ゲームのエンディング後の話です。
カニクマは創作者の希望。
#1
「…こんなゲームで本当に大丈夫なわけ?」
不安そうに熊手を見る蟹井。
「大丈夫だよ。…なにか不満?」
それに対し、熊手はニコリと微笑んだ。
蟹井はため息をつき、ゲームの脚本に目を落とす。
「いやさ…なんで私、死んじゃったみたいにされてるの?」
熊手が書いたこのシナリオ。
そこでは、ラストシーンで蟹井が死んだことが示唆されていた。
追い込まれた蟹井、開いたままの窓、ベランダから下を見る熊手——。
明らかに死んだでしょ、と蟹井は思う。
「…だって言ってたじゃん?」
熊手は微笑みのまま続ける。
「どんでん返しがあって…メタフィクションで…思いも寄らないタイミングで主要人物が死んじゃうような…」
蟹井は顔を上げた。
それは、創造のどん底ですがりついた、売れるための呪縛。
「…そんなシナリオのゲームが話題になるんだってさ」
熊手は、ちゃんと覚えていたのだ。
「…それは、そうだけど」
「完成できる?」
シナリオはここにある。
あとは蟹井がプログラムを組み、熊手がドット絵を描く。
極めてシンプルな工程で、このゲームは完成する。
やるだけ。あとは——やるだけだ。
「…いいよ。やってみる」
そう言う蟹井は「でも」と続ける。
「私たちのことをゲームにするのは…変じゃない?」
「変、って?」
「なんかさ…どっちが本当のことか、わからなくなるでしょ?」
ゲームを作っていると、作品の世界が現実になる。
蟹井自身、何度も経験したことだ。
バイト中だって、ゲームのことを考えてしまう。
それも「社会不適合者」と呼ばれるほどに。
このシナリオは、それを肯定しているようで、蟹井は怖かった。
「…そんなこと言ってたら」
熊手はソファーから立ち上がり、蟹井の作業机に近づいた。
長い茶髪がふわりと揺れる。
「…ゲームなんて、完成しないよ」
当然の言葉に、蟹井は口を閉じた。
ものを作る人は、大なり小なり不安を覚える。
その不安に押しつぶされていたら、何も完成することはない。
不安でも、作る。恐怖をはねのけ、作る。
…それがクリエイターというものだ。
「…そうだね」
「作ろうよ。作る意味のある、私たちのゲームを」
「…うん」
こうして再び——【ISOLATION STUDIO】のゲーム作りが始まった。
#2
「…ただいまー」
仕事から帰ってきた熊手は、部屋を見渡した。
カーテンが揺れていた。
部屋に風が吹き込んでいる。
ベランダを見ると——窓が開いていた。
ドクン、と心臓が跳ねる。
「カニちゃんっ!?」
熊手は大声で叫んだ。
「え?」
窓からひょっこりと顔を出す蟹井。目をぱちぱちとさせていた。
熊手はホッと胸をなでおろした。
「…よかったぁ」
涙が出かかっていることが、自分でもわかった。
「…どうしたの?」
蟹井が心配そうに聞くと、熊手は「いやさ」と目元をぬぐった。
「飛び降りたかと思った」
熊手が真剣に言うと、蟹井はプッと吹き出した。
「あんた…それ、シナリオの話でしょ?」
「う…ごめん。でもよかった」
ゲームを作り始めてから、熊手は蟹井のことが異常なほど気になった。
蟹井がなにかをするたびに、どこかに行くたびに、目で追ってしまう。
自分の作ったこのゲームシナリオが、そうさせるのだ。
蟹井が言った通りだ。
ゲームと現実、どっちが「本当のこと」かわからなくなる。
「…で、ゲームはどう?」
熊手のこの言葉を待っていたかのように、かといってそれを悟られない様子で、蟹井は「それがさ」と言った。
「出来たんだよね」
「…出来た!?」
「あとは細かいところを熊手が描くだけ」
熊手はぴょんぴょんと跳ねた。
「すごいよ! こんなすぐできるなんて…カニちゃんは天才だね!」
シナリオができても、ゲーム性の進行はプログラマーに一任される。プログラマー次第で恋愛物語はゾンビゲームになるし、ホラーゲームがパズルゲームになる。ゲーム制作において、プログラマーの仕事は重いのだ。
それをたった数日で完成させるなんて——やっぱり天才だ。
「…まぁ、仕事してないからね」
蟹井は照れ隠しに頬をかいた。
「じゃあ、あとはドット絵を完成させればいいんだね」
「うん…でも、熊手にプレイしてほしい」
蟹井は不安そうに言った。
「なにか問題があったら…言って。小さなことでも、いいから」
その言葉は、今までの彼女の苦悩を端的に表していた。
売れなかったゲームの数々。
それでもまた1から作る恐怖。
また売れないのではないか、というトラウマ。
自分の作ったシステムは完璧ではない。
でも、できることなら、完璧に近づけたい——その想いは、熊手もよくわかった。
ものを作る者が持つ、最低限のプライド。
「わかった…だけど」
熊手がかける言葉は、これだけだ。
「カニちゃんが組んだプログラムだから、完璧だよ」
蟹井が考えて作ったものなのだから。
ずっと一緒にいた相方を信じる。
熊手だけができる、蟹井への最大の支援は、心を支えることだ。
「なにそれ…勝手なこと言って」
「カニちゃんだから、そう言えるんだよ」
「…そう」
蟹井は顔を赤くしていた。
ようやく本音で話せるようになったせいか、蟹井はずいぶんと表情に現れやすくなった。
——そうだ、この顔だ。
専門学校時代、好きなようにゲームを作っていた頃。
蟹井はこんなふうに、楽しそうな顔をしていた。
意外と表情に出やすいタイプで、初めて見た時は驚いたものだった。
「…ふふっ」
ようやく、ここまで戻ってこれたんだ——熊手は笑った。
「…なに笑ってんの?」
「えへへ。なんでもないよ」
「…へんなやつ」
離れ離れになって、またふたりに戻った。
いや、今はひとつになっている。
「私たちのゲーム、絶対に完成させようね」
「…うん」
#3
「…できた」
「…完成だね」
そうして、ゲームは完成した。
タイトルは『GOODBYE WORLD』。
プログラミングを学ぶ時の「HELLO WORLD」を逆にした。
逆張りは蟹井がよく行う手法だ。
「ちゃんとできてよかったね、カニちゃん」
「…正直、ホッとしてる」
蟹井にとって、この数日間はあっという間だった。
いつもは「ああでもない、こうでもない」と時間だけが過ぎていたのに。
ゲームを作るのは——楽しい。
久しぶりのその感覚を、蟹井は握りしめる。
「…で、このゲーム、どうしよう?」
熊手の言う通り、問題はこれからだった。
「正直…売ろうとするには、まだ足りないと思う」
「完璧を求めてるの?」
そうじゃない、と蟹井は首を振る。
「音楽もSEも付けた。でも、ブラッシュアップが足りない…」
ブラッシュアップとは、作品の質を上げるための行為だ。
完璧にはなれないが、完璧には近づけたい。
「…それ、完璧にするってことじゃないの?」
「私は満足してる。できることも、やりたいことも、全部した。でも、ゲームをする人にとって、まだ足りないところがあるかもしれない」
蟹井はそう言って、気付いた。
「ふ〜ん…そうなんだ〜…」
熊手がニヤニヤとした顔をしていることに。
「な、なにその顔…」
「なんでもないけど?」
「絶対なんかあるでしょ…」
いやさ、と熊手は口を開く。
「カニちゃん、成長したなぁって。前はプレイする人のことは考えてないって言ってたじゃん」
その熊手の言葉が引っかかった。
そんなこと、蟹井は言った覚えがないのだ。
しかし『見覚え』はあった。
そう——このゲームのシナリオ。
「そんなこと…」
否定しようとして、蟹井は口を閉じた。
いや…熊手の言う通り、成長したのだ。
ゲームを作っているうちに、シナリオと自分を重ね合わせているうちに。
クライマックスの【BLOCKS】のメッセージ・シーン。
「プレイする人のことを考えてなかった」という蟹井の本音。
ゲーム内の蟹井が、現実の蟹井に乗り移っていた。
作っているゲームに、作り手が変えられてしまう。
ほんとうに…どっちが『本当のこと』かわからなくなっているのだ。
「…ふふ」
蟹井は笑うしかなかった。
こんなにゲームに励まされたことはない。
この初めての感覚は、蟹井に勇気を与えた。
「熊手」
「うん」
「売ろう」
「…ブラッシュアップしなくていいの?」
「うん。完璧じゃないけど、完璧だよ」
やりたいことは、全てやった。
やるべきことも、全てやった。
それでいい。それは『完璧』ということだ。
「…大丈夫だよ、カニちゃん。きっと、売れるよ」
熊手の言葉はいつも短いけれど——いつも救いになる。
#4
「いくよ…」
「うん…」
「押すよ…」
「押しちゃおう…」
蟹井がクリックする。
パソコンの画面には、「販売完了!」の文字が示された。
「ふぅ…」
「おつかれさま、カニちゃん」
「…この瞬間だけは、いつも緊張する」
「いつもありがとね」
胸をなでおろす蟹井に、熊手はほほえんだ。
「…売れるかな」
「売れるって。大丈夫だよ」
それに、と熊手は続ける。
「売れなかったら…また作ればいいでしょ?」
その言葉は、熊手自身に投げかけたものでもある。
頑張って作ったものが売れなかった——その恐怖は、痛いほどわかる。
時間をかけてシステムを作る蟹井は、なおさら怖いだろう。
でも、その恐怖は何度も経験しているし、乗り越えてもきた。
また作ればいいという言葉は、絶望ではあるが、希望でもある。
「…あんた、強くなったね」
「そ、そうかな?」
蟹井に褒められたのが恥ずかしくて、熊手はそう濁した。
彼女はめったに褒めない。このたまに来る褒め言葉が、熊手を喜ばせる。
「そうだね…また作ればいいか」
蟹井は販売のページを閉じた。
するとプログラムコードの画面が出てきた。書きかけのようだった。
「あれ? これ…別のゲーム?」
熊手は気付く。
明らかに販売したばかりのゲームのコードではない。
プログラムがわからない熊手にも、それがわかった。
蟹井は「これは」と続ける。
「次のゲームのプログラム」
「え?」
「ふと思いついたから、作っておこうと思って」
カタカタとキーボードを打つ蟹井。
彼女はすでに動き出していた。
売れなかったら作ればいい——それを蟹井はわかっていたのだ。
「…やっぱりカニちゃんはすごいよ」
目の前の相方に対して、再び尊敬の念が浮かぶ。
「そう言うあんただって…別のイラスト描いてたくせに」
「見てたの?」
「お互い様でしょ」
ふたりは顔を見合わせて笑った。
このゲームが売れなくてもいい。お金以上のものが手に入ったから。
でも…やっぱり売れてほしいな、と熊手は思う。
#5
「カニちゃん、カニちゃん!」
蟹井は椅子に寝転がって【BLOCKS】をプレイしていた。
操作性が悪く、ゲーム性もわかりにくくて、特にレベルデザインがむちゃくちゃだ。まぁ蟹井が作ったゲームなのだが。
慌ただしい熊手の声が飛んできたのは、高難易度ステージ「3−1」に挑戦している時だった。
「どうしたの。そんな大声だして…」
「うっ…」
「う?」
ただならぬ雰囲気に、蟹井は目だけを向ける。
熊手は息を切らせ、顔を赤くしながら、スマートフォンを握りしめていた。
「…売れてる」
「え?」
「売れてるよ! わたしたちのゲーム!」
携帯ゲーム機が床に落ちた。
ブッ、とゲームのフリーズ音が響く。
蟹井は身体を起こした。
「…うそ?」
「ほんと! ほら、見てごらん!」
熊手のスマートフォンを覗き込む。
商品管理ページには、「販売数:10000」の数字。
一瞬、数字が読めなかった。
何度も「0」の数を数えた。
いち、じゅう、ひゃく、せん……。
「…いちまん。ほんとだ」
「ね!? わたしたちのゲーム、売れてるんだよ!」
私たちのゲーム。
苦労して作ったゲーム。
楽しく作ったゲーム。
それが売れている。1万。
「…やった」
嬉しかった。
本当に、嬉しかった。
自分自身が肯定されたようで、たまらなく嬉しかった。
「…ふふふ」
ふと熊手を見ると、彼女はニヤリとした怪しい笑みを浮かべていた。
思わずぎょっとする蟹井。
「な、なに…?」
「カニちゃん、笑うの下手だね」
いくらなんでもストレートすぎでしょ。
「どうせ私は社会不適合者だよ」
「…そこまで言ってないよ?」
「と…とにかく」
蟹井はコホンと咳払いをする。
「わたしたち、間違ってなかったんだ」
「うん、間違ってなかったよ」
ふたりは顔を見合わせた。が、蟹井はすぐ目をそらした。
熊手があまりにも真っ直ぐに見つめてくるものだから、急に恥ずかしくなったのだ。首まで赤くなっているのがわかる。顔も首も耳も、どこも熱かった。
「ようやく…ここまで来れたね」
熊手は蟹井の手を握った。
彼女の言う通り、ここまでこれたのだと、蟹井は実感する。
「…そうだね」
長くて、苦しくて、つらい道のりを——私たちは歩いてきたんだ。
#6
壇上のスポットライト。
背後には「インディーゲーム大賞」という垂れ幕。
観客席は暗闇に包まれているが、大勢いるらしい。スマートフォンが光を放っている。
「…カニちゃん、大丈夫?」
熊手はそう声をかけた。
蟹井はわかりやすく緊張していた。身体が小さく震えている。
「だ、大丈夫じゃない…」
彼女はこういったステージが苦手だった。
専門学校の時も、緊張する蟹井を熊手が励ましたものだ。
「ほら、好きなもののこと考えるといいって」
「だからそれ、シナリオの話…」
「猫だよ…猫!」
「聞いてる?」
「にゃーん!」
蟹井は戸惑っていたが、胸に手を当てて目を閉じた。
きっと、猫を想像しているのだろう。
もちろん——熊手も震えていた。
『学生ゲーム大賞』の時は蟹井だけが壇上に上がった。今回は初めてふたりで上がる。
蟹井を励ましておきながら、熊手の方が緊張していた。
「…緊張してるでしょ」
いつの間にか、蟹井が目を開けていた。
「…してるよ」
「好きなものを考えるといいよ」
「…ふふ」
熊手は目を閉じ、好きなものを想像してみた。
すぐに出てきたのは、ゲームを作っている蟹井の姿だった。
口を閉じ、じっとパソコンをにらみ、カタカタと両手が動く。少しして「あー」と身体を反らせ、ソファに寝転がる。携帯ゲームをいじったかと思うと、また起き上がって——。
気が付くと、身体の震えは止まっていた。
「…ありがとう。もう大丈夫だよ」
「ちゃんとしてよね…スピーチもあるんだから」
「…うん」
熊手は目を開けた。隣には、一緒に苦しみを乗り越えた仲間がいる。
もう何も怖くない——そう確信する。
『インディーゲーム大賞『GOODBYE WORLD』の製作者、【ISOLATION STUDIO】おふたりです!』
熊手は蟹井の手を握った。無意識だった。
蟹井の手は、一瞬引いた。
しかしすぐさま、ぎゅっと握り返された。
「…いくよ、熊手」
「うん…カニちゃん」
ふたりはスポットライトへ歩き出す。
#7
久しぶりに浴びたスポットライトは、まぶしかった。
学生時代のオンボロステージよりも作りがしっかりしている。
これが大人の世界なんだ、と蟹井は思う。
『インディーゲーム大賞に選ばれました、製作者の蟹井さんと熊手さんです!』
司会の声に被さるように、歓声が挙がった。
耳が痛くなるほどの拍手に圧倒される。
隣の熊手がお辞儀をしていたので、蟹井は慌てて頭を下げた。
『ここで、おふたりの紹介をいたします』
司会が紹介に入る。
『まずはグラフィッカーの熊手さん。イラストとドット絵の担当で、きめ細かなドットや深みのある画面作り、複雑な色彩のコントロールなど、グラフィック面で素晴らしい活躍をされました』
ぺこり、と頭を下げる熊手。いつものように、ゆったりとした動きだった。緊張している様子は一切ない。
『続いて、プログラマーの蟹井さん。まるで映画のような緩急のある演出、各シーンで挿入されたレトロゲームの制作、そしてクライマックスでは主人公の本音をそのゲーム内で表現する見事な演出をされました』
蟹井も頭を下げた。
再び拍手が起こる。
スポットライトの光と、暗闇からの轟音に、めまいがする。
高揚と興奮の、心地よいめまい。
『素晴らしいゲームをありがとうございました』
スーツを来た男性が、熊手に賞状を、蟹井にトロフィーを渡した。
そして順番に握手をする。
『それでは、おふたりにスピーチをしていただきます。まずは熊手さん、お願いします』
司会の言葉に、蟹井は身構える。
マイクを握った熊手は、こほんと咳払いをした。
「…カニちゃんがいたから、ここまでこれました。私たちのゲームをプレイしてくださって、ありがとうございました」
マイクが渡され、蟹井はぎょっとした。
いくらなんでも短すぎるのではないか?
観客は拍手しているし、歓声も上がっているけど……もっと聞きたいことがあるのではないか?
『ではお次に、蟹井さん。お願いします』
司会に背中を押されても、蟹井は固まっていた。
こういうとき、何を言えばいいんだっけ。そう、ゲームのことだ。システムのどこをこだわったとか、大変だったこととか、そういうことを言えばいいのだろう。
が、口は開かない。何を言えば……。
「にゃーん」
猫の声がした。いや、明らかに人の声だった。
隣にいる熊手が、小声で猫の鳴きマネをしているのだ。
その励ましに——蟹井は言うべきことを決めた。
「…何度も折れそうになりました。…正直、折れたときもありました」
本音を言えばいい。
ダサくても、頭がおかしいと思われてもいい。
「昔のわたしは、自分本位でした。自分のゲームが理解されなくても、理解できない人が悪いんだって。ゲームをする人のことを考えずに、自分だけが楽しんでいました。すごく独りよがりだったんです」
顔から火が出ている。マグマのように熱い。
言葉が何度もどもっているのがわかる。声が裏返っているのもわかる。熊手のスピーチよりはるかに長く、まとめられていない。
それでも、蟹井は本音を言い続けた。
「…今度は『人を楽しませることだけ』を考えて作りました。でも、それも間違いでした」
失敗ばかりだった、ゲーム制作。
その失敗は苦しくても、蟹井を成長させてくれた。
「ほんとうに大事なことは…人を楽しませながら、自分も楽しくなることだったんです」
息を吸う。
そのことを教えてくれたのは。
「…それを教えてくれたのが、クマです」
ふと、緊張が消えた。観客の表情が見えた。全員が蟹井のことを見ていた。
隣の熊手も、蟹井のことを見ている。
蟹井は大きく息を吸った。
「クマが、ずっと励ましてくれたんです。わたしの作るゲームが好きって言ってくれたんです。クマがいてくれたから…今、わたしは生きてます」
蟹井は横を向いた。
熊手は、いつものほほえみを蟹井に向けた。
「ありがとう、クマ」
お辞儀をして、スピーチを終える。
ずいぶん自分勝手なスピーチだったが、それでいい。
ゲームを作る者なら——少しぐらい自分勝手でもいいだろう?
『以上、【ISOLATION STUDIO】の、最高のおふたりでした!!』
観客の拍手が鳴り止むことはなかった。
#8
電車の中で、熊手と蟹井は無言だった。
状況を理解するには、時間が必要だった。
言葉を交わさないまま、電車に揺られていく。
ガタン、ゴトン……。
熊手はウトウトとした。
茜色の西日。暖かな車内。ふかふかなソファ。
ふと隣を見ると、蟹井が寝ていた。
すうすうと小さな寝息を立てていた。
揺れに揺れた首は、とすんと熊手の肩に寄りかかった。
「…」
熊手は静かにほほえんだ。
そして、蟹井の頭に、自分の頭を預けた。
ほんとうの幸せなというのは、こういうものだと、熊手は思う。
#9
家に着いて、電気を付ける。
ゲームを作り続けた、蟹井たちの居場所が待っていた。
「…大賞だってさ」
そう言葉にするのは簡単だった。
大賞。一番上という意味。とても栄誉あること。
「うん。嬉しいね」
熊手は正直にそう言う。
嬉しいという感情を、はっきりと口にする。
たぶん、蟹井も嬉しいのだろう。
実感がない、というのが正直なところだ。
「作りたいものを作っても、ちゃんと売れるじゃん」
「え?」
「…ほら、あのパブリッシャーのこと」
蟹井がそう言うと、熊手は笑った。
「それ、ゲームのこと…」
「どっちでもいいよ。ゲームのことでも、現実でも。見返してやったんだ」
蟹井が窓を開ける。
風が部屋に吹き込んだ。
ベランダから差し込む夕日が、目に映るものすべてを黄金色に照らしていた。
「正直…このゲームがリリースできたら、死んでもいいって思ってた」
蟹井はいつの間にか、本音を話せるようになった。
授賞式のステージ以来、恥ずかしさはなかった。
「うん」
熊手は静かに見守っている。
「まぁ…売れなくても、死んでただろうけど」
「でも、売れたよ」
「うん、売れた」
熊手が蟹井のもとに寄る。
赤橙に光る夕日に、蟹井は吸い込まれそうだった。
「私みたいな社会不適合者でも、誰かの心を動かせるんだ」
「…」
「賞がもらえたのも、私がゲームを作り続けられるのも、全部クマのおかげだよ」
熊手は静かにほほえんだ。
「私だって…カニちゃんのゲームに心を動かされてなかったら、カニちゃんとゲーム作ってないよ」
蟹井は目を見開く。
熊手はいつだって、本音を話している。
嬉しいことも、嫌なことも、全部。
まっすぐ、蟹井に向けて、言う。
「全部私のおかげなんてさ、思ってほしくないよ」
そんな彼女のことが、羨ましく思った。
「…ありがとう、クマ」
「…ううん。私こそありがとう、カニちゃん」
蟹井はベランダに出た。
柔らかな風が頬を抜けていく。
熊手もゆっくりとベランダに出てきた。
「ゲーム作るの、久しぶりに楽しかった」
「うん、楽しかったね」
「だから…もう充分かな」
蟹井はそう言った。
「そう…よかった」
熊手はうなずいた。
ベランダの向こうに街がある。
車が走っていて、歩いている人がいる。
海がある。かもめが飛んでいて、波の音がする。
空がある。茜色で、逆光にきらめく雲がある。
ベランダの手すりに、蟹井は手をかけた。
「…ねぇっ、カニちゃん!」
熊手が蟹井の手を握った。
初めて握った、熊手の手。
見かけと同じく、やっぱり温かい。
この手が、ドット絵を描いていて。
この手が、蟹井を支えてくれた。
「どこまでも…ついていくから!」
熊手が大きな声で言った。
「カニちゃんがどこに行こうとも——わたしっ、付いていくから!」
ギュッと、手を握りしめられる。
蟹井は困惑した。
「…でも、あんたが来る意味、ないじゃん」
「やだ…カニちゃんと一緒じゃなきゃ、やだ!」
子どもみたいに熊手は言った。
困惑していた蟹井は、静かにうなずいた。
そしてぎゅっと、手を握りかえす。
「…私、クマに会えて、ほんとうによかった」
「私だって…カニちゃんに会えて、ほんとうによかった」
「いつまでも…」
「どこまでも…」
「「一緒だよ」」
明かりのついた、誰もいない部屋。
窓の開いたベランダ。
暖かな潮風。
飛ぶカラスの影。
ゆるやかな海の波音。
夏の終わりを知らせるひぐらしの。
夕日は音もなく、水平線に沈んでいく。
グッバイ・ワールド。
#0
「…なにこれ?」
「なにって…」
「…私たちの二次創作だよ」
「へぇ…こんなの、書く人がいるんだ」
「いるんだね」
「…しかも私、また死んじゃったみたいにされてるし」
「これ、私も一緒に死んでるね」
「そんな簡単に死なないっての…」
「…でも、ちゃんとあるね」
「なにが?」
「どんでん返しがあって…」
「…」
「メタフィクションで…」
「思いも寄らないタイミングで主要人物が死んじゃう」
「そうそう」
「…こんなの、書く人がいるんだ」
「…ふふ」
「…なに?」
「それぐらい、人の心を動かしたんだね」
「…」
「私たちの作ったゲームが」
「…うん」
最高のゲームでした。
創作者として、蟹井と熊手を見習いたいものです。
未プレイの方は、ぜひプレイしてみてください。
カニクマは、創作者の希望。