VTuber育成ゲームに転生したけど、ステ振りに失敗しました 作:bnn
東京都目黒区目黒一丁目。
目黒川の桜並木から川沿いを少し歩いた場所に、その建物はあった。
川沿いの遊歩道を見下ろす、周りより頭一つ背の高いおしゃれなオフィスビル。
氷川さんと鶴見さんの合同会社『アイスクレイン』は、そのビルのワンフロアに入っていた。
「……すごい建物だなぁ」
賃料とかどうしてるんだろう。
正式な社員は氷川さんと鶴見さんの二人しかいないと聞いていたから、もっとこぢんまりした感じのオフィスを想像してたんだけど……。
薄手のワイドパンツとティーシャツなんていうラフな格好で来てしまって、浮いていないか心配だ。せめてもう少しフォーマルな装いの方がよかったかもしれない。
そんなことを考えながら、氷川さんにメッセージを飛ばす。
『事務所の下に着きました。何階でしょうか?』
すぐに既読がついて、短く返信がきた。
『迎えに行くわ。ちょっと待ってて』
わざわざ下りてきてくれるみたいだ。
マスクと帽子を外してリュックにしまいながら、氷川さんの到着を待つ。
川沿いに並んだ桜の木をぼんやり眺めていると、入り口からスーツ姿の氷川さんが出てきて、声をかけられた。
「お待たせ。ごめんなさいね、わざわざ事務所まで来てもらって」
『いえ、そんなに遠くないですから。むしろお忙しいのに、お時間をいただいてありがとうございます』
スマホの音声で返事をしながら、彼女の背中について建物の中へ入っていく。
氷川さんと鶴見さんは、すでに自分たちの会社を起こして登記まで済ませているものの、まだ正式にフォースターを辞めたわけではないそうだ。
独立に関する手続きやその後の作業と並行して、退職のための引き継ぎを急ピッチで行っているらしい。
なので、どう考えても今の彼女たちはめちゃくちゃ多忙だと思う。
思うのだが、なぜか氷川さんの肌には妙にハリがあって、やたらいきいきしていた。
ワーカホリックなんだろうか。
「ここまで迷わなかった?」
エレベーターの中で、氷川さんが話しかけてきた。
開きっぱなしにしていたアプリに、また文章を打ち込んでいく。
『分かりやすい場所だったので、大丈夫でした。こんな土地の高そうな場所に事務所を構えてるとは思いませんでしたが……』
「前の会社と近い方が何かと都合が良くてね。確かにお金はかかるけど、瑠奈が……ああ、ついたわね」
エレベーターが目的の階で止まり、氷川さんが会話を切り上げた。
すごく気になるところで話が終わってしまったが、根掘り葉掘り訊くのも何だか怖いような気もする。
鶴見さん、何をやってるんだろう。悪いことでもしてるのかな……。
不穏な想像をしながらエレベーターを降りて、氷川さんの後に続く。
カードキーで施錠を解除して扉を開けると、冷たい空調の風が肌を撫でた。
扉の向こうは、広々としたオフィスだった。
いや、オフィスというよりはモダンなカフェといった印象の方が強いだろうか。
ウッド調のインテリアと、随所に置かれた観葉植物が、仕事をする場所というイメージと結びつかない。
部屋の左側にある窓からは太陽光が差し込み、天井に吊られた間接照明とともに部屋全体を明るく照らしていた。
窓の手前には可愛らしいウッドテーブルと、赤茶色のソファーが並んでいる。
部屋の右側にはソファーと同色の絨毯が敷かれ、中央にとんでもなく巨大なビーズクッションが鎮座していた。その周りを囲うように、大量の段ボール箱が積まれている。
絨毯奥の壁際には、自立式のスタンドが二本立っていた。そこに大きなスクリーンが掛けられていて、手前にはコンパクトな超短焦点プロジェクターがぽつんと置かれている。
何というか、すごく居心地のいい隠れ家といった雰囲気のオフィスだった。
実用性はともかく、こんな場所でなら楽しく仕事ができそうだ。
「おー。やっと来たか」
部屋の中をきょろきょろ観察していると、右の方から声が聞こえた。
巨大なビーズクッションがもぞもぞ動いて、奥から鶴見さんがひょこっと顔を出す。
例によって黒猫タイプの可愛いルームウェアを着ている。
いよいよ仕事場というのが怪しくなってきた。
『こんにちは、鶴見さん。お忙しいところお邪魔してすみません』
「私は何もしないから関係ないよ。契約なんかの諸々は全部麻子に聞いてくれ。ごゆっくりー」
それだけ言って顔を引っ込めると、奥からカタカタとキーボードを叩く音が聞こえてきた。どうやら仕事中だったらしい。
言われた通り氷川さんに向き直ると、彼女は少し微笑んで肩をすくめた。
「完全に分業してやってるの。瑠奈が技術責任者で、私は営業や雑務全般。どうぞ、座ってて。飲み物を淹れてくるから」
私をソファー席に座るよう促してから、部屋の奥へ進んでいく。
奥には二つ扉があり、片方は給湯室になっていた。もう片方はガラス張りで、おそらく応接室か、会議室のどちらかだろう。
氷川さんの言葉に従い、赤茶色のソファーに腰を下ろす。
柔らかい革の感触が、沈み込んだお尻から伝わってきた。
窓から外を覗いてみると、眼下に目黒川が流れていた。開放感のある景色に心が洗われる。
ぽかぽかする陽気と、お昼過ぎの長閑な時間が、私を午睡へと誘っていた。
くっ! と眉間に力を入れて、眠気を振り払う。
頭を動かしてないと、このまま眠ってしまいそうだ。
あくびを噛み殺しながら、私は頭の中を整理するため、二日前の出来事に思いを馳せた。
* * *
二日前。スカウトに来た氷川さんと鶴見さんを見送ってから、私はゲームを起動して、自分のステータスについて考えてみた。
氷川さんからの寸評を受けて、自分の応募シートの問題点に気付くことはできた。だけど気付けたのはそれだけだ。いくら思い返してみても、他に自分の行動のおかしな点を挙げることはできなかった。
こうなると、自分で自分が信じられなくなる。
本当に他におかしな点がなかったのか、それともただ気付けていないだけなのか……。
おそらく後者だろう、とは思う。
だけど自分で気付けないものをいくら考えても、一人では対策の立てようがない。
とりあえず、ゲームのステータスが原因ということだけははっきりしている。なので真っ先に出来ることと言えば、初配信で得た四ポイントを使うことくらいだった。
では、どのステータスを上げようか。
しばらく悩んで、ひとまず〈演技力〉、〈画力〉、〈ゲームセンス〉は候補から除外した。
配信で避ければマイナス評価がつくことはないみたいだし、これからすぐに必要になる能力ではないはずだ。
〈歌唱力〉はそもそも上げられなかった。
おそらく999がステータスの最高値なんだろう。
もしかしたらまだ上限が解放されてないとかそういうことかもしれないけれど、ある意味上げられなくて良かったと思う。
まだ歌唱力を上げられるとなれば、自分がその誘惑に勝てるとは思えない。
あらゆるデメリットを後回しにして、すべてのポイントを歌唱力に振ってしまっていた気がする。
そんな馬鹿なこともできなかったので、残る候補は〈トーク力〉、〈企画力〉、〈コミュニケーション能力〉、〈運〉の四つ。
それぞれに一ポイントずつ振ってもいいが、たった一ポイントでどれくらいの影響が自分にあるのか分からない。
できれば無駄なところには使いたくなかった。
この中で、〈トーク力〉と〈企画力〉はおそらく毎回の配信で評価に関わってくる。
なのでこの二つは、最低でもマイナス評価を受けない値までは優先して上げておきたいところだ。
特に〈企画力〉については、応募シートの凄惨さの一番の原因のような気がしているので、なおのことゼロのままにはしておきたくない。
昨日までなら〈コミュニケーション能力〉に振ることを考えたかもしれないけれど、鶴見さんから読み上げアプリを紹介してもらって、他者との意思疎通が比較的容易になった今、優先して上げるべきかといわれると微妙に思えた。
まったく分からないのが〈運〉だ。
正直この世界に来てから、自分が明らかに不運になったと感じるような出来事は起こっていない。
上手くいかなかったことは、すべて自分の至らない行動の結果として妥当な範囲に収まっていると思う。
都合よく考えれば、〈運〉のステータスは本来の私が持っているものからマイナスにはならず、上げるごとに幸運が訪れやすくなるとか、そんな感じだろうか。
あるいは配信内で何かハプニングが起こった時、それが撮れ高になるか、炎上案件になるかが運で左右されるみたいな……ううん、分からない。
とりあえず、実生活で困っていることはないんだし、〈コミュニケーション能力〉と同様に保留でもいいだろう。
氷川さんたちとの約束は二日後で、明日は一日オフだ。
まずは確実に必要になる〈トーク力〉と〈企画力〉に一ポイントずつ振って、明日一日過ごしてみよう。
それで何か十分な変化があれば、残った二ポイントを〈コミュニケーション能力〉と〈運〉にそれぞれ振り分ける。
逆に何も変化を実感できなければ、〈トーク力〉と〈企画力〉にもう一ポイントずつ振って効果を試してみる。
いったんその方針でいってみようかな。
そこまで考えてから、私は手持ちのVポイントの半分を、〈トーク力〉と〈企画力〉に振り分けた。
* * *
「――でも、結局何にも変化がなかったんだよね……」
離れた場所で作業をしている鶴見さんには聞こえないくらいの小さな声で、そう呟いた。
二回目のステ振りを行った次の日、私はいくつか企画を立ててみたり、限定配信で誰にも見せずにフリートークを試してみたりした。
だけど、結果は散々。
まともな企画なんて一つも立てられないし、トークも一切何も浮かばないどころか、ちゃんと声を出すことすらできなかった。
唯一の変化といえば、せいぜい自分の名前をかろうじて言えたことくらいだろうか。
結局〈トーク力〉と〈企画力〉に二ポイントずつ振り分けたけど、まだまだ実感が得られるほどの大きな変化はない。
「やっぱりもっとポイントを稼がないと、すぐには成長させられないかぁ……」
外の景色を眺めながら、深くため息をついた。
こういうのを、前途多難と言うのだろうか。
デビュー配信で、まともに挨拶することもできなかったらどうしよう。
名前の他にも、事務所とか、どんな配信をしていきたいかとか、最低限伝えないといけない情報はたくさんある。
それを全部、あらかじめ用意しておいた合成音声に頼るとか……それはちょっと嫌だなぁ……。
せめて〈運〉がよければ逆に話題になるかもしれないと期待もできるけど、今の私には、せっかく見に来てくれた人を白けさせる未来しか想像できなかった。
「何を暗い顔しているの? 瑠奈に何か言われた?」
後ろから声をかけられて、ビクッと肩が上下した。
振り返ると、ティーカップを乗せたソーサーを両手に持った氷川さんが、不思議そうな顔をして立っていた。脇には書類の束を挟んでいる。
氷川さんのさらに後ろ、ビーズクッションの向こう側で、鶴見さんが「何も言ってねーよ!」と抗議の声を上げた。
ソーサーをウッドテーブルに置くと、氷川さんは対面側のソファーに腰を下ろす。
『いえ、別になにも。外が綺麗だなって思って見てただけです』
スマホで言葉を返すと、氷川さんは「そう?」と相槌を打ってから、私の前に砂糖とミルクを置いてくれた。
カップの中には、透明感のある緋色の紅茶が淹れられていた。
定型文のフォルダから『ありがとうございます』をタップして、軽く頭を下げる。
紅茶を一口飲むと、マスカットのようなフルーティーな香りが鼻から抜けていった。
「さて。他のメンバーが来る前に、契約の話をしちゃいましょうか」
ソーサーにカップを置きながら、氷川さんが口を開いた。
私も背筋を正して、彼女の話に神経を尖らせる。
「それじゃ、出してもらえる?」
『……え? 何をですか?』
「保護者の同意書よ。この間渡しておいたでしょ?」
氷川さんの言葉を聞いて、全身からぶわっと冷や汗が流れた。
やばい。ステータスのことで頭がいっぱいで、完全に忘れてた。
もしかしたら親に連絡をするのが嫌で、無意識のうちに後回しにしてしまっていたのかもしれない。
いずれにせよ、書類は家のどこかで埃を被っている。
……宿題を忘れた小学生って、こんな気持ちなんだろうか。
無表情のまま固まっていると、氷川さんがその様子を見て、察したように口を開いた。
「……忘れちゃった?」
『ごめんなごめごめごめんなごめんなさい』
気付けば、フォルダにある謝罪用のボタンをタップしまくっていた。
スマホの音声が、バグったように連続で流れる。
氷川さんは体の力を抜いて背もたれに寄りかかると、はぁー、と息を吐き出した。
『あの、本当にすみません……』
「まあよくあることだから、別にいいんだけどね……ルーズな人が多いから、この業界」
そう言って、部屋の反対側にあるビーズクッションへ顔を向けた。
カタカタとキーボードを叩く音の合間に、「おい、何か視線を感じるぞ」と不満げな声が響いた。
きっと鶴見さんにも、普段から苦労させられているんだろうなぁ……。
「……それじゃ、書類はまた後日ね。とりあえず意思確認だけはしておきたいんだけど、今ってご両親に電話はできる?」
『電話ですか……』
自分のスマホをちらりと見てから、果たしてこの世界で親に電話が繋がるのかと不安になった。
建物や会社の名前、世に出ている有名人などが現実世界とは明確に異なる、このゲームの世界。
どこまでが現実を引き継いでいて、どこからがゲームの影響を受けているのか分からないけれど、自分の親がどうなっているのか確かめるのは気が進まない。
……できれば、あまり関わりたくなかった。
『えっと……うちの両親、そういうのあまり気にしないので、大丈夫ですよ』
「律さんたちが気にしなくても、周りの大人が大丈夫じゃないのよ。問題なければ電話をかけてもらってもいい?」
『ですよね……』
そりゃそうだ。
言うだけ言ってはみたけど、そんな理屈が社会でまかり通るわけがない。
しぶしぶ連絡先を開いて、母親の電話番号を探した。
私からかけるの、いつぶりだろうか。ちょっと思い出せないな……。
露骨に嫌がる私を、氷川さんが訝しげな目で見ている。
その目に気付かないフリをして、母親の電話番号をタップした。
コール音が鳴り、ウッドテーブルの上に視線を落とす。
しばらく待ったあと、ザザッとノイズのような音が耳の中で反響して、ようやく通話が繋がった。
『――もしもし?』
――その声を聞いた瞬間、全身に悪寒が走った。
……
まったく知らない人物……いや、人間かも分からない何者かが、通話口の先にいる。
声は母親とまったく同じ。
それなのに、なぜか電話の相手が母親ではないと……まともな人間ですらないと、瞬時に悟ってしまった。
『もしもーし。おーい?』
通話口の先にいる何者かは、当たり前みたいに話しかけてくる。
口調や声のトーンは本当に母親そのもので、それがますます不気味だった。
恐怖で体が強張って、声を出すどころではない。
呼吸がどんどん荒れていくのが分かった。
『……律ちゃん? どうしたの?』
母親の声で名前を呼ばれて、とうとう泣き出してしまいそうになる。
何を答えればいいか分からない。だけど、このまま切ってしまうのもまた怖い。
得体の知れない恐怖で動けなくなって、今にも倒れてしまいそうだ。
体が震えて力が入らず、手のひらからスマホがするりと滑り落ちていく――瞬間、氷川さんが私からスマホを奪い取り、颯爽と口を開いた。
「――失礼、お電話代わりました。今律さんと一緒にいる者で、氷川麻子と申します」
『……氷川さん? えーっと……』
「突然ご連絡してしまってすみません。実はですね――」
通話口から微かに、母親の声をした何者かの困惑する声が漏れてくる。
氷川さんはスマホを耳に当てたまま、席を立って奥の会議室へと歩いていった。
……何がなんだか分からないけど、あの声の主が遠ざかっていったことに安堵して、どっと体の力が抜ける。
気付けば大量の汗が流れていて、ティーシャツの袖で拭った。
いったい何だったんだろう、あの味わったことのない恐怖感は。
私がゲームの世界に来てしまったことと、何か関係があるんだろうか。
現実世界で唯一繋がりのあった肉親と関わろうとしたせいで、整合性をとるためにゲームの力が作用したとか……?
あれこれと考え込んでいると、いつの間にか向かいのソファーに、鶴見さんが座っていた。
私と目が合うと「お前も食うか?」と言って、うまい棒を差し出してくる。
スマホが手元にないので目礼を返して、うまい棒を受け取った。
包装を開けていると、鶴見さんが静かに口を開く。
「……まあ、なんだ。世の中には色々な家庭があって、そこをどうこう言うつもりはないよ。ただ、少なくとも麻子や私はお前の味方だ。何かあれば相談してみな。あいつは頼られるの好きだから、きっと喜ぶぞ」
そう言って、顎でくいっと氷川さんのことを指し示した。
氷川さんはガラス張りの向こうで、スマホを耳に当てて険しい顔で話し込んでいる。
……あれ?
これってもしかして……私、家庭環境がひどかったせいで両親に怯えてるとか、その結果声が出せなくなったんじゃないかとか、そんな風に思われてる?
「………………!」
違います、そうじゃないんですよと否定しようとしたが、スマホがないため伝えられなかった。
私の焦った様子を見て、鶴見さんがわけ知り顔でうんうんと頷いている。
「まあ気にするなよ。あいつは人のために動くのが好きなやつなんだ。気を遣うのは分かるけど、素直に甘えられた方が嬉しがると思うぞ」
「………………っ!」
「それにまあ、何というか……あー……これでも私も大人だからな。ガキの一人や二人面倒見るくらい、どうってことねーよ」
いやいや、何を不器用なりに励ましてくれてるんだ、この人は。
素直じゃないのはどっちだと言ってやりたいところだけど、残念ながらまったく声を出すことができなかった。
鶴見さんは自分の発言の恥ずかしさを誤魔化すように、ふんっと鼻を鳴らして氷川さんの紅茶を勝手に飲み始めた。
……心なしか、耳の先が赤くなってる気がする。
こんなになるまで頑張って励ましてくれた人に、『勘違いなんですけど』と伝えるのは心が痛い。というか、単純に気まずい。
どうしようかなぁ……と思っていると、通話を終えた氷川さんがこっちの部屋に戻ってきた。
「ひとまず口頭で、お母様からの許諾はもらったわ。書類は後で郵送してもらうことになったけど、連絡先は聞いておいたから、あとのやり取りはこっちでやっておくわね。今日は律さんの分の契約だけ先に進めちゃいましょう」
優しい口調で経緯を語りながら、鶴見さんの隣に腰を下ろす。
スマホをこちらに差し出して、私を安心させるようににっこりと微笑んだ。
『お手を煩わせてしまってすみません……』
「そんなことないわ。律さんは全然気にしないで大丈夫。それじゃあ早速、契約に関していくつか確認しておきたいんだけど――」
氷川さんはやけに優しい声色で、契約内容の説明を始めた。
これ多分、氷川さんにも誤解されちゃってるな……。
母親の話題から遠ざけるような彼女の態度に、気を遣わせてしまってるなぁと申し訳なく感じてしまう。
家族仲が良いとは言えないけれど、実際はそこまでひどい仕打ちを受けたわけでもない。
せいぜい、子供のころに体調が悪い中ずっと一人で放っておかれたり、一人暮らしの条件として、楽曲で稼いだ収益のいくらかをせびられたりした程度だ。
これくらいなら、きっとどこの家庭でもそれなりにあることだろう。
「――律さん? 聞いてる?」
氷川さんに声をかけられて、ハッと我に返った。
いけないいけない。昔を思い出して、ついぼんやりしてしまっていた。
『すみません、ボーッとしちゃってました』
書類に落としていた視線を上げると、心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる氷川さんと目が合った。
彼女はふっと微笑んで、おもむろにソファーから立ち上がる。
「内容、難しかったかしらね。ちょっと休憩しましょうか。お茶、淹れ直してくるわね」
そう言って、私の頭をポンポンと優しく撫でてから、ソーサーを二つ持って給湯室へと歩いていった。
去っていく氷川さんの背中に、鶴見さんが「私の分もなー」と声をかける。
呆れた声で「はいはい」と返す二人のやりとりが微笑ましくて、なんだか家族みたいだな、と思った。
* * *
ようやく契約内容の説明と、諸々の手続きが終わった。
時刻は十四時半を少し過ぎたところ。
あとは氷川さんの方で、もう一度書類に不備がないか確認してもらうだけ。
それが済めば受理される手はずになっているので、私の方でできることはすべて完了した。
今回はなんとか、一回目の挑戦でミッションをクリアすることができたはずだ。
ホッとすると同時に、にわかに疲労感が押し寄せてくる。
「お疲れ様。顔合わせの時間までまだ少しあるから、ちょっと休んでなさい」
労わるようにそう言って、氷川さんがソファーから立ち上がった。
書類の束をまとめて、隣で作業していた鶴見さんへ声をかける。
「瑠奈、そろそろ」
声をかけられた鶴見さんが、「おー」と短く返事をして、ノートパソコンを閉じて立ち上がった。
二人の様子を見て、私はスマホを手に取り質問を飛ばす。
『どこか行かれるんですか?』
「ちょっとフォースターに顔を出してくるだけよ。すぐ戻ってくるから、悪いんだけど少しだけ待っててくれる?」
『私は問題ないですけど……私一人でここにいて大丈夫ですか? 防犯面とか……』
初めて来た場所で一人取り残されることに、若干の不安を覚える。
私が何か盗んでしまうとか、そういうことは考えないのだろうか。
「安心しろ。ちゃんと防犯カメラをつけてるから。お前が変なことをすればすぐに私の携帯に通報が飛んでくる」
そう言って、鶴見さんがスマホの画面を見せてきた。
そこにはこの部屋の映像が、四つのアングルから死角なく映されている。
なるほど、それは万全の警備体制だなと、引きつった顔で思った。
顔合わせまでゆっくりできるかと楽観していたのに、カメラで撮られてることを意識してしまうと、何だか落ち着かない。
「律さんのことは信頼してるから大丈夫よ。それに本当にすぐ戻ってくるから。ああ、カードキーを渡しておくから、お手洗いに行きたい時は使ってね」
氷川さんから、ネックストラップ付きのカードホルダーを受け取った。
中には黒いカードキーが入っていて、この建物の名前が書かれている。
「それは律さん用に準備しておいたの。持ち帰ってもらっていいから、次に来る時はそれで入ってきてね」
自分用と聞いて、この事務所の一員だと認められたみたいで、何だか嬉しくなる。
お礼を伝えると、氷川さんは「どういたしまして」と微笑んで、外出用の鞄と車のキーを取りに行った。
やがて支度を終わらせて、扉の前で一度こちらを振り返る。
「それじゃ、顔合わせまでには戻ってくるから。お留守番よろしくね」
そう言い残して、氷川さんと鶴見さんは連れ立ってオフィスを出て行った。
一人残された私は特にすることもなく、かといって人様の事務所でうろちょろ動き回るわけにもいかないので、ただソファーに座って外の景色を眺める。
顔合わせは十五時からの予定なので、二十分くらいしたら二人は戻ってくるだろう。
それまで少し暇になりそうだ。
それにしても……。
「鶴見さん、ルームウェア姿のまま出かけて行ったな……」
二人が何も言わないから私も突っ込めないでいたけど、出社するのにあの格好が許されるって、なかなかに自由な社風じゃないだろうか。
まあ、似合ってるから全然いいんだけど。
「さてと……十五時まで、どうしよっかな」
本当は事務所の設備を色々見て回ったり、段ボール箱の中身を確認したりしたい。
だけどカメラに撮られている状況でそんなことができるほど、私のメンタルは図太くないし、普通に失礼だ。
「あー……歌いたいなぁ。ここって防音かな……ん?」
事務所にスタジオが併設されていないので、どこまで声を出していいか分からない。
時間と気持ちに余裕ができたせいで、ふと湧き上がってきた歌いたい欲求に悶々としていると、部屋の外から『ピピッ』とロックを解除する音が聞こえた。
フォースターに行って帰ってくるには早すぎるので、忘れ物でもしたのかな。
そう思ってソファーから立ち上がり、扉に少し近付く。
ハンドルが下がり、重ための扉がゆっくり開いて――
「こんにちはー。すみません、ちょっと早く着いてしまって……え? 誰?」
部屋に入ってきたのは、氷川さんでも、鶴見さんでもなかった。
明るい水色の髪を、頭の後ろで括った爽やかな女性。
溌剌とした雰囲気で、目元には賢そうな雰囲気が漂っている。
首には私がもらったものと同じ、ネックストラップ付きのカードホルダーがさげられていた。
ということは、この後顔合わせをする予定だった、他のメンバーのうちの一人……⁉︎
想定よりも早い邂逅に驚いて、一瞬思考が停止する。
何とか頭を再起動させてから、いざ丁寧に挨拶しよう――としたところで、スマホをテーブルに忘れてきてしまったことに気付いた。
慌てて席に戻ってスマホを拾い、またドタバタと走って女性の前へ。
できる限り急いで文字を入力して、再生ボタンを押す。
『こんちちパーマね律ですよろしくお腹だします』
あっ、死にたい。
最悪だ。初対面で、とんでもない打ち間違いをしてしまった。
焦った状態でスマホなんて触るもんじゃない。
恐る恐る女性を見ると、怪訝な顔どころか、もはや何が何だか分からないといった、宇宙猫のような表情を浮かべていた。
お互いに無言のまま見つめ合うこと、数秒。
「……ふ……不審者……?」
女性が、警戒心を剥き出しにしたまま尋ねてきた。
いつの間にかポケットからスマホを取り出している。通報でもする気だろうか。
こんなことになるなら、ステータスを〈コミュニケーション能力〉に全振りしておけばよかったと、心の底から思った。
読んでいただきありがとうございます。
また感想などもいつもありがとうございます。
すべて目を通して励みにさせていただいてます。
よければ引き続き、感想、評価等よろしくお願いします。