朝の
迷宮が口を開けて待つロビーはダンジョン探索に向かおうとする冒険者達で賑わっていた。
そんな冒険者達の注目を集める一つのパーティ……もとい、一人の少女。
「今日はよろしくお願いいたします、【剣姫】様!」
「こちらこそ、よろしくお願いします……」
他派閥の
最近、何かと都市を騒がせる【ヘスティア・ファミリア】と共にいることも興味を持たれる一因となっているかもしれない。
「いやー、見られてるな」
「共にいるだけでこれほどまでとは……」
パーティの頭脳として助っ人であるアイズと打ち合わせを行うリリと件の少女の二人は特に気にする素振りはなかったが、ヴェルフ達はそれぞれ苦笑を浮かべるなど、どこかぎこちない様子で周囲を見回す。
その中でベルは特に何かをするわけでもなく、一枚の羊皮紙を見つめていた。ギルド本部に張り出されていた羊皮紙、その複製の一枚に書かれているのは、鎧と剣を纏う怪物の姿。
(冒険者の装備を奪うモンスター、複数の冒険者の目撃情報があるから多分事実……少し気になるかな……)
ベルが思い浮かべるのは、漆黒の
業物と見られる大剣を装備し、死闘を繰り広げた真正の怪物。
(あのミノタウロスには大剣を扱う『技術』があった。奪った武器を適当に振り回していたわけじゃない。冒険者の武器を扱えるモンスターが、他にも現れている……?)
あの日の怪物と今回の怪物。
類似点を見出そうとする頭を何度か振り、羊皮紙から顔を上げると、いつの間にか少年の周囲に彼の仲間達が集まっていた。
「うわっ!?」
「あ、やっと気付きましたか。そろそろ出発しようと思うのですが、大丈夫ですか?」
「ご、ごめん! 僕はいつでも大丈夫だよ」
思わず羊皮紙を手放し、驚くベルに呆れ交じりの苦笑を浮かべるヴェルフ達。
では行きましょうか、と咳払いを入れたリリの声に彼等は迷宮の入り口へと向かっていった。
その背中を見つめ、息を一つ吐き、彼等の元へ向かおうとするベルだったが、隣に立ったアイズが先ほどまで彼が見ていた羊皮紙を手に取り、見つめていることに足を止める。
「……二か月ぐらい前から、鎧を着た黒いミノタウロスが現れるって話……聞いた事、ある?」
「黒い、ミノタウロス……!?」
鎧と剣を纏う怪物の絵を見て思い出したかのように、アイズが切り出す。
黒いミノタウロスという言葉に否が応でも蘇る、あの日の死闘。
「あいつは、僕が確実に……」
「うん……私も、私達もそれは見てるから、偽物の情報かもしれないけど……これを気にしてるベルには、伝えておいた方がいいかな、って」
羊皮紙を丁寧に折りたたみ、手渡してくるアイズにベルは礼を伝える。
少し考え込みたいところだったが、リリ達の呼ぶ声に今はそんな場合ではないと、一度頭の片隅に先日のバーバリアンとともに置いておく。
突拍子もない予想だが、武装するモンスターと意思が通じるバーバリアン。
この二件はどこかで繋がっているのではないかと、ベルはそう考えたのだ。
考えることが増えたが今はそれを気にせず、ベルはヴェルフ達、そしてアイズと共にダンジョン探索に繰り出すのであった。
アイズさんを加えたことで安定度が格段に高まったパーティで探索を進めた僕達は破竹の勢いで18階層までの道のりを踏破した。
あのリリが思わず呆けた声を出すほどに
ただ、その勢いは一旦そこまでだった。
18階層『リヴィラの街』に辿り着いた僕達に『街』から依頼が舞い込んだのだ。
内容は、19階層に大量発生した
不定期ながら往々にして起こるモンスターの大量発生という
アイズさんと探索できる貴重な時間をあまり消費したくはなかったけど、
状況が状況かつ報酬も中々良いということもあって、渋々ながらも最終判断を任せているリリがそれを引き受けた。
僕は
リヴィラの人達はアイズさんにも来てほしそうにしていたけど、彼女はヴェルフ達と一緒に『街』で待機してもらうことにした。
この程度、アイズさんの手を煩わせる必要もない。いい機会だし、僕の仲間達と交流を重ねてくれたら……なんて思いもある。
そんな、ちょっと格好つけてた僕は。
「…………迷った」
19階層『大樹の迷宮』。多くの木々で覆われた複雑な迷路の一角で僕は天を仰ぐ。
「ん……?」
木に登れば上の階段見つかるかなー、なんて、途方に暮れていると視界の端に人影らしきものを捉えた。
片足を引きずり、何かから逃れるように迷宮の植物が生い茂る物陰へ身を隠そうとするその影に、僕は迷わず走り出す。
負傷してモンスターに追われているなら一大事だ。ダンジョン内では不干渉が決まりだけど、見過ごすことは出来ない。慌てて物陰へ駆け寄った僕は、直前で何か様子がおかしいことに気付く。
剣を抜いて、警戒を払いながら近付く。
そして、僕は、信じられないものを見た。
「モンスター…………『ヴィーヴル』?」
愕然と、目の前の存在の
青白い肌に、少女のような華奢な四肢を持った人型のモンスター。第三の目を彷彿とさせる額の紅石が、かろうじて竜種『ヴィーヴル』であることを僕に伝えてきていた。
だが、その姿は僕が知る『ヴィーヴル』の姿から酷く乖離している。
「……モン、スター…………?」
整った相貌、何より琥珀色の瞳から流れる涙。
本来であれば竜の胴体があるはずの場所に生えた細い二本の足。
肌の色や鱗にさえ目を瞑れば、僕と同じかそれよりも幼い女の子にしか見えない。
狼狽える僕の右手の中で剣が鳴る。
その音に、目の前の存在は怯えるようにその小さな体をさらに縮ませた。
グラリ、と視界が揺れる。
眼前で立ち尽くす僕を見て、両腕で抱き締めた体をガタガタと震わせながら。
モンスターであることを忘れたように怯え、幼い人間の子供のように恐怖を露わにしている。
ありえない、と頭の片隅が囁いてくる。
まともな思考ができない。こんなことになるのは、初めてだ。
動揺に動揺が重なり、目の前の光景がとてもではないが信じられない。
モンスターは、人類の敵。
本能のまま生物に牙を剥き、襲い掛かってくる絶対の殺戮者。凶悪な破壊衝動の塊に理性や感情が介在する隙間はない。
モンスターは、『怪物』なのだ。
(────その筈、なのに)
怪物が人類に与える筈の嫌悪感、忌避感が発生しない。
無条件に僕達を抗争へと駆り立てる、モンスターに対する闘争本能が欠片も湧いてこない。
今の僕は、人に近いこの容姿を前にして、刃を突き立てることに抵抗を覚えている。
────狂おしいほどに、目の前の存在が『
「……ぅ、あ……」
「!」
かろうじて強く握り直しはしたものの、それを見たモンスターの怯えが増したことに益々混乱してしまう。
(怪我を……いや、傷を負ってる)
凝固した血に染まる肩、鱗ごと破けた肩の傷が視界に入り込んでくる。
同業者に斬られたのだろうか、なら武器に怯えるのも無理は……だから、さっきから僕は何をやってるんだよ…………モンスターを心配するとかおかしいだろ……!
ぐしゃぐしゃと左手で髪をかき乱す。傷だらけの
だけど、僕は動けなかった。
モンスターは厄災を運んでくる象徴。意思が通じたあのモンスターが例外中の例外として除外したとしても、間違っても同情や、助けの手を伸ばしてはいけない。
(わかってる……そんなことは、理解している)
怯える
確かな感情を宿すその瞳に僕は、どんな風に映っているのだろうか。
「…………」
結局、僕はその瞳に止めを刺すことは出来なかった。
一歩後退してしまえば、もう止められない。僕は何の行動にも踏み切れず、何も見なかったことにして情けないままその場を逃げ出した。
その場を立ち去った僕はすぐ近くの樹に手を突き、荒々しく息を吐きだす。
僅かな距離しか走っていないというのに激しく息が切れた。気付かなかったけど、逃げ出す瞬間まで必要最低限の呼吸しかしていなかったのかもしれない。
息が整うと、たちまち背後が気になってしまう。
後ろ髪を引かれる思いと言うのだろうか……何も選ぶことが出来なかったのに、あのモンスターがこれからどうするのかが気になった。
「…………」
来た道を戻り出す。
『────ゲェッ!?』
────疾走、そして跳躍を経て燃え盛る炎を放とうとしている
紫紺の斬閃が『魔石』を両断し、発射直前だった火炎が中空で花火のように爆散する。
膨大な火の粉と灰粉が宙に舞う中、僕は背後を────
(……ああ、もう)
やってしまった、と。
そう後悔しても、もう遅い。
足が動いてしまったんだ。
襲われるモンスターを……いや、立ち竦む『彼女』を見て、動いてしまったんだ。
でも、同じモンスターに訳もなく襲われるなんて、きっと何か事情がある。
誰かが見ていたわけでもないのに心の中で言い訳を並べるが、『僕』が、『モンスター』を、『助けた』、という事実はどう足掻いたって変わらない。
ぐしゃっ、と剣を持っていない左手で前髪を掴み、呆然とする
僕を見上げるその眼差しには先ほどまでと同じく恐怖と動揺。そこに当惑……そして、ほんの少しの縋るような色があった。
前髪をかき上げる左手、剣を握る右手が嫌な汗を滲ませる。
胸の内で理性と共に『風』がそれ以上はいけない、とざわめく。
でも、もう駄目だ。
もう、僕には、このモンスターを。
「────大丈夫、怖くないよ」
この『
片膝をつき、同じ目線で、眉を下げながら笑いかける。
(なんとなく、そうなんじゃないかって思ってたけど……
偶然の一致なのか、あるいは何か繋がりがあるのか。
それを顔には出さないようにしながら、彼女の怪我の具合を確認する。
肩の傷と左足の負傷が酷い。ただ、命に関わるような傷は見当たらない。僕でも対処ができる程度の傷だ。
そっと左手を伸ばすと、座り込んでいる彼女はびくっと体を揺らす。
「平気だよ、痛いことはしないから」
「……ほん、とう?」
────喋った。
昨日崩れた常識がさらに崩れ落ちる音が耳の奥から聞こえてくる。
人の子供に声を掛けるようにしていた僕は、最低限、表情が固まらない下手糞な作り笑いしか浮かべることができなかった。
翡翠色の光が彼女の体を包み込む。効果が出るのか少しばかり不安だったけど、斬られた肩の傷口が綺麗に塞がっていくことにほっと息を吐く。
傷が治ったことに驚く彼女を見ながら、もう一つの大きな傷がある左足を見て、同じように治癒の光を集中させる。
骨を治すこともできるかもしれないけど、今回は痛みを取り除けるように集中した。お母さんからの知識とナァーザさん達から聞いた話によると、下手な復元は足の形に支障をきたすという。
正しい治療を受けることができるかは……正直、不透明だ。でも、受けられるかもしれないなら下手な治療はしないで固定する程度に抑えておいた方がいい。
そんなわけで持ち歩いている手ごろなものと今回の
そして、気まずい沈黙が場を包み込む。
足と共に裂傷を負った青白い全身の治療は済ませた。
ただ、ここからどうするのかは全く決まっていない。
無言のまま、目の前の彼女を見つめると、青銀の長髪を流す
そこで、今更になって彼女が何も纏っていないことに気付く。モンスターとはいえ、目のやり場に困るので
(……やっぱり、違う)
改めて思う。目の前の存在の容姿は醜悪な人型のモンスターとは一線を画している。
モンスターの要素に人が違和感なく合わさった外見は、いっそ神秘的にすら感じられた。
(異形の怪物……あるいは、異形の少女)
人にもモンスターにも似つかわしくない存在をどう表現するべきなのか。
なんてことを考えていた、その時。
「────探せっ、まだ近くにいる筈だ!?」
そんな、荒々しい声が届いてきたのは。
視界の端で
事態を察するにはそれで十分だった。羽織るようにさせていた
数秒後、武装した冒険者達が姿を現した。そして、彼等の顔を見た瞬間、僕は剣を抜いていた。
「おいっ、てめえ、
相手も僕の顔をちゃんと視認したのか、張り上げた大声が止まる。
現れたのは、
「クソが……よりにもよってこのガキがここに……!」
距離を取った大男が薄闇の中で顔を歪める。
僕は何も言わず、剣を握ったまま大男とその仲間を睨み付けた。
場合によっては手荒な真似も辞さない……心のどこかでそれを望んでいる自分に見て見ぬふりをしながら、相手の出方を窺う。
「……チッ、退くぞ。あの化け物を倒したこいつに関わるのは割に合わねえ」
しばらく睨み合いが続いたが、やがて大男達は唾を吐き捨ててこの場を去っていった。
奴等が完璧にこの場を去っていったのを確認して、肩から力を抜く。
この場で戦ったってきっと僕が勝った。
本当ならみんなを傷つけたあいつらを逃がしたくなかった。
でも、今は後ろに怯える
「……もう、大丈夫だよ。えっと……動ける、かな?」
先程の冒険者達の影に怯える少女に手を差し伸べる。
色々あったし、考えたいことは山ほどあるけど、今は安全な場所に移動するのが先だ。
彼女が
差し伸ばした手と僕の顔を交互に見ていた彼女は、ほんの小さく、頷いてくれた。
恐る恐る伸ばされた手が僕のものと重なる。驚くほど冷たく細い手を握って、その体をぐっと引き起こした。
はぐれてしまったから今どこにいるのかはわからないけど、とりあえず交戦音を頼りに足を進める。大量発生した
道中のモンスターを少女の負担にならないように蹴散らしながら、誰にも見つからないように18階層への進路を僕達は探し続けた。
道中、不安になったのか、少女は琥珀色の瞳を湿らせ嗚咽のようなものを零していた。
怖い夢を見た子供が親に甘えるように身を寄せてくる彼女を安心させるように、僕はその震える背中を優しくさする。ややあって、震えが止まると、僕達は再び歩き始めた。
「…………ありが、とう?」
何度目かわからないモンスターの襲撃を退けた直後、呟かれたその言葉に僕は瞠目した。
視線を下ろすと、紅のフードの中で小さく首を傾げている彼女と目が合う。たちまち、口では言い表せない感情……僕が神様やリリ達に向けるものと同じようなものが胸の中に芽生えた。
ありがとう……そのたった一言が。
僕の中にある様々な葛藤を溶かしていったような気さえした。
固まる僕を不安げな瞳で見つめてくる少女。
そんな彼女に僕は笑みを返した。
「大丈夫だよ」
安心させるように、なるべく柔らかな笑みを心掛けると少女も笑ってくれた。
全てに怯えていた少女が、初めて、小さくだったけど、笑ってくれた。
腹をくくれ、ベル・クラネル。
もうお前にこの子を見捨てることなんて出来やしないんだ。
守ってみせろ、僕達と同じように笑う彼女を。
(まずは、リリ達と…………アイズさん、に、なんて説明しよう)
すぐに、その時はきた。
無事に18階層に帰還することが出来た僕は、臨時パーティからはぐれたことを聞いていたのか、安堵の表情を浮かべるリリ達とアイズさんに迎えられた。
そして、同時に僕の背後にいたフード姿の誰かにも気付かれる。
大事な話がある、と伝える僕に怪訝な顔をするみんなを連れ、中央樹と他の冒険者が見えなくなるまで森の中を進み、青水晶の輝きに包まれる開けた空間で立ち止まり、みんなと向かい合った。
「で、何があったんだ、ベル? こんなところまで移動したってことは俺達にしか話せないようなことだろ? そいつが関係してるのか?」
腕を組んだヴェルフが若干の警戒混じりの視線を僕の隣……フードを被る彼女へ向ける。
みんなの視線が隣に集中するとともに、僕は息が詰まる感覚に襲われた。
事情を話すと決めたのは僕だ。でも、どうしても最後の一歩を躊躇ってしまう。
言葉に詰まる僕にみんなは困惑した様子で顔を見合わせた。
その中で、心配そうな顔をしているアイズさんと目が合う。
「……っ」
怖がったってこの状況を作った時点でもう手遅れだ、意味のない事だ。
深く息を吐き、意を決して、難しいことだろうけど驚かないで欲しい、と前置きを置こうとしたその時だった。
僕の様子を窺っていたフードの少女の体が疲れか痛みからかふらつき、倒れそうになる。咄嗟に彼女を支えるが……その反動で、フードが滑り落ちる。
『!!』
瞬間、時が凍り付いた。
あらわになってしまった青白い肌、そして額の紅石を見たリリ達が驚倒、即座にそれを押し殺し、臨戦態勢に移る。
地を蹴って後退するリリ、背中の大剣と腰の刀の柄を掴んで身構えるヴェルフと命さん。
春姫さんは口元を両手で覆い、その翠の双眸をあらん限りに見開いていた。
そして、アイズさんは。
みんなが臨戦態勢に移るよりもさらに早く、剣を抜いて
急迫からの刺突、その間にある刹那の時間で間に体を滑り込ませた僕の腹部と胸部の間……ちょうど、背後にいる
この場にいる全員の認識を飛び越えて
一瞬で張り詰める空気。あまりに痛すぎる沈黙と緊張がこの場に走っていた。
「…………なんで……?」
「どういうことだ、ベル!」
「春姫殿、こちらへ」
剣を握るアイズさんの唖然とした瞳が胸に突き刺さる。
聞いたことのない、ヴェルフの責め立てる声が脳を揺らす。
命さんに庇われ、その背中で怯えた様子の春姫さんの姿が声を奪う。
今日までがそうであったように、ヴェルフ達はモンスターである彼女を警戒していた。
「ま、待ってください、アイズさん、みんなっ、この
「この、
「あ、ちがっ────」
「そのモンスターから離れて下さい、ベル様。それを許容することはリリ達にはできません。一体、何をお考えなのですか……!」
庇うだけで飽き足らず、モンスターをこの
弁明しようとする僕の声を混乱を抑え込み、努めて平静を保とうとしているリリの声が遮る。
その栗色の瞳には、非難と混乱の色が宿っていた。
「その足……治療されていますね。まるで人にするように。まさか傷ついたモンスターに情が湧いたとでも言うのですか?」
「それは……」
「ベル、
責め立ててくるリリの声に続いて、表情が抜け落ちたアイズさんが僕を見据える。
何も、言い返せない。間違っているのは僕で、正しいのはアイズさん達だから。
遥か『古代』、僕達の祖先を滅亡の危機まで追いやり、現代に至ってもなお世界に脅威を振りまいているモンスターは、共存不可能な存在なのだ。
それがこの世界の常識で、覆ることのない絶対的で至極当然の主張。
警戒を緩めないヴェルフ達、剣を握る腕から力を抜かないアイズさん。
間近にいる彼女は訴えるように、あるいは祈るような瞳で僕を見つめている。
「犬や猫とは訳が違うんです!! ベル様、早くそこをどいてください!!」
「リリルカさんの言う通りだよ。ベル、そこをどいて。もしも、情が湧いちゃったって言うのなら、私が代わりに倒してあげるから」
「ベル」
「ベル殿」
「ベル様……」
何を言っても
唯一、荒事に慣れていない春姫さんだけが、何もできずに視線を何度も巡らせているけど、彼女も他のみんなと同じ意思を持っているのは間違いないだろう。
みんなを説得する言葉も考える時間も今の僕にはない。
このまま彼女を庇い続ければ、みんなと、アイズさんと、完全に敵対することになってしまう。
(それだけは、絶対に嫌だ……! でも、この子も助けたい……どうしたら────)
「……ベル?」
最善を、せめて次善を、ほとんど残っていない時間で探していると、不意に。
僕でも、ヴェルフ達でも、アイズさんでもない誰かの声が、僕の名前を呼んだ。
「ベル……?」
思わず振り返ると、ヴェルフ達の剣幕とアイズさんの剣気に怯えていた少女が僕のことを見上げてきていた。そして、もう一度、僕の名前を口にする。
唇を開き、彼女が言葉を発した瞬間、甲高い金属音が響き渡った。
「ひっ……」
そちらを向くと、アイズさんの手から剣が滑り落ちていた。
限界まで目を見開き、一歩後退ったような姿の彼女の後ろではリリ達が絶句している。
「べ、ル……?」
「……っ、そう、僕の、名前だよ」
「……な、まえ?」
「う、うん……僕は、ベル」
「べる……ベル、はなまえ……名前は、ベル?」
彼女が僕の呼称を繰り返す。
その光景に……
「ベル……ベル」
名前を理解したのか、彼女は片手で僕の手を握ってきた。
まるで頼れるものがこれっきりしかないように、僕の名前を何度も口にしながらその青白い身を寄せてくる。
「モンスターが、喋った……?」
「冗談だろ……」
弱々しくそして儚い、怪物には到底ありえないただの幼子のような
「ベル、様……その方とは、何があったのですか……?」
声を震わせながら、それでも話を聞こうとしてくれる春姫さんの勇気と優しさに甘える。
今この瞬間、みんなが動揺して迷いが生じているこの瞬間にしか、説得の好機は訪れない。
「19階層で、この
上手く力が入っていない細い足、様々な感情に揺れる琥珀色の双眸。
僕の声を聞きながら、あらゆるものを恐れて僕に縋りつく彼女を見て、ヴェルフや命さん、春姫さんは口を噤む。
「僕は……この
僕の言葉を最後に、場を沈黙が包み込んだ。
口を噤んでいる三人は迷っているように瞳が揺れている。アイズさんでさえ、その顔を苦渋に歪めている。唯一、リリだけは冷静な瞳で僕のことを見据えていた。
「……
「……ごめん、みんな。僕はもう、この
リリの言葉に、僕はそう返す。
決して
みんなが力を貸してくれるのなら、せめて見て見ぬふりをしてくれれば、天秤の両方を掴み取ることは決して不可能なことじゃない。
見定めるような栗色の瞳から目を逸らさず、意志を込めて見つめ返す。
ややあって、リリは静かに瞳を閉じた。
「リリは、もうヘスティア様に誓っています」
「え……」
「貴方が、どんな選択をしても必ず貴方に付き従うと。貴方の側で、貴方を支えると」
今度は僕が目を見開く番だった。
「まあ生半可な意志で選択をするのであれば、後で悔やむ前に止めさせていただきますが、そこまでの意志があるのでしたら……ベル様のお好きなようにしてください」
「……ありがとう、リリ」
真剣な表情から一転、ぎこちない微笑みを纏うリリに頭を下げた。
次にヴェルフ達の方を見ると、みんなは困惑と動揺を隠し切れていないけど、無言のまま臨戦態勢を解除する。
ひとまず、【ヘスティア・ファミリア】としては何となく話はついた感じだろう。
でも────この場にはもう一人。
誰よりも説得が難しい、金の少女がいるのだ。
彼女は拾い直した剣を下ろしはしてくれたものの、常に
僕達の話が終わるまで、何も言わず、何もせずに待っていてくれた彼女と向かい合う。
「アイズさん……」
「…………本当にその
彼女から初めて向けられる、本物の敵意に言葉が詰まる。
当然の反応だ。むしろ、手荒な真似をしないで待っていてくれたことに心の底から感謝をしなくちゃいけない。
下手な誤魔化しは今の彼女には通用しない。僕の本音をぶつけなければ、彼女の心を僅かも動かすことはできない。
「……助けます。僕に縋るこの
結局、そんな言葉しか僕は出すことができなかった。
アイズさんは僕の答えに目を見開き、すぐにその顔を辛そうに歪める。
彼女にそんな顔をさせたという事実に凄まじい吐き気と頭痛に襲われるが、内に抑え込み、表情を殺して、僕はアイズさんを見据えた。
「……………………今、だけ、は……見逃して、あげる」
「……ありがとうございます、アイズさん」
長い沈黙の後、俯きながら掠れた声が届く。
駆け寄りたい衝動に襲われるが、そんな資格は今の僕にない。
今だけは見逃す、というアイズさんに深々と頭を下げることしか許されない。
その後すぐに、僕達は地上へ帰還することを決めた。
冒険者にもモンスターにも狙われる彼女を保護するため、そして神様に意見を仰ぐため。
その案に誰も反対することはなかったけど、苦笑するか、錆び付いた動きで頷いていた。
「帰還するのは夜です。少しでも冒険者がいない時間帯に……人目がない時を狙って
参謀役として、そう助言してくれるリリに従って帰還は夜。
その時に備えてそれぞれが各々の行動を取る中、隣にいる
「地上……?」
「うん。ここは危ないから、僕達の家に行こう」
不安そうな彼女を安心させるように、目線を同じにして微笑を落とす。
僕をじっと見上げていた
やはり子供が親に甘えるような態度の少女に僕も思わず、笑みを浮かべていた。
それを、ありとあらゆる感情が抜け落ちたアイズさんが見ていることに気付かずに。
「────私は、認めない」
憎悪に満ちた声が、突如として
「
夥しい青と白の水晶が発光を弱め、『夜』の訪れを告げようとする中。
黒く染まった瞳が
暴風は僅かな時の後にすぐに止む。
その『風』に消された言葉に、『黒』に彩られた金の瞳に、誰も気付くことはなかった。
ここまで見ていただきありがとうございました。