月明かりに照らされて俯く幼い彼女と、
夜明けに向かって泥に塗れながら前を見て走る彼女と、
太陽の下で喝采を見上げる彼女。

全てがキングヘイローで、だからその冠は彼女のものだった。

※ウマ娘プリティーダービーオンリーイベント『プリティーステークス29R』で頒布された合同誌「馬が世の春」に寄稿したものになります。

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その冠は、きっと彼女にこそ相応しかった。


カレンデュラの冠

 まだランドセルを背負っていた頃の話。

 私と母は仲良し親子といった風情ではなかった。

 今、少し嘘を吐いたことを認める。安易な虚言など一流のやることではないのに。

 私に母を厭う気持ちが少しあるだけである。

 母は一流のウマ娘である。

 競走ウマ娘としてもデザイナーとしても名を轟かせる偉大な人。

 その人の過干渉に私は少なからず不快感を覚え、そして、その偉大さが無条件に母の言葉を肯定し私をその娘として定義づけることが嫌でならないのだ。

 だから、私はそれなりに母に反抗する事が多かった。そして、母と口論になって苛立ちがピークを迎えると、決まって私は家を飛び出した。

 何も持たず、ただ履き古した靴を履いて、夜の町へ。

 行く当てなんて一つもない。街灯はただそこにあるだけの光で、月明かりだけが道を照らしてくれている気がした。たった一人の夜道を、私は行く。そして、いつも、15分ほど歩いた先の公園にたどり着く。子供の脚で15分。今の私なら10分とかからない道が当時はひどく遠く思えたものだった。誰もここまで追いかけては来ないだろうと苦し紛れに笑った覚えがあるが、たかが数年前の話なのに幼く見えるあたり思春期というのは大層な精神の変革らしかった。恐らくは数年後には同じような事を思うのだろうと苦笑する他ない。

 更に幼さを恥ずかしく思うのは、結局私は寂しさをはじめとした嫌な感情に押されて帰路につく事になるという結果。

 また15分歩いて、玄関先の暖色の光に迎えられてチャイムを鳴らすのだ。そして、1分後に開いたドアに、逆光に照らされて冷たい暗さの母の、愛情のある言葉に歓迎されて、たった一言ごめんなさいと言って部屋に戻るのである。少なくとも自分の非を認めたわけではないのに、ベッドの奥に逃げ込むようにして、やがて夢という安息に逃れるのである。

 これは弱さの話で、幼さの話で、そして何より過去の話である。

 ならばこれは忘れてしまうべきで、自分に責任はないと言い張るべきで、きっと数年前の自分を地続きの別人のように扱ってしまうべきで、考えることは無駄だと断じてしまうべきなのに、どうしようもなく私の心奥をいかなる手段を以てか苛むのだ。

 苛むものを無視できないから、私は未だにまだあの夜にいるような気がしてならないのである。

 子供には遠すぎる夜明けが、今も尚恋しく思えるのである。

 

 

 マイルCSとスプリンターズSを終えた師走の話。

 私は0時を回った夜空を見て決意した。

 キングヘイローは、恐らくは全盛期を迎えようとしていた。

 決して凡庸で済まされない彼女の、同じく凡庸でない者達の中での苦悩は、2年半にわたる資格があることを示す勝利とそれで尚届かない敗北の連続の果てにある種の成熟を見せる。

 諦めなかったから結果が出るわけではないという現実を、努力は報われるという幻想を、進み続ければ辿り着くという希望を、その全てを否定するように彼女はいつだって顔を上げて走るのである。答えを得るまでは立ち止まらないと言い続けるのである。

 だから、私はそれに応える為に自分にできる最大を、今賭けられる全存在をキングヘイローというウマ娘にベットする。このような表現を聞けば、彼女は軽々しく賭けるなんて言うのは一流のすることではないと顔を顰める、いや、笑うのだろうけど、それでもこれ以上にシンプルでわかりやすく自身の決意を示す言葉が他に浮かびはしないのである。

 それほどの思いが私の中にはあって、だから私はただ前に進む彼女を肯定し、どれほどの苦難にあっても背中を押すのだ。

 前述の通り、諦めなければ結果が出るなんてことはないし、努力が報われるとは限らないし、進んでも辿り着けないことはある。ただ、その全てが実際に起き得ることで、実際に起こったことで、実際に誰かの心に輝きを見せたから、そう思われる。誰もが、その願いをここに宿しているから願われる。ならば、その輝きを見せられるのは、キングヘイローというウマ娘に他ならないと私は思うのである。

 そして、王が冠を戴くことを望むのならば、その背に光を求めたならば、そこには代え難き価値があるから、私もまた走るのだ。

 

 

 フェブラリーSを終えた3日後の話。

 1限が終わって、トレーナーが倒れたという知らせを聞いた時、この生涯で最も冷たいものに心が触れたと断言できる。

 皆の静止を振り切って、誰の視線をも意識することなく全力で走った。これもまた、人生で最も無心であったと断言できるものだった。

 辿り着いた保健室には彼女の姿はなく、聞けば救急車に運ばれたという。

 よくない考えが浮かんでは消えまた浮かんでくる。焦りは呼吸になり、不安は涙になる。心の中の彼女の姿が震えになって、そして、その全てが私を押し潰す。

 無事でいて欲しいと思った。ただ生きていて欲しいと思った。私に辟易してくれてもいいから、ただ姿を見せて欲しいと思った。私のせいかもしれないと思った。私のせいだと思った。全てが間違いだったのかもしれないと思った。間違いだと思うことは彼女への侮蔑だと思った。侮蔑だと思うことすら私の身勝手だと思った。

 全てが刹那に消える泡沫のようなもので、そして、その刹那があまりにも長く思えるものだから苦しみがあった。

 ようやくその声が止んだのは、目を覚ましたトレーナーから連絡があった昼過ぎだった。

 病院に駆けつけると、そこには平気そうな顔でベッドの上から手を振る彼女の姿があって、心底安堵した。

 原因は過労寸前の体が貧血に耐えられなかったからだろうということで、結局のところ、私の為の苦労が招いたことだった。なのに、彼女を前にすると、それが彼女の仕事で、彼女のやりたいことで、彼女は後悔など全くしてないことがどうしようもなくわかってしまうものだから、自分のせいにすることすらできなくて、小さく良かったと言って手の震えを知られないようにするのが精一杯だった。

 

 

 私が倒れた一週間後の話。

 夕暮れの下で、キングと喧嘩をした。いや、現在進行形である。

 こういった語りにありがちな発端は些細な事、ではなく、それなりに深刻な話だった。

 私が栄養ドリンクを飲んで仕事をしていたのだ。過労で倒れて数日は大人しくしていたが、高松宮記念は迫っている。キングにとって、これは大きな意味を持つレースで、だから私は休んでいる暇などないのである。それを見た彼女は呆然として、少しひどく悲しそうな顔をして、すぐに隠しもしない憤怒を纏い私の前に立った。

 ほとんど過労で倒れたようなものなのにどうしてそんなものを飲んでいるのかと問い詰める彼女の顔を見ると、私は何も言い返せないでいそうになってしまったけど、それでも私は彼女の為に全てを捧げると決めたから、その決意を言葉に変えて彼女の言葉に立ち向かった。

 生涯を通して一番だと断じる勇気はないけれど、少なくとも、今ここにいるトレーナーの私はキングヘイローの答えをこれまでの人生で一番大事なものだと言い切ってしまえるのだと。その輝きこそは栄光で、その道こそは希望で、その夢こそは憧憬なのだと。言葉を尽くして、尽くせぬ思いを伝えた。口下手な私が最も雄弁な瞬間だった。

 その全てを聞いた彼女は、泣きそうな顔で捧げられる方の気持ちも知らないでと叫んで飛び出した。

 その時になって、私は自分の身勝手を知った。きっと、それを知ったとて止まれはしないのだけれど、それでも、その心を知りはしたのである。

 

 

 トレーナーの前から走り出して少し後の話。

 沈みかけの空で、河川敷に立ち尽くす私は少なからず数分前の行動を後悔した。

 感情に任せて怒りをぶちまけたけど、話し合いの余地は十分にあったはずだった。きっと彼女はどれだけ願っても止まることを選びはしないのだけれど、真摯に思いを伝えれば少なからず考慮してくれるはずだった。

 それでも、結局私は飛び出してしまうのである。かつての夜のように、独りぼっちの子供のように、実のところ戻るしかないとわかっているのに、逃げ出してしまうのである。あの夜に取り残されている気がするのは気のせいなんかではなくて、あの幼さが私の中にまだ残っているから、そうだったのだと知らされているのである。この現実にあって、その場所が河川敷であったのは幸いだった。ただ少し身を置くだけの公園とは違い、ここは夕陽が綺麗で、トレーニングにもずっと使ってきた場所だから、想いに耽るにはちょうどいい場所に違いない。

 冬の風は、頭を冷やせというかのようにひどく冷たかった。

 綺麗事を宣う口を閉じるには、これでよかった。

 

 

 彼女が走り去って、あまりに遅い人の脚が疲労に止まった頃の話。

 彼女の姿は見失った。どこへ行ったかわからない。いや、わかっている。きっとこういう時河川敷に彼女は行くのだ。今までそういう事があったわけでも、彼女が川のせせらぎを愛するわけでもないけれど、これほど真剣に想い付き添ってきた彼女だからわかってしまうのだ。きっと彼女はそうするのだと、思い込みかもしれないなどと思うことなく事実のように思ってしまうのだ。

 この最悪の状況で、混乱する頭の奥底に静かな悟りがある。

 これまで積み上げてきたものに感情が乗るのを感じる。

 あぁ、そうだ。

 私は、あなたの最果てにいつだって寄り添っていたのだと感じるのだ。

 冷たい風の中、熱に白を纏う体に、心が宿った。

 

 

 河川敷の彼女の体が小さく震えた頃の話。

 もう日は沈んだ。長い長い夜の到来である。やはり、私はあの夜に残されたままでいる。

 このまま私は学校へ戻って、重い足取りでトレーナー室へ向かうだろう。そして、やがて私の行き先がわからなくなって帰ってきたトレーナーを迎えて、ごめんなさいというのだ。私はこの数年でも結局変わっていなくて、逃げて、そして、それでもどうしようもないままでいる他ないのだ。

 悲嘆に暮れて、立ちあがろうとする。そこで、走ってくる存在に気づいた。それがトレーナーだと気づくまでそう多くの時間を必要とはしなかった。

 目の前に来た。首を上げて、その息を切らした姿を見上げた。もう倒れてしまいそうで、私の姿もどれくらいちゃんと見えているのかわからなくて、でも、そこにいるのは私のトレーナーで、私をキングヘイローだと誰よりも正しく認めてくれる人だった。

 そこで、咄嗟に出た言葉があった。それは私にとって呪いの言葉。あの夜に縛りつける言葉。それなのに、何の迷いもなく言えたのだ。

 そして、そんな私を知っているかのように、彼女もまた、私の言葉に重なるようにしておなじことを言った。

 

「ごめんなさい」

 

 その一言で、救われたと思った。そして、これまでの自身を少なからず理解した。

 私がこの言葉に縛られたのは、私に何もないから、認められるだけのものがないから、私だけに非があるかのようにその言葉を言わなければならなかったと思っていたからで。だから、私は周りに私を認めさせるために頑張っていたわけで。あの人にその言葉に言わせたかったからで。私にあの人に過ちを認めさせるものが欲しかったからで。そんな風に思っていたけれど、だけど、違ったのだ。私は、私が正しいと思って欲しかったのではなかった。ただ、私を私として見て欲しかった。守られるだけの言われるままの子供ではなく、一人のウマ娘として対等に見て欲しかった。そうだ、私はごめんなさいと言わせたかったのではない。ごめんなさいと言い合えたかった。互いに過ちを認め、互いに認めるべきところを認めて、お互いに悪かったねと笑い合いたかった。

 少しの静寂の後、彼女と小さく笑い合った。立ち上がって、戻りましょうと倒れそうな彼女を支えた。勿論、これから学校へ戻って不満を言いはするだろうけど、それでも私の心は暖かなものに包まれていて、少なくとも泣きたくなるようなことはないだろうと思えた。

 あの日、一人夜道を歩く子供はもういなかった。

 今日は、度が過ぎるくらい意地っ張りで一流なんかじゃないトレーナーとただのキングヘイローが月明かりに祝福されていた。

 

 

 喝采響く春の日の話。

 その日、皆が王の名を呼んだ。

 その日、皆がかの王を祝福した。

 その日、皆が諦めなかった意味を知った。

 その日、皆が弛まぬ努力が報われる瞬間を見た。

 その日、不屈に進み続けてたどり着いた答えを見た。

 

 夜は明けていた。




だって、カレンデュラは夜には咲けないのだから。

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