眼前に山の全景が見える。
もっと遠くに見えてたものが、いつの間にか随分と近くなった。
風に混じる青い匂い。視界を覆いつくすほどの緑と坂が、改めて自分が山の麓まで来たことを思い知らせる。
山の中腹ほどを睨み付けるようにしながら、数字が書かれている棒を左上に叩き込み、ブレーキを踏みこむ。
ブレーキがかかるキィ、という音を盛大に響かせて、灰色の車を路肩に停めた。
一つ、溜息を吐く。
鍵を勢いよく引っこ抜くと、エンジンの音が止まる。
古い型の自動車だったから、乗っている間ずっと煩かった。いい気味だ。
最後に声を上げるようにしてぶるんとうなりをたてるのを見ると、車とわかってはいるが、どうにもやりきれない気持ちになる。
鍵をダッシュボードの方へ適当に放り投げ、草に落ちる音を聞きながらぐっと伸びをする。随分と長く運転してきたから、身体中ががちがちだ。
硬いレザーシートで凝り固まった肩を慰めるように、軽く回して声を出す。
少しの休憩を挟んだ後、荷物を取ろうとして後部座席に目をやるようにすると、山から吹き降りる突風が私の顔を打つ。
飛んでくるガラス片を払いながら、ついでに助手席を軽く手で払い、息を深く吐いて、扉を開けた。
開けるときに、やけに大きな音を立てながら開く扉にうんざりしながら後部座席のバッグを掴んで外に出た。
軽く外に休憩か散策に行くにしてはやけに大きな、後部座席を丸々占領している円筒状のバッグを肩に回して担ぎ、ドアを思い切り閉める。
前は出来なかったことだ。幾分か気持ちがいい。
扉が施錠されていることを確認して、目の前の山にあるはずの目的地へと向かって歩きだす。
今日は雲一つない、空気もきれいで星がよく見える夜だ。
季節は過ぎたが、前に車の持ち主に教えられた、絶好の花見のスポットとやらに行くにはちょうどいい日だろう。
あぁもう。聞いていたより長いぞ、まったく……
道中ぶつくさと愚痴をこぼしながら、足は止めず。教えられていた距離の2倍はある山道を登って行った。
一応道は道であったが、階段すらない坂が多くあり、まるで登山のような心持ちだった。
あぁ、だからこそこの場所が好きだったのだろうなと思う。
アウトドアが趣味だった、自分と正反対な人間のことだからと、妙に納得がいった。
山頂にたどり着く前に、少し横に逸れる道があるから、その先だと言っていた。
本当かどうかわからないが、確かにそれらしき道があった。道と言っていいのかはわからないが。
何しろ、光がろくに差し込まない。角度的に月明かりすらも入らず、ただの星の明かりすらもその道の入り口を指し示すばかりだった。
まったく。彼がエスコートするべきじゃないのかな……常識的に。
幾度目かの溜息を吐きながら、すたすたとその道を歩いて行って、ようやく開けた場所に辿り着いた。
そこには、まぁ想像してはいたが、先客がいた。
「まったく……レディをほっぽって、どういう神経でここにいるんだい?」
返事は返ってこない。
ふん、まぁいいけどさ。と意に介さずの彼を放置して、バッグからレジャーシートを取り出し、横に座る。
「まぁ、思っていたよりは綺麗だったから許してあげるよ」
ちゃんと伝えなかったな。もう。言っていたよりも、遥かに綺麗な光景に息を呑む。
枝垂れ桜が二本立ち並んでいた。一本は枯れ切り、一本は咲き誇る。
ちょうどその真ん中に私たちは腰かけていた。私たちに会話はなく、ただ二人の間に置かれている数本の酒を交互に飲むばかりだった。
汗の滲む、見慣れたシャツの隣人に注がれた酒に桜が落ちてくる。
風がないので、はらはらと落ちてくる桜を受け止める。これも風情ってやつかな、とケタケタ笑い出してやりたかった。
まぁ、花見だけで飲む酒っていうのも、悪くはないな。
紅色の盃に注がれた酒をくいと飲み、声をかける。
「まぁ、元気でやりなよ」
最後に顔を見ようと、横を向いた。巻き上がる花びらが彼の表情を覆い隠す。
くす、と笑った。
彼から背を向けて、何歩か歩く。古い型の自動車が、ぶるんとうなりをたてた。
……うるさいな。
日がすっかり暮れて、アルコールが入っていない飲み物がもう無い事に気づいたころ、帰りのことを考えて頭に手を当てた。
……まぁ、多分大丈夫だろう。
二、三本の酒瓶。それと花柄の紅の盃を置いたままにして、山を下りることにした。
多分、まだ呑む人がいるだろうから。
枯れ切った桜一本に、しかし振り向くことはなく。
随分と暗くなったなぁとぼやきながら、懐中電灯を使って元の道を戻っていった。
「……はぁ」
ハンドルにもたれかかりながら、若干の後ろ髪を引かれる思いを押し殺して青の車の扉を閉める。
レザーシートに背中を戻して、鍵をポケットから取り出し、鍵穴に丁寧に差し込んで、回す。
「なんとか、頑張らないとな」
ハンドルをひしと、両手で掴んだ。