「おかいものー!」
「あ、走ったら危ないよノエル!」
昼を少し過ぎた時間帯。
ベルはミアからの指示を受け、シルとノエルの三人で買い出しへと出向いていた。
初めての買い出しということもあってか大はしゃぎするノエルに手を焼いてはいるもののベルもシルもどこか楽しげである。
「ノエル―? ベルさんを困らせちゃダメでしょ?」
「はーい」
くすくす笑いながらシルがその行動を咎めるとノエルは走るのをやめて、楽しそうな笑顔を浮かべたまま、自分を追いかけて来ていたベルに抱き着く。
反転し、勢いよく抱き着いてきたノエルに驚きながらも軽く抱き留めたベルはそんな少女をそのまま腕に抱きかかえ、隣にシルが来るまで待った。
「予想以上に楽しんでくれてますね。ノエルはお出かけが好きなんでしょうか」
「今日は最近だったら暖かい方ですしこんなに雪も積もってますからね。あと、ノエルにとって豊穣の女主人に来てから初めての買い出しですしお店にいるよりも興奮してもおかしくないですよ」
そう話しながら歩くベルに抱かれながら、ノエルは周囲をキョロキョロと落ち着きなく見渡している。『豊穣の女主人』に迎えられるより前の記憶がない彼女にとって目に映る全ての物が輝いて見えていた。
「……ねえベルさん。こうやって歩いてると私達、他の人から家族として見られてそうですね」
「えっ?」
ノエルにあれは何、これは何、と聞かれながら目的の店まで歩いていると一度言葉を切ったシルが美しい流し目でベルを見て呟く。
その流し目に普段全く感じることのない何とも言えない妖しさを感じ、ベルが思わず言葉に詰まっていると不思議そうな声音でベルとシルに一つ、質問を投げかけた。
「?? ねえベル、シル。かぞくって、なぁに?」
「……え? わからないの? えっとね、家族っていうのは────」
「──家族っていうのはね、お父さんがいて、お母さんがいて、子供がいることだよ。お父さんとお母さんは子供が、子供はお父さんとお母さんが大好きでみんなで仲良く暮らしていければいいな……って思ってるんだ」
質問に答えようとしたベルを遮り、シルがノエルの質問に答える。
ベルが彼女を見るとあの時感じた妙な妖しさは微塵も感じ取れることはできなかった。そこにいるのは誰もがよく知り、慣れ親しんでいるシルという少女以外の何者でもない。
「みんなで、なかよく……!」
「うん! じゃあここでノエルに問題! もし私達三人を家族だとしたら、ベルさんはなぁに?」
「んんーと……おとうさん!」
「わっ!」
シルが出した問題にノエルはベルに勢いよく抱き着きながら答える。
意識が逸れていたベルは慌ててそれを受け止めるが、先ほどのように上手くいかず勢いに押されそのまま後ろに押し倒されてしまった。
「ボーっとしてたらダメですよ、ベルさん?」
「す、すみません。えっと、何の話でしたっけ」
「ふふっ、ノエル―? 私は何かわかるかなー?」
「おかあさーん!」
困ったように笑うベルに答えず、シルは両手を広げる。
それを見たノエルは明るい笑顔を浮かべ、彼女の腕の中に飛び込んだ。
「お、おかあさん……?」
「あれ? ノエル、ベルさん聞いてなかったみたい。もう一回行っておいで?」
「うん! おとうさんっ!」
「おとうさんっ!?」
今度はしっかりとノエルを受け止めるが、同時にベルは素っ頓狂な声を上げる。
それを聞いたシルはクスクスと楽しそうに笑い、ノエルは不思議そうな目でベルを見上げ、周囲からはなんだなんだと好奇の視線が向けられていた。
すいませんすいません、と平謝りするベルを見ながらシルはノエルと手を繋ぐ。
「ノエル、今日はいっぱいお買い物しよっか。せっかく『家族』で来たんだしね?」
「うん! かぞくだから、ね!」
「ちょ、ちょっと待ってくださーい!」
先に歩き出した二人を慌ててベルが追いかける。
唐突に始まった『家族』としての一日。果たして一体どんな日々になってしまうのか。
空が赤く染まり、夕闇が近付く時間まで三人の買い出しは続いた。
「いっぱい安くしてもらえちゃったねー」
「ねー!」
「……お店の人、ちょっと泣いてましたけどね」
初めは戸惑っていたベルも三人で過ごすうちに自分が動かなければ市場が大変なことになると察し、そこからはシルとシルに教えられた値切り術と少女の強みを無意識に生かしたノエルをやり過ぎない程度に上手く止めることで必死だった。
夕暮れの都市を歩く三人のうち二人の背中は楽しそうなのに対して一人だけその背中が煤けて見えるのが何よりの証拠だ。
「ノエルに変なこと教えないでくださいよ……」
「へんなこと? わたし、だめだった?」
「あ、いや大丈夫だよ! 安く買えたことはいいこと……うん、僕達にとってはいいことだし」
僕達にとってはそうなんだけど……、と腕を組み、申し訳なさそうに呟くベルを見てくすっとシルは笑う。そんなシルと手を繋いでいたノエルもシルの顔をまじまじと見て小さく笑っていた。
「ベルさんにああいうことはできませんからね。『家族』として私達はそんなベルさんを助けて上げなくちゃいけませんから!」
「あははは……」
「かぞくは、たすけあうの?」
シルが冗談めかしてそんなことを言っていると『家族』という言葉にノエルが目を輝かせる。
手を繋いでいる自分を見上げてくるその眼差しにシルはたまらず彼女を抱き上げて笑った。
「そうだよー。みんなは家族の役に立ちたいって思うし、家族の誰かが困ってたら助けたいって思うの」
そこで一度言葉を区切ったシルは一度瞳を閉じ、数秒後、その目を開いて話を続ける。
「……家族が泣いてたらその人の元に行って慰めてあげる。家族が苦しんでいたら、何も言わずに守ってあげる。そうしたい、そうしてあげたいってなれるのが、本当の『家族』だって……私はそう思うな」
「……うーんと?」
「ノエルにはまだ難しかったかな……でも、僕もそう思いますよ、シルさん」
シルと視線を交わしていたノエルは首を傾げていたが、その隣で二人の話を聞いていたベルがその話に目を細めて肯定の意を示す。
「……たとえその人達との間に血の繋がりがなくても、そんな思いが芽生えているのなら……それもまた本当の『家族』だって、僕はそう思います」
「ベルさん……?」
いつの間にか少し先を歩いていたベルの眼を見ることはできない。
ただ『家族』の話をするその背中はどことなく寂し気な雰囲気を漂わせていた。
だがノエルを腕に抱くシルがその背中に手を伸ばした次の瞬間、その雰囲気は霧散する。
「ってあれ? シルさん、あれって何の準備ですか?」
「え?」
ベルが指を差したその先を見たシルが目にしたのは何やら大仰な準備を進めている複数の屋台。
普段の屋台の準備とはかなり異なるそれを見たベルは興味深そうに見ていたが、その準備が何のための準備なのか察しがついているシルはああ!、と声を上げてベルの質問に答えた。
「あれは多分ですけど、もう少ししたら始まる『神月祭』の準備ですね」
「『神月祭』?」
「はい! 神様達が降臨される前から行われてるお祭りなんですよ。その日は色んな人がオラリオに来ていっぱい屋台も出てすごく盛り上がるんです」
へぇ、と先ほどまでの雰囲気はどこへやら、準備を進める屋台を見ながら楽しみだと笑うベル。
それをシルが何か言いたげに見つめているとノエルが声を上げた。
「おまつりって、なぁに?」
「えっとね、とっても楽しいものだよ! お祭りの日になったら一緒に行ってみよっか?」
「うん! たのしいものなら、たのしみ!」
楽しみだとはしゃぐノエルの声を聞いてベルとシルもまた優し気な笑みを浮かべる。
薄闇が広がり、様相が変わり始める街の中を少女を抱く二人は進み、皆が待つ酒場への帰路に就くのであった。
(たのしいなぁ────ずっと、ずっと、たのしいよ────)
(みんな、わらってて────わたしも、わらってるよ────)
(ベル────シル────みんな────私を見つけてくれて、ありがとう)
「…………ノエルー?」
シルが酒場での仕事を終え、ノエルが来てから共に暮らしている部屋に向かうとベッドの上でノエルが静かな寝息を立てていた。
そっと扉を閉めたシルはゆっくりと幸せそうに眠る彼女の傍に寄り、その髪を優しく梳く。
「寝ちゃったか。いっぱいはしゃいで、お仕事もして、疲れたもんね」
眠るノエルの手にシルが自分の手を重ねる。
するとノエルはシルの手をぎゅっと握り締め、幸せそうな笑みを浮かべた。
「ふふっ……どんな夢を見てるのかな……そこに私やみんながいてくれたら、嬉しいな……」
ノエルの夢の邪魔をしないようにそっと手を抜き、隣のベッドに入り、灯りを消す。
布団をかぶり、もう一度ノエルを見つめたシルは優しく微笑み、そのまま瞳を閉じた。
(出来れば、ずっとこのまま『家族』として────)
そう願い、眠りにつき明日を迎える……はずだった。
(────茶番ね)
「ッ!??!」
そんな願いを込めた次の瞬間、美しい鈴を転がすような声がシルの脳内に響いた。
飛び上がるように体を起こしたシルはどっと汗を流しながら、額に手を当て、辺りを見回す。
「……いまの、は……」
わずかに空いたカーテンから見える空は少し白みはじめていた。
願いを込めて眠りにつき、シルの脳内に謎の声が響くまでにかなり時間が経っていることがわかる。だというのにシルの体から疲れは抜けず、むしろかなりの倦怠感を訴えていた。
「…………シャワー、浴びて……眠りなおそう……」
少しの間ベッドの上で俯いていたシルだったが、全身を濡らす汗の気持ち悪さに耐えられず、立ち上がり、タンスの中から着替えを取り出す。
シャワー室へと向かう道中、シルの脳内を満たしていたのは美しくも、嘲りを隠そうともしない銀の声。
「……茶番、なんかじゃ、ない……!」
その銀に反抗するように小さく、力強く呟いたシルのその瞳は薄鈍色に輝いていた。
少しずつ、けれども確実に、
「……ふぅ」
そんな夜が明け、今日も変わらずシル達は開店の準備に取り掛かっていた。
変わったことと言えば、朝早くからシルが疲れたように溜息をついていることぐらいだろう。
「シルさん、大丈夫ですか? 随分お疲れのようですけど……」
「シルー……?」
当然それに気が付かない酒場の面々ではないが、そんなシルに初めに声を掛けるのはベルとノエルの二人。他の店員達も準備を進めながらもその三人の会話を聞こうと会話もなく、かなり静かに行動していた。
「ああ、いえ……ちょっと早くに目が覚めてしまって……体調が悪いとかではないので気になさらないでください。ノエルも大丈夫だからね」
「んー……」
テキパキと準備を進めるその姿からは確かに体調不良などは感じ取れない。
だが普段のシルをよく知っているリュー達から見たら、その姿はかなりの違和感があった。
「あーんなに動くなんておかしいのニャ」
「そうだねー、普段のシルなら上手にサボりながら仕事をこなしてるから……」
「表情もずっと暗いし……やっぱり何かあったのかニャ―?」
会話に耳を傾けていた彼女達が口々に様々な憶測を飛ばす。
時折チラチラとシルの姿を確認する彼女達だったが、シルはやはり気付いた様子がない。
昨日までは楽しそうな笑顔を見せていたというのに一夜にしてそれが一変していた。
「……あ、ゴミ出し忘れてた……リュー、ちょっと外行ってくるね」
「……シル、少しいいですか?」
「えっ?」
ゴミ袋を持ち上げようとしたシルの手をリューが掴む。そしてそのままシルを抱き上げた。
「えっ、ええっ!?」
「ミアお母さーん、ちょっとシル休ませるねー」
目を白黒させたシルはリューに横抱きにされ、酒場の隅に置かれた椅子に無理矢理座らされる。
そうして開店準備中の酒場の隅でシルを休ませると同時に軽い尋問のようなものが始まった。
「少年はシルの代わりにこっちを手伝うニャ」
「わかりました」
「……んー……あ、ゴミ袋」
ベルもシルも傍からいなくなり、手持無沙汰になってしまったノエルは辺りを見回すと出し忘れていたゴミ袋が目に入る。
ベルはクロエと共に別の仕事を、シルはリュー達に捕まり無理矢理休憩させられている。それを見たノエルは「……よし」と呟き、こっそりとそのゴミ袋を持ち上げて、裏口から外に出た。
「シルは、つかれてるから……わたしがはこぶ! きっとシルも、よろこんでくれる!」
外にある少し離れたゴミ捨て場までゴミ袋を運んだノエルは楽しそうに鼻歌を歌いながら、シルが、皆が待つ酒場へと足取り軽やかに帰ろうとする。
「ほうじょうのおんなしゅじんは、やさしい。あったかくて、ぽかぽかして、だいすきっ。もう……さみしく、ない……?」
ふと、その足が止まった。
胸の中に芽生えた知らないはずなのに知っているその感情にノエルの心が騒ぎだす。
「さみ、しい……? さみしいって、なに……? しらないけど、しってる……しってるけど、しらない……?」
訳も分からず溢れてくるその感情にノエルの表情が悲痛に歪む。
ベル達のことを想い、嬉しく楽しかったはずなのにその『楽しい』は何処かへ消え、代わって胸の中を支配するのは『さみしい』という別のナニカ。
「わたしは……ぅんと……わたしは…………わたしは……だれ?」
何もわからなくなり、『自分』を見失おうとしているノエル。
それを助けようとする
「────ノエルさん」
────そう、『助けよう』とする人は。
「……ノエルーー?」
リュー達による尋問が本当の休憩時間の訪れとともに終わりを告げ、解放されたシルは見当たらないノエルの名を呼ぶ。だがシルが名前を呼ぶと嬉しそうに顔を出すノエルは出てこなかった。
「ノエルなら裏口から外に行ってたのを見たニャー。シルの代わりにって張り切ってたニャ」
「アーニャ……何故止めないのですか」
やんややんや騒ぐ同僚達に苦笑を浮かべながら、シルはノエルを迎えに行こうと裏口から外に出てゴミ捨て場の方まで歩いていく。
だが────
「……え?」
まっすぐ歩けば必ずすれ違える程度の幅しかない道だというのにノエルの姿は見当たらない。
「ノエル……? どこに行ったの……? …………あっ」
その代わりに見つかったのは『豊穣の女主人』の店員の頭を飾るヘッドドレス。
ノエルが付けていたとみられるそれにシルの顔から血の気が引いた。
「シルさん? どうしま────」
「ベルさんっ、これ、ノエルの……!」
「……ッ!?」
顔を真っ青にしたシルから渡されたそれを見て、ベルの時が一瞬止まる。
次の瞬間、目を見開き、絶句したベルはシルと共に駆けだした。扉を蹴破る勢いで酒場に飛び込んだ二人は目を丸くする同僚達に向かって叫んだ。
「ねえ! ノエルは本当にお店の中にいないのっ!?」
「は、はぁ? いないと思うけど……だってゴミ出しに行ったんでしょ?」
「シルさん! 僕先に探してきます!」
「待ってください! 私も行きますっ!」
「シル!? クラネルさんまで!?」
止める間もなく、慌てて店を飛び出した二人を呆然と見送るリュー達。
彼女達は二人のただならぬ様子から何かあったのでは、と顔を見合わせ口を開いた。
「二人のあの態度は……流石におかしいと思うのですが……」
「……ノエルに何かあったのかな」
「か、考えすぎニャ。きっとサボってお散歩にでも……ノエルに限って、それはないニャ……ミャー達に何も言わないで出ていくことなんて……」
「……ミャー達も探しに行くのニャ? 何かあったとしか思えないのニャ」
仕事をしないで自分にどやされることなど忘れて、喧嘩に発展しそうになるほど熱を持って言葉を重ねる娘達をミアは黙って見つめる。
「……ったく。口では何とか言っておきながら……随分とあの子に絆されたようだね、ウチの馬鹿娘どもは……だが、裏手に嫌な気配が一つあったね。そこにいるのかわからない、希薄で、不自然な気配が……」
ため息を一つ吐き、ある準備に取り掛かったミアはその瞳を鋭く光らせる。
その瞳の先にあるのは一つの席。ある男がいつも座り、店内を見回していた席だった。
「ノエル―ーーーーーっ!! クソっ……どこにも見当たらない……!」
シルとある決め事をして二手に別れたベルは声を上げて都市内を必死に駆ける。
時間は早朝。だがタイミングの悪いことに大勢の市民、冒険者がそれぞれ仕事やダンジョンに向かう時間とかち合ってしまい、人混みの中、小さな彼女の姿を見つけるのは至難の業だった。
「いてぇ!? 何しやがん……って【リトル・ヒーロー】じゃねえか」
「すいませんっ! あ、あなたは……」
走り回っていると人混みをかわし切れず一人の冒険者とぶつかる。
怒号が飛ぶかと思いきや、その冒険者は叫びはしたがすぐに落ち着きを取り戻し、ベルに声を掛けてきた。
「ええっと……ノエルにステーキを頼まされてたおじさん!」
「自分で頼んだんだよ自分で! 決してノエルちゃんの可愛さに負けたわけじゃねえ! ったく……で、朝からそんなに慌ててどうしたんだ?」
そこでベルは一瞬迷った。今起きていることをこの冒険者に話すべきかと。
だが逡巡は一瞬。ベルは事情を目の前の冒険者に話し始めた。
「ノエルが……ノエルがどこにも見当たらないんです!」
「なんだと!? ノエルちゃんが!?」
ベルから詳しい話を聞き終えた冒険者はそのまま全力で走り去っていった。
酒場にある一つの意志を以て集まっていた他の市民や冒険者達に声を掛けて一緒に探してくれるとのことだ。
(大丈夫……他の人達も手伝ってくれるなら……すぐに……)
最悪の想像がベルの頭を過ぎる。
あの状況を見てすぐに見つかる、と楽観視できるはずがなかった。
「こんなに人がいるなら下から探しても意味がない……なら……!」
建物の上に視線を移す。
路地裏に走って周囲を見渡し、誰もいないことを確認したベルはその場で飛び上がった。
「……見つけた」
そんなベルの行動とほぼ同時刻、別行動したシルは少年のいる位置とはかなり離れた一つの道を進む。そして、立ち止まり、雪が降りしきる中、その背中に声を掛けた。
「…………」
そこまで多くはないとはいえ、道の真ん中で立ち止まったシルを迷惑そうに見る人々がいたが、風が吹き、薄鈍色の髪から覗くその瞳が見えた瞬間、顔を青く染め、慌てて立ち去っていく。
「……不思議ですよね。あの時……ノエルがいなくなったってわかった時、確信なんて欠片もなかったはずなのに、私の眼は……あなただけを探していました」
その男は振り返らない。
だがシルはそんなことなど気にせず、その背中に向けて言葉を重ねる。
「ずっとおかしいなって思ってたんです……あなたが初めてお店に来た時から、あなたが『嘘』しか言っていないことに気付いていたのに……何もしてこないから、と黙って見ていたのが間違いでした」
心から悔やんでいると唇を噛んだシルはこの期に及んでだんまりを決め込む男を睨みつける。
ここまで話しても振り向かない男に痺れを切らしたシルは絶対に逃がさない、と強い意志を込めてその男の名を呼んだ。
「聞こえていますよね。全部貴方に言ってるんですよ……ヴィトーさん」
名前を呼ばれた男は……ヴィトーはついに振り向き、シルと対面する。
雪が積もり、酷く冷えるはずなのに穏やかな笑みを張り付けた彼は楽しそうに口を開いた。
「おや? 私に話しかけていたとは。これは失敬失敬、全く気が付きませんでした」
大仰に、馬鹿にするように、鞄を持った手を広げたヴィトーは笑う。
それを不愉快そうにシルが見ていると彼はそのまま続けて話し始めた。
「それで、お美しい酒場の店員さん? どうなさったんですか? そんなに息を切らして……随分と走り回られたようですね? 一体何が、あったのですか?」
「……ご存じありませんか?」
「ええ、ええ、全く。どれだけ頭をひねろうとも見当もつきません」
お互いに表情はここで会った時から一つも変えず、淡々と話が進む。
だがのらりくらりとシルの疑いの瞳から逃れようとする男を彼女は決して逃がさない。
「そうですか……じゃあ、ヴィトーさん……随分と大きな鞄ですね?」
「ああ、これですか。実は急な話ですが、オラリオを発つことになりまして」
シルの瞳に晒される右手の鞄を隠そうともせず、ヴィトーは変わらず笑う。
「オラリオを……?」
「ええ、私は根無し草の旅人。オラリオに立ち寄ったのもただの気まぐれでしかありません。しばらく滞在していましたが、そろそろ次の街へ行こうかと。最近、素晴らしいお店を見つけてしまったので、そこに行けなくなるのはとても惜しくはありますが……」
シルは何も言わなかった。
ただ静かに言葉を紡ぎ続けるヴィトーを見つめていた。
「この鞄も旅の為の道具です。雪もかなり積もり始めてしまいましたし、これ以上積もって立ち往生してしまう前にここを発とうかと────」
「────嘘ですね」
ヴィトーを見つめていた……いや、見定めていたシルはその結論を口に出す。
そこで初めて、絶えず湛えていたヴィトーの笑みが固まる。
「…………嘘、と?」
「はい、全くの嘘です。もう本当に、笑ってしまうくらい」
そんなヴィトーとは逆に、能面のように無表情を貫いていたシルが初めて彼に笑顔を向ける。
「私に呼ばれていたのに気付かなかったのも嘘ですね? その鞄の中身が旅の為の荷物だというのも嘘ですね? オラリオを発つということも嘘ですね?」
自分が語った全てを笑顔で嘘と言い切るシルを見てもヴィトーの笑みは消えない。
故にシルは彼が喋る隙を与えずに捲し立てる。
「もっと言うと、ウチの料理を美味しいと口にしたのも、お気に入りなのも嘘ですね? あの子の泣き顔を見たくないというのも嘘ですね?」
「…………」
「残念です。新しい常連さんが増えなくて。本当にいいお店なのに貴方に欠片も伝わらなかったことも、とてもとても残念です」
そこでシルの口撃は一度止まる。
口元に笑みを浮かべながら、瞳は決して笑っていない笑みでヴィトーの言葉を待った。
「……先ほどから何を言ってるのでしょうか? 私の言動が噓だという根拠があるのですか?」
「いいえ、ありません。ですが、今は嘘だと確信しています」
その言葉を待っていたと口元の笑みを深めたシルは、彼の反論を受けた上でその話に完膚なきまでに決着をつけた。
「────笑顔が消えてますよ、ヴィトーさん?」
「嘘を付くなら、もっと上手に
思わず空いた左手で顔に触れ、彼女の言葉が正しいと証明してしまったヴィトーは不愉快だと眉を顰め、その本性を露わにした。
「嗚呼……不愉快だ。とてもとても不愉快だ。なんなのでしょうね、これは……」
細められた瞳を開き、ヴィトーはシルを静かに睨みつける。
正確に言えば、本当の自分を暴いた彼女のその瞳を。
「まるで私が忌み嫌っている神々と相対しているような……お嬢さん? ただの町娘であるはずの貴女は、その瞳の奥に一体『何』を飼っているのです?」
男の疑問にシルはただ、唇を徐々に吊り上げる。
「飼っているだなんて、私は私、それ以上でも以下でもありません……ただ、そうですねぇ……」
そして、生物、無生物……彼女を見るもの全てを魅了するような美しい笑みを浮かべた。
「化かし合いが上手くなりたいのなら、貴方が嫌いな神様達と話すことをお勧めしますよ。あの人達と話していたら、本当か嘘か、白か黒か……瞳を見るだけでわかるようになりますから」
「……魔女めッ」
しかしヴィトーはその笑みを見ても、思わず見惚れてしまうことはなく、ただその表情に苛立ちと殺意を込め、毒づいた。彼と彼女の化かし合いはそれで終わりだった。
「……さあヴィトーさん、その鞄の中身を見せてください。ちょうど小さな女の子が一人入るには十分な大きさです。それがもし、本当に、貴方の言う通りただの荷物なら、見せることはできますよね?」
「……………………くっ、くくく……はははははははははははっ!!」
男はその時ばかりは殺意も苛立ちも忘れ、ただただ高らかに笑った。
目の前で薄鈍色の魔女が睨みつけているのにも関わらず、ただただ嗤った。
「はー……チェック、と言ったところでしょうか? いやぁ、参った参った。まさかこの私が、神々ならばともかくあなたのような小娘に化かし合いでこうも負かされるとは!!」
いっそ清々しいほどに笑みを浮かべて、周囲から奇異の視線を向けられるのも構わず、シルを称賛するように嗤い続ける。
「ええ、ええ! なんって、道化! ハハハハハハ! この私が道化になるとは! だがそれもいいでしょう! ええ、とても愉快ですとも!」
「貴方の一人舞台に付き合うつもりはありません。さぁ、早くその鞄を────」
そこで一度ピタッと笑みを止めたヴィトーは強く自分を睨みつけるシルをその瞳で見つめる。
そして……最悪の嘲笑を浮かべた。
「できないでしょう、お嬢さん? その細腕で鞄を取り上げることも、恩恵を授かっている私を追い詰めることも!」
追い詰められてもなおヴィトーが嗤う余裕を保っていたのはそれが理由だった。
事実、言葉で彼を追い詰めたとしてもシルではそれ以上はできない。最悪、実力行使に訴えられればそれで終わりだ。それをよく理解している彼女はぐっと唇を噛み締める。
「酷く不愉快なあなたに親切な私が忠告して差し上げましょう……これ以上関わるようなら、後悔しますよ?」
「……どういう意味ですか」
「我々は貴方が思っている以上に面倒な連中なのです。自分で言うのもなんですが……貴方如き、今すぐ殺してしまっても問題ない……という選択肢が浮かぶほどに『残酷』な者共なのです」
「……ご忠告ありがとうございます。ですが、大丈夫です」
これ以上首を突っ込むなら容赦はしないと暗にほのめかしてくるヴィトーを見てもシルの強気な態度は変わらない。
堂々と怯えることなく自分に対峙する彼女を見て、期待外れだと彼は舌を鳴らした。
「はぁ……最後まで面倒で不愉快なお嬢さんでしたね。まあ、もう二度と会うこともないでしょうし最後くらいは花を持たせてあげましょうか。それでは、失礼します」
シルに背を向けてヴィトーは歩き出す。
それをシルは黙って見送る……そんなはずがなかった。
「……ん?」
一瞬、背中が熱を持ち、視界の端がわずかに赤く染まった。
ヴィトーが振り向くとシルは空に向けて何かを持った手を掲げている。
シルが持っているそれは────
「……炎の魔剣?」
消えていく炎の残滓を見送り、思わず素に戻ったヴィトーはそう呟く。
一瞬彼の頭の中が何故そんな物を、何の意味が、という思考で埋め尽くされるが、何故か目の前の少女に目を引き寄せられる。
「ヴィトーさん、貴方の言う通りです。私は力で貴方を抑えることはできません」
一度で砕けた魔剣の破片が周囲に舞う中、シルは静かに佇んでいた。
不気味なその行動と姿にヴィトーの警戒心が最大まで高まる中────
「……ですが────」
「────【
────その警戒を超え、シルの背後の空から、一筋の雷光がヴィトーに襲い掛かった。
「なっ……!?」
雷撃と見紛うほどの蹴撃を咄嗟に回避したヴィトーだったが、その顔は苦渋に歪む。
「お待たせしました。シルさん」
「────私達には、頼りになる英雄がいるんです」
雷光を纏ったベルがシルを守るように立ちふさがる。
ヴィトーは目の前に現れ、『英雄』と呼ばれた彼を忌々しそうに睨みつけるのであった。
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