ハピネスチャージプリキュア!の小説   作:モリ―・ジョニー

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17.密会

 花々が風に揺れ、香ってくる甘い匂いに鳥がさえずる。緩く穏やかな時が流れる休日。そんな正午を迎えたぴかりが丘には、不釣り合いなほどに焦燥を見せる少女が一人。

 

「まさか、目覚まし時計が壊れてたなんて……そんなことよりひめだよ!!」

 

 寝ぐせが残るロングヘア―を振り乱しながら、全速力でめぐみは足を走らせる。寝起きに受けた友人のピンチの報告。それがめぐみを動かしていた。

 

(リボンがあそこまで叫ぶなんて、ひめに何が起こったんだろうか。ケガや病気でもしたのだろうか、それともまさかサイアークが!?もしかしたら早く帰っちゃう…なんてそれはない…かな)

 

 激しい身体の動きと同様、心中も慌ただしく落ち着かない様子。

 あれやこれやと考えているうちに遠くの茂みの向こうに大使館の青い屋根が見えると、めぐみは更にスピードを上げた。

 

 住宅街の家々を抜けた雑木林にある大使館へと導くレンガ造りの道。その道半ばの小さな階段を飛び越え、鉄柵に囲まれた大使館の門を勢いのまま通り抜ける。

 そして、ようやく到着した大使館。その大きな家構えを前にしてめぐみが深呼吸する。これから何を聞かされてもいいように乱れた息を整えると、めぐみが玄関戸へと手をかけた。すると、それを制止するように建物の陰から白い塊が飛び出してきた。

 

「めぐみ、こっちですわ!」

 

「ちょ、ちょっと!」

 

 入場目前のめぐみの手を引いてリボンはあらぬ方へと飛んでいく。そのまま、彼女に連れられて向かった先は大使館の裏庭。大きなため池が占領する庭、その庭と応接室とを繋げるステップの上でリボンはブレーキをかけた。

 引かれるがまま足を転がしていためぐみは、小さな手から解放されると建物の様子を眺めるが特に変わった様子はない。赤いカーテンが閉め切られた窓の前で神妙な面持ちを構えるリボンに対して、めぐみは困惑を浮かべていた。

 

「なんでこんなところに?そんなことよりひめはだいじょ」

 

「しっ!静かに!」

 

 めぐみの唇に右手をあてて、左手を丸々一つ立てて静粛にのポーズを取った。突然のことで目を丸くするめぐみ。そして、リボンがカーテンの隙間から見える部屋の中をちょいちょいと腕指した。

 窓に張り付いたリボンの上からめぐみも中を覗き込むと、そこにはチェアーに座るひめの顔が見えた。何やら真面目そうな表情をしているが、ひとまず彼女の無事に安心を覚えるめぐみ。しかし、よく見るとひめと対面するソファーの方に人の姿が見えた。

 

「ひめがお友達を家に呼ぶだなんて、凄いことだよ!」

 

「相手をよく見てくださいな…」

 

 喜ぶめぐみのらんらんとした瞳に水を差すように、リボンが隙間からの光景に対して更に注目を促す。

 言われた通りに、めぐみが目を細めてカーテンの僅かな隙間に焦点を当てる。ソファーの背もたれ越しに見えた後ろ姿は、座していながらひめよりも頭数個抜けた長身、そして横に広く肩の張ったスーツ姿。そこから察するに。

 

「あれって、まさか男の人!?」 

 

「そうなんですの!昼前になって急にひめがワタクシを追い出したと思ったら、あの方がやってきて…」

 

 驚いためぐみとリボンが顔を見合わせる。まさかリボンを追い出してまでひめが大使館に招き入れた相手が男性、しかも大人の人だとは。思いもよらぬ密会の相手に彼女の成長を喜んでいいやら何やら。

 

「お子ちゃまなひめに限って、そんなことはないかと思いますがもしかしたら!もしかしたら!!」

 

「リボン、落ち着いて。ひめなら大丈夫だって…多分」

 

 顔面を蒼白とさせながら、鼻息を荒くするリボン。めぐみはその矛盾するリボンの反応に苦笑いした。いつも穏やかなリボンにも心配性な部分がある。特にひめに対しては時折過保護なまでに反応することがあるのだが、それにしても、今回はちょっと大げさではないだろうか。ひめも中学校を卒業する年齢ともなれば、大人の男の人の友達だっているだろう…きっと。

 そう思うめぐみだったが、言われてみればひめの雰囲気も彼に釣られてより大人っぽくなってるような気もしてくる。めぐみは、思わず目の前の光景に生唾を呑んだ。

 

「二人は何を話しているんでしょう…」

 

 リボンが耳、というよりも顔の横を窓に押し付けて会話を聞こうと画策するが、聞き取れていない様子。めぐみも自身の視線の先で窓越しにひめがパクパクと口を動かしているのは見えるが、肝心の内容は分からない。しかし、これでは、盗み聞きだ。

 その時、めぐみの頭に過った記憶。二週間前に自分が行った盗み聞きの記憶が、彼女へふとした後ろめたさを宿した。それは必要以上にこの状況を悪しきことに思わせた。

 

「ねぇ、リボン邪魔しちゃ悪いよ…ひめがわざわざ隠したいってことは相応の理由があるんだと思うよ」

 

「ですが…」

 

「心配なのは分かるけどさ、ひめだってもう子供じゃないんだし……」

 

 むしろ将来を見据えている分だけ大人だ。という旨は伝えないが、連鎖するようにめぐみの脳裏にあの日の記憶が蘇る。

 

────そうだ、既にひめは夢を持っている。ひめはわたしなんかよりもよっぽど…

 

 めぐみがそう思ったのも束の間、話をしていたひめが渋い顔をして立ち上がると、部屋の外へ出ていった。

 急にどうしたのだろうか。二人して疑問顔を合わせると、件の男がきょろきょろと辺りを見回し始めた。彼が後ろを向いた拍子にそのご尊顔を拝見すると同時に、咄嗟に身を隠す二人。そして、一斉に驚愕の声を漏らした。

 

「ねぇ、あれって!」

 

「間違いありませんわ!」

 

「ナマケルダ!!」

 

 細かい容姿の違いこそあれど、一瞬見えた男の顔。特に男が見せた気怠そうな目つきには見覚えがある。それはまさしくナマケルダの疲れ切った目つきそのもの。かつて何度も相対した彼のことを間違えるはずもない。

 一般人ならいざ知らず、相手がかつての幻影帝国の幹部とあっては注目せずにはいられない。後ろめたさを感じながらも、めぐみは静かに彼らのことを観察することにした。

 

「って、本当の名前は生瀬さんって言うんだっけ」

 

「なんで、ひめと彼が一緒にいるんですの!?」

 

「それはわかんないけど…」

 

「あっ、ひめが戻ってきましたわ!」

 

 てんやわんやとする中、突然リボンが叫ぶ。その声にめぐみが再度中を覗くと、ひめが両手にお盆を抱えながらドアから入室してくる様子が見えた。

 

「お待ちどおさま。はい、紅茶」

 

「ご苦労様ですぞ。私、もう喉がカラカラで」

 

 ひめがお盆の上に白いティーポッドとカップを二つ乗せて、テーブルにそっと置いた。すると、ナマケルダもとい生瀬はテーブルの上にポッドを見つめると、チェアーへ座ろうと腰を屈めたひめへと視線を移す。その行動が指すところを理解したひめは目の前の男を睨みつけた。

 

「なんで、ワタシが入れなきゃいけないのよ。自分で入れたらいいじゃない」

 

「私、一応客人として呼ばれた身なんですがね。むしろ、休日出勤中の昼休憩にわざわざ来て差し上げたのですから感謝して欲しいぐらいですな」

 

「それは…そうなんだけど…」

 

 両掌を水平に傾けて冗談交じりに話す生瀬。その指摘を受けて、ひめはしぶしぶ二つのティーカップに紅茶を注いだ。

 

「それで、先ほどの質問の答えですが、ここ最近のサイアークの出現については全く知らないと言わざるを得ませんな」

 

 生瀬は紅茶を一口飲むと、その言葉と共にダルそうな表情からキリっとした目つきへと切り替える。

 ひめが彼をここへ呼んだ理由。それは再び現れたサイアークについて、元幻影帝国という立場の人間から話を聞くことだった。

 

「生瀬でも分からないの!?」

 

「残念ながら」

 

 ガックリと肩を落としたひめに一言返すと、生瀬は紅茶をもう一口飲んだ。そして、ぼやくように呟いた。

 

「私としても少々面倒なことになっているのですよ。サイアークが現れたことが私のせいだなんだと、周りから有らぬ噂を立てられて」

 

 サイアークの出現、それは世間に対して幻影帝国の復活を想起させるに十分な事態である。普段の学校生活の中でもクラスメート達からそれらの噂話は耳にしていたが、まさか生瀬までその対象にされていたとは。

 不意のことに顔を曇らせるひめ。自分達がもっと早く解決できていれば、と。

 

「まぁ、お気になさらず。噂の的にされるなど多少面倒臭いだけでもう慣れっこですから」

 

 生瀬は急に態度を変えたひめの様子に、微妙に眉をしかめると紅茶に再び手を付けて一呼吸置いた。

 

「これでも私、あなた方には感謝しているのですよ」

 

「感謝!?あんたが?」

 

 思いもよらぬ言葉に目を見開くと、ひめは驚きをそのままに生瀬へとぶつける。すると、生瀬は口元に笑みを湛えながら言い聞かせるような顔で言葉を繋げる。

 

「えぇ、一度悪の手先に下った過去は消えない。しかし、今もこうして日の下に居られるのは貴方がたプリキュアが救ってくれたからこそ。でなければ、私は仕事なんて面倒な真似もできませんでしたからな」

 

 去年の春先、幻影帝国幹部の責任の是非を巡った論争が連日世間を騒がせていたことをひめは思い出していた。幻影帝国が社会へ与えた影響は大きなものであったが、プリキュア達の活躍によって物理的な被害が極めて小さかったこと。そして、彼らが幻影帝国に堕ちた経緯などの諸々の事情によって結果だけを言えば彼らへの措置は保護観察という形に終わった。

 しかし、その過程では生瀬ら幻影帝国幹部の更生の姿勢が認められたことも大きく影響している。当時は毎日のように増子アナウンサーにインタビューされる彼らの姿を見ていた。

 

「ワタシたちはなにもしてないよ。それは、生瀬たちの誠意が伝わった結果だよ」

 

「いえ、マスコミも働きかけてはくれましたが、本人からの謝罪と証言だけでは世間が納得してくれないのもまた事実。聞くところによるとプリンセス、貴方が我々を助けるためにブルースカイ王国に掛け合ってくれたとかなんとか」 

 

 幻影帝国を巡った一連の議論、その矢面に立ったのは何を隠そう、彼らの被害を一番受けていたはずのブルースカイ王国であった。当時、幻影帝国に対する非難の色が強かった中、ブルースカイ王国は彼らが行ったことは不可抗力によるものであったとして擁護派の立場を表明。それによって、幻影帝国の幹部は加害者であると共に被害者であるという国際的な風潮が広まり、そして現代に至る。

 

「ブルースカイ王国が味方してくれていなければ、世界は我々の所業を許しはしなかったでしょう。人々に恐怖を蔓延させた罪というのはそれほどまでに大きいのですよ」

 

「それはお母さまとお父さまの意向であって、本当にワタシは大したことなんてしてないよ。それに、神様に心が弱ったところを狙われたなんて、誰にもどうしようもないもの。それを皆も分かってくれたから生瀬はここにいるんでしょ?」

 

「まぁ……貴方がそう言うのであれば私はいいのですが」

 

 目の前の少女は何を言っても譲らないだろう。これ以上は野暮だと悟る生瀬。そして、手をかけたカップの軽さに気が付くと、背もたれにゆっくりと身体を預けた。

 

 その後、ふと時間が気になり、生瀬が腕時計に目を見やる。そんな折、目の前のひめがどこかソワソワとした素振りを始めた。口をパッと開けては思い直したように閉じ、きょろきょろと目を動かして正面の男と視線がぶつかると即座に外す。

 あからさまな挙動不審。数分前とはまた違う様子の変化に再び眉をしかめる生瀬。そして逡巡すると、気持ち吐息多めにして言葉をかける。

 

「しかし、わざわざ大使館にまで呼びつけたのですから貴方が聞きたいことはそれだけではないのでしょう?」

 

「えっ、なんでわかったの!?」

 

「まぁ……口頭で済ませられるようなことなら電話するに限りますからな。無理を言って人を呼び出すような面倒な真似を貴方はしないでしょう」

 

 生瀬は見事予想を的中させ、内心で安堵する。面倒ごとを嫌う性格上、それらを精査する洞察力には人一倍自信があった。しかし、ことひめに関しては些か反応が露骨すぎる。目の前の少女の行く末にほのかな不安を覚える生瀬。

 

「実はさ、人生相談……みたいな?」

 

「貴方が、私に!?」

 

 それを聞くと、生瀬は細い目をかっぴらいて驚きの声をあげる。そして、自分を指さした後、ひめへ手のひらを向けると、それに対してひめはゆっくりと首を傾けた。

 その返事に唖然とする生瀬。ひめが不安げに見つめる中、突如生瀬は腹を抱えて笑い出した。ダウナーな雰囲気にまみれた男が堰を切ったように大笑い。その急激な様子の変化に呆気に取られたひめは数秒ほどして我に返ると顔を真っ赤に染め上げた。

 

「笑うことないじゃない!確かに人生相談なんてワタシには早すぎるかもしれないけどさ!」

 

「いえ、そうではなくて。まさか、プリンセスがそこまで私を信頼していたと思っていなかったものですから」

 

 怒りか、恥ずかしさか。ひめが立ち上がって目の前の男へ口を尖らせる。すると、生瀬は目尻の笑い涙を拭い、表情を平常に戻した。生瀬の弁明を聞くと、ひめは彼を睨みつけながらゆっくりと腰を落とした。

 

「あんまり他に聞ける相手も居なくてさ。リボンや皆には心配かけたくないし…」

 

「私には心配をかけてもいいと?」

 

「そうじゃなくて!」

 

「まぁ、悩みなんてものは幾つになっても絶えないものですからな。特に貴方のような年頃の若者にこそ周囲には話せないことの一つや二つ…」

 

 軽口に僅かに目つきを鋭くさせたひめへ両手を突き出して、生瀬はどうどうと宥めるように同調の意を示した。しみじみと語るその口ぶりは彼自身が記憶を回顧しているようにも見えた。

 

 二人のやり取りを盗み見するリボンとめぐみ。肝心の中身はカーテンと窓ガラスの二枚の壁に阻まれて詳しく聞きとれてはいないが、傍からはテンションを乱高下させる両名の無音のやり取りは年齢差を感じさせない間柄に映っていた。

 

「なんだか、あの二人凄く楽しそうだね」 

 

「なにを話しているんでしょう!?気になりますわ、気になりますわ!」

 

「リボン、落ち着いて。二人に聞こえちゃうよ」

 

 二人の不明の関係性へ困惑と好奇心で興奮するリボンに圧され、めぐみは却ってこの状況の中で冷静さを取り戻していた。自身を押しのけて窓に顔面を張り付けるリボン。その後ろで二人のやりとりをジッと見つめている。

 パクパクと口だけを動かすひめの姿。それを受けて、大きなシルエットを揺らす生瀬の背中。その声なき会話を映したその瞳の中には親友への心配もあるが、やはり好奇の色が内在していた。それゆえか、はたまた別の何かか。不思議にめぐみの耳に環境音とは違う音が響いてくる。それは、かすかな人の声。障壁を抜けて、眼前で話し込むその内容が彼女へと届き始めていた。

 

「ワタシに王妃が務まるかどうかわからない。だけど、その前にブルースカイの王女としてやらなきゃいけないことがあると思ってて」 

 

 重たい声色のひめの話を、黙ってうなずく生瀬。そこには大人として少女を見つめる顔があった。

 

「ワタシがアクシアを開けて幻影帝国を解放したこと、それだけは世界に話さなきゃダメだと思うんだ。これはワタシが背負うべき責任だって思うから」

 

 侮ってはいないが、予想よりも重たい悩みを打ち明けられて生瀬が渋い表情を一瞬浮かべる。わざわざ自分をここに呼びつけた理由に合点すると、しばらく返答を困らせる。

 

「ワタシがどうなっても仕方ないことだと思ってる。でも、やっぱり友達の皆に嫌われることが怖くてさ。皆が皆、めぐみ達みたいに許してくれるなんて虫がいい話だし……」

 

 生瀬がポリポリと頬を掻いた。そして、口端を躍らせた後、人差し指を立てる。

 

「…これは幻影帝国に加担した私の身からはなんとも答えづらい悩みですなぁ。しかし、一つ言えることがありますぞ。今、私がここにいるということが一番虫のいい話ということです」

 

 ひめが言葉の意味を掴めず、頭に疑問符を浮かべる。だが、彼の説き聞かせるような口調を黙って耳に入れることにした。

 

「世界を恐怖に陥れた直接の元凶が、被害者の貴方とこうして談話を交わしているのですぞ。これ以上に可笑しなことがあるものですか。自分なりに責任と向き合おうとする貴方が許されないほど世界は非情ではありませんよ」

  

「そうなの…かな?」

 

「えぇ、勿論。貴方のことを理解してくれる人間は幾らでも居るものですぞ」

 

 いつになく真面目な男の言葉に虚を突かれ、顔をきょとんとさせたひめ。その反応に自分が口に出した台詞を反芻すると、生瀬はもう一度頬を掻いた。

 

「最も、黙っていればいいものを馬鹿正直に打ち明けるなんて面倒くさい真似は私ならしませんがね」

 

「すぐそう言って。そのまま終わればいいのに、生瀬って素直じゃないよね」

 

「そういう貴方は大人に対して生意気なんです!あと、私のことはナマケルダと呼ぶように以前から言っていたはずですぞ!」

 

 ひめの呆れるような口調へ、生瀬は苦し紛れに重ねて苦言を呈する。そして、喉元をかきむしるような仕草で続けた。

 

「プリンセスにその名前で呼ばれるのはどうにもむず痒くて仕方がないのですぞ!」

 

「じゃあ、あんたもワタシのことをひめって名前で呼んでよ!会うたび毎回プリンセス、プリンセスって!!今更他人行儀なのよ!!」

 

「そ、それは……まぁ、考えておきますぞ」

 

 少女の剣幕にねじ伏せられた生瀬は、咳払いで結論を誤魔化す。そして、してやったりというような勝ち誇った顔を見せるひめに片目を細めて苦い顔をした。

 そして、自身よりも一回りは幼い少女にムキになってしまった事実をかき消すために、大げさに腕を突き出して腕時計で現在時刻を確認すると、まもなく十二時半を回ろうとしていた。

 話も終了を迎え、生瀬は足元に立てかけたスーツケースを手に取って立ち上がった。

 

「おっと、もうこんな時間。そろそろ、私はお暇させていただきます」

 

「今日はありがとう。時間を取らせちゃって悪かったわね」

 

「まぁ、どうせ会社に居ても眠たいだけですからな。退屈しのぎにはなりましたぞ」

 

 そういうと、ナマケルダは折り曲げた人差し指の背で瞼をゆっくりと擦る。含みのある嫌味な言葉面であるが、生瀬なりに気を遣っての発言だということをひめは理解していた。

 

「言う通り随分、眠そうね」

 

「最近、寝るたびに悪夢続きなものですから」

 

「ふーん、悪夢って?」

 

「まぁ、色々ですよ。昔のことやら、仕事のことやら。会社に私生活、人生にストレスは付き物ですから」

 

 玄関までの道中、案内の傍ら頻りに瞼を擦る生瀬が気になり、ひめが問いかける。普段から眠たそうな鈍い目つきをしているが、悪夢続きと聞けば些か心配なものだ。

 

「それでは、これで失礼します」

 

 玄関へと着き、帰ろうと踵を返した生瀬の背中をひめは感慨深げに見ていた。かつては世界をかけて敵対した間柄、彼に対して恐怖や怒りを覚えたことも一度や二度ではない。だが、今こうして彼を見送ることになるとは思いもしていなかった。

 そんなことを考えていたが、未だに生瀬は背を向けたまま立ち止まっている。怪訝に思う暇もなく、やがて彼は首を軽く返した。

 

「そうだ、最後に()()として一つ。貴方がこれから何をしようと自由ですが、後悔だけは無きように」

 

 それは今日の中でも一番に優しい口調で人生の先達から贈られたアドバイスだった。後悔を繰り返してきた一人の男としての言葉だった。

 

「それでは、またどこかで……ひめ」

 

「またね、ナマケルダ」

 

 会釈をして、ドアの向こうへと消えていく生瀬に対して胸の前で手を振ったひめ。ひめに残された期間、なんとなく、ぴかりが丘に居る間はもう会わないのだろうという予感を共通させる二人。はっきりと仲のいい間柄とは言えないが、奇妙な友情が繋がっていた。

 

「後悔ねぇ……」

 

 閉じる玄関戸を見て、ひめは一人呟いた。

 

「行っちゃいました……あぁ、ひめがまさかそんな!王妃様たちになんて言えばいいんですの!!」

 

 二人が出ていった応接室を覗きながら、リボンが無用の心配を叫んでいる。大きな頭を抱えて、宙を転げまわるリボン。

 

「でも、ここは大人として見守っていた方が良いのでしょうか!?めぐみはどう、思いますの……めぐみ?」 

 

 騒ぎ立てるリボンとは対照的に、めぐみは言葉なくただ俯いていた。リボンの声にも反応を示さず、どこでもないどこかに意識を持っていかれていた。

 

────ひめは王女として、王妃になる人としてやるべきことまで考えていて…それなのに、あたしはまだ一切なにも考えられていなくて

 

 本人が秘匿しようとしたことを知ってしまった罪悪感。その結果、むざむざと見せつけられた親友との格差。それらが、めぐみを自己の世界へと誘う。

 次の瞬間、めぐみの茫とした視界を支配していた赤色が猛烈な勢いで消滅した。突然の違和感に、顔を上げると青髪の少女が自分を見下ろしていた。怒りの色を示した表情は間もなく解かれ、呆れた顔つきへと変化する。

 そして、ひめが大きな窓を一挙動で横に開き切ると、吹きだした風がその長髪を仰いだ。

 

「わわわ、ひめ!!気が付いてたんですの!!?」

 

「あれだけ騒がれちゃ嫌でも聞こえるわよ」

 

「ごめん、ひめ!悪気があったわけじゃなくて、わたし達ひめのことが心配で…」

 

「もう、いいわよ」

 

 慌てふためくリボンとめぐみを見て、ひめは生暖かい息を吐き出して外へと飛び出す。そして、めぐみの手を引っ張って思いっきり駆けだした。

 

「遊びに行こう、めぐみ!」

 

「急にどうしたの!?まだ寝ぐせだって直してないし」

 

「いいから、いいから。ワタシ、やりたいことはやり残さないことに決めたの!」

 

「どういうことですの、お待ちくださいな二人とも!」

 

 困惑と驚きを隠せないめぐみとリボン。それとは反対に、ひめの顔には心のしこりが消えた清々しい笑みが輝いていた。

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