時刻は三時。オフィス街を抜けて少しの住宅街にある小さな公園。中央に置かれた四半円状にアーチを描いたモニュメントが印象的な円形の泉。その縁石で隣り合うめぐみとゆうこ。その正面では木製ベンチにひめといおなが並んで座っている。
早く学業を終えられたというのに四人の顔には深刻なほどに疲労が浮かんでいた。身に付けた探偵の変装を解くこともせず、肩にのしかかった重力に従ったまま項垂れている。
それもそのはず、たった数時間前に街を揺るがす激闘を繰り広げたかと思えば、勝利を収めたその足で町中をひたすらに歩き回ったのだから。
風が一つ、木々を煽った。すると、揺られた水面が波紋を立てて、少女たちの姿を歪ませる。ここで休憩としてから二十分。その間、全員が口数も少なめに疲れを癒すことへ努めていた。そんな彼女達の傍では後から合流していたリボンとぐらさんがフワフワと漂っていた。
「またしてもサイアークの痕跡は無し、かぁ。好き放題暴れておいて理不尽な話だよ」
「色々聞いて回りはしたけど、少しも情報はなかったね」
浮かせた足をぶらつかせて、ひめが徒労に息を漏らす。めぐみがそれに同調するが、やはり彼女の顔にも疲弊が伺える。
「リボン達はあの白いサイアークに心覚えがあったりしないの?」
「残念ながら、突然姿が消えたり変わったりするサイアークだなんて聞いたこともありませんわ」
「オレもだ。テンダーが戦った相手にもそんな奴はいなかったぜ」
ゆうこに聞かれ、リボン達は一瞬頭を巡らせるがその片隅にも白いサイアークの情報などは存在しない。
「ブルー様なら或いは…」
「もう、こんなときに神様は何してるのさ!」
手の打ちようがない今の状況。神にも縋りたいこの肝心なタイミングでブルーを頼ることができず、歯がゆい気持ちをひめが吐き出す。
「それにしてもあのサイアーク。ずっとボーっとしてると思ったら、こっちを見つけた途端に飛びかかってきたりで変な感じだったよね」
「この間の奴もオレ達が到着するまではただ直立するだけで、あいつらがなにをしたいのか全く見えてこないぜ」
めぐみとぐらさんの指摘する通り、件のサイアークが再び現れたとなっても出現の原因も、生み出した人間も、その行動の意図でさえも。全てが闇に包まれていた。
「不幸のエリアを広げることでもなく、かといって無暗に暴れることでもない。まるで私たちを待っていたみたいな」
「わたし達を……?」
「あくまで憶測だけど、でもこれぐらいしか見当がつかないわ」
めぐみといおなが視線を合わせる。すると、一連の話題を納めるようにゆうこが言った。
「白い身体といい不審な行動といい、今までのサイアークとは何もかもが違う。謎は深まるばかりだわ」
今回の総括として、事態に一切の好転はない。状況は依然として霧中を貫いていた。
ざわめく木々の声達が少女たちを取り囲む。迫る不穏の気配に失われた言葉は、重圧となって彼女達に静寂を余儀なくさせた。
「これからどうしますの?」
数分の沈黙が続き、静まる場の雰囲気に耐え切れず、リボンが口を開く。
「どうするって?」
俯かせた身体をベンチにまっすぐついた両手で支えながら、横たわる木漏れ日を追っていたひめ。リボンの声に顔を上げると、重たく声を吐いた。
「サイアークの捜索のことですわ。皆さま、お疲れのようですから。これ以上はもう」
「そうだな、もう邪悪な気配も感じられないし、ここは各自帰宅して英気を養った方がいいと思うぜ」
戦闘の余韻が残る四人を鑑みて、妖精の二人がここで打ち切りを提案する。
すべてがサイアーク次第とされる現状に歯がゆい思いを感じながら、今回は一旦の解散とした。
「ただいまー」
重い足取りを連れて、めぐみが帰宅する。ドアを開けると飛び込んでくる暗闇にも最早見飽きていた。
誰もいないのだから明かりがあるはずもなく、うっすらと辟易しながらスムーズな流れで電気を付ける。まっすぐ自室に戻り鞄を下ろすと、クローゼットにかけた部屋着へと着替える。
不意に窓から覗いた16時過ぎの空は昼の面影を褪せた青に残し、赤い裾野では黄色と白がまばらに輝いていた。先ほどまでプリキュアとサイアークの戦闘が行われていたはずの街は、既に日常という姿を取り戻し目まぐるしく回り出していたのだった。
自分が、自分たちがなんとか取り戻した当たり前の世界。それはあまりに眩しくて綺麗だ。空に浮かぶ太陽や星々にも負けない輝きがそこにはあった。
だが、今はこの大切な街が何者かの手で汚されようとしている。影も形もない謎の敵によって。
とはいえ、どうすればいいのか。どうすれば世界を、この町を守れるのだろうか。
「少なくとも、勉強ではないんだろうなぁ」
机に置いた参考書の山を見つめながら、めぐみは呟く。ノートの上には悩みの捌け口として黒鉛で書きなぐられた英文や数式が無数に散らばっていた。
「やらなきゃいけないことはあるんだけど…」
ノート横の作文用紙に目を移す。ここ最近、自学を行うときはいつも横に添えているのだが、未だにその上に綴られている文は「愛乃 めぐみ」と「将来の自分」の二つだけ。ペンを持って向き合ったとして不思議にアイデアが冴えわたることなどあるはずもなく、ただ幾つかの消し痕が白い世界を醜く汚していた。
「言ってても仕方ないか。書かないと始まらない」
先の丸い鉛筆からシャープペンシルに持ち替えて、作文用紙に手を添える。そして、マスを一つ開けて文の初めに「私がなりたい将来の自分は」という書き出しを綴った。だが、そこでピタリとペンは止まる。未だ汚れを知らぬ十二文字の後ろを見つめて、めぐみは纏まらない考えを宿していた。
──困っている人を助けること、それが今の私がやりたいこと。でも、大人になったとき、そんな漠然としたことを続けているんだろうか。大人になるってどういうことなの。夢ってどうやって探せばいいの、あたしはこれからなにをしていくべきなんだろう。進行形のサイアークに対してでさえなにも思いつかないのに……
考えれば考えるほどに思考の沼に嵌っていき、目の前の作文用紙が大きくなっていく。ほんの些細な未来予想図を描くだけの作文。しかし、たった数百のみ許された原稿の文字数がめぐみの目には無限のように映っていた。
──あたしができることって、あたしが求められてることって……
さらに深みへ沈んで行こうとした時、玄関先から呼び鈴の音が鳴り響く。脳を通りすぎるチャイムの音に夢うつつから引き戻され、めぐみは慌てて玄関の方へ飛び出した。
「はーい」
他所用の通りが良い高い声を出すと、ドアを開けて向こうの存在を出迎える。すると、その目線は下へ動き、めぐみよりも一回り小さな女の子を視界に認めた。
目線を交わす少女とめぐみ。すると、お互い示し合わせたように両腕を広げると、真央がめぐみの胸へと飛びついた。
「めぐみちゃん!」
「真央ちゃん!」
誠司の妹、相楽真央。誠司との付き合いの数だけ、真央とも交流を重ねていたことで少女とめぐみの姿はまるで姉妹のように仲睦まじい。前までは下に見えていた真央の頭の位置が少し上がっている。もうすぐで小学校高学年に上がろうとする彼女との身長が縮まりつつあることをめぐみは嬉しく思った。
熱い抱擁の最中、彼女の頭にふと疑問が過る。姿勢はそのままに腕を緩めると、真央と顔を向き合わせて問いかけた。
「あれ、誠司は一緒じゃないの?」
「お兄ちゃん、今日は用事があるから少し遅れるかもしれないんだって」
「そうなんだ。誠司もそれならそうと事前に言ってくれればよかったのに」
誠司にしては珍しい他人からの事後報告にめぐみは少し眉をしかめる。すると、真央は笑顔を見せると明るい声で言った。
「それでね、いつもお世話になってばかりだから。今日はお手伝いしようと思って先に来たんだ!」
「ありがとう、真央ちゃん!わたし、助かるよ!」
真央からの殊勝な申し出に酷く感心し、もう一度抱きしめ合うめぐみと真央。微笑ましい妹分の顔に、めぐみは日常の安心感を覚えた。
とはいえ、今日の夕飯の準備をしようと思っても、献立のカレーはかおりが作ってしまっている。ならば、付け合わせでもと思い、冷蔵庫を開けるがボウルいっぱいのポテトサラダが残されていた。炊飯器を確認したが、ちょうど晩御飯の時間に合わせてタイマーがセットされている。真央に手伝ってもらうどころか自分が手を加える作業すら残されておらず、母の完璧な家事に感謝しながらも些かに気まずさを感じる。
「それでね、卓真がね」
「それを言うなら誠司もだよ」
それから、テレビの前のソファーに腰を下ろして、夕食までの時間を世間話などしながら過ごすことにしためぐみと真央。友達と遊んだ話。毎日の勉強の話。それから、同級生の男子の子供っぽい一面についてなど色々な話題を共有した。
「それで、中学校ではどんなことしてるの?修学旅行は?文化祭は?」
特に学校生活の話は、まもなく小学五年生を迎え、少し先に進学を控えた真央にとって中学校への興味は一段と深かった。普段の学校生活はもちろん、時季外れの行事についてすらしつこく質問を繰り出した。
「中学校って楽しい?」
しばらく交わした問答の果て。真央から投げかけられた何気ないその一言をめぐみは答えあぐねてしまった。
「どうしたの、めぐみちゃん?」
脳裏を駆ける回顧する記憶の群れ。その処理に追われて動きを止めためぐみ。彼女の反応を窺って、真央が困惑の表情を見せる。声の方向へ強張った顔を向けるめぐみだったが、まもなく返事を取り繕う。
「あぁ、うん。もちろん
どうにか笑顔を浮かべると、とってつけたようなことで真央からの質問を返す。
それを聞いて楽しそうにほんの少し先の未来を想像する真央に反して、めぐみは目線を水平下に傾けながら顔を暗く染めた。
「そろそろご飯にしようか。準備するから手伝って!」
もやもやとする気分を誤魔化すようにめぐみは立ち上がる。そして、真央の手を引いてキッチンに向かった。
グツグツと煮込まれるカレーからスパイシーな香りが湧き上がる。食欲を誘うその匂いにお腹を空かせためぐみは、大皿のプレートの半分に白米を盛り、底にカレールーを並々に注ぎ込む。そして、両手にお皿を持って急いで食卓へと向かう。そして、マットの上へソッと乗せた。
かくして完了した食事の準備。めぐみは椅子に腰降ろすと、対面の真央と食事の号令をしようと手を合わせる。
すると、またしてもチャイムが鳴り響いた。凡その相手を想像して机に両手を突いためぐみに先んじて真央が玄関の方へと駆けだした。
「おっ、いい香りだな。今日はカレーか」
真央に連れられてリビングに入るや否や、誠司が鼻を鳴らすと空かせた腹を撫でた。そのまま、キッチンでめぐみからカレーを受け取ると食卓へとついた。
めぐみは誠司の後ろから銀のスプーンとポテトサラダの入った小皿を手渡すと、真央の正面、誠司の斜め右前へと座った。
そして、めぐみの着席を合図に一同は夕食を食べ始めた。
軽い会話を交わしつつも、美味しいカレーをゆっくりと味わって食べる夕食の時間。めぐみは母の作ったカレーの味に舌づつみを打った。そして、スプーンから箸に持ち替え小皿に手を伸ばしたときになんとなく目に入ったその光景。少量をゆっくりと味わう真央に対して、次から次へと口に運んでは勢いよく食べる誠司。その兄妹の個性の違いが、家族という存在の象徴のように映り、めぐみはつい見つめていた。
「どうかしたか?」
自身に、或いは妹へ向けられた視線に誠司が反応を見せる。
「いいや、なんでもない。ほら、顔にご飯粒ついてるよ」
めぐみはそれだけ返すと、再び食事に手を付けた。刺さった視線の正体に誠司は少しばかり考えたあと親指で口元の米粒を拭った。
「ねぇねぇ、めぐみちゃん。今日のプリキュアウィークリー見た?」
何気ない食事中の会話。その中で飛び出したプリキュアという言葉を受けてめぐみの肩がぴくりと跳ねた。すると、めぐみは見る見る内に額に汗を溜めると、口の中に含んだカレーをゆっくりと飲み込んだ。
「えーと、プリキュアウィークリーね。今日は見てないかなぁ…なんて」
透けて見える動揺を顔に浮かべて、会話に応じるめぐみ。しかし、真央は彼女のそんな様子に気が付いてはいなさそうだ。
「今日も街に出てきたサイアークをプリキュア達が倒したんだって!!」
嬉しそうに先刻の自分たちの活躍を語る真央。目の前の少女に対して秘め事を抱えていることを申し訳なく思うめぐみだったが、スプーンを持つ手はガクガクと震え顔には冷や汗が滲んでいる。こうも露骨に態度に現れては違和感を持たれない方が奇跡ではないだろうか。そんなことを思いながら焦る幼馴染を横目に誠司は夕食を口へと運ぶ。
「テレビで見ただけだけど、やっぱりかっこよかったなぁ」
真央がぴかりが丘の窮地を救った戦士達への憧れを口にする。それはつまり自分へ向けられた言葉でもある。そのことに照れくささを覚えつつも、それとは別の懸念がめぐみの心を覆った。
「真央ちゃんは怖くないの?またサイアークが現れて、街を襲ってるなんて聞いてさ」
プリキュアが現れるということは、街を襲う悪が現れたということだ。ヒーローの活躍に胸を躍らせる少女にとって、その敵役はどのように見えているのか。突然のめぐみからの問いかけに真央が不思議そうに目を丸くさせる。楽しい会話に水を差してしまっただろうか、それとも忘れていた恐怖を想起させてしまったか。
思いがけず聞いた言葉を失敗と悟るめぐみ。しかし、真央から返って来た言葉は存外に明るいものだった。
「確かにサイアークがまた現れたのはちょっと心配だけど、プリキュア達がいるんだもん!サイアークなんて、怖くないよ!」
手の中のスプーンを握りしめ、真央は自信満々に語る。その勢いに圧倒されつつも、めぐみは一先ず真央の中でサイアークへの恐怖よりもプリキュア達への信頼の方が勝っていることに、自分がプリキュアとして人々をちゃんと助けられていたことに安堵した。
食事を終え、ブレークタイムに入る愛乃家。禊を望んだ誠司に皿洗いを任せると、満腹の腹を摩りながらめぐみと真央はテレビを見ていた。
四角い箱の中で、華やかなコスチュームに身を包んだ少女が自身よりも巨大な怪物と戦っている。迫る怪物の攻撃を華麗に避けながら、少女が懸命に立ち向かっていく。それは真央が毎週楽しみに見ているという魔法少女のアニメだ。
めぐみの小さい頃から放送している長寿シリーズの最新作だが、毎作品ごと常に視聴者を飽きさせない工夫が施された人気作品だ。
その世界侵略を狙う悪の手から地球を守るために戦う少女の話に、どこか自分達の境遇と重ね合わせるめぐみ。気が付けば、前のめりで手に汗を握り、真央よりも夢中になっていた。
魔法少女がかざしたステッキから閃光が放たれる。そして、たちまち怪物は浄化され、光の中にその姿を消した。見事勝利を収めた魔法少女。その後ろ姿を映した引きの画面の裏で流れるキャッチ—な音楽と共に番組は終了した。
続く神社特集と称したバラエティ番組。すると次の瞬間、つまらなさそうなめぐみの顔と、その横で立ち上がる真央が黒い液晶の中に映し出された。
消されたテレビの画面よりも、突然の直立した真央の方へ驚愕を示しためぐみ。そして、真央はその場で背伸びをすると時計に目をみやる。そして、めぐみの方を向いて一言。
「じゃあ、もうそろそろわたしは帰るね!今日は楽しかったよ、めぐみちゃん!」
そして、手を振って踵を返した真央はめぐみへ笑顔だけを残して自宅へと帰っていった。呆気に取られためぐみの耳にはドアが発する金属音が幾度となく跳ね返っていた。
「もう、帰っちゃうんだ…」
以前は、夕食後もしばらくは共に世間話やらをしながら遊んでいたはずだった。家族離れというか成長というか。名残惜しい団らんの記憶に独り言ちる。
「真央の奴、最近妙に張り切っててな。この時間になると、部屋に籠って勉強してるんだよ」
その声にハッとしためぐみ。後ろを向けば、とうに皿洗いを終えた誠司がソファの背もたれに手を突きながら、よたれかかっていた。
「少し前まで、お前がほぼ毎日俺の部屋まで勉強しに来てただろ?それでスイッチが入ったんだろうな。これまで以上に勉強に力入れてんだよ」
分析を述べながら、誠司はソファの斜め向かいのスツールに腰を落とした。
「そうなんだ。でも、あたしとしてはもっと真央ちゃんとお話したかったなぁ」
「なら、俺と話していくか?腹ごなしにはならないかもしれないが、将来の話でもなんでも付き合ってやるぜ」
いつも通りに軽いノリで返すめぐみの姿を予想した誠司だったが、それに反して彼女は神妙な面持ちで誠司の方をジッと見つめていた。なにか下手なことを言ったか。誠司は今さっきの自分の発言を思い起こした。
「あぁ、いや、その将来っていうのは将来の夢みたいなことでだな」
「誠司はさ…将来の夢ってあるの?」
顔面を紅潮させる誠司の様子を不思議に思いながらも、めぐみは少々重たい声風で続けた。
「実はさ、あたしまだ将来の夢が決まってないんだよね」
いつになく真面目な素振りを見せるめぐみ。それを受けて、誠司は彼女のトーンに自身も合わせようと一度小さく深呼吸する。
「他の皆はもうやりたいこととか、なりたいことが決まってるみたいだけど、あたしだけ、夢とかそういうの何にもなくて……」
言葉を発していくに連れて、真っすぐ誠司と視線を交わしていためぐみの双眸は段々と沈み込んでいき、やがてテーブルの足元で止まった。
伏し目がちのめぐみを前にして、座した尻にムズムズとした落ち着かなさを感じる誠司。何度も座り直しては頭の中で励ましの言葉を幾つか見繕うが思ったように口に出せず、しんとした空気が二人の間に流れた。
「まぁ、そのなんだ。あまり言えた口じゃないけどさ。俺は夢がないってことを今深刻に考える必要はないと思うんだ」
逡巡の末に誠司が意を決して、緊張を破る。正解かは分からないが、これが彼が現時点で言えることだった。
「実のことを言うと、俺も夢ってのがないんだ」
誠司から繰り出された言葉に、めぐみは首を持ち上げた。しっかり者の誠司に限って、将来の夢がないとは予想打にもしていなかった。
「考えようとしても、将来の俺の姿が思いつかないんだよな。やりたい仕事があるわけでもないし」
腕を組んで、うなずく誠司。同意を誘うような仕草にめぐみは驚愕を顔に残したまま、誠司へと問いかける。
「で、でも。誠司の強くなりたいって気持ちは将来叶えたいことじゃないの?」
「それは…」
誠司の求める強い男。そのイメージは彼の中では、夢というものではないようだ。改めて問われると微妙な意味合いの違いに逡巡する誠司。
「まぁ、なんというか、強くなりたいってのは生き方であってだ。これから先も一生向き合っていくことなんだと思うんだ。だから、夢っていうのとはちょっと違う気がするんだよな」
誠司は自分の中での定義を改めて言葉にすると、一番伝えたかった結論へと話を進める。
「確かに、今は叶えたい夢がないってことに焦るのも分かるけど、これから先の人生は長いんだ。その中でゆっくり見つけたらいいさ」
「誠司は流石だね…あたしと違ってちゃんと考えがあってさ」
夢がないというめぐみをフォローしたつもりだったが、思っていた反応と違い彼女は再び視線を落としてしまった。彼女をなんとか励ませないものだろうか。
「まぁ、これも人からの受け売りなんだけどな」
すると、今朝方の事が頭に浮かび、照れくさそうに格言の補足を行った。それがどこか彼女の琴線に触れたのか、めぐみは沈んだ顔色をほんのりと明るくさせた。
「受け売りってひろ子さんの?」
「これは、その…父ちゃんのな」
誠司の父親。それを聞いて、めぐみは愕然とした。彼女の中で目の前の幼馴染の禁忌に触れてしまったような不穏な感覚が過る。
なぜならば、彼女の知る限り誠司の両親は彼がまだ小さかった頃に別れてしまっていたのだから。そして、その時の誠司の悲しむ姿が幼心の中に強烈な印象を残していた。
それから十秒ほど、今度はめぐみが気まずそうに何度も座る姿勢を変えては誠司の方を覗いていた。
「ごめんね…思い出させるようなこと聞いちゃって」
「気にすんなって、両親が二人で話し合って決めたことだし。それに対して今更とやかく言うつもりはないんだ」
誠司が、落ち込むめぐみをフォローするようにとうに吹っ切れていることを伝える。それを聞いてめぐみもうなずいて反応して見せるが、彼女の表情にはまだ遠慮が残っているように見えた。
「今でも父ちゃんとは皆で食事したり、たまに会ってるんだ」
「そうなの?」
「あぁ、今でこそ離れちゃいるが、父ちゃんも母ちゃんもあれはあれで仲が悪い訳じゃないんだ。お互いにまだ結婚指輪を残してるぐらいなんだぜ」
未練が断ち切れない両親の女々しい姿を自ら他人に報告するという妙な行為を、誠司がはにかんで誤魔化した。
「あと、個人的に父ちゃんとしたい話があって会ったりもしてるんだ。まぁ、それで今日はうっかりスポーツの話が盛り上がって遅れたんだけどな……」
「ふふっ、なによそれ」
最後の言葉を話す際の、ばつが悪そうに視線を逸らす誠司の姿にどこか滑稽さを覚えためぐみ。それがまじめな話の内容とのギャップをもたらし、つい笑い声を吹きだしてしまった。
ようやく、いつもの調子を取り戻しためぐみ。それからまもなく、ドアの開く音が玄関から響く。それと同じくして、聞こえてきた「ただいま」の声にめぐみはより一層の笑顔を浮かべた。
「お母さん!」
帰宅した母親に対して明るく話しかける彼女の姿を見届けると、入れ替わるようにして誠司は自宅へと帰っていった。