子供のころ共に過ごしたウマ娘が国民的ヒロインになって、そんな姿と普通の自分とを比べて鬱屈した感情を抱えていた"僕"は、引退して大学生となったグラスワンダーと再会して……
グラスワンダーと幼馴染の"僕"の関係を描きました。
幼いころを共にした相手が離れている間にドンドンと雲の上の存在となっていく。
そのとき、果たして変わらずにいられるだろうか。
そんなことを思いながら書いてみました。
僕の手元から、また一人旅立った。
彼女には、もっといい景色を見せてやりたかった。
わかっている。
本人が納得して去っていったのだから、トレーナーとしてはこれ以上言うことはない。
それでも……
自宅のリビングにある二人掛けのソファに腰を沈めて天を仰ぐ。
自然とため息が漏れて、室内へと拡散していく。
また一人、担当のウマ娘がレースを引退していった。
GⅠまではとはいかずとも重賞を一つとって、後は入着がいくつか。
業界全体から見ればかなり良い方の成績だけれど、目指すところへはあと一歩届かず。
当人自身が納得してやり切ったとそう言ったのだからいいじゃないかとは思う。
それでもGⅠを取らせて上げたかったという親心と、自分が目指す姿にまた届かず、という我欲が入り混じったこの苦い気持ちは、何度味わってもほろ苦い。
きっと、滅私奉公で彼女たちが目指すものに対して純粋に、というのが理想なんだろうけど、そこまでまだ人が出来ていない己がまた苦々しい。
部屋の天井を仰いだまま目を閉じてあたらためて深くため息を漏らす。
「どうしたんです? 幸せが逃げちゃいますよ?」
コトリ、と目の前のテーブルに湯呑が置かれた音がしたかと思うと、隣にふわりと誰かが座る感覚がした。
「なんでも」
その綿菓子のように柔く甘い声の主に顔を見られないように、反対側に顔を逸らす。
「当てて見せましょうか? 」
そんな僕の様子に微苦笑する気配を見せながら、彼女はそう言った。
「私を超えるウマ娘を育てられなかった」
見透かされている……でも一部はそうではなかった。
「……違うよ。君を超える僕になれなかった、だよ」
彼女たちが君より劣ってるわけじゃない。
その言葉は僕の舌の上から転げ出ることはなかった。
それがただのトレーナーとしての意地みたいなものであり、客観的な事実に基づくものではなかったからでもあり。
「すみません……不謹慎なことを」
ハッと息をのむ気配がしたあと、本当に済まなそうに気落ちしたような声がして、彼女の方へと向き直る。
あの頃とは違って、髪は後ろで簡素に縛っているし、シンプルな室内着にエプロンといういで立ちだけれど、その淡い群青色の瞳は変わらずに僕を惹きつける。
「いや、いいんだ。僕が無駄にこだわっているだけさ」
僕はきっと、まだ10代の頃の君を超えられていない。
トゥインクル・レースという業界の人間として。
僕はまだあの背中に追いつけていない。
どうしたら追いつけたって言えるのかわからなけれど、このグラスワンダーというウマ娘の在り方に、その境地にたどり着けていないのだ。
まだ手の届かない存在なのに、こんなに近くにいる。
それが悔しくて、情けなくて、でもそれに負けないくらい誇らしくて、今でも時々ふと舞い上がってしまうような喜びが湧いてくることもある。
「貴方のそういうところ、変わりませんね」
彼女はどこか嬉しそうに、また懐かしんだような声音でそういった。
「……子供っぽくってすみませんね」
僕はぶっきらぼうにそう言って、また彼女からわざとらしく視線を外した。
「そうやってすぐ拗ねるところも」
彼女にそういたずらっぽく言われて、まぁ確かになぁと苦笑とともに一言漏らした。
彼女と出会って別れて、また再会して。
その間中ずっと、拗ねたようにしていた自分が瞬間浮かんできて。
それは、恥ずかしくも忘れ難い、僕らが共に大学生の頃の話であった。
その頃の僕は、一言でいうと腐っていた。
今年の春から自分なりに満足した大学に通い始めており、世間的に見ればまさに人生これからだと、そう見えるだろう。
だというのに、前向きな気持ちは欠片も湧いてこない。
僕はここ10年以上苛まれている、自分は何をしたいのか? という問いに答えを出せず、ただ潰しを利かせるためだけの努力をしていた。
大学だって特に専門性を高めたいとか、学問がしたいとか、いい会社に入って社会で活躍するための、とか目的意識もなかった。
ただ家から自転車で通えて、就活でもそこそこ戦えるから、という理由だった。
大学に入って、半年ほど。
僕も御多分に漏れず、何かが変わるかも? などという根拠のない期待を控えめに抱きながら、適当なサークルに入って、何かを成すわけでもなく自堕落に過ごしていた。
今日も今日とて、やる気なく出席必須の講義に出て、サークルの居室にいるメンバーと適当にテーブルゲームをして、お金もないので家で飯を食うかと自転車をキコキコ鳴らしている。
駅を挟んで広がる学生街の合間を抜けていくと、同じくらいの年のグループが仲良く歩いているのがちらほら目に入る。
彼らからは、"何者かである"ということを誇示するようなオーラが漏れているかのようだった。
そんな錯覚を覚えて、その度に逃げるように目を背けた。
誰のせいでもなくて、でもだからこそやりきれなくて、でもすぐにそんな感情は流れる街の風景とともに去っていく。
うちは祖父母の代から住んでいる一軒家に居を構えている。
ここら辺は似たり寄ったりな古くからの地元民とそれらが生み出す空気感が残っていて、安心する。
今日もまた夕飯食って、ゲームするかな、とぼんやりと考えて家の前への曲がり角を曲がった。
その時からだった。
自堕落で後ろ向きだった僕の人生が音を立てて動き出したのは。
◆
大学への入学手続きを済まして後、私はほど近い住宅街へと足を向けていた。
今は両親の古くからのご友人の家の前で、沈む夕日の方へと顔を向けてぼんやりと立っている。
レースを引退して慌ただしくも思い出深い日々から遠のいて、時間の流れがとてもゆっくり感じる。
今でもあの時に戻りたいかと言われると、名残惜しいというのが正直なところだったけれど、それでやるべきことはやりつくしたと胸を張っている。
そして私は今月から新しい一歩をこの街で踏み出そうとしている。
徐々に薄暗くなる空に、左につけた腕時計を確認する。
トレーナーさんが、必要になるだろうと私の引退記念に贈ってくれた時計。
今までは半分は彼女が背負って導いてくれていたけれど、ここからは異国の地にてただ独り。
それに不安がないわけではないけれど、きっと大丈夫だと、二人で歩んできた日々がそう言っているように感じ、私の心に揺らぎはなかった。
そしてその一歩目を踏み出すために、ここに来たのだ。
子供たちの別れの声、まばらに聞こえる人の雑踏。
そこかしこの家から漂う、醤油みりんやお出汁の香り。
極めて日本的な生活の空気感に自然と頬が緩む。
その中で、こちらに向かってくる自転車の車輪の回る音が聞こえてきて、私は表情を改めた。
私の立っている玄関先から少し距離を置いてその人は自転車にブーレキをかけてそのまま固まった。
私は内心の緊張が出ないように彼へと歩み寄った。
「お久し、ぶりです。ずっと……お会いしたかったです」
彼は昔そうであったように、目を丸くして私の姿に驚きを見せた。
子供のころ以来だったけれど、彼のお母様から写真を見せていただいていたので、見間違えるはずもない。
でも、こうして目の前にした彼は写真で想像していたより、ずっと背が高かった。
「グラス、ワンダー……さん」
次に彼が浮かべた表情は、再会の喜びといえるものではなかった。
複雑な色を垣間見た。
きっと、私のざわめく感情がそうであるように、彼の想いもまたあの時から続いたままなのであろう。
表情には出ないように、そっと奥歯をかみしめて、覚悟を決める。
寸暇の瞑目は私を過日の記憶を呼び起こした。
それは、まだ幼いころ。
今でも忘れない。
私は、たった一度の、だけど決定的な過ちを犯した。
彼と初めて出会ったのは、夏真っ盛りで蒸し暑い季節であった。
私は両親に連れられて近所の日本人コミュニティの集まりに顔を出していた。
最初は物珍しい異国のお土産に目を輝かせていた私ではあったが、大人同士の会話が始まると、さすがに飽き飽きして、庭の方へと抜け出していた。
そこで彼と出会ったのだった。
黒髪に私たちとは違う肌の色、そして見るからにやんちゃそうなその漆黒の瞳に戸惑いの色を浮かべていたのを今でも覚えている。
私は逡巡した。
その異国の少年に声をかけること自体をためらったのではない。
日本好きな両親の趣味もあって、両親の日本の友人の子供と顔を合わせる機会はそこそこあった。
迷ったのはそう、覚えたての日本語で話しかけるか、普通に話しかけるかだ。
以前、私のおかしなイントネーションの日本語を思わずといった風で笑われた経験が私を躊躇わせた。
悪意があったわけではない、と思う。
だけれども、子供の頃の私にとって、傷となるには十分な経験でもあった。
それでも、何か予感があったのだろうか。
私は意を決して彼に話しかける。
「ここ、のイエのひと、デスカ? 」
私の拙い問いかけに、間合いを図るように警戒の色をにじませていた彼の瞳がまん丸に見開かれた。
「え、すごい! 日本語喋れるの!? あ、えっと……」
その表情には一切の侮蔑も、好奇の感情もなく。
「少シ、デスが」
ストレートにぶつけられる感情に照れくさい気持ちが後から湧いてくる。
「僕なんて、まだ英語全然喋れないのに……」
当時の私には彼の話すスピードは速すぎて、眉間にしわを寄せた私を見て、彼もまた慌てたように言葉を続けた。
「え、えっと、アイ……ノーイングリッシュ……まだってなんていうんだ? えっと……」
彼は口元を指して大きく手でバッテンを作って、大げさに困ったような表情をした。
それだけで、伝わる。
「well……English! 喋れナイ? 」
「そー! イエス! イエス!」
伝わったのがよほどうれしかったのか、彼は飛び跳ねて私の推測を肯定した。
「私、ニホンゴ、おかし、くナイ? 」
「全然! 」
彼は、私の調子の外れた日本語を笑いはしなかった。
彼自身もアメリカに来たばかりで言葉に苦労していたからだろうか。
自分の生まれ育った国の言葉を話す私に、しきりにすごいすごいと賞賛の言葉をくれた。
目の前の少女が僅かながらも日本語という第二外国語を話すという事実に、彼は自分も英語が話したいと息巻いた。
間に両言語堪能な私の母も挟まってお互いに言葉の練習を続けていくと、拙いながらもコミュニケーションが取れるようになるには時間を要さなかった。
後から知ることだが、彼は小学校の夏休み期間を利用して単身赴任中の父に会いに、1か月間ほどのショートステイに訪れていた。
余ほど暇だったのか、家族で出かける日以外のほぼ毎日、私の家に遊びに来ていた。
私も、そんな彼の来訪を心待ちにし、彼に予定があったりして遊べない日があると残念がったという。
そんな日々の中で、彼が小学校の男子の中で一番足が速いと誇らしげに話したのを端に発して、私たちはかけっこをすることになった。
私もよせばいいのに張り合うものだから、案の定、私の圧勝が続く。
冷静になればウマ娘と普通の人では自力に差があるのは明白且つ努力の話ではないので、すぐに諦めもつくだろう。
しかし、彼は諦めなかった。
ウマ娘の私に普通の人間である彼が敵う筈もないのに。
きっと、何とかなるとでも言いたげに、彼は何度も何度も挑み続けた。
その日から彼は近所にある私の家に遊びに来ては、私にかけっこを挑んできた。
その前後でいっぱい……それこそ飽きるほどにお互いのことをいろいろと話し合った。
近所の色んなところに連れ立って遊びに行ったりもした。
昼頃彼がやってきて、何度か勝負して、そのまま二人で遊ぶ、そんな日々がとても楽しかったのを覚えている。
ケンタッキー州はレース場を中心として観光地が点在するくらいで、自然の多い環境である。
ちょっと歩けばすぐに冒険。
今思えば危ないなと思うけれど、二人で林の中を探検したり、お気に入りの秘密の場所で持ち寄ったお菓子を食べたり……
そうえいば二人で、近くのレース場に忍び込んだりもした。
それこそちょっとした遠征になってしまったけど、二人だと不思議と大変に思わなかった。
ここでいつか走りたいと夢を語った私に、僕より速いんだから、と複雑そうな笑みを浮かべた彼に日本でまたかけっこしよう、と約束をしたのもここだった。
短い間だったが、私がいつか必ず日本に行きたいと思える程には、思い出深い1か月であった。
彼はついぞ私に勝つことはなく、アメリカでの滞在を終えようとしていた。
最後の日……私はひどいことを彼にしてしまった。
元来、手を抜くということが好きではなかった私は彼とのかけっこで手を抜くことは一切してこなかった。
それでも、最後の日、それは彼への優しさから、彼のためを思ってのことだった。
私は手を抜いた。彼がギリギリで勝てるように、少し足を緩めたのだ。
「私の……えっと負ケ、デスね! 」
わざと息が切れたような喋り方をして、私を追い越していった背中に声をかける。
彼は振り向かなかった。
今思えば肩を震わせて、きっと泣くのをこらえていたのだろう。
突然、何も言わずに走り去っていく。
その背中に戸惑いながらも声をかける私は、すぐにでも追いつけたのに、足を前に出すことはできなかった。
そして、それが幼少期の私がみた彼の最後の姿だった。
出立の折、彼の両親は挨拶に来たものの、そこに彼の姿はなくて。
私は……
僕は、ウマ娘が苦手だった。
特にテレビの中のウマ娘が。
小さいころ、ウマ娘の少女にかけっこで勝てずしまいだった。
大抵の男子なら経験する、女の子に身体能力で圧倒的に劣るという挫折。
別にそれ自体は特別なものではなくて、でも僕にはきっと彼女の優しさが、高みからの憐みのように思えたのだ。
僕はウマ娘が苦手だった。
テレビの中の彼女たちは、同じくらいの年齢なのに、多くの人の期待を背負って全力で輝いている。
うだつの上がらない普通の学生の自分がみじめに思えてきてしまう。
なによりも僕はこの、目の前のウマ娘が苦手だった。
本当に、子供じみた感情だっていうのはわかってる。
彼女からしてみたら謂れもない拒絶であり、きっと僕が抱えているこの感情をなんというかも彼女にはわからない。
その事実が、ただひたすらに僕の心をかき乱す。
彼女の活躍をテレビや親や、友人から聞くたびに心の中の醜さが首をもたげて、僕は僕が嫌いになるのだ。
「その……当たり前ですけど、あの頃から見違えましたね」
穏やかな笑みを浮かべて、目の前の彼女は言葉を続ける。
その涼やかな声に、思考の沼に浸かっていた僕の意識が呼び戻される。
「僕の方はそうでもない、かな。テレビとかでよく見るし」
当たり障りなく、返答したつもりであった。
「……その、お帰りになっていきなりで恐縮ですが、少し歩きませんか? 積もるお話もありますし」
気のせいか、彼女の表情が僅か曇ったように見えた。
当たり障りなさを心がけた中でも棘があっただろうか。
「……えっと」
僕は返答に窮した。
正直、彼女が日本に来たと聞いてから、または親からうちの近くの大学に通うと聞いてからも会うつもりはなかった。
きっと、この邂逅はお互いのためにならないから。
それでも、ここで断ることもまた遺恨を残すかと思い、僕は少し先にある喫茶店を思い浮かべて誘うことにした。
きっと歩きながらだと、彼女は割と顔が差すから。
「うん……じゃあ、ちょっと先の喫茶店で話そうか? 」
「はい! では参りましょう」
手を合わせて嬉しそうにする彼女を見て、ちくりと胸が痛む。
心に刺さった棘は、彼女への罪悪感か、はたまた自分への嫌悪感か。
自転車を軒先に止めて、鍵をかけるのを見届けると彼女はくるりと身をひるがえして歩き出す。
少し前で揺れる尻尾を目で追っている自分に気が付いて、僕は遠く空を睨んだ。
彼女を連れて行ったその喫茶店は僕の行きつけ、というよりは祖父が懇意にしている喫茶店で、特にこのくらいの時間帯になるとほぼ開店休業状態だった。
曰く彼はここら一体にいくつか土地を持っている中々の資産家で、税金対策も兼ねて気ままに喫茶店をやっているそうだった。
店に入ると、マスターに事情を話して、奥の席に通してもらう。
グラスワンダーはこういったレトロな雰囲気も好きなのか、目を輝かせてキョロキョロと店内を見まわしている。
改めてみると、嫌みなくらいに美人だ。
絹のように艶やかな明るめの茶髪に、白磁器の様であり、しかし血の通った健康的な艶色を湛えている肌。
あの頃も見惚れた、というより照れくさくてまともに見られなかった青い瞳。
「どうかしました? 」
「あ、いや。なにか飲む?一杯くらい奢るよ」
きっと、奢る必要性はないというか、彼女が今まで稼いだ額を思えば、本来僕が奢られた方が理に適っているんだろうなと思いつつ、誘った手前社交辞令的に飲み物を勧めてみる。
「い、いえ……あ、そのじゃあ、緑茶などありますでしょうか」
固辞してくるかと思ったが、彼女は何かを戒めるようにその薄桃に色づいた唇をかむと、そういった。
喫茶店にそんなの……そう思ってマスターの方を見るとにやりと笑いながら親指を立てている。
何か勘違いをしている。
後で祖父経由で変な話が広まらないように釘を刺す必要がありそうだ。
僕のアイスコーヒーと、湯呑の緑茶というなんともアンバランスな取り合わせを卓に置くと、マスターはまた僕の方に意味ありげな笑みを向けると、奥の方へと引っ込んでしまった。
「さて、と。えっと……入学おめでとう、かな」
「はい。ありがとうございます。9月から一緒の大学に進むことになりましたので、ご挨拶にと」
僕の定型的な祝いの言葉に、彼女はぺこりと頭を下げて応じた。
さらりと前髪の白い流星が揺れる。
「そうなんだ。学部は?」
「文学部で、国文学専攻を希望する予定です。貴方は? 」
少しほっとした。
文学部は1年先に都内のキャンパスへ移動となって、そのあとも僕が所属する法学系とは主に割り当てられる講義棟的にあまり接点のない学部だったからだ。
「法学部。法律学科だけど……」
「まぁ、法曹の道へ? 」
その一言を聞いてまたか、と鼻白む。
仕方のないことだが、この学科に所属していることを明かすと老若男女問わず同じ反応をする。
誰もが大学進学における進路に確固たる意志を持っているとは思わないでほしい。
何でもよかったけど、入学後数学が絡まない学部だったから選んだまでなのだから。
ま、話のネタがないからと言って学部について話を向けたのだから仕方ないのだが。
「いやいや。なんとなくだよ。グラスワンダーさんみたいに目的があって入ったわけじゃないから」
僕は顔の間で両手を振って、おどけるようにそう言った。
「グラス、です。昔はそう呼んでくださいました」
そんな僕の他人行儀呼びは、ぴしゃりと指摘される。
笑顔が少し怖かったように思えたが、すぐにそのなりは潜められた。
「あ、ああ、うん。えっと、グラスさんみたいにちゃんとしてないからさ……」
「私もそこまで明確な目的意識があってではありませんが……そういうの中々、見つかりませんよね」
彼女は眉根を寄せると、若干疲れたようにしながらそういった。
既に2年次の選考希望を持っていて、本当にそうだろうかと疑いたくなる。
誰もが知るような大きすぎる成果を残して、燃え尽き症候群という奴だろうか。
同じ行き先見えずであっても、土台が違うのだと苦笑してしまう。
手元のアイスコーヒーに口をつけながら、この会話はどこに着地をつけるべきなのだろうかと、逡巡する。
しかし、缶コーヒーでは得られないようなキレのある苦みは、僕に閃きを与えてくれるには至らなかった。
彼女もそうなのだろうか。
すまし顔で湯呑を傾ける所作が緩慢であるように感じた。
そのまま、しばしお互いに目線を外して無言の時間が流れた。
そもこの場に目的を持っているのは相手のはずで、それを待つまでの間のうわべの会話を紡ぐような経験値は僕にはなかった。
外の喧騒が遠くわずかに聞こえる以外に音のない店内に彼女の吐息が漏れ出ていく。
僕が彼女の方に目線を上げなおすと、彼女は意を決したように僕の顔を見据えていた……その濁りのない澄んだ瞳で。
「あの時のこと、まだ怒っていますか? 」
僕らの中であの時、と言えばアメリカでの最後の日に他ならなかろう。
ふと思う。怒っているか? と言われれば、そこまで怒りが長続きするような人間でもない。
なぜ彼女がそう思うか? それはきっと僕が、彼女からの僕ら家族あての手紙に一切メッセージを寄せなかったからだろうか。
日本に戻ってしばらく後、最初の手紙が来て、確かにその頃は意地があって書かなかった。
だが年数が経ってみると、そこまで強い感情でもなく、ただ根深い……曲がった性根が社交辞令であっても彼女に一言を寄せることを許さなかっただけだ。
いかに理屈を捏ねようと、道義的には僕が悪い。
「怒ってなんかいないよ。ただ……」
「ただ?」
怒ってない、終わったことだと言い切ることはできなくて、それでも紡ぐ言葉を見失っていた僕に、彼女はかわいらしく小首をかしげて僕の言葉の続きを待つ。
「なんとなく気まずかったってだけだよ。手紙の返事をよこさなくてごめん」
目線を逸らして、入口のドアの方を見やりながら謝罪を口にする。
返事を書かないということ自体はまぁ確かに謝るべきだと思った。
「いえ……その、それならいいんです。貴方を傷つけてしまったのではないかとずっと心配で」
傷つける、って表現が強者の物言いに思えて心に引っかかってしまう。
じゃあどう言えというんだ、とそんな自分に心の中で突っ込みを行う。
「ま、所詮子供の頃のことだからさ。気にしてないって。気に病まずに、大学生活を楽しんでよ」
僕はそんな自分に向けて、そしてつまらない過去のことだという言外の意味を込めてその懸念に苦笑で返す。
「ま、また仲良くしてくださいますか? 昔のように……」
彼女にしては珍しい言い淀みに、不安と緊張が読み取れた。
「……が、学部も違うしさ」
揺れる瞳に気圧されながらも、なんとかやんわりと逃れようと言い訳を絞り出す。
「その部活動などは」
「入ってないよ。別の場所で色々やってるんだ」
嘘だった。
もし、万が一でも僕のサークルに彼女が入ってくるかと思うと、気疲れしそうなので咄嗟の誤魔化しだった。
「……」
僕の拒絶の意図が伝わったか、やや消沈したように視線を落とす姿に若干胸が痛む。
「その。今日こうして時間をとったのってさ。あまり僕のことは気にしないでほしいと思ったからなんだよね」
そんな引け目が僕の口を回らせる。
言ってから思う。
それが一番だ。
「住んでる世界も違うわけだから、ね? 多分いろいろ合わないから……お互いのためにも」
きっとあらゆることが合わないし、付き合いを続ける中で、僕は勝手に精神的に鬱屈し続け、いつか彼女を傷つけてしまう。
「私は……」
初めての明確な拒絶に下を向いたまま彼女はした唇を噛んでいた。
「ごめんね。それだけが言いたくて。じゃあ……あ、でも勿論うちの親は頼ってもらっていいから。それだけは思い違わないでね」
僕はそう足早に言って、席を立った。
マスターは、一人出ていこうとする僕に驚いて口を開きかけるも、嘆息してトレイに置かれた千円札を受け取る。
小銭を渡す手は、非難するように強く重いものだった。
「ごちそうさまでした……」
そんな彼からも逃げるように背を向けると、僕は大きく息を吐いて天を仰いだ。
どうしようもなかったさ、と独り心の中でぼやきながら。
◆
最後まで、線を引いた態度を崩すことなく、彼は喫茶店を後にしてしまった。
残された私は独り、考えに耽っていた。
すっかりぬるくなった緑茶を一口すすると、さわやかな苦みが口に広がって切り替えてくれる。
ああは言ったけど、結局彼は引きずっている。
たった一度の過ちだったけれど、ここまで……
自らを罰するように下唇を噛む。
いや、私だってたった一度のきっかけで、ここまで来たのだ。
もちろん動機はそれだけではない。
いろいろな要因が繋がって、一つの大きなモチベーションの鎖となった。
でもその根元は……
「同じ、か……」
客観的にはあきらめるべきなのだと思う。
それでも、そんなにあきらめのいい人間だったならば、きっと私は重賞をいくつも獲れていなかった。
そのあとの結果を導くこともなかった。
諦めの悪さで困難な道を切り開いてきたのだ。
だから、どんなに拒絶されても、仲直りをするまでは。
……私は絶対にあきらめない。
窓から外を見上げる私の瞳には、きっと炎が揺らめいていることだろう。
チリチリと、胸の奥を焦がすような熱が自身の奥の方からこみ上げてくる。
こっそりと息をついて、残りの緑茶を流し込む。
ぬるく冷えた緑茶は逆に私の体を冷ましてくれるように心地よく、私は気持ちを新たに立ち上がった。
きっとまとめて支払いを済ませてくれたのだろう。
マスターさんは彼をよろしく、と一言だけ言うと、丁重に見送ってくださった。
◆
僕の中では頑張って意思表示をしたつもりであった。
それでも彼女は、諦めなかった。
僕がどんなにすげない態度をとっても、僕を見かけると声をかけてくる。
学部違いとはいえ、1年次は特に一般教養科目が被ることもある。
いつもであれば僕は彼女に愛想笑いをして二、三やり取りをして足早に立ち去っていたのだが、その日はそうはいかなかった。
「あ、おはようございます~。お昼、ご一緒にいかがですか? もうお食べになりました?」
講義が終わると、いつの間にか講義室後ろの出口にグラスがいた。
9月後半だというのに25度を超え、やや熱い。
そんな不安定な天気を踏まえてか、薄い水色のブラウスは半そでで、小脇にデニムのジャケットを抱えていた。
そこそこの有名人ということもあり、チラチラと視線を集めている。
彼女は最前、僕は最後尾に座っていたにもかかわらず、先回りされた格好だ。
「いや、まだだけど……あんまお腹」
すいてなくてさ、と言いかけて彼女の手元を見れば、なにやら手元に紙袋が。
水筒と、巾着らしき布が頭を覗かせている。
視線を戻せば、断られることを予期してか下がり気味の眉。
察しの悪い人間でもわかる。
「あ~、空き教室で食べようか」
「ぜひ! あの、もしよければお弁当を作ってみましたので」
べき論で言えば、関わらないことを選択したのであるし、そう宣言もしているので、ここですげなく断ってもいいのだが。
そこまで非情になれるほど、僕の心は罪悪感に対して強く出来ていないようだ。
初めて食べた彼女の料理はおいしく、また冷凍食品を使わない拘りからも彼女が丁寧に作っている姿が浮かぶものであった。
「あの、作ってくれてありがとう。おいしかったよ。でもさ、僕なんかとじゃなくてもっとほら、ふさわしい人にさ……」
次回からは作ってこないでほしい、と暗に伝えようとして見るも、彼女にはまさにのれんに腕押し、糠に釘。
「いえいえ。私の好きなようにしているだけですので、気にしてくださってありがとうございます」
涼しい笑顔で受けきられてしまうのだ。
「ああいや、うん……」
……それが先日の出来事。
僕としては、何とも言い難い気分だった。
彼女の性根が善であることは嫌というほどわかっている。
彼女のことが嫌いかというとそんなことはない。
僕の記憶の中にあるあの1か月間の殆どは楽しい思い出であったし、久々に再会した彼女はテレビで見るよりも数段美しかった。
それでも、彼女の活き活きした姿と、そして強い輝きを放つ青い瞳を見るたびに、僕の中のどうしようもない劣等感がうずいて、その眩しさに目をそらしたくなる。
わかっている、自分がただ拗らせているだけなんだと。
でも、理屈や理性でどうにかなるなら、人間こんなに苦労しない。
10年以上抱えたこの澱のような気持ちはどうしようもないものだ。
でもやっぱあいまいな態度は良くないよな……
そこまで考えて、自らの深いため息に現実に引き戻される。
僕は眼下の最前列近くに座っている彼女の後姿を眺める。
今は日本史履修者にとって楽単といわれる近代日本文化史の授業を受けていた。
地域文化論系統とこの授業は狙い目で、文学部系の一般教養の中でも人気のある楽単だ。
そして週一回、彼女と同じ講義を受けるタイミングでもあった。
講義の最後に配られるはがきサイズのレポート用紙にテーマに沿った論述を書けばいいという楽さに、多くのやる気のない学生たちが思い思いの内職や休憩をしている。
そのだらけ切った空気感である周囲を気にも留めず、彼女は背筋を伸ばして老教授の講義を受けていた。
ウマ娘は、耳の向きで注意の方向が分かって大変だな、と散漫がちな他のウマ娘たちをチラと眺めて苦笑する。
グラスへと目線を戻す。
邪険にしつつも、なんだかんだ僕も僕なりに彼女のことが気がかってくるものだ。
知らない仲でもないし、不幸になってほしいとも思わない。
できれば僕の知らないところで……ではあるが、幸せにやっていてほしいと思うくらいだ。
しかし一つだけ、学内で会う時の彼女は必ず独りであったことがどうも引っ掛かっていた。
多くのウマ娘は必ずしも4月入学ができるわけではなく、自らのレース人生に区切りをつけ次第なところもあり、9月入学生もそれなりにいる。
グラスワンダーもそうであるのだが、それ故にすでに関係性の出来上がった学内で中々知り合いを作れずにいるのであろうか。
そう思うと、彼女の後姿に頑なさや寂しさのようなものが感じ取れて、僕に構うのもその反動なのかと思ってしまう。
隣でスマホを撮っては弄繰り回している同級生に目を向ける。
特に親しいわけでもなく、必修の語学クラスが一緒で、互いに出席ができなかったときに代返を助け合うそんな集まりの一人だ。
黒髪率の圧倒的に多い法律学科の中でも、若干異彩を放つ金髪ボブカットの出で立ちは、ちょっと純朴男子たる自分には敷居の高い……ように見える。
会話の流れや問答を頭の中でリハーサルし、意を決して声を潜め彼女に話しかける。
「ちょっといいかな」
彼女はけげんな顔をしながらも、スマホを伏せて僕に目線で問いかける。
「あの、前の方に座ってるさ、グラスワンダーさんっているじゃん」
「ああ~」
僕が最前列の方にいるグラスの背中を指さすと、さすがに彼女もグラスのことは知っていたようだ。
「彼女って、いつも独りだけどどうしてんのかな?」
「どうしてるって?」
僕の問いかけに対して、キレイに揃えられた前髪の下の眉間にしわを作って不審げに問い返す。
慌てて自分は彼女と古くからの知り合いで、9月入学でうまくやれているか気になったのだと釈明する。
嘘ではない。
「なるほどね。てか気になるなら本人に聞けば?」
彼女は一転意外そうな顔をするも、そういって突き放す。
「いや、こういうのって聞きづらいじゃん、デリケートだし」
もっともらしいことを言ってく言い下がる。
「っても、私は学部違うからな~」
それはそうだ。
語学クラスは学部学科ごと。
同じ語学クラスであれば、彼女も法律学科。
文学部の9月入学者など知るはずもない。
彼女は唸りながら、スマホを高速でスクロールさせている。
「サークルに文学部の子がいるから聞いとくわ」
そんな彼女の様子に空振りか、と思いきや、なぜかそんな積極的な回答をもらえた。
「まじか、助かる」
「そ、の、代わり……次回代返ヨロ」
しかし、その理由はすぐにわかった。
「着手金2回、成功報酬後期残り全部ってことで」
大体こういう場合は、1回で手を打つところだけど、彼女以外の交友関係広そうな女性に心当たりもなかったので、
期待を込めての破格の条件を提示する。
「完璧に聞いとくからまっとき。いや~これ二限なのだけが玉に瑕だから助かるわ」
彼女はここにきて初めて笑顔を見せると、依頼を達成すれば午前中フリーという割のいい取引にご満悦な様子でこの講義の愚痴をし始めた。
おかげでニュアンスと筆跡をうまく変えて2つレポートを書き続けなくてはならなくなったが、昔馴染みとしての義理は果たせそうだ。
ただ拒絶するのではなく、新しい興味の先さえあればきっと彼女も受け入れてくれるだろう。
僕と彼女は違う世界の人間で、そしてその関係も歪んでしまったから。
彼女が僕から離れられるように、そして自身の心の安寧のために。
果たして代返業で買収した同級生はなかなかどうして有能であった。
幾人かのカリキュラム上で接点のある学生に辿り着いて、過去の経緯を確認してくれていた。
曰く、他のクラスがそうであるように、グラスが入った語学クラスでも9月入学組の歓迎会が行われた。
その中で果敢に口説きに行った男子にけんもほろろに切り捨ててしまって以降、どうも周囲から壁を作られてしまっているようだ。
僕と会話しているときなどは、そんな様子を一切見せなかったので知らなかったが、割とお堅めかつ気の強めの女性に育ったようだ。
まぁ、あんな競争事の場所で頂点を競っていたんだから、気が弱いはずもない。
ただでさえ有名人で、異国的な容姿をしていて、心理的なハードルがある中での出来事だったので、皆も接しあぐねているのが実情だということだ。
同級生の彼女からもらった連絡先の書かれたノートの切れ端を指でもてあそびつつ考える。
新歓時期も逃して、サークルにも入れていないのではないだろうか。
自分も拒絶をしておいて何をしているんだろうという思いはありつつも、どうして捨て置くことはできなかった。
僕は立ち上がると、目的の人物に会いに行くために気合を入れなおして部屋を出た。
◆
和を以て貴しとなす、という言葉は至言であると思う。
ただ同時に、己の意思を貫くことも重要ではないか。
それらが衝突したときに人はどうするべきなのだろうか。
その言葉を遺した偉人は大層頭がよく、そしてなにより交渉ごとに長けていたようであるけれど、私のような頑固者には難しいことだ。
私は誰にも聞かれぬように、そっとため息をつく。
スペイン語必修の教科書をしまいながらそっと周囲を窺う。
私が、食事会で切り払いしてからというもの、徐々に私に話しかけてくる同級生は減っていた。
今では腫れ物に触るようで、ある種いないものとして扱われている。
致し方ないこととはいえ、こうしてクラスの空気を悪くしてしまっているという自覚が重い。
早く教室を後にしないと。
そう思っていた私のもとに数人寄ってくる足音が耳に入った。
「あのーグラスワンダーさん? 」
「え、あ、はい! 」
「もしよければなんだけど、これからみんなでお昼食べて、カラオケ行ってってしようと思ってるんだけど……そのお昼だけでも一緒にどうかな? 」
慌てて振り返ると、そこにはクラスでも女子の中心にいる子だった。
余念なくパーマのかかったつやつやの黒髪が印象的な……。
その後方では私を待ってくれているのだろうか、数人の子が様子を窺って集まっていた。
「そ、その。お邪魔じゃなければ……ぜひ」
突然のお誘いに驚きながらも、私は反射的に立ち上がって彼女の誘いを受けていた。
「邪魔だなんて。その、誘えてなくてごめん」
「わ、私こそ……その空気を悪くしてしまい」
お互い気まずげな苦笑を交わすと、私の右手をとって、彼女は人懐っこい笑みを浮かべた。
「ううん。男の人、得意じゃなかったよね。あれは私たちが抑えるべきだったから。いこ!」
少しだけ……こんな風に笑えたら、不器用じゃなければ、彼とも仲直りできたのだろうか? という思いが掠めた。
しかしすぐに私を受け入れてくれたグループの皆さんとの会話に応じるために、その思いはうっすら掻き消えていった。
更に待ち合わせていたメンバーに合流すると、その場に参加しているのは文学部の学生だけではなく、いくつかの学部の方も混じっていた。
中にはなんと文化系サークルにいくつか入っているかたもいらっしゃり、今度案内してもらえることになったのだ。
私としては、まだサークルのことを考えている余裕もなく、また勧誘のシーズンでもなかったのできっかけもなく、の状態であったので渡りに船だった。
お膳立てされた様な状況に戸惑いを覚えながらも、私は大学での居場所を遅まきながら手に入れることができた。
サークルはいろいろ悩んだけれど、華道と書道サークルに所属することにした。
比較的穏やかな方ばかりで、また時々留学生を受け入れている伝統文化系のサークルだからか、私の容姿にも構えることなく接してもらえた。
昼食の時も、講義の合間やそのあとについても、大学で過ごす場所が見つかると、自然とそれらを起点としたルーチンができる。
環境に溶け込むためにも、一層時間を割くように心がけていた。
大学の敷地や教室で彼を見かけることはあったけれど、友人と一緒だと和を乱してまで声をかけに行くこともできなくて、彼と会話をしないまま時が過ぎていった。
そんなある日。
私は食堂で特に何のくくりもない女子同士のたまりに顔を出していた。
クラスや学部、サークルのくくりもない、友達の友達同士までがゆるく集まっている私にとっては不思議な場所であった。
「グラスさんもすっかり馴染んだよね」
他愛のない話の中で、髪を明るい色に染めた法学部の子が私に話を向けてきた。
「あ~最初はね~ちょっとびっくりしちゃって。ほんとごめんね」
語学が同じクラスのウェーブがかったロングヘアの彼女がそう言って手を合わせてくる。
「いえいえ、私の方も自分から誤解……といいますか、何事も、蒔かぬ種は生えぬ、ですね」
「でた、グラスのことわざ格言」
自分の誤解も、彼女たちが起こしてくれた行動も指して引用した私の発言に、髪を短くそろえた確かダンスサークルに入っている長身の子が笑う。
「でもさ~あの時は驚いたよね。ミサからさぁ」
ミサ、とはこの話題を始めた金髪の子の名前だ。
「あ~あれね。私もどうしてもって頼みこまれてさ」
少し引っ掛かる言い方であった。
「え? なにがですか?」
不思議なくらいトントン拍子だとは思っていたが誰かが絡んでいるのだろうか。
「いや、語学で一緒の男子からさ、グラスのこと頼むって」
「うん。良いやつなんで仲良くしてくれ~みたいなね」
語学が一緒という事は……青天の霹靂とはまさにこのことを指すのだろう。
そう思うくらいに、大地を割るほどの衝撃をこの身に覚えた。
目の前の風景が遠くなっていく。
「あ、もちろん、きっかけはどうあれ私たちは友達だからね」
みなさんがそれぞれ「ね~」と同意してくれる。
そうして一連の話題が区切れて、じゃあさっそく週末は~と話題が移り変わっていく。
私はそれにかろうじて応じながらも、内から煩いくらいに高鳴る心臓の鼓動に搔き消されてうまく彼女たちの声が耳に入ってこない。
彼は、変わらず彼だった。
私が想い出の中で大事にしていた彼そのものであった。
根っこのところはお人好しで、やると決めたときはやり通す意志の強さとその内に秘めた優しさがあった。
今回も私のことがどんなに苦手だろうと、結局は私を助けてくれた。
お願いをしたわけでもないのに、思わぬところで私の辿り着かない結果をもたらしてくれる。
そんなところも、変わっていなかった。
それは……もう彼の滞在期間も残り僅かだった時だったと記憶している。
どうしても自らのお気に入りの秘密の場所を紹介したくて近くの林に彼を案内していた時だ。
私が大事にしていた物を無くして彼と二人で探し回ったことがあった。
それは自身の名前のイニシャルがモチーフとなったブローチ。
当時は確か腰のベルトに留めてもらっていたはずだ。
探検しているときにどっかにひっかけたか、気づいたときには黄金に輝くそれはもう無くなっていた。
半泣きになりながら通ってきたルートを辿ってみたけど見つからず、彼と親たちに止められるまで最後まで探し続けた。
翌日も朝から探していた。
当の私は彼と過ごす残り少ない時間を失せ物探しで使ってしまうことに若干のもどかしさを覚えながらも彼と探し続けた。
その時彼が教えてくれた。
日本のことわざには諦めなければ、きっとなんとかなる、やり通すことが重要だという意味合いの物がいくつもある。
誰かがそうだったから、頑張ったみんなが最後はうまくいったからことわざとして残っているんだ、と。
とても大事にしていたから……いつも身に着けるほど気に入っていたから、本当は諦めたくなかったけど、「しょうがないじゃないか。また別のを買ってあげるから」と親が諭したのに従って。
あれがよかった。あれじゃなきゃ嫌だとは言えずに。
諦めてしまおうとした私と違って、彼は諦めなかった。
その日も見つからなくて、私から「諦めよう、残りは別のことをして遊びたい」と伝えて捜索は打ち切りとなった。
でもそれは今も耳飾りへと形を変えて私の右耳に掛かっている。
彼は本当に最後まで諦めていなかったのだ。
私には知らせずに探しつくして、最後には見つけてくれていた。
ブローチが私の手元に戻ったのは、彼が帰国の途についてからだった。
最後の日、私には会いに来てくれなかったけれど、私が所用で父と出かけた後にこっそり彼から私の母へ届けられていた。
彼が最後の最後に私のあいさつに来なかったのがギリギリまでブローチを探していたからなのか、私の行いに怒りを覚えていたからなのかはわからない。
またはその両方なのかもしれない。
唯一わかっている事実は、彼は私が大事にしていたブローチを見つけて、ピカピカに磨いて届けてくれた、それだけだった。
「あ、あの!」
話題を転換して週末の予定について和やかに会話を咲かせていた最中の唐突な一声。
私を囲んでいた友人たちが口を開けてこちらに注目する中、私にそれらを慮る余裕は消え失せていた。
今度こそは、すれ違ったまま、想いを伝えないまま終わるのは嫌だった。
「急用を思い出しまして……すみません」
立ち上がって、腰を折る私に、皆が会話をやめて注目する。
「あ、うん。わかった! どこに行くか決まったらグラスさんにも共有しとくね!」
一人が、何かを察したように笑顔で頷く。
「本当に申し訳ございません。急用が、あの」
「いって!」
誰かのその一言に私は身をひるがえした。
「まったく。世話が焼けるなぁ……これでようやく対価相当、かな」
その一言は私の耳に入ったか否か、その時の私にはその言葉を拾い、真意を問う余裕などさらさらなかったのだから。
◆
僕の心に平穏が戻ってきた。
金髪の同級生が繋いでくれた子を説得するために心は削れたけれど、終わってみると妙な達成感がある。
基本的に女子は知らない男子に対して、うっすらとした拒絶と警戒心がある。
しっかりと説明をしてどうして欲しいかを伝える時間をもらうには骨が折れた。
それでも、グラスと同じクラスであるという子まで辿り着けた幸運を逃さぬよう気合を入れて臨んだ。
僕の回りくどいやり方に若干の引きつり顔をしつつも、実際のところは彼女の方でもきっかけのようなものを探していた様子だった。
最後にはスッキリした顔になってグラスに関することを引き受けてくれたのだ。
自分にしては頑張った……そして戻ってきた後ろ向きで穏やかな日々。
彼女との緩やかな決別を経て少しだけすっきりしたような、または心に幾ばくかの穴が開いたような複雑な心持ちだった。
だがそれも、きっと更に時間が経てばこれからの忙しさで埋まっていくであろう。
少しだけ感傷的になりながらも、いつものペースを取り戻した僕の目下の悩みは、バイトを増やすかどうかであった。
あの喫茶店、バイトがいたの見たことないしなぁ……サークルの人の伝手を探ってみるか。
人は新しいことを始めようとするときに多寡はあれど前向きな気持ちがわいてくる。
そうやって何か動き続けていれば割とすぐに整理がつくかもしれないな。
そんな風に思って、部室棟に足を向けたその時だった。
部室棟は、食堂棟の向かいにあり、僕はその間を抜けているところであった。
この時間の食堂やこの道のベンチは大体暇を持て余した学生や部室を持たない学生のたまり場になっていることが多い。
大学特有のこの雑多で、僕の知らないコミュニティがたくさん隣り合っているのを肌で感じる空気感は嫌いではない…が、その雑音がピタと凪いだ。
食堂棟から飛び出してくる一つの影に僕の足が止まった。
勢いよく飛び出したはいいがどちらに向かえばいいかわからないというように首を振っていた彼女が僕の姿をしかととらえると、口を真一文字に噛みしめながらこちらへと駆け寄ってくる。
そんな余裕のない表情も、人前でむやみに駆け出す姿も見たことがない。
呆気にとられているうちに、逃げる機を逸した。
「あ、あの……!」
彼女には珍しく、少し裏返って掠れた声に、道行く人やベンチに座る人たちがこちらに注目する視線を感じる。
その視線と、彼女の勢いに押されて僕は少し後ずさってしまう。
逃げようとするかの様に身を離す僕の二の腕をグラスの左手ががっしりとつかんだ。
長袖のシャツからは彼女の瞳と同じ色のベルトで巻いた腕時計がちらと見えて、綺麗な色だなと場違いな感想が頭をかすめ宇。
「い、いたっ……ちょっと、なんで……え? 」
痛いほどの力で掴まれて抗議の声を上げるも、その瞳の端に浮かぶ雫に言葉を続けられなかった。
「えっと、落ち着いて……人にも見られてるから」
とにかく、どうしたものかと辺りを見回すと、好奇の目と若干の僕に対する非難の目が集まっているのを肌で感じた。
慌てて掴まれた腕ごと彼女を引っ張って部室棟の影へと引っ張っていく。
ここの裏口あたりは、生協に買い出しに行く学生以外はほぼ通らない場所だからだ。
落ち着ける場所に来ると、彼女は肩掛けの小さなカバンからハンカチを取り出し顔を覆って、しばし背中を向けていた。
彼女が嗚咽する音や鼻をすする音を聞きながら、その丸めた背中を見ていると、思ったより小さいなと思った。
いつも相対している彼女はそうは見えいない……というよりもまともに僕が彼女のことを見ていなかったのだろうか。
「申し訳ございません。あまりにも感情に任せた行いでした」
若干目を赤くしながらも、彼女は落ち着きを取り戻して、僕の方へ向き直った。
「いやその。いいんだけれど……なにがあったの? 」
僕は当然の疑問を口にする。
態度が冷たかったのはそれはあるだろうけど、そんな程度で取り乱す彼女でもなかろうに。
「私、そのうれしくて。物別れに終わった貴方と同じ大学に通ってまたやりなせるかと」
しかし、僕の問いにそう勿体回って話し始めた。
「それで、貴方の迷惑も考えず、動いてしまって」
迷惑か? と言われれば、ただやりにくかっただけで、そうではなかった。
彼女の振る舞いは終始好意的で、戸惑いはした。
悪いのはどちらかと言えば僕の方だと自覚して振舞ってのだから。
にべもないくらいの方がやりやすかったまであったのに。
「そんな私に……勝手な私だったにもかかわらず、気にかけてくださって」
話の流れがおかしいと思った。
だって僕はずっと彼女拒絶していたから。
「皆さんからお声がけいただいたのは、貴方のおかげ、ですよね?」
一瞬気が遠くなりかけて、平静を取り繕うのに苦労した。
口止めをしていたというのに。
女子の口にとは建てられないというやつか……
「……違うよ」
心の中で毒吐きながら、動揺が出ないように言葉少なに否定した。
「皆さんから聞きました」
「……」
思わず「ですよね~」と合いの手を入れそうになった位に見事に予想の通りで毒気が抜かれてしまう。
「貴方は、やはり貴方のままでした」
そんな僕を見上げて、彼女は柔らかく微笑む。
泣き腫らした目元がいつもとは違って魅力的に見えて、思わず目を逸らす。
「違うさ。変わったよ。」
「ええ。変わった部分も……いえ、変えてしまった部分もあったでしょう」
肯定し、自らの責を口にする彼女に、思わず視線が戻る。
「……」
今度は彼女が視線を外して下を向いていた。
こんな心細そうな顔をするものなのかと、思うくらいに頼りなく見えた。
「私はそれが謝りたくて……」
尻すぼみに小さくなる声が、痛々しくてついこちらから声をかけそうになる。
が、逡巡してる僕の前で彼女は両手で自らの頬を打った。
ぴしゃりと子気味のいい音がして、彼女の表情が切り替わる。
「いえ、違いますね。ふぅ」
息をついて、改まった表情にこちらも居住まいをたださざるを得ない。
いつの間にか、昼下がりの喧騒はどこか遠くに。
「あの時も今も、貴方のそのやさしさは私に光をくださいました。私は、そんな貴方とすれ違ったままなんて嫌です」
強い意思が、想いが、瞳から漏れ出すように、降り注ぐ日の光を浴びて彼女のうるんだ瞳がきらめいていた。
「……違うんだ。僕はそんなんじゃないよ。君が期待するような」
その美しい水面に映り込む僕だけが取り残されたように影を差している。
「たった一度、しかも子供の頃の。それだけで僕は……」
僕はそう言いながら、いっそ等身大の自分が彼女に伝わるように吐き出してしまおうかという境地に達していた。
理想から現実を受け入れてもらい、きっとこれで終わりにできる……そう思って、思わず手に力が籠る。
「僕は君の存在が、疎ましかった。君が活躍すればするほど。君が妬ましくて、いらついて、勝手に邪険にして。君は悪くないってわかっているのに、ずっと。そんな人間だよ」
本当にそれでいいのだろうか、そう思いながらも僕の口は止まらずに自らの醜さを言葉として紡ぎ出してゆく。
目は逸らさなかった。
侮蔑か、見限りか、憐憫か。
どんな感情が返ってくるかはわからなかったけど、それを素直に受け入れようと思った。
「いいんです。どんな感情も私は笑いません。だって、貴方も私を笑わなかったから。それが勇気になると貴方が教えてくれたから」
しかし、彼女はそうではなった。
何のことを指してかはわからない。
子供の頃の話だ。
「そんなことだけで……」
「そんなことだけで、ですよ。たった1か月だけで、人は変われる。変わってしまえる」
否定はできない。それは、僕もだったから。
「それに……」
先ほどまでとは違った躊躇いの様子に、ドキリと心臓が跳ねる。
「えっと?」
「私が遥か先を走っていても、何度でも食らいついてきた貴方の真剣なまなざしが好きでした。一途で、綺麗で、その視線が私に向けられていることに喜びすら感じた」
そういって胸に手を当てる彼女は、まるで夜明けと共に咲く花のように、暗く沈んだ僕の世界の中でひと際鮮やかな笑みを見せた。
「あんなに負けず嫌いだった貴方が、自分に噓をついて下を向いているのも許せないんです」
「嘘って……いわれても」
今までとは違う意味で目を合わせられず、そっぽを向く僕に、彼女は追いうちのごとく畳みかけてきた。
「また、追いかけてきてはいただけないのですか? 私は、今でも貴方の前を走っているつもりです」
僕らの長年のわだかまりを一息で飛び越すようなその挑戦的な発言に、ぐらりと頭が揺れる様な感覚がする。
「すごいこと、言うなぁ……」
「ふふ、どうしてもまた一緒に走りたいんです」
呻くような僕に対して真正面からそう言ってのける彼女に、もはや抗う術を持たなかった。
「意外と意地悪だ」
精いっぱいの悪態。
本当に……まっすぐすぎて逆に意地が悪い。
「知っていました? 私、貴方よりずっと負けず嫌いで頑固で意地が悪くて……」
「自分勝手、なんですよ? 」
そんな彼女のいたずらっぽい微笑みに、何度か目のノックダウンをとられて、僕の長年の意地は粉々に砕かれた。
彼女の世界を拓いたのが僕だというのなら、僕のそれは彼女でしかありえなくて、だからこそ今なのだ。
今日の彼女の勇気と想いに恥じないよう、また頑張ろう。
隣をずっとにこにこしながら歩く彼女を見て、そう、思ったのだった。
そして……グラスワンダーと和解して幾日か。
そのまま彼女の時間が増えたかと言えばそれほどでもなかった。
理由は今思えば僕が突っ走ってしまったからだ。
追いかけてこい、彼女はそういってくれたがどう追いかけたものか。
気持ちだけがどんどん前に行こうとしても、方向すら定まっていない状況だった。
将来どうしたいか? という問いに繋がっているだろうと考えた僕は、2年次から受け入れがある企業のインターンシップへの参加に躍起になっていた。
業界問わず、エントリーできそうなところは片っ端から応募して、面接をしての日々が続いた。
今まであまり力を入れてきたことがなかったせいもあり、なかなか決まらなかったが、それでもトライし続けていた。
立ち止まっていた分まで彼女に追いつきたい、その一心で。
バイトも増やした。
今までは困った時だけの単発のイベントスタッフなんかでお茶を濁していたが、飲食など腰を据えて行うバイトにも挑戦している。
あまりにも手探りで、走り出すためのスタートラインを探している、心境としてはそんな感じだった。
漠然としすぎた状況にうろたえている暇はないと、その逡巡の間に一歩でも前に……そう思って歯を食いしばっていた。
◆
彼は変わった。
きっと良い意味で、だ。
昏い色を称えていたその黒の瞳には、隠しきれない輝きのようなものが漏れ出ていた。
少しだけ心配でもあった。
余裕のなさが、過日の自分を見ているようで。
先を見すぎて、目の前が見えなくなって、頑張っているのに、あまりに遠くを見すぎているから空回って。
それは私が経験したことだから心配じゃなかったけれど……やはり心配で。
あの日から、会えば世間話をするくらいに改善した二人の関係も、どうも彼の勢いの前では霞んでしまっていて。
だから、私は一計を案じた。
一計と言っても……
「ちょ、ちょっと、次のインターンの面接がさ」
「とせんぼです!」
強行策であった。
「いや、そうじゃなくて……」
リクルートスーツ姿にばっちり身を固めた彼は、少し見違えて、ちょっとかっこいいなと思ったけれど、反面その表情は冴えないものだった。
突然の私の行動に心底弱ったように、チラチラと腕時計に目を落とすそんな彼の様子に勝ちを確信した。
「終わったら、私との時間をとると、約束してくれなければどきません。決して」
約20cmほどある身長差で両手を広げてゆく手をふさぐ姿は、傍から見たら子供が大人に駄々をこねているようにも見えただろうか。
「えっと……あーえっと。わかった。わかったから」
彼は、そういって、19時ごろに終わること、終わったら連絡を必ず入れることを条件に開放を願い出た。
「はい。いってらっしゃいませ。思う念力、岩をも通すといいます。しっかり頑張ってください」
そういう私に、彼は手を振りながら足早に去っていった。
言ってから、似たようなことを昔彼に言われたのだったのと、そのくすぐったさに思わず苦笑した。
さて、と私も行きましょう。
私の計略はこれだけではないのだ。
その夜、面接が長引いたのか、彼が待ち合わせ場所に顔を出したのは予定より20分ほど遅れてであった。
準備を済ませて駅前のオブジェの前で待つ幾人かの人々に紛れてひっそりと佇む。
肌寒くなってきた夜なので、ジャケットを持ってきて正解だった。
サークルや6限終わりの学生たちで賑わう駅。
各々が待ち合わせてこのオブジェの前を去っていく。
自分にも待つ人がいるのだと思うと、不思議と心細くない。
まだだと分かっているのに、改札から流れてくる人の流れに彼の姿を探してしまう。
リクルートスーツ姿の彼を出迎える自分を見たら、そういう関係に見えるだろうか……
そんな益体もないことをゆったりとした時間の中で考える。
手に持っていたスマートフォンが震える。
チラとみると、友人からの連絡で拍子抜けしつつやり取りをしばし返していた。
「ごめんね待たせて」
会話に夢中になっている間に時間が過ぎていたのだろう。
少し乱れたスーツ姿の彼が目の前に立っていた。
「いえ、いいんです。こうしてお会いできましたから」
手を伸ばしてずれたジャケットをさっと直しながらそう答える。
むず痒そうにする彼がほほえましくてつい、笑みが漏れる。
「……ありがとう。それで? どこにいくの?」
「あの喫茶店に行きましょう」
つられて苦笑する彼に今日の目的地を告げる。
今日の会場は、再会した日に連れて行ってもらった彼のなじみの喫茶店だ。
「ん? ああ、あそこね。いいけど、気に入ったの?」
「とっても。雰囲気もいいですし……」
なにより貴方が育った場所ですから、とは気恥ずかしくて言えなかった。
「そっか。マスターも喜ぶよ。行こうか」
そんな私の内心をよそに、彼はそういって喫茶店の方角へと指をさした。
◆
グラスに言われるままに喫茶店に行くと、場違いな香りが鼻腔を巡った。
訝しんで奥のテーブルを覗くと、そこにはなぜか日本人誰もが見慣れた品が並んでおり、まさに実家のような安心感。
「これは? え、マスター、和食とか始めたの?」
マスターは僕の問いには答えず、肩をすくめるばかりだ。
鼻をくすぐる香りに、おなかの虫が高らかに音をあげ、グラスにくすりと笑われてしまった。
「ふふ、これは私が作りました。最近お夕飯もお家で採られていないと、お母さまからお聞きしましたよ」
「あはは……」
彼女はそう言って人差し指を立てて険しい表情をして見せた。
夕飯を食べると眠くなるタチなので、遅くまで作業ができるように適当な栄養補助食品で済ませていたのもバレバレのようだ。
「おなかもすいているでしょう? 武士は食わねど高楊枝、と言いつつも体こそが資本です。しっかり栄養をとって頂かなくては」
鼻歌を歌い出しそうなほどにご機嫌な様子で煮物を取り分ける様子を座ってってただただ眺めるしかない。
持参したのだろうか、旅館で見るかのようなお櫃に入ったご飯をよそう姿に少しだけドキッとする。
なんだか……変な感じだ。
「その、ありがとう……」
彼女の所作に見惚れている間に、僕の目の前には煮物、焼き魚、お浸し、お味噌汁……いわゆる一汁三菜が勢ぞろいしていた。
恐らくマスターが気を利かせて温めておいてくれたのだろうか、僕が20分の遅刻をしたにもかかわらずそれぞれの器からはおいしそうな湯気が立ち昇っている。
「いいんですよ。好きでやっているだけですから。ささ、めしあがってください」
彼女はすまし顔でそう促してくる。
いただきます、と二人で手を合わせてまずは煮物のこんにゃくを口に運ぶ。
煮物だと、圧倒的にこんにゃくが好きだ。
「……おいしい」
そうそう。しっかりと味のしみ込んだこんにゃくは、白米を誘う。
「よかった。トレセン学園にいた頃から自炊はしていましたので、自信ありです」
白米を掻きこむ僕を見ながら、彼女はご満悦とばかりに微笑んでそう言った。
寮生活だったと聞く。
なんだか実家でのうのうと暮らしていた自分が恥ずかしい。
「そか、本当にすごいね。なんというか、僕が過ごしてきた6年間とは何もかもが違うよ」
追いつきたい、そう思うものの、どの側面を見ても、遠く先にいるように思う。
「それで、焦っているのですか?」
「……焦っている、か。そうかもね」
彼女にそう指摘されて、箸が止まる。
「そうですね……私にも、ありましたよ。そういうことは。でも、あえて言いますね」
彼女ですらままならない世界。
それが彼女が生き、そして超えてきたもの。
「うん」
「急いては事を仕損じる。向かうべき先を定めずに行った努力は……簡単に私たちを裏切ります」
きっと彼女は見てきたのだろう、その結果を。
または、自らの経験から来る教訓だったのかもしれない。
「やっぱり僕は君に勝ちたいよ。君に追いつけるよう、また僕も走り出すから」
「……」
複雑そうな面持ちの彼女に、努めて微笑みながら言葉を続けた。
「だから、そのアドバイスは素直に受け入れるよ。尊敬する君に勝つために。並び立つために」
垂れかけていた耳がピンと持ち直し、そうですか、と彼女は安心したように言葉を漏らした。
そして一息入れると、じっと僕の目を見据えて口を開いた。
「私は……決して、貴方を軽んじているつもりはありません。人を測る物差しは、一つではない。最も大事な……私が大事だと思うところでは結局貴方に先を行かれていると、思っていますよ」
それが何なのか僕にはわからない。
そう思ってもらえていることは素直にうれしく、面はゆい気持ちもある。
「ありがとう。でもあえて、真正面から挑みたいんだ。君がなしてきたもの……グラスワンダーという存在にさ。だから待っててよ」
僕はその目線を言葉通り正面から受け止めて、そう伝えた。
やはり、まだ負けていると思うところはたくさんあるから。
それらに挑んでいきたい、改めてそう思えた。
「ええ、もちろん。いつでも挑戦お待ちしておりますが……さ、まずは冷めないうちに」
グラスはにっこりとどこか威圧感を漂わせながら微笑むと、椀を持ち上げて食事を促すのであった。
それから、僕らは彼女の作った食事に舌鼓を打つと、マスターがお店を閉めたそうにカウンターから出てくるまでいろいろなことを話し合った。
これからのこと、これまでのこと。
他愛のない話から、まじめなことまで。
話は何度会っても尽きず、それから度々夕食を共にするようになる。
外食なんてバイト学生には毎度はできないので、そのうち我が家に場所を移して。
長年過ごした食卓に彼女がいる風景は、真新しいようでいて、しかし昔からそうであったのかのようにしっくりとくる、不思議な感覚を僕にもたらした。
グラスからいろいろな物をもらいながら、それでもまだ僕が今後について見つけあぐねていたそんな最中。
彼女から、レース見学の誘いを受けた。
場所は京都。
季節は10月、と言えば関心のある人なら理由はわかるだろう。
その時の僕は、特別レース業界に興味があったわけではなかったからよくわかっていなかった。
何か自分なりの形で証を立てて、彼女に恥ずかしくない自分になろうと。
そうなって初めて勝ちをもぎ取りに行きたいと漠然と思っていただけだった。
相変わらず行く先をやみくもに探し続ける僕を慮って、グラスはこの地へと僕を連れて来た。
「私は殆ど関東を主戦場にしていました」
そう語る彼女は、キャップを目深にかぶり、赤い厚縁の伊達メガネに大きめのマスク、としっかりと変装をしていた。
つい忘れそうになるが、彼女はレース業界においてはスーパースターの一人だ。
大学以上に顔が差すために、前髪の流星はもちろん、顔全体を覆い隠す勢いの装備だ。
「じゃあここには? 」
「出場者としてきたことはないです。本来できれば出たかったレースがあったのですが……」
僕がそう問いかけると、彼女は少し声のトーンを落としてそう語った。
表情はマスクに隠れて窺えない。
「スケジュールの関係とか?」
今思えば的外れで失礼な推定だった。
「もう……本当に見てくれていなかったんですね。故障……つまりは怪我、です。ウマ娘の膂力は人のそれを上回りますが、それを全力で出すことのリスクも並ではないのです」
彼女はこちらに顔を向けてわざとらしく悪態と共にため息をつく。
マスク越しでも、呆れと不満がありありと伝わってくる。
「な、なるほどな……」
「クラシック三冠についてはご存じですか?」
たじろぐ僕に苦笑すると、彼女はそう聞いてきた。
「うん、まぁそれくらいなら。2年目のウマ娘限定のレースでしょ?」
そのくらいは僕も知っている。
煩いくらいに毎年のように宣伝が走っているのだから嫌でも耳に入る。
たしか、日本ダービーとあと二つだったはずだ。
「ええ。多くの他のGⅠと違って一生に一度しか挑めない、誰もが夢を見るレース。出走できるだけで誉。入着すれば活躍次第で名が残る。勝者は例外なく。今日はその最後の冠、菊花賞がこの地で開催されます」
菊花賞……漠然と三冠とまで言われて注目されるレースなので、全部東京でやるものだと思っていた。
一生に三回だけのチャンス、その最後。無論一回一回が一生に一度なんだろうけどその最後ともなると……重みが僕にも伝わってくる。
「最後だからこそ。最後だけは、または最後まで。それぞれの思いはあるでしょうが、誰もが次のない必死のレース。もちろん皐月とダービーだって死に物狂いですが……一生のうちの最後のチャンス。ひとしおのはずです」
「……はず? あ」
そこまで聞いて僕は理解した。
「ええ、私は残念ながら挑めずでした」
そんな事態は、どういう感情だろうか。
僕にはそんな一度きり、未だ訪れたことはない。
大学受験だって、言ってしまえば浪人すればもう一度、または現役でも学部を選ばなければ何度か希望の大学に挑むこともできる。
そんな誤魔化しすら許されない、ただ一度の機会に参加できないなんて。
「人生最後のチャンスをクラシック三冠最長のレースで走る。その本気の凄みを感じていただきたくて」
どんな想いでいるのだろうか。
思うに胸が締め付けられるように痛いけれど、当の本人は気にした風もない。
「なるほどなぁ……」
感想を言うにも憚られて、相槌しか打てない己が悲しい。
しばしそんな会話をしながら歩いていると、遠くに大きな競技場と思しき建物が見え、人がどんどんそこに吸い込まれていくのが見えた。
「さて。ここからはあまり名前は呼ばないでくださいね? 大変なことになりますから」
グラスは、そう言っていたずらにウィンクをすると、キャップを改めて深くかぶりなおした。
初めて入ったレース場は異様な熱気に満ち溢れていた。
老若男女様々……やはり男性が多いか。
それぞれが今日のレースへの期待を口々に漏らし、自らの予想を熱く語っている。
熱のうねりの中で揉まれる様な。
観客からしてこの熱気か……僕がたじろいでいる中グラスは何事もないかのようにすいすいとその中を抜けてゆく。
スタンドは人、人、人、という感じで埋め尽くされていた。
僕が後ろの方で見るしかないか……とぼやいていると、遠くスタンド前からこちらに向かって手を振る影が見えた。
彼女の後輩らしき制服姿のウマ娘たちがとっていてくれた隙間に潜り込むと、目の前は思っていたより広く、長く向こう正面で思い思いにストレッチやら芝の感触を確かめる彼女たちはちっぽけにさえ見えた。
僕らがやってきてすぐにファンファーレが鳴り響き会場は徐々に緊張感を増していく。
ウマ娘のレース独特のゲート……スターティングゲートというらしいが、に各々のウマ娘が収まっていくと、先ほどの喧騒が嘘のように異様な熱気だけを残して静まり返った。
収まりきって一呼吸、何かしらの大仰なスタート合図もなく、あっけなくゲートが切られウマ娘たちが飛び出していく。
遠く向こう正面からのスタートだったにもかかわらず、彼女たちの大地を蹴り上げる音が地を伝ってここまで響いてくる。
一斉スタンド側も湧きおこり、それぞれがこちらへと駆けてくるウマ娘たちに声援を送り始める。
レースを見たことがない僕の感想としては、あっという間というのが感想だ。
3000mと言えば僕らが歩いて30~40分はかかる距離だ。
その距離を圧倒的な熱と風を纏いながら少女たちが駆け抜けていく。
2週目、体力もきついのだろう、モニターに映される彼女たちの表情は始まる前の可憐さからは一転、汗と泥の滲んた表情をこわばらせ歯が砕けんばかりに食いしばり、己の全力を注ぎこんでいた。
ラストこちらへと駆けてくる終盤の駆け引きにスタンドがより一層の熱を放つ中で、僕は独り別の感傷に浸っていた。
グラスはこの猛りの中を駆け抜けて、そして幾度も勝利をつかんできたのだ。
時には、そう……今目の前で声なく全身で慟哭し、または悔涙を堪えて天を仰ぎ、勝者の背中にあったかもしれない自分を映しているように……そんな無念の負けもあっただろう。
どれだけだ。
僕が彼女に背を向けて腐っていた間に、彼女はどれだけの艱難辛苦を超えて、どれだけの物を掴んで来たのだろうか。
そっとグラスワンダーの横顔を盗み見る。
目元だけ見える彼女の表情は、いつもと同じで穏やかに凪いでるような微笑みを湛えていた。
僕にはそれが達したものだけが得られる凄みを含んでいるように見えて、わずかに身が震えた。
「私も、ここに立ってみたかった。そう思うこともあります。でも、この6年間はすべてが本気でしたから」
僕の視線に気が付くと、少し顔を寄せて彼女はそう漏らした。
「本気……」
「ええ。勝利も敗北も、故障と治療の時間も。その全てでトレーナーさんの全力と、私の全力で成した結果です。だから、ええ。改めて未練はないな、と。そう思いました」
ここまで見てきて、とても未練はないとは思えなかった。
だって、目の前の敗者の彼女たちはあんなに悔しそうで、この菊花賞に出ることさえできなかった未練はとても僕には処理しきれないと思った。
「クラッシック三冠に出られなかったのに?」
だから、僕は聞いてしまう。
目指す彼女が見ている景色が知りたくて。
「はい。本気だったからすべてが叶うわけではない。皆が本気で一つしかない一着を奪い合う。練習も本番も何が起きるかなんて誰も予想できない」
……それは、そうだ。
本気になれば勝てるっていうなら、この目の前で死力を尽くして届かなかった彼女達は本気でないということになってしまう。
本気でも届かないものがある……当たり前の道理なのに、その険しい現実がこれから歩んでいく足を竦ませそうになる。
「だからこそ、その中で残したあらゆる証を誇らしく思います。これ以上ないくらい二人で頑張ったのですから」
僕もやりきった後になら、そんな表情ができるのだろうか。
「誰もが本気をぶつけ合う世界……証……」
そんな世界で、確かに己の全力があった証を残すことができれば、僕も誰かに同じように胸を張ることができるのだろう。
「そんな私は、あの子たちは、貴方に何か灯せたでしょうか? 」
「わからない。正直まだ熱に浮かされてるみたいだ」
グラスの問いに、僕は自らの胸のあたりを掴んで、そう答えた。
「決めた。やっぱり僕は君を追うよ。君がもっとどんなに先に行ってしまっても、どんなに絶望的な差でも、もう目を背けない」
彼女の方に手を差し出してそう宣言する。
「私も、もう脚を緩めません。貴方が追う価値のある人間であり続けますから」
10数年ぶりに直に触れた彼女の手は小さくて、熱く、そして少しだけ震えていた。
それからの僕らは、新しい形で平穏を取り戻して友好を深めていた。
学内で顔を合わせては昼飯を一緒にし、時たま時間を合わせて出かけるくらいの、なんてことない大学生らしい時間。
表面上のそんな穏やかな付き合いとは別のところで、僕は彼女の過去と向き合っていた。
僕が目を逸らし続けていた彼女の6年間近く。
メディア上の資料を除くとどうしても限られた情報の中ではあるが、映像上の額面の情報より彼女の生きてきた軌跡に触れられたように思う。
苛烈。その一言であった。
彼女が走った時期も、走れなかった期間も、その全てに全力の彼女の姿があった。
不死鳥と称えられるほどの挫折と復活を繰り返し駆け抜けたその姿に僕は尊敬の念と、そしてそれ以上の嫉妬の念を抱かずにはいられなかった。
でもその嫉妬は、今までとは別の感情であって。
それから僕は考えるようになった。
これからの人生をどう生きるべきか。
あの異国でのわだかまりはもうない、と言ったらウソになる。
でも、それ以上に、僕の中で燻っていた負けたくない、という気持ちはあの日から続いて僕の中で確かに灯り続けていた。
それを、改めて自覚した。
時を経ても苦笑する。
僕はこんなにも負けず嫌いで、それに対して妥協も嘘もない彼女のことが好きだったのだ。
一面を見て、勝手な理想を押し付けた。
彼女の優しさを信じ、受け入れることができなかった。
それはきっと恥ずべきことだってわかっている。
それでも、あの日の悔しさだけは間違いじゃない。
僕は、どうしたらあの日の自分に報いられるだろう。
どうしたら、まだ心の中に息づく幼い僕に、心から諭せるだろうか。
その答えを得てこそ、きっと僕はグラスワンダーという存在に向き合えると。
その時の僕はそんなことを思って、道を模索し続けた。
それから程なくして、トゥインクル・レースの世界に、その本気の熱に虜となった僕は、遅まきながらトレセンへの門を叩くことになる。
そして……
◆
「どうかしました?」
ふと、思い出に浸かっていた思考が現実に呼び戻される。
遠くを見ていた僕の顔を覗き込むように、淡い青色の瞳が間近で瞬きをしていた。
「あ、いや。グラスにはほんと、色々苦労を掛けたというか、なんというか。ふと思い出してさ」
「あら、いいんですよ。好きでやっていることですから」
そう言ってソファに深く座りなおす彼女は、いつかのようにすまし顔でそう答えた。
「まぁ色々その、直していくからさ。変わっている途中だと思って大目に見てよ」
「そのままで構いませんよ。お世話のし甲斐がありますので」
僕がそういうと、グラスは身を寄せて僕の肩に頭を乗せてそういった。
「いや、うん……いやでもなぁ」
確かな熱と柔らかさが心地よくも照れくさい。
「変わらないでください。いつか、貴方が私を超えたと、自分で思う時が来ても、きっと」
僕が何か抗弁しようとするのを遮って彼女はそう重ねて言った。
その声音は、静かでしかし僕の頭にずっと残り続ける様な物だった。
「……君が、そう望むのなら。いつになるのか見当もつかないけどね」
一生を掛けた約束になりそうだな、と僕が苦笑して言う。
なぜなら、弛まず進み続ける彼女に追いついても、きっと追い抜いていくことはなくて、隣で歩み続けることになるって思ったから。
-fin-