春を過ぎ、夏を招く梅雨の湿気が少しずつ表れる時期となった。私は研究に実験を重ねる日々だ。
「タキオン、弁当持ってきたぞ」
「あぁ……すまないね……トレーナー君……」
私の担当トレーナー。出会って早々、私の薬を一気飲みした異常者だ。1年ほど彼と関わってきたが、彼の瞳にはどこか狂気を感じる。それは今も変わらない、むしろ以前までよりも濃くなった気さえする。
「今日は、ちゃんと食べるんだぞ」
「わかっているさ……君こそ、隈ができているよ……気をつけたまえ……」
「もちろん。それじゃ、俺用事あるから、絶対ちゃんと食べるんだぞ?」
「そうか……わかったよ……」
トレーナー君は部屋を後にし、薄暗い部屋に1人残される。トレーナー君が置いていった弁当箱を目の前で眺めるが、如何せんここ数日食欲とは縁がない。
それに研究の日々とは言ったものの、がらんどうの机を見れば誰でもわかるだろう。おおよそ研究や実験をしている風貌ではない。ここまでわかりやすいと、バクシンオー君やウララ君でも察しが効くのではないだろうか。
何も手が付かない、積み重ね続けた研究も、他人に迷惑をかけようが何をしようがこだわった実験も、今ではまるで意欲が失せてしまった。
「どうしてしまったんだ……私は……」
そう、あれは皐月賞の後、2週間ほどだっただろうか。いつも通り、徹夜明けの早朝、数時間ぶりに椅子から地に足を着いた時、不自然な違和感を感じた。
それから、数週間は違和感程度に収まっていたが、それは突然襲ってきた。立てないほどの激痛、私はそのまま、モルモット君に担がれながら病院に連れていかれた。診断結果は屈腱炎、ウマ娘にとっては不治の病と言われてる。
あの時のことはあまり思い出したくないが、眠れば無理矢理にでも思い出させられる。ここ数日、寝不足気味なのはこれが理由だ。脚に目をやれば腫れているのが見て取れる。椅子の高さを1番上に上げていないと、モルモット君もカフェも心配してくる。面倒くさいことこの上ないから1日の大半は座って過ごしている。
「はぁ…………億劫だねぇ……」
ふと部屋を眺める。カーテンを閉め切った旧理科準備室。私とカフェが間借りと称して占有している部屋。部屋を眺めれば、一つ一つと記憶が呼び起こされる。
部屋の半分は、私の座る研究室のような風体のスペース。もう半分は、カフェのコーヒーミルや豆の袋が立ち並ぶ、コーヒーの香りがするスペース。私とカフェが飲み物を取り違えたり、モルモット君が3600万色に光り輝いたり、シャカール君とロジカルについて討論したり。今更、自分が懐かしい記憶に思いを馳せるとは思いもしなかった。
「気晴らしだ……少し歩こう……少し痛むが……まあ大丈夫だろう……」
廊下は橙色の夕日が射し込んでいる。窓の外には、今しがたトレーニングを終え、校舎に戻ってきたであろうウマ娘達が見える。様子から見るにおそらく新入生だろう。期待と不安の入り交じった目をしている。
選抜レースで結果を残せるか、スカウトを受けられるか、スカウトされずとも逆スカウトをできるかどうか、そういった不安、焦燥、期待……
私は経験したことないが、この時期の新入生は大抵同じような目をする。この学園では私のほうが珍しいというのは自分でも理解しているが、あぁ言うのはよく分からないな。
そもそも、私は端から私自身が走ることを諦めていたのだから、期待感や不安など皆無なのは明白だろう。
モルモット君が半ば強引に私を走らせなければ、私は今頃…………
「タキオンさん……?」
「……カフェか……」
漆黒の髪を夕日に照らされながら、心配そうな眼差しを私に向けている。トレーニング終わりなのか、トレセン指定のジャージに身を包み、少し汗ばんだ様子だ。
「タキオンさん……その……脚は……」
「なに、少し歩いた程度だ。心配しなくとも……そんな顔しないでおくれよ……」
カフェにはあまりそう言う表情は似合わないのだが、私に苦言を呈す資格などありはしないだろう。私を心配するその表情をさせているのは、他でもない私自身なのだから。
「部屋まで送ります……痛みがあるなら……肩……貸しますよ……」
「…………いや、大丈夫だ。もう戻るからね」
「そう……ですか……送ります……」
「大丈夫だと……いや……そうだな、頼むよ」
ここで断ればより一層カフェに心配をかけてしまう。気は進まないが送るだけ送ってもらったほうがいいだろう。
カフェと隣合って歩くのは久方ぶりだ。理科室と寮以外にはほとんど出向いていない上に、大抵はデジタル君とモルモット君が送り迎えをしてくれているからだ。隣のカフェは私の脚をこまめに確認しながらゆっくり、私のペースに合わせながら歩いている。余程心配なのか、私がほんの少しでも歩きづらそうな挙動を見せると血相を変えて話しかけてくる。
「カフェ、そこまで心配しなくとも1人で歩ける程度までは回復して……」
「……それでも……です……あんなの見てしまったら……心配にも……なります……」
「そうか、すまないね……」
「謝ることなんて……ないです……」
カフェがこんなにも心配性の甲斐性なしなってしまったのは私のせいだ。私からは何も言えない。私自身が根源なのだから。せめて少しでも心配をかけないように徹する他ない。
「ほら、もうついたよ。君もトレーニング終わりで疲れているだろう? 早めに寮に帰りたまえよ。私は大丈夫だ、モルッ……トレーナー君か、デジタル君が迎えに来てくれるからねぇ」
「………………」
「カフェ?」
「タキオンさん……なんで……あなたのトレーナーさんのことを……[モルモット]と……呼ばなくなったんですか……」
「…………」
「答えて……ください……あなたはここ最近……[モルモット]と呼ぶことを……意図的に避けています……なぜ……ですか……」
「…………なに、実験をしなくなったからねぇ、モルモットとは実験動物のことだ。実験しないのだから、モルモットではなくなった、モルモットではないのだからモルモットと呼ぶのは不自然だろう?」
些か饒舌だっただろうか、これではますます疑いを持たれてしまうかもしれない。実際、カフェの目には疑いが見える。ここで追求でもされれば面倒事になりかねない。
「……わかり……ました……あまり無茶はしないこと……ですよ……」
当然、疑いは晴れてはいないらしい。カフェはその懐疑心を孕んだままの瞳を閉じ、帰路についた。
「行った……か。さて、あとはあれらを家に送り、これを提出すれば終わりだ……モルモット君とカフェに気づかれないうちに終わらせなければね……」
部屋の片隅の一区画、わかりにくいように黒いシートを被せているが、その下は山盛りと言うほどでは無いがそれなりの数があるダンボール箱、そして……
「退学届……自ら書く羽目になるとはね……」
退学届。字面通りに学園側に退学する意思を示するための書類。私自身が届出を出すのではなく退学勧告、つまり追い出される形になると思っていたのだが、未来とはわからないものだ。
気づかれないよう、必要最低限の物だけまとめようとしたが、予想外に多くなってしまった。多かったものは以外にも薬品でも、実験器具でもなく、アルバムだった。そもそも、薬品や器具など放置して行っても大して影響がないというのもあるが、この学園で過ごした日々は存外悪くなかったのだろう、写真の中の私は笑顔だったり、驚いていたり……楽しそうで……
「……羨ましい限りだ……」
写真の中の自分に嫉妬するほど、私は今気が滅入っているらしい。それもそうだろう、皐月賞という大舞台で華々しい勝利を飾り、自分自身の脚で果てを見れると思った矢先のことだったのだから。
いつもの私なら、脚の違和感などすぐにモルモット君に伝えるはずなのだが、その時の私は躊躇してしまった。後から理由を自覚したが、あの時の私は……怖かったんだ……もし伝えたせいで、走るのを諦めることになり、夢の果てに辿り着けなかったら……カフェ達と……モルモット君と同じ道を歩むことが出来なくなったら……そんな恐怖からか、私は脚のことを誰にも言わなかった。
今思えばただのバカだ、伝えていれば多少なり改善の余地があったかもしれないのに……
「かもしれない、か…………私も落ちたものだね……最初から、決まっていた結果だろうに……」
そうだ、私は最初から諦めていただろう。自分のこの脚では叶わないと理解していただろう。だからこそ、プランBを用意していたんだ。マンハッタンカフェに全てを託すことで、果てを見ようとしていただろう。なのに……なのに……
「どうして……室内だというのに……雨が降るんだ……」
心に巣食う願望。まだ走りたい、まだ彼と共に歩んでいきたい。その感情が、瞳から雫となって零れ雨となる。こんなに辛いのなら、こんなに苦しいと知っていたら、あんな選択はしなかった……
「いや……違うな……わかっていたとしても……きっと……」
きっと、私は選んだ。この道を……どんな結果になろうとも。彼という狂気に魅せられてしまったのだから。
彼の狂気を孕んだ眼差しは、私だけに向け続けて欲しい。ただのちっぽけなわがまま。そんなわがままが、未だに彼を私のそばに居続けさせている。とうに潰れた私が、彼を縛りつけ、才能を潰している。彼を巻き込み、彼を魅了し、彼という才能を壊れかけの泥船に乗せてしまった。
「とんだクズじゃないか……私は……」
アグネスタキオンを壊したトレーナーという汚名を着せ、世間からの批判や中傷を受けさせ、非のない彼に苦痛を強いて。それだというのに、どうしても、離したくない。その感情が今の今までことを起こせずにいる証だ。
シャカール君的に言うなら、ロジカルじゃない。理もない、得もない、何もない。自堕落に彼の時間を無駄に消費しているだけの足手纏いだ。
自身の願望を拭いきれず、彼のキャリアを邪魔する害悪。会長君的に言うならば、一夜十起だろうか。私情に左右され、私心を捨て去ることができない。今の私そのものじゃないか。
やっと決心が持てそうだ。事実を並べて、自己理解をしてやっと。なんなら、遅すぎるくらいだが。彼なら、この期間に新しい担当を見つけ、すでに信頼を勝ち取れていた頃だろうが、まだ巻き返せる。重い身体に鞭打って準備してきたものが、ようやく実る。
今日、今すぐに届け出を提出して、明日か明後日にはこの学園ともお別れにしよう。綺麗さっぱり、アグネスタキオンなんてウマ娘いなかったかのように。善は急げだ、今すぐにでも……
「タキオン、ちょっといいか?」
「モル……トレーナー君、なんの用かな」
なんて間の悪いことか。手には退学届、表情は諦めと決意が混じり合ったもの。この状況では彼に気づかれてしまう。ここまで来たんだ、なんとしても誤魔化さなければ。
「今日は用事があるんじゃなかったかい?」
「用事なら済んだよ。それより、その封筒ってなんだ?」
「君には関係ないさ。君が心配すべきなのは私ではない担当のことで……」
「退学届だろ?」
話題の変え方があからさま過ぎたか。失敗した、こうなるならもっと早くにけりをつけるべきだった。
どうやって誤魔化す、どうやって逃げ切る。今、この場を凌げるなら何だっていい。何かないのか、なにか……
「タキオン」
「……なんだい」
「その封筒貸してくれ、何もないなら見せれるだろ?」
「いや……それは……」
「いいから貸せ!」
私が怪我をして以降、あまり怒らなくなったトレーナー君が、珍しく声を荒げたことに気圧されてしまい退学届を奪われてしまった。まずい、あれを見られたらいよいよ言い訳のしようがない。
「やっぱりか」
あぁ……ここまで隠し通してきたというのに、ここに来て、最後だけを間違えた。また同じようなミスをした。だが、どうせ引き返せないところまで来たんだ。見られたからなんだ、知られたからなんだ。ここで引いてしまったら、また……また過ちになってしまう。
「どうするつもりだい……代わりに提出でもしてくれるのかい……どうせだったら契約解除の書類も……」
「心配すんな」
「そうか……なら、今日中に提出を……」
「お前を辞めさせる気はないからな」
「は……? なにをして……」
辞めさせる気はない。そう言うとトレーナー君は私から強奪した退学届を紙吹雪のように破った。
「なっ……どうして……」
「言ったろ、辞めさせる気はない」
「君は……私がどんな思いでそれを書いたと思っているんだ……」
もっと走りたい、もっと知りたい、もっと……もっと……
「君と……一緒に居たい……でも……!!……私は……もう走れない……だから、辞めるんだ……!……これ以上、君の経歴に傷も空白もつけたくない……だから……だから……」
「俺がそんなもののために担当を決めたって思ってるのか?」
「それは……違う……だろう……けれど……!」
あの日のことは忘れもしない。退学勧告を受けそうになっていた私の見るからに怪しい試験薬を一気飲みした狂人との出会いなど、忘れるはずもない。
結局、その狂い人は私の担当となり、わがままの多い私に愛想を尽かすこともなく、共に果てを目指し、共に夢を見る者となった。だからこそ、そんな無二の存在を、沈みゆく泥船の道連れにはしたくない。彼と数年を共にした私ならわかる。彼の才能はこの学園に、次代を築くウマ娘たちに必要なものだ。ガラスの割れた私が縛っていい訳がないんだ。
「私から離れてくれ……君をこれ以上不幸にしたくないんだ……君には未来があるだろう……私のような、終わったウマ娘なんて捨てて……」
「不幸なんて今まで一度も思ったことない。俺は他でもない、アグネスタキオンの走りに魅入られたんだ。お前が辞めるなら俺も辞める。一生かけてでも、お前がまた走れるようにする。だから……諦めないでくれ」
「どうして君は……諦めさせてくれないんだ……なぜ……最後の最後まで……私を見ていてくれるんだ……」
「当たり前だろ。俺はアグネスタキオンのトレーナーで、お前のモルモットだからな」
「そうか……そうだね……君は……君は私の……モルモットだ……そこまで言うんだ……その狂った瞳に……ずっと私を映していてくれるんだろうね……」
「当然だろ? それに、お前がまた走れるかもしれない方法が見つかったんだ。時間かかったけどな」
「まさか、そのために……君は本当に、狂ってるね……私なんかのためにそんな隈まで作って……ほんとに……狂ってるよ……」
「褒め言葉だと思っとく。ほら、お前に泣き顔なんて似合わないだろ? お前が走りきるためならなんでもする、モルモットでも、なんでもやってやる。だから立ち上がれ、アグネスタキオン」
幼い頃から焦がれた可能性の果て。自らに見切りをつけれないでいた私の手を強引に引き、私自身の脚で走ることを選ばせた君。ガラスの脚を持った私という泥船を、豪華客船と信じて疑わない狂った精神の持ち主。
その瞳にいつしか私も魅了され、君とならできると思うようになった。
「ふふっ……わかったよ、モルモット君。君の瞳が私しか映さないと言うなら、行く道は一つだけだ。君の覚悟は理解した、思うがままにこの泥船に乗るがいい」
――さあ、プランAを再開しようか――