あれから記憶が無い。
殺すほど傷つけて――そう言われた俺は、彼女にどう答えたか必死に記憶を遡るが、そこだけが大きな混乱に陥っていた所為で抜け落ちている。
五条先生以外と会話するのに損傷が必要?
意味不明だ。
それに、学長管理下の物を破壊するなんて有り得ない。……逆に、呪骸の体を破壊するレベルまでやらないと声による会話を許可されないって、学長はどんな設定を入力したんだろうか。
体を破壊すれば、自由が得られる。
まるで、封印されているヤツの台詞だ。
もしかして、呪骸とは本人の言だが気配が少しだけ異質なのは、呪骸を封印の依代とした別物の存在だとも推測できる。学長たちが目をかけて管理する程だから、かなりの危険な呪いなのかもしれない。
五条先生曰く、呪いは等級が高くなくとも人を欺き、弄ぶ方向では思考力が備わっており、ケースにもよるが人質を取る小賢しい呪いまで確認されている。
俺も、騙されている……とかあるのか。
そもそも、危険な呪いだとして五条先生の距離感が可怪しい。
封印するなら、まず高専の忌庫だろう。
呪物の類を自由に出歩かせるなんて言語道断だ。呪術規定に則れば、即座に忌庫への封印や保管又は即刻死刑が当たり前である。
では、人を脅かす呪いでは……ない?
「めーぐみ!」
「……何ですか」
物思いに耽っていたら、進行方向で五条先生が手を振っていた。
難題に頭を悩ませているので、この人の相手も御免被りたい。それどころか、少女への異常な態度を見た後だと尚更近付きたくない。
ただ、避けても不自然なので仕方なく彼へと歩み寄る。
すると、腰を折った五条先生が顔を俺へと接近させ、すんすんと鼻を鳴らす……まるで嗅ぐように。
「恵。今まで何処にいた?」
「……鍛錬も終えて暇で、部屋にいるのも退屈だったんで散歩してました」
「ふーん?」
「さっきから何ですか?気味が悪い」
少女の事を反射的に隠してしまった。
五条先生は、ただニマニマと笑っている。
こういう人を小馬鹿にしたような態度が話していなくても目を合わせるだけでイライラするが、なまじ本人がそれをしても仕方のない実力者なのでこちらは何も言えなくて質が悪い。
「裏庭で女の子に会ったでしょ?」
……どうやらお気づきのようだ。
隠しても無駄だとわかったので、仕方無く頷く。
すると、くつくつと五条先生は笑った。……笑い方が今までの悪巧みやら、単純に面白い事を聞いて笑っている感じとは違う。笑い声を聞くこちらの喉が急速に乾いて、背筋がひりひりとするような不穏さが醸し出されていた。
「アイツはね、元術師の呪霊」
「はっ?」
「ある術師を誑かして、その果には呪詛師に堕として人を呪いまくった怪物だよ。中々に知恵も回るし、やっとこさ僕らで封印したんだけど言う事聞かなくてね〜」
伝えられる情報に頭が混乱する。
元術師の呪霊……つまり、死後呪いに転じた元人間という事か。
だとしたら、益々生かしている理由が不明だ。
封印するにしても、行動を自由にし過ぎている。
第一、あの五条先生が祓うのではなく封印という措置を取った行動そのものが異常。裏庭での行為といい、伝えられた情報を素直に信じられない。
「……害はありませんよ。実際、呪力の感じからして攻撃性は無さそうでしたし」
「……へー。話した?」
「はい。名前も知りませんけど」
「そっか。恵も一応は気を付けてね……アイツ、ほんとに邪悪だから」
俺の肩を叩いて、五条先生が去っていく。
声はいつもより低く、冷たい。彼の後ろ姿を振り返って……何だか無性に不安になった。
脳裏に過るあの微笑みに、静かに激情を燃やす今の五条先生が接近する状況を想像した脳が警鐘を鳴らしている。気取られないよう注意しつつ、五条先生に途中で追いつかない速度を意識して裏庭へと再度向かう。
自分でも、ここまで焦る理由が分からない。
厳密には違うが……殺して、と頼んできた少女に途轍もない焦燥感を抱かされている。
俺は結局裏庭へと着き、そっと物陰から様子を窺う。
ペースや五条先生に注意しながら進んだ筈だが、まだ裏庭には少女しか居なかった。
「〜♪」
少女は本を読んでいる。
それも、俺がさっき手渡したばかりの物だ。鼻歌なんてして、俺には普段から見せない目が文字を追っている。薄い微笑みを湛えた表情は、さっきまで俺の胸裏で際限なく膨らんでいた焦慮を穏やかに鎮めてくれる。
俺はほっと胸を撫で下ろし――スパンと大きく鳴った乾いた音に思わず息が止まる。
少女も驚いて本から顔を上げた。
そして、音のした方に向いた眼差しが凍りつく。
「なにそれ」
低い声……五条先生だ。
どうやら、校舎の外を回ってきた俺とは違い、屋内からこちらへと来ていたらしい。出会わなかったのは、そういうことだったのか。
庭へと出てきた長身が近付くと、少女は本を抱く。
こちらからは五条先生の顔は窺えない。――が、背中から感じられる迫力で紛れもない本人の憤りが察せられ、周囲に緊張感を与えている。
「その本は何か、って聞いてるんだけどー?」
「っ……と、通りかかった子に貰った」
「誰だよ」
「ぁぐっ……!ふ、伏黒、くん……!」
今、少女から奇妙な呪力を感じた。
五条先生の質問に対し、応答を躊躇ったり口を噤もうとした瞬間に内側で呪力が漲る。途端に少女が苦しみ、まるで強制的に吐かされているかのように告白した。
な、何なんだよ、あれは。
「へえ、今度は恵を誑かしてたんだ?」
「ふ、伏黒くんは悪くない。ボクが話し相手をして貰ってただけで――」
「知ってるよ。オマエが悪いって事くらい」
「ゔぁっっ!!?」
五条先生が指を振る。
すると、少女の本を抱いていた右手が複雑に折れ曲がった。足元に本が落ち、痛みながらも慌てて拾おうとした彼女が今度は後ろへと吹き飛び、裏庭に立っている一本の樹に激突する。
根本にずるずると崩れ落ちて起き上がらない少女へ歩んだ五条先生が、肩を揺らして嗤っていた。
「危ないねー。危うく恵までやられるとこだった」
「うくっ……そんな、こと」
「この本は没収ね」
「っ、ま、待って。それ、伏黒くんが折角くれた――」
「タイトル憶えたから!後で同じのあげるねっ?」
戯けて言う五条先生に少女が唖然としている。
俺すらも絶句していた。
少女の反応を見るに、明らかに五条先生の方が邪悪である。伝えられていた危険性など、少女からは微塵も感じられない。抵抗の意思が元々あるのかなんて知らないが、自由を許さないというより自由を許した上で手に入れた物を眼の前で踏み躙る悪辣な対応だ。
助ける?
いや、今出ていって何が出来るんだ。
それに、五条先生は嘘ばかりは言っていない筈だ。
呪骸の体に封じ込められた元術師の呪霊……という情報は間違いない。そうでなくては、あの受肉体とも違う奇妙な気配も説明が付かないからだ。
本を取り戻そうと起き上がり、少女が伸ばしたもう片腕も拉げた。
声のない悲鳴を上げ、少女が蹲る。
けらけらと五条先生が笑う。するとその後ろから家入さんが現れた。
「五条」
「あれ、硝子も来たの?」
「暇が出来たからな。……それで、この状況は?」
「例の男……恵と密会した挙げ句、アイツ誑かしてプレゼントまで貰ってたんだって」
「ふうん」
五条先生が本を家入さんに手渡す。
すると、暫くそれを眺めた後に白衣の懐へと入れた。…………は?
「油断も隙も無いな」
「ッ、硝子……」
「私たちに会う為に呪いになって帰って来たのに、他に何が必要なんだよ。そんな風に欲張られると、本当に何も無い所に仕舞いたくなるぞ」
家入さんが少女の腕を治療し始めた。
反転術式による治癒が始まり、腕の形状が戻っていく――が、少女は体でも焦がされているかのように悶え苦しんでいる。
全身を振って逃げようとする少女を、後ろから抱き締めるように包んで座る五条先生が取り押さえている所為で全く身動きが取れていない。
「痛い、痛いいたいイタイ……!』
「そう?良かったよ」
家入さんが柔らかく微笑む。
俺は……何を、見せられているんだ?
数秒前まで助けようと考えていたのに、今は頭が真っ白になってその場に立ち尽くしていると、肩を誰かに叩かれた。
振り返ると、夜蛾学長が立っていた。
彼は黙って裏庭へと進み出て、三人へと近付いていく。
すると、腕の治療が終わっても放してもらえない少女が学長の姿にはっとした顔をする。
「ま、マサミチ……」
「悟、硝子。どういう状況だ?」
「コイツが男を一人誑かしてましたー!」
「おまけに貰い物までして」
家入さんが本をひらひらと振ると、学長が嘆息する。
それを取り上げて、少女へと返した。……少しだけほっとする、学長はどうやらまともらしい。これなら二人を窘めてくれる――。
「やはり、別の呪骸に移すか。――足のない物がある」
その一言に、今度こそ少女は逃げ出そうとした。
だが、五条先生は放さない。
「ごめ、ごめんなさい。誰にも会わない、会わないから」
「大丈夫だ。そう慌てなくていい」
「マサミチ、先生、聞いて、ホントに、ボク」
「気にするな。全部オマエの為だ」
学長が少女を抱え上げる。
五条先生が少女の額を指でつつくと、手足がぐったりと垂れて眠りについた。三人揃って俺の方へと歩き、横を無言で通り過ぎていく。
夜蛾学長だけが、俺に振り返った。
「迷惑をかけた。後は私たちで処理する」
「あんま踏み込まない方が良いぞ」
ある日、偶然一緒になったパンダ先輩にそう言われた。
「正道が気にかけてるヤツだ。オレも何度か会ったけど、ありゃ自殺願望者だ。悟とか正道にいつも殺してくれって頼んでた」
その答えに納得する。
殺すほど傷つければ会話ができる……自由が出来るっていうのは方便だったのだ。単に自分が死んで支配下から逃れるための。
呪い……やはり騙されていた、んだと思う。
でも、不快感は無い。
むしろ、何処か本能的に救けたいという気持ちだけが強くなる。呪いとはいえ、接してきた態度からアレは俺が救うべき善人の類だ……呪いになった経緯も、きっとそうだろう。
五条先生たちが私たちに会う為に呪いになった、という点からも彼らの為に死後呪いになったのだ。
そこまでして人を想って呪いになった始末が、この現実だ。
「パンダ先輩、ソイツ何処にいるか知ってます?」
「やめとけって」
「会いませんよ。……ただ」
今は俺の所為で、余計に拘束されている。
本人はただ、裏庭でのあの穏やかな一時を大切にしていただけなのに。
死にたいという願望以外は、誰にだって無害なのに。
俺の所為で閉じ込められている。
なら。
「いつか、
誰のルートが見たい?
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夢を叶えた夏油
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計画を完遂した五条
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傷を刻んだ家入