およそ千年前の遥かな昔、とある地方にて日照りが一月続いた後、七日続いた大雨が洪水を引き起こした。
重税と労役に苦しみつつ、その日を生きられることを常々神仏に感謝していた人々は、避け得ぬ苦難に直面しながらも信仰を捨てず、絶望に満ちた未来が救われることを願った。
しかし怒りや憎しみ、恐れの感情はおろか、言い伝えや迷信、弱者の神仏へ縋る信心でさえ、ありとあらゆる人の想いが呪いと化す。生み出されたのはさらなる災厄のみだった。
そして呪われし者は己を生み出した生命に呪いを返し、彼らの弱さと哀れさを嗤った。
『お前たちは何故これ程悪辣なのか』。知性あるその呪霊に問うと、彼はこう返した。『それは我らが人の念より生まれるからだ』、と。
この時は真意を理解出来なかったが、後に思い知らされる。
かつて自分は多くの弟子を取り、忌むべき呪いに抗うための力を与えた。
次第に門下が増え、弟子は師となりまた弟子を取る。いつの間にか同じ技術を持つ術師の集団は一つの組織と言えるほどにまで成長していた。
その組織には、”呪いを祓い、人を助ける”という理念があった。しかしそんな単純な思想でさえ、人が集まればその数だけの解釈が生まれることとなる。
今で言う平安中期。朝廷による地方の統治能力が低下した結果、横行したのは役人による不正や搾取。重税や労役から逃亡する平民たち。さらに各地には山賊や海賊といった野盗の類が跋扈し、これらに抗する武士勢力も台頭して来ていた、あの頃はそんな時代だった。
治安の悪化と経済の困窮。官人の不正と搾取。領地拡大を巡り相次ぐ武力抗争。多発する天災や天候不順による飢饉。平安とは程遠い混沌の時代において、民衆の抱える負の感情が肥大化する一方だったことは否めない。
呪いが蔓延る。呪いを祓うために仲間たちは命を落とす。終わりの見えない戦いに、民衆の味方であった術師の集団、『呪術法師』たちも疲弊していた。
呪いを祓っても呪力の淀みが消えることはない。呪霊が不幸をもたらすよりも、人の不幸の結果として呪霊が発生することの方が圧倒的に多いのだ。
ある術師の一派は、呪いの根源は何か、人々が困窮している原因を考えた。
朝廷はもはや政治における実行力を欠いている。民の現状にそぐわない法を押し付け、それを遵守させることもままならず、法を破った者を満足に罰することすらできない。
中央の軍事・経済的な空洞化は止まることなく、地方の豪族・武士に頼ることしか出来ない。
『形骸化した”伝統と権威”など不要。必要なのは人々を纏め上げる為の力だ』
『安定的な共同体の土台無くして人々の安寧も有り得ない』
混沌の世に秩序をもたらすため、古き因習は断ち切らねばならない。
そう言って彼らは政府転覆を目的とした。明らかに呪術師の領分を超えたのだ。
一平民には到底実現不可能な目標と思われたが、彼らには呪術があった。
呪術全盛の時代でさえ、一度京を離れてしまえば術師は圧倒的な少数派。単純な武力であらゆる屈強な武士達を上回り、さらに結界や式神、それらを用いた幻術などもお手の物。強く優れている者には誰でも目を引かれるものだ。
地方の有力な豪族に呪術という力をもって取り入り、惑わし、あるいは排除し、勢力を強めていく。そして人が集まれば才覚のある者もある程度見出される。そういった者達に自分たちの知識と技術を与え、より勢力を増していく。
元は民衆の味方であった法師達の片割れは、いつしか朝廷も無視出来ない”軍事力”と化していた。
京の貴族たちにとって、東国の平将門の乱、西国の藤原純友の乱は当時記憶に新しかった。
間者からもたらされた反乱を企んでいる者たちがいるという情報に彼らは慄いたが、幸いなことに新勢力の弱点ははっきりとしていた。
家でもなく、土地でもなく、人望でもない。人々は呪術という”力”の元に集められている。彼らの理念からして”伝統や権威”とは無縁だ。
伝統は重んじなければならないものだという事を彼らは分かっていない。古くからの伝統は民衆を惹きつける権威の旗印となる。性急過ぎる変化に人々の心はついて行けないのだ。
故に勢力の中枢となっている術師たちを叩いてしまえば、新興の集団は瞬く間に瓦解するだろう。
一方、まだ明確に反乱を起こした訳ではないため、反逆者の征伐という大義名分は使えない。
そこで反乱を未然に防ぐためと言って実行されたのが、敵要人の暗殺という方法だった。
実行の段となり、各家が抱える部隊から暗殺者が選ばれ、その中の一人に童と呼べるほどに若い術師がいた。
彼はまだ幼いながらも非常に優秀で、暗殺に適した能力を持っていた。そして何より、敵方の術師と同門でもあった。
一時は共に修行の時を過ごし、肩を並べて戦ったこともある”敵”を、彼は見事に殲滅してみせた。
寝首を掻き、背後から刺し、或いは
有力な術師たちが軒並み死に絶え、立案者の読み通り、新勢力はいとも容易く崩壊した。
起こるはずだった反乱は、それが起ころうとしたという事実と共に歴史の闇に葬られた。
「彼奴らが表立って反乱を起こしていたら、多くの血が無益に流されていただろう。お前は正しいことをした」
「…お心遣い、感謝致します」
放心したように佇む童に慰めの言葉を掛けたことを、後悔の感情と共に覚えている。
敵の術師は皆自分の門下生だった者たちだ。本来その仕事を果たすべきだったのは自分なのだ。
だが敵方への合流を防ぐために囚われ、この弟子に救われた。
その際に、彼が朝廷に仕える有力な術師の家系だったことも影響した。
家の次代当主とも目されていた彼はその道を投げ捨て、自ら進んで暗殺の汚れ仕事を請け負った。
結果として同門である彼が始末を付けたことで、一門が朝廷に仇為すものではないという潔白が示された。
しかし始末された弟子たちも、より良き世の中を目指して努めていただけ。
まだ罪を犯した訳でもないというのに無残に殺され、死に際の無念と恨みは凄まじいものだっただろう。
そしてこの出来事があの童の心に影を落としたことは想像に難くない。
呪術師は死ぬ時、理想と想いを仲間に託す。彼は自分が殺した
呪いを祓い、時には暗殺者に身を窶し、自らの役割に殉じる。どこか生き急ぐように。
それは童が青年になってからも変わらず、彼は瞬く間にその生を駆け抜けた。
光が過ぎ去り影が差す。
愛弟子が亡くなって暫くしてからのことだった。
各地から呪詛師による被害が中央に届けられるようになった。
弟子を取ることを止め、民草の間で遊行していた自分も噂を聞き、これを解決しようと思い立った。
曰く、ある荘園の領主に成り代わって悪逆非道を尽くしていると。
曰く、毎夜の如く領民から生贄差し出させ、血の池地獄を築いていると。
曰く、領地に化け物を飼っており、誰も歯向かうことが出来ないと。
それは恐怖によって形作られた悪の虚像。
呪いを生み出す無用な恐れを祓うのも自分の使命として、恐怖に惑う人々を説き伏せようと試みるも彼らは中々納得しなかった。
数日掛けて調査を進め、呪詛師に対面する機会が訪れる。そしてまたしても後悔の念に苛まれることになる。
自分の弟子の一人と、彼の教えを受けた術師の集団がそこにはいた。
件の暗殺を逃れた少数の術師がいることは聞き及んでいたが、呪詛師にまで堕ちているとは知らなかった。しかも噂もあながち間違っていない。
積み重ねられた死体の山。生贄たちの亡骸。呪霊を式神として扱うその男は、最強の呪霊を作るために多くの呪いを集めようとしていた。
全ては復讐のため。自分の理想を無残に打ち砕いた中央政府、そして自分を裏切った同門の術師。昔抱いていた理想など欠片も残っておらず、完全に呪いに堕ちていた。
かつての弟子だからといって情を与えることはない。呪いを祓うのが自分の務め。
当然迷うことなく斬って捨てた。
しかしその事件は始まりに過ぎなかった。
多くの呪詛師に出会った。
弱者が強者に抗する事を目的とした画期的な技術だ。使えるならば誰もが使いたいだろう。
人の善性を信じていた自分は門戸を広げ、誰にでも分け隔てなく教えた。事実、弟子たちは皆善良な者ばかりだった。
しかし人の心は酷く簡単に遷ろい変わるのだという事を、まだ若かった当時の自分は理解していなかったのだ。
欲望を律する事が出来る人間など多くはない。力を持っているのならばそれを使いたい。
呪いと戦うよりも、呪いに迎合して私欲を貪る方が楽だ。
人は罪を犯す。弱き者は力を得るために。より弱き者から奪うために。
そして罪を犯した人間ほど、自らを正当化するために深みへと堕ちていく。
それがこの世の摂理。呪われた現し世において自身を守るための処世術。
急いで技術継承に縛りを設けてみたところで状況は何も変わらない。既に取り返しのつかない程多くの毒が撒かれている。
全てが遅かった。人を救うための力が人を貶め殺すための力へと変わっていたことに今更気づく。
黄金の時代はいつの間にか終わり、輝くような理想は全て低劣な悪意へと堕ちていた。
それからの人生は、自らが撒いた毒を清めるためだけに費やされた。
呪詛師共を殺す。それだけが頭の中を占め、いっその事術師自体を滅ぼす事すら脳裏を掠めるほどの狂気に落ちた。
出会う術師は尽く呪詛師なのだから仕方がないだろう。他者の為に身を費やす善良な人間ほど早死にするのだ。そしてその善人達も些細な切っ掛けで呪いに堕ちる。
老いで体が動かなくなっても、幾ばくの安らぎすら訪れない。
生涯を呪いとの戦いに捧げたが、自身もまた呪いを生み出していた。最後には人を信じることをやめ、精も魂も枯れ果てた。
そしてふと、いつか誰かが言ったことを思い出す。
”呪いは人の想いより生ずるが故に、遍く人に罪がある”。
是だ。善人も悪人も等しく呪いの根源。呪いとは人が脱し得ぬ悪性そのもの。
どうやっても抗えぬ定めならば、全てを終わらせてしまえ。
そう念じながら床に臥し、終には守るべき弱者をも殺し尽くす悪鬼に堕ちた。
死こそが唯一絶対の救いなのだと信じて、呪いに満ちるこの世を終わらせることを願った。
死してなお救われぬ自らの魂を見つめ、その矛盾を理解しながら。
ガコン。
魔虚羅の背負う法陣が回転した。
同時に不動の呪縛が解かれ、黒き式神は標的として指定された少年に向かって疾駆する。
そして少年への行く手を塞ぎ、相対するのは特級過呪怨霊…、否、今や正式に乙骨に従属する式神となった祈本里香。
魔虚羅は己の障害を穿つため、その右腕に備えた刃を高く振りかざした。
対呪霊に特化した退魔の剣の具現。如何に底なしの呪力の塊と言えど、マトモに喰らえばただでは済まない。
しかし里香は両腕を頭上で重ね、正面からそれを受けた。
空間が軋む音が聞こえ、次いでその歪みが衝撃波となって届く。
『奴の見立ては当たっていたか』
あらゆる呪霊を消し飛ばす一撃に対し、薄皮一枚すら裂かれていない。
里香は全く健在だった。それは現在の彼女の体が純粋な呪力で構築されていないことを示す。
さらに正の呪力を受けた右腕が変形し、鋭利な刃の形態に変わる。敵が備えている剣と全く同形。
変幻自在な影の式神となった里香は、その模倣の能力も強化されていた。
数合切り結んだ後、里香は魔虚羅の剣を弾いて懐に入り込む。そして背後から呪力を爆発的に放出することで推進力とし、乙骨から魔虚羅を引き離すように突進をかけた。
二体の式神はみるみるうちに遠ざかり、白の地平の果てに消えていく。
「ありがとう、里香ちゃん」
ここまでは事前に取り決めておいた手筈通り。予想以上に上手く事が運んでいる。
自分の仕事は式神の分断と各個撃破。例え倒せはしなくても時間稼ぎさえできればいい。
その際、魔虚羅になるべく適応を重ねさせないことが重要。この役割は里香にしか果たせない。
乙骨は残った天狗の式神を見据え、手元に刀を構えた。
数刻前。
魔虚羅はあらゆる事象に適応するとされる式神。最強の盾となり矛となり得る可能性を秘めている。攻略するには適応前に高火力をもって短時間で葬り去るしかない。
そんな説明書通りの説明を聞かされ、乙骨は露骨に渋面を作った。
「そんな無茶な…」
「最悪倒せなくてもいい。今俺達に求められてるのは時間稼ぎだ。五条が間に合えば後は全部アイツがなんとかする。全部ひっくるめて五条の方が奴より強い」
「時間稼ぎですら難しい気が…。アレを作った本人も同じ能力を持ってるんじゃないんですか?」
「同系統だとは思うが、俺の見立てじゃ本体より魔虚羅の方が戦闘に特化してるはず。例えば能力を特化させることで単純に適応までの時間短縮を目指した式神なんじゃないかと思う」
「何でそんなことが分かるんですか?」
「ただの見た目からの想像だ」
「えぇ…」
「まあ実際姿形を自在に変えられるって前提の上で、同じ能力なら見た目も同じ分身の方が戦術的な有利を取れる。恐らく縛りの一環か、術式に含まれている設計図を元にして作ってる影響か。どっちにしても本体より秀でた何かを期待して作られてるだろう」
「それなら尚更キツイんじゃ…。結局僕は何をすれば」
「お前や里香程の呪力があれば呪力放出に指向性を持たせて収束させるだけで高火力な攻撃が出来る。条件次第では魔虚羅を一撃で消し飛ばすことも出来るかもしれない。だが向こうはそんな隙与えてくれないし、中途半端な攻撃じゃ魔虚羅を盾にされて適応も進む。連携を取って得するのは敵ばっかりだな」
「つまり、まずは分断、そして出来れば各個撃破ってことですか」
「ああ。魔虚羅だけじゃなくあの天狗もかなり厄介だ。以前陽明は手も足も出なかったと言ってたが、並の特級呪霊の枠は超えていると見ていい。ただ手数よりも高水準な基礎能力でゴリ押すタイプ、同じように呪力量でゴリ押せるお前と相性は悪くなさそうだ」
敵を正面から見据え、集中力を高めていく。
(直久さんはああ言ってたけど、確かにこうして直接見てみたら分かる)
強い。とてつもなく。
呪力の多寡、術式の如何などという話ではない。纏っている覇気が違う。
彼から放たれる圧倒的な”畏れ”は何処から生じているのか。元は悠久の時を生きてきた特級呪霊。膨大な戦闘経験、潜ってきた死線の数だろうか。
天狗はこちらをじっと見つめているだけで動く気配がない。
彼我の距離は大股で十数歩程だが、互いに一息で詰められる。少しでも気を緩めれば次の瞬間には死にかねない、それほどのプレッシャー。
額に冷たい汗が滲み、滴り落ちた雫が左目に掛かる。
不意に生じた瞬きの間、天狗の体がぶれた。
消えた、と頭ではそう認識しつつ、乙骨は己の左側に向かって無意識に刀を振り抜いていた。
剣戟の交差する音が木霊し、ようやく敵がすぐ間近に迫っていたことに気づく。その太刀筋は確実に自分の首を取りに来ていた。
以前交戦した陽明が上げた報告によって、とてつもなく疾い敵だというのはわかっていた。今回の戦いの前に直久からもそれは聞かされている。
一応表面的な呪力量などから出力可能な速さを何となく予想してはいたが、空力操作の術式によって高められた速度はその想像を超えていた。
乙骨はその馬鹿げた呪力量によって速度と膂力を底上げし、天狗の動きに付いていく。
フィジカルの差はほとんどなくても技量の差は歴然で、決して越えられない壁がある。だが彼は己の呪力と才能のみで強引に突破しようとしていた。
乙骨の力もまた、敵の想像の範疇に収まるものではない。
剣撃を重ねてみても乙骨の攻撃が敵に届くことはない。天狗にとってはほとんど素人に毛が生えた程度、児戯に等しい剣術の腕。動きを読むのは非常に容易かった。
だが彼は攻めあぐねていた。読めないのは他の部分、すなわち呪力だ。
ある時、剣がかち上げられ、がら空きとなった胴に天狗が一閃を走らせた。
乙骨は何とか上体を後ろに逸らそうとしたが距離が足りず、横薙ぎの一刀が彼の脇腹に食い込む。
「ぐッ!!」
乙骨はうめき声を漏らしながら腹に食い込んだ太刀を叩き落とし、一度後退して距離を取ろうとした。
天狗はそれを追わなかった。追っても無意味だと悟ったからだ。
斬っても致命傷に至らない。切り込まれる寸前に切り口に呪力を集められたことにより、臓腑にまでは届かなかった。そして致命にさえならなければ反転術式によって回復される。
既に五度は命を刈り取る隙があったにも関わらず、全て凌がれた。
呪力操作の技術自体はお粗末なのに、致命的な攻撃には最適な防御を合わせられる。
それが指し示すのは、乙骨が天狗の動きに対して適応しつつあるということだった。
(飽くまで受け身、そして彼我の実力差を覆すには至らん。だが確実に成長しておる)
この異常な成長の速さは術式によるものなのか、単純に才能と呼ぶべきものなのか。
いずれにしても戦いが長引けば長引くほど不利になる。
故に今取るべき選択肢は短期決戦の切り札たる領域展開を使うこと。しかしその場合、気にかかるのはこの場にいない天元の存在。この空間を支配している彼が呪術師に味方している以上、領域に干渉される可能性は高い。
(状況は不利。確実性を求めるなら奴自身が狩りに出るべきだった。であれば、乙骨憂太の肉体を押さえることは奴の主目的ではなく、寧ろ…)
そこまで考えて頭を振る。
どうでもいいことだ。今の自分はただの駒。それも扱いからみてほとんど捨て駒に近い。
勝っても負けても主が損をすることはないのだろう。ならば好きにやらせてもらう。
『領域展開』
その一手は乙骨の意表を突き、僅かに存在した結界外への逃避という可能性を消去する。
領域の外縁を構築する黒い外殻が二人の術師を取り込んだ。
(これは、まさか領域展開!?)
帳以外の結界術をまともに見たことがなかった乙骨にも、その異質さは理解できた。
空間的情報を書き換える天元の空性結界とは似て非なるもの。ここは呪力で満ち満ちている。
彼が驚いたのは事前情報との食い違いが大きかったためだ。
陽明が交戦した際に使った領域は結界の外縁を外殻で閉じず、広範に気流を支配することで現実の天候を操るというものだった。
天元の支配する空性結界内では気候は常に一定であり、広さも彼の一存で決まる。呪術的、また物理的に介入される余地が大きすぎるため、まず使用してこないだろうと考えられていた。
しかし敵は躊躇なく使ってきた。しかも今回は結界が閉じられ、その内部に広大な空間が作り上げられている。
気づけば辺り一面が雲…、否、雲というよりは霧がかって下を見通せない地面の上に乙骨は立っていた。
(空の上…?)
ここを空だと感じるのはそんな霧の地平の果てが青く澄んでいて、頭上に陽光が見渡せるからだ。
風景に気を取られている場合ではないと分かっていながらも考える。
領域とは心象風景の具現。邪な心なら地獄のような世界が、逆に景色が美しく澄んでいるのなら、清く正しい心があるのではないか、という甘い幻想を。
だが現実に感じられるのは透き通った殺意だけだった。
『既に領域の解体を始めたか。戦いを楽しむ暇もない』
天狗は両手で忙しなく印を組んでいる。天元からの干渉に耐えるため、領域展開後も結界構築を続けているのだ。
右手の印でそれぞれ条件の異なる結界を四重に重ね、さらに外部の空性結界に向けて偽の構成情報を流し続ける。そして左の掌印によって領域内に術式効果を発動させる。
この右を向きながら左を向くような神業を難なく行えるのは、元来の能力に加え、式神としての核を動かすために景光から分け与えられた術式を利用しているためだ。
それでも天元からの干渉を凌げる時間は、多く見積もって二分にも満たない。
外殻を用いない場合と同じく、この領域は必中効果を持たない。ただ縛りによって術者の扱う術式性能を高めるためだけのもの。しかしこれにより、気流を操るというシンプルな能力があらゆる気象を支配するまでに至る。
地面だけではなく頭上にも霧が立ち込め始め、陽光を遮る。その実態は本物の雲だ。
局所的に気圧が下がったことによって気温が急激に下がり、空気中の水分から氷晶が作り出されたのだ。
そして氷晶と霰が混じり合い、さらに高速で対流し電荷を蓄え始める。
眩しい陽光は黒雲に遮られ、辺りは既に雨霰が降り注ぐ嵐のような状態。
ゴロゴロと大きな音を称えながら雨を降らす雲を見上げ、乙骨は根源的な恐怖心を煽られることとなった。
(まずい!!)
本能のままに、全身全霊をもって呪力を身に纏う。
その瞬間、暗中を切り裂く光の筋が降り立った。
「ッッ!!?」
これまでに経験したことのない衝撃が全身を駆け巡る。
電位差が大気の絶縁破壊の閾値に達したことで稲妻が発生したのだ。
大量の呪力を身に纏うことで脳や心血管を意識して防御し、心停止など致命的な状態になる事は避けられた。体表の熱傷も大したことはない。
しかし呪力によって大幅に軽減されたとはいえ、人体に大電流が流れて影響がない訳もない。
(い、今、意識が飛んでた)
ほんの一瞬とはいえ、致命的となり得るブラックアウト。
呪力での防御は意識があってこそ成り立つもの。今回は凌げたが次はどうなるかわからない。
そして辺りは完全な平地であり避雷針となるようなものは何も無い。しかも通常の雷雲とは違い、呪術によって電荷の蓄積や気圧の維持などの条件調整が能動的に行われている。
つまりほとんど必中に等しい紫電がこれから降り注ぎ続けることになる。
「がぁあアッ!!」
紫電の雨が絶え間なく続き、全て乙骨に向かって降りてくる。
断続的に電流を浴びせられ、全身全霊で呪力強化し続けていても意識が飛びそうになる。
そして脳や心臓を死守するためその他の防御が疎かになり、電撃による全身の麻痺は避けられなかった。
呪力強化に加えて反転術式を全力で回すも、痺れが回復するたびに雷撃が全身を隈なく駆け巡る。
(う、ごけない…!!)
乙骨が必死に雷撃を耐え忍んでいる中、稲光に照らされながら歩いてくる人影があった。
『術式模倣は見事だったが、どうやら適応による耐性の獲得はできんらしいな。変幻自在の影の肉体を持つ魔虚羅にのみ許された特性か』
同じ雷雲の下に在り、乙骨と同様に天狗のもとにも紫電の柱が立ち上る。しかしダメージを受けている様子はない。
それは彼が呪術によって作り出された式神であり、この雷雨が呪力を持たない純粋な物理現象であるため。
『これは儂が人を殺めるためにのみ編み出した業だ。呪力を纏わぬとはいえ空を切り裂く天雷に耐えられる者などそうはいない。だが耐えたとて、人の身であれば自由を奪われる』
術式開示ですらない、ただの事実。
今の乙骨は四肢を動かすための神経がまともに機能していない。
しかし脳髄と喉が守られていることで残った”声”さえあれば、この状況でも抵抗するための方法はある。
乙骨の口元に蛇の目の紋様が浮かび上がる。
「”動くな”ッ!!」
『蛇の目と牙…また呪言か。強力な術だが、来ると分かっていれば対処することは容易いぞ』
その言葉通り、彼の歩みが止まることはない。
気流を操ることで音声自体を届かなくしているのだ。
天狗が太刀を掲げると刀身に紫電が迸り赤熱に照らされる。
秘剣『雷切』。呪力により電熱の特性が増強されて生じる切れ味は、膨大な呪力により強化された乙骨の骨肉を貫き、首を刎ね飛ばすに足る。
このままではもはや戦いではなく一方的な処刑にしかならない。
乙骨はそれでも諦めずに思考を回し、自らの活路を探していた。
手札の一つ、獲得した影の術式によって影空間に逃げ込もうと先程から術式を発動していたが、広がりが生まれずに内部から押し出される。領域との押し合いに負けて結界が潰されている状態。
残る手札は呪言、これは音を遮断することで対策されている。
しかし可能性が潰えたわけではない。
(呪言は凄い呪術だ。それを自在に使いこなせる狗巻くんも凄い)
自分で使ってみて理解した。呪言を使う上で何よりも難しいのは指向性の制御だ。
標的に狙いを定め、効率よく術式効果を乗せること。それ以上に重要なのが、
狗巻が平素から限定された単語だけで話しているのは、他人のみならず自分も悪影響を受けないようにするためでもある。
「"吹き飛べ"!!」
それは自分に向けた呪言。
乙骨は後方に向かって勢いよく吹き飛び、天狗の振るった刀は空を切った。
単純な動作の強制に留まらない、本来ありえない力学動態すら強制する強力な呪術。
対象の身体状態に関わらずその効果は発動する。
『抜かったか!』
天狗は虚を突かれたことを自覚し、即座に追撃に向かう。
同時に呪力を纏わせた竜巻を乙骨の向かう先に作り出す。
色のない強力な力場が生まれ、肌を震わせる。
身動きの取れない乙骨は為す術なく空気の渦に取り込まれ、天高くまで巻き上げられた。
本来は領域を閉じず環境物を巻き込むことで威力を上げる術だ。凡庸な術師ならこの空気の渦だけでも引き千切ることが出来るが、膨大な呪力で強化された乙骨の肉体であれば耐えられてしまうだろう。
強固な肉体と反転術式による回復。敵の動きを止め、確実に防御を貫けるように刀の威力を上げ、直接首を斬り落とすしか勝ち筋はなかったがために領域展開へと踏切ったのだ。
しかしもう時間が幾許もない。このまま硬い肉をミキサーに掛ける作業を続ける訳にはいかない。
『足りぬ!やはり直に斬り伏せるのみ!!』
案の定乙骨は耐えているが、乱気流に投げ込まれたことで位置感覚を失い、呪言による移動の制御が困難となっている。
乙骨めがけて翼をはためかせながら、天狗は印を結び用済みとなった竜巻を消し去った。
まずは一突きで串刺しとし、地に縫い付けてから首を刎ねる。
宙に投げ出され緩やかに回転を続けている少年を射程に捉える。
だがその時突然の悪寒に天狗の背筋が凍りついた。
少年は見ていた。黒く冷たい瞳で。
そして狙いを定めている。
空中で翻り、こちらを振り向いた少年のその手元には、夥しい量の呪力の塊がある。
最初からこれを溜める隙を狙っていたのだと天狗は悟った。
(チィッ!急いたな!!)
一片の油断も無かったが、無意識の焦りはあったのだ。領域がいつ解除されるとも知れず、出来る限り早く片を付けねばならないと。加えて乙骨が常に纏っている呪力量が大きすぎて感覚が狂っていたのだろうが、言い訳にもならない。
限界まで圧縮されたソレが指向性を持って解き放たれれば己の全身を一息に消滅させて余りある。そして既にまともに避けることもままならない距離だ。
『しかし!舐めるなよ小僧!!』
元より避ける必要などない。二度も終わっている無価値な命、死への恐れとは無縁。
放たれた光の束目掛け、天狗はさらに加速した。
「!!」
乙骨はその一撃を敢えてある程度拡散させて放っていた。呪霊や式神は核と呪力さえ残っていれば再生出来るため確実に全身を消滅させようとしたのだ。
しかし敵が距離を詰めてきたことで目論見が外れた。近づけば近づくほど、面は狭まり点へと収束する。
そして自ら放った光によって一瞬だけ視界が潰れ、前方から飛んでくる剣閃への対応が遅れる。
空中で呪力放出を行ったのは彼にとって幸いだった。
反動により後方へ飛ばされたことで、前に突き出した腕を落とされ、浅く喉を切り裂かれただけで済んだのだから。
程なくして、天元によってようやく領域が解体される。
乙骨は再生が終わった両手を地に突き、期せずして吸い込んでしまった血反吐で咳込み苦しんでいた。
「ゴホッ、カハッ!」
悠長に跪いている場合ではないと分かっていても呼吸困難の苦しさというものは如何ともしがたい。反転術式による体内の異物除去を試みてはいるが、これが中々難しかった。
それでも何とか立ち上がり、辺りを見回して近くにいるはずの敵を探す。
探し物はすぐに見つかった。そして一先ず大きな脅威が去ったことを知る。
少し離れたところに敵の式神の胸から上だけが転がっている。見るからに呪力に乏しく、少なくともこれ以上の戦闘継続は不可能だろう。
既に治癒した首元を擦る。すると安堵と共に、今更ながら恐怖の感情が噴出してきた。
(本当にギリギリだった)
あと半身分だけでも近づかれていたら首が持っていかれていた。陽明は首を斬られても生きていたが自分は彼のように蘇生できたりはしない。共有こそしているが飽くまでも術式の本体は里香にある。
(少し前まで死にたいと思ってたのに、変だよな)
今、自分は噛みしめている。人生がまだこれからも続き、大切な人たちと思い出を紡いでいける喜びを、何処か申し訳なさと共に。
ふと足元に目を落とし、その感情を油断だと自覚する。そして落ちていた刀を拾い、残骸のもとに歩いていく。不測の事態が起こる前に止めを刺すため。
『…終わりか』
警戒を顕にして近づく足音を聞きながら、式神の残骸は呟いた。
先刻と違い、欠片も覇気を感じられない、穏やかな声。
哀愁すら漂っている。ただの嗄れた老人にしか見えない。
乙骨は千切れた胴の端から漏れ出る呪力へと目を逸らした。
「何か言い残すことはありますか」
この式神が元々人間だったことは聞き及んでいる。
そして無抵抗の人間に最後の言葉を遺す猶予すら与えないような非常さを、乙骨は未だ持ち合わせていなかった。
『”人を救い、遍く呪いを断つ”』
「…?」
『かつての弟子が口にしていた。呪いを断つためには、人の心を救わなければならない。それが呪術師の使命なのだと。だが誰より強い意志を持っていたその男も一人の”最強”に屈した。意志を叩き折られたのだと、救いなどないのだと、そう思っていた』
誰に言い聞かせるでもなく、ただ己の生を回顧するだけの言葉を乙骨が十分に理解することは適わなかった。
分かったこともあった。この老人がかつて一人の呪術師だったのだということ。
『奴を見届けたかったが…もう良い。殺れ』
老人はそれ以上言葉を発することを止めた。
乙骨は老人の言葉に深く考えを巡らせることなく、無心を努めながら剣を振り下ろす。
情けや哀れみは無用。過去がどうであれ、現在の彼は紛れもなく呪いであり呪術師の敵なのだから。
四肢を失った景光に呪具を突き立てた。
天逆鉾は正しくその能力を発揮し、発動中の術式が強制解除させられる。
だがその瞬間、禪院直久は己の敗北を悟った。
(やられた!!)
突然周囲に飛散した血液が、たった今消滅した
そう、それまで陽明の肉体だと思っていたものは、余りにも精巧に再現された式神。
外見は愚か、四肢の切断面から分かる体組織は本物に見紛うほどだった。そして今、白い大地に広がっている血液は
(あり得ねぇ…、読んでたってのか)
自分が天逆鉾を持っていることを読んでいた。ここまで精巧な式神を用意する理由はそれしか考えられない。
呪具が敵の手に渡ることを何よりも恐れ、相手が本物だと思ったからこそ使った。確実に倒せると踏んだからこそ。その考えが全て読まれていた。
直久は焦る。
もう術式の稼働限界が近い。このままでは本体を倒すことも、陽明の精神を解放することも出来ず自分は死ぬ。しかし自分の命など二の次だ。どの道あの敵を相手にする為には禁術を使う他なかった。
最大の問題は五条悟すら殺し得る最強の呪具が野晒しになってしまうということ。
(…結界を通じて天元に返還するか?いや、天元ごと敵の手に落ちたら本当に為すすべがなくなっちまう。これはあらゆる意味で真の切り札だったんだ)
やはり破壊するしかない。再利用も出来ないように完全に粉砕するしか。
そう思い立ち、直久は直ぐ様残る呪力の全てを右拳に込め、地面に置いた呪具に向けて振り下ろす。
己の全てを込めた、瞬間的に音速の三倍にも至る一撃。それは空性結界の循環定義にすら綻びを与え、空間ごと呪具を欠片も残さず破砕した。
その凄まじい反動によって彼の右手もまた跡形もなく消滅しているが、死にゆく人間にとってはどうでもいいことだった。
そして糸が切れたかのように、彼はその場に倒れ伏す。
余りにもあっけなく。
(…悪くない人生だと…思ってたんだがな。やっぱ最後に、アイツの事だけが…)
「…術式の強制解除か。全く油断ならんな」
その男は暗闇の世界で独り言ちる。
今回この場で作り出した式神は
暫しの間を置き、閉じた影から表の空間へと現出する。
すぐに目に入ったのは白い世界に広がる赤。見慣れた血の赤だ。
量は計らずとも分かる。およそ5リットル、人体に含まれる血液の量。それが全て無造作にぶちまけられている。
次いで最も警戒すべき異質な呪力の残滓を辿る。
呪具は残っていない。その場の結界の綻びを見るに、あの男が命を懸けて破壊したのだろう。
(まさか本当にあんなものを隠し持っているとは)
『天逆鉾』。あらゆる術式を無効化する唯一無二の特級呪具。適切に運用することであらゆる術師を屠ることが出来ただろう。自分も例外ではない。
別に予期していたわけではない。呪具がこの時代に存在するという事実を知っており、あの男が最高峰の呪具使いであることもわかっていたというだけ。だが景光はそれが極めて薄い可能性だとしても無視しなかった。
誰もが本物に見紛うような分身を作った。一面に広がる血液は反転術式で生成して影の中に貯留していたもの。体組織を精巧に模倣し、本物の血液を組み込むことでそれは成った。
(呪具も手に入れられたら話が早かったが、まあいい)
最後に伏している人影に目を落とす。
そして僅かに目を見開き、讃えるように言った。
「驚いたぞ。まだ息があるとは」
血溜まりの中、禪院直久は力無く横たわっている。
術式の反動による自滅。彼が景光の前に立ちふさがった時点でこうなる未来は確定した。
他に選択肢は残されていなかったのだ。あの分身は命を賭すほどの縛りを用いなければ勝てないような強力な式神だった。切り札を切らなければ何も出来ずにただ死んでいた。
直久は己の全てを出し尽くし、僅かな勝機に賭けた。そしてその上で彼の実力を正しく理解していた景光は、ほんの僅かに存在していた敗北の可能性を確実に排除しようとした。
待っていれば勝手に死ぬ。だから待った。
しかしその思惑を外れ、どういうわけか彼はまだ生きている。
「自分でも不思議だろう。全身の血液が逆流し、既に体が細胞レベルで崩壊を始めているはずなのに何故まだ生きているのかと」
それは奇跡…否、そう呼ぶことすら失礼なほどの意思の力によるもの。
「実はな、俺の術式は特別な力というわけではないのだ。呪力が繋がり、縁を作ることで意識の核が生まれる。これは呪力自体が持つ特性であり、呪力を生み出し扱う力を持つ者であれば大なり小なり持っている力。呪物化などは良い例だ」
呪物化。人を構成する情報である魂を肉体の一部に移し、結界術によって固定する術。
呪物は封じられた人間の呪力を宿す。そして呪力同士の繋がりが、あたかも神経細胞が生み出す電気信号のように時々刻々と揺れ動き、人と意識の情報を紡ぐ。
意識が生まれれば心象世界たる領域も生まれ、呪物を取り込んだ他者の領域を呑み込む事でその肉体をも乗っ取る事となる。
脳という思考器官が機能を失っても、呪力さえあれば人は肉体に意識を宿すことが出来る。
識神転輪式という術式は、長い年月と多くの生贄を捧げることでそうした呪力の性質を強化し、術式として記述・編纂したもの。まさに呪力の因縁生起を顕す術式。
「呪力が淀むことで呪霊が生まれるのも同じ。この特性こそが呪霊という存在の根幹を成している。そして今のお前は呪力の特性を余すところなく発揮出来ている。何故だか分かるか?」
「……」
直久が言葉を返す事はない。
”息がある”と景光が言ったのは、その体に充実している呪力を見たことでの比喩表現に過ぎない。生と死の境界が曖昧な彼にとって、直久はまだ生きていた。
「
彼がそう言うや否や、直久の体に宿る呪力は急速に弱まり始めた。
それは明確な意思表示だった。
「フッ、まあどの道生かすつもりなどないがな。…ああそれと、俺は未だこの肉体を完全に支配できているわけではない。だから、安心して逝くと良い」
景光は倒れ伏す男の傍らに膝をつく。そして片手に刃を持ち、振りかぶる。
しかしその途端、体全体が重くなったのを感じる。
全霊をかけて抵抗する者が己の内にいる。景光はこの状況こそを真に望んでいた。
「刻め。これはお前の罪だ」
抵抗を破り、彼は手にした刃を勢いよく突き立てた。
すぐ傍で魂が軋む音を聞きながら。