逢魔時、あるいは大禍時。人々の恐怖を誘う暗闇時。それは本来であれば魑魅魍魎が本領を発揮する時の際であるが、現し世に蔓延る呪わしき者どもは闇夜を待たずとも良かった。夜が明けて日が廻りまた暮れるまで、際限なく人間の恐怖を掻き立ててくれる存在がいるのだから。
呪いの王、両面宿儺。四つ目に四つ腕の異形。彼の者が現れて後、身分を問わず人という生き物に安息の時はなかった。
この世の全てが彼を満足させるためだけに存在する。気に入らない者は甚振り殺し、奪い、喰らう悪鬼羅刹、圧倒的な力はまさに異次元。数多の退魔師が宿儺に挑むも尽く返り討ちに合い殺された。
その力の前に民は為すすべなく恐れ慄き平伏し、彼の機嫌を損ねないことだけを考えなければならなかった。やがて呪いの王は神とまで崇められ、生贄さえもが差し出されるようになった。
そして人の負の感情は澱み積み重なって呪いと化す。宿儺によって掻き立てられた人々の呪いが多くの妖怪変化を育み、更なる混沌を呼んだ。
この平安の世は名前とは裏腹に、正しく呪いの世というべき暗黒の時代だった。
ここに一人の凡夫がいる。
男は都で有名な術師の一族の一人だった。都を影から支える守護者の一人として、人々の安寧を脅かす災厄を排するため、しかし無謀にも宿儺に対して独りで戦いを挑んだ。男は暗殺者でもあった。
実力差は明白だった。如何なる才能も宿儺という圧倒的な力の前ではただの非才に過ぎないという現実を突きつけられるのみ。彼は実力を見誤った。いや、自らの実力ならば届き得る、そうあって欲しいという祈りがあった。
現実は非情だった。死力を尽くしてもなお届かず、無惨にも四肢を刈り取られ、こうして地に這いつくばり見下されている。
「都の人間が尽く抵抗をやめて久しい。今時分俺に一人で挑みかかるとは呆れた自信家だと思ったが、成る程その無謀に足る力はあったな。…フン、逆に言えばその程度だが」
宿儺は偶に戦いに愉悦を覚えることがあった。人が培ってきたものを刈り取り、吟味することに意味を見出す。
全てを出し尽くしてもなお届かない強者の余裕。宿儺からの称賛の言葉も自らの無力を嘆く男には届かない。男は奥歯を噛みしめることしか出来なかった。
「ククッ、その力と生への渇望、余程死にたくないと見える。そうだな、今は少しだけ機嫌が良い。犬畜生の如くすり寄ってくる下奴の群れは間に合っているが…、我が軍門に降り、余生の全てを俺のためだけに使うと誓えば助けてやらんこともないぞ?」
それは呪術的な契約の提案だった。己の命惜しさに世を呪う側に立てば助かる。
ケヒッ、ケヒッ…。男の全てを見通しているかのように宿儺は嗤う。彼の言う通り、確かに男はこの様な無様な死に様は望んでいなかった。欠けた四肢から流れ出る血が熱を奪っていく。残る命の刻限は短く、死と虚無への恐怖が男の精神を苛む。
宿儺は気まぐれに救いの手を差し伸べることで、男が己の命惜しさに心を傾けている様子を嘲笑っていた。
だが男はどこまでも呪術師だった。それは恐怖を克服し、呪いの力に変える術に長けた者。
宿儺の言いなりになって世に災厄をもたらすくらいならば自ら死を選ぶ。今自らを形作っているのは呪いを祓う呪術師としての矜恃のみだと自分に言い聞かせて。
「くたばれ、下郎が」
その言葉を最後に、男はわずかに残る力を振り絞り、術を使うことで自らの首を刎ねた。
望月の明かりの下に朱が舞い、微かに鬼神の頬を濡らす。
宿儺は転がり横たわった頭蓋と目を合わせる。察した通り、湛えきれぬ無念を映した瞳だった。
「フン、下らん。自らの本意に反してまで守るべき物など有りはしないだろう」
況してや自死は悪手だ。多くの無念、怨念が渦巻く呪われた現し世を過ごしておきながら、自らが人に仇為す呪いに転ずる可能性に気づかないうつけ者…。
いや、それこそが男が心の奥底に秘めた真意であるのならば。
「クックッ…、傑作だな。道化として取り立てればよかったか」
呪いの王は邪な笑みを浮かべながら男の残骸に背を向けて歩き出した。
それからどれだけ時が経っただろう、血に濡れた夜闇に影が蠢いた。
散らばった男の遺骸は腐食を待つことなく、いつの間にかその場から消え去っていた。
「…
俺の名を呼ぶ声がする。
寝起きに聞きたくはないしゃがれただみ声だ。
寝ぼけ眼で、よだれでべったりになった教科書から顔を上げて状況を確認する。ここは教室のど真ん中の俺の席。そして社会科の中村が俺の机の隣で教科書を丸めて頭上から振り下ろそうとしていた。
俺はその攻撃を間一髪で回避することに成功した。
「あぶね、暴力反対ですよ」
「呼んでも小突いても起きんお前が悪い!全然起きんから死んでるのかと思ったわ!」
「死人の頭叩こうとすんなよな」
本当に体調悪い可能性だってあるんだぜ。まあ今まで風邪一つひいたことないけど。
それにしてもそんなに深く寝入ってたのか。
「そんなに眠いなら廊下に立っててもいいぞ?」
「いやもうバッチリ起きましたんで、どうぞ授業を続けてください」
「チッ、生意気な奴め…。もう寝るなよ!」
「はーい」
中村は鼻を鳴らして教科書を読み上げ始める。
俺は教科書を読むフリをして、窓から空を眺めていた。
この教師の悪い癖、京都の学生なら知っておくべきと言って、隙があれば平安の歴史についての話が始まる。ここ滋賀の学校なんだけどな。
これは教育課程とは無関係の彼個人の趣味でしかなく、興味のない者からすれば退屈な授業だ。俺は興味がないというのとはまた違った意味で無意味な時間だと思っている。
平安時代、俺たち呪術師にとって最も重視すべき呪術全盛の時代、全ての始まり。およそ西暦1000年前後、呪いの王、両面宿儺の登場によって人の世は恐怖で塗りつぶされ、そしてその記憶、彼に征服されたという恥辱を忘れるために多くの記録が捏造されたという。数多くの真偽不明な逸話を持つ彼も一応限りある生を持った生命体だったのか、宿儺が没した後にようやく人の時代が再開されたのだ。
すなわち今教壇で語られているのは偽りの歴史、真の歴史は呪術の存在と共に現代まで秘匿されている。術師と非術師、俺たちは同じ世界に存在しながら、ほんの少しだけずれた、全く異なる現実を見ている。
人が持つ負の感情が呪いの力『呪力』となり、澱となった呪力は人に仇為す『呪霊』となる。そして呪力を扱い、呪いを持って呪いを祓うことを生業とするのが呪術師と呼ばれる存在だ。非術師とは読んで字のごとく術師ではない存在、呪力を扱う事が出来ない者を指す。
『
禪院家という日本有数の呪術師の名家から約千年前に分かれたとされるのが御門家だ。そして現在までの間、かなりの数の術師の家系と血を交えてきたにも関わらず、御門家の血を引くものは決して術師の才能を見せることがなかった。呪力を扱うのとは別に視ることも才能の一つだが、それすら持ち得なかったという。
ある意味で呪われた血筋として呪術界から追放され非術師として生きてきた御門家だが、術師の才能の継承法則を調べるためだけに血を記録することを禪院から義務として押し付けられた。
そんな家に術師の才能を持って生まれた俺はある意味特別なんだろう。だけど特別なことに意味なんてないことを俺は知っている。
退屈な授業のせいでつまらないことを思い出してしまった。考えても仕方ないことは考えないようにしているというのに。
浅く溜息をついていると、丁度よく予鈴が鳴った。
「今日の授業は終わりだ。皆睡眠は夜に十分取るように」
中村は明らかに俺の方を見ながら小言を言い残して教室から去っていった。
まあ授業中いつも寝てばかりなのは確かだから何も言えない。しかし毎日朝から晩まで呪術の修行で体力を使い果たしているから仕方なく学校でも休養しているだけだ。
休み時間になり各々が次の授業の準備をしたり駄弁ったりしている。性懲りもなく欠伸をしていると横から級友に話しかけられた。珍しい。一応小学校からの付き合いの腐れ縁だがあまりにも俺の付き合いが悪いため疎遠になっていたのだが。
「相変わらずいい爆睡ぶり。また夜遊びでもしてたんかよ?」
「失礼な、学校一品行方正な優等生に向かって」
「見た目金髪ヤンキーの不良が何言ってんだ。品行方正な奴は居眠りしねーよ」
「まあおっしゃる通りだな」
コイツの言うように俺の見た目は少々派手である。染めてるのは地毛が白髪で非常に目立つから。金髪も目立つだろって?ジジイ呼ばわりされるよりマシだ。それに黒だとそのうち天辺だけ白くなってカッパの皿みたいになるのだ。
「で、その優等生な御門くんは放課後暇だよな?久々にカラオケいこーぜ」
「悪いけど今日はちょっと用事あるから無理だ」
「…今日も、の間違いだろ。んだよ、付き合いわりーなぁ。お前がいると女子の食いつきがいいのによ、ムカつくことに」
「欲望を隠しもしないなお前」
用事があるのは本当。ただ別に今日じゃなくてもいいんだけど。
人付き合いは最低限のみ、よく付き合いが悪いと言われるが知ったことじゃない。クラスメートのどうでもいい用事に付き合うよりは呪霊を狩っていたほうがまだ有意義だ。
呪術師は圧倒的に人員不足であるにも関わらず年々呪霊の出現数もその強さも上がってきているという。呪術師の養成機関である呪術高専の学生も呪霊祓除に駆り出され、少なくない数が実力を伸ばし切る前に殉職する。いつまでたっても人材不足は解消されず残った術師の負担が増していき、取りこぼした呪霊が一般の非術師に被害を及ぼす。
とにかく蛆のように湧いてくるあの害悪生物どもが存在する限り呪術師に呑気に遊んでる暇などない。
放課後、宣言どおりに用事を済ませることにした俺は速攻で校舎を出て北西の山の方角へ向かった。
途中人気のない路地に入り、俺は周囲に誰も居ないことを確認して自らの影に荷物を全て放り投げた。
そして地面に落ちた荷物は音を立てることなく“影の中”に溶け込んでいった。
これが俺の術式、『
無形影法術は自分の影の中に空間を作って物を収納したりすることが出来る。一応この術式は俺が禪院の血筋に連なる者であるという証拠でもある。禪院家相伝の術式の中に『
だが影空間の能力だけでも十分汎用性がある。
俺は西日によって出来た建物の影を踏み、そのまま自分を溶け込ませる。
術式は術者の解釈次第でその潜在性能を引き出すことができる。この影空間は術者自身も入り込むことができ、自分の影という認識をずらすことで影から影を伝って移動することも出来る。呪力は消費するが走るよりも速く目立たずに移動することができ、収納用途と合わせて俺の術式のメイン能力といえるだろう。
影を移動すること十数分、俺は今京都と滋賀の県境、比叡山の山中にいる。中腹あたりまで来たところで、一般道から草木が生い茂る獣道へと入っていく。そしてとある木に目印として刻んである呪痕を見つけた。
ここには特殊な結界が張ってあり、呪力を纏った木の目印を頼りに定められたルートを通ることで目的地に到ることが出来る。
結界を踏破し木影を抜けていくと少し開けた土地に出た。質素な日本家屋と隣接した小屋が目に入り、俺はその小屋の方に歩を進めた。
人の気配が複数。来客だろうか、珍しい。
しかし俺は気にせず戸を開けて中に踏み入った。
「爺さん、来たぞ」
「おう陽明、ちょっと待ってろ。先客がいる」
小屋の中には三人の人物がいた。
そのうち一人は俺が爺さんと呼んだ長い白髪を後ろに流した筋骨隆々の老人、三条康平。彼は平安から続いている刀工の一門の一人であり、一般的な刀の他に術式が刻まれた道具である呪具を制作している呪具師でもある。
用事というのは頼んでおいた呪具の受け取りだ。別に急いではいないのでその辺で時間を潰すために外に出る、…その前に先客とやらの顔を拝んでおくことにした。狭い世界だし挨拶くらいはしておいた方が後腐れないだろう。
先客はこれまた筋骨隆々の老人と俺と同年代くらいの女の二人組、当然どちらも術師だ。というか老人の方には見覚えがあった。
「あれ、最高師範じゃないですか?お久しぶりです。御門陽明です、俺のこと覚えてます?」
「お前のような派手派手しい餓鬼は知らん、と言いたいところだが。その琥珀の瞳…覚えがある、直久の弟子か」
「あ、良かった、覚えてた。俺が入門して以来だから大体7年ぶりくらいですね」
俺は老人に向かって軽く会釈した。
この人はシン・陰流という呪術流派の最高師範で一度だけ面通しをしたことがある。一応俺の師匠の師匠でもある。
「よく鍛えてある。その様子では厳しく扱かれているらしいな。直久は健在か?」
「ええまあ。仕事が減らないって言って常にぼやいてますよ。そちらも呪具を?」
「こっちの弟子の得物を少しな。来年高専に入学するからその餞別だ」
「へぇ、高専」
俺も来年は呪術高専に入学する予定だから同期ということになる。
こちらの様子を窺っていた少女の方を一瞥する。長い青髪にパッツン切りそろえた前髪が目立つ。見た感じ染めてる訳ではないのに珍しい髪色だ、呪力の影響か何かか?
そして呪力の纏い方が少しぎこちない。まだ修行を始めてまだ日が浅いようだ。正直パッと見でも前線で戦わせるには心許ない練度だが、その分伸び代はある。これから次第だろう。
と、偉そうに品評をしていると向こうの方から話しかけてきた。
「三輪霞と申します。…もしかして同門の方でしょうか?」
「まあな。俺は御門陽明という。俺も来年高専に行く予定だから、キミが京都校なら同級生ってことになる。ヨロシク」
「えっホントですか?よ、よろしくっ!」
三輪は思いがけない未来の同級生との出会いに驚いたようだ。高専の入学者は毎年少数だから、一人も同級生がいない年だって有り得るのだ。
取り敢えず一通り挨拶を終えたところでどうやって暇つぶしをしようかと考えていたところ、壁際に立てかけてある見覚えのある呪力を湛えた刀を見つけた。多分アレだな。
「爺さん、もうアレ持っていっていい?」
「待っとけってのに、せっかちな野郎だな。金はちゃんと振り込んどけよ。入学祝いで半額にしてやる」
「元々半分は俺に所有権あるだろ。四分の一にしてくれ」
「それ込みで半値だ」
「じゃあ別に割り引いてないじゃねーか。ケチだな」
まあご贔屓割で安く打ってもらってるからいいけど。
俺はその黒い鞘に納められた刀を手に取って検めた。刀身から柄まですべてが漆黒の影のような刀。それを一度影の中に納める。これでリンク完了。
「十種影法術か。いい術式を持っているな」
「俺のは影だけで十種の式神は使えませんよ。ちょっと性能を確かめてきます」
俺は一同にそう言い残して小屋から出ていった。
先程も言ったが俺は十種の式神を使うことが出来ないから俺自身が戦う必要がある。刀剣類は呪術師にとって白兵戦能力を底上げする手段の一つだが、自分の肉体よりも呪力で強化するのが格段に難しく、思ったように威力が出ないばかりか刃が折れたり欠けたりと難点が多い。俺も修行を始めたばかりの頃はよく刀を折って師匠に叱られていた。
これはその難点を全て解決するために考案した俺専用の呪刀。鋼を鍛える段階で影の術式を編み込み、俺の影とリンクさせることで復元性能を付与した。例え刀身が欠けたり折れたりしたところで一度影に戻せば元通りの形となって現れる。さらに俺の呪力に高い親和性があり自分の身体と遜色のないレベルで強化することが出来る。この辺の性能は事前に確認済みだ。ただ加工するのが困難で、三条の爺さんには頑張ってもらった。
小屋の前に巻藁を並べて相対する。
シン・陰流は抜刀術に重きを置く流派、鞘内で呪力の密度を高めて弾丸の如く刀を弾き出す“抜刀”が基本技能となっているが、呪力を使わない抜刀術も繰り返して訓練している。
呼吸を整えて鞘と柄に手を添える。そして最も力を発揮できる間を掴み、一気に刀を弾く。
「おおっ、巻藁5つを両断…、今呪力使ってませんよね」
何故か見物していた三輪が感心したように声を出した。
「刀の素の切れ味が知りたいからな。呪力を使ったら抵抗も何もわからん」
今のでも殆ど抵抗が無かったが、取り敢えず相当な業物に仕上がっているということだけは伝わってきた。
次に俺は呪刀を地面に突き刺して柄を手で支え、刀身の腹をある程度の力を込めて蹴った。
「ええ!?ちょ、何してんですか!?」
「どのくらいでぶち折れるか確かめてんだよ。まあ見てな」
俺の奇行に驚いた様子の三輪を無視して作業を続ける。
呪力を込め、次第に蹴りを強くしていって衝撃を加える。ある程度のところで刀は耐えきれずにバキンと音を立てて折れた。
普通の鋼よりだいぶ丈夫なようだ。剛性も高くて切れ味の良さに寄与している。術式を抜きにしても良い刀だ。
すぐに折れた刀を影に収納する。刀は中で再構築され元通りになって再び影の中から現れた。
「元通りになってる…。いいなー、私もほしーなー」
「残念ながら俺の術式とセットの呪具だから無理だ」
「そうですか…」
でも複数本作って使わないものを人に貸し与えるというのは経済的にいいかもしれない。
取り敢えず俺の用事のうち一つは終わったわけだが、帰る前に爺さんに礼を言わなければならない。
鍛冶小屋の中に戻る前に先程から向けられている視線に応えることにした。
「何か言いたそうだな。同年代の術師が珍しいか?」
「それもそうなんですけど、さっきの太刀筋見ててもすごい技量だなーって」
「寝る間も惜しんで刀振ってるからな、さっきのくらいは寝てても出来る。三輪は最近呪術師になった感じ?」
「最近っていうか、私は中1のとき師匠に誘われてからです。まだ低級の呪霊を祓うのだって師匠に付き添われてなのに、来年からやっていけるのかちょっと不安でして…」
「うーん、パッと見だけだけど、正直まだまだ力不足っぽいからもっと修行したほうがいいよ」
「えぇ…滅茶苦茶ぶっちゃけますね…。結構ヘコんだんですけど…」
だっていい顔してテキトーにおだてたところで強くなるわけじゃないし。呪術師なんて実力があってなんぼの世界、力がなければすぐに死ぬんだから彼女のためにも少し辛口にならないとな。
とはいえ初対面の相手に言うべきことではなかったか。
「まああの人にスカウトされたんなら素質はあるってことだ。死ぬほど努力すればいずれ1級術師にだってなれるって」
「死ぬほどかぁ…。それってどれくらいですか」
「毎日シン・陰の抜刀一万回、一年くらいやれば剣術も呪力操作も嫌でも身につく」
「………。え、冗談?」
「いや本気だけど」
三輪は頭がおかしいのかとでもいいたいかのように目を点にしているが、これは既に証明された事実。俺の師匠はそれで術式を持たずして1級術師になった。当然俺もやっていた。
延々と続く基礎の反復の中で無駄な動き、無駄な呪力消費を極限まで少なくする作業だ。まあ実際は修行をこなすための基礎能力というものも必要だが。
あ、目を逸らされた。
「うん、出来る範囲で頑張ります」
「……」
まあいい、どうせ来年には同期だ。お前らには頑張って強くなってもらう。それが俺の望みを果たすことにも繋がるのだから。
三条の爺さんに礼をして小屋を後にした俺は、また比叡山山中を進んでいた。
延暦寺の近く、人払いの結界が敷かれている空き地があり、とある目的のもとに俺はそこに立ち寄った。
逢魔時。暗闇は人の根源的な恐怖を誘い、呪霊共にもわずかながらも力を与える。
陽が殆ど沈んで影が広がっている。俺の術式は宵闇との相性がいい。
そうして夕暮れの森の景色を眺めていると、フッと立ちくらみがした。
―――“奴”と対峙したのも、このような夕闇の中だった。
…ふとした拍子に今みたいにデジャヴのような感覚を覚えることがある。自分が自分でないような感覚。
眠いのか、集中力に欠けているのか、やはり少しだけ疲れているのだろう。
「大丈夫ですか?体調がすぐれないとか」
空き地で待機していた黒のスーツ姿のメガネの男性が俺に声を掛けた。
「いえ、大丈夫です」
少し気分が悪いのは確かだが思考の空隙などは特に生じていない。問題はないだろう。
この男性は補助監督と呼ばれる高専の職員だ。呪術師のサポートがメイン業務で送迎や結界による人払いなども行う。
京都には古来から陰陽道に則った結界が張り巡らされており、かつての平安京から見て北東の鬼門、南西の裏鬼門に向けて呪力が吹き溜まるようになっている。そうしたホットスポットを設定し、定期的に湧いてくる呪霊を呪術師がその都度処理をすることで呪術の秘匿や非術師への被害を最小限に抑えることに繋がっている。当然放置すればするほど呪力が溜まって強力な呪霊が生まれやすくなってしまうため、掃除はこまめに行わなければならない。京都周辺の呪術師には日夜呪霊祓除の依頼がもたらされ、専門にしている術師などは掃除屋なんて呼ばれ方をしたりもする。
高専準拠の任務と同じく呪霊の等級によって依頼を受諾するための資格が必要だが、俺はまだ高専入学前なので正式な等級資格は持っていない。ただこの依頼はそれまでに祓った呪霊などを考慮したみなしの特別資格でも受けることが出来る。祓った呪霊については基本的に自己申告という杜撰さだ。
特別1級については自他ともに認める実力者であることが多いが、特別2級以下の場合は客観性に乏しい評価で実力が伴っていないことが多く、術師の殉職率増加に寄与している面があることは否めない。即金を求めて分不相応な危険を冒した奴から死んでいく。ただ万年人手不足の呪術師業界を回すためには必要な措置であるから黙認されている状態だ。
「この“帳”の中に呪霊がいます。今朝発生した個体で数は1体、等級は2級相当と思われます。術式は持っておらず、特徴といえばかなり巨体だということでしょうか」
「ご丁寧にどうも。じゃあ入ります」
「ではご武運を」
目の前の黒い壁に手を突っ込み、手は弾かれることなく空を払うように壁を貫いた。
これが“帳”。非術師の目を欺くための人払いのための効果がメインだが、設定した条件によって対象を閉じ込めたり弾いたりする物理障壁の機能を持たせることもできる。あと地味だが呪霊の気配を浮かび上がらせる効果なんかもある。
帳の中を少し進むと全長10メートルばかりの巨大な異形が鎮座していた。獅子の前足と胴を持ち下半身が蛇のようになっている呪霊だ。顔は歯をむき出した魚のような形態をしており、見る者に嫌悪感を覚えさせる作りをしている。2級相当…間違ってはないけど、なんだかな。
術師の等級は呪霊を確実に祓えるという基準で定められる。そして呪霊の等級は規格外の特級を除き、上の方から1級、準1級、2級…と分類される。この内準1級と2級の間に壁があり、呪霊が術式を持つ個体かどうかで分かれるため、分類上2級と見做されていても強さは準1級レベルということが往々にしてある。こういう場合偶に2級術師が事故って死ぬ。俺がクソ欠陥分類と呼ぶ理由の一つである。
等級査定役の“窓”や補助監督は直接交戦しないから仕方ないっちゃ仕方ないんだが、どうにかならないものか。
自然界ではデカいやつは大体強いと相場が決まっている。呪力量もそこそこ。2級は散弾銃で倒せるクマとかと同等レベルという目安があるが、コイツをただの散弾銃で相手するとか考えたくもない。口から頭蓋内に連射してようやく殺せる感じだろ。
悠長に観察していたら向こうが痺れを切らして仕掛けてきた。
ブンッ、と尾を横薙ぎに振り払ってくる。結構速い。
無理に避けようとすると掠るかもしれないと判断し、攻撃を刀の刃で受け、自ら後方へ飛んで衝撃を逃した。今までなら刀の損耗を心配して避けていたから半分わざとだ。
吹き飛ばされながら刀を確認するが刀身は無事、逆に受けただけで奴の尻尾が切れてしまったようだ。
やっぱいいなコレ。さっさと斬り刻みたい。
10メートルくらい吹っ飛んだが、地面に叩きつけられる直前に自分の影に空間を作り出す。トプッ、と音にならない音を立てて俺の体は影の中に溶け込んだ。こうして術式を使う余裕さえあれば接地面に影空間を作ることで地形ダメージをゼロに出来る。今は辺りを闇が覆っており好き放題影を移動することが出来るだろう。
呪霊から離れたところに移動して顔を出し様子を窺う。一応隠れて不意打ちを狙うつもりだったが、呪霊は俺の居場所目掛けて一直線に向かってきている。優れた呪力感知能力を持っているらしい。
不意打ちは難しそうだが、それならそれでやることは決まっている。
俺は影に潜むのを止め、向かってくる呪霊に対峙した。
「シン・陰流、簡易領域」
シン・陰流の門下にのみ使用を許される汎用結界術。空間に術式を刻む領域展開の対策として伝わっている術式だが、俺は術式を中和する性能をわざと落とし、空いた容量にさらに空間感知術式を付与して運用している。結界術の専門家でもある俺の師匠が開発した戦闘用結界術だ。
これによって高速移動する動体の情報が正確に脳に伝わり、カウンターの構築に繋げることができる。能力を底上げするための“縛り”として俺は連続発動時間の制限を設けている。
最大60秒、クールタイムは発動時間の半分。コレを遵守することで、構え不要、最大展開半径5メートル、俺を中心とした結界の座標移動、感知情報の伝達時間短縮、さらに生得術式との併用可という性能を発揮できる。
呪霊はドリフト走行している自動車のごとく蛇行しながら高速で接近している。しかしどれだけ加速しようと関係ない。
次に左前足を踏み抜く地点に“ちょうどいい感じに”俺の影が広がっている。タイミングよく術式を発動したことで本来有るはずの地面からの反発が無くなり、呪霊は大きく体勢を崩した。
俺の反撃を察した呪霊は使える右足の爪を向ける。しかし俺はそれよりも速く敵の懐に滑り込み、鞘の内で限界まで加速させた呪力を解き放った。
真上に向けた黒い刃が半月のような軌跡を描き右腕と首を同時に刎ねる。普通の生物なら確実に死んでいる状態でも呪霊の場合は肉体が消滅するまで油断ならない。俺は潜り込んだ懐から一足で後ろに飛び退き、崩折れた残骸目掛けて刀を振るった。
「やべぇ、切れ過ぎて切れ味の限界がわかんねぇ」
細切れになった呪霊の肉片が煙を上げながら空に溶けていく。包丁で豆腐を切るより無抵抗でスパスパ切れてしまった。呪力量からそれなりに硬いだろうと思っていたのだが。
俺の呪力との親和性が高いというのはわかっていたが、呪力で強化するだけでここまでの威力になるとは思わなかった。比較のために一発くらい素手で殴っておけば良かったかもしれん。
そう言えばコイツにまだ名前を付けてなかったな、すっかり忘れていた。
「よーし、お前は呪哭刀だ。これから呪霊共の悲鳴をたくさん聞かせてくれよ」
名前は大事だ。思い入れというものが呪具に力を与えることもある。余り俺のネーミングセンスはないらしいが。
血振りして納刀し、影に刀を収納していると、呪霊の消滅を察知した補助監督が帳を解いたようだった。
俺は依頼達成の報告をするために彼の元へ向かった。
「お疲れ様です。流石、早かったですね」
「帳、ありがとうございました。朝から張りっぱなしだったんですよね」
「まあ仕事ですので。それにしても君は働き者ですね。良い事ですが、学生としても短い青春時代を蔑ろにしないようにしてくださいね」
「…善処しますよ」
俺に向かって諭すように言う声に平坦な声で返す。俺の周りの大人は事あるごとにこういったことを言ってくる。まあ確かに友達は少ないし修行や呪霊祓除ばかりでロクに遊ぶこともないのだが、俺なりの目的や目標に沿って優先度を付けているだけだ。いい加減鬱陶しくもなる。いい人なんだけどね。
「帰りは送りましょうか?」
「いえ、自分で帰ります。お気遣いなく」
その後、軽く報酬や事後処理の話を済ませて俺は帰路に着いた。
市街から外れた山の麓、ここに平屋の日本家屋がある。土地の広さは軽く400坪はあり、元々は武家屋敷が存在していた。しかし昔から近隣で呪霊被害が頻発していたこともあり、長いこと修繕もされず放置されていたところを取り壊して新しく屋敷が建てられた。広い土地には住居だけではなく天井の高い道場も併設されている。現在の住人は二人、俺と俺の保護者のみである。
月の影が差し込む暗い道場の中央で精神を落ち着かせる。
こうしてじっとしていると俺の過去、悔いと恨みに塗れた記憶が呼び起こされる。
7年前、俺の家族は呪霊に殺された。
鼻を突く鮮烈な血の匂い、視界を覆い尽くす朱、今でも鮮明に思い出せる。父も母も妹も、その場にいた非術師たちは皆生きながら肉を裂かれたのだろう。
当時、力もなく戦い方を知らなかった俺は2級の雑魚にすら手も足も出ずに地に這い蹲らせられた。力の意味を考えず日常を無為に過ごした結果がアレだ。
気づいた時には全てが終わっていた。高専に保護され、一人無様に生き残った。
これは際限なく湧き出る負の感情を鎮め、呪いの力に変える作業。呪力とは願いや想い、腐った現実を変えたいという願望により生まれる力ともいえる。
俺の願いは人に仇なす呪いの掃討。まずは呪術師の戦力を拡充しなければならず、今のままでは質も量もまるで足りない。術師が無意味に使い潰されないように総監部の人事、方針も変えなくてはならない。無駄に遊ばせている戦力がまだ呪術界には多く眠っている。俺一人に出来ることなんて限られているが、それでもやらない理由にはならない。
全てにおいてまずは俺自身が強くならなくては話にならない。五条悟、現代最強の呪術師はその戦闘力一つで呪術界に大きな影響を及ぼしている。彼が俺の当面の目標だ。
…物思いに耽っているとよく見知った人の気配を感じた。帰ってきたか。
「まーた、こんな暗がりで鬱々としてんのか。外まで呪力の気配漏れてんぞ」
入り口から低い男の声。
「お帰り。早かったな」
「皮肉か?一週間も任務で帰れなかったんだが」
「だから帰る時は連絡しろっつっただろうが。外で食ってきて飯作ってねーぞ」
「俺も食ってきたから別にいい」
月明かりに照らされる男。このよれよれのスーツを身に着けた、くたびれたリーマンのような風貌の彼が俺の保護者兼呪術の師匠である禪院直久だ。名前の通り禪院本家の血筋で俺の遠い遠い親戚。高専所属の1級呪術師の32歳、シン・陰流師範でもある。
俺の肉親が死んだ事件の担当者が直久だった。直久には家族を救えなかったことを謝られたが、当然彼のことを恨んだりなどはしていない。全ては俺の力が及ばなかったこととこの世の歪みが引き起こした惨劇だ。
ただ俺はその良心に付け込んで彼に弟子入りを申し込んだ。実際赤の他人の面倒を見るなんて厄介事以上の何ものでもないのだから何かしらの理由が必要だった。
そして呪術のイロハを全て叩き込まれた。今の俺があるのは全て彼のおかげといっても過言ではない。
返しても返しきれない恩がある恩人だ。
「さ、じゃあ腹ごなしに手合わせといこうじゃねぇか。修行サボってないかどうか、まぁお前に限ってはありえないだろうが」
「任務帰りで疲れてんだろ。今日くらい休んだら?」
「雑魚呪霊共相手にしただけでヘタるような軟な鍛え方してねぇよ。寧ろ体が鈍っていかんわ」
「体力お化けかよ」
学生の俺より体力が有り余っている三十路に少し引いた。これで基礎訓練もちゃんと熟しているというのだから脱帽だ。
いつも試合は木刀を用いて行う。これならば剣が自壊するギリギリまで呪力で強化したところで拳と大差ない殺傷能力しか生まれない。実力が天と地ほど離れているならいざ知らず、俺が成長して師匠の足元程度には及ぶようになった今、真剣を用いてしまえばどうあがいても殺し合いにしかならない。鞘走りは使えないというデメリットはあるが、打ち合いで木刀を折らないように呪力を調節するという呪力操作の訓練にもなる。
そうした打ち合い殴り合いの試合を続けること2時間ほど。
互いに感知結界を展開しての動きの読み合い、体術、剣術の練度、身体強化術の精度、全てが未だ直久に及ばない。俺は何度も打たれて転ばされ、吹き飛ばされたが、10回に1、2回程度の割合で僅かな隙を縫って一撃を叩き込むくらいは出来るようになっていた。
試合を終えてからも素振りをし、抜刀術の残りをやり終えてから鍛錬を終える。
結局この日も深夜0時まで修行漬けでボロボロになってから床に着くことになった。
修行で疲れた体を横たえて布団の中で目を閉じる。次第に夢見心地となり、自己の境界が曖昧になっていき、朧げながら思う。
日々着実に強くなっていっている実感がある。だが何かが足りないような気がすると、寝る前にいつも空虚感を覚える。
そしてあるとき不意に思い出す。
足りないのは力だ。日々の充実によって自分を誤魔化しているに過ぎない。俺はもっと強くなりたい。目的や理想などどうでもいい。ただ“奴”に届くくらいの大きな力を…。
今や眠気も覚め、力に対する本能的な渇望だけがあった。
その時唐突に、脳裏にノイズが走った。まるで俺の感情に呼応するかのように。
―――力は常に其処に在る。然れども汝これを手にすること能わず。忘れよ。
頭の中に止め処なく理解不能な情報が流れ込んでくる。
俺は強烈な睡魔に襲われ、抵抗もできずに意識を手放した。