言うべきことはただ一つ。
やっとカメラが彼女の元に帰ってきました。
八幡の来訪の後、有栖ちゃんと夕食を食べる。
なんども、この家でご飯を食べているけどどうにも慣れない。
なんというか、あまりにブルジョワ過ぎるのだ。
もともと高級ホテルで働いていたというハウスキーパーさんが作った料理は豪華絢爛だし、今座っている椅子だってヴィクトリア朝時代のアンティーク家具。そもそも家のサイズがそうそうお目にかかれないレベルの大豪邸だ。
彼女自身はあまり表に出さないけど、二階堂家はかなり太い部類に入る。なにせ、南葛地域の地場の不動産業で一二を争う二階堂ハウジングの創業家なのだから。地域での影響力はそれこそ雪ノ下家と並ぶレベルにあるんじゃないだろうか。
そわそわと落ち着かない様子を見せる私に対して、有栖ちゃんはこともなげに丁寧にナイフとフォークでステーキ*1を切り分けて口に入れていく。
学校じゃ全然実感できないけど、ここだと有栖ちゃんが本物のお嬢様だと理解させられた。
特大ステーキをあっさり食べ終えた有栖ちゃんがことりとナイフとフォークを置く。そして、柔らかな笑みを浮かべた。
「でさ、伽耶ちゃん。今ので比企谷にも欠片ぐらいは事態が深刻な状況だと分かった気がするんだけど、いつまでしらばっくれるつもり?」
有栖ちゃんがにこやかに笑った時。思わず、私は息を詰まらせた。
だってその笑顔に咎めの刃が内包されているのが、ありありと分かったから。
「なんとなく伽耶ちゃんの家庭の事情が良くないのは知ってるけど、最近は特におかしいもん。……何かあったんでしょ?」
有栖ちゃんの言う通り、確かに何かはあった。それこそ、私たち家族が住み慣れた家を離れるだけの何かは。
けど、有栖ちゃんに話すのは躊躇われる。だってこれは、私自身のやらかしの末に起きたことなのだから。
「まぁ、そう聞いたところで伽耶ちゃんが話す訳がないからね。手は用意してあるんだ。──伽耶ちゃん、話さないともうお家に入れてあげないよ?」
「それはひどいよ、有栖ちゃん。一番卑怯で有効的な手だ」
「悪いけど、先に仕掛けてきたのは伽耶ちゃんだよ。『言わないから察して、そして踏み込んでこないで』なんて心底面倒くさい女だよね。ここまでちゃんと言いつけを守ったあたしに感謝して欲しいぐらい」
そう言って有栖ちゃんは口の端を釣り上げる。こうまでされてしまえば、私も諦めて話さざるを得ない、完敗だ。
正直なところ、新しい家には死んでも寄りつきたくないのだ。有栖ちゃんの家が使えなくなるのは致命傷になる。
「追い出されるのは流石に困るから話すけど、聞いても後悔しないでね? とはいっても、どうすればわかりやすく伝わるかなぁ……。うーん、そうだ。……ねえ、有栖ちゃん。突然、実の母親が海外から知らないイケオジを連れてきて「貴女の新しいパパよ」って言われたらどうする? それもお父さんと離婚してるわけじゃないのに」
言ってしまった。そして言ってしまった自分自身ですら、4ヶ月寝かせておいてもなお事態がイカれてて理解できない。
こんな特大の情報量を叩きつけられた、有栖ちゃんは一周回って間抜けな顔をしていた。
「なにそれ、重」
うん、私は初めて見たよ。
人が宇宙猫になった瞬間を。
*
思えば、その兆候はあったと思う。
小学校の頃から母は時々数日単位の外出をして、夏には隔年でアメリカに2ヶ月くらい帰省する。お父さんが一年の中でまず帰ってこないから感覚が麻痺していたけれど、これもこれでかなり異常なことだった。
もしその離れていた時間の全てがあの男との時間に費やされていたのなら、それはかなりの年月になる。……それこそ家族と呼んで差し支えないほどに。
……けれど、分からなかった。疑ってすらいなかった。
曲がりなりにも同居している私がわからないのならお父さんはなおさら分かるわけがない。とうに私の家族は壊れてしまっていたことに気づいて後悔か、はたまた自責か。ともあれ、よくない感情が渦巻く。
「ここを引っ越すわよ、伽耶。引越屋さんはすでに頼んだし、不動産の人とも話はつけた。あの人には『2人で住むには広い』と言ってあるわ。貴女も準備をなさい」
あの男を引き入れてからの母の行動は活発になった。
まずは家を離れて、近くのマンションに引っ越してお父さんの私物はことごとくレンタルスペースに押し込んだ。
引越しの後の母さんはよく笑うようになった。お父さんと居た頃には欠片も見せなかった柔らかな微笑みもあの男にはよく見せる。それどころかささやかなキスさえもする。よく眉間に皺が寄っていた母から考えられない姿だった。
あの男もまた母を優しく撫でて、その甘えた姿に応える。
一度だけ母とあの男が致しているのを目撃したこともあった。だから、母が妊娠したと聞いた時に、その父親を間違えることもない。
「学、早く大きくなりなさい。待っているから」
愛おしそうに新たな命が宿ったお腹を撫でる母。私には、俺には与えられることがなかった無償の愛。ずっと欲しかったモノが私の目の前で他者に与えられている。……正直なところ気が狂いそうになる。
……ここまでくれば、嫌でも私は理解できた。
(……ああ、母さんは今の方が幸せなんだな)
お父さんの痕跡を塗り潰して、私の存在もまた新しい子供で押し流そうとしている。もう、母は形すら取り繕おうとはしない。
突きつけられる。もうこの家に私の居場所などないのだと。
気づいた私はもう耐えられなくて、有栖ちゃんの家に駆け込んでいた。
*
「はぁ……。うん、やっぱり重いや。胃腸薬が欲しい」
事情を全部聞き終えた有栖ちゃんは長い息を吐いた。
あまりに重苦しい沈黙を、有栖ちゃんはよしとはしない。
「覚悟は決まったよ。……しばらくはなんとかお父さんたちを説得して伽耶ちゃんが居れるようにはする」
「ありがとう、有栖ちゃん。おかげで助かったよ」
感謝して頭を下げる。それに対して有栖ちゃんは「けれど」と遮った。
「でも、それも長くはないよ。ずっとあたしの家には居られない。何かが間違って伽耶ちゃんがあたしのお姉ちゃんになることもないだろうし。……だから、いつか伽耶ちゃんは自分の在りどころを見つけなくちゃならない。それはわかってることでしょ?」
「そう、だね」
有栖ちゃんに言われなくても自覚していることだ。有栖ちゃんの家が所詮は避難所でしかないことは。
けれど、新しくあるべき所の見当がつかない。今のままではあの新しい家に帰らなくてはならず、あの家にずっと居ればおそらく私はおかしくなる。それを引き起こすのが嫉妬か憎しみかは分かりたくないけれど。
おそらく離別か、はたまた独立か。どちらかを選ばなくてはならない。
ただ、どちらを選ぶにせよこれは私の物語だ。
物語はいつだって主人公が決断して終わる。
母さんはすでに決断して、新しい物語を始めた。
だから、その次は私が決めるべきだろう。
「……そうだ。仕方ないから有栖ちゃんには話したけど、八幡には話さないでくれる?」
「あたしにバレたなら別に良くない? 比企谷をまた外す理由なんてあるの?」
訝しげに有栖ちゃんは問いかけてくる。その問いかけの答えを私はすでに用意していた。
「八幡は優しいから。一度事情を知ってしまったら必ず関わってくる。それも、自分のことすら疎かにするぐらいに。ちょっとしたことなら別にいいんだけど、これは私の問題。今話して八幡の邪魔をしたくない」
「それ、あたしの邪魔をしていいって言ってる風に聞こえるんだけど」
「邪魔にはならないよ。なんだかんだで有栖ちゃんは要領がいいし、線引きが上手いタイプだ。手遅れになるほど深入りはしないでしょ?」
原作とは異なる理由で八幡は将来的な進路を考えて総武高校を目指している。……けれど、学力*2が足りない。
私は八幡にはなんとかして総武高校に入ってもらいたいのだ。そうしないと、原作が始まらない。雪ノ下雪乃や由比ヶ浜結衣、一色いろはに出会えない。本物を手に入れることもできないだろうから。
(男にもなれず、女にもなりきれない私なんかより彼女たちと絆を育んだ方がいい。どうしたって偽物でしかない私に関わって八幡にその機会を逃させたくない。せっかく、八幡は本物を掴める力を持っているんだから)
私は私で物語を終わらせる。だから、八幡は八幡で新しい物語を始めてほしい。
それが、今の私が彼に望むことだ。