!」
病院からの連絡を受けてすぐ、虹夏は病室に向かった。
一刻も早く姉に会いたい。その気持ちで一人病室を訪れた。
「お姉ちゃん!」
そこには、病室のベッドの上で体を起こしている星歌の姿があった。
彼女のその姿を見た、虹夏は、安心で涙を流しながら笑みを浮かべる。
「良かった……目が覚めたんだね、お姉ちゃん……!」
星歌の姿に喜びながら声をかける虹夏。
「…………」
だが、何か様子がおかしかった。
星歌は訝しむような顔で、虹夏を見ていたのだから。
「お姉ちゃん……?」
「……誰だ、お前は」
「え……?」
その言葉は、虹夏から簡単に笑顔を奪った。
「私は……私は、伊地知星歌。それは分かる。でも、お前なんか知らない……私に、妹なんて、いないはず……」
「あ、ああああああ……!」
虹夏は暗い暗い絶望に落ち込んでいく。
体から力が抜け、その場に膝から崩れ落ちる。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
そして謝る。ただ、謝り続ける。
「何を言っているんだ……? 気持ち悪い、出てってくれないか?」
しかし、そんな虹夏の言葉は星歌には届かない。
「……は、ははははははははは」
それは、虹夏の心を壊すのに十分だった。
◇◆◇◆◇
――それからしばらく後……。
「……これで、ここも終わりなんですね」
リョウはスターリーの前でそう言った。彼女の前には扉があり、そこには『閉店』の文字が書かれた張り紙がされていた。
「ええ……だって、店長がもういないんですもの。しかたないですよ」
それに答えたのはPAさんだった。彼女もまた、とても寂しそうな顔をしている。
「……今、店長は何を?」
「ええ。色々と記憶を失ったけど、それはともかく一人の人間として再出発しているみたいです。記憶はいつ戻るか分からないから、そうするしかないみたいだけど……」
「……そうですか」
「虹夏ちゃんの方は、どうなんです……?」
PAさんがリョウに聞く。すると、リョウは苦虫を噛み潰したような顔で俯きながら言う。
「……あれ以来、ずっと引きこもってます。私達バンドのメンバーがいくら見舞いに行っても、部屋の扉すら開けてくれない。ちょくちょく出てっているらしいですから、生活はしてるみたいですけれど……」
「……そう。じゃあ、結束バンドは」
「はい。実質解散です。……四人じゃなくなった……虹夏がいなくなったバンドなんて、続ける価値、ないですから」
「……寂しくなりますね」
「……は……い……!」
どこで、リョウは耐えきれずに泣き出した。そんなリョウの頭を、PAさんは抱く。
そのPAさんの胸中で、リョウはただ涙を流す事しかできなかった。
「……ふふふ、お姉ちゃん」
暗い室内。
そこで虹夏はそう言いながら笑っていた。
笑って向かい合っている相手は、かつて星歌がよく寝るときに抱いていたぬいぐるみだった。
「お姉ちゃん、私達、ずっと一緒だよ……ずっと……ずっとずっとずっとずっと……」
虚ろな目で続ける虹夏。
空にいる母の元に届けるだった星は、もう二度と輝く事はない……。