「はぁ…はぁ…!」
行く先を滲ませる一面の霧。薄く白みがかった道の上を一人の少女が何かに追われるように一心不乱に走っている。
「はぁ…はぁ…」
紫のジャージに袖を通し首からタオルをかけた少女、愛乃めぐみの額には爽やかな汗が垂れていた。
日の出を前にした夜の面影が残る午前5時。早朝からわめき出した目覚まし時計で即座に飛び起きためぐみは、軽く身だしなみを整えて静かに家を出ると、事前の入念なストレッチを欠かさず、じっくりウォーミングアップをこなしていく。最後にその場で数回体を弾ませ全身の筋肉がほぐれていることを確認すると、町に張り巡らされたコンクリート道路を運動靴で駆けだした。
その目的は主に体力づくり。来たる戦闘に備えて、受験勉強で失った体力を取り戻すために再びジョギングを始めたのだった。
一歩一歩をゆったりとした一定のリズムを心がける。そして、積極的に呼吸を促し余計な体力消費を抑えることも忘れない。
ジョギングで重要なことは無理に強度を上げて疲れてしまわないこと。楽なペースでかつ力を抜いて行うことが最も望ましい。以前に幼馴染から教わったことを頭に抑えながら、目標とするぴかりが丘公園まで続く道を走り続けていた。
しかし、出だしこそ好調であったものの距離にして約三分の一もしない地点でめぐみは早くも息が切れ始めていた。策を弄したはずだが、喉に突き刺さる痛みが基礎的な体力の衰えをありありと示している。
去年の受験シーズン中、たまたま早く目が覚めた日に朝練から戻って来た誠司へ、受験で忙しいのにジョギングを続ける必要はあるのかと聞いたことがある。
「少しのブランクで体は大きく衰える。だから、忙しくても毎日続けることに意義があるんだ」と誠司は語っていたけど、それを今になって強く実感する。
「はぁ…はぁ…一旦休憩しよう…」
まだ続けなければという脳に絶え絶えの息で言い聞かせると、めぐみは近くのバス停の傍に置かれたベンチへと腰かけた。ただ苦しいだけでは意味がない。適度な休憩もジョギングには肝心なのだ。
ベンチに背中を預けると、思い切り口を開けて酸素を胸いっぱいに取り入れる。例年より気温が暖かくなっているとはいえ流石に早朝は冬が少しばかり尾を引いている。しかし、今は鼻と喉へ通り抜ける空気の冷たさが何よりもありがたい。
胸の動悸を誤魔化すために周囲をぐるりと見渡すと、薄暗いぴかりが丘の町には早い時間ということもあり人は全く見えなかった。この通りが住宅地の中にあることも相まって、それがまるで誰もいなくなった世界に自分だけが取り残されたようでなんだか寂しく思えた。
しばらくして、体力の復活を感じめぐみは大きく息を吐き出した。体をベンチへ縛り付けようとする重力を何とか振り切ってジョギングを再開させる。
静かな街中に軽快な靴音が響き渡る。等間隔で繰り替えされるそれを一つの指針として、自身のペースを確かめるように足を進ませる。やがて半分ほどまで来た頃には断続的だった呼吸が安定し始め、顔つきも幾分か明るくなっていた。
前方からやってくる涼やかな向かい風を全身で受けると、張り付いた汗が洗い流されるような気持ちよさが体中に広がった。苦しみを抜けた先で味わうこの清々しさがジョギングの醍醐味だ。
「や…やっと着いた……」
そこからノンストップで住宅街を抜けると、間もなく開けた土地に出た。緑広がるそこはゴール地点のぴかりが丘公園。町の中央に設置された大型の公園には様々な種類の木々が生い茂り、三角オブジェの並ぶ中央広場に貯められた池が明けた群青に染まっている。
広場に佇む時計は6時を指している。約40分のジョギングを果たした達成感のまま、一先ず池沿いの散歩道のベンチで休憩を取ることにした。
腰かけた瞬間、暑いやら寒いやら乾いた汗と高まった体内の熱の温度差でドッと疲労が降りてくる。前髪から目元に落ちてくる汗をタオルで拭い、再び大きく息を吸う。そして、ジャージの襟を扇いで、外へと熱を放出すると、太ももを内側から圧迫する痛みをタイツ越しに優しくさする。これは明日の筋肉痛は間違いなさそうだ。
ここで一つビューっと風が吹いた。コンクリート上を転がる枯れ葉が虚しく乾いた声をあげ、風によって池の波紋はどこまでも広がり何に当たるとも言わず自然に消えていく。
流される髪の赴くままに、風の抜ける先を見やった。
ぴかりが丘でも大きなこの公園は、昼間には沢山の人間で溢れかえり夏にはバーベキューも盛んで賑やかな様相が年中見られる。めぐみ自身も幼い頃この公園でどれだけ遊んだか数えきれない。しかし、視線の先の早朝の霧がかるぴかりが丘公園にはぽつりぽつりと人影が散在するだけで、鳥たちの目覚めの声が公園に広がる侘しさの存在を強調していた。
日常の風景がふと見せる寂しい一面が心の隙間に入り込む。以前まではそれ程印象的ではなかったその姿も一人でいるとどうしても気になってしまうものなのだ。
「はぁ…はぁ…ハ、ハクション!!」
急激に心身から熱が退け、辺りを気にする暇も無いままにくしゃみを一つ。
そろそろ家に帰ろうかな。
冷えた鼻下を擦り休憩早々帰宅を決めて立ち上がると、再度軽く準備運動を始めた。
「あれ、めぐみちゃん?」
突然掛けられた声に振り向くと、そこには柴犬を連れたシニア女性が立っていた。
「田中さん!おはようございます!」
「はい、おはよう」
近辺に住んでいる所謂おばちゃんパーマの田中さんは、めぐみら幼馴染三人が小さい頃からよくお世話になってきた。去年の夏まではよくジョギングの途中で顔を合わせたものだったが、受験が本格化してからは偶に道すがらバッタリ出会う程度で、思わぬ遭遇に少しばかり高揚を取り戻した。
犬の名前はチロ。田中家に飼われている五歳の柴犬で、背丈こそ小さいものの人間で言えばめぐみの倍以上の年齢の立派なオスの成犬だ。
「こんな朝早くからラン二ングだなんて、精が出るわねぇ」
「田中さんこそ、今日は随分早いんですね」
「このところ、チロの起きるのが早くてねぇ。どうしても散歩してくれってせがむのよ」
「チロ、あんまり我儘言っちゃだめだよ~」
めぐみはその場でしゃがみこみ、チロの頭から茶色の毛並みに沿って優しく撫でた。それを受けてチロはブンブンと尻尾を振り、嬉しそうに喉を鳴らす。目に一文字を結び、撫でられるがままを受け入れる姿は実に気持ちよさそうだ。
チロは人懐っこく小犬の頃から会っては撫でているものだから、めぐみ達と出会えばいつも期待して尻尾を振り回している。
「めぐみちゃんがジョギングしてるのを見るのも何だか久しぶりね」
田中さんが朗らかにほほ笑んだ。目元の皺がクシャリと潰れる笑顔はめぐみ達が幼い頃からこの町で何度も見てきたものだ。
「前は誠司くんと一緒だったけど、今日は一人かい?」
「えっーと……最近、体力が落ちてきたからこっそり一人で頑張ろうかなーって。遅れても気を遣わせちゃうから」
「そうかいそうかい、頑張ってね」
「はい、頑張ります!」
勢いよくおでこに右手をかざして敬礼の素振りを見せる。それに対して田中さんがまた笑んで返すと、めぐみは振り返りながら軽く手を振って二人とは逆の方向へと走り出した。
それから、公園をぐるりと一周する時には霧が晴れていた。時間も程よく過ぎ、まもなく人々も起き上がる頃合いだろう。
もう何周化すると、めぐみはペースを上げて公園の別の入り口から河川敷の天端へと躍り出た。
家路を走っている途中、ふとスカートのポケットからキュアラインを取り出して時刻を確認する。幾つかのアプリアイコンを映し出す画面には6:00の文字。すると、あからさまにきょろきょろと辺りを見渡し、近くの橋の足元に身を隠した。
そして、めぐみはテレビ電話のアイコンをタップ。電話帳のページを開いてリストの中からオハナの名前を探し電話をかける。そして、コール音が3つとしないうちに電話が取られると、四角い画面に褐色の少女が現れた。
「オハナ、久しぶり!」
『久しぶりね、めぐみ。ハロハロから聞いてはいたけど急に電話だなんてどうしたの?』
白い砂浜を背景に黒髪のロングを流した少女の名前はオハナ。彼女はキュアサンセットに変身し、双子の妹オリナことキュアウェーブとアロ~ハプリキュアとして戦ったハワイのプリキュアだ。
オハナの後ろでは青い海の上に太陽が燦然と輝いている。向こうはお昼だろう。
それから、めぐみはサイアークの出現、そして戦闘の一部始終を伝えた。
『なるほど、白いサイアークね……』
「そうなの。もしかしたら、日本以外にも現れたりしてないかと思って」
一年ぶりの顔合わせを終え、話を進めていくと次第にハナは眉間に深い溝を作っていった。
『残念だけど、ワタシにも何が何だか分からないわ。サイアークが現れたことも信じられないし、ましてや誰が生み出したかのことなんて。オリナにも聞いてはみるけど、たぶん分からないと思う』
その顔は実に残念そうだ。しかし、それも無理はない。突然の最悪のニュースに加えて、事件に一切の手助けも出来ない現状。それが悔しくて堪らないのだ。それはめぐみとて同じことだ。
「そう…だよね。ううん、気にしないで。もし何か分かったら教えて。それじゃあね」
会話の終わりと共にキュアラインから音が失われた。黒い画面の中には覗き込む傾いた双眉が桃色のフレームに縁取られていた。
「ダメか……」
元々注意喚起を主目的としてはいるが、ファーストアクションの成果は無し。話をするなら直接本人からの方がいいと思い、ハワイとの時差を考慮してかなり早起きした分、多大な眠気と落胆が瞼を襲う。
急激な疲れにしゃがみこもうとした時、丁度めぐみのいる橋下に昇る陽の光が射し込んだ。
突然の日光で視界に暗黒が訪れる。やがて、ゆっくり光を受け入れるとその先で輝く赤い空がぴかりが丘の目覚めを知らせていた。
「って、こんなので落ち込んでいられないか。まだまだ最初の一回だ!」
目に飛び込んできた鮮やかな光景に降って湧いたやる気が、煌々と燃える白球目掛けて彼女の足を走らせた。抱いた不安を誤魔化すように走り続けると、やがて再び清々しさを覚える頃にはそれは小さくなっていた。
「おはようございます!」
「おう、おはよう!」
すれ違いざまに新聞配達に勤しむ青年へ声をかける。返って来た男らしい声にめぐみは満足そうにその後ろ姿を見送った。荷台やカゴに大量の朝刊を乗せ、毎朝忙しそうにしている。
「おはよう、めぐみちゃん」
「おはようございます!」
前方をゆっくりと歩くおじいちゃんを追い越すと、後ろから聞こえてきた声にもすかさず振り向いて元気よく返事をする。家へ戻る道中、通り過ぎるご近所さん達と挨拶を交わす。めぐみは人との繋がりを直に感じるこの行為が、ジョギングにおいて最も好きだった。
しばらく緩やかに足を進ませていると、遠くの方に見覚えのある人影がこちらの方へ向かってくるのが見えた。段々と近づくにつれてそれはより鮮明になっていく。すると、めぐみはその正体を確信して走るペースを上げた。
「オッス、誠司!!」
「よう!って、めぐみもジョギングか?」
空手の道着を身に着けてめぐみ同様に朝のジョギングに励む誠司。そのすれ違いざまに声をかけると、誠司は急ブレーキをかけてその場に留まった。
「まぁね、次いつサイアークが来てもいいように調子を取り戻そうかと思ってさ」
「おぉ、そいつは偉いな」
感心したように声音を上げた誠司を見て、ご満悦そうにめぐみは口角を吊りあげた。
「それにしても随分早いな。言ってくれたら俺も一緒に付き合ったのに」
「今日はオハナ達にサイアークのことについて連絡する必要があってさ」
「そういや昨日の夜言ってたな。それで、なにか分かったか?」
「ううん、ハワイはまだなんともないみたい」
めぐみは首を横に小さく振る。
「そうか…なら、まだハワイは平和だってことだし良いことじゃないか」
「そうだね!ぴかりが丘だけで済むならそれに越したことはないもんね」
一瞬しかめた眉を目すると、誠司はとっさに励ましの言葉を口にする。めぐみはその心配りに胸をより明るくさせた。
「なんだったら俺も手伝うぜ。世界中のプリキュアに連絡するのは大変だろ?」
「ありがとう、でも大丈夫!全員ではないけど連絡用のリストを作ったから」
めぐみはそう言うと、キュアラインを操作してメモアプリを見せた。そこにはプリキュア達の名前とそれぞれへ連絡する時間帯が日にち毎に記されていた。しばらくスクロールさせるがまだまだ先は長そうだ。
「こりゃ凄いな…本当に大丈夫なのか?」
「いいのいいの!」
「そうか、それならいいんだけど」
猫の手も借りたい状況ではあると思うが、本人が自信満々に大丈夫というのであれば心配ないのだろう。誠司は少しばかり引っかかりつつもそれ以上のお節介は止すことにした。
「まぁ、とにかく頑張れよ。それじゃあな!」
「うん、また後でねー!」
走り去る誠司の背中が小さくなっていくのを見届け、めぐみもまた太陽の昇る方へと走り出した。
朝の運動を終えて家へと着いためぐみは、音を出さないようにゆっくりとドアを開ける。疲労によってドアを開ける体力に乏しいのもあるが、それはまだ寝ている母を起こさないための気遣いだった。母はそこまで朝が遅いという訳ではないが、最近は仕事の疲れからかめぐみより少し後に起きてくることも少なくなかった。
「ただいまー」
吐息のように帰宅の合図を出すと、履いていたランニングシューズを下駄箱にそっとしまい足音を殺して居間へと渡る。家主の気も知らずに衝突音を鳴らすフローリングの廊下。それに怯えるように抜き足差し足を繰り返す姿は自宅に忍び込んだマヌケな泥棒のようだ。
「そんなところでなにしてるの?」
めぐみは注意の外から掛けられた声に反射的にビシッと姿勢を正す。そして一瞬の沈黙を経て壊れた機械人形さながらにキレ悪く首を後ろに回した。そんな我が娘をかおりは冷ややかな目で見つめていた。
「お…お母さんこそ、あたしの部屋でなにしてるの?ていうか、起きてたんだ…」
猛烈に鼓動が高まる中、自分の部屋から出てきた母へとめぐみは問いかけた。
「朝だもの、そりゃ起きるわよ。バスタオルと着替えは出してあるからシャワーで汗流してきちゃいなさい」
「あ…ありがとう」
肩に下げている萎びたタオルとは対照的なフワフワの厚いタオル、そして畳まれたルームウェアを手渡すとかおりはリビングへと消えていった。
めぐみがシャワーを終えリビングに入るとウィンナーの焼ける音を耳にした。フライパンの上で熱された食物の水分がジューッと揮発している小気味の良い音。それと共に流れてくる焼けた油の匂いはジョギング終わりの空腹にはたまらないものだった。
「朝ごはんぐらい自分で用意したのに」
「ジョギングで疲れてるんだから学校の時間までゆっくりしてなさい。疲労が残ってると勉強にも悪影響でしょ」
確かにそうかもしれない。お言葉に甘えると、めぐみはキッチンカウンター越しに皿を受け取り早速ウィンナーを一つ口に頬張った。
「うん、美味しい!」
「それは何より。もうすぐパンも焼けるからね」
漂ってくる食パンの甘い香りがより食欲を誘っている。
朝早く起きてジョギングをし、帰宅すれば母の作る朝ごはんを食べるという、なんのことはない平凡とした朝の一幕。
他に代えがたい日常の時間に満足気にめぐみは口元を綻ばせた。それがいつまでも続くものであると信じて。