セリム・ブラッドレイの許婚 作:クラレントブラッドブラッドレイ
ティム・マルコー。国家錬金術師。
アニメ一期では結晶の、という二つ名がついていたけれど、原作には登場していない。ただ国家錬金術師で、賢者の石に関する研究の第一人者であり、根が善良過ぎて脆すぎて、弱さと強さを、いや清濁を併せて吞むことができなかった人……という印象。
けれど一本芯はあるからこれまた御し難い、みたいな。
……はずだったのだけど。
「よし、もう大丈夫そうだ。おめでとう、今日で退院だよ、レイゼンさん」
「お世話になりました、マルコー医師」
目の前で柔和な笑みを浮かべるマルコー医師。
その顔には、イシュヴァールの内乱を経て帯びた陰の一切が無い。自らのやっていることを誇っている……そういう顔だ。翳りも曇りも、罪悪も劣等も。今のこの人にはそれがない。
「退院祝いに、一つ聞いても良いですか、マルコー医師」
「自分から退院祝いを求めてくる子は中々いないけれど、なんだろうか」
「マルコー医師は、錬金術師ですか?」
問いに。
「おお、良く分かったね。どうして気付いたのかな」
躊躇いもなく、即答。私の中のティム・マルコーなら固唾を飲むとか目を逸らすとか、とかくわかりやすい反応をするはずだ。トラウマを抱えているのなら、だが。
けれど、その当然のような肯定は。
「人差し指の腹が擦れていたので。アームストロング少佐のように手甲へ刻んだ既存の錬金術を使う錬金術師ではなく、その場で自由な発想から錬成を行う錬金術師……と見ました」
「凄いな、最近の子は。そうだね、私は特定の錬成陣というものを持たない代わりに、その場での錬成に長けているという自負がある。そして、そうだな。君には使わなかったけれど、生体錬成というのも行える」
「あなたは偉い人なのではないですか? こんな子供一人にかかり切りで良かったのでしょうか」
「かかりきりというほどでもないよ。他の患者を見に行くこともままあった」
「ですが、明らかに私に時間を割いていました」
「……それは」
「ダッドリー家の娘だから──あるいは、セリム様の許婚だから、でしょうか」
この問いには「う」と言葉を詰まらせるマルコー医師。
ただ、弱みを握られている、とかではなさそうな感じ。
「……前者だよ」
「そうですか。ダッドリー家の家格はそんなにも大きいのですか?」
「それは勿論そうだけど、そうじゃなくて……まぁ、そうだね。ダッドリー家の、つまり君の家族は、怪我をしてここに運び込まれたとしても、自分が治ったと思ったら
「……身内が大変なご迷惑をおかけしました。末娘ではありますが、ここに謝罪いたします」
やりそう。
お爺様も長兄次兄も、今は南部にいるお父様も、なんなら嫁いできたはずのお母様も。
ダッドリー家というのは極論人修羅みたいなものだ。剣の道に生きると言えば聞こえはいいが……良くないか。まぁどちらにせよなんにせよ、信ずるは己がのみで、礼は尽くせど「経過観察」とか「通院」とか絶対にしない。ましてや治ったと自覚したのなら、ベッドの上に居続けるなんてできない血筋だ。
私は前世の常識が「お医者さんの言うことは聞いておいた方がいい」と言っているから抜け出さなかったけれど、うん、他はやりそう。
「君が謝ることじゃないよ。それよりも元気になってくれてよかった。これからは無理をしないようにね」
「はい。お世話になりました」
正直な話、あの名も無き町で医者をやっていたティム・マルコー医師より、原作後半のおどおどしたマルコー医師の方が印象に強いから、かなり違和感を覚えているけれど……そういえばこんな人だった、気がする。
さて、退院していいよ、と言われて着替えをして、ロビーへ来てみれば──そこにはセリムが、まぁいない。流石に。
いたのはエイアグラムお兄様だった。
「レイゼン」
「弱い妹をお許しください、エイアグラムお兄様。完治に一週間もかけるなど、ダッドリー家の者として──」
「無事で、良かった。……すまなかった。痛かっただろう……本当に反省している。どうか、弱い私を許してくれ」
心の底から安堵した、というように抱きすくめられて、私の脳内を疑問符が埋め尽くす。
弱いとは?
「お爺様から、強いお叱りの言葉を受けたよ。子供と大人。私とレイゼン程の力量差があって、君にこれほど大きな怪我を負わせてしまった。油断していたし、見くびっていた。侮っていた。……レイゼン。君はもうあんなにも成長していて、強くなっていたというのに……私は君を、まだまだか弱い雛鳥だと過信していたんだ」
「事実です。そんなことでお兄様が叱られるというのなら、私から直接お爺様に抗議します」
「いいや、事実ではないんだよ、レイゼン」
病院のロビー。待合の椅子に座らされて、お兄様は隣へ座る。
「私は君の実力を見誤ったんだ。気付いているのだろう? 私があの威力の膝蹴りをしてしまったのは、本気を出さざるを得ない程焦ったためだ、と」
「はい。多少の本気は引き出せたと自信につながりました」
「だけど、私と君とでは、本来ならばもっともっと圧倒的な力の隔たりがある。レイゼン、君はよく、自身が幼等部に通う子供であるということを忘れがちだね。そして私は少佐相当の実力があると」
「敵対者が年齢や力量差を考慮してくれるとは思えません。現状の私は弱い。現状にお兄様は強い。あまり、強さに言い訳をしないでください。私が惨めになります」
「……レイゼン。君は、一体どこを目指しているのかな」
戦闘時とは違って温和なエイアグラムお兄様。
やめてほしい。セリムの話を信じるのなら、そしてハッピーエンドを目指すのなら。
私を誘うその声は、確かに、常に、存在している。何故そうも頑張ると、何故そうも無駄な努力を重ねると。非力の身に何ができる。事実、セリムの話が本当なら──私は何度も何度も何もできずに終わっていることになる。
非才の身だ。
ならば前に進むことくらいは許してくれないものか。
「私はダッドリーの剣を授からぬダッドリーの家の娘。目指す先も、行き着く涯も、何が違いましょうか」
「……」
悲しそうな目をするお兄様。憐憫、ではない。
言葉が届かないことを悲しんでいるのだろうことくらいは、わかる。わかっていて無視している。セリムからの言葉もそうだ。
受け入れたら私の根幹が揺らぐから、無視している。
「認めてください。私、レイゼン・M・ダッドリーは弱い。その歳でよくやっている方、などという比較は聞きたくないんです。私はセリム様の許婚として、そして彼の光を遮らないために、強くならなければならない。子供とか大人とか、体格差とか経験値とか、そんな尺度で私の限界を決めないでください」
「……」
喋らなくなってしまったお兄様。
でもまぁこれは常日頃から言いたかったことだ。子ども扱いするな、という話じゃない。
子供だからできなくて当然、と見放さないでほしいと──そういう我儘だ。
「よぉ、ダッドリーの若僧。なーに落ち込んでんだ」
俯くお兄様の頭をカルテらしきもので叩く者の存在があった。待合椅子の後ろから、ガン、と。面じゃなく辺で。
それは、流石に痛いのでは。
「……
「ほーぉ。ん? お嬢ちゃんは……」
「レ──レイゼン・M・ダッドリーと申します。ダッドリー家の長女であり、末娘で」
危ない。どもらずに何とか言えた。
え。
マルコーさんに続いて──ノックス医師まで。
なんで普通に軍人病院で働いて、え、そんでなんで普通に医者の恰好して、え。
「そうかい。俺ぁノックスっつーしがない外科医だよ」
「お兄様とは、どういうお知り合いなのですか?」
「ん-、まぁ、戦友……に近いかね。中将殿と違ってコイツ、四、五年前は向こう見ずな鉄砲玉でよ。嬢ちゃんも知ってるだろ、イシュヴァールの内乱。あの時に散々命令無視して突っ込んで、ボロッボロになって帰ってきては俺の世話になってたのさ」
そんな。
そんな──軽いノリで、イシュヴァールの内乱を話せる、の?
アレは、アメストリス軍人にとって思い出したくもない、口に出したくもない惨劇だったんじゃないの?
何よりノックスさんは、解剖医として、マルコーさんと同じくらい凄惨な現場を経て、PTSDを患うほどの。
「イシュヴァールの、内乱」
気付けば口を衝いていた。
そういえば。
起こったこと自体は確認していたけれど、どういう内容かは知らない。子供が熱心に聞きまわっていたら怪しまれると思ったし、わざわざトラウマを呼び起こさせることもないと考えていたから、私の中で原作通りな展開が起きたものだと思い込んでいた。
でも。
「あー、子供にはちと早いか。ま、嬢ちゃんがもちっと大人になってから歴史書なり記録紙なりを読み返せばわかるさ」
「その──発端は、軍将校のイシュヴァール人誤射事件で、合っていますか?」
誰の耳があるかわかったものではないのに、核心へ踏み込む。
それほどまでに聞き流せない、此処を逃せば915年までに辿り着けない情報だと踏んだからだ。
して、答えは。
「はぁ? 誰だよそんなバカな噂を子供に吹き込んだ奴は……」
「レイゼン。それを君に嘯いたのは誰だ? 子供に悪質な嘘を教え、ゆくゆくは国を割らんとする敵国のスパイの可能性がある」
落ち込んでいたお兄様までもが顔を上げて詰めてくるほどに、間違ったことらしい。
「……物心ついたころから、そうだと思っていました。なので」
「物心つく前に、か。……これは、お爺様への報告案件だな」
「あー、んで、嬢ちゃんの誤解を解いておくと、ありゃ内乱っつー大層な名がついてるから凄惨に聞こえるだけで、実際はそこまでのモンじゃなかったんだよ。勿論戦争ではあった。だが、あっちもこっちも感情を爆発させたのは若いモン同士でよ。イシュヴァールの最高指導者とウチの大総統とで和解の合意が結ばれて、それでおしまいって戦いだった。アメストリス人がイシュヴァール人の子供を誤射するとか、そんなバカな真似をしたって話は全く聞いたことがねえな」
「ですが、実際にお爺様はイシュヴァールの内乱で足を喪いました」
「そりゃダッドリー家が突撃馬鹿だからだよ。中将殿もこの小僧も、弟も。この病院にいるってことは、もしや嬢ちゃんもか?」
知らない。
そんな歴史を私は知らない。
そんな。それなら、じゃあ、血の紋は。いや、それ以前に、ああ、だから。
「……イシュヴァール人は、殲滅されていない……のですか?」
「殲滅だぁ? っとに誰だ、年端も行かねえ子供に馬鹿吹き込みやがってんのは……」
「確かにアメストリスがイシュヴァールの民を併合吸収したのは事実だ。だが、誓って殲滅などしていない。今でもあの地にはイシュヴァール人がいるし、私達と戦った武僧と呼ばれる強力な戦力もいる。殲滅などあり得ない」
「国家錬金術師が、投入されたと……聞きました」
「極一部だ。流石に七年も八年も続いた内乱だったからなぁ、あっちの最高指導者を出すにはこっちの力を振りかざす必要が……っとと、これもガキに話す内容じゃねえか」
ウェルズリ事件は起こっている。内容もおおむね知っていた通りだった。対してイシュヴァールの内乱自体も起こっているが、起こってはいる、という感じだ。内容が違い過ぎる。
そして……ああ、だから、ノックスさんもマルコーさんも、陰がないのか。
それは、もしかして。
賢者の石の研究自体が、されていない?
「……」
「オイオイ、大丈夫か? あー、失敗したな。戦争の話なんて子供に聞かせるモンじゃねぇ」
「レイゼン、とりあえず今は家に帰ろう。皆が待っている」
ぐるぐると頭の中をワードが飛び交う。
そうだ。だって、それはそうだ。
セリムの話が本当なら、というかそもそも
アレは軍上層部を釣り出すための餌でしかなく、駒とならせるための鼻先の人参だ。
……それが無いのなら。
多くの軍部関係者の過去が変わる。マスタング大佐とホークアイ中尉も、キンブリーも、ああ、そうか、アームストロング少佐の心に影が落ちていなかったのは、だからそういう。
背負われている。エイアグラムお兄様に。車を使わないのは、軍人病院とダッドリー家がそう離れていないからか。
いつの間にか病院を出ていた。ノックスさんに礼を言い忘れた。茫然自失とはこのことを言うのだろう。
「お兄様は」
「……」
「イシュヴァール人のことを、どう思われていますか?」
「正直な感想を述べるのなら、特に何も。もう過ぎ去った話だよ、レイゼン」
「では、イシュヴァール人は……私達アメストリス人のことを、どう思っていると考えますか」
「……難しいことを聞くね。私はイシュヴァール人ではないから本当の所はわからないけれど……君が懸念しているのは、つまりイシュヴァール人が私達アメストリス人を恨んでいる可能性について、だろう?」
お兄様は。
それは無いと思うよ、と。はっきりと言った。
「ほら、あそこ。見えるかい?」
両腕を私に使っているから、顎で指す、なんて行儀の悪いことをするお兄様。
その視線の先に、褐色赤目の女性と、恐らくカメロン系の男性がいた。
──二人の間には、両者の特徴を持つ赤子。
「勿論こちらにも損害は出た。勿論あちらにも犠牲者は出た。……だが、彼らは高潔な民族だった。こちらの非を咎めると同時に、自分たちのことを棚に上げることをしなかった。それゆえの迅速な和解だったと言えるだろう。現大総統は少しばかり過激なところのある御方だけれど、あちらの最高指導者を対等な者として扱えるくらいの器量はあった。……と、これは流石に不敬かな」
なら、マスタング大佐は大総統の座を、彼を引き摺り下ろしてやるとは思っていない、のだろうか。
なら。なら。なら。
「レイゼン。君にその嘘を吹き込んだ人物を、出来る限りでいい、思い出してほしい。私はこの国を守る剣として、テロリストの類は斬り払わなければならない」
「……はい」
相槌しか打てない。
イシュヴァールの内乱が凄惨でないことは、一般的な感情論、あるいは倫理規範からすれば良いことだ。
だけど、原作通りではないということがどれほど恐ろしいか。じゃあ、誰が、今どこで、何を。
「お兄様は……もし、この国が何者かに脅かされんとした時、最前線で戦われる、のですよね」
「勿論だとも。ダッドリー家として、先陣を切るよ」
「──その矛先が、アメストリス人になったとしても、ですか?」
「……それは、どういう意味かな」
賢者の石の研究は謂わば「おこぼれ」だ。
それさえも
私は──多分、お兄様たちの敵になる。
ああ、だから私、何度も死んだのかな。
「おろしてください」
「ダメだよ、レイゼン。君を病院へ送ったのは私なんだ。だから、君を病院から連れ戻すのも私でなくてはならない」
もう剣術家と戦って死にたいとか言っている場合じゃない。
調べなければならない。この国の歴史を。そして今起きている全てを。
セリムが自身のレゾンデートルに悩んでいる内に、全てを調べて、調べて。
……調べて、結局……弱い私に、何ができる。
平和だと知れば、胸をなでおろせるのか。全く知らないことが起きていると知れば、何かを変えられるのか。
「杞憂、という言葉の意味が分かるかな、レイゼン」
「!」
思わず顔を上げる。
「君が思っているより大人は愚鈍ではないし、君が考えているより皆善良だよ。……悲観的な部分は、本当に、誰に似たのやら」
「申し訳ありません」
「責めているわけではないのだけれどね」
エイアグラムお兄様は苦笑し、よいしょ、と私を背負い直す。
「レイゼン。君はこの国をどう思う? どんな国だと思う?」
「未来の無い国です。他国に喧嘩ばかりを売って──ブラッドレイ大総統が退任した時、代わりとなれる者のいない、隣国に蹂躙される未来しかない国」
「悲観的だなぁ。私たちをはじめとした、屈強な軍人がアメストリスには揃っていると自負しているよ?」
「数は力ですよ、お兄様。アエルゴ、クレタまでは相打ちも叶いましょうが、ドラクマには勝てない。ブリッグズ山脈が何らかの手段で攻略された日が、アメストリスの終わり」
そしてそれ以前の問題も。
ああ、でも、いや。
それが本当かどうかを調べて、だから、か。私がこんなにも諦めているのは。
仮に国土錬成陣が発動しなかったとしても、アメストリスの未来は変わらない。蹂躙するのが"お父様"かドラクマかの違いに過ぎない。イシュヴァールの内乱が凄惨でないというのなら、尚更だ。国家錬金術師にちゃんとした戦争経験者がいない、あるいは少なくなっている可能性は高い。
よしんば
あとに残るは、なんだ。グラマン中将の手腕で和平でも成すか。無理だ。だってアメストリスはアエルゴ、クレタ、ドラクマに自ら喧嘩を売っているのだから。自ら喧嘩を売っておいてごめんなさい攻撃しないでください、など。
そんなのが通じるのは、子供の喧嘩までだ。
ならば隣国全てを滅ぼす悪魔の国になるか。馬鹿を言え。そんな国力がどこにある。
「少なくとも私は、この国に未来を見出していない。……早くて1915年の春には、終わると踏んでいます」
「どれほど悲観的な想像をしたらそんなに早まるんだ……」
調べなければ。何のために。安堵を得るために。終わりを知っていれば、そのための準備ができる。その準備は何のためにする。
何のためにもならない。いっそのことすべてを打ち明かしてしまう……というのは、あり得ない。あんなにも人気キャラクターだったマース・ヒューズ中佐があっさり死んだ時の感情を私は忘れていない。
ここはアメストリス。血と惨殺と暴力の上に絶妙なバランスで保っている死の国。
何のためか。
……彼に、ハッピーエンドを見せるため、ならば。
私は──。