昔、呪術を習い始めたばかりの頃の話。
夕暮れ時、街外れの薄暗い廃墟。俺は初めての実戦に連れて来られていた。
眼の前には呪力の煙、呪霊の消失反応。俺の右手には小さな子供でも扱えるような短刀が握られている。
腕組みして成り行きを見守っていた直久が口を開いた。
「今呪霊と対峙した時、どう感じた?」
「どうって、別に何も。明らかに低級の雑魚って感想くらい」
「…ハァ、そういうことじゃねぇよ。本当にお前は呪術師の鑑だな」
「?」
世辞でも言っているのかと一瞬思ったが、ため息をついてこちらを見ているのを考えるとどうやら違うらしかった。
直久はその場でしゃがみこみ、俺と目線を合わせて言った。
「お前は憎むべき親兄妹の仇を前にしてもマジで平然としていられるんだなって呆れてんだ。ちゃんと人の血通ってんのか?」
「いやその言い方は酷くね?」
まさかの罵倒、と思いきや、その目には別に失望や侮蔑の色はなく、真剣そのものだった。
だからまだ何か言いたいことがあるのだろうと思ったが、一応弁解はしておきたかった。
「仇っつっても呪霊なんてどうしようもない自然現象みたいなもんだし、今の個体が仇そのものってわけでもないし、一々感情向けてたらキリがないだろ」
「そうかい…、そうだな。まあお前が本当に呪術師らしく冷徹で割り切り上手な奴だったら何も問題はないんだが、中には割り切ったように見せかけて散々溜め込む奴がいるんだ。俺は外野で気に掛ける事くらいしか出来ねえから、一応な」
この時の彼は俺を見ていながら、どこか遠くの方を見ているような感じもした。
ただ仕事に耐えきれなくなっただけなら呪術師なんて辞めてしまえばいいだけの話であって、ここまで言う必要はない。だから多分知り合いが呪詛師堕ちでもしたのかもしれないと思ったが、わざわざ口には出さなかった。
「わかってるよ。溜め込みすぎて壊れんなってことだろ。まあ気をつける」
ほとんど悪口のように言いながらも直久は俺のことを心配してくれているらしかったが、分かりきったことを一々言われるのが嫌だった俺は、そうして軽く会話を打ち切ろうとした。
一応そんな態度を取ってはいても、俺は彼の言う事を真面目に考えていた。
自分の性質が本当はどうなのかなんて知らないし、いずれにしても変えようがない。負の感情が生じてしまうのは自分の理想と現実が乖離した時で、それは大抵の場合防ぎようがない。
何かを大切に思うからこそそれが失われたときの絶望は大きく、そこに呪いが生まれる余地がある。
そんな自然の摂理に逆らってでも呪術師は自分を強く律する必要がある。呪術とは呪いを扱う力であり、使い方を誤れば必ず人に不幸をもたらすことになるからだ。
ただ、俺の大切なものは既に掌から零れ落ちてしまっている。本当のところ俺はもう何もかも全部どうでもいいと思っていて、そんなどうしようもない空虚さを埋めるために途方もない大望を掲げて呪術師になろうとしたのだ。執着するものがなければ道を踏み外すもクソもないだろう。
…と、これまでは自分でそう思っていたのだが、それはどうやら間違いだったようだ。俺の師匠は俺よりも俺のことをよく理解していて、だからこそ懸念があったのだろう。
つまるところ俺の心は決して空っぽなんかではなく、その大半を占めているとある感情をキレイサッパリ忘れていたに過ぎなかった。
何故忘れていたのだろうか。自分でも吐き気を催すほど醜悪でドス黒い感情がそこにはあった。
十数体の呪霊。侵入者用の感知結界にも掛からないような、蠅頭に毛が生えた程度の存在。
見るからに呪力に乏しく低級であることがわかる。巡回中にそれらを発見した補助監督は、団体戦が行われている演習場の森から逃げ出してきたものだと判断した。一応競技場から逃げ出さないように結界は張ってはいるが、広範囲であることもありどこかに綻びがあったのだろうと。
全て捕まえて再び競技場に戻すのは骨が折れるし手も足りない。とはいえ4級程度の雑魚を狩るのに教師陣や五条悟を呼びつけるまでもない。実績作りを兼ねて、交流会を見学中の1年生辺りに処理を任せるのがいいか。
彼はそう考えてしまった。その雑魚呪霊たちが弱者を釣るための撒き餌であることなど知らずに。
故に最悪の呪詛師と最初に出会ったのは、陽明を除く1年生の3人となった。
京都高専正門前の広場に、龍のような姿をした一体の呪霊が降り立つ。
『
龍の背から降りた男は独り言を呟いた。
「そう言えばこれまで京都校には余り縁が無かったな。交流会はずっと東京だったし、任務で偶に立ち寄ったくらいか」
見るからに胡散臭い見知らぬ人間が空から降りてきた。
五条袈裟の長髪を後ろで結い上げた変な前髪の男。その見た目とは関係なく、力量差を見抜く目を持たない真依でも異常性は感じられた。
腐っても2級程度の実力まで自らを磨いてきた三輪は、目の前の男との間に隔絶した実力差を感じていた。
そしてメカ丸はこの場で唯一男の素性に思い至っていた。取り込んだ呪霊を自在に使役する『呪霊操術』を持つのは今の呪術界に一人しかいない。
「…十年も前に高専から離反したお前が一体何の用ダ、夏油傑。いいのカ?今は交流会の只中で五条悟も来ているんだガ」
戦意や敵意を消して尋ねる。この場で戦闘を行うには三輪達が邪魔だ。
既に高専の敷地を覆う結界によって侵入者の存在は伝わっているだろう。五条悟が来るまで会話で時間を稼げれば、少なくとも三輪と真依の安全は保証されるはずだ。
メカ丸の思惑を知ってか知らずか、夏油は悠長に会話を続けようとした。
「傀儡の身体…君は天与呪縛の傀儡使いだね。まだ若いのに私のことを知っているとは少し驚きだ。でも心配は無用だよ。私は悟に会いに来たんだ」
「何…?」
「私が高専と縁を切ってからもう十年にもなる。まあ少しばかり昔馴染みの顔が恋しくなってきてね」
夏油は何処か遠くの方を見ながら感慨深げに呟いた。
その様子をみるとあながち全くの嘘という訳でもなさそうだったが、当然それだけが理由ではないだろう。
「そんなことより、少し話をしよう。君達は今の世の中の在り方に疑問を覚えたことはないかい?呪術師の殉職率を知っているだろう?非術師たちの社会を守るために術師が消費されている現実が確かにあるんだ」
夏油が両手を大きく広げて問いかける。酷く演技臭くて仰々しい。
メカ丸は夏油が何処かの新興宗教の教祖をやっているという、先日盗み聞いた話を思い出した。
(なるほど。自分の思想に同調する同志を探している、ということか。至極どうでもいいな)
非術師も術師も関係なく、自分とっては全く関わりのない赤の他人。その上リアルに感じられない傀儡の向こう側の世界の話。
唐突に切り出された
「呪術師であることを選んだのは自分たちダ。任務中に死んだからといって文句を言うのは筋違いだろウ」
「境遇から呪術師になるしかない人もいる。それに呪術師にならなかったからといって術師が異端であることには変わりがない。持つ者と持たざる者の違いが周囲との軋轢を生み、真っ当に生きることが出来ない術師たちは多数派に虐げられ、心に傷を負いながら生きていく。そんな世界は間違っていると私は思っているんだ。何故なら我々の方が種として優れているんだから」
「だから非術師を排除するというのカ?あらゆる産業を回シ、この世界を形作っているのは大多数の非術師たちダ。彼らがいなければ術師の生活も成り立たなイ。呪霊、呪力、術師…呪いなどというものは所詮世界のノイズに過ぎなイ。本来有るべきではなイ、無い方がいいものダ」
「しかし君は術師だ。自分の存在を否定するのかい?自らの運命を受け入れ、世界の隅でコソコソと生きていくことを良しとすると」
「……」
傀儡の向こう側で、メカ丸の本体、与幸吉は大きく舌打ちした。
欠損した手足、月光で焼かれるくらいに脆弱な肌。呪いさえなければこんな体になることはなかったのだ。
今も昔も術師であることに誇りなど持ったことはない。夏油の言っていることは自分にとって的外れも甚だしい。ただ苛立ちだけが募る。
メカ丸が黙り込んでしまったのを見て、夏油は彼に悲しげな目を向けた。
「…君の考えていることはわかるよ。傀儡を通さなければ誰かと触れ合うことも適わない体、自分を不幸だと思ってしまうのも無理はない」
「知ったような事ヲ…」
「すまない、君を怒らせたい訳ではないんだ。ただ理解して欲しい。呪術というものは可能性だ。非術師が死に行き世が混沌に陥り呪いが蔓延れば、それに適応するために術師が増えるだろう。術師や呪霊の中に、君の癒えない体を治しうる者も出てくるかもしれない。そして戦いだけではなく、もっと別の方向に呪術の可能性を追求できれば…」
ここまで来るとメカ丸も、横で会話を聞いている三輪達も気付いていた。夏油は明らかに
三輪が不安げな視線を自分に向けていることに、メカ丸は気付いていた。
「…呪いが増えれば術師も死ヌ。お前の言っていることは矛盾しているナ」
「呪霊は非術師から漏出している呪力から形作られる。つまり非術師がいなくなれば呪霊も生まれない。…しかし君の言う通り、過程で多くの犠牲が出てしまうことは受け入れなければならない。悲しいけれどそこまでしなければ人は変われないんだよ」
「チッ…」
どう答えても夏油は思想を押し付けてくる。ただ、目眩がしてくるほど耳障りの良い言葉だとメカ丸は思った。口車に乗ってしまう人間が多いのも無理はない。
しかし自分がそれに乗ることはないだろう。既に”手段”を用意しているのならまだしも、夏油の手元にはまだ”可能性”しか存在していないからだ。
善悪ではなく損得で考えてみても彼の側に付く理由は存在しない。少なくとも、現時点では…。
もはや会話する気も失せ、どうやって場を繋ごうか考えていたところ。
「生徒たちにイカレた思想を吹き込まないでもらおうか。歌姫がブチギレてる」
「キレてなんか!…いるけど!」
待ち人、五条悟と他の教師陣が連れ立ってようやく姿を現した。
夏油はかつての親友とおよそ十年振りに対面し、無邪気に、満面の笑みを浮かべた。
「やあ悟、久しいね!」
「まずはその子達から離れろ、傑。一体何のつもりでここに来た」
「色々だよ。私は私の目的のために多くの仲間を必要としていてね。傀儡の彼とは有意義な話をすることができた。本当は噂の乙骨君なんかにも声を掛けたかったんだけど、そっちはちょっとタイミングが悪かったかな」
「それだけじゃわざわざこんなとこまで出向いてきた理由にはならないだろ。何を隠してる」
努めて平坦な声色で話している五条に対し、夏油は目を細めた。
存外気安い。呪詛師に堕ち、多くの人々を不幸に追い込んできた自分に対して圧倒的に敵意が足りない。今の五条悟から感じるのは警戒と少しの喜びだけだった。
どうやら彼は昔と変わらないようだ。いや、一人の呪術師として在ろうとする姿勢は伝わってくるが、それも今は揺らいでいる。自分たちがただの親友でいられた昔、過去への郷愁を隠しきれていない。
呪詛師が付け込むに足る明確な心の隙だ。
「別に隠すつもりなんてないよ。私は宣戦布告しにきたのさ」
夏油は息を大きく吸い込み、そして声を張り上げた。
「お集まりの皆々様!!耳の穴かっぽじってよーく聞いて頂こう!!来たる10月31日の日没と同時に”我々”は百鬼夜行を行う!!場所は東京・新宿と、ここ京都の地だ!!!」
出来るだけ仰々しく、自信たっぷりに。
ハッタリは大事だ。こちらには十分勝算があるのだと思わせなければ相手は乗ってこない。
そして言葉こそ原初の呪い。今度は相手に呪いを掛けるように語る。
「各地に千の呪いを放つ。下す命令は勿論、”鏖殺”だ。地獄絵図を描きたくなければ死力を尽くして止めに来るがいい」
宣戦布告を終え、夏油は背を向けた。
「このまま行かせるとでも?」
五条は”昔”と同じように夏油に向けて術式の照準を合わせた。
確かに未だ迷いはあるが、あの時とは違って覚悟は出来ている。
夏油傑は祓うべき呪いなのだと、強く思い込むことで。
しかしこの場においては夏油の方が一枚上手だった。
「…やめとけよ。君は足手纏いを抱えながらやれるほど器用じゃないだろ」
その言葉を皮切りに周囲から夥しい数の呪霊の気配が溢れる。
中には特級に近いものも幾つか含まれている。
メカ丸はいつの間にか自分たちが取り囲まれていることを察知していた。
(クソッ、人質のつもりか!この傀儡の体はともかく二人は…!)
圧倒的な呪力と害意が凄まじい圧となって降りかかって来る。
三輪と真依は蛇に睨まれた蛙のようにその場に固まって動けなくなっている。これでは戦うことは愚か逃げることも適わない。
夏油に危害が加わればそれらの脅威が解き放たれる。まかり間違って死んでしまったら完全に制御が失われるかもしれない。いずれにせよ五条悟以外は確実に全員死ぬように場が設定されている。
五条悟ではそれを止めることは出来ない。”最強”がもたらすのは更に大きな破壊だけ。
明快で効果的な脅しだった。五条は歯噛みしながらかつての親友を見送るしかない。
彼が今内心で安堵していることには彼自身を含め、誰も気づいていない。五条悟の唯一の親友である夏油傑を除いては。
全てが思惑通り。
五条を過去と断じた夏油は彼に背を向けて振り返り、そして目を見開いた。
そこに別の過去が待ち受けていたからだ。
”声”に導かれた少年は夏油の呪力を見た。
彼は全てを覚えている。意識の有無に関わらず、己の五感に触れた全てを彼の呪力が記録している。
そして今、視覚から取り入れた情報に一致する記録を認識していた。
種火から薪に火が燃え移るように、視覚、聴覚、臭覚へと連鎖的に記憶が掘り返されていく。
すり潰された肉片が、流れ出る血が、鉄錆の臭いが。それら人だったものを蹂躙する呪わしき獣たちと、
「…ああ、そうだったのか。全部お前、お前が…」
声が震えていることにすら気づかず、過去の記録を反芻し続ける。
内に秘めた憎悪が爆発的に膨れ上がり、許容の限界を超えた感情は忘却の檻を完膚なきまでに破壊する。
長い間、
突然の闖入者に、その場の全ての人間の動きが止まった。
どこか五条に似た白髪の少年は、幽鬼のような動きで自らの影から刀を取り出す。
真っ直ぐとこちらを見据えてくるその金睛を見て、夏油はそれが誰なのかを思い出した。
(あの時の子供が高専生…。もうそんなに時が過ぎたのか。それに姓を変えているとは、下の名前までは覚えていなかったな)
自身の存在が明るみに出ないように気を配っていたとはいえ、多くの人間、その縁者たちから恨みを買っている可能性は考えていた。だが目眩く多忙な日々を送る中、その内の一人に割くような意識のリソースは残っていなかった。
確かにかつて自分は彼の肉親を誅殺した。恨みつらみから復讐に至る動機として余りある。
瞳に籠もっている感情は”あの時”と全く違う。今ここには底知れぬ憎悪と純然たる殺意だけがある。では、以前彼から感じた喜びと感謝は一体何だったのだろうか。
「陽明!!やめなさい!!」
歌姫が制止を呼びかけている。
だがその程度の言葉で止まれるのなら苦労はしないだろう、と夏油は他人事のように思った。
呪詛師に堕ちたといっても人の感情の機微が理解できなくなった訳では無い。良心や倫理観を完全に失くした訳でもない。ただ自分の欲望を優先させるためにそれらを軽く踏み越えることが出来るというだけだ。
目の前の少年はどうだろう。他の何を差し置いてでも復讐心という感情を優先するのか。
「…絶対に許さねぇ。お前は殺す。お前の首を掲げて群がってくるゴミ共も殺す。全員生まれて来たことを後悔させてやる」
「……。いいのかい?結果、君の級友が傷つくことになっても。この状況で五条悟が動けないでいる理由を察していないわけではないだろう」
「お前を地獄に叩き落とせればそれでいい」
地獄は心の中にある。脳内では自分の肉親を惨たらしく殺された記憶が止めどなくリフレインしている。視界は真っ赤に染まり、臓腑と鉄錆の臭いを感じ、阿鼻叫喚の叫び声が聞こえている。
ずっと心の奥深くに押し込められていた憎悪の感情がとても新鮮で、歯止めが効かない。それ以外の全てが押しつぶされるくらいに。
最低でも彼らと同じ目に合わせなければ気がすまない。仇と、仇が大切にしているもの全てに。
その大きな敵意を感知して無数の呪霊たちが姿を現す。既に彼の同級生たちに矛を向けている。脅しは実行力があるから脅しとして成立するのだと示している。
夏油を殺せば仲間も死ぬ。現時点において夏油傑と人質に取られている弱者たちは命運を共にしている。
それでも陽明は止まらない。夏油も仲間の命を軽々しく踏み越えてくる者がいるなどと想定していなかった。どう見ても正気の沙汰ではなかった。
五条は夏油から照準を外し、いち早く陽明の方を止めるために行動した。
無下限呪術『蒼』による引力が少年を捉える。直接取り押さえて攻撃をやめさせる算段だった。
だが術式が発動する直前、六眼が異常を伝えてきた。
パシャッ!
無限が潜む虚空に吸い寄せられる前に少年の輪郭が崩れ、影として無に還った。
その場には不自然に揺らぐ影が残っている。
身に纏った影をガワだけの人形として残し、足元の影に潜ったのだ。
影は瞬く間に夏油の元に伸び、正面から少年がその姿を現す。
夏油は既に游雲を手に取って迎撃の構えを取っていた。
少年の呪力量や出力は1級術師としても小さく、特級レベルには遠く及ばない。相手をして負けるビジョンが見えない。
無謀が過ぎる。彼は激情に駆られて暴走しているだけだと夏油は判断した。しかしこの場で叩き折って後顧の憂いを無くしておきたいという考えもあった。
特異な青い双眸だけは見破っていた。
「傑、後ろだ!!」
二重の囮。夏油の正面から刀を振り抜こうとしているのが分身、空疎でありながら精巧な式神であることを。
五条の声に反応し、夏油が即座に振り返る。
その行為が旧友に対する無意識の信頼の表れであることに彼が気づくことはない。そんなことを考えている余裕はなかった。
既に少年の手元から剣閃が走っている。一瞬、夏油の脳裡に死の一文字が過ぎる。
ガキン!!
間一髪、剣と棍の軌跡が交差した。だが破壊力は游雲の方が間違いなく上だった。
夏油はそのまま三節棍を振り抜き、陽明の体ごと刀を弾く。
そして呪霊が動き出す。
無数の呪霊、巨大な百足や蜘蛛の群れが洪水となって押し寄せる。学生を除いた教師陣や補助監督達を囲い込み、一つ所に集めるように空間を狭めていく。
無論、五条悟に実力を発揮させないためだ。無下限で大きな反応を作れば間違いなく味方を巻き込む事になる。
彼等は押し寄せる呪霊の壁を削るように祓い続けている。一体一体は力の弱い低級呪霊だが、途方もなく数が多い上に夏油の呪力で強化されており、群として強大な力を成していた。
一方、それらと少し距離を置いていた学生達にも呪霊の群れが向かっていた。かなり少数であり加減をされているのかと思いきや、そうではなかった。
一瞬だけ赤い影が現れ、鉄が拉げる音と共に何かが押し潰れた。
気づけば三輪の目の前に、無惨に圧潰した傀儡の残骸が転がっていた。
「メカ丸!!」
さらにすぐ隣からくぐもったうめき声が響く。彼女が横を流し見てみると、呪霊の腕が真依の首元に伸びていた。
明らかに特級呪霊の気配。巨大な人型、朱い鬼だ。コイツがメカ丸を一瞬で潰したのだろう。
「か、はっ」
屈強で大きな手が細い首を締め付ける。
誰も動けない。この手に少しでも力が入れば彼女の頭と胸とが泣き別れる。
「朱点、止まれ」
夏油は特級呪霊に対して制止の言葉を掛けた。少年の顔が怒りに歪み、一切の動作を止めたのを見て、これ以上は必要ないと判断したのだ。
彼は仲間を傷つけられて怒っていた。
自分でそれを許容した癖に、いざその段になったら耐えきれない。それは間違いなく彼の弱さの表れだ。
とはいえ、この結果は必然だった。家族を殺されて怒りを抱くような人間が、同じく身近な人間が傷つけられて平静でいられるはずがないと夏油は読んでいた。
「仲間想いなのは良いことだよ。頭は冷えたかい?」
「…黙れ。余裕ぶった面してんじゃねぇ」
「余裕と言えるほどの状態ではないさ。素晴らしい奇襲だったよ。さっきのは悟の呼びかけがなければ危うかった。やはり持つべきものは昔の友人ってことかな」
五条がいる方向に夏油が目を遣ると、呪霊の群れが突然消滅し、黒い壁に穴が空いた。そして数を屠る個の極致、五条悟が姿を現す。
彼は目隠しを下げて素顔を顕にした。先程とは違う、内心を感じさせない無表情。
「…傑。一応僕にも許容限度ってもんがある。それに人質は無事だからこそ価値があるんだ。わかってるだろ?」
生徒に手をかけるというなら迷わずお前を殺す。眼がそう語っていた。
術者の死による呪霊操術の暴走の可能性は常に頭の中にある。
それでも、『夏油傑は仲間である術師を不必要に殺さない』という前提が崩れるなら。向こうが最後の一線を越えるというのなら、最悪の呪詛師を祓うという自分の仕事を果たすため、こちらも最後の切り札を切らなければならない。
無限の情報を押し付ける領域『無量空処』により、味方を巻き込んででも敵の動きを全て止める。そして足手纏たちをこの場からどかした後、夏油の首を飛ばし、溢れ出してくる呪霊を全て祓う。それで終わりだ。
0.5秒か1秒か、領域に巻き込んだ仲間たちの脳に大小の後遺症が残ってもおかしくないが、無事を信じて必要最小限の犠牲として切り捨てるつもりだった。
五条悟の右手には簡略化された掌印が結ばれている。
旧友から最後通牒を突きつけられた夏油は肩を竦めてみせた。元よりこの場でやり合う気など毛頭ないのだと。
夏油が徐ろに片手を挙げると朱い鬼の手が緩み、真依の体がすり抜け落ちる。そこに三輪が飛び出し、ぐったりとした彼女を抱きとめた。
続いて夏油は軽く足踏みし、それに呼応して虚空から一体の龍が姿を現す。彼は素早くその背に飛び乗った。
そして殺意を堪えながらもすっかり大人しくなった陽明を見下ろし、語りかけた。
「御門…いや、禪院陽明くん。君が私への恨みを晴らしたいというのなら相手になろう。一月後、百鬼夜行の地でね。といっても東京か京都、確率は二分の一だけど」
「…
「生憎、私の家族はそう簡単にはやられないよ。それではしばらく、皆の衆」
言うやいなや、辺りに溢れかえっていた呪霊の群れが再び虚空へと消え、龍が飛び立つ。
嵐のようにやってきては過ぎ去っていった彼の姿を、その場に残された人間の多くは茫然と眺めるしかなかった。
夏油傑による宣戦布告を受け、呪術総監部によりその日のうちに緊急会合が開かれた。
当事者かつ現場責任者への事情聴取、および今後の方針の決定のための会議を兼ねたもの。
重苦しい空気の中、呼び出された夜蛾により本日起きた出来事の経緯が事細かに話される。
報告書によって事前に上げている内容を改めて正確に、適宜補足を付け加えながら。
夜蛾が語り終わって一息ついていると、早速総監部のメンバーの一人が口を開いた。
「…何故夏油傑を取り逃がした。五条悟はその場にいたのだろう?」
「高専の学生、および補助監督を人質に取られました。ご存知の通り、夏油傑は使役呪霊を広範囲に、同時多発的に展開出来ます。翻って五条悟の能力は強力無比なものですが、多勢に対する守りには向いていません。特に近くに仲間がいた場合、彼の能力で傷つけてしまう可能性の方が」
「違う、私はただ呆れているのだ。その場にいた高々十数名程度と、今回標的とされた、いや将来的にはそれ以上の圧倒的多数の人間をよくもまあ天秤に掛けられたものだとな」
怒り口調で話を遮られた夜蛾は閉口するしかなかった。
要するにその場にいた人間全て、夏油傑を確実に殺すための犠牲になっていれば良かったのだと言われたのだ。
このある種の暴言に対して夜蛾が抱いたのは、五条がこの場に居なくて良かったという感想だった。実際このくらいの嫌味を言われることは想定出来ていたし、彼の言う事がある意味正論であるということもある。
相手は非術師の殲滅を大義として掲げている狂った呪詛師。言葉通りに動くとは限らないし、呪霊操術という能力の特性を考えれば猶予を与えれば与えるだけ後に想定される被害は大きくなる。
それでも反発を覚えてしまうのは甘さなのだろうか。唯々諾々と死を許容し、それを他人に対して強要出来る人間は何かが欠落している。呪術師が欠落者の集まりだと言われればそれまでだが…。
返す言葉を失い黙り込んだ夜蛾に代わり、同じく招集されていた楽巌寺が言葉を返した。
「…気にかかっておられるのは”果たして五条悟は夏油傑を殺せるのか”ということでしょう。まあ問題はありますまい。奴には確かに夏油と敵対し、処刑する意思があると儂は見ております。今回夏油を見逃すことになったのは不可抗力でしかない」
「何故そう言い切れるのですかな?アレはただ理想を語り、現体制に反発する自分に酔っているだけの青二才だ。五条家当主、現代最強という立場を盾にした”甘え”とは別に、絶対に信用できない”甘さ”がある。旧友だからといって恩情を掛けることは十二分に考えられるのだ。楽巌寺殿も分かっているでしょうに」
「しかし現状五条悟以外に夏油に比肩する術師がいない以上、夏油の処刑においては彼奴に縋らざるを得ないのも事実。忌々しい事ですが我々は奴を信用する他ない」
「チッ、全く、本当に忌々しい…」
不満は募るが、終わったことや言っても仕方がないことの愚痴を言う暇はない。同じ保守派で価値観を一部共有する楽巌寺から窘められれば一旦黙るしかない。
楽巌寺から敬語を使われてはいるが、彼は楽巌寺よりも年若い。ともすれば過激な発言が見え隠れするとはいえ、一部界隈において腐ったミカンの山と揶揄される上層部の中では比較的マトモ、寧ろ責任感があり誠実で勤勉な人間だった。
呪術界を変えたいという志を胸に総監部に入り、体制を変えるつもりが体制に取り込まれた者。彼は大のための小だと言い、現場を切り捨ててきた。国という巨大な共同体を守らなければならないという立場がそうさせた。
逆に同じ保守派という括りに在りながらも、呪術師は出来るだけ保護・育成すべき希少人種だという意識が楽巌寺に教職という立場を取らせている。
そうしなければ呪術界の未来が立ち行かない。その点だけで言えば彼は五条悟と意見が一致していた。
夜蛾は五条を信用するといった楽巌寺を意外に思いながらも気を取り直し、今後の対策について話を切り出した。
「夏油の言葉通りに受け取れば新宿と京都にそれぞれ千体の呪霊。対応するためには当日、市民の避難が滞りなく行われていることが必須です。そちらはお任せしてもよろしいでしょうか」
夜蛾の言葉を受け、総監部の人間達はそれぞれ意見を交わし始めた。
「簡単に言ってくれる。一月の猶予があるとはいえ人口密集地を二つも空けるというのは容易ではないのだよ。実際に宣戦布告されている以上我々は動かざるを得ないが、通常のテロ対策を装って行政を動かすのにも限界がある」
「呪言師や結界術師を動員してやりくりするしかあるまい。それよりも未だに奴の狙いすらわからんのだろう?そんな状態で後手後手に回っているようではな」
「今になって動いたということは戦力が拡充したと考えるのが妥当か。しかし取り込む呪霊の質と量によって戦略級の戦力を持ち得ると言っても、局地的な戦闘力で言えば五条悟に及ぶべくもないだろうに」
「特定の状況によって五条悟をある程度無力化できるのが今日証明された。まともに相手する訳ではなかろう。寧ろ五条悟以外の戦力を削るのが目的と考えるべきではないか?」
「だとしたら宣戦布告などせずゲリラ的に襲撃を繰り返した方が効果的だ。フン、わざわざそんなことをせずとも日々の任務で削られるのが呪術師の常だが」
「術師が畑から取れれば楽なんだけれどねぇ」
「…笑えんな。とにかく目的をあれこれ推測するより先に、残りの期間で情報を集め、敵の戦力規模を試算するべきではないのかね。最近になって夏油の拠点の情報を幾つか手に入れておったはずだ。まずは奴の残した痕跡を徹底的に洗うべきだろう」
夜蛾は予想していたよりも建設的な意見が飛びかっていることに少し驚いた。
総監部にもマトモな考え方の人間がいることはわかっているが、どちらかと言えば少数派だ。まずは責任の押し付け合いや愚痴合戦が始まるものと思っていた。今回の件は普段の案件とは想定される被害の規模が段違いだということで皆焦っているのだろうか。
そんな邪推をしていると、夜蛾は保守派の一人から声を掛けられた。
「夜蛾学長。一つ確認しておきたいのだが、乙骨憂太が祈本里香を制御出来るようになったというのは事実かね?」
「はい。交流会での様子と、本人の話を聞く限りは」
「…そんな程度では信用できんよ。夏油の件が片付くまでは乙骨を高専敷地内に待機させ一歩も外へ出すな。万が一にでも面倒が重なってしまっては困る。良いな?」
「…ええ、異存ありません」
夜蛾は渋々といった調子を悟られないように返した。
交流会中に乙骨に起きた変化。彼自身は里香の力を受け入れる覚悟が出来たのだと話していた。
正しく磨けば五条悟をも凌駕するかもしれない才能の原石、それが開花し始めたのだと思った。
彼のように抜きん出た実力者が一人いるだけで他の術師の負担は軽くなり、殉職率も目に見えて落ちる。だからこそ歯がゆさを感じざるを得ない。今回彼が戦闘に参加することで救える命があるかもしれないというのに。
(術師が畑から取れれば、か。本当に笑えん)
もはや相容れぬ存在に堕ちたかつての教え子の姿を思い浮かべる。どこまでも生真面目で、思えば傷つきやすい少年だったのだろう。不幸にも表面を取り繕うことが得意だったために気づかなかった。
呪術師が消費されゆく現状を憂いているというのは夏油の変わらぬ本心に違いない。だとしたらやはり決定的にやり方を間違えている。間違えさせているのは彼の内心を占めている負の感情だ。
非術師への嫌悪の果てに、本来仲間であるはずの術師にまで牙を剥いて一体何が変えられるのか。
誰も彼もが傷つくだけ。既に傷ついている人間が大勢いる。
先刻夏油に刃を向けた少年もそうだ。何故彼があのような行動を取ったのか、五条から推測も交えて聞かされている。曰く、復讐すべき仇なのだろうと。
しかし仮に彼の復讐の刃が届いたとして、誰が救われることもない。だから彼の師は夏油が家族の仇であるという情報を伏せていたのだろう。
傷つけられた者は傷つける側に回る。かつての夏油と同じように、恐らく彼は今危うい状態にある。しかしわかっていてもどうしようもないのが人の感情。
傷つけられた過去は変えられず、呪いとして遺る。故にこそ呪いは廻るのだ。
光も音も何も無い暗闇がある。
…誰の声も届かないところに行きたかった。だからこうして影の闇中に閉じ籠もっている。
しかし頭に直接響く。奴の声、俺に何かを期待している、未だ正体を明かさない何者か。
どうでもいい。今はただ仇敵を惨たらしく殺すことだけしか考えられない。
寧ろこれまでがおかしかった。こんなにも恨みを抱いているというのに、その思いを綺麗さっぱり忘れていたことが。
守りたい人は既にいない。呪術師で在るべき理由など最初から無かった。全ては心に空いた穴を埋めるための言い訳に過ぎなかった。仇の存在自体を忘却することで、復讐心が呪いの誅殺という大義にすり替えられたのだ。
けれどこの迸るほどの憎悪は例え忘れられていても決して消えることがなかった。それどころか長い間抑えつけられてきたことにより更に黒く大きく燃え上がっているらしい。
そして今、ようやく欺瞞から解き放たれた。
断言できる。明確な目的が生まれた。
必要だ。敵を斃すための力が。
『微睡から覚めた気分はどうだ』
気分は決して悪くなかった。何故か聞いているだけで精神が苛立つこの声を除けば。
それでも確かにこの存在から聞くべきこと、知るべきことがある。コイツは俺であって俺ではないと、それだけがわかっている。
「…頭の中の霞が晴れたような独特な感覚がある。一体これは何だ」
暗闇に一筋の光が差しているのを感じる。影とは別の術式。全てが上手くいく予感、これまでになかった感覚。きっと今の俺に必要なもの。
”声”は待ち侘びたとばかりに喜々として話し始めた。答えを渋る様子はなさそうだ。
『力の萌芽だ。生得術式はまずそれを自覚することから目覚め始める。前提として、これまでお前が扱ってきた影の術式は元々この身に刻まれていたものではなく、魂に眠る過去の記憶から再現した呪力の模様に過ぎなかった。今でこそ脳に術式が焼きつけられて生得術式と同様に機能しているがな』
”呪力の模様”。俺はその言葉に思い当たる節があった。
しかし自分が呪術に精通しているという自覚があるからこそ信じられなかった。
「俺が呪力操作の延長で術式を構築していたって言いたいのか。しかもそれを無意識の内にやっていたと?」
今まで生得術式だと思っていたものが、汎用的な結界術や式神術と同様に自らの中で構築した
だがそれらの汎用術式も、一般的には手印や詠唱に呪力操作のパターンを紐づける形で扱い安くしているものがほとんど。術式の構築というものはそれほど難しい。
ましてや生得術式をリアルタイムで構築するための思考能力など人間の脳は持ち得ない。
『何を今更不思議に思うことがある。影の術式が刻まれたお前の黒刀、本来生得術式ほどの情報を呪具に落とし込むとしたら最低でも50年は地道に呪力を籠め続けるか、或いは自らの生命すら差し出して術式情報を転写する必要がある。生得術式とは術師の全てなのだから、人生と同等の対価が必要になるのが道理だ』
俺自身それは理解していたつもりだった。
自分が所持している呪具・天羽々斬を見てもそうだ。長い年月を掛けて物体に呪力が蓄積し、その呪力が持っていた情報が少しずつ浸透し、術式が刻印される。
だからこそ希少性があり、強力な呪具を持つことの出来る人間は限られているのだ。
しかしこうも考えていた。術式が発動する際の呪力の
机上の空論でしかなかったが、実際にやってみたら難なく成功した。そのことに特に違和感は持たなかった。
『お前にとっては
”声”は語った。それこそが呪術の深淵に繋がっているのだと。
『望み通り、話してやろう。お前が未だ知らない、知るべきことの全てを』