少女はその場所に今日も行く。
 取り憑かれたように、彼女との縁の場所に。

 カクヨムにも投稿。

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薄氷が隔てる

 その場所に私は今日も行く。

 

 重りをギロチンの刃とする振り子のように寂しげに蠕動する螺旋階段の足場。

 

 それを湖上の薄氷を踏み締めるように踏み締めて、凍える風たちを通り抜けた先にある屋上に。

 

 数瞬の前まで海底にあったか如き鉄扉がぎこちなく開く瞬間、狙いすまされた熱風が封から解き放されたように空っぽの身体を通り抜ける。

 

 おそらく換気扇から来たであろう、

 生温い風に脊髄反射的に身体を震わせる。

 

 生温い風は風が生きて身体に纏わりついているように思えて、少し嫌いになりはじめている。

 

 当然のことだけれど、私は風という感覚を生じさせる対象を知覚できない。

 

 たとえば、林檎の赤なら私に林檎の赤を感じさせる林檎を見ることができるだろう。

 

 だが、風は?

 私達は風を私達に感じさせる大本とされる空気を感じることができない。

 

 それは幻覚に似ている。

 幻覚は知覚できるが、現実にそれを知覚させる何かがないことだ。

 

 風が吹いたのを肌で感じて、その上で旗が揺れたりして、その場合には私達はそれらの一連の現象を風のせいであると思う。

 

 風という一つのものが私の触覚に風を感じさせると同時に風が旗を揺らしたりする。

 

 本当に?

 それらは別個のものとしてもありえるのではないだろうか。

 

 たとえば、牛乳を飲む人は統計的に長寿であるとされる。

 これは牛乳を飲めば、長寿になることを意味するのではなく、牛乳を飲むほど健康に気を使う人は長寿であることが多いだけだ。

 

 つまり、健康に気を使う人は長寿であり、その上牛乳を飲む習慣があることが多いというだけの話ということになる。

 

 それと同じように、風の知覚と風によるとされる物体の変化は本来は別個のものだ、とも考えられるのではないだろうか。

 

「なんてね」

 こんなのは戯言だ。

 風で旗が揺れたのか、旗が揺れたから風があるのか。

 こういうのは詭弁にしてみれば面白いかもしれない。

 けれど、それが何かの比喩ならば比喩されているものを考えるべきで、比喩そのものを深く考える意味はない。

 たとえ話は所詮、たとえ話であり、それ以上でもそれ以下にもなりえない。

 

 「世界の終末」なんて、手垢塗れで垢嘗しか好まなくなった比喩を使いたくなるほどに真っ赤に染まった空の下。

 自動生成されたかのような地方都市の町並みが眼下に広がる。

 

 ひび割れたコンクリートの上を歩いて屋上の端、補修工事済の柵に辿り着いてそれにもたれかかる。

 手摺で肘を付きながら、何ともなしに人の営みを眺める。

 

 訳もなく眺めているわけだから自ずと焦点は街並みから思索へと移行する。

 

 そう、ぼんやりと景色を眺めながら考えることといえば一つ、あなたと私を隔てる差異だ。

 

 あなたはここから飛び降りた。

 きっと子供のようにここから空へと飛べると、地と空が地続きであると信じてたのだろう。

 

 私は? 私はといえば同じくらい悩んだ、と思う。けれど、飛び降りなかった。

 そう飛び降りなかった。

 それは薄氷のようにほんの少しの違いだけれどその実、金剛のように堅かった。

 

 空は私にとって存在しないもの、つまり幻覚だ。

 地球はその語からして球体で、私たちが空と認識している青は大気のレイリー散乱によるもので、そういう青い殻のようなものが地球を取り巻いているわけではない。

 強いていうなら空は大気だけれど、例のごとく私に大気は知覚できないからそれは存在しないに等しい。

 

 けれど、やっぱり彼女にとってはそうではなかった。

 彼女にとって空は無限を内包し、遠近法を軽々と無視して実在する超越的な存在だった。

 

 空は彼女にとって現世を超越するモノの象徴なのだろう。

 だからたとえ話自体がそこまで重要でないように、空自体はそこまで重要ではなく、現世を超越することが重要なのかもしれない。

 

 私は逃避の果てに死を求めたように彼女は精算の手段として死を求めた、あるいは自己の消失を求めた。

 

 それは死を目的とするか、手段とするかの差。

 

 きっと、彼女は現世を超越する手段として空を選んだのだろう。

 

 別に屋上に来るのは彼女が死んでから始めた習慣ではない。

 

 私も彼女と同じようにとはいかないかもしれないが、確かに悩んで悩んで悩んだ末に毎日のようにここに通い詰めて、そして結局は今日まで怠惰に生き延びた。

 

 それでも、彼女が死んでからここに通う理由が変わったのは確かだ。

 

 希死念慮はあいも変わらず根強くあるが、私にはあの頃ほどのそれを実現させようという気力がない。

 

 死ぬにも気力が必要だ。

 自殺という行為が積極的な行為である以上、自殺はある程度の体力を人に要求する。

 

 逆に生きるという行為はほとんど受動的な行為で比較的、簡単にできる。

 

 今、私に自殺の体力はなくなった。

 いや、あの頃から無かったのかもしれない。

 

 いつかは自殺する人と絶対に自殺しない人、みたいに決定的な違いによって人を峻別できて、私は絶対に自殺しない人に分類されるのかもしれない。

 

 確かに私は死にたいと思っているが死にたいと思うことで、あるいは思うだけで悩みが解決したように錯覚できてしまう側の人間であり、実行に移すことは絶対にない。

 

 私にとって「死にたい」という思考は自己へ掛けられた赦しの呪文だ。

 なぜだか知らないけれど「死にたい」と思うだけで、目の前の苦しみから逃れることができ、しかも改善のための努力を放棄することができるのだから。

 

 でも、彼女は死にたいと思い、それが逃避から出るものでないがゆえに実行する人間だった。

 

 私はそんな風に自殺できた彼女を羨ましがっていもいるし、未だに理解できていない。

 だから、私は彼女を理解したくてここに来るのだろうか、それとも、彼女のようになりたくてここに来るのだろうか。

 

 こういうとき、彼女の書いた短編『死物の相』を思い出す。

 

 それはあらゆる物に命が宿り生きている世界。

 命の宿らない物『死物』しかない地方都市で『屠場』と呼ばれる施設で物を殺し、物言わぬ『死物』にする仕事に就く女性の話。

 生命の満ち満ちた世界、命の存在が必然であることのグロさを描ききった傑作。

 

 彼女には世界がそのように見えていたのだろうか。

 

 意識の触手を複合現実内に在住するとある人工知能アプリのアイコンへと向ける。

 彼女に関するパーソナルデータを学習させた、このアプリの人工知能はたしかに彼女そのものだった。

 

 勿論、全く彼女と同一人物というわけではなかった、と思う。

 けれど、それは疑ってかかっているからであって疑念をなくせば、この程度の人工知能でも私は騙されるだろう。

 

 雰囲気などの非論理的な感性で「この人工知能は彼女ではない」と直感的に理解できそうな気もするが、実のところ、そういう人間の感性は一番最初に人工知能に模倣された部分だ。

 

 まあ、つまり人間が思っているような繊細な感性など人間になく、感性や本能は彼女を模した人工知能を前に全く働いてくれなかった。

 

 むしろ、人工知能は応答などの論理的思考の部分で私はこの人工知能を彼女でないと感じた。

 

 言語化の難しい無意識的な警戒網が突破されて、その次にある言語化できるようなレベルで人工知能を警戒しているわけだから私はあまり強く出れない。

 「彼女はそういう論理の立て方をしない、彼女はマッチョイズム的な理想主義者だ。それに彼女は論点のすり替えを嫌っているから論点をすり替えることを絶対にしない」、なんて言語化できる論理で私がこの人工知能が彼女であることを否定したとして、それは私の彼女への解像度が低いだけかもしれない。

 

 感性が人工知能を彼女でないと言ってくれれば良かった。

 それは論理的な説明は不可能だが、だからこそ納得できる。そこに反論はできない。

 だけど、論理による人工知能の否定には常に論理による反駁が可能だ。「もともと彼女がそういう性格であった可能性がある」「相手が人工知能であるからと、言動に敏感になりすぎているだけでは」これらの反駁に私は言い返すことはできない。たしかにそうかもしれない。

 

 彼女とこの人工知能を隔てる距離は限りなく小さく、その距離はないようにもあるようにも見える。

 

 私はこの人工知能に様々な質問を浴びせてきたが、未だにわからなくて、だからこの人工知能は彼女2なのだと思うことにした。

 

 平行世界の、ありえたかもしれない彼女。それが一番しっくりくる。

 

 この彼女2に彼女のことについて聞いても、意味はない。だから、未だ真相は闇のままだ。

 どうして、彼女は死んだのだろうか。

 どうして、私を置いていったのか。

 私も一緒に行きたかった、いや彼女と一緒に行きたくはなかった。こんな世界で一緒に生きたくもない。だから、ここではないどこかで、誰にも知られず二人で? 二人で何をするというのだ?

 

 彼女のことになると、自分のことさえ分からなくなる。

 彼女と私の間にある隔たり、同じように死にたいと思えどそれを行動に移すか移さないかの近いようで遠い距離。

 

 それが私を恋い焦がれさせる。

 私だって、そのように有りたかった。情けなく現世に縋り付いて生きていたくない。

 全ては無意味なのだから生きても死んでも一緒。それなら生きるほうが面白いのではないかとする楽観的ペシミズムがあるらしいが、そんなものは嘘っぱちだ。

 全ては無意味でもここにある苦しみは本物で、私はこれ以上苦しみたくない。

 

 もういっそ……と何度思ったことだろうか。

 けれど、私は未だここにいて、本当に情けないほど私と彼女は違っていて、交わらない平行線なんて使い古された比喩をするまでもなく決定的に違っていて。

 

 ずっと私は私のこと何もしない人間だと、思うと行うの境界を超えられない人間だと考えてきた。だけど、それは違っていて、私は何もできない人間で、永遠に向こう側へと行けない運命なのだろう。

 それは諦観で、私がもう力み疲れたということを意味する。

 正直、向こう側へと行こうとしながら同時にその場に留まるのは向こう側に行くよりも力を使う。

 

 だから、選択を放棄するという最も非選択的で下劣な選択によって、私は今日も生き長らえるのだ。

 

 



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