VTuber育成ゲームに転生したけど、ステ振りに失敗しました 作:bnn
小鞠ちゃんと葉月さんが喧嘩したのは、あくまで一回目の懇親会での話だ。
今回も同じことが起こったと決まったわけではない。
だけど、葉月さんが昨日の今日で急に所属の意向を翻したのだとしたら、それ以外に理由が思い浮かばない。
……氷川さんにはなんて伝えるべきだろう。
迷った末に【昨日の顔合わせのあと、私以外の四人で食事に行ったらしいです。そこで何かがあったのかもしれません】と返した。
「やっぱり、一回目のときみたいな言い合いになったのかな……」
葉月さんが「これまでVTuberとして活動したことがない」と経歴を誤魔化して、それに不信感を持った小鞠ちゃんが突っかかって……。
売り言葉に買い言葉で、本当にやめるやめないの話まで発展してしまった。そんな光景がありありと想像できる。
【ありがとう。他の人にも事情を訊いてみるわ】
氷川さんからの返信を読んで、どうにか丸く収まってくれることを願う。
ソファーまで移動して腰を下ろし、深く息を吐いて気持ちを整えていると、またメッセージが届いた。氷川さんから追加の知らせ。
【そういえば、事務所との契約の件なんだけど……ごめんなさい、ちょっと葉月さんのことが落ち着くまでは保留にさせてもらってもいいかしら】
送られてきたその文章に、無意識のうちに身体が強張っていた。
既読をつけたまま返信できずにいると、釈明のようなメッセージが追加で届く。
【葉月さんに限らず、あなたたちの誰か一人でも欠けてしまったら、事前に説明していたような万全の環境が提供できなくなるかもしれない。そんな状態で何事もなかったみたいに、一切の説明もなく契約を進めるなんて無責任なことはできないから。
何よりそれだと、律さんたちのためにもならないと思う。申し訳ないのだけど、葉月さんの意向が確認できるまで少し時間をちょうだい】
以前氷川さんが『足りない部分は補い合って、お互いの武器をより輝かせる、最高のチームになれる』と話していたことを思い出す。
きっと氷川さんの中では、私たちは五人で一つの完成形なんだろう。プロモーションの内容にも関わってくるだろうし、私たちの足並みが揃わないと、事務所としてスタートを切ることができないのだ。
「そっか……それで前回、ミッションが失敗になったのかも……」
ミッション最終日の夜に小鞠ちゃんと葉月さんが喧嘩をして、私は小鞠ちゃんの家に泊まりにいった。
その裏で、きっと葉月さんは今みたいに、事務所から去ろうとしていたんだ。
それを氷川さんが止めようとして、一度五人の契約の話が白紙になった。私たちに状況を説明しないまま契約だけ進めることを渋った氷川さんが、正式な手続きをストップさせていた。
本当にそれが原因だったのかは確認のしようがないけど、少なくとも今のままじゃ、また前回の二の舞になる。
……でも、どうすればいいんだろう。
氷川さんに向かって『葉月さんのことはどうでもいいから、私の契約だけは先に進めてください』なんてひどいこと言えないし……。
「……やっぱり葉月さんと話して、考え直してもらうしかない」
何とか葉月さんのことを宥めて、事務所に入ってもらわないと。いつまでも保留にされていたら、また時間切れになってしまう。
氷川さんにメッセージを送って、ソファーから立ち上がる。
【私も葉月さんとちゃんとお話ししたいです。葉月さんがどこにいるのか、教えてもらえませんか?】
今日の予定が決まった。葉月さんに会いに行く。
まずは昨夜何があったのかを聞いて、その上で事務所に入ってもらえるよう、何とかお願いしなければ。
氷川さんからの返信を待ちながら、私は手早く支度を済ませていった。
* * *
空を薄い雲が覆い隠し、不穏な気配を漂わせる昼下がり。
私は公園のベンチに浅く腰掛けて、葉月さんが通りがかるのを待っていた。
本当はすぐにでも会いに行きたかったけど、さすがに住所をそのまま教えてもらうことはできなかった。その代わり、葉月さんがいつも走っているというランニングコ―スを教えてもらったのだ。
野球場に隣接した巨大な都立公園のはずれ。大きな木の陰に隠れたベンチに座って、葉月さんが現れるのを今か今かと待ち続けていた。
慌てて家を飛び出してしまったので、朝から何も食べていない。
せめて飲み物でも買ってこようか……と腰を上げかけたそのとき、ようやく待ち人が息を弾ませて走ってくるのが見えた。
水色の髪の毛を頭の後ろで束ねて、覗かせた首筋には汗が滲んている。
ひとまず足を止めてもらうため、私はベンチから立ち上がって遊歩道に身を乗り出した。
「……っ、あんたは……」
私の姿に気付いた葉月さんは、息を切らせながら徐々に速度を落とし、数メートルほどの距離を空けて立ち止まる。
何かを言われるより先に、私はスマホの画面を彼女の方へ向け、再生ボタンを押した。
『こんにちは、葉月さん。いきなり会いにきてすみません。どうしても直接お話がしたくて、氷川さんにこの場所を教えてもらったんです。葉月さんが毎日ここでランニングしてるって』
あらかじめ用意しておいたセリフを流すと、葉月さんは不審がるように目を細めた。
たしかに約束もなくいきなり会いに来るなんてマナー違反だと思う。だけど、そうでもしないと会ってもらえないだろうと、氷川さんに言われていたのだ。
申し訳ない気持ちはあったが、どうしても葉月さんの口から直接事情を聞いておきたかった。
「……そう。で、なんの用? 見ての通り、私忙しいんだけど」
警戒心に満ちた声で、葉月さんが問いかけてくる。
まだ少し荒い呼吸のまま、手の甲で額の汗を拭っていた。
『葉月さんが、事務所への所属を辞退しようとしてると聞きました。あの、よければ理由を教えてもらえませんか? どうして急に考えが変わったのか』
待たせてしまわないように、急いで文章を打ち込んでいく。
私が尋ねると、葉月さんは忌々しげに表情を歪めて、鋭い視線を向けてきた。
「……あんたに関係ないでしょ」
『関係はないかもしれませんけど……でも、多少の縁くらいはあると思っています。せっかく同期として集まった仲じゃないですか』
「はっ、同期? まだデビューもしてないのに」
事務所での快活な様子とは打って変わって、冷たい笑みを浮かべている葉月さん。どことなく口調も粗雑になっている。
何となくだけど、こっちが彼女の素顔のような気がした。
だとしたら、やっぱり顔合わせのときはかなり無理をして、あの明るいキャラクターを演じていたのだろう。
『もしかして、昨日の懇親会で何かあったんですか? 喧嘩とか……』
「……何よ。もう聞いてるんじゃない」
葉月さんはきまりが悪そうに呟き、刺々しく睨みつけてくる。
私が他のメンバーから話を聞いたと勘違いしたようだ。実際には、一週目の経験から推測しただけなのだが。
ということは……本当にまた小鞠ちゃんと言い争いになったのか。
「喧嘩じゃないわよ。私が一方的にキレて、あの場をめちゃくちゃにしただけ」
『キレてって……いったいどうして?』
「……別に……単にあんたたちが気に食わなかっただけよ」
葉月さんは私から顔を背け、遊歩道わきの縁石に視線を落としながらそう言った。
気に食わない……か。面と向かって言われるとなかなか精神的にくるものがあるけれど、だからって『はぁそうなんですか』では済まされない。
どうにかして彼女を説得して事務所に戻ってきてもらわないと、氷川さんがメンバーの契約手続きを進められない。またミッションが失敗で終わってしまうかもしれないのだ。
『私たちが何か、葉月さんの気に触るようなことをしてしまったでしょうか?』
「気に触る、ね……いいわよ、もう。どうせ言っても伝わらないでしょうし」
葉月さんが酷薄な笑みを浮かべてそう言った。
それは私たちへの嘲りというよりも、むしろ自嘲のための言葉に聞こえる。
『伝わらないなんてこと……私が何かしたなら謝ります。他の皆さんも悪気があったわけではないはずですし、葉月さんが話せばちゃんと聞いてもらえると思います』
「だから、もういいってば。私は辞める。氷川さんにもそう伝えてある。それで問題ないでしょ?」
私を拒絶するように、葉月さんが一歩後ずさった。
彼女の意志は固く、瞳には諦観の念が浮かんでいる。
すぐにでも会話を終わらせたがっている様子だけれど、このまま行かせてしまうわけにはいかない。
私は彼女に近づいて、さらに説得を続けた。
『せめて理由を教えてください。じゃないと納得できません』
「あんたの納得なんて知らないわよ。どうせ辞めるんだから、教えたところで意味ないじゃない」
『辞めなくて済む道もあるかもしれません。葉月さんが何を思っているのか、ちゃんと教えてほしいんです』
「だから……! それを言ったところで、ただ私が惨めになるだけでしょ! あんたたちには関係ないし、そもそも理解できるわけないんだって……っ」
『私は葉月さんのこと、理解したいです。それに他のメンバーだって、話せばきっとわかってくれると――』
「――適当なことばっかり言わないでよ! わかるはずないじゃない! あんたたち天才に、私みたいな凡人の気持ちなんて……っ!」
私のスマホの音声は、葉月さんの怒声にかき消された。
二人きりの公園に、哀情に塗れた叫び声が反響する。
「さっきから何なのよ、あんた……! 本当にムカつく……っ。そんなに知りたいなら教えてやるわよっ!」
ものすごい剣幕で、葉月さんが捲し立ててくる。
その迫力に言葉を失い、私は石像のように固まってしまっていた。
「私はね、あんたたちみたいな自分本位な人間が大っ嫌いなのよ……! 当たり前みたいに遅刻してきてんじゃないわよっ! 周りの迷惑とか考えたことある⁉︎ 自分の社会性のなさを開き直って、他人の善意に甘えてるところが大っ嫌い……っ」
葉月さんが一歩こちらに詰め寄る。
私は自分の心臓が鳴らす爆音を聞きながら、後ろへ下がりそうになるのを懸命に堪えた。
「――『何ができる人なんですか?』じゃないわよ……! 誰でも一つは人に負けない取り柄があると素で信じてるところが本当に嫌い……! 何も持ってないヤツだって、世の中にはごまんといるのよ!」
ギリッ、と音が聞こえてきそうなほどの強さで、葉月さんが奥歯を噛み締める。
やりきれない悔しさの滲んだ表情で、まっすぐに私を睨みつけてくる。
「……なんて答えればよかったのよ……どんなに努力しても、時間をかけても、私一人じゃ何もできなかったのに……! いつもあんたたちみたいな天才にあっさり追い抜かれて……そのくせあんたたちは、自分のことを努力しただけの凡人か何かだと思ってるんでしょ。ふざけんじゃないわよ。努力なんてこっちだって死ぬほどしてる……! 自分の才能に無自覚なところが堪らなく嫌い……っ」
葉月さんが声のトーンを落として、こちらに近づいてくる。
何も言い返せない私のすぐ目の前で立ち止まって、顔を歪めながら口を開く。
「あんたのことも嫌いよ……最初に会ったときからずっと嫌いだった」
明確な拒絶の言葉が深く胸に刺さる。
足から力が抜けて、まっすぐ立っているのが難しい。血の気が引くとはこういうことかと、空っぽになった頭の底で思った。
「――こっちは氷川さんから声をかけてもらった千載一遇のチャンスを活かそうと、二人に取り入るために必死だったのよ。愛想よく振る舞ったり、好みのスイーツを調べて朝から並んで買ってきたり、顔を売るために会話の機会を作ったり……それなのにあんたは……人とまともに喋れないって何? 何でそんな人が私と同じ立場で事務所にいるわけ?」
感情の読めない無表情のまま、早口で捲し立てられる。
葉月さんは一瞬だけ言葉を切ると、ふっと乾いた笑みを見せた。
「そんなの……私にはどう足掻いても手に入れられない圧倒的な才能を、あんたが持ってるからに決まってる。あんたの前で氷川さんや鶴見さんに媚びを売ってるとき、私がどれだけ惨めだったかわかる?」
あのとき葉月さんがそんなことを考えていたなんて……。
まるで気づけなかった私には、何も答えることができない。黙ったままの私にスッと腕が伸びてきて、胸ぐらを乱暴に掴まれた。
「――惨めで、恥ずかしくて、嫉妬して、恨んで、屈辱と敗北感に打ちのめされて、絶望して……頭がおかしくなるくらいの自己嫌悪のなか、それでもヘラヘラ笑って自己紹介をしてた私の気持ちが、あんたたちにわかるっ⁉︎」
あまりの激情に圧されて、そのまま後ろに倒れてしまいそうだった。葉月さんに服を掴まれていなければ、実際に尻もちをついて地面に転がっていただろう。
息を深く吐き出せず、口の中はカラカラに乾いてしまっていた。
「……それでもVTuberとして売れるためならと思って、必死に我慢してた。けど、昨日花宮に言われた通りよね。こんな個性だらけの天才集団に混ざってデビューしても、何の武器も持たない私はどうせ埋もれて終わるだけ。それじゃ『WVC』には届かない……それならいっそ、個人なり別の事務所なり、違う方法を探した方がまだ可能性があると思ったのよ……あんたたちには歓迎されてないみたいだしね」
葉月さんの手が胸元から離れて、私は後ろによろける。
一瞬、視界に灰色のノイズがかかって、そのまま倒れ込んでしまいそうになる。
転ばないように足を踏み締めると、自分がひどく震えているのがわかった。
「……結局、私が何の才能もない凡人だから悪いのよ。だから辞める。どう? これで満足?」
葉月さんはそう吐き捨てながら、自嘲するように鼻を鳴らした。
何か言わなければ……と思うものの、何も言葉が出てこない。
スマホに文字を入力しようとするが、震える指先を動かすことができなかった。
返答に悩んでいる私に、葉月さんが背を向ける。
「あんたが何を思って私のところに来たのかは知らないけど……言うことがないなら、私はもう行くわ」
そう言って歩き出す。
何か……何か言わなければ……だけど何を……。
どうにかして説得しなきゃと思ってここまで来たのに、説得のための言葉なんか一つも浮かんでこない。
少しずつ遠ざかっていく葉月さんの背中に、未練がましく手を伸ばそうと――動いたそのとき、私と葉月さんのスマホから同時に着信音が鳴った。
「……えっ……」
すぐに画面を確認した葉月さんが、驚いた様子で声を上げる。
私も自分のスマホを見てみると、氷川さんからメンバー宛に、一斉送信でメールが届いていた。
メールの本文に目を通す。
【※重要 先日お伝えしたデビューの日程について、問題が発生しました。詳しく説明したいので、来られる人は今から事務所に集まってください。来るのが難しい人は追って連絡するので、都合のいい時間帯を教えてください 氷川麻子】
顔を上げると、いつの間にか葉月さんがこちらを振り返っていた。
とある問題……葉月さんにも送信されているということは、辞退の申し出とは別件だろうか。
二人で気まずい空気を共有しながら、頭上には大量の疑問符を浮かべていた。
* * *
葉月さんと二人で電車を乗り継ぎ、スターライズの事務所に入ると、既に氷川さんや鶴見さんをはじめ全てのメンバーが揃っていた。
小鞠ちゃんがこちらにひらひらと手を振っている。しかし私の後ろに葉月さんがいることに気がついて、ばつが悪そうに姿勢を正していた。
「全員集まったわね。いきなり呼び出してごめんなさい」
私たちが空いていたソファー席に座ったところで、氷川さんがみんなの前に立って小さく頭を下げる。
注意が自分に向いたのを確認して、苦々しい顔で話を切り出した。
「メールでも伝えた通り、みんなのデビューについてのことなんだけどね……実は……プロモーション用に考えていた施策が使えなくなって、予定していた宣伝が出せなくなりそうなの」
氷川さんは悔しそうに顔を歪め、拳を握り締めながらそう告げた。
少しの沈黙の後、あまりピンと来ていない面々の中から、咲耶さんが小さく挙手をして質問を飛ばす。
「プロモーション施策というと、具体的には? どれくらいの影響がでるのかな?」
「……本来なら紅葉が作成した素材をもとにあなたたちのティザーPVを用意してもらって、SNS等で大々的に宣伝していくつもりだったんだけど……」
弱々しく口をつぐむ氷川さんに代わり、隣でパソコンを触っていた鶴見さんが不機嫌そうな仏頂面で説明を続けた。
「私と麻子がフォースターの社員に目をつけられたみたいでな。PV作成用に確保してたクリエイターを、丸ごと持ってかれちまったんだよ。もともとフォースターの伝手を使って準備してたからな……綺麗さっぱり、まとめてお釈迦になった」
その説明を聞き、紅葉さんを除くメンバーが一斉に息を呑む。
デビューを遅らせればその分予算も膨らんでしまう。少数精鋭の事務所にとって、それはかなりの痛手になるはずだ。
一週目のときに比べて発覚が早かったのは、おそらく葉月さんの件が関係しているのだろう。状況の報告や進捗確認のために連絡をとって、そこで初めて問題に気がついたとか。
重たい空気の中、咲耶さんが「どうしてそんなことに?」と尋ねた。
「私も麻子も、一部の人間からかなり妬まれる立場にいたからな。その当てつけか知らんが、麻子が準備してた施策を丸ごとパクられたんだろうな。おおかた今度デビューさせる新人のプロモーションに使うんだろ。今ちょうど選考中だったはずだし」
「……私たちの都合で振り回してしまって、本当にごめんなさい。あなたたちのデビューまでに万全の環境を用意してあげたかったのだけど……フォースターのクリエイターチームに頼れなくなった以上、実現はかなり難しくなってしまったわ」
深く頭を下げて謝罪する氷川さん。
そんなドロドロの社内政治みたいなものが実際にあるのかと、大人の世界の恐ろしさに冷や汗を流す。
「フォースターの名前を使ってみんなを集めたんだから、正式に契約を交わす前に、きちんと説明しておくのが筋だと思ってね。みんなにはこの話を聞いた上で、改めて考えてもらいたいの。本当にスターライズに所属して問題がないか」
氷川さんの気遣わしげな視線が、その場に集まった面々に向けられる。みんな思い思いの表情で、その視線を受け止めていた。
私は他に選択肢もないし、デビューの日程が多少ズレるくらいなら問題ない。あと三日で契約さえ結べれば。
他のみんなはどうなんだろう……と考えて周りを見てみると、葉月さんがため息をついて立ち上がるのが見えた。
「私は抜けますね」
端的にそう告げて、そのまま帰り支度を始める。
取り付く島もなく事務所を去ろうとする葉月さんを見て、他のメンバーが唖然としていた。
「か、帰っちゃうんですか? そんなにあっさり?」
少し離れた場所に座っていた小鞠ちゃんが、みんなの心境を代弁する。
葉月さんは驚いた様子の小鞠ちゃんに向き直ると、当然でしょ、と言わんばかりの澄まし顔で答えた。
「この件がなくても、私はもともと抜けるつもりだったのよ。あんただってその方が都合がいいでしょ?」
「そ、それは……そのぉ……」
チクリと言い返された小鞠ちゃんは、もごもごと言葉を濁して俯いてしまう。
昨夜の言い争いの後、彼女なりに何か思うところがあったのかもしれない。あるいは咲耶さんか紅葉さんに嗜められたりしたのかも。
「葉月。昨日の件なら、小鞠も言い過ぎたことを反省している。僕たちに気を遣って君が出ていく必要はないよ?」
「……いや、そもそも最大手であるフォースターの後ろ盾がなくなるんだから、もうここに拘る理由はないでしょ」
咲耶さんが優しく諭そうとするが、残念ながら首を横に振られてしまった。
「私はなんとしても、この世界で伸し上がらなきゃいけないの。みんなで楽しく活動していきたいんじゃなくて、戦うために、天下を獲るためにこの事務所に来たのよ」
そこで一度口を止めると、言いづらそうに氷川さんの反応を横目で窺う。伝えるべきか迷った末に、言葉を選びながら述懐を続けた。
「……ここからデビューするってことは、フォースターの傘下に入るどころか、むしろ真っ向から敵対する状況になったわけでしょ? 氷川さんたちには悪いけど、どれだけ粒揃いでもこの小さな事務所で太刀打ちできるとは思えない。数の力ですり潰されるだけよ」
冷たくすら聞こえてしまうほどの正論を受けて、咲耶さんが小さく唸る。
氷川さんは何か言いたそうに顔を上げたが、しばらく悩むとまた口を閉じて、そのまま俯いてしまった。
誰も口を開かないのを見て、葉月さんがまたため息をこぼす。
私たちに背中を向け、扉の方へ歩み寄っていく。
「それじゃ、私はこれで。声をかけていただいてありがとうございました」
頭を下げて氷川さんたちに謝意を伝えると、早足で事務所を出ていった。
部屋の中に重苦しい空気が流れる。社員二人の表情も暗い。
「……ま、こればっかりは仕方ないよね〜。無理に引き留めるわけにもいかないしさ〜」
ほのかにお酒の香りが残る紅葉さんが、周囲の顔色を窺いながらそう言った。
「そうだね。残念だけど……それが本人の意思なら尊重するべき、か」
「私たちに責任が取れることじゃないからね〜」
咲耶さんがそれに同意して、二人で視線を交わし合う。小鞠ちゃんは表情こそ沈んだままだが、異を唱えることなく黙ってそのやり取りを聞いていた。
「……お前らはいいのか? 葉月の言った通り、私たちは天下のフォースター様に目をつけられちまったんだぞ」
「いや〜。私はそもそも、先輩たちに誘われなかったらVTuberになろうなんて思ってなかったですし〜」
「僕も問題ないよ。というか、実を言うと各方面で問題を起こしすぎて、他に受け入れてもらえそうな事務所の当てがないんだ」
鶴見さんの問いに、大人組の二人が答える。鶴見さんは咲耶さんの答えに少しだけ不安そうな顔をしたあと、私と小鞠ちゃんに「お前らは?」と声をかけてきた。
「……小鞠は…………」
小さく呟いた小鞠ちゃんが、ちらちらと私の様子を窺ってくる。私がどう答えるのかを気にしているみたいだ。
このままスターライズに所属することに関しては、特に何も問題ないはず。ただ首を縦に振ってしまえばそれで済む話だ。
……だけどなぜだか、どうしても胸に引っかかるものがあった。
葉月さんが出ていってしまったことを『本人の意思なら仕方ない』と、みんなこれ以上
触れないようにしている気がする。
残念そうな雰囲気はあるが、事情が事情だから何も言えないと諦めてしまっている。
私が幼稚なだけかもしれないけど……このモヤモヤを全て呑み込んでしまえるほど、私の器は大きくなかった。
公園で私の胸ぐらを掴んで、声を張り上げていた葉月さんが頭から離れない。
あのときに彼女の本音を聞いていなければ、きっとこんな気持ちにはならなかったと思う。
どうしてこんなに葉月さんが気になるのか……と悩んでいると、じっとこちらを見つめる小鞠ちゃんと目が合った。不安そうなその顔が、お泊まり会で一緒にベッドに入ったときの彼女と重なる。
そういえば、あのときの会話で小鞠ちゃんが――
それで、ようやく気がついた。
――私と葉月さんは、似たもの同士なんだ。
好きで好きでたまらないのに、自分にはその才能がなくて、だけどどうしても諦めきれなくて……持ってる人間に嫉妬して、腐って、苦しんで……潔くやめることすらできずに、ずるずると戦い続けてる。
それは――歌うことができず、周りを妬みながら自分を慰めるように曲ばかり作り続けていた過去の私と、まるで同じではないか。
葉月さんは、私と同じ重荷を抱えて苦しんでいる人だ。
それを理解した瞬間、どうしようもなく彼女に会いたくなった。
そして同時に、自分がひどく情けなく感じた。
ああ……私はいったい、彼女の何を見ていたんだろう。
さっき二人で話したとき、どうして気づいてあげられなかったんだろう。
葉月さんはあんなにもわかりやすく、私に心の裡を打ち明けてくれていたのに。
あのとき葉月さんは、本心から私と向き合ってくれた。誰にも見せたくなかったはずの心の底からの本音を、私にぶつけてくれていた。
それなのに私は、前回の失敗をいつまでも引きずって……また忘れられるのが怖いとか、だからミッションを達成しなきゃとか、ずっと自分の都合を押し付けて。
『どうすれば引き止められるのか』ばかりを考えて、目の前にいる葉月さんと本気で向き合えていなかった。
何も言い返せないのは当たり前だ。
自分のことしか考えてないような人間が、本気で腹の底を見せてきた相手に対して、投げられる言葉なんて持ち合わせているはずがない。
そんな中途半端な説得に、葉月さんが心を動かされるわけがないんだから。
もう一度、今度こそ本気で彼女と向き合いたい。
どうでもいいことは全部忘れて、まっさらな心で、彼女の吐き出してくれた言葉を受け止めたい。
このまま葉月さんがいなくなるのを見て見ぬふりして、無難に契約を終わらせて、四人で活動を続けていくなんて……そんなの、絶対に嫌だ。
すでに諦めに満ちていたこの場の空気を変えたくて、私は深く息を吸った。
「――ぃっ……いや、です……っ」
不恰好にしわがれた声が、喉の奥から響いた。
みんなの驚いたような視線が、一斉にこちらに向けられる。
――ミッション失敗のペナルティで、ステ振りをする前まで時間が巻き戻ったとき、復活していたなけなしの四ポイント。
今この瞬間に、はっきり自分の意志を示せただけでも、〈コミュニケーション能力〉に振り直した価値は充分にあった。
人間の体って不思議だ。たった一言だけど、自分の感情を表に出すことで、こんなにも覚悟が決まるなんて。
そのままの勢いで続けたかったが、四ポイント程度では一言が限界だったらしい。
これ以上は喉を震わせることができなかったので、仕方なくスマホに文字を打ち込んでいく。
『私は、このままこの事務所で活動していくのは嫌です』
小鞠ちゃんがショックを受けたのか、泣きそうな顔になった。
誤解される前に、すぐ次の文章を再生する。
『やるなら葉月さんも揃った上で、五人全員で活動していきたいです。だから私、もう一度葉月さんと話してきます』
私がそう伝えると、メンバーたちが驚いたように目を丸くした。
そんな中、暗い顔をした氷川さんが控えめな声で語りかけてくる。
「……律さん、気持ちは嬉しいけど……そもそも私のミスが招いたことで、あなたたちに負担を強いるのは……」
『どのみち今のままデビューなんて無理ですよ。だって、氷川さんが言ったんじゃないですか』
言葉を遮られた氷川さんが、不思議そうに眉を上げた。
勧誘のときに彼女から言われたことを思い出して、私はまた再生ボタンを押す。
『私たちは全員、一人じゃ足りないものだらけ。だけど五人が揃えば、そんな足りない部分を補い合える最強のチームになれるって……葉月さんは私たちにとって、欠けているものを与えてくれる、必要な人材なんでしょう? だったら手放しちゃだめですよ』
氷川さんが目を瞬かせる。
……あれ、そういえばこれを言われたのは一回目の勧誘のときだっけ。まあ、今はそんなことどっちでもいいんだけど。
彼女の返事を待たず、私は扉に向けて足を動かした。
『ここで動かなかったら、本当に終わっちゃいますよ。私は諦めないです。諦めたくないです。私は葉月さんと……ここにいるみんなと一緒に、VTuber活動をしていきたいんです』
部屋の入り口で、みんなに向かって背中ごしに音声を流す。
そして音声が途切れると同時に部屋を飛び出した。
時間が惜しい。早く葉月さんを見つけないと。
エレベーターを待っている時間すら煩わしくて、落ちるように階段を駆け下りていく。
会って何を話すかなんてまったくわからないけど、ここで関係が途切れてしまったら、きっと一生後悔する。
私なりの本気の言葉を彼女に伝えたい。
先のことなんて一切考えないで、とにかく今、目の前にいる葉月さんに届けたい。
あらゆる理性をかなぐり捨て、こみ上げる衝動にだけ従って、曇天の空を駆けていった。