セリム・ブラッドレイの許婚 作:クラレントブラッドブラッドレイ
その日は雨が降っていたし、霧が濃かった。
激しく道路を打ち付ける雨粒が跳ねてさらにさらにと視界を悪くする。濃霧がかき混ぜられて、地面に近ければ近いほど見えなくなっていく。
雨天。曇天。
その只中に、彼らはいた。
「……埒が明かねえ」
「ですから、放っておいてくださいと言っているのです。関係ないでしょう、君達には」
「関係ねぇワケねぇし、今にも死にそうな奴をほったらかしにできるほどオレ達は人間できちゃいねーんだよ」
「知りませんよ、そんなこと」
「うーん、レイゼンさんが素直になったと思ったら、今度はセリムかぁ。どうしようか、兄さん」
「フツーに考えたらここにレイゼンを連れてくるのがベストなんだが……」
「……」
「ま、無理だわな」
エルリック兄弟とセリム。
同乗していたノックスとホーエンハイムは今別の所にいて、だからこの三人が今雨に打たれて、互いにちょっとボロボロだった。
ちょっと。
ちょーっと、喧嘩したのだ。互いに不毛なことを理解して早々に戦闘は終わったが。
「……わかりました。こちらが大人になります。……エルリック兄弟。君達は、どうやって折り合いをつけたのですか」
「あん?」
「折り合いって?」
「ですから、母親との折り合いです。人体錬成をしてまで蘇らせんとするほどには大切な人だったのでしょう? この世界の繰り返しを断つ選択は、彼女を再度殺すことに等しい。……たとえ紛い物であっても、彼女は君達の本当の母親だった。違いますか?」
「あー」
上体だけ起こして、エドワードは──後頭部を掻く。
紛い物。繰り返し。夢。
未だに彼ら自身の実感が湧かずとも、それが事実であると頭脳が宣告している。天才であるがゆえの、分析力の天賦があるゆえの、悲しいまでの自身。
はぁ、と一度溜め息を吐いて。
「最初は、"オレ達はもう前に進んだんだから、後ろを見てるワケにゃいかねぇ"、って割り切ってた。でも……クソ親父と話して、アイツが母さんにちゃんと向き合いたいって言ってさ。オレ達もついて行ったんだ。……久しぶりに家族全員の時間って奴を過ごしたよ。なんつーか……ホントに幸せだった」
「うん。本当にね」
「ならば、余計に手放したくないのでは」
「んで、オレ達は打ち明けたんだ。母さんに。この世界の仕組み。オレ達がやろうとしていることで何が起こるのか。その全てがわかるわけじゃねぇが、一つだけ確実なことはある、ってさ」
「母さんも、父さんも、未来にはいない。ボクは覚えているから言えることだけど、フラスコの中の小人を倒したその未来には、ボクと兄さんしかエルリック家は残っていない。その全てを母さんに伝えた」
「……」
「そしたら、母さんは優しい顔で笑ってさ。"いってらっしゃい"って。そう言ってくれたよ」
「……それでいいのですか。大切な相手が自分たちを見送ったから、もう会えなくなっても構わない──なんて。ただの強がりにしか聞こえません」
「多分そうだよ。合ってる」
否定しなかった。エドワードはセリムの言葉の一切を、否定しない。
決して紛い物ではなく、決して偽物の感情ではないと。
「好き好んで母さんと離れたい、なんて思ってるワケがねぇ。可能なら母さんにはもっと長く生きてもらいたいし、……クソ親父含めて、家族全員で過ごす時間がもっとあったらいい、って。そりゃオレもアルも思ってる」
「終わらせなければ、続きますよ」
「でも、次のオレはオレじゃねぇし、母さんは母さんじゃないんだよ」
「そんなことは……ありません。父に記録された情報を基に再現されている君達は、全くの同一人物です。無論オリジナル……元の世界における君達と今の君達は違うかもしれませんが、少なくとも今の君達と次の君達は同じです」
「違う。次のオレ達は、今のオレ達の記憶を引き継いだ誰かだ。オレ達の今までの記憶を封じ込められた誰かなんだよ、セリム」
だからレイゼンは怒ったんだ、と。
セリムとレイゼンの口喧嘩のあらましを聞いたエドワードは断言する。
彼とてレイゼン・M・ダッドリーの性格の全容を把握しているわけじゃないけれど、人として、彼女が何に怒ったのかくらいはわかるから。
「今のレイゼンがお前を愛してくれないのなら、お前は別の女を愛するからもういい、って……そう言ったんだ」
「……被害妄想が激しすぎます。私にそんなつもりはありません」
「そりゃお前が気付いてないだけだよ。つーか、だから大総統もそんな荒業でお前を焚きつけようとしたんじゃねーかな。ぶっちゃけ仮にお前が離反しているとフラスコの中の小人が判断したとして、お前の戦闘能力を鑑みれば大総統一人を寄越したところでどうにもならないってことくらいはわかるはずだし」
「本気になれば影を使ってどこにでも、どうとでも逃げられそうだよね、プライドって」
それは事実だった。
レイゼンはラースを過大評価していたけれど、セリムからしてみればラースでさえセリムを、プライドを捉え、殺し切ることはできないという自負がある。彼の影はどれほど速く、どれほど強く振られた軍刀であっても通すことは無いし、その隙に地下を掘って逃げることも容易。
影は自然の影に潜ませてしまえば追跡は不可になるのだから、あとはどうとでもなる。
確かにプライドではラースを殺すことは難しいのかもしれないけれど、ラースにも、否、他のどの
あるいは、彼の本来の父にさえも。
「つーか、わかってんのか? ホントに離反してるって思われてんなら、次を求めたって、お前、作られないかもしれないだろ」
「!」
「
「そこを考えるとやっぱりあり得ないから、フラスコの中の小人云々は大総統の嘘なんじゃないかなぁ。その襲撃は大総統の独断専行だと思うんだよね。だってフラスコの中の小人にとってレイゼンさんは大事な存在のはずだから」
サンプルケースとして、ではあるけれど。
そうだ。研究者たるフラスコの中の小人がそう簡単にレイゼン・M・ダッドリーという成功例を殺すはずがないことを、セリムは知っている。
「ま、これでわかっただろ。オレ達だって十分に後ろ髪を引かれてる。けど、次を求めるのは筋違いなんだ。次を生きるのは次のオレ達だ。オレじゃねぇし、母さんでもねぇ。オレ達は今の母さんに幸せになってもらいたいけど、今の母さんを否定して次の母さんの幸せを望むような馬鹿じゃねえ」
「ボクらは、前に進むんだ。ずっと1915年から前に進めないまま過去を背負って続きを続けるなんてダメだ。怖いし嫌だし、苦しいしやりたくないけど、ダメなことだけはわかる。だから、セリム」
「割り切ってなんかいねーし、折り合いなんざつけてねぇ。それでも""今""を無視したくなくて、オレ達は前に進むことを選んだ。……お前はどうするんだ、セリム」
今を無視して次を求めるのか。
今を直視して先を求めるのか。
雨が強く降っている。
「……私は」
雨が、強く。
*
「というわけです。──今までお世話になりました、お爺様、お母様、お父様、エイアグラムお兄様」
「……」
全部吐いた。
家族に、今までのことを全部。ラグスお兄様はこっち側なので吐くも何もないので除外。
最初は幾度か口を挟みかけたものの、有無を言わさぬこっちの喋りに閉口した四人。今の「というわけです」が来るまで、真剣な表情とと共に無言だった。
そして、一番に音を漏らしたのは──お爺様。
「レイゼン。ちょっとこちらへ来い」
「はい」
言われるがままに、そちらへ行く。
その大きな手が私の頭の上に来て。
ぽん、と。
「すまなかった」
「……? 何がですか?」
「気付けなんだ。……そうか。ずっとそんな重いものを背負っていたか。そして……あの夢は、悪夢ではなかったのか」
「意図的に情報を隠していたので、気付けないのは当然です。むしろ途中で気付かれていては此方が困っていました」
「子供に何を教わらずとも、親は子の悩みを気付いてやるものじゃ。……本当に儂は、人の親として失格もいいところだ。儂の言動でお前は思い悩んだし、儂の察する能力の浅さでお前に傷を背負わせた」
「ですから」
深く深く、頭を下げて項垂れるお爺様。
何を謝られているのかまったくわからない。これで気付いてほしいアピールでもしていたのなら話は別だけど、悟られないように情報を絞りに絞っていたのだから、その悔恨は意味の無いものだとなぜ納得してくれないのか。
助け舟を求めてお母様に目線を向ければ。
「ごめん、なさい」
「お母様もですか。……あの、泣かれると酷く困ります。私、そんなに可哀想でしたか。ああいえ、この聞き方はマズいですね。ええと、その、あの……私は別に傷ついていないので、えと」
「レイゼン。母さんは君が可哀想で泣いているわけじゃないよ。ただ自身への憤りと悔しさから涙を零してしまっているだけ。そしてそれは私も同じだよ。──随分と長い間待たせてしまって、ごめんね。けれど、そうか。ラグスが真っ先に君のそばにいようとできたのは、あの子もまた似た境遇だったからかもしれないね」
「はぁ。……エイアグラムお兄様、助けてください」
「不可能だ、レイゼン。大人しくもう少し前に出て、母さんと父さんに抱きしめられているといい。お前が自身を憐れまないのなら、せめて母さん達の傷を癒すためだと思って甘んじるんだ」
……それなら、まぁ。
悔悟の涙らしいそれを流すお母様。正直に心が痛いので、彼女の涙を止める為ならば抱きしめられるくらいはしよう。
そう思って前に進めば、なるほどちゃんと抱き留められる。ぎゅぅ、とされる。
小一時間。
小一時間、悔恨の大合唱は続いた。
そうして、ようやく心の整理がついたのだろう。
お爺様とお母様は、異口同音に言う。
「待たんか、レイゼン。それではなんじゃ、お前、その口振り」
「死ぬ気、とか、言わない……でしょう? そんな、レイゼン。ねぇ」
「無駄死にするつもりはないですよ。でもこの世界は終わらせます。だから、私はほぼ確実に消えます」
鋼の錬金術師という世界に私はいない。
絶対にいない。確実にいない。あるいはレイゼン・M・ダッドリーという女性はどこかにいたのかもしれない。ダッドリー家の面々はそれぞれが散り散りに、けれどアメストリス国民ではあったのかもしれない。
でも絶対にこの私は存在しない。
外側から来た自覚と記憶のある私は、絶対に。
「ダメ、と言われても、申し訳ありません。もう心に決めたことです。どれほど引き留められても、どれほど縋りつかれても、私は前に進みます」
「……そうか」
「そうか、ってお義父様。そんな簡単に」
「納得のそうか、ではない。……じゃが、儂らではもうレイゼンを止めることはできん。それがわかったことへのそうか、じゃ。……儂らが情に訴えようが、懇願しようが……止まる気はないんじゃな」
「はい。本来であれば隠したまま世界を終わらせることも可能だったところ、この事実を開示した理由がそれです。これは決別であり告別であり、そして──お礼でもあります」
お礼。
ありきたりな言葉になってしまうけれど。
「今まで育ててくれて、ありがとうございました。ダッドリー家の娘として生まれて幸せでした」
「……」
「……」
無反応。
心が籠っていないように聞こえたのだろうか。そこについて問われると、些か厳しいものがある。私はあまり、こう、涙をちょちょぎれさせて、けれど笑う、みたいなことができない。今思った万感の感情をぶつけたつもりではあるけれど、相手に伝わるかどうかについては保障できない。
まぁ、伝わらなくても。
「レイゼン。一つだけ聞かせて欲しい」
「おや、お父様が自己完結で言葉を終わらせないのは珍しいですね。なんですか?」
「私達に手伝えることはあるのかな。一秒でもいい。君のそばにいたいんだ」
「……危険です。無意味に傷つき、苦痛を負う可能性の方が高い」
「何を言うかと思えば──レイゼン。儂らはお前の家族であると同時に軍人……否、武人じゃ。それを知らぬお前ではないじゃろう」
けれど、一般軍人の域を出ない。
そんな人間が四人増えたところで何ができる。相手はこの世界のカミを挿げ替えようとしている存在だぞ。
「苦痛を負ってでも、貴女のそばにいたい。……だめ?」
「……一応聞きますが、もしダメだと言ったら」
「貴女の思惑を無視して、勝手についていく」
「だと思いました。……そうでした。そうでしたね」
そうだ。
だって彼女らは、レイゼン・M・ダッドリーの親なのだ。
一度「こう」だと決めたら、自身なんか省みることなく目的を遂行しきるのが──多分、血筋なんだろう。
お母様たちの目を見て、それを察してしまった。
「わかりました。ですが、どうせですから、そばにいる、だけでなく、大立ち回りをしてもらいます。──お爺様。お爺様の中将権限、お父様の大佐権限は、軍を私的に動かせるものですか?」
「平時であればそう簡単には行かんが、今は平時ではないのじゃろ? であれば任せい。適当な理由をつけて、師団一つ程度なら動かしてやろう」
「私も、私の隊の部下達を動かすことは可能だよ」
「じゃ、じゃあ私は実家の、ダッドリー家の分家を」
「いえ先にも言った通り、一般人がどれだけ増えても戦力的な意味はありませんので、別のことで動いてもらいます。なのでお母様方の皆さんは不要です」
「レイゼン、もう少し言葉を選んでくれ。母さんが撃沈している」
「……。……。……申し訳ありません。これ以外の言葉が思い浮かびませんでした。可哀想ですが、撃沈していてください、お母様」
みんな。
誰もが、空元気だ。全然割り切れていないのが見て取れる。何も納得していないのが手に取るようにわかる。
それでも前向きな言葉を吐いているのは、多分。
残された時間を暗い雰囲気で過ごしたくないから、なのだろう。
なら私がそこを掘り返す意味は無い。
喉を傷めたような泣き声は無視して、この喧噪に身を委ねよう。
さぁ、作戦決行日は──この雨が上がった日、だ。
明日か明後日か、それとも一週間後かは、神のみぞ知る。
……セリムはまぁ、大丈夫だろう。
エドワード達と一緒にいるらしいし。彼が最終日にどう向き合うにせよ、悪い結果にはならないと信じている。
それはセリムを信じているのもあるし。
光……エドワード・エルリックという少年の、周囲を前へと向かわせるその力を信じているのも、多分あるのだろうと思う。
願わくは、今を生きるものに、幸運の導きがあらんことを──なんて。
誰に願っているのやら。