「────不味いぞ、ウラノス」
闇に声が響く。
神殿を彷彿とさせる石造りの広間。
唯一の光源である四炬の松明がぱちぱちと音を立てて一部の闇を切り裂く中、台座の上に置かれた水晶を見て、声を発する者がいた。
僅かな露出もない、全身を黒衣で包んだ謎の人物────ベルとアイズに24階層の
彼とも彼女ともわからないその人物は、台座の水晶を見下ろしながら話を続ける。
「
水晶には白髪の少年、その隣を歩く
黒衣の人物は、一切の露出をしていないその少女を『モンスター』だと、断じた。
「モンスターを連行しているのか?」
「いや、どうかな……水晶越しでは保護しているようにも見える」
黒衣の人物が水晶を観察する他方、四炬の松明の中心地から重々しい声音が響く。
松明に照らされ闇に浮かび上がるのは、石製の巨大な神座であり、そこに腰かける老神だった。
二
「冒険者は誰だ、フェルズ」
「ベル・クラネル。【ヘスティア・ファミリア】……だけではないようだ」
フェルズ、と呼ばれた黒衣の人物が答えるが、その言葉が一瞬固まる。
水晶に映し出されたのは白髪に
もたらされた内容と映し出された少女の姿に、老神は己の蒼色の瞳を細める。
「都市を賑わす
「どうする、ウラノス」
「…………様子を見る」
黒衣の人物に指示を仰がれた老神は静かに瞑目し、長い沈黙の後、瞳を開けるとともに答えた。
「いいのかい? 【ヘスティア・ファミリア】は良くも悪くも都市の注目を集め過ぎている。加えて、
「【戦姫】がいながら、地上に連れてこれた以上、すぐに『処分』されることはない。ならば……見極めたい。次代の英雄になり得る二人、そして彼の仲間達が何か変化をもたらすか……」
神の瞳は、台座に置かれた水晶の奥、浮かんでいる少年と少女の顔を見据えた。
「『彼等』の希望になりえるか、『彼等』の絶望になりえるか、否かを」
希望という言葉には少年を。
絶望という言葉には少女を。
それぞれに二人を当てはめた老神に沈黙の後、黒衣の人物は頷く素振りを見せる。
「わかったよ、ウラノス。貴方の神意に従おう」
松明が、火の粉とともに弾けた。
「『目』を放て、ベル・クラネル達、アイズ・ヴァレンシュタイン、そしてモンスターの少女を監視しろ。特に、あの二人の監視は念には念を入れよ」
「ああ」
静謐な石造りの広間の中。
翻る黒衣が、闇の奥へと姿を消した。
────
ベル達が地上に戻り、
彼等の側に立つローブで身を隠す少女の姿を一目見たヘスティアは温和な表情を収め、鋭い眼差しで彼等を問い質した。
異形の姿を晒した少女に息を呑んだ彼女は、話を聞かせてくれ……と、ベル達を館へといれ、彼等の話を聞き、聞き終えると両腕を組み、深く思案する。
「どうなさいますか、ヘスティア様」
「……このことは誰にも話さないでくれ。しばらく、様子を見る」
全知である神にとっても『未知』。その答えにヴェルフ達が硬い表情を浮かべる中、ヘスティアは静かに微笑む。
「モンスターは下界の住人の、君達の敵……争わなければいけない存在だっていうのはわかってる。でも、こうまで怯えられちゃあ見捨てることは出来ないよ」
「……それじゃあ」
「ああ、この
嘆願者を庇護する、炉の女神の慈愛。
どんな
「……そんな形になるわけだけど、アイズ君も協力してくれると助かるかな」
一方で、ベル達の話を無言で聞いているアイズは、ベルのすぐ側に立ち、感情の読めない瞳で少年と隣り合って座る異形の少女のことを見つめている。
ヘスティアが声を掛けると、彼女は思案するように瞳を閉じた。
「ずっとっていうわけじゃない。この
「……………………」
「アイズさん、僕達がとても大変なことをしているのは理解しています。僕にできることがあれば、なんだってします。だから……その時が来るまで、見逃してくれませんか?」
ヘスティアの言葉に続き、椅子から立ち上がったベルがアイズの前で頭を下げた。
この場で彼女を説得できなければ、【ヘスティア・ファミリア】が
ただの隠し事であれば、たとえ同じ
たとえその怪物に知性があったとしても、決してあってはいけないのだ。
頭を下げるベルとそれを見つめるアイズを固唾を呑んで見守る【ヘスティア・ファミリア】。
長く苦しい沈黙、それを破ったのは少女の小さな
「……いいよ、黙っててあげる。どうせ、何を言ってもベルは聞かないでしょ?」
「……すみません」
「ん……」
呆れたような、拗ねたような態度と口調のアイズにベルと異形の少女以外の皆が目を丸くする。
【剣姫】と称えられる冒険者としては到底考えられない、子供のような姿に少年少女の関係性を垣間見たヴェルフ達はそれぞれ顔を見合わせた。
「でも、条件がある」
「は、はい」
「……しばらく、私もここで過ごさせて」
条件があるとじっとベルを見た少女が提示した条件に【ヘスティア・ファミリア】の面々、今度はベルも含んだ面々は驚愕の嵐に包まれた。
「え、ええええええええええっ!?」
「け、【剣姫】様!? 流石にそれは……」
「ああ……難しいんじゃないか?」
他派閥の眷族、それも都市最大派閥の眷族にして幹部が別の派閥の
流石に難しい、何か別の条件を、とベル達が慌てふためくもアイズは首を縦に振らなかった。
「ベルはお人好しだから、何が起きるかわからない。他の人もベルには甘いのがわかったから、私も見張る。万が一にも、
珍しく饒舌に、力強く語るアイズにベル達は言葉を詰まらせる。
そんな中、顎に手を当てて考え込んでいたヘスティアが唇を開いた。
「……いいんじゃないかな。確かに派閥間の問題はあるけど、逆に言えばそれだけだ。アイズ君がロキと勇者君達を説得できるなら条件を呑もうじゃないか」
「神様!?」
「わかりました。今日は一度帰って、明日の朝、また来ます」
ヘスティアが条件をつけながら了承すると、アイズは止める間もなく、部屋を出て、館を飛び出していった。
足早に部屋を去っていった彼女の背中を呆然と見送ったベルは慌てたまま、腕を組んで窓の外を見ている主神へと向き直る。
「い、いいんですか!? その、さっきも仰ったように派閥間の問題とか……」
「言っただろ? 問題はそこだけだって。あの条件を呑まなきゃあの子も譲らなかっただろうし、あの場はああする以外の道はないよ」
「……確かに、説得は不可能な雰囲気はありましたが……」
「……それに────」
眷属達が徐々に主神の選択を受け入れている中、ヘスティアは目を細める。
思い浮かべるのは、少年と怪物の少女を見つめる金の少女の瞳。
「────今のあの子は、ボクの側にいてくれた方が良さそうだったからね」
誰にも聞こえないように呟かれたその声には、強い心配の念が込められていた。
「神様?」
「いや、なんでもないよ」
耳聡く、何事かを呟いたのか気が付いたベルに手を振り返す。
窓際から離れ、ヘスティアは
「君、名前はあるのかい?」
「……なまえ? ……ベル?」
ヘスティアに名前を問われた少女は、ベルに体を寄せながら、彼の名を呼んで小首を傾げる。
自分の名前ではなく、隣の少年の名を呟く少女にベル達は苦笑を浮かべた。
「それはベル君の名前だね。君の名前を教えてくれないかな」
「私の、なまえ……わかんない」
たどたどしくも言葉を操る
その中で、少女は悲し気に視線を床に落とした。
「予想はしてたけど、名前はないか……」
「親もいない……
「この際だ。ベル、お前が決めろ」
「ええっ!?」
唐突に与えられた名付けの責任にベルが盛大に慌てふためく。
「名前……名前、か……」
側でじーっと見上げてくる琥珀色の瞳を見つめ返し、唸りながら思案する。
外見の特徴などから思いついた名前の案を頭の中で列挙していき、そろそろ周囲から催促の声が飛んできそうになった頃、ベルは一つの名前を呟いた。
「……英雄譚に登場した精霊の名前と、
「へぇ……うん、いい名前だと思うよ」
ベルが告げた名前にヘスティアが眉を上げ、笑みを浮かべる。
ヴェルフ達もその名前に好感を持ったのか何度か呟きながら、頷いていた。
「ウィリィジーネだと少し長くて気取った感じだが、『ウィーネ』は悪くないんじゃないか?」
「ええ、何となくですが、彼女の雰囲気にも合っています」
「では、名前は『ウィーネ』と……したいのですが、彼女の反応はどうでしょうか」
ヴェルフ達の視線が少年に抱き着いたままの少女に集まる。
「ウィーネ……? わたしの、名前?」
「うん、どうかな? 嫌だったら別の名前を考えるよ」
あどけない声で尋ねてくる彼女にベルが確かめると。
「ウィーネ……わたし、ウィーネ」
嬉しそうに顔を綻ばせる少女……ウィーネにベル達は、ヘスティアまでもが目を奪われた。
美しい相貌から零れ落ちた、何物にも染まっていない無垢な笑み。
種族の垣根、そして人間と『怪物』の壁を越えて、この瞬間、ベル達は間違いなく目の前の異形の少女に見惚れていた。
その後、改めてウィーネを迎え入れたヘスティア達は話をしているうちにベルの腕の中で眠ってしまった彼女に一旦話を切り上げて、就寝することとなった。
寄る辺を見つけたかのように、少年の体に抱き着いたまま、眠っているとは思えないほどの力を発揮し決して離れようとしないウィーネとベルはひとまず
リリ達と共に自室へと戻ったヘスティアは窓の外、星が輝く空を見上げた。
(表面上は普通に見えるけど……余裕がないな、今のベル君には)
思案するのは
彼女を連れてきたその時から、ベルの様子が普段とは違うことにヘスティアは気付いていた。
(あの子のことを誰よりも大切に想っているベル君が、あの子の様子がおかしいことに気付かないわけがない。神にとっても『未知』の事態だから仕方がないと言えるけど……)
まだ、大きな歪みと呼べるようなものではない。
だが、確実に生まれつつある二人のすれ違い。
「取り返しのつかないことになる前に、事態が解決するように頑張らないとな……」
大きな懸念点の一つを思わず口にし、ヘスティアは自分の寝具を手に
魔石灯が消えた
皆を起こさないように、ヘスティアはウィーネに近付き、顔を覗き込む。
あどけない寝顔を浮かべ、静かな寝息を立てるその様子は、額で妖しく輝く紅石がなければただの少女と見紛うようなものであった。
(……君は本当に、何なんだろうね)
その正体に疑問は尽きない。
彼等とは少し離れた場所で毛布に包まったヘスティアは、浮かんでは消えていく疑問を考えながら静かに眠りについた。
「ウィーネ君に関する情報が欲しい」
翌朝。
大食堂の食卓、朝食の席でヘスティアはそう切り出した。
これからの方針を決めるためにも、ウィーネについて、ウィーネと同じような存在……『喋るモンスター』は他にもいるのか、今ダンジョンに何が起きているのか、などの情報収集を眷属達に命じる。
「情報が欲しいからと言って他人に余計な詮索を受ける真似は絶対に駄目だ。ボク達がウィーネ君……モンスターを匿っていることは絶対に知られちゃいけない」
露見すれば余計な混乱を招く、と厳命する主神に眷属達は頷く。
「ボクも探ってみるから、今日からお願いするよ」
「迷宮探索はしばらくお預けだな」
「ですね。ちなみに、春姫様と命様は信用できる人以外の接触は避けてください。碌なことにならないので」
「「あ、はい……」
ヘスティア、ヴェルフと言葉を続け、最後にリリが嘘が下手、というより隠し事が出来ない春姫と命に厳重注意を向ける。
二人揃って体を縮める春姫達。そんな眷属達のやり取りに笑みを零したヘスティアは横目でベルとウィーネ、そして既に訪れているアイズを見た。
「……春姫君、君は
「は、はい……!」
険悪……とまでは言わないが、それに近しい空気を身に纏っているアイズ、寝ぼけ眼のウィーネ、その世話をするベル……この三人だけを
隠し事が下手だからそう言われたのだと、少し落ち込んでいるような彼女に苦笑を浮かべ、ヘスティアは椅子から立ち上がる。
「くれぐれも注意してくれ。それじゃあ、頼んだよ」
彼女が立ち上がったのを皮切りに、ヴェルフ達は食堂を出て、外へと向かった。
彼等に続いて、ヘスティアも食堂を出る。閉まる扉の間から、もう一度三人の顔を見た。
(……まずは、様子見。何事もなければいいけど……)
太陽が中天を目指しながら光り輝いている。
青空には雲一つ浮かんではいない。本格的な夏に差し掛かろうとしているオラリオの日差しは少々暑過ぎるくらいだった。
そんな太陽と青い空を────
神様達は出払い、僕と春姫さん、それからアイズさんが留守番役として館に残っている中。
昨夜は沈んでいた太陽、青空に浮かぶ光の源に気付いたウィーネは、強く願ってきた。
外に出たい、と。
「あれは……なぁに?」
【ヘスティア・ファミリア】
ダンジョンにはない太陽という存在に、ウィーネは釘付けとなっている。
驚きをあらわにしている彼女に、春姫さんはそっと近付き、眩しそうに空を見上げながら笑みと共に太陽というものを教えていた。
「たいよう……おひさま? ……あったかい」
春姫さんの言葉を呟きながら、空を見上げていたウィーネは目を細め、そして笑った。
ダンジョンに日の光は決して届かない。炎の熱さを知っている迷宮のモンスターはいれど、日の光の温かさを知る迷宮のモンスターは彼女以外には存在していないだろう。
背後から横顔を見つめていると、ウィーネは青銀の長髪を揺らして振り返った。
「地上って、きれいだねっ」
モンスターとはもう思えないほど。
日の光を浴びて、天真爛漫な笑顔を浮かべた彼女は、太陽に負けないくらい眩しかった。
「はるひめ……これ、とっちゃだめ?」
「な、名前を……あ、ああっ、だ、駄目でございます、ウィーネ様っ!?」
留守番とは言ったけれど、僕と春姫さんの本命の仕事はウィーネの面倒を見ることだ。
間違っても外に出て行かないように気を付け、地上の知識がないに等しいこの
まだ僕以外のみんなを怖がっているような素振りを見せていたウィーネは、汚れや血の跡を拭いてもらい自分と一緒にいてくれる春姫さんには慣れたのか、彼女に我儘を……たとえば纏っている
日の光ではしゃぐウィーネに春姫さんと共に僕も振り回されはしたものの、地上での新たな発見に目を輝かせたり、頬を染める彼女の姿には微笑ましいものがあった。
「……ぁ」
「…………」
ただ、やはりと言うべきか。
ウィーネはアイズさんには怯えた姿を見せていた。
今、彼女は中庭の端、日の光が当たらない日陰に座り込んでいる。いつでも剣を抜けるように側に剣を置きながら。
一緒に話をしてほしい、と中庭に出てすぐに日陰に座り込んだアイズさんにお願いしてみたけど、彼女は首を縦には振らなかった。
(当たり前だ……意思が通じるとはいえ、モンスターと一緒に過ごすなんて……普通ならありえない。それに、アイズさんは……)
そこまで考えたところで、ズキン、と一瞬頭が強く痛んだ。
その先を考えてほしくないと訴えるように、ボクの中の『風』が震える。
「……本当に、人、みたいだね」
「アイズさん……そう、ですね」
痛みに思わず頭を抑えると、中庭に来てから無言を貫いていたアイズさんがそう呟く。
感情の読めない瞳でウィーネを見据えてはいるものの、そこまで剣呑な雰囲気はない。
「あの、やっぱりアイズさんもこっちに来ませんか? そこに一人でいるよりは……」
「ううん、大丈夫。私がそっちに行ったら、あの
ただ、やっぱりその警戒は何一つとして緩んでいない。
首を横に振って、今はもう話す気はないと言うようにアイズさんは瞳を閉じた。
わかってはいたことだけど、明確な拒絶の意思に少し落ち込みながら、春姫さんとウィーネのところに戻る。
ウィーネは狐の耳をピンと立てて微笑む春姫さんと一緒にご飯を食べていた。
「……ベルも、食べる?」
「僕はさっき食べたから大丈夫だよ。せっかくだからウィーネに食べて欲しいな」
命さんお手製の料理に果物を食べていたウィーネは僕に気付くと、少し名残惜しそうにしながら手元にある果物を僕に差し出してくる。
苦笑しながら大丈夫だと伝えると、嬉しかったのかぱっと顔を輝かせて果物を食べだした。どうやら、彼女の口にも合っているみたいだ。
最悪、
食事を終えると、ウィーネは春姫さんの尻尾の動きに合わせてゆらゆらと顔と身体を揺らし始めた。興味津々な姿に彼女はくすくすと小さく笑いながら、狐の尻尾を左右に振って、子をあやすようにウィーネと遊び始める。
(お互い、まだ警戒しているところはあるけど、結構慣れたのかな? 春姫さんが積極的に受け入れようとしてくれてるのが大きいのかも)
微笑ましい光景に自然と笑みが零れる。
話し方もいつの間にか流暢になって、その様子はもう、僕達人間と大差がない。しかし、怪物であることを証明する青白い肌と鱗が現実を告げ、浮かべた笑みを凍てつかせる。
額の紅石が、日の光を浴びて輝いていた。
「ベル、ベル」
それでも、笑いながら抱きつきたがるウィーネにまた笑みが浮かぶ、その時だった。
こちらを捕まえようと不意に泳いだ手が────指から伸びた鋭い爪が僕の腕を掠める。
「っつ……」
日の光の暑さに袖をまくっていた腕に、三本の線が走った。
爪に抉られた傷はあっという間に赤くにじみ出し、ぽたぽたと、芝生に血を落とし始める。
「え……?」
「ベル様……!?」
硬直する僕、そして血に濡れた自分の手を見て呆然とするウィーネ、斬り裂かれた僕の腕を見て悲鳴を上げる春姫さん。
止まらない血に春姫さんが立ち上がり、救急箱を取りに駆け出そうとしたその瞬間。
中庭に『風』が吹いた。
吹いた先にいるのは何が起きたのか理解できずに固まるウィーネ。
僕は咄嗟に、『風』とウィーネの間に身を滑り込ませた。
「アイズさん!」
「どいてっ、ベル……!」
怒気を宿し、僕がどければすぐにその剣を振り抜くであろう彼女を必死に押しとどめる。
なだめようと体が動く度に落ちる血の量は増え、流れ落ちる赤にアイズさんはまるで自分のことのようにその顔を苦渋に染めた。
「大丈夫です! たまたま引っかかっただけです! 大丈夫ですから……!」
「ベルっ……!」
一瞬で緊張に包まれる中庭。
きっかけ一つでどの方向にも話が転がってしまう、その中で。
「あ、え……うそっ……べ、ベルッ、痛いっ?」
僕の背後でウィーネが震えた声を漏らす。
すぐそこに自分を斬る刃があるというのに、それに気付かない竜の少女は琥珀色の瞳を揺らして僕に手を伸ばす、その寸前で動きを止めた。
血を吸い上げた紅い爪を、慌てて引き戻す。
まるで自分の手が再び僕のことを斬り裂くことを恐れるように自分の手を見やるウィーネは、その顔をくしゃっと歪めた。
「わたし、やだ……ごめんね……ベル……」
瞳から涙が零れ落ちていく。か細い声は動揺と悲しみに震えていた。
震える手を必死に抱き留める。触りたいけど、触れてはいけない。
傷つけてしまうから、この手を伸ばしてはいけないと自制するように。
「ごめんね、ごめんね……」
ウィーネは謝罪を繰り返した。
簡単に人を傷つけてしまう己の手にこの
あまりに痛々しい光景が視界を打った。背後でアイズさんが息を呑む気配がした。
「……っ!」
「大丈夫だよ」
赤く染まった手を爪ごと優しく包み込む。頬に涙を伝わせるウィーネが目を見開く。
手に爪が食い込んで傷口が増えるけど、構いやしない。
あの日、目の前の少女と出会った時のように笑ってみせる。傷の痛みなんか忘れて、握っている手にぎゅっと力を込めた。
「────ベル!!」
感極まったように抱き着いてくるウィーネを優しく抱きしめる。
嗚咽を漏らし、沢山の涙で肌を濡らしていく
彼女は傷つくことを、傷つけることを恐れ、温もりを求めるただの迷子の子供だ。
この
「…………」
ウィーネが落ち着くまで背中を撫でていると、不意に視線を感じた。
いつものものではない。けど、同種の見定めるような視線。
感覚が促すまま、顔を振り上げると────館の屋根に、一羽の鳥がいた。
(……梟?)
白い羽毛に縦縞模様が入った梟に、疑問が募る。
夜行性の梟がまだ日が出てるのにここにいる理由…………誰かの使い魔、とか。
右腕をまっすぐ伸ばし、狙いを定める。一羽の梟はこちらをじっと見つめ、確かにその片眼をキラリと輝かせた。
直後、白い梟は飛び立ち、どこかへと飛び去っていった。残るのは誰かに『視られていた』という嫌な感覚のみ。
何の脈絡もないけど、ウィーネが狙われているんじゃないかと、思わず彼女を抱き締める手に力がこもった。
「ベル様……?」
「……いえ、なんでもありません」
傷ついた右腕を伸ばした僕に春姫さんが心配そうな声を投げかけてくる。
なんでもない、と笑みを返すと、彼女は小さく首を傾げ、直後僕の右腕の傷を思い出したように慌てて館の中へと駆けこんでいった。
「ベル、ベルッ」
嬉しそうなウィーネの声を耳にしながら、アイズさんの方へと向き直る。
ウィーネの涙で一旦は有耶無耶になったけど、何も説得はできていない。
僕を心配して剣を抜いてくれたこの人を言いくるめるような真似は正直かなり心苦しい……そんなことを考えていた僕の思考は、彼女の顔を見て、完全に止まった。
親が泣いている子をあやすように触れ合っていた僕達を見た、アイズさんは。
「…………」
痛みを堪えるような、今にも泣き出しそうな、そんな顔をしていた。
何も言わずに元の場所に戻っていく彼女の背中に、僕は声を掛けることが出来なかった。
ここまで見ていただきありがとうございました。
私事ですが、次回の投稿より間隔を一週間に戻したいと思います。
長らくお待たせして申し訳ありません。どうかこれからもよろしくお願いします。