学校の怪談(アニメ)のSS二つ目。
他にもストックあるので、たまに上げるかもしれません。
ノスタルジー 

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【闇色呼声・八尺様】

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

 曇天の夜、灯りの落ちた家の中。

 闇一色に染まる世界で、老婆は必死にそれを唱えていた。

 数珠を絡め、固く合わせた両手の中。

 そこで震える小さな身体。

 それは、少年と言う表現すらまだ早いと思われる男子。彼は老婆の胸にしがみつき、声もなく震えている。それを強くかき抱き、老婆はひたすら経を唱える。幾ばくの、救いにもならない事を知りながら。

 遠くで、天が鳴いた。

 まるで、怯え震える彼女らをあざ笑うかの様に。

 と。

「来たぞー!!」

 外で、叫ぶ声が聞こえた。家の周囲を固めていた、村の男達だろう。にわかに騒がしくなる、外界。

「止めろ!!」

「逃げるな!!」

「うわぁああああっ!!」

 響き聞こえる、喚き声。

 それを耳にしながら、老婆は汗に湿る腕に力を込める。

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

 最早、何度目かも知れぬ言を紡いだその時、

「ぎゃあああああああっ!!」

 誰かの絶叫が、闇を裂いた。

「……」

 続く声は無い。

 先の如くの沈黙が、またゆっくりと帳を下ろす。けれど、老婆の声は途絶えない。

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……」

 唱え続ける。

 ひたすらに。

 外で何が起きたのか。

 己の行為が、意味のある事なのか。

 その全てを悟りつつも。

 何かが、聞こえた。

 嗤う曇天の下。

 響く経文の消えゆく先。

 漆黒の闇の中から、其は聞こえた。

 ぽ。

 ぽぽ。

 ゆっくりと。

 滲み出す様に。

 形を成す。

 ぽぽ。ぽぽぽ。

 ぽ。

 腕の中の小さな身体が竦み上がるのを感じながら、老婆は必死に声を張り上げる。

「南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……南無阿弥陀仏……!!」

 けれど、『ソレ』は消えない。

 ぽぽ。

 ぽぽぽ。

 ゆっくりと。

 確実に。

 ぽぽぽ。ぽぽ。ぽぽぽ。

 声が、途絶えた。

 気配は、消えない。

 一筋の稲光が、闇を裂いた。

 瞬間、玄関の窓越し。

 浮かび上がる影絵。

 幼子が、悲鳴を上げる。

 酷く非力な音を立て、玄関の両脇にあった盛り塩が弾け飛ぶ。

 窓に、一筋の亀裂。

 ぽぽ。ぽぽぽぽぽ。

 汚泥の底から浮き上がる、声が一つ。

 

 ◆

 

 夕刻。

 逢魔刻。

 雲一つなく晴れ渡った空は、茜一色。

 その様は極彩を通り越し、一種禍々しささえ感じさせる。

 そんな朱色の空の下を、長い影を引きずりながら歩く少年一人。

「あ~あ、今日も出来なかったなぁ……」

 そんな事を呟きながら、溜息をつく。

 少年の名前は、宮ノ下敬一郎。

 トボトボと歩くその様は、酷くしょげていて。

 理由は簡単。

 本日、体育の授業で跳び箱の三段がクリア出来なかったのだ。

 件の授業が始まって今日で三時間目。今度こそはと意気込んで臨んだのだが、結果はその通り。

 ちなみに、クラスでクリア出来ていないのは彼を含めて三人だけだったりする。

 しょげたくもなるものかもしれない。

「どうして上手く出来ないのかなぁ……」

 ブツブツと呟きながら、トボトボと歩く。ろくに前も見ずに歩を進めていた、その時。

 ぽ。

 それが、聞こえた。

「……え?」

 ぽぽ。ぽぽぽぽぽ。

 思わず顔を上げる。

 ぽぽっぽっ。ぽぽぽ。

 耳にまとわりつく様に響く、奇妙な『音』。出所を探して、周囲を見回す。

「あれ……?」

 不思議なモノが、目に入った。

 歩いていた歩道の脇には、一軒の家屋が建っている。周りは背の高い垣根で囲まれ、向こうを見通す事は出来ない。

 その垣根の上を、スルスルと動く何か。

 ぽぽぽっ。ぽぽ。

 音は、ソレから。

 目を凝らす。

 白い、つば広帽。

 ソレが、動いている。

 帽子である以上、下には当然ソレを被る存在。

 然り。

 純白の下に、黒く流れる長い髪。中から覗く、白い顔。

 帽子を目深に被っているせいで、表情は見えない。

 けれど、所作や気配が女性である事を如実に表している。

 ぽぽぽっ。ぽぽぽっ。ぽぽっ。

 奇妙な音は、彼女が発しているらしい。

 垣根の向こうを、スルスルと動いていく女性の頭部。

 合わせて、件の音も流れ動いていく。

(歌でも、歌ってるのかな?)

 ボンヤリとしながら、敬一郎はその様を見つめていた。

 と。

(……あれ?)

 気づく。

 おかしい。

 違和感。

 (……?……?)

 心に引っかかるささくれを探って、視線を巡らす。

 やがて、ソレは確かな形を。

 (あ、あれ?)

 女性と敬一郎を隔てる垣根は、高い。

 軽く、2メートル近くはある。

 敬一郎は、それを見上げる様にして上に突き出している女性の頭部を見ていた。

 それから考えると、彼女の背丈は有に2メートルを超えている事になる。

(ええ!?)

 思わず上げかけた声が、喉で詰まる。

 凝視した瞬間、もう一つの違和感。

 彼女の纏う気配。

 異常、だった。

 滲み出、浮き溢れる様な『それ』。

 まるで、女性の周囲だけが陽炎の様に揺らいで感じられる。

 湧き上がる様に、汗が浮く。

 冷たい雫が頬を滑るのを感じた、その時。

 女性の動きが止まった。

 進むのを止め、佇む。

 敬一郎も、立ち竦んだままそれを見つめる。

 キシ。

 唐突に、女性の首が揺れた。

 キシ。キシ。キシ。

 傾ぐ首。

 振り返ろうとしている。

 察した途端、敬一郎は脱兎の様に駆け出していた。

 振り向きもせず、必死で駆ける。

 背後に感じる、視線。

 見ている。『アレ』が。

 走る。ただ、走る。

 満ちる朱日の中、地に落とされた給食袋だけが寂しげにユロユロと影を揺らしていた。

 

 ◆

 

 夕暮れの中を、敬一郎は必死で走った。

 止まる事は出来ない。

 振り返る事など、思えもしない。

 感じる。

 気配を。

 背後に。

 背中に。

 べっとりと張り付く、汚泥の様に。

 振り払う様に。

 走る。

 ひたすらに。

 ひたすらに。

 と。

「うわぁ!!」

「キャッ!?」

 前も見ずに走っていたので、当然の如く人にぶつかった。

 尻餅をつく。

「わ、わ……」

 止まってしまった事に、恐慌を覚える。

 本来なら、相手に謝るべき。しかし、そんな余裕はない。慌てて立ち上がり、もう一度走り出そうとして。

「あら、敬一郎君?」

 かけられたのは、ひどく聴き慣れた声。

「え?」

 初めて、ぶつかった相手の顔を見る。見上げた視線の上で、藤色の髪が揺れた。

「桃子、お姉ちゃん……」

 呆然と呟く彼に向かって、恋ヶ窪桃子は手を差し出す。

 「大丈夫ですか?」

 「う、うん……」

 頷いて、手を取る。少しひんやりとした体温が、火照った身体に心地よく染みた。

「どうしたんですか? 酷く慌ててた様ですけど?」

「え、あ……そ、そうだ!!」

 言われて、思わず後ろを振り返る。

 けれど。

「……誰も、いませんよ?」

 不思議そうな、桃子の言葉。

 誰もいない。ただ、黄昏の風に木の葉が舞うばかり。

「何か、あったんですか?」

「う、うん!! あのね……」

 口に出そうとした答えが止まる。

 何と言えば良いのだろう。

 背の高い女の人に会って、怖かったら逃げてきた?

 背の高い人間など、いくらでもいるだろう。

 それをさもお化けにでも会ったかの様に騒ぎ立てるのは、何か人としてはばかられる様な気がした。

 何より、二年生にもなって意気地ないと思われるのも嫌だった。

「な、何でもない……」

 出かけた言葉を呑み込んで、敬一郎は桃子に背を向ける。

「ばいばい……」

 そう言って、再び駆け出す。

「あ……」

 遠ざかる小さな背中。かけようとした声が、ピタリと止まる。

「……」

 桃子の目が、敬一郎が駆けてきた方向に向けられる。

 件の道は降りてきた夕闇に染められ、もう見通す事は難しい。

 そよりと風が流れ来る。夜に冷えた空気が、前髪を揺らす。

 細められた眼差しに灯る、不思議な光。

 「……いけない……」

 引き結ばれた唇が、小さく呟いた。

 

 ◆

 

 家に帰った後も、敬一郎の気分は晴れる事がなかった。

「どうしたの? もう食べないの?」

 卓上の味噌汁がすっかり冷めているのを見て、宮ノ下さつきは小首を傾げながら敬一郎に訪ねた。

「う……うん……」

「何か、元気ないわね。風邪でもひいた?」

 顔色の冴えない弟に微かな不安を感じ、その額に手を当てる。

「熱はないみたいだけど……」

「ね……ねえ、お姉ちゃん……」

「ん、何?」

「パパは、どうしたの……?」

 不安気に向ける視線の先には、座る者のいない椅子が一脚。

「ああ。パパなら急な不幸があって、お手伝いに言ってる。今夜は帰れないから、戸締りと火の始末に気をつけるようにって」

「ええ!?」

 あからさまに動揺する弟に、驚くさつき。

「ど、どうしたのよ?」

「あ……う、うん……。何でも、ない……」

 言って、食卓を離れる。

「ちょっと、本当に大丈夫?」

「うん……。ごちそうさま……」

 ダイニングを出て行く背中を見送りながら、さつきは腰に手を当て息をつく。

「何か、あったのかしら……?」

 と、不意に響く着信音。見れば、テーブルに置かれていた携帯が鳴っている。表示された名前を見ると。

「桃子ちゃん?」

 ボタンを押し、電話に出る。

「もしもし?」

(さつきちゃん?)

「うん。どうしたの?」

(敬一郎君は、どうしてます?)

「敬一郎? さっき部屋に行ったみたいだけど……」

(そう。それなら、今すぐ家中の鍵をかけて)

「え?」

(そして、敬一郎君を連れて仏壇のある部屋に移動して。部屋の四隅に盛り塩をして、一晩そこに籠るの。朝まで、誰が来ても絶対に戸を開けては駄目)

「何!? 何言ってるの!? 桃子ちゃん!!」

(時間が無いわ。急いで。詳しい事は部屋に籠ってから、敬一郎君と、そしてレオさんに訊いてください)

「レオ君に!? 何を訊けば良いの!?」

(『八尺様』)

「桃子ちゃん!? 桃子ちゃん!?」

 慌てて問いかけるが、もう切れた電話が沈黙するだけ。

 さつきは諦めると、卓上にあった塩の入れ物を手に取り部屋へと向かう。

 桃子の話は唐突で、訳の分からない事ばかり。けれど、その声音は真剣で確かな説得力があった。何より、さつきは桃子が意味のない悪ふざけなどしない事を知っている。

 彼女がそう言うのなら、何かがあるのだ。

「敬一郎!!」

 さつきは叫び、二階の寝室へと駆け上がって行った。

 

 ◆

 

 その頃、リビングのソファーの上では一匹の黒猫が食後の惰眠を貪っていた。

「うるせーな。何騒いでいやがるんだ?」

 突然響いてきた喧騒に、黒猫――天邪鬼は辟易した様に身を起こす。

 途端、その毛が一斉に逆立った。

「何!?」

 形相を一瞬で悪鬼のそれに変えると、出窓に飛び上がり外を見やる。

 夜闇の降りた外は静まり返り、見えるのは外灯の灯りだけ。

 しかし、その奥に天邪鬼は確かに感じ取る。

「こいつは……!!」

 小さく舌打ちをすると、黒猫の姿は旋の如く消え去った。

 

 ◆

 

 金属の軋る音を立てて、玄関の鍵が閉まる。

「戸締りは良し。敬一郎!!」

 家中の鍵を閉めたさつきは、後ろで竦んでいた敬一郎に向き直る。

「お、お姉ちゃん……」

「おいで!!」

 震える弟の手を取り、仏間へと向かう。

「入って!」

「う、うん」

 敬一郎が入った事を確認すると、ピシャリと戸を閉める。

 部屋の四隅には小皿が置かれ、すでに盛り塩がしてあった。

 中心に座すると、敬一郎に問う。

「今日、何があったの? 教えて」

「で、でも……」

「何でも良いから!!」

「う、うん……」

 姉の剣幕に押され、ポツリポツリと今日あった事を話す。聞き終えたさつきは、もう一度確認する。

「確かなのね?」

「うん……」

「大きな女の人……。八尺様……」

 携帯を手に取り、電話をかける。

(はい、レオです)

 つながると同時に、さつきは口早に切り出した。

「もしもし、レオ君!?」

(ああ、さつきさん。どうしました?)

「八尺様って、知ってる!?」

(え? はっしゃくさまって、あの八尺様ですか? ネットで流れてる都市伝説の……)

「よく分かんないけど、多分それ!! 教えて!! どんな奴かとか、対処法とか!!」

(でも、何で急に・・・)

「敬一郎が、見ちゃったかもしれないの!!」

(ええ!?)

 聞いたレオの声色が、明らかに変わる。それが、尋常ならざる事態である事を如実に伝えた。

(ちょ、ちょっと待ってください!!)

 電話の向こうで、紙をめくる音がする。恐らく、資料を漁っているのだろう。

 ジリジリしながら、待つ。

(あ、ありました!! 良いですか!?)

(うん!)

 曰く、

 

 『八尺様』

 とある地方の村に封印されていた、女の姿をした怪異。

 男のような声で、『ぽぽぽ』という特徴のある笑い方をする。

 姿は見る者によって異なり、若い女の姿をしている事もあれば、中年女性や老婆の姿をしている事もある。

 ただし、八尺(約2m40cm)はある身長と頭に帽子など何かしらを乗せている点はどんな姿の時も共通している。

 見初めた者に付き纏い、数日の内に取り殺してしまう。

 成人前の男性、特に子供が狙われやすい。

 出現頻度は多くはなく、被害は数年から十数年に一度程度とされる。

 

 取り殺される。

 身体中の血が引く。

 戦慄く声で、問う。

「ど、どうすればいいの!? 対処法とか、霊眠方法とか!!」

(ま、待ってください!! 落ち着いて!!)

 レオの方も、突然の事態に慌てているらしい。紙をめくる音と共に、(ああ、これじゃない!!)とか(行き過ぎた!!)とか聞こえる。

 そして。

(あ、ありました!! 良いですか!?)

 息を飲んで、耳を澄ます。

(どうやら、盛り塩と御札で護られた空間には入れないみたいです!! それらで結界を張った部屋に籠って、朝まで外に出ないでください!!)

 御札。

 急いで仏壇に駆け寄る。

 奥を探ると、一枚の御札が見つかった。鎮霊の為に置いていたソレを握り締め、電話の向こうに呼びかける。

「他には!? 霊眠方法とかは無いの!?」

(少なくとも、僕の知る限りではありません!! 元々は4体のお地蔵様の結界で発祥地の村に封印されていたみたいですが、肝心のお地蔵様が誰かに壊されて……)

「そんな……」

(とにかく、今夜は結界の中から絶対に出ないでください!! そうすれば、少なくとも一晩はしのげます!! 近しい人の声を真似てくる事もあるそうなので、くれぐれも騙されないで!!)

「わ、分かった!!」

(頑張ってください!! 夜が明けたら、僕もハジメや桃子さんと一緒に行きますから!! 皆で考えれば、何か方法が見つかるかもしれません!!)

「う、うん!!」

(だから……)

 不意に、通話が切れた。

「レオ君? レオ君ってば!!」

 何度呼びかけても、もう答えは返ってこない。

「お姉ちゃん……」

 かけられた声に、我に返る。見れば、今にも泣き出しそうな顔で敬一郎がこちらを見上げていた。

「……大丈夫……」

 身を屈め、抱き締める。

「わたしが一緒にいるから……。絶対に、大丈夫……」

 腕の中で、ギュッと抱きしめ返してくる敬一郎。答える様に、腕にもう一度力を込める。

(ママ……敬一郎を守って……)

 手の中の御札を見つめ、さつきは亡き母へと祈った。

 

 ◆

 

 その頃、天邪鬼の姿は宮ノ下家の門前にあった。

 耳を澄まし。鼻をひくつかせ。蒼と金の双眼で闇の奥を見つめる。

 黒い身体の毛は逆立ち、緊張に張り詰めている。

「この気配……。また、厄介な野郎が来たもんだぜ……」

 膨らませた尻尾を揺らし、ギチチと牙を軋ませる。

「この家の連中ときたら、事ある毎に面倒を呼び寄せやがる。これも、『テメェ』の血筋の成せる業かねぇ?」

「……あの子達に、罪はないわ。罰せられるべきは、災厄を振りまく妖(もの)達の方でしょう……?」

 放られた声に、言葉が返る。

 振り返りもせず、天邪鬼は言う。

「久々のお出ましだな。流石に焦ったか?」

「そうね。あまり、歓迎出来る事ではないわ」

 暗がりの中から現れたのは、一人の少女。

 知る者が見たなら、間違いなくその名を紡ぐだろう。

 けれど、今それを成す者はいない。

 ただ吹き渡る風だけが、藤色の髪を揺らす。

 その目に不可思議な光を灯らせながら、少女は天邪鬼の横に立つ。

「易い相手じゃねえ。足手まといにばかり、なんじゃねえぞ」

「貴方の方こそね。天邪鬼さん」

 目を合わす事なく、交わされる会話。

 天邪鬼がフゥウ、と小さく唸る。

 それまで闇を照らしていた外灯が、何の前触れもなく消えた。

 二人の眼差しが、鋭さを増す。

 やがて、夜の奥から聞こえてくる。

 ……ぽ、ぽぽ。ぽぽっぽ……。

 静寂を微かに揺らす、声。

「来やがったぜ」

「ええ……」

 夜の向こうから、流れてくる冷気。

 ぽぽ。ぽぽぽぽぽ。

 響く、声。

 闇から滲み出す様に浮かび上がるは、幽鬼の如き白い姿。

 鋭い声を上げ、天邪鬼が身構える。

「遠路はるばる、ご苦労様。でも……」

 淡い光を灯す眼差しが、伸び上がる白い姿を正面から見据える。

「悪いわね。この子達は駄目なの。帰ってくださらない……?」

 そう言って、恋ヶ窪桃子の姿をした少女は怪異の前に立ちはだかる。

 ぽぽぽ。ぽぽ、ぽ。

 汚泥から浮かび上がる、泡ぶくの様な声。

 満ちる夜闇が、怯える様に震えた。

 

 ◆

 

 外から聞こえる、すすり泣きの様な音。

 風が出てきたのだろうか。

 家が揺らぐ様な錯覚。

 気温が、肌に感じる程に冷えてくる。

 家が上げる軋みの中、さつきと敬一郎はしっかりと抱き合っていた。

 漂う異様な気配。

 敬一郎が、震える声で言う。

「お姉ちゃん……怖いよぉ……」

「大丈夫、わたしとママがついてる……」

 勇気づけようと答えた時。

「きゃあっ!?」

「うわぁあああっ!?」

 唐突に、家中の電気が落ちた。

 全てが、闇に落ちる。

「わぁあああ!! わぁああ!!」

「落ち着いて!! 落ち着いて、敬一郎!!」

 パニックに陥る敬一郎を、必死に抱き締める。

「大丈夫……大丈夫だから……」

 満ちゆく闇。

 冷気。

 そして、妖気。

 必死に気を逸らそうと、抱き締める腕に力を込める。

「大丈夫……大丈夫……」

 自分に言い聞かせる様に、繰り返す。

 互いの温もりだけが、ただ一つの拠り所。

 ゆっくりと流れる、無限とも思える時。

 このまま、気が触れるのではないか。

 そう思え始めたその時。

 コツ。

 静寂の中、響く音。

 二人の身体が、同時に跳ねる。

 一泊の間。

 そして。

 コツ。コツ。

 音は、カーテンの向こう。窓から。

 コツコツ。コツコツ。

 誰かが、窓を叩いている。

「だ、誰……?」

 引きつる喉を絞り、問いかける。

 答えはない。

 また、静寂。

 それに耐え切れず、もう一度問いかけようと。

「敬一郎」

 声が、聞こえた。

 間違え様もない。

 父、礼一郎の声。

「どうしたんだい? ここを開けておくれ。中に、入れておくれ」

「パ……」

 思わず、腰が浮く。

 けれど。

「パパだ!!」

 喜びに満ちた、敬一郎の声。

 それが、逆にさつきの頭に冷水を挿す。

 脳裏に甦る、レオの言葉。

(近しい人の声を真似てくる事もあるそうなので、くれぐれも騙されないで)

 そう。

 あれは。

「ダメ!!」

 窓へ駆け出そうとする敬一郎を、背後から抱き止める。

「お姉ちゃん!?」

「違う!! 『あれ』はパパじゃない!!」

「どうして!? パパの声だよ!? パパが、帰ってきてくれたんだ!!」

「違うわ!! 思い出して!! 『ババサレ』の時を!!」

「え……?」

 敬一郎の顔が、強張る。

「あれは……『あいつ』は、パパじゃない!! パパは今夜、帰ってこない!!」

「あ……ああ……」

 敬一郎の身体から力が抜ける。

 へたへたと崩れる身体を受け止めながら、カーテンの向こうを睨みつける。

「敬一郎。敬一郎。敬一郎」

 声はまだ、続いている。

 さつきは何も言わない。

 敬一郎も、もう駆け寄ろうとはしない。

「入れておくれ。開けておくれ」

 続く声。

 けれど、それに答える者はもういない。

「……」

 声が、止む。

 コンコン。コンコン。

 また、窓を叩く音。

 コンコン。コンコン。

 いつしか、また夜風。

 すすり泣く風の中、窓はいつまでも鳴り続けた。

 いつまでも。

 いつまでも。

 鳴り続けた。

 

 ◆

 

「!?」

 唐突に響いた樂の音が、さつきの意識を呼び覚ました。

 慌てて起き上がると、暗かった筈の部屋が薄明かりに包まれていた。

 カーテンの隙間から差し込む、陽の光。小鳥達のさえずる声も聞こえる。

 夜が、明けていた。

 傍らを見れば、横になった敬一郎が静かに寝息を立てている。

 いつの間にか、眠っていたらしい。

 呆ける頭。

 昨夜の事が、泡沫の夢の様に思える。

 音楽は、まだ続いている。

 携帯が鳴っているのだと理解するのに、少しの間を要した。

 我に返り、床に転がっていた携帯を手に取る。

 通話ボタンを押し、耳に当てる。

「もしもし?」

(……さつきちゃん? 無事ですか……?)

「桃子ちゃん!? 桃子ちゃんね!?」

 聞こえてきた声に、救いを求める様に貪りつく。

「桃子ちゃん、夜が明けたわ!! 次は!? これから、どうすれば良いの!?」

(落ち着いて……さつきちゃん……。貴女は、そして敬一郎君は無事……?)

「うん、大丈夫!! 何ともない!!」

(そう……良かった……)

 安堵する声に、妙に覇気がない事に気付く。

「どうしたの? 何か、酷く疲れてるみたい……」

 電話の向こうで、微笑む気配。

(大丈夫……何でもありません。それよりも、とりあえずはそのまま部屋の中で待っていてください。すぐに、レオ君達と向かいますから……。特に敬一郎君からは、御札を離さない様にして……。分かりましたか……?)

「う、うん」

(良い子ね……)

 切れる通話。

 心細さを振り払う様に、手にした御札に目をやる。

「!!」

 御札の上部が、焦げた様に黒くなっていた。

 周囲に目をやる。

 部屋の四隅に置いた盛り塩。それらの上部も、滲んだ様に黒くなっていた。

「夢じゃ、ない……」

 今更の様に、さつきの背筋を怖気が走った。

 

 ◆

 

 携帯の通話を切ると、『彼女』は大きく息をついた。

「……あいつら、無事か……?」

「ええ……」

 かけられた声に、そう言って頷く。

「そうか。なら、テメェはどうだ?」

「……あら、何の事かしら……?」

「とぼけてんじゃねえよ。テメェ、『身体』を庇って霊障を全部自分で受けてたじゃねえか。いくら霊魂だけとは言え、それなりにこたえてるだろうが。」

 その言葉に、ふふと笑う。

「……驚いたわね。貴方が、私を心配してくれるなんて……」

 皮肉を聞いて、天邪鬼はチッと舌打ちをする。

「んな訳ねえだろ。テメェみたいな死に損ないでも、貴重な戦力だからな。欠けられると困るんだよ。もっとも……」

 蒼と金の瞳が細まり、『彼女』を見る。

 汚れた衣服や乱れた髪。そこからは、疲労の色が濃く見て取れる。

「その様じゃ、あまり当てにゃ出来ねぇがな」

「人の事、言えるのかしら……?」

 不可思議な光をたたえる眼差しに見つめられ、天邪鬼はまた舌打ちをする。

 確かに、彼もボロボロで満身創痍と言った体。

「……伊達に年経てる訳じゃねぇな。厄介な奴だぜ……」

「そうね。結局、いいようにやられてしまったけど……」

 言いながら、ゆっくりと身を起こす。

「もう、好きにさせる訳にはいかない……」

 天邪鬼が問う。

「策はあるのか? ただ闇雲に向かっていった所で、昨夜の二の舞だぜ?」

「……天邪鬼さん……」

「ん?」

 目を向けると、彼女が見ていた。

 淡く輝く瞳が、彼を映す。

「まだ、動けて?」

 ふんと鼻を鳴らす。

「誰に向かって言ってやがる。この程度の傷、屁でもねぇ」

「それは重畳……」

「あん?」

「お願いが、あるの……」

 そう言って、『彼女』はまた天邪鬼の瞳を見つめた。

 

 ◆

 

 誰かが、玄関の戸を激しく叩く。それを聞いた敬一郎が、ビクリと竦み上がった。今にも泣き出しそうな彼を仏壇の部屋に残し、さつきは玄関に向かった。

 喚くドアに向かって、声をかける。

「誰!?」

「俺だよ!! ハジメだ!! レオと桃子さんも一緒だ!!」

 聞き慣れたその声に、一瞬気が緩む。ドアの鍵に手を伸ばしかけ、しかしそこで思い止まる。

 (近しい人の声を真似てくる事もある)

 脳裏を過る、レオの言葉。たじろぐ様にドアから下がる。

「どうしたんだよ!? 早く開けてくれ!! それとも、何かあったのか!?」

 喚き続けるドア。さつきはゴクリと唾を飲み込むと、意を決した様に声をかける。

「あなた、本当にハジメ!?」

「ええ!? 何言ってんだよ!?」

 戸惑った様に返ってくる声。さつきは続ける。

「本当にハジメなら、証拠を見せて!!」

「しょ、証拠って、どうすればいいんだよ!?」

「え......」

 言われて、今度はさつきが悩む。ハジメがハジメたる証拠? はて、それは何だろう? 

 悩む。悩む。悩む。

 ハッ。

 降りる天啓。しかし。しかし。しかし、それは――。

「お~い。さつき~。どうすればいいんだよ~!!」

 外では相変わらず、『自称』青山ハジメが喚いている。実際、あまり時間をかけている余裕もない。

 仕方がない。

 仕方がないのだ。

 苦渋の思いを飲み込み、さつきは意を決する。

「じゃあ、訊くわよ!!」

「お、おう!!」

 半分やけくそで、ドアの向こうに向かって叫ぶ言葉は。

「昨日のわたしのパンツの柄は!?」

「.........」

「.........」

 沈黙。どこまでも重い沈黙。と言うか、耐え難い。答えを待つ間、さつきの顔には見る見る血が上がっていく。まさに、公開処刑。さらに、待つ事しばし。たいがい、限界かと思われたその時、

「む......無地に、ピンクの水玉......。リボン付き......」

 無言で鍵を外し、ドアを開ける。

「さつき、大丈b……」

 飛び込んできたハジメの顔面をぶち抜く、右ストレート。

 無言で崩れ落ちるハジメ。

「......馬鹿!!」

 鮮血に塗れた拳をギリリと握り締め、さつきは憤怒の表情でそう呟いた。

 

 ◆

 

「何すんだよ!! 死ぬかと思ったじゃねぇか!!」

「うるさいわね! このスケベ!!」

「スケベってなぁ!! お前が言えって言ったから......」

「うるさい!! スケベスケベスケベ!!」

 打ち抜かれた顔を押さえながら、涙目で喚くハジメ。真っ赤になった鼻を前に、これまた真っ赤な顔のさつきが喚く。

「あのなぁ……!!」

 けれど、言い合いもそこまで。

 喚いていたハジメの声が、不意に詰まる。

 張り詰めていた糸が切れた様に、さつきはハジメに抱きついていた。

「え!? あ!? ちょ、おm!!」

「来てくれて、ありがとう……」

 感謝の言葉と共に、抱き締める腕に力がこもる。その身体の温かさと柔らかさに、別の意味で顔が熱くなる。

 しばしの逡巡の後、おずおずとその背を抱き締めようとして。

「何やってるんですか。この非常時に」

 飛んできた声に、ハッと我に返る。

 慌てて離れる身体。顔は、お互い先にも増して真っ赤である。

「全く……。バカップルも時と場所を考えてやってください!!」

 ぶつくさ言いながら入ってくるのは、自称『校内一の心霊研究家』。柿ノ木レオ。その背には、大きく膨らんだリュックサック。

「さつきさん、敬一郎君は?」

 後ろから顔を覗かせる、藤色の髪の少女。大人びた顔に、微かな安堵を得ながらさつきは答える。

「仏壇の部屋にいる。結界の外には出さない方がいいと思って……」

「重畳ね」

 そういって桃子は、優しげな顔で微笑んだ。

 

 ◆

 

「桃子お姉ちゃん!!」

「敬一郎君、よく頑張ったわね」

 部屋に入ると同時に、飛びついてきた敬一郎。受け止めながら、桃子は彼の頭を優しく撫でる。

「……これは、[#ruby=本物_マジ#]ですね……」

 さつきから渡された御札。上部が焦げた様に黒くなったそれを見て、レオはその顔を青くする。

「ネットの情報の通りです。間違いなく、『八尺様』と見ていいと思います……」

「……だろうな」

 レオの言葉に被せる様に、遅れて入ってきたハジメが言った。

 その顔もまた、死人の様に青い。

「何してたんですか? ハジメ」

「家の周り、調べてきた」

 そう言うと、ハジメは持っていたスマートフォンの画面を晒す。

「何?」

「見てみろ」

「?」

 画面を覗き込んだ皆が、思わず息を呑む。

 カメラ機能で写したのだろう。画面に写っていたのは、ガラス窓。今、皆がいる部屋の窓を、外から写したもの。

 さつき達を震撼たらしめたのは。

 手。

 窓のガラスには、無数の手形がベタベタと残されていた。

「な……何よ……!? これ……!!」

「八尺様の手……と言う事でしょうね……」

 戦慄くさつきの横で、眼鏡を直しながらレオが呟く。

「ここだけじゃねぇ……。家中に、この手形がついてやがった……」

 忌まわしいものを捨てる様に画像を消去しながら、ハジメが言った。

 そう。もはや間違いや気の迷いではない。

 来ていたのだ。ここに。この家に。八尺と呼ばれる、その怪異が。

 分かってはいた。

 けれど、心の何処かで思っていた。

 夢であって欲しいと。

 目覚めと共に、朝霧の中に消え去る幻であって欲しいと。

 けれど、現実は何処までも冷酷。

 改めて背筋を這い登る悪寒に、さつきはヘナヘナと腰を落とした。

 

 ◆

 

「それじゃあ、その大きな女の人は、『ぽぽぽ......』と言いながら歩いていたんですね?」

 「うん......」

 頷く敬一郎。レオは、質問を続ける。

「頭には、白いつば広帽を被っていたと?」

 再び頷く敬一郎。

 レオは大きく息をつくと、場にいる皆に向かって言った。

「確かに、敬一郎君は『八尺様』に魅入られたと見ていいようです」

 敬一郎が、小さく声を上げる。さつきもまた、苦々しげに眉をひそめた。

「どうして、敬一郎が......」

「理由なんて、ないわ」

 怯える敬一郎を抱いた桃子が、妙に静かな声で言った。

「あれは、行逢神(ゆきあいがみ)の一種。明確な目的も、確かな意識も持っていない。ただ、運のない者を流れのままに獲っていくだけ。小さな災害の様なものよ」

「災害、ですか。言い得て妙、ですね」

 神妙な顔で頷くレオ。

「そんな事、したり顔で言ってる場合じゃねぇだろ」

 話を聞いていたハジメが、イラついた声で口を挟む。

「神さんだか災害だか知らねーけどよ、そんな理不尽なもんに敬一郎を持って行かせていいのかよ? こうしている間にも、そいつは近くに来てるかも知れねーんだぞ?」

 さつきも口を合わせて叫ぶ。

「そうよ! 何とかして敬一郎を守らないと!!」

「分かってますよ。そう興奮しないでください」

「そう。私達が狼狽したところで、敬一郎君を怖がらせるだけよ」

「う......」

「そ、それはそうだけど......」

 桃子に静かな口調でたしなめられ、さつきもハジメも口を噤む。そんな二人に微笑みながら頷くと、桃子はレオに向かって問う。

「それで、レオさん。頼んでいたものは出来まして?」

「ええ。でも、こんなので役に立ちますかね?」

 言いながらレオはリュックを開け、逆さに返す。途端。

 大量の紙切れが、リュックの中から溢れ出した。

「何?」

 ヒラリと飛んできた一枚を、さつきが拾う。裏を返してみて、目を丸くした。

「これ、御札?」

 長方形の紙型。それに書き込まれた、独特な模様と文字。間違いなく、御札である。何と言うか、あからさまに安っぽい。紙はホームセンターで500枚一束うん百円で売っているA4サイズのコピー用紙を切ったもの。書いてある文字は、プリンターで印刷したもの。有り難みがない事、この上もない。

「ネットで見つけた退魔札をパソコンに取り込んで、印刷したんです。全部で三千枚程あります」

「三千……。でもよ、こんなんで効果あんのかよ?」

 つまんだ一枚をピラピラと揺らしながら、ハジメが訊く。問われたレオも、半信半疑顔で頭をかく。

「昨夜も言った様に、八尺様に確実な退治方法はないんです。ただ、御札や盛り塩、お地蔵様と言ったものに動きを制限される所を見ると、神道や仏教に関連するものを忌避する傾向が有る様です」

 その言葉に、さつきがハッとした様に声を上げる。

「そうか! なら、その手のものを沢山用意すれば……」

「ええ。ひょっとしたら、追い払う事が出来るかもしれません」

「でもよ……」

 ピラピラの御札を見ながら、ハジメが言う。

「いくら何でも、これはねえだろ」

「いやぁ。僕も、昨夜桃子さんに頼まれて作ってきたんですけど......どんなモンでしょう?」

「大丈夫よ」

 頭を捻る皆に向かって、桃子が説く。

「御札に必要なのは、紙の質や書き手ではないわ。書かれた文字が持つ、言霊よ」

「言霊?」

「言葉自体に宿るとされている、霊的な力の事ですよ。日本では昔から、言葉そのものが現実に対して何かの影響を与えるとされているんです。良い言葉を形にすると、良い事が、不吉な言葉を形にすると、悪い事が起こると言った具合に」

 ウンチクを垂れるレオ。

「この札は、書かれた文字自体が退魔の力を持っているわ。『あれ』相手では力不足は否めないけれど、足止めくらいにはなる筈」

 そう言うと、桃子は膝から敬一郎を下ろす。

「敬一郎君、これを」

 敬一郎に新しい札を渡すと、今度はハジメとさつきに向かって言う。

「さあ。手分けして札を家中に貼りましょう。時間は待ってくれないわ。夜が来るまでに、守りを固めなければ」

「うん」

「うぃっす」

 大量の札を抱えて立ち上がるハジメとさつき。共に部屋を出て行く桃子。出際に、敬一郎を振り返り優しく微笑む。

「大丈夫。必ず、守るから」

 その微笑みに、懐かしいものを感じたのは気のせいだろうか。

 出ていくさつき達を見送ると、レオは敬一郎に向き直る。

「さあ、次は敬一郎君の番です」

「え?」

 ポカンとする敬一郎に近づくレオ。

「守りは、本丸から固めなければなりません」

 言いながら、ジリジリと迫る。

「さっきの桃子さんの話を聞いて、思いついた事があります」

 眼鏡が窓から差し込む光を反射し、ギラリと光る。

「れ、レオ兄ちゃん……怖い……」

「大丈夫……何も、恐れる事はありません……」

 とは言いつつも、両手をワキワキしながら薄笑みを浮かべる様は別な意味で非常に怖い。正直、こっちも十分に怪異。

 怯える敬一郎。そんな彼の上に落ちる、昏い影。影の主は言う。地の底から湧き上がる様な声で。

「さあ。敬一郎君」

「な……何……?」

 彼は紡ぐ。世にもおぞましい、その言葉を。

「脱いでください……」

「え……?」

「服を全部、脱いでください……」

「え、えぇ―――――!?」

 敬一郎の素っ頓狂な声が、家中に響き渡った。

 

 ◆

 

 ○○県××市△△村。午前1時45分。

 村落から外れた山中。ポツンと建つ、寺院が一棟。あまりにも古びれ、人が住んでいるのかすらも知れない風体。けれど、夜闇に沈む山景の中に仄かに灯る灯りは、其れがまだ確かに息付いている事を示していた。

 眠る木々を揺らす風に混じり、声が聞こえる。

 現世の言葉ではない。

 それは、今生の終わりとその先の導を紡ぐ呪言。

 読経。

 時に救いを。時に忌避を。

 誰に届けるかも、分からない。ただただ、夜風の中に其が唄う。

 

「……はて……」

 滔々と流れていた言が、ピタリと止む。

 数本の蝋燭が灯すだけの、薄暗い境内。焔の中に、威容を持って浮かぶ不動明王。面して唱えていた老僧が、合わせていた手を下ろしながら問う。

「この様な荒れ寺に御客人とは珍しい……。それも、この様な刻限に。何方かな……?」

「……アイツの読み通りだな……」

 答えではない声と共に、暗がりから現れた姿。見止めた老僧が、目を細める。

 現れたのは、人ではなかった。夜色の毛皮と金と蒼の双眼に彩った、一匹の猫。

 人に非ざる存在が、人の言を繰って歩く。

「……探したぜ。『ヤツ』が封じられていた村なら、必ずソレをやったヤツの血族がいる筈だってな……。まあ、イチバチだったけどな……」

「……面妖な……」

 近寄る黒猫を険しい眼差しで見つめながら、数珠を持った手を構える。

「よしな」

 予測していた黒猫が、先んじて止める。

「悪事は企んじゃいねぇ。頼みたい事があるだけだ」

「頼み事……?」

「ああ……」

 蝋燭の灯りが落ちる場所に、チョコンと座り込む黒猫。見上げる二色の目を、老僧はジッと見つめる。

「……化生の身でありながら、仏に何を願うと?」

「仏になんざ、用はねぇ。オレが話してんのは、テメェだ。爺」

 老僧。無言で向き直る。

 其れを、話を聞く態度と受け取った黒猫。微かに笑んで、話を続ける。

「他でもねぇ。オレの獲物が、やばいヤツに狙われてる。横から掻っ攫われるのは面白くねぇが、今のオレ達じゃあ力が足りねぇ」

「……力を、貸せと?」

「そうだ」

 ふむと息をつき、顎を撫でる老僧。見下ろす眼は、老いに濁っている。見るは、かの者の姿か。その向こうか。

「見れば、お前様も相応の妖(もの)と見た。そのお前様が及ばぬモノが、この老いぼれの手に負えるとでも?」

「負えるさ。と言うか、テメェじゃねぇと負えねぇ」

 濁った瞳。見えているのかどうかも怪しいソレが、ピクリと揺れる。

「……察しがついた様だな。いや、つかねぇ筈がねぇ……」

 座っていた身を起こし、黒猫は老僧に歩み寄る。

「追っていた筈だ。探っていた筈だ。ソレが、テメェの血族が遺る理由だからな」

 しかと聞き、しかと頷く。

「……左様か……。ならば、彼奴はお前様の獲物と言う方の元に……」

「ああ……いるぜ……」

 黒猫は唱う。忌まわしき、かの者の名を。

「八尺、がな……」

 夜の中、眠る草木が怯える様にさざめいた。

 

 ◆

 

「な、何よ!? これぇえ~~~!!??」

 札を張り終え、部屋に戻って来たさつきは目ん玉引ん剥いて大声を上げた。

 無理もない。彼女の視界に飛び込んで来たのは、愛しき弟。敬一郎の変わり果てた姿。

「お、おねえちゃ~ん……」

 素っ裸に引ん剥かれた無垢な身体。その隅々に書き込まれたのは見た目に妖しい呪言の数々。文字から察するに、恐らくは御経の類。けれど、つらつら密々と連なるその様は有難い御仏の教えとは思えない禍々しさ。彩られた敬一郎も、どこぞのジャパニーズホラーの様に鬼気迫る様相。

 怖い。

「どうです? これで完璧です!」

 フンスとドヤ顔で胸を張るのは、凶行の張本人。レオ。

「これ……お前一人で書いたの……? ソラで?」

「モチロン。苦労しましたよ? 徹夜して暗記したんですから!」

 呆れるハジメに誇らしげに答える彼の手には、『転生しても落ちない』が売り文句の油性ペン。慈悲がない。

「八尺様は地蔵菩薩の像によって封じられていた……。と言う事は、仏教関係のモノが苦手である事は明白! ならば、こうやって直に経文を書き込めば、それが結界となって敬一郎君を護る! これぞ、秘法『耳なし芳一の陣』! か・ん・ぺ・き・です!」

「あ・の・ね・ぇええ~……」

 不気味に眼鏡を光らせながら、ヌハハハハと勝ち誇るレオ。怒れるさつき、『真面目にやれ!』と拳を握り込む。

 絶対の殺意にビビるハジメ。安全領域に慌てて退避。

 かくて、さつきの鉄拳がレオの顔面を貫き、また鮮血の花が散ろうとしたその時。

――駄目よ。さつき――。

「ふぇ!?」

 背後から聞こえた声。あまりにも懐かしいその響きに、思わず固まる。

――アレは、手段を選べる相手ではないわ。些細な事に、乱れては駄目――。

 優しい声。愛しい声。強い、声。

――強く、あって。敬一郎を、守る為に――。

「――!」

 振り向いたその先で、藤色の髪が揺れる。在ったのは、見慣れた友の顔。

「桃子……ちゃん……」

「大丈夫よ。さつきちゃん……」

 浮かべる微笑みは、いつもの彼女。けれど。

「幾ばくの抵抗になるかは分からないけれど、幾重も束ねれば……」

 言いながら、さつきの背後の敬一郎に向かう。

「だから、頑張りましょう……」

 すれ違いざまの声。

「わたしが、絶対……」

 それは、とても暖かく。

「さ、敬一郎君。服を着ましょう」

「ももねぇちゃ~ん」

 テキパキと服を着せる桃子。その姿を、さつきは酷く懐かしい思いで見つめる。

「……にしてもよ……」

 経文塗れの敬一郎と、手の中の即席御札を交互に見ながら、ハジメがレオに問う。

「実際の所、どうなんだ? コレだけで、何とかなんのか?」

「む、まだ疑ってるんですか!?」

「そーじゃねーよ……」

 言って、視線を窓に向ける。

 いつしか、朱に染まりかけている空。

「……コレは、あくまで『防ぐだけ』だろ? その後は、どうすんだ? 霊眠の方法、分かんのか?」

「それは……」

 当然の指摘に、言葉に詰まるレオ。

「どれだけ調べても、八尺様を退治する方法は見つかりませんでした……。唯一干渉出来たらしいのは、元々八尺様が居た村にあったお地蔵様だけ……。それも、決め手ではなく、ただ他所の地に行かない様に阻むだけのモノで……」

「じゃあ、何でこんなトコにいんだよ? 八尺さんは……」

「壊されたそうです……。そのお地蔵様が……」

 聞いたハジメが、長い溜息を漏らす。

「じゃあ、タイムリミットとかあんのか? 何日か我慢すれば、見逃して貰えっとか……」

「ない、ですね……」

 やはり溜息をつき、レオは答える。

「八尺様は、贄を逃しません……。手に入れるまで、いつまでも……」

 重なる溜息。三度。

「最悪じゃねーか……」

「最悪です……」

「どうすんだよ……?」

「どうしましょう……?」

「……可能性は、あるわ」

 割り込んだ声に、目を向ける。心労からか、ウトウトし始めた敬一郎。彼の頭を膝に乗せた桃子が言う。

「とても遠い所だけど、可能性は確かにある……」

 柔らかい髪を細い指で櫛削り、彼女は唱う。

「『彼』が行ってくれている……。彼なら、きっと……。だから……」

 頬を撫でる手は、愛しみに満ちて。

「守り抜きましょう……。彼が戻る、その時まで……」

 顔を見合わせる皆。

 桃子はただ、膝の上の命を憂う。

 愛しい愛しい、愛子の魂を。

 

 夜が来る。

 闇が堕ちる。

 ゆっくりゆっくり。

 深淵が呼ぶ。

 

 ◆

 

「……時が、かかり過ぎた……」

 揺れる灯火の中で、虚ろな声が嘆く。戻らぬ時を、憎み惜しみ。

「儂は、老いた……。もはや、八尺様を抑える力はない……」

 濁った目。其処にはもう、かつての覇気は無く。

「正味、ありがたいと思っておった……。八尺様がこの地を去った時、『ああ、助かった』と……」

 紡ぐ言葉は、悔恨か。はたまた懺悔か。

「八尺様は、もうこの地に縛られてはいない……。放っておけば、戻る事もなかろう……。さすれば、村の者が見初められる道理もない……」

 吐き出す意は悍ましく。けれど、確かに人らしく。

「儂が中途半端に手を出せば、八尺様の意識を此方に向ける事になろう……。さすれば、あの怖ろしい時代に逆戻り……」

 彼は答えない。ただ、黙って聞く。浅ましい人間の。浅ましい考えを。

「儂は、この村が愛しい……。祖父が、父が、母が暮らした土地……。縁を持った人々じゃ……」

 それは、人として当然の事。当然の、思い。

「分かるであろう?」

 だから、告げる。浅ましくも人らしい、その願いを。

「知らぬ者が贄となって、八尺様が静まるのであれば……それで……」

「知らねぇよ」

「……!」

 切って、捨てた。

「当然だな。自分の身内、自分のダチ。大切なのはソレだけ。顔も知らねぇ他人なんざ、そこらの虫ケラと同じ。間違っちゃいねぇよ。人間てなぁ、そういうモンだ。そうやって、命を繋いできたんだ。だがな……」

 黒い影が跳ぶ。

 降り立つのは、老僧の肩。耳元で、囁く。

「ソイツは、俺達にとっても同じなんだよ……」

 静かな声。けれど、冷たい声。煉獄に吹く、空風の様に。

「知ったこっちゃねぇ。テメェの知り合いがどうなろうが。この村のモンがどんだけ贄になろうが、知ったこっちゃねぇ……」

 満ちていく妖気。殺気。老僧の身体を、強く縛る。

「否定はしねぇな? 出来ねぇな? テメェが言った事だ。返るのが、前提だ」

 正しく、権利。全てに等しい、同様の権利。

「それを持って、聞け」

 カチリと響く、硬い音。牙が、哭く。

「力を貸せ。何でもいい。八尺の野郎の寝首を搔ける、力を。無いとは言わせねぇ。ソレが、テメェらの意味だ。存在意義だ」

 否定はしない。出来ない。其れは、己の全てを否定する事だから。

「それでなお、嫌だと言うのなら……」

 燃え上がる、悪気。目端に映った『ソレ』に、息を飲む。

『……八尺の野郎に、委ねるまでもねぇ……』

 高みから堕ちる声。怖ろしき、悪神の布告。

『俺が残らず、喰ってやる……』

 闇が、震える。

 月が、陰る。

 何処か遠くで、野狐が泣く。

 怖い怖いと、ただ怯え。

 落ちる数珠。

 抗う術など、在る筈も無かった。

 

 ◆

 

 日が暮れる。

 夜が染める。

 霧が満ち。

 闇が満ちて。

 堕ちて。

 怖ろしきモノの。

 刻が来る。

 

「……風が、出てきましたね……」

「霧も、出て来たわ……」

「天気予報は、晴れって言ってたんだけどな……」

 暗がりに落ちていく部屋の中。互いに縋り合う様に身を寄せ合った皆が、言い合う。

「今夜は、新月だわ……」

 敬一郎を抱き締めた、桃子が呟く。誰ともなく。囁く様に。

「月の光もない、本当の闇……。厄神たる八尺の力は、最大に高まる……」

 不意に窓がガタガタと鳴る。ビクリと竦む皆。唯一人、落ち着いた様子の桃子が、窓を見る。硝子一面に貼られた札。それに異常がない事だけを認め、細く息を吐く。

「大丈夫。ただの、風よ……」

 皆も、ホッと息をつく。血の気の引いた顔を引き攣らせながら、さつきが問う。

「凄いね……桃子ちゃん……。怖く、ないの……?」

「……そう、見える?」

 薄く微笑んで小首を傾げる。そんな親友に、頷く。

「桃子ちゃんは、いつもそう……。どんな事件が在ったって、どんなお化けと会ったって。いつも強くて、冷静で……」

 呟いて、さつきは膝を抱える。

「だけど、わたしは駄目……。いっつも、肝心な時に怖くなっちゃう……。桃子ちゃんや、ハジメに助けられてばっかり……」

 手を伸ばし、桃子に抱かれる敬一郎の髪を撫ぜる。

「ごめんね、敬一郎……。ママに、アンタの事お願いって言われたのにね……」

「おねえちゃん……」

 心配そうな顔で見上げる弟に、悲しげに微笑むさつき。

「自分を責めちゃ駄目よ。さつきちゃん」

 視線を上げると、見つめる桃子の瞳。酷く優しいソレが、憂う様に揺れる。

「お化け、怨霊、悪神。皆、災いをもたらすモノ。人の力じゃ、敵わないモノ。怖いのは、当然の事……。でも……」

 伸びてくる手。さつきを掴み、抱き寄せる。

「それでも貴女は、ここにいる。敬一郎君を守る為に、ここにいてくれる。それだけで、十分……」

 抱き締められる、胸の中。聞こえる鼓動は温かく、恐怖に竦む心を優しく包む。

「怖いのは、わたしも同じ。怖くない筈、ないでしょう? でも、貴女達がいるから頑張れる。貴女達が、力をくれる。同じよ。さつきちゃん……」

「桃子、ちゃん……」

 感じる安らぎは、不思議な違和感。自分を抱く彼女は、いつもの親友の筈なのに。まるで……。

 ――貴女は、誰――?

 込み上げる感情を抑えられず、問いかけようとしたその時。

 

 ……ぽ……。

 

 何処かで、響いた。

 

 ◆

 

「――――っ!!!――――」

 一瞬で湧き上がった怖気。冷水を浴びた様に泡立つ肌を押さえ、振り仰ぐ。

 風の音が、止んでいた。

 まるで、空気までもが怯え潜んだ様に。

 深々と、満ちる静寂。

 誰も、何も言わない。

 吐息さえも、揺らさない。

 静寂。

 張り詰めた薄膜の様な感覚が、最後の盾とでも言う様に。

 けれど、其れは儚く容易く。

 破られた。

――ろ……――。

「!」

 今度こそ、確かに聞こえた。

 皆の耳に。

 誰の耳にも。

――けい、いち……ろう……――。

 ゆっくりと、型を取る声。

 同時に。

 トン。トン。

 響き始める、音。微かな、振動。

 誰かが。何かが。

 窓を。

 壁を。

――敬一郎……――。

 聞こえる。

 声が。

――開けておくれ――。

 聞き慣れた声。

――帰って、来たよ――。

 望んでいた声。

――開けておくれ――。

ーーさあーー。

ーーさあーー。

 レオとハジメが、さつきを見る。

 黙って、首を振る。

 分かり切っている事。

 父は。礼一郎は、明後日まで帰って来ない。

 そう、連絡があったのだ。

 まして、こんな時間に。

 こんな、異常な方法で。

――開けておくれ――。

――入れておくれ――。

 レオが、ネットの海で拾い上げた事。

 八尺様の呼び声に、答えてはいけない。

 其れは、言霊。

 答えれば。

 応じてしまえば。

 道が繋がる。

 捕われる。

 逃げられなく、なる。

――敬一郎――。

――敬一郎――。

 答えない。

 誰も、答えない。

――けい、いち、ろう――。

 声が止む。途絶える。そして、また。

 トントン。

 トントン。

 叩く、音。

 やがて、其れも。

「…………」

 静寂が、戻る。

 耳鳴りがする程の、静寂。

 誰も、言葉を発しない。

 知っているから。

 終わりはではないと。

 沈黙。

 ただ、沈黙。

 耐えかねた誰かが、フ……と息を吐く。些細な音。鼓動。でも、深い静寂の中で其れは。

 酷く。

 とても酷く。

 大気を、揺らした。

「!」

 桃子が、視線を上げた。

――ぽ――。

 其れが、鳴った。

――ぽ ぽぽ ぽ ――。

 怖気立つ。

 肌が。

 空気が。

 夜の、世界が。

――ぽぽ ぽぽ ぽぽぽぽぽ――。

 悍ましく鳴る声が、耳朶を揺らす。

 決して大きくはなく。

 耳障りでもないけれど。

 とても。

 とても、怖ろしい。

 この世ならざる神の、声。

「レオ!」

 摩耗する心を奮い立たせる様に、ハジメがレオに問いかける。

「大丈夫です! 家には隙間なく、千枚以上の御札を貼っています! いくら八尺様でも……」

「……ええ。時間稼ぎには、なるわ……」

「……へ?」

 遮る桃子の言葉に、レオがポカンとした瞬間。

 何かが、崩れ落ちる音がした。

「お姉ちゃん、あれ!」

 経文塗れの敬一郎が、窓を指差す。集まる視線。窓一面に貼られた御札の一枚が、ユラリと揺れる。

 途端、ジワリと滲む黒。どす黒く染まった札。壊死する様に崩れて堕ちる。すると、もう一枚。そして、もう一枚。まるで、疫病が広まる様に。次々と腐り堕ちる、札。

「お、おい!」

「全然、駄目じゃない!」

「そ、そんなぁ……。徹夜して作ったのに……」

「無駄じゃ、ないわ」

 ハジメとさつきの抗議に泣き出しかけるレオ。そんな彼の嘆きを遮る様に、桃子は言う。

「全ての御札が朽ち果てるまで、八尺様は中に入って来れない。わたし達の手で霊眠させる手段がない以上、出来る事は可能な限りの時間稼ぎ。これで、いいの」

 そして、敬一郎の手を取って立ち上がる。

「皆、家の奥へ。少しでも、距離を」

 何処までも、冷静な声音。それが、恐怖に乱れかけた皆を立ち戻らせる。

「そうですね。家の中にも、御札は貼ってあります。奥の仏間に籠れば、まだ……」

「よし、行こう!」

 立ち上がるハジメ達を見ながら、桃子はポツリと零す。

「……御札には、『彼』も阻まれる……。なるべく、負担にならない場所にいたかったけど……」

「桃子ちゃん!」

 かけられた声。我に返り、横を見る。隣りを走るさつきが、不安げな眼差しで見ていた。

「どうするの……? いくら時間を稼いでも、霊眠させられなきゃ、いつかは……」

「……約束、したでしょ?」

 揺らぐ心。それを支える為に、微笑みかける。もう一度。

「必ず、守るわ。だから、さつきちゃんも信じて。わたしを、そして……」

 見上げるのは、窓の向こう。新月の、空。

「『彼』を……」

 なぞる様に、見上げた先。貼られた符が、また一枚。腐れて、果てた。

 

 ゆっくりゆっくり。

 闇が呼ぶ。

 

 ◆

 

――ぽ――。

――ぽぽ ぽ――。

――ぽ ぽぽ ぽ――。

――けい いち ろう――。

「!」

 感じた気配に、振り向くさつき。

 離れた、居間の戸。さっきまでいた筈の、場所。閉じた筈のソレが、開いていた。

 もう、誰もいない筈なのに。

 桃子に抱き抱えられた敬一郎が、悲鳴を上げる。その目は大きく見開き、開いた戸を凝視する。

「……早い……」

 歯噛みする様な、桃子の声。窓を見る。一面に貼り付けていた筈の札が、一枚残らず消えていた。

「……強い……」

 明確な、焦りと畏れが混じる声音。唯一の拠り所である桃子の揺らぎが、さつきの心を脅かす。

「止まらないで。仏壇のある床の間なら、少しは持つ筈……」

「でも……」

 迫る、曲がり角。死角になる前に、もう一度振り返る。開いた戸。けれど、やっぱり……。

「……何も、見えない……」

「ええ、見えないの」

 色の無い声で、桃子は言う。

「八尺様(アレ)は、普通のお化けの類じゃない。行き逢い神と言う、八百万の一柱。例え霊力があったとしても、一介の人間程度が視認出来る次元の存在じゃない……。それが、叶うのは……」

 向ける視線の先は、怯える敬一郎の顔。何かを凝視する、瞳。ソレを手で覆い隠しながら、告げる。

「八尺様に見初められた者……『贄の御子』、だけよ……」

 ――『贄』――。

 その単語が、確かな悪寒となってさつきの背を這い登る。振り払い、問う。

「で、でも。見えないんじゃどうやって戦えば……」

「……見て」

 促され、再度。

 居間と此方を繋ぐ廊下。そこもまた、ハジメ達の手によって札が貼り巡らされている。と、空間が歪む様に揺らいだ。瞬間。

 一番奥に貼ってあった札の何枚かが、瞬く間に黒く腐って落ちた。

 続く様に、手前の札も。

 追って来る。見えない、何かが。

「分かるでしょう?」

 桃子が、言う。青ざめた、顔で。

「分かるでしょう? アレが、来るのが」

 頷く。戦慄きながら。

「見えては、駄目なの。見えてしまえば、アレにもまた認識される。認識されないから、関わらずにいられるの。蛇に見つかった鼠は、喰われるだけ……」

 震える敬一郎を強く抱き締め、願う。

「貴女は、見ないで。見えないままでいて。どうか、現世との繋がりを、奪われないで」

 そして、告げる言葉は一つ。

「もしもの時、せめて貴女だけは」

 込められた意味。背筋が、凍る。

「何やってんだ!? 急げ、さつき!」

「ゆっくりですけど、追ってきます! 早く、仏間へ!」

 ハジメとレオの声に、我に帰る。腐り堕ちる札が、ゆっくりゆっくりと道を成す。酷く、緩慢。まるで、夢現の歩みの様に。

 そうとしか、動けないのか。

 ただ、弄んでいるのか。

「行きましょう。さつきちゃん」

 頷き、角を曲がる。見えぬ世界で、何かが鳴る。

 

 ◆

 

 大きな音を立てて、ハジメが仏間の戸を閉める。昼間の内に、札で埋め尽くした戸。その隙間を、レオが更なる札で埋めていく。

「……どれだけ、持つのかな……?」

「どうだろうな……。さっきの様子だと、あんまり……」

 さつきの言葉に答えたハジメが、乱れた息を整えながら汗を拭う。

「……仏の加護が得られる仏間(ここ)であれば、札の影響も増す。抵抗には、なるでしょう」

 言いながら、桃子が懐を探る。取り出したのは、紙で折った数体の人形。

「皆さん、此れを」

「え……?」

「何すか? コレ……」

 渡された人形を、訝しげに弄る。

 和紙で出来たソレは飾り気もなく、児戯の賜物とは思えない気配。

「此れは、ひょっとして……」

 思い当たる、レオ。

「『身代わり雛』……ですか?」

「良く分かったわね。流石、レオさんね……」

 微笑む桃子の返事に、黙り込むレオ。

「身代わり雛……?」

「何……? ソレ……」

 小首を傾げるさつきとハジメに、レオが説く。

「桃の節句に飾る雛人形の、原型です。元々、雛人形のルーツは人間の『身代わり』でした。雛人形は幸福をもたらすモノではなく、不幸を持ち去るモノ……。持ち主の中の『災い』や『穢れ』を肩代わりして、遠くへと持ち去らせる為の呪物だったんです」

「身代わり……」

「災いを……持ち去る……」

「そう……」

 最後の一体を敬一郎に渡しながら、桃子が頷く。

「此れを身代わりにすれば、八尺様の神域を抜けられるかもしれないわ……。いざとなったら……」

 人形を持った敬一郎の手。それを握り締め、口元に運ぶ。

「皆さんは、逃げて……」

「オレ達はって……」

「桃子さんは、どうするんですか……?」

桃子の元には、一体の人形もない。その事に気づいたレオが、問う。

「私は……」

 呟く唇が、寄せた敬一郎の指を愛しげに撫でる。そして。

「ごめんなさい」

 刹那、敬一郎の悲鳴が響く。

「桃子ちゃん!?」

「何を!?」

 己が噛み破った、敬一郎の指。小さな傷から浮かび上がる血珠を舐めとると、桃子はゆっくりとそれを嚥下した。

「痛かったわね……。本当に、ごめんなさい……」

 滲む血をハンカチで拭い、絆創膏を貼る。涙ぐむ敬一郎の頭を撫でる。

「どうしたんすか!? 頭でもおかしくなったんですか!?」

「……敬一郎君の身体は、八尺様に魅入られている。その一部を取り込むのは、贄の資格を取り込むのと同義……」

 詰め寄ろうとしたハジメが、淡々と紡がれる言葉に足を止める。

「私は、敬一郎君の命の一部を取り込んだ……。私も、八尺様の贄としての資格を得たわ……」

「桃子さん……」

「まさか……」

 戦慄くさつき達を穏やかな眼差しで見つめ、告げる。

「私が、『身代わり』になるわ」

 息を飲む気配。当然の、事。

「敬一郎君は、レオさんが書いてくれた経文で護られる。八尺様の意識は、確実に私に向くわ」

 其れは正しく。そして、怖ろしく。

「八尺様が一度に連れて行く贄は、一人だけ。終われば、後は長い間現れない。どれ程かは分からないけれど、敬一郎君が生きている間は、恐らく……」

 流れる視線。震える彼に、微笑んで。

「大丈夫よ……。あなたは絶対に、大丈夫……」

 そう囁いて、抱き締めた。

「駄目よ!」

 さつきが、叫ぶ。

「そんなの駄目! 諦めるなんて!!」

「諦めないわ。本当の、最後の最期。その時の、話よ」

「嘘!」

 なだめる言葉を、切って捨てる。

「桃子ちゃんの目、そう言う目じゃない! 絶対、嘘言ってる!」

「どうして?」

「分かるもの!」

 あくまでも、穏やかな声。優しく、愛しく。だからこそ、憤る。

「だって、同じだもの! その目、あの時の……あの時の……」

 過ぎる記憶。

 昏い世界。

 白い病室。

 やせ細り。

 力なく。

 けれど、大丈夫と。

 絶対に、諦めないからと。

 微笑んだ声。

 それが、最期。

「だから駄目! 絶対に!!」

「……そうです。見え見えっすよ。桃子さん」

 半狂乱になりかけるさつきの肩を、落ち着かせる様に抱く腕。ハジメが、怖い顔で桃子を睨む。

「……一緒だったでしょ? オレ達、いつだって。今になって一人だけ良いカッコしぃとか、なしっすよ」

「ハジメさん……」

「踏ん張りましょう、皆で。今までだって、そうやって何とかしてきた。だから、今度だって……」

 けれど、励ましの言葉は届かない。

「……駄目よ」

 嬉しそうに。けれど悲しそうに微笑んで、桃子は首を振る。

「何で!?」

「……だって、もう……」

 縋り付こうとしたしたさつきを拒む様に、桃子の視線が後ろを見た。

「う、うわぁああああ!!?」

 刹那に響く、レオの悲鳴。

 振り向いた先。

 仏間の入り口。障子の引き戸。

 一面に貼り付けた札が、腐り堕ちていく。

 瞬く間に。

 ボタボタ。

 ボタボタと。

 息を飲む、ハジメの前で。

 ボタボタ。

 ボタボタ。

 竦み上がる、さつきの前で。

 ボタボタ。

 ボタボタ。

 怯える敬一郎と、抱き締める桃子の前で。

 ボトボト。

 ボトボト。

 腐り堕ちて、無くなって。

 まっさらになった、戸。

 沈黙。

 沈黙。

 誰も、動かない。

 喋らない。

 無理。

 ストン。

 戸が、開いた。

 あっさり。

 あっけなく。

 戸が、開いた。

 闇。

 やみ。

 ヤミ。

 真っ暗な、向こう。

 何もない。

 誰も、いない。

 

――ぽ――。

 

 迎えに来たよ、と。

 声が鳴く。

 

 ◆

 

 何もない。

 何もない、空間。

 闇。

 空虚。

 ソレを。

 幼い少年は、凝視する。

 まるで。

 命の終わりを。

 見守る様に。

 

――ぽ――。

 

 何かが、聞こえた様な気がした。

 畳が、音も無く軋む。

 いない。

 いない。

 何も。

 誰も。

 けど。

 ポタリ。

 部屋に貼ってあった札が堕ちる。

 ボタリボタリと。

 腐れて。

 爛れて。

 力尽きて。

 次々。

 次々。

 堕ちていく。

 積み重なる、札の亡骸。黒く彩るその道を。何かが、通る。

 見えない。

 いない。

 けれど、確かに。

 何かが。

 誰かが。

「……いる、の……」

 生温くひり付く喉を、枯れかけた唾で湿らせて。

「ええ……すぐ、ソコに……」

 問いかけるさつきに、桃子は答える。

 贄たる少年の雫を飲んだ彼女。その身は既に、贄の写し身。資格を得た目は、確かに『ソレ』の存在を映す。

「……これまで、ね……」

 腕の中で震える敬一郎を、強く抱き締める。名残りを、惜しむ様に。そして。

「さつきちゃん」

 託す先は、さつき。

「経文を刻まれた敬一郎君は、八尺様にとって不快な存在……。今なら、同じ血を得た私に向かってくるわ。どうか、その隙に……」

「…………」

「貴女達は、身代わり雛を持っているわ。必ず、逃げ切れる。だから……」

 沈黙したまま、敬一郎を抱き取るさつき。微笑む、桃子。

「お姉ちゃん……」

 何かを訴える様な眼差しで見つめる敬一郎を、見下ろす。

「……いい? 敬一郎」

 問うた言葉に、頷いて。

 敬一郎もまた、頷き返して指を差し出す。

「! 駄目!」

 察した桃子が止めるよりも早く、さつきは敬一郎の指を噛んだ。

 悲鳴はない。目をつぶり、痛みを堪える弟を一瞥し、口内に滴る鉄錆色の味を飲み下した。

「……はぁ」

 息をつき、顔を上げた瞬間。

 『ソレ』が、在った。

 

 白。

 世界を切り抜いた様に、空虚な白。

 純白とも違う、ただただ間の抜けた。空虚な、白。

 彩るのは、一着のワンピース。異様な程にのっぺりと平面な、ワンピース。そして、酷く。酷く高い位置にある、つば広帽子。流れる髪は、長く長く、干からびて。覗く顔は、色はなく。まるで、何処かの画家の画描を貼り付けた様に。

 カクリと傾げる、細い首。見下ろす眼差しは、昏い。暗い。虚ろの洞。

 

――ぽ――。

 

 真っ暗な。洞穴の口が、そう泣いた。

 

「コレ、が……八尺……様……」

「ええ……。古くは『高女(たかおんな)』とも呼ばれた妖(モノ)……。人を魅入り、贄と喰らう……厄神よ……」

 体中の血が冷える感覚に震えるさつきに、桃子が答える。

 かつての忌み名を懐かしむ様に、白塗りの顔が揺れる。

 ユラユラ。

 ユラユラ。

 壊れた、振り子の様に。

「さつきちゃん……」

 品定めする様に佇む八尺様を凝視しながら、桃子が言う。

 今までにない、咎める棘。恐怖に満たされた筈の胸が、別の感覚に疼く。

「どうして、こんな事を……? 私は、貴女達さえ……」

「馬鹿な事、言わないでよ!」

 その立場の者としての、叱咤の言葉。それを、激情がかき消した。

「冗談じゃないわ! 桃子ちゃんを犠牲にして、わたし達だけ助かれって言うの!? そんな勝手な事、許さない!」

 聞いた事もない、愛し子の怒り。それが、自分に向けられている事に戸惑う。

「もう、嫌なの! 大事な人が、いなくなっちゃうのは! それも、こんな訳の分からないお化けに盗られちゃうなんて、絶対ダメ!」

「さつき……ちゃん……」

「わたしも戦う! 一人だって、欠かさない!」

 さつきが叫んだ、その瞬間。

 カクンと、ソレが堕ちて来た。

 白い顔。児戯の描いた顔。何も無い口が、ニコリと歪む。

――ぽぽ、ぽ――。

「おねえちゃん!」

「――――っ!」

 息を飲む眼前。ユラリと伸びくる、手。異様に長い指が、さつきの顔を掻き抱こうと。

――?――。

 小首を傾げる、八尺様。

 掴んだ筈のソレは、愛しい贄の少女ではなく。一枚の紙人形。

 手の中の身代わり雛を、不思議そうに見つめる。そんな八尺様から離れながら、さつきは狼狽えているレオに寄る。

「レオ君……御札、まだ在る……?」

「え、ええ……。予備は、まだコレだけ……」

 開いたポーチの中には、ギッシリと詰まったインスタント御札。

「……まだこんなにあったんだ……」

「何と言うか、こう……徹夜で作業してる内にハイになってしまいまして……」

 呆れるさつきに向かって、えへへと笑うレオ。でも、今はその変な情熱がせめてもの頼みの綱。

「さつきちゃん!」

 桃子の声が響く。

 振り向けば、ユラユラと歩み寄ってくる八尺様の姿。揺れる手には、まだ身代わり雛が握られたまま。握る手が、鎌首を擡げる白蛇の様に持ち上がる。木洞の様な口に放り込まれる身代わり雛。咀嚼もしなければ、口を閉じる事もない。嚥下の気配すらなく、ただポッカリと空いた闇の向こうに消える。

 ニコリ。

 また、笑う。

 ――みぃつけた――と。

 愉しく笑う。

――ぽぽ――。

 また泣いて。ズルリと伸びる。細く長い下半身が、蛇の様に伸びて。ズルルルと、掴みかかる。

「ひっ!?」

 引き攣った声を飲み込み、掴み取った御札を投げつける。パシパシと当たったそれが、見る見る間に腐れて堕ちる。それでも、多少の不快は在るのだろう。少し。ほんの、少し。たたらを踏む。その隙に。

「レオ君、お願い! あと、これ頂戴!」

「え、ええ!?」

 敬一郎をレオに押し付け、代わりに札の詰まったポーチをかっぱらう。そのまま、仏間の外へ。

(お願い……)

 祈りながら後ろを見ると、揺れながら身を起こす八尺様が見えた。

 グリン。

 不自然に曲がる首。向いた先は、さつき。真っ暗な、洞の眼孔。けれど、走る悪寒が教えてくれる。

 求めているのは、わたしだと。

(上手く、いった……)

 さつきは考えた。

 現在、八尺様の贄たる資格がある者は三人。

 直接魅入られた、敬一郎。

 その敬一郎の血を飲んだ、桃子。

 そして、同様に敬一郎の血を飲んだ自分。

 本来の贄である敬一郎は、レオによって全身に経文が書き刻まれている。然したる障害にはならずとも、八尺様は不快とする。

 ならば、狙うのは何の痛痒もない桃子かさつき。その二択ならば、恐らくは敬一郎と血の繋がりがある自分を選ぶ筈……と。

 そして、その推測は正しく的中した。

(来た……!)

 八尺様が、ゆっくりと動き出す。

――ぽ、ぽ、ぽ――。

 怖気立つ声を背に聞きながら、走り出す。桃子やレオの声が追ってくるが、構いはしない。少しでも、敬一郎や桃子から引き離す。そして、逃げ切る。

 何処へ?

 いつまで?

 決まっていた。先の、桃子の言葉。――『彼』を、信じて――と。

 『彼』とは、誰か。それも、決まっていた。此処にいない、『アイツ』だ。こんな時、悪態をつきながらも必ず一緒にいてくれる『アイツ』。ソレが、理由も無しに消える筈がない。『アイツ』が、持ってくる。この窮地を脱する為の、何かを。なら、絶対にソレまで。

 ――生き延びて見せる――。

 そう決意し、息を飲み込んだその時。

――ぽ――。

 冷たい空気が、耳朶を撫でた。

「――!」

 振り向いた先、真横で見つめる昏い眼窩。ニョロリと胴を伸ばした八尺様が、細めて笑む。

 悲鳴を上げる前に、冷たい感触が顔を覆う。八尺様の、手。乾いた軟体動物の様なソレがビラビラと貼り付き、人外の力でねじ落とす。

 抵抗もままならず、床に叩き倒される。激しく打ち付けられる背中。衝撃に歪む顔に、影が堕ちる。

――ぽ――。

 変わらない、陰音。けれど、分かる。

 言っているのだ。

 ――つかまえた――と。

「ひっ……」

 もがいた所で、意味はない。人外の膂力。ただの娘に、抗える道理など在りはしない。

(御札……!)

 咄嗟に探る。無い。持っていた筈の、ポーチが。倒れた拍子に、何処かに転げたか。

 懸命に抗うさつきを、しげしげと見つめる眼孔。まるで、贄巫女の舞を堪能する様に。

「く……ぅ……」

 喘ぐさつきの頬を、長虫の様な指が愛でる。ズルリと寄る顔。眼窩の奥の闇、嬉しげに蠢き。洞の口が、グニュルと広がる。骨も皮も。肉の束縛も無きが如くに。

「あ、ああ……」

 真っ暗な、虚洞が迫る。その奈落に、哀れな贄を抱こうと。

 必死にもがく。一人も欠かさない。その誓いには、違わず自分も含まれる。だから。けれど、抵抗は虚しく及ばない。非力な贄の抵抗。それすらも悦と、厄の神は笑う。迫る奈落が、視界を覆う。思わず目を閉じた瞬間。

「さつき!」

 声と共に、空を裂く音。八尺様の米神に当たったポーチから、無数の札が舞う。陰気に当てられ腐り堕ちていく札。けれど、例え卑小な羽虫であろうと、数を成せば不快と変じる。鬱陶しそうに頭を振る八尺様。こびり付いた札の残滓を剝がそうと、さつきを掴んでいた手がヌルリと離れた。

「はぁっ!」

 思わず息を吐いたさつきの手を、誰かが掴む。そのまま、厄神の懐から一気に引きずり出した。

「きゃあ!?」

 余った勢いのまま、もつれ合って転がる二人。壁に当たって止まった所で、声がかかる。

「大丈夫か!? さつき!」

「ハジメ……」

 助けてくれた彼の顔が、間近に。抱き止められた熱に、引いていく恐怖と絶望。

「無茶しやがって! 桃子さんに言った事、自分で忘れてどうすんだよ!?」

「で、でも……」

「でももスカもねぇ! とにかく、どうにかすっぞ! ……とは言うモノの……」

 向ける視線の先には、ただ満ちる闇があるだけ。周囲で朽ちていく札だけが、その存在を彼に知らせる。

「やっぱ、見えねぇか……」

「そうだよ! アイツは、贄にしか見えないの! 見えなきゃ、何も出来ないでしょ!? だから、アンタは敬一郎を……」

 さつきの言葉を聞いているのかいないのか。何やら真剣な顔で考え込むハジメ。やがて……。

「あー、やっぱ、コレしかねぇか」

 決意した様な声でそう言うと、さつきを抱く腕に力を込める。何か、妙に緊張する気配。

「……非常事態だかんな。ノーカンにしとけ」

「……は?」

 何を言っているのかと怪訝に思った瞬間、グイと引き寄せられて。

 口を塞がれた。

「んぅ!?」

 熱い感覚と、感じる吐息。感じたのが、差し込まれた彼の舌と気づいた瞬間。

「やだー!!!」

「んげ!?」

 力いっぱい、突き飛ばした。変な声と共にでんぐり返るハジメ。

「何すんのよ!? この非常時に!!?」

「いや、だから言ったろ!? 非常事態だからって!!」

「何ソレ!? 訳分かんない!! エッチ馬鹿へんたい!!!」

「だから、そうじゃなくて!!」

 言いながら、ビッと指を指す。

「アソコだろ!? 『アイツ』がいるの!」

「え……」

 ハジメが示した場所には、違う事なく八尺様がいる。ソレはつまり、そういう事。

「アンタ、見えるの……?」

「あ~。だって、そう聞いたからさ……」

 正しく、八尺様を視認するには縁を繋ぐ必要がある。そして、その縁を受けるのは八尺様自身に魅入られた贄だけ。そして、第三者がその縁を継ぐには贄の『欠片』を取り込む必要がある。

 それは『血』であり。

 『肉』であり。

 『骨』であり。

 そして……。

「まあ、そう言う訳で……」

「…………!!!」

 真っ赤な顔で目を逸らすハジメ。意図を理解し、絶句するさつき。

「……さいってー……」

「い、いや! だから、言ったじゃんか!? 非常事態だから、ノーカンだって!!!」

「にしたって、何でよりにもよって『唾』なのよ!? わたし達みたいに、『血』で良いじゃない!?」

 その指摘に、グッと詰まるハジメ。視線を逸らして、モジモジする。

「だって、よ……」

「何よ!?」

 もごもご、言い淀む。

「……したく、なかったから……」

「は!?」

「だから……」

「聞・こ・え・な・い!!」

 詰め寄られ、意を決した様に言い放つ。

「傷付けたくなかったからだよ! お前に!!」

「……へ?」

 紅さが飽和状態になった顔で黙り込む、ハジメ。

 気まずさと恥ずかしさで、やっぱり黙り込むさつき。

 やるせない、けれど甘酸っぱい沈黙が広がって――。

――ぽ――。

 割り込んで来た声に、ハジメが我に返る。

「やば!」

 咄嗟にさつきの手を取り、走り出す。それまで彼らがいた場所に、堕ちてくる八尺様の顔。

「っぶねぇ~!!」

「ば、馬鹿やってる場合じゃないわね!」

「そ、そう! そうだろ!?」

「……責任は、取って貰うけど……」

 ボソリと言った言葉。逃げ場は、ない。

 

 ◆

 

――ぽ。ぽぽ、ぽ――。

「……引き離せ、ない……」

「歩いてる、だけ……なんだけどな……」

 走りながら、時折後ろを見る。ピッタリと、決まった距離を置いたままついてくる八尺様。走っている訳でもない。ただ、緩々と歩いているだけ。けれど、離れない。二人は、全力で走っているのに。

「さつき……大丈夫、か……?」

「……ちょ、キツイ……かも……」

 体力で劣るさつきの足が、乱れ始めた。ハジメにした所で、限界が近い。

「この……」

 ポケットに突っ込んでいた御札をむしり取っては、投げつける。せめてもの、抵抗。足止め。それも、もうじき。

「やべ……そろそろ、無くなる……」

「ねえ……おかしく、ない……?」

 歯噛みするハジメに、絶え絶えの声でさつきが言う。

「……何が?」

「わたしの家……こんなに、広くない……」

「あ……」

 そう。二人は外へと逃れる為、玄関に向かって廊下を走っていた。なのに、続いているのだ。いつまでも、『廊下』が。八尺様に気を取られて失念していたが、確かにおかしい。異様に、過ぎる。

 曲がりなりにも、数多の怪異に接してきた二人。即座に、理解する。

「……やられた、か……?」

「閉じ込め、られた……?」

 この世ならざる者達の、常套手段。世界を閉じて、哀れな獲物を閉じ囲う。気を回せば、闇に満ちる廊下には確かに覚えのある閉塞感。違和感。

 もっとも、理解していた所でどうにも出来るモノでもないけれど。

「参ったな……」

「仕方ないね……」

 二人は立ち止まると、息をついて振り向く。このまま走り続けても、どうせ相手の手の中から出られはしない。悪戯に体力を消耗し。力尽き。成す術もなく、蹂躙されるくらいなら。

 振り向いた先で、『ソレ』は静かに佇んでいた。嬉々と襲い掛かるでもなく。猛て狂って、貪り付くでもなく。

 ただ深々と。佇み、見つめていた。

「……来ないね」

「……どうせ逃げられないから、余裕かましてんだろ……」

 残りの札を、半分……否、少し多めにさつきに握らせながら、ハジメが毒づく。

「……札(コレ)が無くなったら、終わりだね……」

「……ま、せいぜい抵抗してやるさ」

「ごめんね……」

「謝んなって。好きでやってんだからさ……」

 ――『好き』――。

 今一つ、真意が曖昧なその言葉。それでも、尊く嬉しくて。微かにはにかんで、肩を寄せる。

「……忘れないでね?」

「そりゃ、こっちの台詞だっての……」

 桃子が、言っていた。八尺様が連れて行く贄は、一人だけ。目の前には、贄が二人。どちらかは喰われ。どちらかは、遺される。

「……どっちに、なって欲しい?」

「……『考え方』は、同じだろ?」

「じゃあ、嫌だなぁ……」

「ホント、だな……」

 寄り添って、握り合う互いの手。

 せめても、最期の瞬間まで。

 眺めていた八尺様が、ユルリと揺れる。

 歩み出す。

 『もう、飽いた』とでも言う様に。

 スルリと近づき。

 ヌルリと伸びる。

 『こっち』と決めた、贄に向かって。

 

――ぽぽ――。

 

 楽しく虚ろに。

 闇が泣く。

 

 ◆

 

「馬鹿野郎が!」

 満ち行く闇と絶望を、叱咤の声と共に黒い閃光が裂いた。

――ぽ――?

 米神を鋭い爪で削られた八尺様が、不思議そうに小首を傾げる。

「ち、痛くも痒くもねぇってか!? まあ、想定内だがな!」

 忌々しそうに毒づく声。聞き覚えのある声。待ち望んでいた声。

「天邪鬼!」

 さつきの歓喜に、チラとだけ振り向いてぼやく。

「ったく、一体何だってんだ。敬一郎の野郎だけのつもりで来て見りゃ、何でテメェらまで贄認定されてんだよ?」

「そ、それはぁ……」

「いや、まあ……手もなく止む負えず……と言うか……」

 弁解もままならず、モゴモゴする。そんな二人の様子に、もう一度舌打ち。

「……コレだから人間は……。弱っちいクセに、やたら身を張りやがる。めんどくせぇったらねぇ……。まあ……」

 ――だから、面白いんだけどな――。

 聞こえかけた声に、さつきが思わず目を向ける。見えたのは雪崩落ちる様に迫る、八尺様の身体。

「天邪鬼!」

 叫んだ瞬間、飛んできた札が八尺様に当たって煙を上げる。

――ぽ――。

 鬱陶しそうに腐敗した残滓を払い落とす八尺様。暗い廊下の向こうから、駆け寄ってくる人影。

「おね~ちゃ~ん!」

「さつきちゃん、ハジメさん!」

「良かった! 間に合った~!!」

 聞こえた声に、さつきとハジメが驚く。

「敬一郎! 桃子ちゃん!」

「馬鹿! こっちに来ちまったら……!」

「……心配いらねぇよ」

 焦る二人を、天邪鬼の冷静な声が抑える。

「何言ってるの!? 元々狙われてるのは敬一郎だし、桃子ちゃんだって……」

「見ろ」

 促され、視線を向ける。八尺様の様子が、おかしかった。敬一郎と桃子。近くまで寄って来た二人に、まるで意識を向けない。あれほど焦がれていた、贄の筈なのに。

「どうして……」

 ゆっくりと迫り始める八尺様から後退りながら、戸惑うさつき。そんな彼女に向かって、長い手がニョロリと伸びる。

「させる訳ねぇだろうが!」

 齧り付く天邪鬼を無造作に掴み取ると、そのまま床に叩きつける。

「がっ!」

「天邪鬼!」

「来るな! おい、テメェ! 早くしやがれ!!」

「分かってるわ!」

 叱咤の声に応じる様に、桃子が走る。天邪鬼の抵抗に気を取られる八尺様の横を抜け、さつきとハジメの元に駆け付ける。

「さつきちゃん、ハジメさん! コレを!」

 差し出した掌には、小さなモノが二つ。灰色の欠片。小石の様にも、見える。

「……何スか? コレ……」

「説明は後よ! 早く、コレを飲んで!」

「ええ!?」

「コレを!?」

 見た目は、完全に石ころ。飲み込むのは、何となく気持ちが忌避する。戸惑う二人。けれど、桃子は鬼気迫る顔で詰め寄る。

「いいから、飲んで! 説明は、後でするから!」

「で、でも……」

 悲しき哉、現代っ子。なかなか、決心がつかない。そんな二人に、他の面子も叫ぶ。

「早くしてください! こっちも、札の在庫がないんです!!」

「大丈夫だよ、おねえちゃん! ボクも、桃子ねえちゃんも飲んだんだ!」

 『敬一郎と、桃子ちゃんも……?』と思った瞬間、響く鈍い音と呻き声。見れば、天邪鬼を放り投げた八尺様が、その面をゆっくりと此方に向けていた。

「ひっ!」

「く、来る!!」

「飲みなさい! 早く!!」

 もう一刻の猶予もないと、声を荒げた桃子が二人の口に欠片を押し込む。土臭い匂いと固く角ばった感触。明確な、無機物の味。思わず吐き出しかける二人の口を、桃子が押さえつける。

「飲んで!」

 怒声に押され、目を白黒させながら欠片を飲み込む。喉を。食道を下る、鋭い痛みと不快感。それが、ゆっくりと身体の奥へと消えて。

 今まさに、掴みかかろうとしていた八尺様の手が止まった。

 文字通り、ピタリと止まった。

「……え……?」

「何だ……?」

 困惑する二人の前で、八尺様が身を起こす。まるで、呆ける様に佇んで。

――ぽ――。

 呟いて、踵を返す。

――ぽ。ぽ。ぽぽ。ぽ――。

 呟きを零しながら、ユラユラと。床の上で、荒い息をつく天邪鬼も。竦み上がり、抱き合って震えるレオと敬一郎も。

 まるで、何もないかの様に。

 ユラリユラリと、昏い奥。

 やがて、遠い闇の向こうに姿が消えて。

――ぽ――。

 それが、最後。

 八尺様と呼ばれた怪異は、さつき達の前から姿を消した。

 

 ◆

 

 後に、天邪鬼から聞いた話。

 さつき達が飲んだのは、とある古村の寺に保管されていた『地蔵の欠片』。

 その村は、かつて八尺様が封じられていた村。そして、欠片の元であった地蔵は、八尺様を封じていた要石。

 件の地蔵は、其れが在る場所から先の世界を、八尺様に認識出来なくする力を持っていた。

 誰が作ったのか。

 如何なる由来の力なのか。

 知る者は、もう何処にも居らず。

 ただただ、『そう言うモノ』として。八尺様と共に其処に在った。

 地蔵が壊れ、八尺様が外界へと迷い出た事を知った時。地蔵を祭る役目を受けていた寺の住職は、その欠片を集めて寺の奥へと安置していた。

 まだ、かの力が残ると信じて。

 

 それを数粒、拝借して来たのだと天邪鬼は言った。『良く分けてくれたね』と言うさつきの問いに、『まあ、らしい手を取らせて貰ったさ』と答えた顔。

 何処か、得意げだった。

 

 八尺様との縁を阻害する要石。その、欠片。

 飲んださつき達は、八尺様との縁を阻害される。いつか欠片は溶けて、さつき達の一部となる。もう、八尺様に魅入られる事はない。

 そう。さつき達『だけ』は。

 

 聞いたさつきが、問うた。

 八尺様は、どうなるのかと。

 このままでは、いつかまた誰かが魅入られてしまうのではないか。

 何か、霊眠させる手段はないのかと。

 天邪鬼が返した答えは、短く一言。

――忘れろ――と。

 そも、八尺様は霊やお化けの類ではない。

 その性は厄神であり、自然の理。

 台風や地震に等しく、災害と言う現象の一つ。

 人に。人間に。どうにか出来る存在・事象ではない。

 出来るのは、ただその目から隠れ、せめて荒びてくれるなと祈るだけ。

 逃れられたのなら、それは僥倖。

 ただ甘受し、日々に戻ればいい。

 過ぎた竜巻に向かって進むなど、ただの愚行。

 いつかの時の。顔も知らぬ他者の事など。

 ただ、捨て置けば良い。

 足掻いた所で、ただ悲劇が増えるだけ。

 身の程を知れ。

 分際を弁えよ。

 忌み事には、触れず。触らず。

 ただ遠くに在るを祈れ。

 其れが、卑小に過ぎぬ人が取れる術。

――ずっと、そうやって繋いで来ただろうが。人間(お前ら)は――。

 天邪鬼の言葉に、さつきはただ苦い想いを飲み込んだ。

 

「おい」

 かけられた声に振り向くと、そこにはお座りをして見上げる黒猫が一匹。

「……何かしら? 天邪鬼さん……」

 微笑みかける顔は、『彼女』ではない『彼女』。

 忌まわしげに牙を鳴らし、問いかける。

「……何で、『あんな真似』をした?」

「……何の、事かしら……?」

 向けられる視線。込められる敵意に、目を細める。

「しらばっくれるな」

 怒りは静かに。けれど、確かに。

「何で桃子(そいつ)の器に入ったまま、贄の肩代わりなんぞしやがった?」

 想定内で。当たり前の問い。用意していた、答えを返す。

「……他に、手はなかったわ……。あの子達を守るには、アレしか……」

「前の『テメェ』なら、選ばねぇ」

 切って落とす言葉。沈黙する彼女。天邪鬼は、続ける。

「前のテメェなら、人の命に選別はしねぇ。自分の子供だろうが、そうじゃなかろうが、等しく助けようとする筈だ。だが、今回はそうじゃなかった。迷いも、なくな……」

 答えは、返さない。天邪鬼の声だけが、響く。

「……想いが、先んじたか? 子を守ろうとする想いが、理性を抜いたか?」

「…………」

「例えどんなモンだろうが、想いが理性を飛ばすなら、それはもう想いじゃねえ……。それは……」

 少し間を置き、見つめる顔。酷く色の無いソレに、歯噛みする。

 そして、確かな真理を。

――それは、『怨念』だ――。

 突き付けられた言葉。けれど、何も揺らぐ事はなく。

「……テメェは、死んでから留まり過ぎた……」

 過ぎる顔。それが、悲しみに染まる。

「もし、このままテメェが堕ちるなら……」

 それでも、取るべき道はただ一つで。

「堕ち切る前に……」

 そして、出来うるのは自分だけで。

「オレが……」

 だから、告げる。せめても、響かせる為に。

「テメェを、終わらせる」

 彼女は、何も言わない。

 答えない。

 ただ、佇んで。

 ただ、目を伏せる。

 沈黙。

 沈黙。

 

 昏い空。

 紅い月。

 何処か遠くで。

 鵺が泣く。


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